プロローグ
プロローグ
夜の帳を切り裂くような風が、一瞬舞い上がった。まだ夏も訪れていない、湿気を含んだ靄のかかる中で、その風だけは辺りを凍らせるほどの冷気を纏っている。
そこは月明かりさえも届かないほど暗い、奥深い森の中だった。ここに迷い込んだ者を覆い隠すように茂る木々の間を、フードの付いたマントを被った一人の女が、息も絶え絶えに駆けていく。フードの中の女の顔は、汗と血で濡れ、頬や首には幾つもの生傷があった。
「もう少し。もう少しよ」
女は、赤子を抱えていた。マントの中、女の背中から胸元にきつく巻き付けたおんぶ紐の中で、赤子は、安心したように女の背中に身を預けて眠っている。女は、傷の痛みを感じ、意識が朦朧となる度に、背負った赤子の温かみを感じ、小声で話しかけていた。そして立ち止まることなく、自らを奮いたたせるために足を速めた。彼女は裸足だった。
_追っ手に捕まるまでに、お師匠様のもとへ辿り着ければ…。
真夜中の、ましてや靄で足下も見えない暗い森の中を、女は灯りも無いまま迷うことなく、進んでいく。まるで女にだけ道筋が見えているかのように。
「あの大樹、あれだわ」
しばらくして、女は一つの大樹の前でようやく足を止めた。森を創る他の木々と大差のないその樹の前に立つと、安心したのか、女の瞳から涙が一筋、零れ落ちた。
「何年振りかしら。立派になったのね」
赤子を抱えていなければ、女はこの大樹にすがりついて、わんわんと泣きわめいていただろう。彼女にとってこの、なんの変哲もない樹との再会は、迷いと混乱をもたらすこの森の、一筋の道標であり、希望の灯りでもあった。
_この大樹の北側に、お師匠様の拠り樹があるはず。あと少し。あと少しでこの子を…。
女は、首にかけた方位磁針を見た。美しい円形に、盤の周囲に真鍮の装飾が施されたそれは、女が長年大切に保管していた物だった。小さな手の平に収まる程の大きさで、無くさないよう金色の鎖を付けてペンダントにしていた。
_早くしいないと、森の夜が明けてしまうわ…
涙と一緒に汗と血をしっかりと拭い、女が大樹に向かって何か言葉を発しようとした瞬間だった。
女が歩いてきた方向奥から、それは鋭利な刃物のように冷気を纏った風が幾重にもなって向かって飛んで来るのを、女は寸前の所で跪いて避けた。大樹の下で赤子の身体を隠すようにして背後を守り、周囲を窺う。
「くっ…。こんなところにまでもう…」
女は背中の赤子の様子を確認し、そして、自分に向けられた風の刃の向こう側をにらみつけた。影さえも見えない。しかし、それは真っすぐ女に向けて放たれたものだった。
_私の姿が見えない状態で、この場所まで術を打つとは…。追っ手の中に、優秀な目を持つ風使いがいるということか…。
女は大樹を背に移動しながら、ゆっくりと樹の西側へ回り込んだ。そして、一呼吸をし走り出した。マントの中から木製の杖を取り出し、注視しながら、女は森を駆けていく。
_ここでお師匠様の拠り樹まで見つかってしまっては、この森に逃げた意味がない! せめて時間を稼いで、再びまた、私の拠り樹まで戻るしか…。
女は赤子に向かって小声で言葉を囁き続けた。それは、子守歌のようにも聞こえた。女は胸元で揺れる方位磁針を確認した。先ほど攻撃を受け、樹から離れて五分程経っている。
女は自分の右の足首が痛むのを感じた。満身創痍でこの森にたどり着き、探していた樹にたどり着くまでずっと走り続け、既に体力の限界は超えていた。
少しだけ、そう女の意識が緩んだ、その時だった。
「浅はか」
氷の張った湖のような、厳かな低い声が、女の背後から聞こえた。
「バカな…」
女は悲鳴のような声でつぶやいた。足を止めてはいけない。振り返ってもいけない。今はただ、逃げることだけを考えねばならない、と早鐘のようにうつ心臓の音を、女は赤子への子守歌でかき消そうとする。
「浅はかだと言っているのに」
女が進む先に、その声の主がいた。つい先ほどまで、女を追っていたはずのその人物は、一瞬のうちに彼女の前方に回り込んで、行く手を阻んでいた。
女はすぐに、その人物が、姿の見えない自分に向けて、正確に風の刃を飛ばした張本人であることを悟った。そして、この時はじめて、自分が追い込まれたことを。
「貴女ほどの風使いが、まさかこんなところで掴まるとは。本当に残念です」
首から足首まで届く藍色のローブに身を包んだその声の主もまた、フードを被っていた。鼻筋まで隠れたその人物の首から、ゆるく編み込まれた銀色の長い髪が垂れ下がり、藍色のローブの胸元で輝いていた。その長い銀髪の先端には、黒曜石をあしらった髪留めがついている。女はその石を見て、この人物が男であり、そして名家の出であることに気付いた。
「貴様、何者だ」
女は抱えた赤子の紐をそっと解き、そばにあった木々の茂みへ置いた。背丈のあるその男は、その様子に気付かないようで、女だけを見つめながら、いとも簡単にフードを外した。
「初めまして。ミセス・エルダ。私、名をカインと申します。学院時代からその名を轟かせた貴女と、今お手合わせできるなんて、とても光栄です」
フードを外したその姿は、ロイヤルブルーの切れ長の瞳に、細い顎、艶のある薄い唇を少しあげて微笑む、まだ幼い顔立ちも残る、美しい青年がだった。
「なぜ、私のことを…」
「その反応を見るに、偽名ではないのですね」
女は、自分の名を知るその青年・カインの言葉に一瞬、身体を震わせた。
_こんな、学院を卒業したばかりにも見える若者までもが、組織の一員だというのか…。しかも、私の本名を知るということは、組織内の幹部の一人…。
「私の名を知っていて一人でここまで追ってくるとは。余程の術者が、命知らずなのかしら」
カインはくつくつと笑いながら、悪戯がばれて開き直る子供のように、舌を出した。彼の肌の色と同様の白い舌を。
「十分ほどで、残りの追っ手も到着するでしょう。でも私は、誰よりも先に貴女と一対一で、術を交わし合いたかったのですよ。風使いの最高峰である称号・風誘にまで登りつめた貴女と。ふふふ。しかし、赤子を産んでだいぶその力は喪われた、と噂されていますが」
そう言うとカインは女の背後に一度視線を移した。女の額に、再び汗が滴る。カインは、女が自分の子を抱いて逃げていることを知っているようだ。
_あの術を見破っているなんて。このカインという男、相当な術者かもしれない。しかし…。
「道を、通してもらうわ」
_しかし、この男を殺さなければ、私の希望が潰える。なんとしても逃げ切って、お師匠様のもとへ向かわなければ…。
「この命に替えても…」
カインは嬉しそうに微笑んだ。涎をじゅるっと吸う音とともに。
女とカインの勝負は、十分程で到着した残りの追っ手達の前では既に決着が着いていた。
藍色のローブの裾に付いた真っ赤な血を、カインは嬉しそうに眺めている。彼の銀色の髪に付着した同じものも。
「カイン様、キサ・エルダは…?」
後を追って来た三人の、同じく藍色のフード付きローブを纏った者たちは、まるで爆風に当てられたようになぎ倒された木々の中で、一人くつくつと笑いながら立つカインに向かって尋ねた。
「生かしたまま連れ戻す約束を、破ってしまいましたよ」
カインは自分の髪についた血の臭いを嗅ぎながら言った。
「もしや、キサ・エルダは…」
追手たちの表情が曇るのを、カインは察した。そして、そのロイヤルブルーの瞳を潤ませながら、ゆっくりと瞬きをし、訝しげに自分を見つめる三人の従者たち、自分の配下としてつい最近付いた者たちに向かって、舌を出した。
「ここだけの話ですよ」
そう言って、彼は血の付いたローブから補足白い腕を出した。彼の手に、手首ごと切り落とされた女の片手と、その手に捕まれた杖があった。
従者の一人が、小さな悲鳴を上げた。
「キサ・エルダ氏の杖と右手です。これ、手みやげには最高でしょう?」
カインの言葉に、従者たちの全員が生唾を飲み込んだ。とてつもない魔術の才能を備えながら、人格の破綻した狂人の新入りが幹部生として入った、という噂。それが、このうら若き美しい青年、カインだった。
「あともう一つ。彼女には逃げられてしまいました」
だから、とカインは女、キサ・エルダの片手に握られた杖を取り、自分の手に持った。そして、恐怖と戸惑いで立ち尽くす三人の従者にその先端を向ける。
すると、彼等の頭上で雷鳴がとどろくのが聴こえた。靄のかかった夜の明けない森に、稲妻が走る。そして、闇をかき消すように一瞬だけ、空が発光した。
その時、従者の一人が、カインの美しく整った顔の一部が切れていることに気付いた。頬骨の辺りに、一筋の風の刃の跡があった。従者の頭に浮かんだものは、カインに傷を付けたであろう存在、キサ・エルダの若かりし頃の姿だった。エメラルドグリーンの石が付いた髪留めで腰まである長い黒髪を留めた、風使いたちの憧れ…。
「約束を破ったことは、ここだけの秘密ですよ」
カインはそう言って、キサ・エルダの杖から青い閃光を放った。小さな銃弾と代わったその光の粒は、逃げる間も与えないまま、三人の従者のローブに向かって幾つもの穴を開け、そこから、赤い鮮血が噴射された。
「おっとっとと」
カインは血潮を避けるようにして、身体を空に浮かせた。足下に舞う砂埃から、ほんの小さな竜巻が舞っている。
「あの方の血で塗れたローブが、汚れるところだった」
カインは微笑んだ。こんなに楽しいことは久しぶりだ、と感じながら。
「子を産んでもなお、あの力。そして、風誘の名を手にした者に偽りはないようだ。ふふふふ」
_しかし、あと少しで心臓をお土産にできたのに。
カインはフードを被り、キサ・エルダの片手を大事に抱え込むと、つま先に大きな突風を吹かせ、夜を覆う森の外へと抜け出していった。
薄れゆく意識の中で、キサ・エルダは柔らかな羽毛に自分が包まれていることに気づいた。闇にとけ込む漆黒に、白の斑点模様が付いた大きな翼。人を二人乗せても、軽く大空を舞い上がる強靱でしなやかな胴体、そして、鋭く尖った大きな黄色の嘴に、灰色の瞳。 懐かしく、そして立派になったその大鷲に身体を預けながら、キサ・エルダは息も絶え絶えながらに、一言
「スノーク」
と、大鷲の名を呼んだ。大鷲はキサの様子を確認すると、嘴を開いた。
「…酷い様だな、キサ」
そして、スノークの首もとに腰掛け、彼女の砕けた両足に片方ずつ手を添えて術を唱え続ける大柄な女性に視線を向けた。ふくよかな身体にえんじ色のローブを纏い、その膝には、キサが守り続けた赤子が毛布にくるまれて眠っている。
「申し訳あり、ません」
傷口が膿み、腫れた瞼で目を開けられないキサは、ふり絞るようにして言った。
乾いた白髪を耳元の高さに一つにまとめ、皺の増えた頬から一滴の汗を垂らす、その初老の婦人こそ、キサ・エルダが最後の希望としてすがりついた彼女の育ての親であり、風使いの師匠、ローレンだった。
「最期まで、お師匠様に、ご迷惑ばかりかけて…」
「キサ」
ローレンはキサの言葉を制した。
「思い出話を聴くのは、この傷を治してからよ。今はおとなしく、この夜が明けたあとに食べたいものでも、考えていなさい」
キサは、十数年ぶりに再会した恩人の久しい声に、ようやく心から笑うことができた。
「ぜんぜん、お変わりないのですね…。お師匠様」
「…私の人生の楽しみのひとつは、食べることよ。貴女もそうでしょう」
傷だらけの身体、そして利き手と術師の命とも言える杖を奪われたキサの姿を、ローレンは涙一つ落とすことなく、ただ必死に砕かれた足の骨と流れ落ちる血を止めることだけに集中した。そして、空を覆い隠す程高く延びた木々の届かない、森の真上を無言で飛び続けていたスノークの嘴が開いた。
「ローレン。あと少しで拠り樹に着く」
「随分かかったね、スノーク」
額に汗の玉が浮いたローレンが言った。キサと会話をしてか十分以上は経過していた。
「そう言うな。奴ら、我々の住処を探す際に森の呪術をいじったようだ。おそらく風の精霊を遣っている」
ローレンは、キサの右手と杖を奪った追っ手・カインの姿を思い出していた。キサの心臓が奴の手に奪われる手前で、ローレンはスノークと共に彼女とその赤子を連れ、その場を逃れたのだった。森の一部を損壊する程の戦いがそこで繰り広げられたが、ローレンはキサが極めて劣勢であり、相手のカインが上手であることを瞬時に感じた。しかし、あと一息のところでキサを連れ出したローレンの跡を追うことなく、不敵な笑みで彼女の右手と杖を抱える美しい青年の顔は、脳裏に深く焼き付いている。
_おそらく、あの若き男の仕業。術師ではなく、魔導士ということか。しかも、森の呪術に手を加えられる程の風使いと見える。
「スノーク。私の拠り樹に着いたら、他の精霊達も集めて頂戴。キサに術を施すのに、まだ魔力が要る」
「御意」
スノークの翼が低く閉じた時だった。キサの身体が震えだし、その途端口から血を吐き出した。
「キサ。もう少しの辛抱だ」
ローレンは取り乱すことなく、冷静にキサの唇に付いた血を自らのローブでふき取った。
_このままでは手遅れになる。
「お師匠様…」
瞼を閉じたキサの目が、ゆっくりと開いた。
「モエを…。娘を、この手に。もう目が、見えないのです」
ローレンは息を飲んだ。そして、自分の膝元で眠る赤子を抱え、キサの左手の指にその赤子の小さな手を触れさせた。娘の生きる熱を感じ取ったキサの目が、そのとき大きく見開かれ、そこから大粒の涙が零れ落ちた。生きたいと願うキサの強い眼差しの先は虚空だった。ローレンは唇を噛み、キサと赤子の手を包むように、自分の手を添えた。
「お師匠様。この子の名は、モエと言います。モエ・エルダ」
ローレンは相づちを打ちながら、キサに術を唱え続けた。
「この子には、生まれた時から風の加護を施しています。私と共に闘ってくれた盟友の加護を。しかし私が死んだとき、その加護は消えてしまう。お師匠様。この意味をおわかりですよね?」
「しゃべりすぎよ、キサ」
「お師匠様。私が恥を承知で森に戻ったのは、貴女様にモエを、私の大切な希望を託すためなのです。この子をどうか、どうか」
「おだまりなさい、キサ。もうこれ以上しゃべったら、あなたの頼みなど聞かないわ」
すると、キサは安心したように微笑んだ。
「お師匠様に叱った声、何年振りかしら」
「キサ。貴女はまだ死なないわ。いいえ、死ねないわ。この子と共に生きるのよ」
「お師匠様。私にもわかっております。しかし、悟ってもおります。だから、お願い申しあげます。モエを…」
涙を溢れさせながら、キサは見えない師匠の姿を思い浮かべながら微笑んだ。彼女の左手に、強い温もりが伝わる。
「ローレン! 拠り樹だ! すぐに向かうぞ」
二人のやり取りを聞いていたスノークが叫んだ。森の中に突入しようと、羽を広げていく。
「スノーク」
ローレンの声が響いた。消え入りそうな声をかき消すように、赤子の大きな泣き声がスノークのもとに聞こえた。スノークは、後ろを振り返ることが出来なかった。
「…旅立ったわ」
泣き叫ぶ赤子の傍らで息絶えたキサの頬に、ローレンの涙が降り注ぐ。
_モエを、私の分まで、愛してください。
キサの最期の言葉と共に、モエを包んだ毛布から、白く光る粒子がいくつも舞い上がった。雪の結晶にも見えるその美しい粒は、キサの亡骸へ向かって舞い、彼女の身体をそっと撫でるように飛んでいくと、闇の空に溶けていった。
***
「キサ・エルダに、風の御神の幸があらんことを」
ローレンは、自らの拠り樹の前にキサの亡骸を置き、スノーク及び、森に棲む多くの風の精霊達が彼女を囲んで、弔った。
「出会った頃は、やせっぽちだったくせに、母親になるなんてな」
スノークは嘴に挟んだ白い小さな花の束を、キサの亡骸にそっと手向けながら言った。
「臆病者で無口だったのに、最期はあんな…べらべらと喋って…」
うなだれるスノークのもとに、ローレンが赤子を抱いて近づいた。泣き疲れて、再び眠っている。
「その子が、キサの」
「ええ。モエよ。モエ・エルダ」
「ローレンの姓を引き継いでいるのか」
「…そのようね」
ローレンは、赤子の顔を見つめながら、キサがどんな思いでこの子を産み、そしてまだ乳飲み子のうちから、自分のもとに命懸けで託しに戻ったのかを考えていた。
モエの父の名前も素性も明かさず、ローレンの本来の姓であるエルダを名乗っていたことも。
「それで、どうするんだ」
キサの亡骸に舞う色とりどりの花を見て、スノークが尋ねた。
「どうするなんて、決まっているじゃないの」
ローレンは死化粧をして眠るキサの顔に近づき、眠るモエの寝顔を見せた。
「この子の未来に、おまえの加護があらんことを」




