第9話 BOYS BE…
明治十年四月十六日───
気温0度、空一面鈍色の寒い春の日。
クラークが札幌に来て八ヶ月半、別れは突然であった。
この日は休校。教師と学生たち全員記念撮影を行うため、創成川宿舎へ馬に乗って集まった。一同は宿舎正面の堀にそって横一列にならび、シャッターの一瞬を待った。
───シャッターがきられる。
レンズのしぼりもフィルムの感度も決して良いものとはいい難く、できあがった写真には、顔がわからないぐらいに薄ぼやけた三十人近い人物の姿が写っていた。
ウイリアム・スミス・クラークはリストラされた───手稲山登山から十日ばかりして、彼は源三に呼ばれ解雇を言い渡されたのだ。
いま日本各地の薩摩出身の高官たちはこぞって東京に集まり、「西南の役」の事態解決にむけ協議していた。開拓使長官のミスターと調所校長もいま東京にいる。そこから電報で源三に指示が出された。
この内戦には莫大な費用がかかると予想され、政府に仕える大久保利通、伊藤博文、山縣有朋ら高官から、源三ら地方役人にいたるまで、給料の二割削減されることが緊急の閣議で採択され、さらに開拓使の経費も大幅に削られた。
アメリカから高額で招いた「お雇い外国人」を、これ以上この札幌に留めておくわけにはいかない、との旨が源三に伝えられる。
クラークの苛烈きわまる教育方針への疑問と不安に心穏やかではなかった源三ではあったが、さすがにクラークが解雇されることに手を叩いて喜ぶほど人は悪く出来てはいない。
むしろ、のちに農学校校長、やがて民選による北海道初の衆議院議員となるほどの篤実な男である。すぐに「ご再考を」と返信した。
ミスターが北海道開拓十年計画を立ててから、ちょうど半分の五年が経った。
当時、世界の最先端を行くアメリカの技術を取り入れ、北海道開拓の一大事業に取り組んだ彼であったが、産業の基礎を高める以前に、ロシアとの国境協定、アイヌ移住問題、札幌農学校の前身である札幌学校の閉校など、次々と飛び込んで来る目先の仕事に追われていたのが実情であった。
その中にあって札幌農学校の開校は、ミスターの事業でもっとも華々しいものであった。そして、これからも彩りを添えていくはずなのだ。
北海道の開拓はまだ道半ば、いや踏み出したばかりだ。
雇う金が足りないのなら、減給でもいいはずである。何もアメリカに追い返すことはないのでは、と源三は反駁したが、クラーク解雇を決めて政府に承認を取りつけたのは、他ならぬミスターであったと返信によって知らされ、彼はしぶしぶ従った。
クラークは自分の処遇がどうなるのかを知っていたかのように、源三が告げる解雇通知に一言も口を挟むことなく受け止めた。
アメリカへ帰るクラークを送別する生徒教師一行は札幌から室蘭へ向かう「札幌本道」を二十キロほど進み、島松村、現在の北広島市島松に到った。
ほぼ二時間の道のり。「別れの悲哀は胸郭に満ち、まるで葬儀の一行が如く終始全員無言であった」との様子が記録されている。
いつもは舌が休むことを知らぬかのように、その大きな口から言葉を弾き出すガイアも、今日に限ってはまったくしゃべらない。ずっと唇をひき結んで馬上うなだれたままだった。
島松村の駅役人・中山久蔵宅でみなクラークを囲んでの昼食を取る。
クラークとの最後の食事は、調理長・渡辺金次郎が用意した弁当であった。
金次郎は源三へ、送別の食事に「スープカレー」を作らせてくれと懇願した。
食材や什器などの運送代、調理をする料理人の手当など、かかる費用のすべてを自分が負担し、逼迫する農学校の財政に差し障りないようにすることを誓う、とまで言い放った。
だが、源三は認めなかった。理由はこうだ。
「スープカレーはこれより先、生徒たちがクラーク先生と共に過ごした、よき思い出の象徴になっていくべきものである。その場にいる誰もが落涙する別離の場で食するものではない」
さらに、源三は続けた。
「『明治』は『明るく治める』と書く。これから北海道を切り開くには少年たちのあの明るさが何よりも大切だ。なるほど北海道は一年のうち半分は冬に閉ざされる。人々は寒さに震え、雪に抑えつけられている。加えて、今後再び政府が財政難となれば辺境だからそのあおりを受けて、まっ先に不況となり、逆に内地の景気がよく盛り上がっても、はるかに遠いゆえに伝播は遅い。悪いことを考え、不安なことを口に出せば切りはない。だが生徒たちのあの笑顔があるかぎり、北海道には明るい未来が待っていよう。だからわたしは彼らの心を曇らすことをしたくはないのだよ」
わかってくれ、と最後につぶやき、両瞼を固く閉じて以後、一言も発しない源三の姿を見て金次郎は島松村での「スープカレー」作りを断念した。
翌朝、全員分の弁当をこしらえ終わり、それぞれに携帯させると金次郎は写真撮影にも加わらず、一行を見送ることもせず自宅にこもった。
───彼はその日、大いに泣いた。
昼食を終えるとクラークは生徒ひとりひとりと握手を交わした。
───誰もが顔をあげることができなかった。あたかも父を失うような思いであり、人との別れがこれほどまでにつらいとは思わなかった。
と、五十年後、生徒のひとり大島正健がふりかえってそう書き残している。
握手はガイアの番になった。
「今日はいつもの元気がありませんね?」
差し出されたクラークの手をガイアは握らない。
「……」
顔もあげることができなかった。あげれば目から涙がとめどなく溢れると思ったからだ。
「君には感謝しています。あんなに美味しいカレーを作ってくれて」
ガイアは驚き、顔をあげた。
給食のかわりばえしないエゾ鹿のカレーをなんとかしようと言い出し、級友、金次郎やミスター、そしてクラークをも動かしてあのスープカレーを作り上げた一番の功労者がガイアであったことを、師はちゃんと知っていた。
「クラーク先生……」
喉の奥よりそのひと声をガイアは絞り出す。
胴震え、膝が軋んだ。今にも号泣しそうだった。ゆっくりと右手を出す。師はその大きな手で包み込んだ。
───クラークは握手を解くとガイアの肩を軽く。そしてコートの裾をひるがえし、馬の背にまたがる。手綱を引いて駒首をまわし、生徒たちを正面にとらえて大声で言った。
「きみたちの時間は限られている。だから誰か他人の人生を生きることで時間を無駄にしてはいけない。『教条主義』の罠にはまってはならない。『教条主義』とは他の人々の思考の結果に従って生きることだ。他人の意見という雑音に自分自身の内なる声をかき消されないように。そして最も重要なことは、自分の心と直感に従う勇気を持つことだ。心と直感は本当になりたい自分をすでに知っている。その他すべては二の次だ。『ハングリーであり続けろ。愚直であり続けろ』私は常にそうありたいと願ってきた。そして今、きみたちが新たに歩みを始めるに当たり、みなもそうあって欲しいと思う」
クラークは最後にもう一度
「ステイハングリー、ステイフーリッシュ」
と、告げると再び馬の首を引いて背を向ける。
大地を覆う残雪を蹴り上げ、颯と駆ける。
すぐに黒い点となり、そして消えてしまった。
「ハングリーであり続けろ。愚直であり続けろ」
師の姿がもはや見えなくなっても生徒たちはその場から離れなかった。みな声を出してクラークの最後の言葉を反芻していた。
泣き崩れ、しゃくりあげながら復唱している生徒もいる。
「……クラーク先生、見事じゃないか」
源三は呻いた。完璧なスピーチだ。
不確かな未来に向かいしっかりと己の信念を貫いて立ち向かってほしい、とクラークは生徒たちに伝えたのだ。歴史に残る名言だ。
源三は久しぶりに、本当に久しぶりに心が晴れゆくのがわかった。
彼の心を映すように灰褐色の雲が流れ、碧空が広がっていく。春の柔らかい光が地上に降り注ぎはじめた。
───クラーク最後の言葉とされる「ボーイズビーアンビジャス」───青年よ大志を抱け。
実は、これは創作の可能性が極めて高い。
事実、クラーク最後の言葉を記録したものが「松島の別離」直後から以後一切なく、二十年近く経って突然農学校同窓会誌『恵林』に「師の最後の言葉」として紹介されたのである。
───しかしクラークは生徒たちに『ボーイズビーアンビジャス───おまえたち野望を忘れるな』と日常伝えていたのかもしれない。
『わが事、破れた』あとでは意味のもたない言葉だったが……