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スープカレーはじめて物語  作者: 諸橋カムイ
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第8話 秘密探偵

───横浜を拠点に外国商人との貿易で利を得た豪商・中居屋重兵衛(なかいやじゅうべい)が、巨額を投じて東京銀座に西洋バーを忠実に再現した。


店の名は『サロン・ド・レオン』。


重厚なテーブル、豪奢な照明、高価な洋酒の数々。そのたたずまいはまさにヨーロッパのそれであった。


中居屋のそのひととなりのように、一歩も二歩も時代の先をゆく風流瀟洒(シャレオツ)な場所。


だが、今宵ここに(つど)いし客はそれにふさわしい紳士淑女でも、文士麗人(ぶんしれいじん)でもない。まったくほど遠い野粗で野暮、無骨でいかつい軍服姿の薩摩隼人(さつまはやと)たちであった。


『サロン・ド・レオン』は酒と時を楽しむ心と懐の余裕さえあれば、誰もが自由に出入りできる店のはずであった───が、いまや薩人(さつじん)どもがたむろしては水のように酒をくらい、大声でしゃべり笑い、時には「チェイスト」と叫んで刀を振り回す、まさに辻売り屋台のていたらくであった。


軍人のひとりが磨き上げられた(けやき)の一枚板テーブルに軍靴(くつ)のままのぼって、何ごとか薩隅方言(おくにことば)で声をあげる。


眉をひそめる者や気色ばむ人などいなかった。むしろ拍手とかけ声が沸く。ひととおりそれらが静まると薩人は声を荒げる。


西郷先生(せごどん)はなぜ()ったのだ!」


ぐるり周囲を取り囲んだ男たちから「その通りだ」と声があがる。


時、あたかも「西南の(えき)」が勃発した直後。『明治六年の政変』で下野(げや)した西郷隆盛が反乱を起こした明治十年(一八七七年)の二月。


兵士たちは維新回天の立役者、同郷の英雄である西郷を逆族として討ち取るため数日内に故郷へ進軍する。


西郷が私費を投じて創設した私学校の生徒が、陸軍の草牟田(そうむた)火薬庫を襲った。昨年十月二十四日の熊本県士族の「神風連(しんぷうれん)の乱」、続く二十七日の福岡県士族の「秋月(あきづき)の乱」、そして二十八日の山口県士族の「(はぎ)の乱」に触発されたのだ。


経緯(いきさつ)はどうあれ明治政府に不満を持つ士族子弟たちに(かつ)がれるかたちで西郷は決起した。


なぜ血気走る若者たちを大西郷ほどの人物が抑えきれなかったのか、とテーブルの上の男は嘆いている。


「坊やだからさ」


そうつぶやいた男は店のカウンターテーブルでオールドファッション・グラスをかたむけていた。


アメリカの「ボシュロム・オプティカル・カンパニー」のサングラスをかけ、白いスーツに薄紫のシャツ、赤のネクタイに身を包んだ彼は、喧騒の中ひとり静かにブランデーを口に運んでいた。


(あと五年、いや、あと三年、なしてこらうえんなかとです)


その言葉を内に押し込むように、白スーツの男はぐいっとグラスの残りをひと飲みする。


職務に忠実なのか、それともあきれ返って物言えぬのか、店内で繰り広げられる乱痴気騒(らんちきさわ)ぎに眉ひとつ動かさないバーテンに男はグラスをかかげる。


「もう一杯」


「それはおごらせていただこう」


いつの間にかスーツ男の後ろに、黒いロングトレンチコート、ノーネクタイで白のハイネック、黒帽子の男が立っていた。腰まで届く長髪にふちどられたその顔の中心で、双眸(ひとみ)が「平気で何人も殺してきたような」凶暴な光を放っていた。


川路(かわじ)の手の者だな」


白スーツの男は空のグラスに視線をそそいだまま問う。


「わかりますか?」


「匂いでわかる」


「さすがですな、黒田長官」


男に名を言われ、白いスーツの男───黒田清隆(ミスター)はサングラスをはずす。


「川路が何用かね?」


川路とは川路利良(かわじとしよし)。時の警視局長であり、ミスターと同じ薩摩藩の出である。


当時世界で最も優秀と言われたフランス警察へとおもむき、そこで学んだことを取り入れて日本の警察機構の発展に成功させた、のちに「日本警察の父」と呼ばれる男。


彼が在任中は抜群の犯罪摘発率を誇っていたが、その一翼を担っていたのがフランス仕込みの「秘密探偵」、いわゆる「密偵」。「西南の(えき)」の直接的なきっかけを作った中原尚雄(なかはらなおお)岡田長輝(おかだながてる)川上親(かわかみちかし)野口兼一(のぐちけんいち)らである。黒ずくめの男───彼もまたそのひとりであった。


「ジンを」


男はミスターの横の席に座る。


───そして、


「局長が、これを長官にと」


スーツの胸ポケットから折りたたんだ紙を取り出しすっとミスターの前置く。


ミスターは紙を手にし、開き、書かれている文言(もじ)を目で追う。


読み終わると小さく、


「クソムシが」


と、吐き捨てた。激しく舌打ちしながら紙を握りつぶす。


ミスターは出された二杯目の酒を一気に飲み干すとゆっくりと椅子から立ち上がり、上着を脱いでその背もたれにかけた。


ネクタイをとり、シャツのボタンをはずし、両腕の袖をまくる。


そして、いまだ大声で騒いでいる男たちのところへ靴音高鳴らせて入っていった。


「なんだおまえ?」


眼技をくれる兵士の横頬をミスターは無言で殴りつけた。何の躊躇(ちゅうちょ)も無く、全力で拳をねじ込む。


男が驚きから怒りの表情に変わる前に、ミスターは彼の腹に膝を打ち込んでいた。崩れ、床に倒れる男の顔をさらに無慈悲に踏みつける。


「このやろう!」


横から飛びかかってくる別の男をすっとかわし、たたらを踏んで突き出した尻をミスターは勢いよく蹴り上げた。


「何しやがる!」


誰かが叫ぶ。


「いちいち説明するのも面倒だ。てめで勝手に想像しろ」


ミスターは機嫌が悪かった。そして、酒を飲んでいた。


川路からの手紙は鎌首持ち上げた酒乱という大蛇(ヨルムンガンド)の檻を開け放つに十分すぎるものがあった。


一対数十人、薩摩軍人同士の大乱闘となる。


同郷の高官なのでミスターの顔を見知る者も当然いたのかもしれないが、酒の席で突然殴りかかってきたからには上位者だろうが関係ない。


「やられたら、やり返す! 倍返しだ」


むしろ知っていてこの機にとばかりに打ちかかる。


怒声と罵声と奇声が響き、服がちぎれ、グラスが砕け、椅子が倒れる。


今度はカウンターで黒ずくめの男が背にその諠譟(さわぎ)を受けながら、黙として酒を口に運ぶ。


男は目の前に黒田宛の手紙が転がっているのに気づき、開いた。


そこには、


───井上、クラーク追捕(つい)の者を放つ。


そう、ただ一文書かれていた。


見終わると男はその手紙を再びコートの内にしまい、また酒を飲み始めた。


男の名は藤田五郎(ふじたごろう)


またの名を斎藤一(さいとうはじめ)。元新撰組三番隊長、そのひとであった。

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