第7話 手稲山
年が明けて、明治十年(一八七七年)一月。
札幌農学校は冬休みに入っていたが、クラークは農学校につねに出勤し、雪や寒さなど気に留めず、学校周辺や、時には札幌の街中を散歩していた。
彼の五男ヒューバードに宛てた手紙の中には、冬の札幌の情景が記され、市場に並べられたイカやカニ、サケなどの海産物、柿やみかん、じゃがいもなどの農産物のスケッチも添えられていた。
その手紙には、クラークが冬休み中も生徒とともに山や森に出かけては、地衣類、つまりコケの標本集めをしていたくだりがある。
これは、アーマスト大学の友人で、植物学者のフレデリック・タッカーマン博士から、日本の地衣類の採取を依頼されていたからだった。
コケ類の珍種は、高い山に多いと言われていた。クラークは生徒たちの鍛練もかねて、札幌郊外の山々に登った。
手稲山───高さ一〇二三メートル。現在はスキー場として賑わいっているが、百三十年前には、道らしい道はほとんどなかった。
一月三十日、一行十四名は深い雪を踏みしめて、山路をわけ登った。
先頭にはつねにクラークの姿があった。遅れがちな生徒を大声であおるその姿は、とても老齢の域にさしかかっているとは思えないほど剽悍である。
登るにしたがって雪積ますます深く、大樹のこずえが雪の重みで頭をもたげている。
やがて頂上にたどり着く。クラークは目をこらして木の枝に付着しているコケを探しはじめた。
「夏にはまず見ることのできないような大木のこずえも、こうして雪がふりつもったおかげで、間近で接することができる。したがって、いまの季節はふだん手に入らないようなコケを見つけるにはとてもよい季節なのだ」
クラークは嬉々として、木々を指し、学生たちに熱弁する。
はじめて登る北海道の山。決して標高があるわけではないが、手稲山は、彼の研究者としての血を騒がせるに十分であった。
まるで蝶のように、木々の間を跳びまわっては、太い眉を下げ、髭面のいかめしい顔を崩す。
「おい、キヨ。おまえ見えるか?」
「俺にはさっぱり見えないな。そういう、おまえはどうだいガイア?」
「おう、まったくわからんぜよ」
くるくると少年のような師の姿に、生徒たちは唖然としながらも、なんだか微笑ましい気持ちになり、沸いてくるあたたかさに包まれた身体もあいまって、みな笑顔を浮かべる。
クラークが雪に足をとられて転んだ。指さしてみんなで笑い飛ばした。クラークもつられ、雪の上に仰向けになって笑う。
「……おっ、これは!」
大の字で天を仰いでいたクラークが、弾かれたように飛び起きる。
「これは大変珍しいものだ」
頭上には、老木のふしくれだち、色あせ、皮がささくれだった枝。それは、薄い緑の化粧がほどこされてあった。よほど、注意を払わないと見落としてしまうであろう微量に。
クラークは垂れ下がる枝に手を伸ばす。だが、あと少しのところで指が宙を舞う。再度試みる。が、かすりもしない。右手がだめなら左手。これもだめ。
「お、おいキヨ! 先生はどうなっちまったんだ?」
「ガイア、わ、わからんよ、おれには!」
がばりと起きるなり空を見上げて手を振り回す。師の行動は生徒の目には、とてつもなく奇妙な行動に写っていた。
ガイアたちの場所からは老木の枝のコケは目視できない。手を伸ばすときのクラークの短い気合いの声も、少年たちの耳には化鳥のさえずりにも聞こえる。
「先生は山の神に祈ってるんじゃない?」
ロクがとんでもないことをいい出すと、
「おれたちも祈ったほうがいいんじゃないのか?」
と、ガイアが続く。
生徒たちには、クラークが祈祷師よろしく、何やら呪術めかしいことをしているように見えたのだった。
まず、ガイアとロクが踊る。
「なんだか楽しそうだね」
と、ジョンがクラークの奇声をまねて続く。
少年たちが次々と踊りはじめる。
「……やるのかよ」
バーバルとキヨは最後まで不審な視線で仲間を見ていたが、「おまえらもはやく」とガイアが目でせかしてきたので、しぶしぶ踊りだす。
クラークは必死だった。だから、自分を見る生徒たちの好奇の視線も気がつかない。
少年たちが自分にならい、意味をなさない短い気合いの言葉を発しながら、雲ひとつない突き抜けた冬の蒼空を見上げ、両手を突き上げながらスキップを踏むという、奇妙でキテレツな行動をとっていることすら気がつかなかった。
開校前、玄武丸のよさこい踊りと同じように、生徒たちは輪になり、はしゃぎ続けていると、
「ヨモノシン!」
クラークの声がこだまする。
「はいっ!」
四方之進───ガイアは振り向きざま、一瞬で直立不動になる。『軍事調練』で投げ飛ばされてはかなわないと身体が素早く反応した。
「せ、先生!」
ガイアの頓狂な声に、踊る生徒たちはわれに返り、クラークを見ては、
「先生、どうしたのですか?」
と、口々に叫んだ。
少年たちの視線の先を見れば、雪の上で両手をついて四つん這いになっている師の姿。
「ガイア、わたしの背中に乗って、あの枝を採ってください」
クラークは首をひねり、あごで老木の梢を指す。
四つん這いのクラークとその頭上にある枝を交互に見たガイアはにじり下がりながら、
「む、無理です!」
と、叫ぶ。
───三歩下がって師の影踏まず、という言葉がある。しかし、クラークは影どころか背中を踏めと言っている。
ガイアはクラークに心酔している。さすがの「土佐の異骨相」も、それはできないと後ずさる。
だが、
「ハリーアップ!」
クラークにそう言われてしまっては拒めない。
「わかりました!」
その長い足をぐいと持ち上げ、ブーツの紐に手をかける。
「そのままでよろしい」
「えっ、土足で踏めと!」
クラークの言葉に戸惑いながらもガイアは足を下ろして進み、広い師の背中に乗ろうとしたが、
「やはり無理です!」
ガイアは自らも四つん這いになる。
「先生がおれの上に乗ってください」
「ガイア、早くしなさい!」
クラークとガイアは「馬」になったまま互いに乗れと叫ぶ。
と───
「ツ……!」
ガイアは背中に重みを感じた。
次の瞬間、後頭部にも衝撃を受け、顔面から雪の中に突っ込んだ。
見かねたジョンがガイアの背中を踏みつけ、飛び上がりコケの生えた枝を折った。
ガイアは叫んだ。
「おれを踏み台にしたぁ⁉︎」
───ジョンが採ったこのコケは、のちにアメリカに送られ、タッカーマン博士から学界未知の新種と認められた。そして名前もクラークの名前にちなみ「セトラリヤ・クラーキー」と命名される。日本ではのち朝比奈泰彦博士により「クラーク苔」という和名がつけられる。
クラークと農学校の生徒が手稲山登山をしていたその日、九州鹿児島私学校の学生たちが反乱を起こした。
多くの士族を巻き込み、火薬庫や海軍造船所を襲って、明治政府に反対する狼煙をあげた。
世にいう「西南の役」である。この動乱がクラークとその弟子たちの運命を変えていくのだった……