第6話 う〜ま〜い〜ぞぉぉぉ!!!
明治九年(一八七六年)、札幌の冬は十一月十五日の猛吹雪とともにやってきた。
数日間雪がふり続き、大地を白一色に染める。
関東以南の出身者が多い農学校生徒たちは、はじめ雪を見ておおいにはしゃぎ校庭に飛び出したりしていたが、教室のガラス窓に寒々しい鋭利な刃物にも似た結晶がはりつきはじめると休み時間になっても誰も教室から出なくなった。
仲間たちから「トラ」と呼ばれる生徒がいた。
渡瀬寅次郎という、いかめしい名前であるが、小柄で丸い目をした子猫のような少年は、休み時間にストーブのそばで丸くなり、うたたねすることに至上のしあわせを感じていた。
その日、休み時間が終わったことに気がつかないで寝入ってしまった。
そこへクラークが入ってきて、
「軟弱者、それでも男ですか!」
一喝するなり、まるで野良猫をひっつかむように制服の後ろ襟をつかんで持ち上げ、そのまま雪降りしきる校庭に放り投げた。
寝ぼけまなこもいっきにさめて、あまりの寒さにトラはガチガチと歯を鳴らす。
「こりゃたまらん!」
すぐに校舎に戻ろうとすると、待ちかまえていたクラークが雪玉を投げつけてくる。
トラの同級生である大島正健の著書「クラーク先生とその弟子たち」の中にも記されている「ものすごく硬く、当たればとにかく痛かった『クラークボール』」とは、熊の手のようなクラークがこねてかためた、この雪玉であった。
空気を切り裂いて飛来する「クラークボール」のひとつがトラの顔面に炸裂する。鼻から血をまき散らして彼は仰向けに倒れた。
「トラがやられた!」
教室の窓から見ていたガイアがまず校庭に飛び出した。
「「「ゴー、ゴー、ゴー!」」」
「「「ムーブ、ムーブ、ムーブ!」」」
次々と少年たちが続き、生徒たち総出でトラの救出を敢行する。
アニキら身体の大きい者たちがクラークの巨体を押さえつけている間に、ガイアたちが横をすり抜けて倒れているトラを回収する。
「プッシーキャット、ゲットだぜ!」
鼻血をたらしてのびているトラを肩に担ぐと、ガイアはアニキに親指を立てた。
「早く戻れ!」
と、アニキがいい終わらないうちに、なんとその巨体は宙高く舞った。
「うろたえるな小僧ども!」
短い気合の声とともにクラークが両手をあげただけで、彼を押さえつけていた生徒たちが次々と吹き飛ばされ、
───ドシャッ!
頭から雪積る地面に落下する。
なんたる剛力、おどろくべき腕力───とても五十歳とは思えぬ強靭な肉体であった。
そして再び雪玉を握り、投げつけながらガイアたちの方へ向かって来る。
「当たらなければどうということはない!」
ガイアは雪の弾幕をくぐりながら仲間たちに声を飛ばす。
しかし当たれば即「再起不能」である。バーバルが、ロクが、キヨまでも倒れてしまった。
「ガイア、ここは僕にまかせて、君は先にゆけ……グハッ!」
そして、いまジョンもやられた。
ガイアの『異骨相』魂に火がつく。
トラを肩から下ろすと雪を掘り、土を出し、石を拾い上げ、それを雪玉の中に押し込んだ。そしてクラークめがけて投げつける。
あやまたず、「石雪玉」はクラークの額に当たった。
が───
「ばかな! 直撃のはずだ……ええい、アメリカの教師はバケモノか!」
ガイアは驚いた。確かにクラークを撃った。だが彼は額から血を流しながらも、痛みすら感じないかのように平然と雪玉を投げつけながら進んでくる。
こうなれば肉弾戦あるのみ、と制服の上を脱ぎ、シャツを放り投げ、ガイアは上半身裸でクラークの前に出た。
「もはやこのわしを対等の地にたたせる男はおらぬわ!」
クラークの言葉を聞いて、ガイアは見回す。立っているのは、確かにいま自分だけであった。
汗が蒸発し、クラークの全身からゆらゆらと湯気が立ちのぼる。色黒のガイアの身体もまた蒸気で白く包まれる。
雲の切れ間から射し込んだ陽光が、対峙するふたりの「漢」を照らし出す。
「ふんぬぬぬぬぬっ!」
鉄槌のような巨大な拳をクラークはふりあげ───そして、ふりおろした。
「うぉぉあっったぁっ!」
ガイアも渾身の力を込めて拳を繰り出す。
ふたつの力が宙空で激突する、まさにその瞬間───
「スープカレーができたぞ!」
食堂の窓から「雷神さま」渡辺金次郎が大声で呼びかける。
クラークとガイアの拳は、わずかな間隔を残し、ピタリと止まった。
ふたりとも腕をおろす。その顔はお互い微笑をたたえていた。
クラークは再び丸太のような腕を振り上げる。
「よし、今日の『軍事調練』は終了!」
すると、今まで地面につっぷしていた生徒たちが「ひー、冷たい」、「寒くてかなわん」と、むくむく起きあがる。
「今日のはきつかったなぁ」
ガイアは糸がきれた傀儡のようにその場にへたり込んだ。
後年、偉大な教育者となったトラは当時をふり返る。
「勉強の他に、とにかく軍事教練というのをつまされた。開校当時は演武場はまだ建っていなかったので、クラーク先生は教室でも校庭でもどこでも急にやりだしたんだ」
マサチューセッツ農学校の「ミリタリーホール」をもとに設計された、教練室と武器庫を持つ二階建ての『演武場』は二年後の明治十一年(一八七八年)完成した───札幌一の名所である「時計台」がそれである。
毛利広之丞───森源三は夢から覚めた。
そこは八海山の露天風呂ではなく、農学校の彼の執務室。壁の時計を見る。五分ほど椅子に座ってまどろんでいたらしい。
九年前の───あの日の光景を夢見たのは、久しぶりであった。手と額にびっしょりと汗をかいている。ハンカチを取りだして汗を拭き、深く息を吐き出した。
あの時───山本八重のスペンサー銃は確かに火を吹いた。しかし、西郷吉之助を撃ち抜くことができなかった。
───八重の手が震えていたから?
───西郷が神がかっていたから?
いまになってしまえばわらない。ただその後、西郷は悠然とその場から立ち去ったのは事実で、河井継之助が「武士の一分」で戦死したことは真実であった。
椅子から立ち上って彼は中庭の見える窓に寄る。クラークと生徒たちが『軍事調練』を行っていた。
「日本の風習を捨てなくては、真の文明国家にはなれません」
クラークはことあるごとに生徒や学校関係者に説いていた。彼は日本の学校のような横並びの授業などしない。ついてこられない者は容赦なく切り落とす。
体調を崩して授業に出られない者も減点する微塵の温情もない教育姿勢。時にはテストに賞金をかけて生徒たちを競わすことすらある。
冬までに多くの者が農学校を去った。
「先生は人間よりも授業のほうが大切なんですか!」
そう面罵して辞めた者もいた。
源三にはおよそ受け入れ難い教育方針である。しかし、農学校の指導者は彼ではなく、クラークだ。
開校してから源三の気が休まることはなかった。ゆっくりと心落ち着かせ、床に就いたのは一体いつだったであろうか。
さらにここ数ヶ月、鹿児島で士族たちが不穏な動きをしているということで薩閥の長たるミスターと同郷の調所校長は東京にいた。
ふたりのいない間、学校の業務すべてを源三がこなしている。
まぶたが重そうなのはつねとして、目の下のクマは浅黒く、いよいよはっきりとしはじめた。強いクセのあるその髪にも白いものが多く混じりはじめ、頬はこけ、首の筋ははっきりと浮き出ている。
過労なのは誰が見ても明らかであった。
しかし、休めない。クラークがいる限り。
「もっと先へ……『加速』してみないか?」
西郷の声とクラークの声が重なって聞こえた。源三は両手で耳を押さえる。
幻聴なのは明らかであった。だが、ふさがずにはいられない。
農学校を、生徒たちを、クラークはどこへ導くのか? 自分が彼らを見守っていかなければという使命感にかられていた。
クラークの指導全て容認しておきながら、その全てを否定したいという大いなる矛盾に、源三は心身ともに疲弊していた。
「ん……これは?」
部屋に流れ込んでくる空気の中に、香辛料の香りが含まれていた。漂うカレーの匂いは、幻しではない。
「いつもと違うようだが……」
睡眠不足で神経が研ぎ澄まされているのか、かすかな香りの違いに源三は気がついた。引き寄せられるように食堂へと足を向ける。
よろよろと、ふらふらと、まるで夢遊病者のようななりで食堂に入った彼は、衝撃的なその光景に言葉を飲んだ。
───生徒たちがテーブルについてカレー食べているいつもの食事風景……ではなかった。
「はぅ、はぅ、はぅ、むひぃーん!」
「むは、むは、むは、はひぃーん!」
「もぐ、もぐ、もぐ、うひぃーん!」
───少年たちは何かに憑かれたように、一心不乱にカレーを食べている。
そして、その美味しさゆえに、ある者は恍惚の表情となり、ある者は白目をむいて椅子ごと後ろへ倒れ、またある者は失禁していた。
「アルティメットォォォォスープカリィィィィ!」
アニキが立ち上がったかと思ったら、上着を自らの手でビリビリと破り、その金剛力士のように鍛え抜いた肉体を露わにする。
「う~ま~い~ぞ~ぉぉぉぉ!」
今度はジョンが飛び上がるや、その口から眩いばかりの光を放出した。
源三は言葉を失う。
一体何が起こっているのだ?
あのカレーには何があるというのだ?
口と膝をわななかせながらも、食堂に踏み入れようとした源三であったが、不意に意識が遠のいてよろめく。貧血である
「森先生、大丈夫ですか?」
崩れかかった森を抱き止めたのは、金次郎であった。
「あぁ、料理長」
助かりました、ありがとうと言ったあと、金次郎だということがわかり、両手で白衣の胸ぐらを掴んで吠えた。
「あ、あのような、生徒の狂態を生むような料理! ななな、何か薬でも使ったのかね!」
生徒たちを指した。
が、次の瞬間───
「あれ?」
源三は目をしばたたせる。生徒たちはみなテーブルにつき、カレーを食べていた。飛んだり跳ねたりしている者など誰もいない。
一心不乱にカレーを食べているというところは変わらないが───先ほどとはまったく違う光景。
いつもと同じシーン。
「あ、あれ?」
同じ言葉をもらし、袖で目をこすった。
自分がさっき見たものは、一体何だったのであろう? 源三は金魚のように口をパクパクさせる。
「かなりおつかれのご様子ですね」
獣のうなりにも似たような声だが、金次郎は心からのいたわりの言葉をかけた。
源三が疲労を通り越して、病んでいるのがはっきりとわかったからだ。
「森先生も食べますか? スパイスという名前の薬を使った『スープカレー』を」
源三は頭を何度も前後させた。
───今日はついに生徒たちが考案した、北海道を開拓する人のための「元気の出るソップ風カレー」つまり「スープカレー」の試食の日であった。
少年たちは、あの日の夜からカレーについてみなで色々考え、お互いに意見を交わしあい、全員が納得する内容にまとめあげてクラークに提出した。
クラークは大いによろこんだ。生徒たちが自主的に北海道の開拓発展について真剣に考え、実行しようとしていることに。
よりよいものにするために、彼は少年たちと何度か話し合いを重ねた後、渡辺金次郎のもとへと向かう。
金次郎のひととなりを知らない人間はこの農学校にはいない。さすがにクラークも、やや緊張しながら厨房に入った。
ガイアたちが考えたカレーの書類に目を通した金次郎は、その巨体を小刻みに震わせ、そして大声をあげた。
「オレはいま、モーレツに感動している!」
横浜でもその名の知れた洋食コックの彼。クラークの前任者ケプロンに招かれて札幌に来た。
もともとケプロンの専属コックだったが、「学生たちに西洋料理を」というクラークとミスターの方針で、九月から農学校の給食調理長になった。
それまでケプロンをはじめ、アンチセル、ワッソンといったアメリカ人教師にだけ料理を作っていた金次郎だったが、今度は大勢の学生相手に、腕をふるわなければならない。
(この日本の未来の担手である学生たちに、美味しいものを食べさせてあげなくては。いや、美味しいだけではだめだ。身体を丈夫にする食べ物、勉学に身が入る料理を作らなくては!)
金次郎の気炎はすさまじかった。職人の血が沸き立ち、料理人の魂が咆哮する。
───が、限られた予算、そして未発達な札幌の流通事情で思ったように食材が手に入らない。
思い描く理想の給食を作ること叶わず、責任感の強い彼は日々鬱屈していく。
やがて、苛立ちは酒の量を多くし、忿懣を他のコックたちにぶちまけていた。
彼も好きで毎回「エゾシカカレー」を作っていたわけではない。作るたびに───
(……もっと違ったカレーを、もっと美味しいカレーを……)
と懊悩した。
その暗鬱を吹き飛ばしてくれたのが、このクラークと生徒たちからの提案書である。金次郎はさっそく製作にとりかかった。
久しぶりに、いきいきとした彼の姿に部下たちが大そう驚いたことは言うまでもない。
金次郎はそれまでたんすの奥に貯めていた金をすべて用いて本州からカレーの元となる「スパイス」を取り寄せた。
鎖国が解かれて、まだ十余年。海外との商取引など、その規模たるや微々たるものであった。
産地が海外、しかも中国や朝鮮よりはるかに遠い国々で産出される「スパイス」など、そう簡単には手元には届かない。
金次郎は、横浜や神戸の港から「漢方薬」の原材料として入ってくるスパイスを手に入れてもらうよう東京や大阪の調理人に頼み、そして、なんとか彼は求めていたスパイスすべて揃えた。
色づけのターメリックとパプリカ、とろみづけのクミン、香づけのスターアニス、コリアンダー、シナモン、カルダモン、フェンネル、クローブ、フェネグリーク、辛みづけのカイエン、マスタード、ブラックペッパーなどなど。
今回のカレーは「カレー粉」と言われている輸入ものの業務用混合香辛料ではなく、いくつものスパイスを巧みに配合して農学校オリジナルの「スープカレー」を作る。金次郎の西洋料理人としての矜持がそうさせたのだった。
彼は毎日学生たちの給食を作りながら自分の食事や睡眠時間を削って数多くの洋食文献を開いては研究し、試行錯誤の末に「これだ」という納得のいく「スープ」を作りあげた。
そして、具材。
ジャガイモ半分と乱切りしたニンジンはでゆでる。
半分のナス、半分のピーマン、輪切りにしたカボチャは素揚げ。
じっくりとスープで煮込まれた湯むきトマトとトリの骨付きもも肉。
これらがひとつの器の中に入っていた。
北海道がまだ未開の地である時代である。冷蔵庫も冷凍保存の技術もない。夏に採れた野菜を冬のいまカレーに使うことは不可能だと思われた。
しかし、ジャガイモとニンジン以外は薩摩の地鶏とともに、政府の伝達用蒸気外輪船を使うという力技で九州から当時において最大の速度で農学校に届けられた。
当然だが鹿児島薩摩藩出身のミスターの力なくしては実現しなかったことだ。
学生たちが考えた「北海道の人々を元気にするカレー」のレポートを、東京に戻る前に見た彼は、表情こそ変化にしなかったが、
「では、食材調達に手を貸そう」
と応えた。その静かな声音の中に、嬉しさが滲む。
ミスターにも思いがある。
いまは雪や寒さで稲すら北海道では内地のようには育たない。だが、やがて開拓が進み、農業技術が発展向上したあかつきには、米はもちろん多くの農作物の栽培が可能な時が来る。九州で作られているものがいずれ北海道で育つ。そのためにも開拓使士のたまごである農学校の学生たちには自分の故郷の野菜を食べてもらう必要があった。
最高の食材と技術が用いられ、ガイアたちの「スープカレー」は完成した。
───運ばれてくるスープカレーに少年たちは喜びの声をあげる。
骨付きチキンが真ん中に、それに折り重なるように野菜が添えられていた。
ニンジンの橙、ピーマンの緑、トマトの赤、ナスの黒は、ボチャの黄、ジャガイモの白と鮮やか。
いままで給食で食べていた野菜も肉も一緒くたの茶色だけの「エゾシカカレー」とはまったく違うカレー。
「ビューティフル!」
あまりの色彩の美しさにクラークも驚く。
「見た目のはなやかさだけではないですよ。味も格別、自信があります」
金次郎の顔はもはや「雷神さん」ではない。思う存分、調理人としての腕をふるうことができた満足感、学生たちの希望とクラーク、ミスターの夢を実現できた達成感でその表情は晴々としていた。