第5話 英傑風呂
───慶応四年(一八六八年)五月二日。
毛利広之丞は、妻の兄である長岡藩上家老・河井継之助に呼ばれ、酒の入った壷を抱かえて、山道を登っていた。
この日、梅雨の時期には珍しく空は澄み、陽が西に傾くにつられ、気のはやい星たちがまばたきはじめてる。
広之丞は空を見上げてのち嘆息。うなだれつつ、さらに傾斜を増しはじめた道を進む足は重い。
彼を暗鬱にしているのは、半日前、小千谷慈眼寺においての官軍「北陸鎮撫総督軍」岩村精一郎との会談が破談したことであった。
錦の御旗をおし立て、鯨波のごとく進軍してきた新政府軍は牧野家長岡藩に降服せよ、と伝えてきた。隣の高田藩をはじめ、北陸各藩のほとんどが早々に屈していたので、官軍は小藩の長岡もすんなり城を明け渡すと思っていた。
───これに対し長岡藩は河井を遣わす。
降服しない。そのかわり抵抗もしない。維新動乱が終わるまで「中立」でいることを認めていただきたいと伝えた。
「ご家老はケンカしに行ったのか⁉︎」
のちにいう「小千谷会談」に同席した恭順派の長岡藩士二見虎三郎は、摂田屋村の本営に河井より先に戻ると居並ぶ藩士たちにぶちまける。
高圧的であきらかに若輩の岩村を侮ったもの言いで、官軍の非を鳴らし、長岡藩の「中立」の正当性を説き、こちらの言い分を押し通した河井の態度はおよそ「中立」の姿勢を談判しにきた者の、それではなかった。当然、岩村は河井の態度に腹を立て、席をはらってあっさりものわかれになる。
二見は顔を青く染め抜いて、
「これでいくさになる」
と、吐き出すと仲間の誰もが頭を深く落とした。
破竹の勢いの薩長軍を前に、長岡藩七万四千石などすぐに消し飛んでしまう。座の隅でその様子を見ていた広之丞も、灰燼と化す長岡の町を想像して震えていた。
と、そこへ二見とともに慈眼寺から戻った河井家の家僕である松蔵が側に来て、囁く。
「ご家老さまは八海山でお待ちです」
───広之丞は馬を走らせた。
小千谷の東にある名峰八海山。河井はこの山の中腹にある、猿か鹿しか入らないであろう秘湯に好んでつかりに行っていた。
広之丞の胸は不安にくすむ。これからのことを考えれば考えるほど、姿勢もどんどん前のめりになっていき、いまにも地に着きそうなぐらいに背を丸くして坂道を行く。
湯の匂いがした。河井のいる湯元まであと少し。
(おや?)
広之丞は不思議に思った。湿り気を帯びた微風の中に、花の蜜のような甘い香りが混じっている。
(桜?)
顔をあげた広之丞の目に、季節はずれの桜の花びらが、無数に舞いおどっていた。
と───左頬に何かがぶつかった。
「ツ……!」
次の瞬間にカチャリと金属音が鳴る。
「何者だ?」
誰何の声の持ち主は若い女性であった。
広之丞はしばらく時を要したが現状を理解した。彼の頬にぶつかったのは銃口である。女性の持つスペンサー銃の先が押しつけられていた。
年の頃二十歳ぐらいの端正な顔立ちの女性。桜の花びらと見間違えたのは、彼女が着ている白と桃色の羽織だった。その羽織の下はうら若き女性に似つかわしくない「洋装軍服」。肩からさらに銃弾の束をたすきにかけている。
あの芳香は、詰襟のいかつい軍服に忍ばせた匂袋から漂ってきたのであろう。
……現状は理解した。が、状況が把握できない。声を発せずにいる広之丞に軍装の麗人は、
「おい、言わないか!」
と声音を強める。押しつけた銃口にさらに力がこもるのが伝わる。
広之丞は彼女の目を見た。黒目がちなその瞳には意思の強い光があった。本気だ。いまにも引き金をひきそうである。
「八重さん、それはわたしの義弟です」
女性の後ろから河井継之助の大きな声がした。
銃口をはずし、
「これは失礼しました」
額が膝につくぐらい八重は身を折って謝る。再びあげた顔のはにかんだ表情が、年相応に可憐で美しく広之丞はどきりとした。
八重の案内で河井のいる露天風呂に着いた広之丞は、
「───これは……」
大いに驚いた。
湯船には河井の他に、桑名藩の立見鑑三郎と会津藩の佐川官兵衛の姿があった。
「ちょうど酒のきれたところだ」
河井は湯と酒で頬を赤らめて広之丞を手招ねく。
河井継之助の顔をひとことでいい表すならば「仏さま」である。
額の中央には大きなほくろがあり、半分ひらいた目、どじょうのような口ひげに、つややかな頬と、寺に置かれている仏像の顔そのままであった。
しかし福々とした表情とはうらはらに、腹にいちもつある「奸物」として長岡藩内でも悪名高い。
わずか半日前に官軍との交渉が決裂したというのに、官軍の抵抗勢力の急先鋒「会桑」ふた藩の重臣と湯につかり酒を酌み交わしているのであるから言わずもがな、である。
───立見鑑三郎。
桑名藩の精鋭「雷神隊」を率いて各地を転戦し、官軍を翻弄していた。後世「日本一のいくさ上手」、「東洋きっての戦略家」と評される名将は酒精からくるものではなく、生来「棗」のように真っ赤な顔といまは湯の中で見えないが「桑名の美髯公」と呼ばれる通りのへそまで流れる長髯を持っている。
───佐川官兵衛。
会津藩の若き家老。「鍾馗の佐川」とあだなされるように爛々と輝く大きな目と顔下半分が硬い虎髯で覆れている豪傑な風貌をしていた。こののち会津で奮戦し、「西南の役」にても死闘を繰り広げる剣豪である。
その佐川の側役で八海山に来たのが山本八重。
砲術家の家に生まれ、若くして会津一の銃使いとなっていた。鶴ヶ城の籠城戦ではその腕を遺憾なく発揮、後に同志社の創立者・新島襄と結婚、キリスト教の布教活動や篤志看護婦として日清日露戦争で活躍するのだが、それはまた別の物語である。
広之丞は唖然とした。
慈眼寺での岩村への談判ははじめから不調に終わるのをわかっていて、立見と佐川を八海山に呼んだのであろう。
いや、あえて岩村を怒らせ破談にしたのかもしれない。
二見ら官軍への降服派が多数を占めていた長岡藩内を藩主・牧野忠訓を説いて「武装中立」にまとめたのは家老の河井である。
結果、中立は認められず官軍と一戦交えざるを得なくなった。
会津藩家老の佐川がここにいるということは、会津藩が中心の一大抵抗勢力「奥羽越列藩同盟」に長岡藩も加わることを伝えたに違いない。
「……この人は、はじめから薩長と戦つもりだったんだ」
───広之丞は呻く。
ヨーロッパにあるスイスのように永久中立の国づくりを掲げ、さまざまな改革を行って短期間で長岡を富ませ、米を買い、武器を取り寄せて日本国内における独立国の姿を整えつつあった。
なのに、官軍襲来と聞くや中立はおろか降服も拒み、「会桑」巻き込んで勝つ見こみのない戦争をしようとしている。
(……一体何がそうさせるのですか?)
湯船のふちにしゃがみ、持ってきた酒壺から河井に酒を注ぎながらその横顔へ広之丞は心の中で問いかけた。
疑念を抱きつつも、立見、佐川へと酒を注いで回る。三人は言葉を交わすことなくただ湯につかり、酒を飲んでいく。
しばらくすると───
「お客人だ」
杯を口に運び、横目で見ることもなく河井は来訪者の存在を伝える。
背の高い男がそこにいた。
痛いほど日焼けした色黒の顔をしているが、「健康的」とはおよそかけはなれた、頬こけ、目落ちくぼんだ、文字通りの「貧相」である。
下帯ひとつの身体はあばら骨が浮き出て、手足は枝のように痩せこけていた。
しかし、その裸体は無数の刀傷で飾られている。数えきれないであろう戦場を経験したことを雄弁に物語っていた。
「すごい身体だな」
佐川は声をはずませた。彼はこの武辺者も官軍へ対抗するいずれかの藩の者だと思った。
しかし───
「これは西郷吉之助どの」
河井の言葉にその場が氷結する。
立見、佐川、八重、広之丞は、目を瞠る。仇敵である薩摩の首魁がいま自分たちの目の前に現れたのである。
「……うそだろ」
広之丞は口中で呟いた。西郷吉之助が現れたこともさることながらその容姿に驚く。
西洋の書物に見たことのある十字架に磔にされたキリストの絵。そこから抜け出てきたかのよう。相撲取りもひしぐような巨漢で容貌魁偉と伝え聞いていた西郷吉之助であろうはずがないと思った。
(こんな男に、いま日本中がひっくり返されて大騒ぎしているなんて!)
西郷吉之助───のちの隆盛は大の写真嫌いで知られている。
明治の世に人臣を極めた人物であるのに、はっきり本人と証明できる写真が一枚も現存しない。似顔絵すら描かせなかった。
西郷隆盛───といわれ、われわれ現代人が思い描く顔は弟従道といとこの大山厳を合わせたモンタージュが元になっている、まったくの別人である。
新聞すら無い時代だ。たとえ官軍の総大将といえども実像を知る者などごくわずか。さらに諜報力は幕府はおろか、同盟軍の長州や土佐などとは段違いであった。その薩摩の首領ならなおさらである。
はりつめた空気を感じないかのように、西郷は河井の横にその長身を沈めた。
小さく息を吐くと、ゆったりとした動きで───彼は右の人差し指を立てる。
「これでわたしのところにきませんか?」
会桑重臣のいる前での堂々の調略である。
広之丞は唾を飲み込んだ。 官軍の大将ほどの男がみずから招くのだ。その指の一本が示すのは牧野家を潰したあとの長岡一国を与えるということなのか?
西郷の言葉が耳に届いてないかのように、河井は無言で杯を口に運ぶ。
───西郷は言った。
「日本一国では不服ですか?」
聞いた立見、佐川、八重、広之丞は、
「な、なんだってぇ!」
驚愕の声をあげる。
河井に日本をやるということはこの西郷の目はもうすでに亜細亜の、他の国々に向いているのか。それらの国々とも支配下における自信があるというのか!
───とてつもない条件であった。
が、河井はやはりひとことも発しない。
西郷は己の提案が不調に終わったことを悟ると肩までしばらく湯につかり、そして話題を変える。
「岩村さんを怒らせたみたいですね」
「坂本龍馬の下で働いたことがあるというだけで、高官についた小僧に腹をたてられても、どうということもなく」
目を瞑り、河井は残りの酒を飲む。
「河井さん、これは戦争になります」
「仕方ない、武士の意地です」
「武士の意地?」
「西郷さん、おみしゃんら官軍ってやつは西洋列国の脅しにあおられ、何もかも変えようとしている。変えられないものがあること、変えてはいけないものがあることを示す。古きもの全てが悪しきものではないでしょ?」
訥々と話す河井の言葉を聞いて、広之丞はぞっとした。
河井は己の「武士の一分」を押し通すためにいくさをするつもりだ。奸物だ、悪党だ、と長岡の者に未来永劫蔑まされても、やるつもりなのだ。
広之丞の予見したとおり、河井継之助死後、戦渦にまきこまれた長岡の人々の怨嗟の的にされ、墓が壊されること数知れず、いまも地元では褒貶がわかれている。
「河井継之助ほどの男が器量が小さい」
「革命家はいつも夢みたいな目標を持ってはじめるから、極端なことしかやらない」
「この雪国に引きこもって傍観を決め込もうとした者に言えたこと?」
「そうやっておみしゃんは永遠に他人を見下すことしかしないんだ」
「河井さん、幕藩などは日本のノミだということがなぜわからんのだ」
「西郷さんほど急ぎすぎもしなければ、徳川の世に絶望もしちゃいない」
「日本が持たんときが来ているんだ」
「人の知恵は、そんなものなど乗り越えられる」
「ならば今すぐ武士ども全てに英知を授けてみなさい!」
仏さまと神の子との、どこか別世界のような問答をさえぎったのは八重だった。
「あなたを殺してから、そうさせてもらうわ」
と、彼女はスペンサー銃を構えて銃口をぴたり西郷の左胸に合わせた。
西郷はこのときはじめて、河井以外の人間がこの場にいることを知ったように、四人の顔をゆっくりながめ、そして口を開く。
「もっと先へ…『加速』したくはないか?」
聞いた立見は、がばりと立ち上がり、
「佞言断たつべし!」
手刀突き出し叫ぶ。
と、同時に───八重は銃のひき金を引いた。