第3話 洋食ニアラタメ候
その時、歴史が動いた。
───明治九(一八七六)年九月九日の朝。
「こりゃ大変だ!」
食堂の壁に貼り出された告示書の前でガイアは大声をあげた。なにごとだ、とキヨやロクらが集まる。彼はゆっくり、周囲に届く声で張り紙の文言を読みあげた。
「本校のまかない、明朝より、朝飯、洋食にあいあらため候こと……」
「うわっ、洋食くわされるのか!」
まずロクが声を上げる。
「そういうおまえは、くったことあるのか?」
と、尋ねたキヨに、
「くったことがあったら驚かないさ!」
まじめくさってロクは答えた。
札幌農学校はもともと貧乏書生の集まり。これまで西洋の料理───「洋食」なるものを、口にしたことなどあろうはずはない。生徒たちは一体、どれほどのゲテものを食べさせられるのかとわめき立てた。
「残念ながら、そう珍奇なものは出ないよ」
あとから来たジョンは驚くこともなく、いつものように乙女のような柔和な口調でいう。
「あぁ、札幌学校組はもう経験済みだったよな」
そう言えばと、ガイアはワニのようにいかついあごをなでる。
外交官を育てるカリキュラムがあった札幌学校では、農学校にさきがけ「洋食のマナー」も授業に取り入れていた。
さらにジョンは男子学生では唯一、札幌学校女子部のイギリス人教師エリザベス・デニスの自宅で、彼女が作った「本物の洋食」を食べた経験を持っている。
中性的というよりは、少女のような端麗な容貌なので、何の違和感もなく他に招待された女生徒たちとともに食事を楽しんだ。
「『フル・コース』というのはまだ体験はしていないけど、デニス先生のところでは最初に『ソップ』が出てきたよ」
「なんだソップって?」
ガイアが東京組一同を代表する。
「辞書には『西洋のみそ汁』と書いていたけど───まぁそんな感じ。味は全然違うけどね」
当時の資料から察するに、ポトフに近いスープであったと思われる。
次に出されたのが生野菜。これは『サラダ』という名前だった、とジョンは彼を取り囲むよう輪になった同級生たちに伝えた。
「そして肉料理。食べたのは『ビフ』。焼いた牛の肉で、これはやわらかくてとっても美味しかった」
「ここでも『ビフ』が出てくるのか?」
「いや、ガイア。ここではそんな上等なものは出ないと思うよ。いいところエゾ鹿の肉かなぁ」
「食えるのか?」
「少し臭うけど食べれないことはない」
ジョンの言葉にガイアやキヨたち一同はげんなりした。やれ開国維新、やれ文明開化といわれても依然仏教の影響は濃厚で四本足の動物は食べないのが常識である。少年たちの拒否反応は至極当然であった。
クラークはミスターに生徒の生活改善について意見を求められ、住まいについては「暖房」を、食事については脂肪分の多い「肉料理」を提言した。
特に食事には玄武丸で、ガイアを叩きふせたときに感じた「日本人の貧弱さ」を改善したいとの考えが反映している。
───告知の翌日からジョンが話したとおり、エゾ鹿の肉料理がほぼ毎日のように食事に出された。これにトースト三きれ、バターとスプーン一杯の砂糖がつく。
おかずの「肉料理」はともかくとして、これまでどんぶりに盛られていた白米ではなく、消化の早いパン食になったのが生徒たちにはかなりこたえたらしく授業中に腹を鳴らすものが続出する。
そんな中、週に一度だけ米食にありつけた。食べ盛りの少年たちが欣喜した料理───それが『カレー』である。
まず白米が山盛り。そして他の料理では血生臭く、固く、食べづらい鹿肉が『カレー』では小さく切られてじっくりと煮込まれていた。
ジョンが言った牛肉の「とろける舌触り」とまではいかないが、まずまず柔らかく食べやすくなっている。
乱切りにした人参と半分に切ったじゃがいもが入っており食べ応えがあった。
ソースはドロリというよりはサラサラしていて「ソップ」のよう。
鼻の奥と腹の底を刺激するツンとしたスパイスの香り。炒めた玉ねぎとバターの香ばしい匂い。ソースをスプーンですくって口に運べば、まずは煮込まれた野菜の甘さが舌に広がる。続いて肉からにじみ出たうまみ深いコクがおとずれる。
最後に複雑に混じりあった辛さ。それは舌をさんざん翻弄したのち、余韻を残して消えさる───『カレー』は、そんな食べ物であった。
───しばらくのちの、食堂にて。
「おい、また鹿肉のカレーかよ」
ガイアは「もううんざりなんだ」と声をあげる。両手をひろげ、肩をすくめて「これはまいった」というしぐさをした。教壇でときおり見せるクラークと同じように。
キヨとロクがカレーの皿がのった盆を持ってガイアの前のテーブルにつく。
「ガイア、おまえカレーは大好物だ、と言ってたじゃないか」
「そうそう、たとえ馬の肉と鹿の肉が入っていてもカレーならよろこんで食べると思ってたよ」
ロクは「馬鹿」という漢字にひっかけてからかった。この洒落は二期生の新渡戸稲造も著書に記しているほど、当時の生徒たちの中でよく言われていたものらしい。
「鹿肉以外入っているなら、なんだって歓迎さ!」
ガイアはカレーの中にある大きな鹿肉をスプーンで小さくなるようにほぐす。じっくりと煮込まれているのだが、もとからエゾ鹿肉はとても硬いのでうまく崩れない。皿の上で踊り、ソースが顔や服に飛び散る。
「どうしてこう、いつも鹿、鹿、鹿なんだ!」
額についたのをいまいましげにそでで拭いながら、ガイアは激しく舌を打ち鳴らした。
「どうして鹿かって、馬も牛も土を耕すのに必要だからだめ。山からおりてきては田畑をすき放題荒らすエゾ鹿たちがうようよしているから、それを鉄砲で撃って肉として食べる」
キヨは猟師の真似をした後、皿の中の鹿肉をすくって、ガイアに片目をつむりそのまま口に運んだ。
友人のとり澄ました態度にむっとしたガイアは、皿を持ちあげると親の仇がごとく勢いよく口の中に流し込む。
あっという間にきれいになった器を叩き割らんが勢いで机に置くと、「ちょっと料理長にかけあってくる!」といいざま立ちあがり、靴音高鳴らせて厨房へと向かっていった。
「え? って、おい!」
キヨはカレーを半分残して、急ぎガイアの後を追う。
「えーっ!」
ロクはまだソースを二、三杯すくっただけだった。スプーンを数回上げ下げしたあと、なごり惜しそうに腰をあげてふたりに続いた。
───食堂から厨房へと続く廊下に立ち、ガイアはガラス窓から中をのぞく。
「ここで作っているのだな」
真っ白な西洋式の制服を着たコックたちが忙しく動いている。
当時を記録した資料によればこの時、厨房にいたのは料理長以下、 小田島文司、 渡辺伊之助、 小口一太郎、 船木誠太郎、 木村清次郎、 小口平二、 村山吉五郎であった。
いずれも横浜の西洋料理店に従事していたところをケプロンにスカウトされて札幌学校の厨房で働くこととなり、引き続きこの農学校でも腕を振るっている。
「鹿はもううんざりなんです! 何か他の食材でカレーを作ってください! 違うカレーお願いします! うん、よし───」
言いたいことを口中で繰り返し、鼻息荒くガイアはいざ厨房へ。
と、そこへ───
「ま、ま、まてまて!」
追いついたキヨがガイアの腕を掴んで引き寄せる。
「おいおい、あんまり無茶するな、クラーク先生や森監督に怒られるぞ。いやいや、あのふたりならまだいいが、ミスターに知れたら、とんでもないことになるぞ!」
血の気の失せた顔でキヨは言う。ミスターの規律を乱す生徒に対する処罰は厳格だ。札幌学校の話は戦慄の響きを帯びて少年たちの間で 流布していた。
玄武丸での一件以来クラークは手をあげたことは一度もないが、黒田に尻を蹴りあげられた者は少なくはない。みなしらふの時であるから、酔っていたらどれほどのものかと少年たちは背筋を寒くした。
あの人は物腰柔らかなお人に見えて、実は凶暴この上ない。長官室に呼ばれ、怒鳴られ、殴られ、へたをしたら退学だぞ、と必死に止めるキヨの腕をガイアは邪険にほどく。
「後ろ暗いことは何もしてない、おれは 紳士として行動している!」
「これのどこが、紳士的な行動だ!」
胸張るガイアの腕を再度引き寄せ、キヨは鼓膜が震えるほど耳元で叫ぶ。
が、腕はまた振り払われる。
「紳士的さ。たしかにカレーはうまい。しかしこうも毎回中に入っているものが同じだと、飽きもくる。おれは生徒を代表して料理長にひとこと言いたい。『具材の変化に乏しいので、せっかくのおいしいカレーがだいなし。もっと工夫して』ってね」
まくしたて終わると、さて料理長はどこにおいでかな、と再び厨房をのぞき込む。
「ガイア、キヨ知っているかー?」
と、語間の伸びた声を大きくあげ、ロクが追いついた。「何が?」と、ふたり振り返る。
「料理長の 渡辺金次郎という人は、調理の腕は抜群だが、大酒飲みの、大のバクチ好き。気に入らないことがあったら、あたりかまわず、でっかいカミナリを落とすらしいぞ。料理人さんたちからは、陰で『雷神さん』って呼ばれていて、ミスターより恐ろしいとのもっぱらな噂だよ~」
「ミ、ミスターよりおっかないのか……」
酔った黒田の顔がちらつき、ガイアとキヨはぶるっと震えた。
「わ、わ、悪いことはいわん、今日のところは引き返せ」
というキヨに、震えが痙攣に変わりつつあるガイアは、
「そ、そうだな」
と、小声で返した。
───と、三人ひたいを寄せている場に陰がさし、暗くなった。
おや? と顔をあげた少年たちの目に「でっかいカミナリを落とす雷神さま」渡辺金次郎の姿が飛び込んできた。
「……おまえたち、何をしているのだ、こんなところで?」
地鳴りのような野太い声を出して金次郎はギロリとのぞき込んで来る。俵屋宗達の筆から生まれた鬼神が如く、容貌魁偉であった。
三人の心は弾け飛ぶ。あやうく絶叫しかけるが、漆をぶっかけられたように喉も唇も膝も固まってしまっていた。意見具申の心意気などすでに泡沫のように消え失せている。
「何をしているんだと聞いている」
金次郎は別段声を荒げたつもりではなかったが、ガイアたちには龍虎の咆哮に聞こえた。すくみあがって言葉が出てこない。
「聞こえたか?」
無言の少年たちにさらに獣面を近づける。今度は苛立ちがまぶされていた。
それを察して、炯々とした金次郎の瞳光に射られ口をわななかせながらも、
「あ、いや、厠……レレレのレーストルームに行こうとしていただけだよなぁ、キヨ」
「いやだなぁガイア、レストルームはあっちだぜ」
内心の動揺を抑えながら、キヨは白い歯を見せて立てた親指で廊下の先を示す。言うが早いかおのれはくるりとくびすを返し、拳を作り両腕はぴたりとわきにつけ、軽く曲げる。すぐにでも駆け出せる最もよい体勢。
ガイアも右にならいで駆け出そうとした時───横のロクが恐怖で魂が抜けきり、
「───大きな星が、ついたり消えたりしている……あれは彗星かな? いや、違うな。彗星はもっとこう、バァーって動くもんな」
と、呆けてぶつぶつ漏らしているのを見てしまった。ガイアは慌てて金次郎のほうに向き直り、ひきつった笑みを見せながら、ロクの腕をひいて一緒に背をむける。
ガイアはロクの背中を叩いて、
「しっかりしろ!」
と囁く。
「あ、ごめん」
心が戻ったロクはこくこくと頭を何度も上下させる。
───いざ、逃げよう。
一歩目を踏み出した三人───だが、
「おい、おまえたち」
と、雷鳴のような声を金次郎は飛ばしてきた。
「な、な、なんでしょう?」
振り向くことなくガイアは返す。横のキヨとロクの唾が、喉を下って行く音が耳に届く。
「ひとつだけ聞く。おまえたちカレーは好きか? うまいか?」
ゆっくりとした口調で、金次郎は尋ねてきた。
「自分たちはカレーが好きであります! 大変おいしいであります!」
ふり返えることなくガイアは両かかとをつけ、背筋を伸ばし勢いよく答える。
「……うん、そうかわかったよ」
金次郎の語尾を待たず、三人は脱兎のごとき速さでその場から消えた。
───それ故、このとき鬼もひしぐ面がまえの金次郎の、その表情が暗く寂しげになったことに気がつかない……