第2話 札幌農学校
札幌農学校の開校式が、明治九年(一八七六年)八月十四日に行われた。
現在の札幌市中央区北一条から二条、西一丁目から二丁目に至る広大な敷地内に建てられた洋式校舎の前に、ときわ木と色彩豊かな草花で飾られたアーチが作られ、黒田清隆長官以下、森源三ら開拓使役員や学校職員、そして薄い黄色の制服を着たガイア、キヨ、ロクら学生たちがその下を通って会場の第一講堂に集まる。
開校の儀は、まず黒田長官の式辞を役人が代読することからはじまった。己が言葉を述べられている間、黒田は椅子に腰を下ろし、腕を組み、目をつむる。黒田清隆。この時三十七歳。
色白の端正な顔と静かな気韻漂わす、剛で鳴らす薩人らしからぬ人物である。
彼のあだ名は『ミスター』。
ミスター・クロダ───ではない。「ミスター」である。そう名づけたのは昨年アメリカに帰国した開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問ホーレス・ケプロンだった。
「あなたは『ミスター・クロダ』におさまるお人ではない。『ミスター・サツマ』になり、『ミスター・サッポロ』にもなりました。そしていずれ『ミスター・ジャパン』となるでしょう。ですので、わたしはあなたをただ『ミスター』と呼びします」
お雇い外国人の阿諛のような言葉だが、黒田は気に入って部下にも「閣下」ではなく「ミスター」と呼ば せていた。
政争に負けて西郷隆盛が鹿児島に戻り、大久保利通が明治天皇の側仕えになった今、薩摩藩出身の官僚の頂点に黒田はいる。
───ミスター・サツマは明治七年、参議兼開拓長官となり、まだまだ未開の地であった札幌の開拓に着手した。明治二年、和人わずかふた家族しかいなかった札幌が百年後、百万都市へと発展を遂げた歴史を彼の存在なくしては語ることはできないであろう。彼はまぎれもなく「ミスター・サッポロ」である。こののち明治二十二年には内閣総理大臣───「ミスター・ジャパン」となり「大日本帝國憲法」の発布を行う。
───余談だが、鹿児島出身の偉人の銅像は実際よりも偉丈夫に作られることが多い。
札幌開拓の父───として、大通り公園十丁目に、黒田清隆の銅像が立っている。本来書生のような彼だが、そこでは立派な虎髯を蓄えた薩摩隼人らしい薩摩隼人であった。
さらに有名なのは、東京上野恩賜公園に立つ、西郷隆盛像である。
明治三十一年十二月十二日の除幕式で、夫隆盛の像を初見した糸子夫人は「こげんなお人じゃなかったこてぇ」とその場で大声をあげ、隆盛の弟従道にたしなめられた。
その日は西南戦争の首謀者として朝敵とされた西郷の名誉回復を祝う日でもであったのだから、糸子の衝撃はよほどのことであったのだろう。
黒田の辞が終わると、調所広丈校長、堀基札幌判官らの告辞が続く。
そしてクラークの番になった。名を呼ばれ、椅子から腰をあげる。ゆっくり一歩一歩確かめるように進む。壇にのぼる彼の手には一枚の書類を握られていない。後ろに手を組み、会場を見渡し、告げる。
───青年紳士諸君よ、きみたちはこの学校に入学した以上は、祖国のために労働と信頼と、そして名誉に値する最高の地位を得られるよう努力することをのぞみます。
そのためには健康に注意し、よこしまな心を抑え、素直で勤勉な人間になることを目指して、ひろい知識と技術を身につけなければならない。
今後とも長官閣下の変わらぬお力添えを賜るならば、わが札幌農学校が北海道はおろか、全日本国民から支持されるであろうことを、わたしはかたく信じて疑わない。
開校式におけるクラークの名言「青年よ、高邁な志を持て───ボーイズ・ビー・ロフティ・アンビション」である。
───しかし、真実はこうだ。
クラークは壇にあがると、一言こう告げた。
「三日でこの学校をシメる」
列席者が唖然とする中、ひとり源三は落ちつきはらって席を立ち、呆然の態である書記官の手から筆をもぎとるや記録用紙に「教頭にふさわしい」先の言句を書き連ねた。そして、そのまま東京へ報告する。
妻ハリエットに宛てたクラークの手紙の中で「ぶっつけ本番であったが、いいたいことがいえたよ」と記していたことをのちに聞いた源三は、「そりゃそうだろうよ」と満面朱に染めた。
入学式より三日後、農学校初授業のときに「開校の儀」での科白が実行される。
玄武丸で来た十二名と地元出身の四名、合わせて十六名の生徒を前にクラークは言い放った。
「この学校に校則は必要ない」
困惑する少年たちを見回しながらさらに続ける。
「どうやらこの学校の前身である札幌学校では、多くの規則で生徒たちの行動を縛っていたようだ。しかし、ここではそうした校則はない。今後、わたしが君たちに望むことはただ一言『紳士たれ』、これだけである。紳士とは、おのれの良心にしたがって何事も行動するものだ。学校は学ぶところだから朝鐘が鳴ればベッドから出る。食事の時間にはすぐに集まり礼儀正しく召しあがる。出処進退すべて正しい判断をすることは、紳士として当然のことである」
みな札幌学校の規則の厳しさ、懲罰の激しさ知っていた。心を病んだ者、逃亡したもの数知れず……と。
この農学校も規則から反れれば、玄武丸でのガイアの仕打ちのようなものすごい罰則あるに違いないと生徒たちは恐々としていたところへ、目の前の外国人教師はやかましい規則は作らないというのだ。
教室は少年たちの歓声に揺れた。みなまぶたを熱くし、抱き合って喜ぶ者もいた。
クラークは若者たちの心を、三日どころか一瞬で掌握したのである。
───その日の放課後、校庭にある杉の大木の下、北の大地の心地好よい夏風と柔らかい木漏れ日をその淡い黄の制服に受けながら、生徒たちは集って話あっていた。
内容はもちろん「ジェントルマン」についてである。
「まずおれは紳士になるため、髭をたくわえよう」
大まじめにガイアは、大きな岩のような顔をキヨに突き出した。エゲレスやメリケンの紳士はみな立派な髭を持っているではないか、と続ける。
「まだわからないのか! 紳士は外見じゃなくて、心───つまりフィロソフィーだ。先生の英語が理解できなかったのか?」
キヨは微苦笑した。
ガイアが仲間うちで一番英語力に優れているのを知っていて揶喩する。
アメリカから来た教師に特に心を奪われたのは、玄武丸で打ちのめされたガイアだった。教祖と信徒の関係といってもよい。ケンカしても負けなしの自分を完膚なきまで叩きのめしたクラークを信奉することにより、彼の矜持は保たれている。かなり歪んではいるが、一番の問題児が一番従順な生徒に変わっていた。
「ジョン、おまえからもなんか言ってやれ」
キヨは隣にいた細身の少年の肩を叩いた。
ジョンこと伊藤一隆である。
彼は入学式前にクラークの家でキリスト教の洗礼を受けていた。これが歴史上発の札幌での洗礼式であり、そのとき授かったクリスチャンネームが「ジョン」である。
「日本人が紳士になるにはは、まず『さむらい気質』を捨てなければならないのさ」
声変わりを終えているはずなのに、鈴の音のように澄んで高い。黒目が大きくまつげも長い。鼻筋も通り紅唇も艶やかであった。ほどけば腰まであろう黒髪を後ろで束ねていたので、男子しかいない農学校の制服を着ていなければ少女と見違うほどである。
思わずガイアは魅入って、地黒の頬を赤らめた。いかんいかんと、胸にわいた妙な気持ちを振り払うように語気強く、
「さむらいは紳士になれないのか?」
と、切り返す。
「そうさ。武士道は格式優先。それに縛られたら、行動重視のジェントリーなふるまいはできない」
札幌学校からこの地で学んでいたジョンには柔軟な思考ができた。クラークの前任お雇い外国人たちとの交流を経て、他の生徒たちよりも早く、より広く、深く海外の先進性に触れていたからである。クラークの発言の真意である「武士道を捨てよ」をよく理解していた。
「はぁ? つまりいままでのものをそっくり変えろ、ということだろ?」
ジョンの澄んだ瞳光を向けられ続ける居心地の悪さから逃がれるため、ガイアは筋肉が盛りあがる腕を胸の前で組んで視線を上斜めにそらす。
「全部は変えなくてもいい。でも確実に変えなくてはいけないもののほうがギガントなんだ。でも、ぼくたちならできる!トゥットゥルー!」
ジョンの声はうわずり、瞳は潤みはじめていた。
興奮して叫ぶ。
「ホルース、バッカルコーン!」
聞いたガイアは巨体をのけぞらし、
「言葉の意味はよくわからんが、とにかくすごい自信ぜよ」
と、熱意というか、発せられる気焔に圧されてにじりさがった。
ジョンは身をのり出し、ガイアの色黒でいかつい拳を対照的な白くて小さな両手で包む。
「叩けよ、されば開けん。求めよ、されば与えん」
聖書の言葉を引用しつつ、掴んだ手を激しく上下に振った。
ジョンこと伊藤一隆───女優・中川翔子の曽曽祖父にあたる人物である。
───校則が存在しない学校にする。
授業初日にクラークは学生たちにぶちあげ、驚かせ、喜ばせた。
一方、調所校長をはじめとする学校関係者は戸惑う。彼らには「規則のない学校」などあり得ない。農学校の前身というべき「札幌学校」は厳しい校則があっても廃校になったではないか、と。
「もし、けしからんやつが出たらどげんするおつもりですか!」
黒田清隆と同じく薩摩出身。こちらは肌黒く、縦にも横にも大きい。顔半分を硬そうな髭に覆われたまことに薩摩人らしい薩摩人であった。
喉太く口も広いので声もでかい。詰問のような語勢になったがクラークは動じない。
「即、退学」
ふとどき者に容赦なし。そう断じる。
力感ある青い瞳をむけられては、調所校長はそれ以上言葉を続けることはできなかった。
───クラークの教えもまた型破り。
授業に教科書を使わない。生徒たちは早口でしゃべる彼の言葉を速記さながらに帳面に書き写す。そして寄宿舎に戻って辞書片手に整理していく。
また、前日に「明日までにすべてこなすように」と山のような宿題を出しておきながら、次の日になったら生徒たちがやってきたものをまったく見ようとしない。「勉強したのなら、それでよろしい」という。
かといって宿題箇所が理解できず、クラークに聞かずわからないままにしておくと彼は激昂した。軍隊仕込みの烈声に、生徒たちは椅子から飛びあがったり、転がり落ちたりした。
さらに毎晩クラークが寄宿舎を訪れ、教えてまわるのだからとてもじゃないが「ふとどきなこと」などできようもない。規則があろうがなかろうが関係なかった。
ガイアがある日、英語の聴き取りの難しさを訴えた。するとクラークはこう言った
「Don’t Think. FEEL!」
───と。