第1話 玄武丸
札幌農学校官吏の森源三は「くせっ毛」というには、あまりにねじれうねっている髪の、そのひねりはねた毛先をいじりながら、目の前のテーブルにある白磁の壷を指で軽く弾いた。
カメの胴体にツルの首をつけたような「珍奇な陶器」は、チーンとひと声鳴く。
「いい音色だろ?」
彼はそばに立つ若者に尋ねる。
潮焼けか、染色しているのか、もしくは西洋人との混血児なのか、赤い髪の毛を持つ青年は、
「良いものなのでありますか?」
と、至極素直に返してきた。
(……どうでしょう?)
おのれで聞いておきながら、源三はそう胸の中で答え、苦みを口の端ににじませつつ、
「北宋だな」
と、こちらは声に出す。
中国「北宋時代」の「仙盞形水瓶」というもので歴史的にも金額的にも「それはそれはたいそうなもの」である、と教えてくれたのは元老院の井上馨であった。
井上がこの壷を風呂敷「ひとつだけ」に包んでみずから届けに来たときの、口上の受け売りである。
壷は、札幌農学校の開校を祝して井上が、源三の上官である北海道開拓使長官黒田清隆に贈ったものであった。
その黒田から任され、いま源三が管理している。
(それにしても、こういうのは箱に入れてくるだろうに)
彼は井上の顔を思い浮かべて鼻にしわを寄せた。
長州藩士時代に、刺客にメッタ切りにされて刀傷が縦横に走る壮絶な顔は、いつも眉が寄って谷を成し、唇がへの字に垂れて険しかった。
薩摩の黒田清隆と長州の井上馨───巷間では、ともに薩長犬猿の急先鋒でありながら、こと国事となればともに手を携え、大使副使として朝鮮に開国を訴えに赴き、みごとその大任を果たした私情にとらわれることなき「有能な政治家」と評されている。
が、あくまで「世間では」であり、実際のところふたりの仲は、やっぱり悪かった。最悪の関係だ。口をきかないならまだしも、会えば罵倒しあい、つかみ合い、時には議場で殴り合う。
何がそんなに不仲にさせるのかと言えば「薩摩」であり「長州」であるからで、それ以上でもそれ以下でもない。
そんなものだから、井上が祝いの品など贈るはずもなく、黒田派がこの壷が嫌がらせの類であると理解するのに、さほど時を必要としなかった。
「いずれ近いうちに農学校に伺うとしよう」、そう井上は別れ際にそう言ったが、つまりそれは「この壷に、少しでも傷をつけてみろよ」と、の脅しである。ゆえに、普通にしているだけなのに「どうして、そんなに眠たい目をするのだ」と幼少のころから言われ続けている下がり瞼の両目で、源三は壷を見すえ続けていた。
ここが「普通」の部屋ならば、テーブルに置いて一件落着だろうが、いかにせん、ここは「普通」の部屋ではない。
───船室、海の上、東京品川から北海道箱館へと向かう、開拓使官船の中であった。
船の名前は「玄武丸」。明治政府が、開拓指導者ホーレス・ケプロンを通し、当時世界屈指の技術力を持つニューヨークの造船所に発注した、六百四十トンの旅船。
別名「ごろた丸」。丸太のように右にごろり、左にごろりと大きな波にあえば激しく揺れるので、船員らはそう呼んでいた。
テーブルが軋むたびに、源三は壷に手を添える。
では、なおさら箱や櫃に入れておかなければ、と思うのだが、それで安心していると井上の息のかかった者が乗船していて、隙ありと見て打ち壊さんと忍んでくるかもしれない。そこまでやるか、と思うところまでやりかねないのが井上馨である。
箱館まで海路、源三はひと時も壷から目を離すことができない。いまいましげに、壷を指で弾きたくもなる。
信じられるのは自分だけ。目の前の赤毛青年にも気は抜けない。
黒田から詳しい説明もないままに「古い友人だ。信頼おける」と北海道まで同室せよ言われたが……どうだか。
源三は若者を見た。
髪と同じく朱の着物に白袴。後ろで束ねられた赤毛の先、上下長いまつげに囲まれた瞳が黒曜石のように輝く。
そこには気の弱いものなら気死すら起こしかねない獣じみた光が宿っている。
身体は衣類の上からもはっきり察することができるほど鍛えあげられていた。
「何者だよ」
───思わず声に出してしまった。
囁く程度だったが青年には聞こえたので「いかがしましたか?」とかえされた。危険極まりない光を放つ双眸は細められ、今は微笑をたたえている。
顔を突き出し、訝しげに、まじまじとねめまわしていた源三は、はっとして身を戻し、大きく咳払いをする。
(……まぁ、急ぐことはない。箱館まではまだまだかかる。この者が何者かゆっくりと聞こうではないか)
まずは、何を訊ねようか、そう思案しているその時───ふたりのいる部屋の扉が勢い良く開かれた。
すわ、井上派が乗り込んできたかと源三は身構えたが、
「大変です、森監督! 甲板で人が騒いでおります」
同乗していた農学校職員のひとりが息せき切らして飛び込んできた。
北海道に渡る人々の多くが本州で職にあぶれ食いつめた者か、罪を犯して居場所を失った者たちである。みな新開地で一旗あげんと玄武丸に乗り込んでいる。当然、船内は殺伐として雰囲気は悪い。航海中もめごとのひとつふたつはつねに起こりうる危険性をはらんではいた。
この船には先日芝の増上寺での試験に受かった札幌農学校第一期入学生十二人が乗っている。学生監督の役にある源三には、彼らの身の安全を守らなくてはならない義務があった。
「子どもたちが巻き込まれたらまずい」
と、彼が甲板に向かおうとした、その時───床が激しく揺らいだ。
波に揉まれ、船体が大きく傾く。
テーブルの上の壷が跳ねた。
まるで生き物かのように宙へ飛びあがる。気づいた源三が手を伸ばす。
しかし、生を得たように壷は彼の指を巧みすりぬけ、床へと逃避した。
「しまった」
声をあげた時にはもう手遅れ。この高さからでは傷がつくどころか確実に割れ砕ける。
数瞬後に訪れる、耳朶打つ破裂音のために源三は目を瞑ってしまった。
───と、一陣の風が彼の頬を撫でる。
壷の悲鳴はしない。身をすくめていた源三はゆっくりと目を開ける。
そこには無傷の壷を抱えた赤毛の青年が立っていた。
(おいおい、嘘だろう───)
源三は目をしばたいた。もといたのはテーブルから五歩も六歩も離れていた場所であったのに、青年は一瞬で間を縮め、壷の落下を防いだ。
───常人の倍、いや三倍もの動き。人の身さばきとは思えぬ早業である。
「お、おぬし、何者だい?」
と、源三が問うより先に、
「早く生徒たちのもとへ!」
と、青年に扉を指される。その眼光は槍のように源三の胸に投げ込まれた。
「お、おう」
雷霆に打ち弾かれたように、くるりときびすを返して部屋から飛び出す源三。
(……あぁ、そうか。ヤツか)
甲板へと向かう階段を駆けあがる源三の脳裏に、ひとりの男の名前が蘇る。本名ではない。綽名、あまりに畏怖を込められた異名───
「……生きていたのか」
かつて長州の志士たちを佐幕派の刺客から刀で守った剣士。あの新撰組や京都見廻組を心胆寒からしめた男だ───
───明治の世となり、長州の手荒な陰の仕事に従事していた者が次々と粛清されていった。
神代直人、天童晋介、山城屋和助、岡田平蔵……長州の暗い秘部を消し去りたい井上馨の手により消された者は枚挙にいとまがない。このような者たちはみな、薩摩の黒田に庇護を求めて来ていた。
この赤毛の青年も井上に命を狙われているのだろう。かつては長州の剣士、いまは流浪の徒───
「人斬り───」
青年の名を出そうとしたとき、「その光景」が源三の目に飛び込む。
そのあまりの驚愕に、続きの言葉が喉にへばりついて声に出すことができなかった。
船上にひとだかりができている。人壁の先に、上半身裸で唄い騒ぐ無頼漢の輪が形成されていた。
そして───その者たち全員が、札幌農学校入学予定の生徒たちだった。
激しく踊り、唄い、叫ぶ。いつもならいさかいの種になるであろう、やさぐれ者たちも少年たちの荒々しさに気を飲まれ、今はただの見物人だ。
これからの北海道、いや日本国を背負っていくべき優秀な生徒たちが、街のゴロツキよろしくふるまっている。
源三は己の顔から血の気がひいていくのがわかった。立ちくらみすら覚える。このことが黒田長官の耳に入れば、少年たちはただではすむまい。
───黒田清隆とは、激情のひとである
以前、札幌農学校の前身、札幌学校の寄宿舎で酒を飲んで暴れた生徒たちがいた。その者たちひとりひとりを彼はステッキで立ちあがれなくなるほど打擲し、学校が一時閉鎖となる事態を招いている。これはなんとしても、目の前の暴挙を収めなくてはならない。
「やめるのだ、生徒諸君!」
と、声音を飛ばしてはみたが少年たちは源三に一瞥くれると、さらに大声をあげ、手を叩き、足を踏み鳴らす。
おかしなことよな
土佐の高知の
はりやま橋で
坊さんかんざし
買うを見た
よさこい
よさこい
ほいほい
相吟じ、合唱っているそれが土佐の民謡「よさこい節」とわかるや、源三の足先まで下っていた血が瞬く間に頭までうねり昇る。
「土佐っぽの踊りなどするな!」
よりによって、と奥歯をきしらせる。彼には土佐高知に怨みがった。
森源三は元越後長岡藩藩士であり、維新回天の世に「一藩中立武装」を唱え官軍にも幕府にも組せずに、長岡が戦乱に巻き込まれないように奔走した河合継之助の親族であった。
河合は官軍に中立する旨の使者を出したが、倒幕において薩長に遅れをとり、彼らに追いつこうと功を焦った土佐藩の岩村精一郎によって西郷隆盛ら首脳部に届くことなくはねつけられた。
───そして、長岡は攻撃を受けて戦塵と化し、河合はその中で戦死した。
「やめないか!」
憤慨と侮蔑を舌先にのせ、靴音荒々しく源三は放歌高吟の輪の中に進む。
少年ひとりの背を力を込めて突く。甲板に音をたてて倒れ込む生徒。少年たちは踊りをやめて、一斉に源三を睨んだ。
茫洋とした容姿ではあるが源三も刀槍きらめき銃弾飛び交う戊辰戦争を生き抜いた武士である。若者たちの眼技には怯まない。
「これはどういうことか!」
喝声をあげると生徒たちの大半はおとなしくなった。
「説明を!」
さらに声高に言い凄むと少年たちはうつむき、視線を足元に落とす。
夢から醒めた、そんな表情であった。そそくさと脱ぎ捨てた自分の服を手に取る者もいた。
(これは誰か煽った者がいるな……土佐っぽか?)
出てこい、と言うまでもなく三人の生徒が前に出てきた。
黒岩四方之進。
内田瀞。
田内捨六。
三人とも土佐出身であった。みな南海人らしく、顔も服を脱いだその上半身も日焼けして黒く艶やかであった。
中でも四方之進は、農学校二期卒の内村鑑三に後年「パタゴニア人」(南米南部の現住民)に似ていると著書に記された異相の男。
炯々とした光を宿す大きな目と、黒光りした肌を持つ大柄な若者は、民話に出てくる巨大神「大地太郎法師」からとった「大地」というあだ名でよばれていた。
そのガイアは悪びれるどころか、肩をいからして歩を進め、源三の顔に息がふきかかるほど近づく。
「こいつ飲んでいるのか⁉︎」
源三は鼻をつまみそうになる。それほどまでにガイアの息は酒気酒精そのものであった。
「あぁん、『諸君らは将来、北の大地の発展をその双肩に担う貴重な資格を有している』とかなんとか言ったわりには、なかなかどうして船じゃぁ牛馬なみの扱いをしてくれるではないですかぁ、ねぇ先生さんよー」
口調がまるっきり無頼漢である。
「そうさ、明日の北海道の開拓を推し進め俺たちを物置のような船室に押し込めるなんてまったく信じられん!」
と、すかさずキヨと呼ばれている内田が叫ぶ。ロクこと田内も「そうだ、そうだ」と、わめくに至りいままで押し黙っていた少年たちが一斉にはじけ、異口同音で騒ぎだす。
玄武丸は甲板の中央に明かり取りがあり、その下が食堂ホール。それを囲うように一等船室が並ぶという当時としてはかなりモダンな作りであった。
しかし、この船をいずれ北海道と樺太を航海するために使おうと考えていた黒田は、発注の際に「堅牢ナルヲ要ス」と船内の快適さよりもオホーツクの荒波にさらされても堪えうる頑強さを優先させるよう命じた。
黒田が使う一等船室も、源三が使っている二等船室も簡素すぎるほどに質素な作りぐらいでさしたる問題もないのだが、生徒たちが入った三等船室は強度を高めた構造の都合上、船客の荷物と一緒か石炭と一緒かさもなければボイラーのそばの蒸し熱い部屋であった。
そしてどの部屋も狭く、暗かった。玄武丸が「ごろた丸」と呼ばれているのは先に述べた。あえて波に逆らわないことにより、船体に負荷をかけずに航行する仕組みになっている。
船が波に揉まれるたびに船室が傾き、荷がくずれて、石炭が飛び散る。とても正気を保ってなどいられない。だから、夜風に当たろうと甲板に出てきたのだ、と少年たちは主張する。
「……まぁ、たしかに一理はある」
生徒らの言い分を理解できないほど源三は頑迷ではない。
そのとおり、札幌農学校に入学する生徒は「日本の未来を築く」という言葉が修飾過大にならないほどみな優秀であった。入学者は、東京大学の前身である開成学校と、毎日英語で授業を受けている東京英語学校の者だけなのだから。
そんな秀才の彼らを使役獣扱いしているのだから不満がわくのも無理なからむことだ。下手に他の船客にからむよりはいいとさえ、源三は思ってしまった。
(だが、しかし……だ)
この船には黒田清隆がいる。彼の耳に届けば生徒ひとりひとりを殴り、蹴りつけ、海に投げ込むかもしれない。夜も遅い、黒田が深酒していたら、さらに事態は悪化する。
源三はふたたび顔を蒼く染める。黒田の「酒乱」は有名である。
後に総理大臣となるほどの実力を持つ薩摩の偉人はその人生における名誉の多くを、酒癖の悪さで失っていた。彼には昨年酔って妻を殺害したという嫌疑すらかかっている。ピストルを持ち出して学生たちを射殺する危惧すらあった。
最悪の想像をしてしまい、源三は身を硬くする。
農学校は閉校、彼は職を失う。
いや、そのことよりも黒田が獄につながれる可能性があるということが、彼の胸を締めつける。
源三にとって黒田清隆は恩人である。土佐藩に追い詰められるような形で新政府軍と戦わざるを得なかった長岡藩を、賊藩扱いせずに戦後寛大な沙汰を施すよう官軍首脳部にかけあったのは、当時参謀職にあった黒田であった。源三はじめ元長岡藩士の多くを教職員に採用したのも彼である。長岡藩だけではない。最後まで抵抗した会津藩や幕府側の多くの人間に職を斡旋した。
「おまえたちの言いたいことはわかった、だからまず部屋に戻れ」
気息を整え、親が子を諭すように、慈愛を持って源三は言う。口もとに微笑みを浮かべ、ガイアの双眸に己の視線を重ねる。「わかっている」、そう無言で伝えた。
ガイアも莞爾と笑う。いい笑顔だ、と源三は思った。
「はい、これ」
懐から手のひらと同じくらいの大きさのブリキの缶を取り出し、ガイアは源三に差し出す。
源三はガイアから手渡され丸いブリキの箱を開けた。
───うっ!
と、うめいて眉間に皺を刻む。鼻をつくほどの強烈な磯の匂いが吹き出してきた。
海上にいるのだから潮の香りはつねに鼻腔には入ってきていたが、この箱の中身から発せられるそれは尋常ではなかった。圧倒的な力強さでその場を支配する。
源三はあわててふたを閉めなおそうとした───が、生臭さの中に酒の匂いと柑橘類の香りを感じた。
箱の中身をあらためて見る。
桃色の肉片───ぶつ切りの魚の身のようなものがぎっしりつめられていた。
磯の臭み、酒の匂い、柑橘類の香りが混ざり合って源三の食欲を刺激する。
箸───はないので、指でつまんで口に放る。
爆発した。
大爆発。
口内で旨味が暴れ弾けた。味覚はもとより、脳髄まで痺れた。美味の極致、絶品の大炎上だ。
魚の肉片はカツオだ。カツオの内臓! コクのあるカツオの塩辛。
跳ねまわる旨みを、隠し味の酒と柑橘類───これは柚子!
甘みと酸味が塩辛の余韻となり、どこまでもあとを引く。
───食べたい! もっと食べたい!
源三は器へと指を伸ばす。突き入れ、つまみ、口の中へと放つ。
旨味の連打を浴びて、喉が不平を鳴らす。
……水を! いや、酒だ。酒をくれ!
そう声をあげそうになって、源三は我にかえる。
眼前のガイアがニヤニヤしていた。
「酒盗っていうんだ、それ」
言い置きざま、
「あ、よっちょれ、よっちょれ」
と、踊りながら少年たちの中へ戻り、再び騒ぎ出す。
キヨもロクも大声で唄いだした。二の句が継げないでいる源三を尻目に、十二人の生徒全員が再び「よさこい踊り」をはじめる。頭を振り、腕をあげ、足を投げ出す。
どこから調達したのか、かなり酒も飲んでいたので踊りはさらに躍動する。
余談ではあるが、平成三年から札幌市内でおこなわれている「YOSAKOIソーラン祭り」───三百チーム、四千人以上が参加するといわれるこの大きな祭りは、昭和二十九年からはじまった高知県の「よさこい祭り」とともに、もともと座敷踊りであった「よさこい節」が源流である。
その「YOSAKOIソーラン祭り」の発起人はガイアたちと同じく高知県出身の北海道大学生であったことも、またおもしろい事実だ。
酔いがまわり、踊りも唄もさらに激しさを増したその時───
「静かにしなさい!」
少年たちの唄声かきけすほどの「異国の言葉」が響く。
先ほどの源三の声以上に、生徒たちの鼓膜を震わせた。口を開けたまま、手をあげたまま、足をのばしたままで少年たちはその場に固まった。
「冷静に、みなさん」
響く英語は今度ゆっくりとした語調でうながす。生徒の輪を囲む人だかりの後ろから、ひとりの背の高い男が現れた。
頬からあご、そして口の上に整った髭を蓄え、黒の三揃いで長身を包んだ異国の紳士。
───ウィリアム・スミス・クラーク、その人である。
「これは、ミスター・クラーク。ご就寝のところ、お騒がせしてすみません」
源三はみずからの不手際で貴人を起こしてしまったことを恥じた。
明治政府が招聘したこの新しい札幌農学校の教師が、アメリカ出立から玄武丸乗船までかなりの過密行程をこなしているのを知っている。せめて、船上では充分な休息を与えたかった。
さらに頭を深く下げて詫びの言葉を続けようとするのを、クラークは片手を上げて制す。
「何があったのですか?」
尋ねながら、ゆっくりとした足取りでクラークは少年の輪の中に入ってくる。
突然の英語の声に圧倒され、塑像のように固まっている生徒たちの顔をひとりひとり見ていく。彼と少年たちの大きさは、頭ひとつ分、小柄なロクなどはゆうに頭ふたつ違う。
「ずいぶんと元気だな」
クラークはガイアの前に立った。
「わたしはクラーク。君の名は?」
「───く、黒岩四方之進……」
ガイアは東京英語学校出身である。外国人が珍しいわけでもないのに、クラークを前にすると、唾を飲み込むにも力が必要なぐらい緊張した。
心音が早鳴るのがはっきりとわかる。だが、地元土佐では「異骨相」という、とりわけ頑固者を指すあだな名をつけられているガイアである。
騒ぎを煽った張本人だからといって、「はい、すみません。わたしが悪うございました」と、そう素直に謝れない。
「北の地に文明を敷しくため海渡る我々を、荷物や石炭と同じく狭く暗い所に押し込むとは何ごとでしょうか! 我慢できずに、その思いを唄と踊りで発散しておりました」
ガイアは目線をクラークの青い目よりも上、さらに頭よりも一段高いところに飛ばして大きな声と早口の英語で説明する。
「このように日本男児を牛馬がごとく扱うのは、あなたがた『クソ野郎』の教育というものですか? 日本人はそんなに無知蒙昧ではありますまい!」
クソ野郎───もちろん「ファック・ユー」だ。
当時もいまも、英語圏の人々に対する禁句であることには変わらない。ガイアはアメリカ人教師の前でも怯まない自分の姿を仲間に見せたかった。
その実、肩は小刻みに震え、膝がいまにも溶けだしそうである。
クラークは表情を変えない。ガイアの英語は、内容はどうあれ、ネイティブに通じるほどの発音の確かさであった。聞き取れないはずはない……だか、反応はない。
沈黙───暫時、波の音が船の上を支配した。
───ガンッ!
肉を打つ音が鳴った。クラークの巌のような拳がガイアの横面を襲った。
痛みと驚きをないまぜにした表情を浮かべながらガイアはぐらりとその長軀をかしぐ。
赤く腫れあがりはじめた頬を押さえながら、
「殴ったね!」
と、クラークをにらみつける。
───と、そこへさらにもう一撃。熊のような平手が強襲した。
だが、二度目はまともに食らわない。子供のころからケンカなれしている彼は、クラークの手が頬に当たると同時に受け流して力を殺ぐためにあえて床へと倒れこむ。
すぐに身体を起こし、
「二度もぶった!」
クラークを見あげ、叫ぶ。
「親父にもぶたれたことがないのに!」
ガイア───黒岩四方之進、そして弟の周六───のち明治を代表する作家となる黒岩涙香の父は、土佐藩郷士の出身で学習塾を営んでいる。温厚な父は息子たちに手をあげることなく、懇々と言葉で叱りたしなめた。
しかし、この異国人はどうだ。腕力で人を制しようとしている。それが許せない。
「この暴力教師め!」とガイアは糾弾する───はずであったがその声を出すことができない。
彼のみぞおちにクラークの大きな靴がめり込んでいた。強烈な踏みつけであった。
息が詰まった。
口を激しく開閉する。
苦悶の表情を浮かべ、両手で空をかく。
クラークはさらにもだえ転がるガイアの横っ腹を蹴りあげる。
「つべこべ、つべこべ、なぜ、ごめんなさいと言えんのだ!」
踏みつけ突きあげるたびに、苦鳴のかわりにガイアはかすれた息をもらす。すでに抵抗する力は無い。だが、クラークはなお執拗に暴行を加える。
「……ひどいな」
源三は喉を鳴らし、表情を硬くした。 大人をこばかにして、少しは痛いおもいをしたらいいと思っていたがさすがにこれは行き過ぎだろ。これ以上黙認はできない。
まわりの誰も止めようとしない。仲間の少年たちも、周囲の大人たちもみな息を飲み込み、身をすくめ、ただただ異国人の鬼気迫る姿に驚懼している。
このままだとガイアが死んでしまうと、源三が踏み出したとき、おのれの横に赤毛の青年がいることに気づいた。
腰間には船室では差していなかった刀がある。
(一体、いつ!)
と、いう疑問の前に、
(こいつ斬る気か⁉︎)
と、驚く。
すでに鯉口を切り、青年はつっと刀身を抜こうとしていた。白刃が月光に照らされて輝く。
源三は赤毛の青年の両手を押さえた。
開校前にアメリカから招いた教師を斬ったとあってはとんだ醜聞、黒田清隆の失脚を画策している井上馨に餌を放り込むようなもの。
いや、それ以前にいまは混沌とした幕末ではない。戦乱は終わったのだ。人が人の命をそう簡単に奪うことなんてしてはいけない。押さえ込まれながらも青年は無言のまま、恐るべき膂力で刀を引いていく。
「おいおい、壷はどうしたんだよ! まさか部屋に置きっぱなしじゃないだろうなぁ!」
唾を飛ばしながら懸命に抜刀を阻止しようとするも、ついに切っ先があらわとなる。
と、その時───
「どうやら終わったみたいだぞ」
ふたりに声をかける者がいた。
いかつい軍服に身を包みつつも、書生のように飄然として瀟洒な雰囲気を漂わす男───黒田清隆である。
右手でその整った口ひげの先をなで、左手には例の壷を抱えていた。首を───鶴のようにその脆弱な細い首を持ち、壷をあおる。黒田は喉を鳴らす。壷には───酒が注がれていた。 すでに目が酒精でとけかけている。
源三は今日何度めかの顔面蒼白となり、目をつむった。
井上から嫌がらせを受ける。生徒は騒ぎ、外国人教師は暴れ、流浪剣士は刀を抜き、黒田は酒を飲んでいる。
「なんて日だ! 今日はいったいなんて日だ!」
とんだ厄日ではないか、と心の中で絶叫した。
どさり、という音が聞こえ源三は目を開き、音のほうを見る。完全に意識を失ったガイアをクラークは生徒の前に放り投げた。口からは泡をふき、痙攣している。足元に転がるガイアの無残な姿に少年たちは恐怖した。震えている者も少なくはない。そんな彼らにクラークは言い放つ───
「ビー・ジェントルマン!」
そして、たどたどしくもしっかりとした声音で日本語に訳した。
「紳士たれ!」
その言外に「きみたちをこれから、立派な大人として扱おう。ただし、恥ずかしい行動はしてはくれるな」という明確な威圧があった。
その視線には修羅場をくぐり抜けてきた者しか持ち得ない、原初的な凄みがある。事実、クラークは南北戦争では勇敢な戦士だった。当然、多くの人間の命を奪ってきている。害意を通り越し、殺意に近いものすら感じるクラークの眼光を受けて生徒たちは怯えた。
源三は横目でちらり黒田を見る。まだそう深くは飲んではいない。クラークの行動に対し、薄く笑いを浮かべているだけであった。
酔った黒田は凶暴だが、この外国人教師のほうがより兇悪ではないか。源三は背筋に氷塊を押しつけられた錯覚を覚えた。
冴えざえとした月明かりと、ねっとりとした波の音が甲板を支配している。
誰も声を出せない───
誰も動けない───
その静寂を破ったのは黒田であった。彼はクラークに問う。
「先生、いかがですか、日本の若者は?」
声の主が開拓使長官とわかると、鼻を鳴らしクラークは答えた。
「あえて言おう、カスであると」
───この言葉こそ「スープカレー」の萌芽であろうとは、このとき誰にもわかるはずはなかった。