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後編


 ――小さな女の子が泣いている。そのすぐそばに、大きな塊。漆黒の中に混じる赤が渦を巻き、時折それは少女の身体へ稲妻のように落ちる。

 いたい、やめて、と泣きわめく度、その赤い雷は強さを増して少女の身体を打つ。

 やがて少女はその法則に気付き、声をあげるのをやめた。止まらない涙を腕で拭い隠し、ただひたすら耐える。そうすれば、その大きな塊はチッと舌打ちをしてどこかへ立ち去るからだ。

 抵抗すればもっと痛い目に合う。だから、ただ耐えようと思う。それがいい、それが私の普通なのだと、少女の未成熟な脳に、心に、その記憶は植え付けられた。



「ただいまー」

 21時過ぎに帰宅してリビングのドアを開けた攷斗は、「あれ?」と小さく声を出す。

 電気は点いているのに誰もいない。

 リビングへ来る途中にあるトイレや浴室の明り取りから光は漏れていなかった。

 不思議に思い室内に入ると、ソファの上でひぃなが体を丸め、眠っていた。

(猫みたい)

 フッと笑顔が浮かぶ。寝顔を見ようと正面に回り込んで、攷斗が息を詰まらせた。

 ひぃなの肌に伝わる数本の涙を見たからだ。

 悲しい夢を見ているのか、涙はこうしている間にも新たに流れ落ちている。起こそうか迷ってやめて、床に座って頭を撫でる。

 二度、三度。

 その動きに誘導されたように、ひぃながゆっくり瞼を開けた。まぶしそうに細めた間から、焦点の合わない瞳が攷斗を見つめる。

「おはよう。起こしてごめん」

 小さく言うと、ひぃなは眠たそうにゆっくりとまばたきを繰り返し、覚醒しない声で話し始めた。

「…ごめんなさい…ごはん…まだ……」

「大丈夫、食べてきたから。帰るの遅くなってごめん」

「せんたくも、まだ、できてない……」

「大丈夫。俺がやるから」

「ごめん…なさい…」

 幼い子供のような口調で、ひぃなが新たに涙を流した。どうやら寝ぼけているようだ。

「別にいいんだって、甘えて。頼ってもらえるように色々がんばってるんだからさ」

「うん……」

 かすれた、甘えるような、聞いたことのない声色が耳をくすぐる。

 頭を撫でながらふと気付く。

「もしかして、熱、ある?」

 おでこに手を当てると、さほど冷たくない手のひらに熱を感じた。頬も熱い。

 そういえば二、三日前に、丁度良い味付けの料理を薄いと言っていた。そのときから熱があったのだろうか。

「ベッド行こう。そんで、熱計ろう? 起きれる?」

「ん」

 ゆっくりと身体を起こすが、少し揺れている。

 支えるようにして立ち上がらせる。薄いシャツ越しに触れる身体が熱い。

「部屋、入るね」

 引っ越し当日以来のひぃなの部屋は、とても綺麗に使われている。

 ベッドに横たわらせて、「すぐ戻る」とリビングへ移動した。確か付き合いで入れた置き薬の救急箱がどこかにあるはずだ。納戸をのぞいてすぐに見つける。中を漁って体温計と風邪薬を、冷蔵庫から常備している冷却シートとミネラルウォーターを取り出してひぃなの部屋に戻った。

 まぶたをとじてベッドの上で丸まっているひぃなに、そっと声をかける。

「ひな。起きてる?」

 手際よく冷却シートのフィルムを剥がしながら攷斗が問う。

「……ん」

 頬を赤く染めて、うつろな瞳で攷斗を捉えるひぃなの髪を流して、おでこにシートを貼り付けた。

「体温計、持ってきたけど……」

 ケースから取り出して電源を入れるが、受け取る気配がない。

「ちょっと…ごめん……」

 シャツのボタンをいくつか外して、隙間から滑り込ませて体温計を脇に挟む。

 なるべく見ないようにしているが、やはりどうしてもその内部は見えてしまう。幸い、というかなんというか、シャツの下にキャミソールを着ていたので、下着は見えない。

 腕を閉じて、正確に熱が測れるようにする。

(ちょっとこれ、なんの拷問)

 同居以前からだが、同居してから更に忍耐力を鍛えさせられている攷斗には、目の前のひぃなが甘い果実のように思えてならない。

(いやいや、相手は病人だよ)

 ペットボトルのキャップを開け、薬の用意をしてからベッドの側面を背もたれに床に座る。

 本棚にはファッション誌や少しの漫画と一緒に、ビジネス文書作成や経理、ペン習字のテキストが並んでいる。

(がんばってんだな)

 ピピピピッ、と同じ感覚で何度かアラームが鳴る。体温を計測出来た合図だ。

「何度もごめんね」

 入れたときと逆の手順で体温計を抜き取る。40度近い数字が表示されていて、ちょっとぎょっとする。

(よく耐えてたな)

「やっぱ熱あるね。薬飲んでほしいんだけど、ご飯なんか食べた?」

 ひぃながゆっくりと首を横に振る。

「食欲ある?」

 再度、同じ動き。

(うーん、まぁしょうがないか……)

「そのままだとつらいだろうから、薬飲もう?」

 ベッドに乗り、ひぃなの身体を抱きかかえ上半身を起こす。自分の身体を支えにひぃなの身体を固定した。

「手、借りるね」

 背後からひぃなの手を持ち上げ、ひぃなの手のひらに錠剤を落とす。

「飲める?」

 子供に投げかけるような優しい口調で攷斗が問いかけ、ひぃなの顔を覗き込む。

「ん……」

 力の入らない身体を攷斗に預けたまま、おぼつかない手つきで口に入れた。攷斗が支えるペットボトルを両手で持って、水で薬を流し込む。

「着替えられる? そのままだと寝づらいよね」

 ゆっくりと、うなだれるようにうなずいたので、ひぃなを寝かせてクロゼットからいつも着ている部屋着を出して渡した。

「今日はこっちで寝るね。布団持ってくるから、着替えてて。ゆっくりでいいから」

 テキパキこなさないと邪念が湧いてきそうで、ついつい口調が紋切り型になってしまう。

「気分悪くなったらすぐ教えてね」

 攷斗が部屋から出ると、ひぃなは怠い身体をもそもそと動かして着替えを始める。そこに自我はあまりない。ただぼんやりと、そう言われたからそうする、という信号が脳から体に伝達しているような感覚。

 シャツとスカート、少し汗ばんだ肌に張り付くストッキングを脱ぎ、ベッドの足元にまとめて置いた。枕元に置かれた部屋着に着替えて座ったままうつらうつらしていると、

「ひなー。入るよー」

 攷斗の声が聞こえ、少ししてから入室した。

 客用の布団セットを持ち込んで、ベッドから少し離れた場所に敷く。その光景を、ひぃなはぼんやり座ったまま眺めている。

「寝てていいよ? なにかあったらこれ押して」

 どこから持ってきたのか、ホテルのロビーにあるような呼び鈴を枕元に置いた。

「ごめん、ね…?」

 ひぃながかすれた声でようやっとつぶやく。

「全然? ここんとこ色々あったし…謝るのは俺のほうだし…。そばにいるから、ゆっくり休んで」

 小さく、ゆっくりと頭を横に振る。いつもより幼い表情。

「なにもしないから。寝てなって」

 寝かせようとベッドに腰かけひぃなの身体を支えるが、ひぃなはなおも首をゆっくり振りながら、ためらうように攷斗の腕を緩くつかんだ。

 熱い指先が地肌に触れる。

 攷斗はひぃなの上気する頬に、柔らかい果実に触れるように手のひらを添えた。

「……心細い?」

 揺れる瞳が攷斗を見つめて。しばらくして、ゆっくりとうなずいた。

 攷斗は優しく微笑んで、ひぃなの熱い身体をそっと抱き寄せる。

「そういうときは遠慮しないでいいから、教えてね? 困ったときは、たくさん甘えてよ」

「……ごめん……」

「怒ってるんじゃなくてね? さみしいなーって」

 頬から耳、そして頭を優しく撫でて、なだめる。

 熱で敏感になった肌に滑る攷斗の手の感触が心地良い。

 その感覚に溺れるように、それでいて熱に浮かされるように、頭の中に渦巻く言葉が勝手に音になって、口から出ていく。

「きらいに…ならない……?」

「うん。ならない」

 ひぃなを愛おしそうに抱いて、攷斗が困ったように笑う。

「ほんと…?」

「ほんと」

 思考が口から音になって出ていることに、ひぃなは気付いていない。夢の中でしゃべっているような感覚のまま、ひぃなが言葉を紡ぐ。

「わたし……」

 縁取りのぼやけた口調に気付いた攷斗は、黙って続きを待つ。

「わたし…ほんとの、おくさんに、なれるかな……」

 意外すぎる発言に、攷斗が目を丸くした。

「……なれるし、なってほしいと思ってるよ」

 熱い頬を撫でながら、攷斗が穏やかに微笑む。

 ユメかリアルか、どこかの狭間にいるような表情のひぃなが、ゆっくりと身体を離し、上目遣いに攷斗を見つめた。

「…すき……?」

「……うん。好きだよ」

 しっかりとひぃなを見つめて言った攷斗の返答に、ひぃながふにゃりと笑って、触れたままの攷斗の手のひらに頬ずりをした。

(かっわいい……!)

 病人じゃなかったらこのまま押し倒してたところだ。あぶない。

「今日も、これからもずっとそばにいるから。いまは、ゆっくり休んで?」

 ひぃなは嬉しそうに微笑みながらゆっくりうなずいて、攷斗に支えられながら身体を横たえる。片方の手を繋いだまま枕に頭を乗せると、安心したように瞼を閉じて寝息を立てた。

(熱が下がったら覚えてないんだろうな)

 それでも、怖くて触れることの出来なかったひぃなの本心が少し見えた気がして、攷斗は嬉しかった。

 ほどなくしてひぃなの手の力が緩む。布団を掛け直してホッと息を吐く。

(すげぇ好きだなー)

 持ち込んだタブレットで仕事の進捗を確認しつつ、時折ひぃなの様子も確認しながら、自分の気持ちも再確認する。

(いい加減、本気で気持ち伝えないとダメだな……)

 気持ちもそうだが、何より攷斗を度々襲う煩悩を抑えるのにも限界が見える。婚姻届を出してから半年あまり。契約上の夫婦を装って(・・・・・・・・・・)いるから、いまだ身体の関係はない。むしろ、これからもあるかどうかはわからない。


 お互いの気持ちを確認して、名実ともに夫婦になってから。


 婚姻届を出すとき、攷斗は密かに自分に誓った。

 でないと、いつひぃなを傷つけてしまうかわからなかったから。



 入社してすぐ、各部署への挨拶回りで案内された事務室がひぃなとの出会いの場だった。出会って一秒も経たないうちに好きになっていた。いわゆる一目惚れというやつだ。

 一通りの経験と貯金が貯まったら退職して自社ブランドを立ち上げるつもりで入った会社。だから、長居するつもりも、ましてや深い人間関係を築くつもりも更々なかった。

 けれど。

 ひぃなとの関係が終わってしまうのが嫌で、なんとか縁を繋げようと必死だった。

 デザイン部と事務部は部屋のある階が違う。営業なんかと違って頻繁に足を運ぶような業務的用事もない。

 一緒に入社した紙尾が事務部に配属されるのを知って、どうにか個別に連絡がとれるように出来ないかと協力を仰いだ。

 メッセのIDを交換して、いずれ独立するときに識っておきたいから、と、事務のスキルを習った。

 本意は別にあったが、それはそれで本当に知識として持っておきたかったので、かなり助かった。

 お礼に、と食事に誘ったり、相談がある、と呑みに誘ったりすれば、気さくに応じてくれる。でも、それはただ“後輩”としてしか見られていないからだ、と痛感していた。

 出会った頃からずっと、ひぃなの左手の薬指にアラベスク模様の指輪が輝いていたからだ。

 結婚はしていないが長く付き合っている恋人がいる、と堀河しゃちょうから聞いたことがある。外されることのないその指輪の意味。上書き出来ない【一番】の相手。

 攷斗の入社から五年、結婚したという話を聞かぬまま、指輪は定位置から姿を消した。

 明るく、普段通りにふるまってはいるものの、ふとした瞬間に出る影を帯びた表情を見て察する。同時に、チャンスが来たと思った。

 このまま同じ会社でただの後輩として存在していてはダメだ、と。

 兼ねてより準備はしていたものの実行に踏み出せなかった“独立”を堀河に相談してみる。

 堀川にはかなり惜しまれたが、うちの会社に収まるような器じゃないわよね、と笑って、退職までのスケジュールを組んでくれた。開業に必要なノウハウまで教えてもらって、正直堀河しゃちょうには頭が上がらない。

 退職当日。退職届を持って社長室へ出向く。

 堀河しゃちょうは「ちょっと二人で話したいことがあるの」とお付き秘書を退室させた。

 何を言われるかと身構えていたところに、「ちがってたらごめんね」と前置きをして話し始めた。

「ひぃなのこと、お願いします」

 頭を下げられ、戸惑った。

「不躾でごめんなさい。好き…なのよね?」

 不意打ちに顔が熱くなる。否定はしないが肯定も出来ないでいる攷斗に、堀河は静かに続ける。

「ひぃなから聞いてると思うけど、幼馴染なの、私たち。高校のときからだから、もう二十年……もっとか」

 無意識に読んだサバに、堀河が笑う。

「ひぃなは親御さんのこととか色々あって、辛い思いたくさんしてね? それでも、恋人ができて、婚約したって聞いて、やっと幸せになれるんだって本当に嬉しかった」

 だけど。

 堀河は続ける。

「男のほうにね、“本当に好きな人ができたみたい”、って」

 攷斗は体の内側から熱を感じた。この感情は、怒りだ。

「“しょうがないよねー”って笑って言われて、なにも言えなかった。しばらくはなにをしててもどこか寂しそうで、表には出してくれないから、私ももうなかったことにするしかなかった。でも、最近やっとね、ちゃんと笑うようになったの」

 うつむきがちに語っていた堀河が顔をあげ、真っ直ぐ前を見つめた。

「棚井のおかげ」

 予想していたものの、実際名指しにされると心臓が跳ねた。

「前から棚井の話は聞いてたけど、ここのとこ、頻繁になってきてて。あなたが会社からいなくなるのも、飛躍のときだって喜んでたけど、同時にとても寂しがってた」

 言葉とは裏腹に、堀河は心なしか嬉しそうに笑っている。

 攷斗は何も言わず、ただ堀河の言葉を脳にインプットしていた。

「あの子、素直じゃないから、あなたのこと気付かって、自分の気持ちを見ないようにしてると思うのね? あなたの人生はあなたが決めることだけど、できれば、ひぃなを、お願いします。

 頭を下げる堀河に

「もちろん」

 攷斗が言う。

 顔をあげた堀河を、攷斗は決意の籠ったまなざしで見つめた。

「そのための独立でもあるんです」

 その言葉に堀河が目を丸くして、泣きそうな笑顔を見せる。

「――――」

 息を吸って何か言おうとして、うまく言葉が出てこなかったのか小さく息を吐いた。

「協力できることあったらなんでも言ってね。会社のことも、ひぃなのことも」

「頼りにしてます」

 それから月日は流れ、ようやく堀河との約束を果たせるときがきた。

 だから攷斗にとって堀河は、どこか盟友のような関係で、それでいて頭があがらない。



 タブレットから顔をあげて振り返ると、熱に頬を染めながら寝息を立てる最愛の人がいる。

(あきらめないで良かった)

 冷却可能時間が終わるまで余裕のあるシートが高熱のせいで乾き、収縮している。そっと剥がして、新しいシートを貼る。

 頬に触れるとまだ熱いが、眠る前よりはましになったようだ。

 タブレットの上部に表示された時刻は、日付が変わるあたり。

(俺も寝るか)

 布団に入る前にもう一度ひぃなの様子を確認して、横になる。

 同じベッドに入ればすぐに様子を窺えるが、二人で寝るには狭いシングルベッドの上に、いよいよもって何をしでかすかわからない。

 耳心地の良いひぃなの寝息に呼吸を同調させてみる。

 あと数十センチの距離にもどかしさを感じながら、ゆるやかに眠りについた。


* * *


 ヴ―…ヴー…ヴー…。

 遠くで振動の音がする。それはいつも聞く、朝の合図。

 瞼を開けていつもと違う景色に少し戸惑うが、一瞬あとにひぃなの部屋で眠ったことを思い出す。

 のそのそ起きて、ひぃなの様子を見る。昨日より頬の赤みは引いている。とはいえ、寝ている女性の脇に勝手に体温計を突っ込むわけにもいかない。

(起きてからでいいか)

 眠気覚ましに顔を洗おうと、布団をたたんでリビングへ置き、そのまま洗面所に行く。身だしなみを整え、部屋着に着替えてからひぃなの部屋へ戻った。

 まだ寝息を立てているひぃなの頬に触れる。もう体温はそこまで高くない。役目を終えた冷却シートをはがしていると、ふと気付いたようにひぃなが目を覚ました。

「あ、ごめん。起こしちゃった」

「ううん……おはよう……」

「おはよう」

 まだぼんやりとした喋り方に、完治していない感が見える。

 ケホケホと軽くせき込むひぃな。声も少し枯れている。

「のど乾いた? 起きれる?」

「だいじょぶ……」

 ひぃながゆっくりと動いて、自力で上半身を起こした。

「はい、お水」

「ありがケホン」

 語尾が咳に消されてしまう。常温になった水を飲むと、食堂から胃に流れている感覚がわかる。熱で蒸発した水分が戻って染み込むよう。

「熱計って?」

 すでに準備が出来た体温計を渡されたひぃなが、攷斗から隠れるようにして脇に挟んだ。夕べと違い、だいぶ自我が戻っていているようだ。

 昨日よりもしっかりした動作に、攷斗が少し安心したように微笑む。床に座り、ベッドに頬杖をついて、まだ少し眠たそうなひぃなを見守る。

 数分後、熱を計り終えた合図のアラームが鳴った。

 ひぃなが自ら確認して、攷斗が差し伸べた手のひらに乗せる。

 攷斗が表示画面を確認すると、熱は37度台に落ちていた。息を吐き微笑んで、

「今日、もう一日寝てなよ。社長には連絡しておくから」

 体温計を片付けながら言った。

「自分でできるよ、だいじょうぶ」

「そう? そうだ、おなか減ってない?」

 小首をかしげながらおなかをさするひぃな。

「……少し……」

「じゃあ、おかゆかおじや作ってくるね。食べたら薬飲もう」

「いいよ、自分で」

「いーから」

 立ち上がりながら、ベッドから降りようとするひぃなを制す。

「……お願いします」

「うん。たんぱく質入ってるほうと入ってないほう、どっちがいい?」

 一瞬なんのことかわからず、以前“卵焼きで手軽に美味しくたんぱく質を摂取したい”と言ったことを思い出す。

 少し笑って、「入ってるほうで」依頼した。

「おっけー」

 攷斗も同じように笑って、キッチンへ移動する。

 枕元の床に置かれていたバッグからスマホを取り出し、堀河にメッセを入れる。すぐに既読が付いて、「おっけー! お大事に!」と返信が来た。

 思いがけない休日に、少しの罪悪感を抱くのはワーカーホリックの始まりだろうか。

 夕べの記憶はほとんどないが、ただ身体が怠かったのは覚えている。それよりはマシになったので、少し動きたい気分だ。

 迷惑かなぁ、と思いつつ、キッチンへ向かうと、攷斗がシンクに向かい作業をしていた。

(新鮮……)

 いつも攷斗がそうしているように、ひぃなも攷斗の背中を眺めてみる。

 土鍋をコンロに置いて、ボウルに卵を割り入れているところだった。

「IH用なんてあるんだ……」

 つぶやいたその言葉に攷斗がビクリと反応して、ゆっくり振り向いた。

「……びっくりした……」

 よほど集中していたのか、ひぃなが背後にいることに気付いていなかったようだ。

「ごめん」

「大丈夫だから、寝てなって」

「…見てたいんだけど……邪魔?」

 普段あまり見せないひぃなの甘える姿に、うっ、と言葉を詰まらせ

「邪魔じゃないけど、恥ずかしい。いやまぁ、いいけど」

 楽しいもんでもないと思うよ? と言いつつ、攷斗は止まっていた手を動かす。

「あとは少し煮るだけ……」と、ひぃなの足元を見た。「スリッパ履きなよ」

「苦手なんだよね……」

「フローリング冷たいし、足冷えちゃうでしょ」

 はい、と自分が履いていたそれを脱いで渡した。

 ひぃなは照れながら足を入れる。

「あったかい」

 思わず笑みを浮かべるひぃなに、

「温めておきました」

 と、照れ隠しにどこかの家臣のような言葉を投げて玄関先へ移動し、新しいスリッパを履いて戻ってくる。ついでに自室から取ってきたらしいカーディガンをひぃなの肩からかけて、何も言わずにコンロの前に立った。

「いい頃かな」

 結婚情報誌の付録だった鍋つかみをはめ、よっ、と土鍋の蓋を開ける。湯気と共に出汁としょうゆの香りがあがった。

「いいにおい」

 くうぅ…とおなかが鳴る。

 聞き逃さなかった攷斗がふふっと笑って、

「リビングで食べる?」

 ひぃなに問いかけた。

「うん」

「俺も一緒に食べよ」

 そのつもりで大目に作ってある。

 コンロの電源を切って、両手に鍋つかみを装着して土鍋をリビングへ持って行く。気付いたひぃなが小走りに先回りして、鍋敷きをテーブルに置いた。

「忘れてた、あぶね。ありがと」

「うん」

 その上に土鍋を置くと

「あとはやるから座ってて」

 ひぃなに着席を促す。

「はぁい」

 ひぃなは素直に従って、ソファへ座った。足を床から上げて、攷斗の温もりが残るスリッパを眺める。

 まだ熱があって時折ぼんやりとするひぃなの脳内に、言葉が浮かぶ。


 Q:なんでそんなに優しいの?

 A:だってひなは俺のヨメだから。


 予想出来る回答に質問を投げるほど、かまってちゃんではない。


「はい、おまたせ~」

 お椀とカトラリー類、小鉢とお茶の入ったグラスをそれぞれ二人分トレイに乗せて、攷斗がそのままテーブルに置いた。

「すっぱいの平気だよね?」

 別途置いた小鉢には、いくつかの梅干しが入っている。

「うん、好き」

 レードルを土鍋に立てかけ、レンゲの入ったお椀とコップを各々の前に配置する。

「はい、どうぞ」

「ありがとう。いただきます」

 手を合わせて小さくおじぎをする。土鍋からお椀に移したおじやを、冷まして口に運んだ。

「おいひい」

 目を細めて嬉しそうにつぶやくひぃなに、攷斗は安堵の息を漏らした。

「良かった。俺も食べよ。いただきまーす」

 ひぃなと同じようにして、攷斗もおじやを口に運ぶ。

「うん、上出来」

 うなずきながらご飯を食べる攷斗を見て、ふと気付く。

「お仕事、時間大丈夫?」

「ん? うん。大丈夫。今日は家でやるって連絡入れたから」

「いいの?」

「いいよ? 今日は打ち合わせもないし、出社しても気が気じゃないだろうし」

「…ありがとう…」

 寝込むほどの高熱を出したのなんて久しぶりで、正直心細かったので有難い。

「あ、無理に食べなくていいからね?」

「うん、大丈夫」

 一回目と同じくらいの量をお椀に注いで

「このくらいで足りると思う」

 攷斗に告げた。

「うん。じゃああと全部食べちゃうね?」

「うん。お願いします」

「はーい」

 返事をして、攷斗がおじやをざこざこかきこむ。

「ん」

 と何かに気付いたように言って、口の中のものを飲み込んで攷斗が続ける。

「食べ終わったら薬飲んでね」

「うん」

「腹減ったらまたなんか作るから」

「うん」

 攷斗の食欲のおかげで、土鍋の中はもうほぼカラだ。

「……おなか減ってたの?」

「そうみたい。自分でもビックリしてる」

 笑いながら攷斗が言う。

 昨夜は打ち合わせを兼ねた食事会で、そのときしっかり食べたのだが。

「「ごちそうさまでした」」

 二人で同時に言う。

 トレイに使用済みの食器を乗せながら

「薬、昨日の残りがベッドサイドのチェストにあるよ。持ってこようか?」

 攷斗がひぃなに言った。

「ううん、大丈夫。飲んでくる」

 ペットボトルの水もそのままあったはず、と薄い記憶を辿って返答した。

「ん」

 穏やかな笑みで攷斗がうなずく。

 自室に戻って、薬を飲んだ。肩からかけられた攷斗のカーディガンに、サイドチェストに残った看病の痕跡に、じわりと胸が熱くなる。

(また言われるかな……)

 と思いつつ、攷斗が片付けをしているキッチンへ、今度はしっかりスリッパを履いて向かう。

 先ほどと同じ位置でシンクに向かう攷斗の背中を眺めようとするが、気配を察知したのか攷斗がすぐに振り返った。

 少し困ったように笑って「寝てていいよ」優しく言う。

「うん……」

 でも、いまは攷斗を見ていたい。

 動こうとしないひぃなに

「もー」

 困って、それでいて嬉しそうに小さく言うと、シンクに向き直る。

 洗い終えた食器を水切りラックに全て入れて「よし」手を拭いた。

「ひなの部屋で仕事するから、ひなは寝ててください」

 笑いかける攷斗に

「うん」

 嬉しそうにひぃなが返事をした。



 攷斗の看病のおかげで夜には熱もすっかりひいて、日常生活が出来るようになった。



 翌日、通常通り出社して帰宅したひぃなを、攷斗が出迎えた。

「あれ? 早いね。今日もおうちでお仕事?」

「うん。ちょっと、ひなに伝えたいことがあって」

 いつになく真面目な顔で攷斗が言った。

「な、んでしょう……」

 ドキリとギクリ。

 期待と不安が入り混じった動悸を感じて、血が廻ったり血の気が引いたりして一瞬めまいがする。

「とりあえず、座ってよ」

「うん……」

 おなかの中が冷えるような感覚。

 いつか別れを告げられたときと同じそれ。

 熱に浮かされて何かしでかしたかと考え、ギュッと肩にかけたバッグの持ち手を握りながら重い足取りを進めていると、

「あ」

 と攷斗がひぃなを振り返った。

「別れ話とかじゃないからね?!」

 何故か重くなった空気を察知して、先に可能性を閉ざした。

 見透かされたような気分になるが、同時に安堵もする。

「……そっか……」

 間の抜けたような返答しか出来ない自分に少し呆れてしまう。

「そんなの俺からは絶対言わないから、ひぃなからも言わないでよ?」

 少し怒ったような口調で攷斗が言って前を向く。

「…うん…」

 ひぃなは少し照れくさくて、うつむいて攷斗に続いた。

 先にリビングへ入った攷斗がソファに座り、その隣を手でポンポンと叩く。ひぃながそこへ座ると、攷斗が口を開いた。

「相談したいことがあって」

「うん?」

「いままで俺、仕事では顔出ししてなかったんだけど」

「うん」

「ひなにもやっと言うことができたし、不便なこともあったりしたしで、公表、しようかなと思って」

「…うん」

 驚いて、目を丸くして、でもひぃなは否定をしない。

「もしかしたらその流れで色々詮索されるかもしれないし、ひなにもなにかしら影響があるかもしれないから、相談、なんだけど」

「うん。いいと思う」

「え、そんなあっさり」

「コイトさんのレベルならもう心配ないと思うけど、信用問題とかやっぱり、開示できる情報はしておいたほうがいいと思うし」ついつい仕事目線になってしまう。「コウトがいいなら、私が止めることはしないよ」

「うん。ありがとう」

「名前は?」

「代表者の名前をそもそも俺の本名で登録してるから、ペンネームみたいな感じで今まで通りやってくつもり」

「そっか。応援します」

「ありがとう」

「コウトは顔もかっこいいから、女性のファンの人増えるかもね」

「えっ」

「あ、デザインももちろん素敵だけどね? そういうの重視してる人も少なからず存在するから」

「いや」

「ん?」

 あまりにもナチュラルすぎて本人は至って気にしていない様子だが、攷斗はひぃなに容姿のことをストレートに褒められた記憶がない。

 自分で聞き返すのもどうかと思うが、もう一回褒めてもらいたい気持ちもある。しかし。

「なんでもない」

 ナチュラルに出たからにはきっと本心であろうその言葉を胸に刻み付けて、後追いをやめた。

「特にないとは思うけど、迷惑かけるようなことがあったら教えてね。対処します」

「ありがとう。なにかあったらお伝えします」

「うん。あー、安心したらハラ減った。手伝うよ、なにからしようか」

「今日はもう下ごしらえできてるから、あと焼いたりするだけだよ」

「え、マジで? 今日なに?」

「今日はねぇ、お味噌を使った和風タンドリーチキンと、温野菜サラダとわかめとお豆腐のお味噌汁。と、白いご飯」

「あー、もう、幸せ」

「それは良かった」

「手伝うね」

「うん、じゃあねぇ……」

 言いながら、二人並んで夕食を作る。下ごしらえ効果もあって、通常よりもだいぶ早く支度が完了した。

 夕食を食べ終わりくつろいでいると、隣でタブレットをいじっていた攷斗が「うわマジか」とつぶやいた。

「どうしたの?」

「これ」

 そのタブレットにはネットのニュースサイトが表示されている。

「えぇ?」

 そこにツナミの写真が掲載され、そのすぐ下に『トップモデルがIT系社長と婚約』という見出しが書かれていた。

「…………」

 二人とも言葉がすぐに出ず、顔を見合わせてしまう。

「これの報告しに来たのかな」

「いやいやいや……」

 攷斗の予想にひぃなが苦笑する。

(たぶん)

 ここからはひぃなの予測。

 ツナミは攷斗に好意を抱いていて、“IT系社長”との婚約を決める前に、攷斗の気持ちを確認しに来たのではないか――。

(たぶん…ね)

 それが真実かどうかもわからないし、本人以外から伝えることでもないと思うので、攷斗には言わない。

 きっと婚約に至るという結果は同じだったろうけど、宙ぶらりんな気持ちに決着をつけるかどうか、その点が大事なのだ。

「会社でなにかお祝い出さなきゃ……」

 攷斗は後頭部を掻きながら、タブレットのメールアプリを開いた。



 “コイト・ウタナ”の自社ホームページに代表取締役社長として攷斗の顔写真が掲載されるや、ネットニュースで話題になり、SNSで瞬く間に拡散されていった。

 その中でも多いのが『社長イケメン!』『コイトさんファンになった!』『ウタナの服めっちゃ買う!』といった書き込みだった。

 苦笑気味の攷斗にそれを報告されたひぃなも、攷斗と同じように顔が苦み走っていく。

「迷惑かけるようだったら、すぐ教えて。電話も可」

「はい」

「結婚してることは特に公表してないから大丈夫だとは思うけど」

「はい」

「この感じだとバレるのにそう時間はかからないかと」

「はい。同様の見解でございます」

 二人で顔を見合わせ、正真正銘の苦笑を浮かべる。

「いや、予想外だった」

「んー、まぁ、ね」

 ひぃなはある程度予想が出来ていたが、それにしても規模が大きすぎる。

 ニュースサイトの投稿についた転用拡散やお気に入りの数は、万を数えていた。海外でも名の通るブランドが故、それは海外ユーザーからも大きな反響を得ているようだ。

「宣伝になるのはありがたいけど、なー」

 攷斗はどこか複雑そう。

「少し落ち着けば、ホントにウタナのデザインが好きな人が残るか、デザインも好きになってくれる人が残るよ」

「ポジティブだね」

「だってウタナのデザイン、本当に素敵だから」

「……ありがとう。俺が手掛けたデザインじゃないのもあるけどね」

 照れ隠しに小憎らしいことを言う。

「私が着てるやつは?」

「ひなが持ってるのは、俺が視た限りでは、ほとんど俺のだね」

「そうなんだ」

 ウタナのデザインにはいくつかの特徴がある。メインはいわゆる“オフィスカジュアル”系で、ひぃなの手持ちはほとんどそのラインだ。

 砕けたカジュアル系や少々奇抜なものも扱っているが、さすがに体系や年齢を選ぶ。

「実はうちのデザインの服って、タグが何種類かあるんだけどさ」

「あ、色違うやつ?」

「そうそう。さすが」

 攷斗曰く、タグの布地の色で誰がデザインしたかわかるようになっているそうだ。攷斗がデザインしたものは何色のタグが付いているのか聞いてみたが、

「ナイショ」

 語尾に音符マークかハートマークが付くような口調で、真正面からはぐらかされた。

 自室に戻った際確認してみたが、ひぃなのクローゼットに入っているウタナの服は、黄色地のタグが付いた服が大半だった。

 試しに数日間、タグの色を確認しながらウタナの服を着てみると、攷斗の反応の違いに気付く。

(わかりやすくて可愛いな。わざとかな)

 おそらくは黄色タグが攷斗のデザインなのだろう。それを着たひぃなを見る目の優しさが物語っている。

 “目は口程に物を言う”とは良く言ったものだ、なんて、ひぃなは少し親父臭いことを考えた。


* * *


 梅雨が明けないまま、暦の上では夏にさしかかる。

 7月には攷斗の誕生日がある。

 これまではその日周辺で都合が合うときに外食をしていたが、もうそうしなくても良い。

 昼休憩に入り、出勤時に買ってきたサンドイッチを事務部で食べながらスマホを眺めるひぃなの脳内では、7月の“その日”のシミュレーションが繰り広げられている。

(少しかしこまったレストランで食事も悪くないなー)

 なんて思うが、攷斗がそれを良しとするかがわからない。

(そういえば……)

 以前シェアしたレシピの中に、普段ではあまり手がつけられない、凝ったごちそう料理が入っていることを思い出した。

(ふむ……)

 【お気に入り】されたレシピをもとに、当日の献立を考えてみる。

 とはいえ、攷斗の予定を聞いてみないことには、いくら頑張っても空回りで終わってしまう。スケジュール帳を開いて曜日を確認。

(土曜だけど、仕事だったりするかな)

 スマホのアプリで当日のスケジュールを表示させた。お互いが聞かなくてもある程度の予定がわかるようにと、カレンダーの予定を同期しているので、確認もスムーズだ。

(お休みになってるな……)

 急に仕事の予定が入ることもあるが、そうなってしまったら翌日に繰り越せばいいだけの話だ。

(よし……!)

 今度は社内に共有されている社員のスケジュールを確認した。堀河はこの時間、予定では取引先と会食になっている。

 うーん、と悩むが、話は早いほうがいい。

 宛先を堀河のアドレスに、CC欄に秘書二人のアドレスを入れて、有休取得希望のメールを出した。

 ほどなくして熱海から『予定変更いたしました。ごゆっくりなさってください。秘書課 熱海』と返信があり、無事受理された。

(それじゃ……)

 と、いつもつかっている生鮮食品などの通販サイトで材料を見繕う。

 日常で使えるものから少し高級な食材、変わった調味料などが取り扱われているので、眺めているだけでも楽しい。

 愛用の手帳に書きだした献立を元に、必要な食材を【欲しいものリスト】に追加していく。

 日付が近くなったら正式に購入手続きをするつもりだ。もちろん、自分のクレカ払いで。

(なんだか楽しくなってきたぞ)

 ウキウキしながら、午後の業務にとりかかるひぃなであった。



 帰宅して、毎日恒例の夕食を作りながら攷斗の帰りを待つ。

(なんて切り出そうかな)

 考えていると、玄関から「ただいまー」と声がした。

「おかえりー」

 IHコンロの電源を切って、玄関へ向かう。

「お疲れ様」

「ひなも、お疲れ様」

 いつものように途中で自室へ入る攷斗と分かれてキッチンへ戻る。

(「今年の誕生日さぁ~」……「コウトは来月一週目の土曜って~」……それとも当日ビックリ~……いや~)

「なんか手伝う?」

 考えあぐねていると、背後から攷斗が声をかけてきた。

「ありがとう。盛り付けるので、お皿運んでください」

「はーい」

 言って、攷斗がカウンターに乗った皿を運ぶ。

 今日のメニューは具だくさんのナポリタンと茹でた鳥のささ身と水菜のサラダ、ニンジンと玉ねぎのコンソメスープ。

「うわー、家のナポリタンとか何年ぶりだろう」

「たまに食べたくならない?」

「なるなる。焦げがめっちゃ美味そう」

「なによりです」

 攷斗はいつになっても事ある毎に褒めてくれるので、何かにつけてやる気が出て有難い。

 そんな攷斗と婚姻関係を結んでから初めての誕生日は、日ごろの感謝も込めてやはり豪勢に祝いたい。

 会話と夕食を楽しんでいると、

「そうだ、来月の最初の土曜なんだけどさ」

 攷斗が唐突に言った。

「うんっ?」

 そのことについてさんざん考えていたところなので、さすがにビックリする。

「何の日か覚えてる?」

「誕生日、でしょ?」

「そうそう。あー良かった。忘れられてたらどうしようかと思った」

「忘れるわけないじゃない」

 忘れるどころか、ここしばらくはその日のことばかり考えていた。

「良かった。その日、予定空いてたら昼間どこか一緒に行かない?」

「うん、行きたい」

「やったー。誕生日当日の昼間に会うって初めてじゃない?」

「そうだね」

「だからどっか行きたいなーと思って」

「いいねぇ。どこがいいかな」

 かなりの時間と想像力を使って探していたことはおくびにも出さず、さりげなく同意と聞き込みをした。

「食べ終わったら一緒に探そう」

「うん」

 空になった食器を片付け、お茶を淹れてひと段落すると、攷斗のタブレットで都内のデートスポットを探す。

 “東京”というワードと共に色々な語句を連ねて検索をかけ続けた結果、東京に住んでるのに行ったことないよね、という理由で、新旧二大タワー巡りにしようと決めた。

「土曜だと混むかな」

「まぁそれはそれでいいんじゃない?」

「そっか。そうだね」

「夕飯どうする? どこか予約しておく?」

「あ、それなんですけど。もし、嫌じゃなければ…お作り、いたします」

「えっ、マジで?! なにそれ最高じゃん。嫌じゃなければってなに」

「お誕生日のときくらい、プロが作った美味しいもののがいいかな~って」

「プロの料理にはプロなりの良さがあるけど、ひなの料理はひなにしか作れないし、それを食べられるのは俺の特権でしょ?」

「そう…なの、かな?」

 確かに、同居でもしていない限り、毎日のように手料理を振る舞う機会などない。

「そう、だね」

「でしょ? まぁ、ひなの手間にならない程度にね」

「うん。メニューは当方にお任せくださいませ」

「常に全信頼を置いております」

 二人でお辞儀をして、笑った。



 誕生日の前日、いつもは支度する時間になってもひぃながゆっくりしているのに気付き、

「あれ? 今日仕事は?」

 攷斗が不思議そうに聞いた。

「ごめん、言ってなかったね。今日はちょっと遅いの」

「そうなんだ。じゃあ俺のが先に出るのかな?」

「うん。久しぶりにお見送りします」

「ありがとう」

「帰りは?」

「たぶん、いつもと同じくらいに帰ってこれると思う」

「なんかあったら連絡ちょうだいね」

「ありがとう」

 攷斗が出社の支度をして、家を出るのを見送ってから、

「さて」

 攷斗に内緒で明日の夕食用の下準備を進める。

 とはいえ、すでに決めたメニューのうち、完成まで進められるのはケーキくらいだ。

 時間指定で発注した材料が無事届いたので出来る限りの下処理をし、当日調理する食材も一緒に冷蔵庫へ入れた。中を見てもパッとわからないように布巾で覆う。

(あとはプレゼント……)

 ネットで探してみたがピンとくるものがなく、仕方ないのでデパートで現物を見ながら決めることにした。

 ある程度アタリをつけていた店へ出向くため、外出の支度をして家を出る。平日の昼間に買い物に行くのは久しぶりで、ちょっとワクワクしてしまう。

(夏物の新作とかついでに見ようかな~)

 なんて思いながら自宅最寄り駅に晴雨兼用傘をさして向かう。

 電車で十数分程度移動すると、目的地である都内でも有数の大型ターミナル駅に到着した。

 平日の昼下がり。夏休みまでもまだ遠く、人通りが少ないので移動も楽だ。

 立ち並ぶデパートをいくつか回り、ネットで目星をつけたショップを転々とする。

(うーん、やっぱりアレかな~)

 いくつかのジャンルのものを見て、ひぃなはもう一度高級文具店に足を運んだ。



 夕食を食べ、お風呂に入る。テレビを点けると毎年恒例の超有名アニメの地上波放送が始まるところだったので、二人で一緒に視ることにした。

 本当は早めに寝たほうがいいのかなとも思うが、日付が変わるその時を一緒に迎えたいと思う。それはひぃなだけが思っていて、攷斗は特に気にしていないかもしれない。ただ、部屋に戻る気配もないので、攷斗に任せることにした。

 アニメを視終え、日付が変わるまで一時間弱。

 どうしようかなと考えていると、

「もう少し一緒にいていいかな」

 攷斗が切り出した。

 その申し出が嬉しくて、ひぃなははにかみながら

「もちろん」

 うなずいた。

 リビングでいつものようにくつろぎながら明日の予定を考えたりする。そうこうしているうちに24時を迎えたので、

「お誕生日おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 ソファの上で向き合って、お辞儀をした。

「ごめんね? 付き合わせて」

「ううん? 私も一番に伝えたかったから嬉しい」

 柔らかく微笑むひぃなに、攷斗はもう一度プロポーズしようかと思う。

 最初のときはひぃなの誕生日で、気弱にも“ケッコンカッコカリ”などと言ってしまったが、もう“(仮)”は不要だと感じていた。ハナから不要だったのだから、その一言を言わなければこんなにも悶々とする日々を送らなくて済んだかもしれないと早々に後悔していた。

 ひぃな、と名前を呼ぼうとしたが、

「そうだ。ちょっと待ってて?」

 それはひぃなの言葉にさえぎられた。

 ひぃなはソファを立って自室に戻ると、何かを後ろ手に隠して攷斗の隣に座り直す。

「いつ渡そうかと思ってたんだけど……お誕生日、おめでとう」

 包装紙に包まれた、長方形の小さな箱を攷斗に渡す。

「えっ、いいの?」

「もちろん。受け取ってくれないと悲しい」

 冗談めかして笑いながら伝えると、

「ありがとう」

 攷斗はとても嬉しそうにまなじりを下げて、その包みを受け取る。

「開けてもいい?」

「うん」

 攷斗が丁寧に包みを開ける。箱を開けると、革のペンケースが入っていた。

「うわ、素敵」

「中身も見てみて?」

「え? 中身?」

 不思議そうに言ってペンケースの蓋を開ける。そこには名入りの高級万年筆が収納されていた。

「えぇー! すごーい! 嬉しい!」

 丁寧に取り出して、全体を眺めたりキャップを外したりしている。

「前にボールペン渡したことあるから、ちょっと被っちゃうけど……」

「いやいや、嬉しい! ありがとう! しかも吸入式じゃん!」

 ペン軸を回して外し、攷斗が弾む声で言う。

 マニア心をくすぐれて良かった。

「こちら、インクと万年筆専用用紙が入っております」

 別に背中に隠していた小さな紙袋を渡す。

「えっ! すごい!」

 攷斗は少年のように瞳を輝かせて全てを取り出しテーブルに並べた。

「うわー! めっちゃ嬉しい! 大事に使います」

「喜んでいただけて良かったです」

「いますぐ使いたいけど、遅くなっちゃうかな」

「昼間渡したほうが良かったかな?」

「ううん、いつでも嬉しいよ。あー、もう。この嬉しさをちゃんと伝えられないのがもどかしい」

「大丈夫だよ、ちゃんと伝わってるから」

 終始満面の笑みだし声色も弾んでいるので、ひぃなが少し照れくさくなるくらい感情が溢れ出ている。攷斗は自分で気付いていないのか。

 大事そうに全ての物を箱や袋にしまいながら

「いやもう、いますぐ抱き締めたいくらい嬉しい」

 言って、思わず出てしまった言葉に攷斗が“しまった”と言いたげな顔を見せた。

 そんなことを言われて冷静でいられるほど、ひぃなは恋愛経験値を積んでいない。けれど、年に一度だし、この先も今日のように祝えるかわからない。

 どうしようか悩んで、でもこんな機会でもないと……と意を決して、

「……はい」

 攷斗のほうに向き直り、両手を広げた。恥ずかしすぎて、攷斗の顔をまともに見ることが出来ない。

 攷斗は一瞬戸惑った様子を見せ、次の瞬間ひぃなを優しく抱き寄せた。

 ひぃなは広げていた手を攷斗の背中に回す。冷房で少し冷えた体に攷斗の体温がじわりと伝わる。

 ハグに近いその抱擁は、しばらく続く。


(……きもちいい……このままひとつになれたらいいのに……)


 二人の心はひとつなのに、身体はまだ、そうなれない。

 もちろん、それが全てというわけではない。けれど、でも……。


 もどかしい思いを抱えているのは同じなのに、お互いの気持ちがわからない。

 言いたい気持ち。伝えられない言葉。届かない想い。


 あと一歩が踏み出せず、名残惜しそうに離れた身体は、また今夜も独りでそれぞれの部屋に戻るしかなかった――。



 翌朝。二人で少しおめかしして、攷斗の車で目的地へ赴く。

「お誕生日に運転させてごめんね?」

「いや? 運転好きだし、可愛い奥さんとドライブできるなんて最高じゃん」

 前を見ながら攷斗がニコニコと笑う。

「それならいいけど……」

 そう言いつつも、ひぃなはどこか申し訳なさそうだ。

「あ、じゃあさ、いっこお願い聞いてよ」

「うん。なに?」

「歩いてるとき、手ぇ繋ごう」

「えぇ?!」

 思っていたのとは違った方向からの要望に、ひぃなが驚く。

「ヤダ?」

「イヤじゃないよ。それでいいの?」

 正月や、昨日寝る前のこともあり、触れ合いのハードルが下がりつつあるひぃながあっさり快諾した。

「え? もっとすごいことお願いしていいの?」

「いやいやいや、それは追々……」

 つい言って、ハタと気付き恥ずかしくなるひぃなに気付かないフリをしているが、脳内攷斗は(“追々”だって!)と飛び跳ねる勢いで喜んでいた。

「そろそろ着くよ」

 フロントガラスの外に、大きくそびえたつ白いタワーが見えてきた。

「わー、でかい」

 近くの駐車場に車を停めて、二人で下車する。

「はい」

 差し出された攷斗の左手。その意味を読み取って、そっと右手を置いてみる。

 攷斗は嬉しそうに微笑んで、ひぃなの手を握った。

「行こっか」

「うん」

 まずは敷地内にある水族館へ入る。

 チケットが必要な施設はあらかじめひぃながデジタルチケットを手配したので、特に並ぶこともなくスムーズに入場出来た。

 入り口付近にあるクラゲの水槽をひとしきり楽しんで、浮世絵風の解説が付いた小さな水槽を巡る。

 大きな水槽の前のベンチで座ってしばらく魚の動きを楽しむ。

 施設の中ほどでは季節イベントの金魚コーナーが展開されていたり、かなり間近でペンギンの泳いでいる姿を見れたりと、かなり満足出来る施設だった。

 赤いほうのタワーへは、ライトアップが始まる頃に行く予定なのでまだまだ時間に余裕がある。

「昼にしちゃ遅いけど、軽くなんか食べる?」

「そうだね、ちょっとおなか減った」

 夕食には、ひぃなが前日から仕込んだお手製の料理が振る舞われるので、ここで満腹にしなくても良い。

 水族館が入ったビルの階下にあるフードコートで食べたいものを探す。

「普段食べないようなのがいいな~」

 食いしん坊の攷斗は瞳を輝かせて店を物色している。

「あ、何気にこれ、食べたことないかも」

 と、攷斗が明石焼きの看板を指した。

「美味しそうだね」

 出汁で食べる柔らかいたこ焼きのようなもので、名前は有名だが過去に食べた記憶がない。

「じゃあこれにしよっか」

「うん」

 二人でシェア出来るように二種類の味を選んで、会計を済ます。近くの席に陣取って、すぐに配膳された明石焼きを、ハフハフしながら食べる。

「美味しいね」

「うん。ハイボール呑みたい」

「すみません、運転できず」

「いいよ、家帰ってからの楽しみにとっておく」

 攷斗のそのポジティブさに、ひぃながにこりと微笑んで。

「うん」

 優しくうなずいた。



 19時過ぎ頃、日が落ちてから赤いタワーに到着すると、ライトが灯り始めていた。少し遠めのコインパーキングに駐車して車を降り、二人で車体に軽く寄り掛かってタワーの全景を眺めてみる。

「わー、キレイ~」

「すごい壮観だね。……首痛いけど」

「確かに」

 ひぃなが同意して笑う。

「展望台、登れたら良かったんだけど……」

「いいよ、苦手なものは誰にでもあるんだし」

 攷斗は高所恐怖症で、足が地についていようといなかろうと、高所からの眺めに恐怖を感じるのだそう。すでに十二分に楽しいのだし、祝いたい相手に無理強いしてまで展望台に登らなくても問題はない。

 しばらくぼんやりと、暖色に発光するタワーを眺める。

 攷斗がそっとひぃなの右手を取った。

 それに応えるように、ひぃなも攷斗の手を握る。

 指を絡めて、先ほどまでとは違う繋ぎ方をする。触れる部分が多くて、少し気恥ずかしい。

 ひぃなが指を曲げると、攷斗の薬指にはまった指輪に触れた。それが何故だかとても愛おしくて、嬉しくて、胸がいっぱいになった。



「はー、ただいま」

「楽しかったー」

「ねー」

 ソファに座る攷斗と、キッチンへ向かうひぃな。

 ひぃなは冷蔵庫からお茶のポットを出すついでに、夕飯で使う肉を取り出した。少し休んでいる間に常温に戻したいからだ。

「お茶どーぞ」

「わー、ありがとう」

「運転お疲れ様です」

「いやいや、全然」

 お茶を飲みながらしばし休憩する。

「お腹すいてる?」

「んー、割と」

 ひぃなの質問に攷斗が自分のおなかをさすって言った。

「じゃあ、夕飯の支度しようかな」

「わー、楽しみ!」

「焼いたりするので少し待っててね」

「手伝うよ」

「今日はいいよ、主役なんだし」

「んー、じゃあ、お言葉に甘えて」

「できたら呼ぶから、部屋にいてもいいよ?」

「もしかしてそのほうがやりやすい?」

「ん? サプライズ感がないほうがいいならいつもと一緒でいいよ」

 とソファを立つひぃなに

「部屋で待ってます」

 攷斗が言って、その場をあとにした。

(よしっ)

 サプライズと言ったからには気合を入れて作らないと。

 手を洗って、まずはカトラリーとワイングラスをテーブルへ置いた。

 キッチンに戻りフライパンを二つ熱しておく。その間にサラダ用の野菜などを切って盛り付け、冷蔵庫に入れた。

 耐熱皿にオリーブオイルと鷹の爪、ニンニクなどの香味野菜と具材を入れてオーブンで焼き始める。

 鍋には昨日下ごしらえをしていたスープを注ぎ、温めなおす。三ツ口コンロはとても便利だ。

 充分に熱したフライパンに牛脂で油を引き、常温に戻したステーキ肉を二枚置くとジュワァ……! と音を立てた。同時進行でご飯も炒める。

 焼きモノは時間との勝負なので、考えていた段取りを追いながらそれぞれの料理を仕上げていく。

 ステーキ皿はレンジなどで温めると良い、とレシピサイトに書かれていたので、それに倣ってみる。

(思ってたより慌ただしい……!)

 一つ一つの作業は単純なのに、手数が多い。

 カウンターの面積をフル活用して皿を並べ、多少冷めても味に影響が出にくい料理から盛り付けていく。

 まずはガラスの小鉢にアボカドとトマトとモッツアレラチーズのサラダを。

 平皿にガーリックライス。

 大きなスープボウルにコーンポタージュを注いだところで、オーブンが焼き上がりを報せるアラームを鳴らしたので、ブロッコリーとえびのアヒージョを取り出して耐熱皿ごと木のトレイに乗せる。

 最後に、温めた皿に熟成肉のステーキ。付け合わせに、昨日作っておいた人参のグラッセと、ステーキソースにもなる塩とオリーブオイルとバルサミコソースで炒めたオニオンソテーを乗せる。

(できたー!)

 皿を運んで、攷斗を呼びに行く。

「お待たせ、できたよ」

「お、待ってました」

 心の底から嬉しそうな笑顔の攷斗を連れて、ひぃながテーブルに案内した。

 そこには先ほど運んだ料理の数々がズラリと並んでいる。

「えぇー! めっちゃ豪華じゃん! 作るの大変だったでしょ!?」

「ううん? そんなことないよ、大丈夫」

 攷斗に喜んでもらえれば、それだけでもう充分だ。

「食後にケーキもありますよ」

 前日作っておいた、直径12センチ、4号程度のマンゴーチーズケーキが冷蔵庫で出番を待っている。

「えっ? いつの間に? わー、うれしい! 贅沢!」

「…量、多かったら残していいからね?」

「いや? ちょうどいいよ。昼軽かったし、明日休みだし」

「それは良かった」

 一緒に置かれているワイングラスには、まだ何も入っていない。

「私開けるの下手なので、開けてもらっていいですか?」

「うん。え、これすごいね。探してくれたの?」

「うん」

 攷斗が見ているのはワインのラベルだ。そこに書かれているのは、攷斗の生まれた年。

「えー、嬉しい! ありがとう」

「喜んでもらえて良かった」

「喜ぶでしょそりゃ」

 ワインオープナーを巧みに操って、攷斗がコルクを開栓する。

「はい」

 開栓してそのままボトルを持ち、ひぃなにグラスを持つよう促す。

「ありがとう。ごめん。先に注いだのに」

「いいの、俺がしたいたんだから」

 赤いワインがグラスの中でゆるやかに波打つ。

 今度はひぃながボトルを傾け、攷斗のグラスに同じ量、注いだ。

 グラスを掲げ、乾杯する。

「お誕生日おめでとう」

「ありがとう。あー、ちょっと、マジ幸せ」

 ワインに口をつけて攷斗がしみじみ言う。

「冷めないうちに食べましょう」

「うん! いただきます!」

 皿の上でステーキを一口分に切り分けて、攷斗がほおばる。

「んー!」

 さすがに切って中の焼け具合を確認出来なかったが、丁度良かったようだ。

「なにこれめっちゃ旨い!」

 存分に味わい、飲み込んでから攷斗が興奮気味に言った。

「良かったー。ステーキなんて焼く機会ないから心配だったんだよね」

「いやすごいよ。ひなも食べなよ」

「うん、いただきまーす」

 と、ひぃなも一口、肉をほおばる。

「んー!」

 さすが高級熟成肉。素人が焼いてもかなり美味しい。

(奮発してよかったー!)

 普段の食事では買わないほどの高価な牛肉は、値段に見合った味わいだ。

 攷斗は全ての料理に感激の声をあげ、美味しい美味しいと食べてくれる。

 全ての料理が満足のいく出来栄えで、攷斗のお腹も心も満たされたようだ。

「あぁー! うまかった! ごちそうさまです!」

 デザートのケーキまでぺろりとたいらげて、攷斗が満足そうに笑った。

「お口に合って良かったです」

「ひなのご飯、ホント旨い。いつもありがとう」

「いえいえ、とんでもない。美味しそうに食べてくれるだけで嬉しいよ」

「美味しそうっていうか、美味しいからね」

 ワインでほろ酔いなのか、頬を赤らめて攷斗が微笑むと、

(可愛い……!)

 ひぃなの顔もつられてほころぶ。

「ひな」

「ん?」

「誕生日、最後にもう一個だけ、わがままいい?」

「いくつでも、できる範囲でお聞きしますよ」

「嫌ならいいんだけど……」

 攷斗が両手を広げ、ひぃなに向けた。

 ひぃなは少し意外そうな顔をして、少し考えて、その腕の中にそっと身を寄せた。

 攷斗は両の腕をひぃなの背中に回して、少し強めに抱き締めた。

「ありがとう」

「うん」

 鼓動が速くなるのがわかる。

 身体の芯が熱を帯びる。

「ひな……」

「……はい」

「…好きだよ……」

 耳元で囁かれたその低く甘い声に、ひぃなの頭がクラクラと揺れる。

「……」

 わたしも……

 その四文字を言ったら、何かが変わるだろうか。

「……ありがとう……」

 けれど、どうしても怖くて言えないその言葉。

 ひぃなは自分の意気地なさに眉根を寄せる。

 攷斗の腕がもう一度ひぃなを強く抱き寄せて、そしてゆっくり離れた。

 不甲斐ない自分が情けなくて、攷斗の顔を見ることが出来ない。

「ありがとう。ごめんね?」

 謝られて、ひぃなが強く首を横に振る。

 嫌なわけでも、無理強いされたわけでもないのに、なんで攷斗が謝るの。

 身勝手にそんなことを考える。

「お誕生日、おめでとう」

 せめてもの意思表示。

 攷斗はそれをどう受け取ったのか。

「うん」

 いつもの笑顔で、うなずいた。


 いつものように後片付けを手伝おうとする攷斗に、誕生日なんだからいいよと言ったが、じゃあわがまま聞いてよ、と唇を尖らせてひぃなの肩を持って押し、キッチンへ一緒に移動した。

 こんなに楽しくて愛おしい時間が訪れるなんて思ってもいなかった。

 もっと早く一緒になれば良かった、なんて思う。

 けれどやはり人生はタイミングが重要で、あの時、あの場所で言わなければ、こんな風に二人で暮らすことなんてなかったかもしれない。

 二人の何気ない幸せな日々が続けばいい。そんな風に思いながら、二人はまた、リビングで別れて自室に戻り、眠りに就くのだった。


* * *


 日差しもすっかり夏らしくなったある日、事務室でいつものように仕事をしていたひぃなに、人影が近付いた。

「これ、時森さんですか」

「はぇ?!」

 スキを突かれて変な声が出る。

 久しぶりに話しかけてきた(いつも曲がり角でぶつかりそうにはなっている)黒岩が、自身のスマホ画面をひぃなに見せてきた。そこには――

『人気デザイナー、コイト・ウタナさん結婚していた。お相手は一般女性』という見出しのネットニュースだった。

 その記事には、攷斗と一緒に歩くひぃなの写真が掲載されている。しかし、顔は個人を特定出来ないよう、目に黒い線を入れられていた。

(犯罪者扱い……)

 個人情報流出防止とはいえ、もうちょっと何か隠す方法はなかったのか。

 確かにそれは、二大タワー巡りをしたときの攷斗とひぃなだ。しかしそれを言うわけにはいかない。

「さぁ……?」

 我ながら名演技が出来たと思う。

「この服、着ているところをお見掛けしたことがあったので」

(どこで……?)

 会社には着てこないタイプの服なのに。

「私が着てるの大体大手量販店の服ですし、一点ものでもない限り、被ることもあるんじゃないでしょうか」

 一般的な意見として述べてみる。

「そうですね……失礼しました」

「はい」

 黒岩が立ち去ると、隣の席に座っていた後輩の男性社員・茅ヶ崎がキャスター付きの椅子をスライドさせてひぃなに近付く。

「手前でガードできるようにオレの席と交換します?」

「――……大丈夫…じゃない、かな。万が一なにかあったら、協力してもらうかも……」

「はい、いつでもどうぞ」

 茅ヶ崎は真面目な顔で、本気で答えている。傍から見ても、黒岩が正常な判断が出来ていないとわかる。

 まさか社内で何かしてくることもないだろう。いや、出合い頭にぶつかってきそうになるのは、単純に心臓に悪いからやめてほしいのだが。

「そういえば黒岩さん、最近ずっと同じネクタイじゃない?」

 ふと気付いたように茅ヶ崎がひぃなと逆隣に座っている同僚に話を振った。

「そういえばそうだね。営業なのにいいのかな。それとも同じやつ何本も持ってるのかな」

「それはそれで狂気を感じる」

 言われてひぃなも気付いて、浮かんだ一つの可能性に背筋が凍る。

(社内行事の、誕生日の……?)

 確認して該当するのも嫌なので、気付かないふりをする。

「うーん、やっぱ席替えしましょう。端っこじゃないと不便かもしれないですけど、もし今後来るようなことあれば、オレ手前で声かけるようにします」

「……ごめん…お願いします」

「はーい」

 茅ヶ崎が立ち上がり、机ごと丸々入れ替えた。ひぃなの机と並べ方をずらし、ひぃなの机を奥に押し込む。普通に座っていても体格の良い茅ヶ崎に隠れ、ひぃなの姿が見えにくい。

「ちょっと窮屈かもしれないですけど」

「ううん? 助かる。ごめんね、面倒かけて。ありがとう」

「全然。普段お世話になりっぱなしなんで」

 茅ヶ崎は白い歯を見せて笑う。

 その光景を見ていた紙尾が、何やら思案顔でスマホを操作し始めた。



 帰宅して、攷斗からもネットニュースのことを聞いた。

「ごめん、もう少し気を付けてれば良かった」

「私のほうは顔出てないし、大丈夫だよ」

 実害はあるにはあったが、黒岩からだけだ。それ以外にも色々な実害を被っているので、もうあまり気にしたくもない。ひぃなの心のシャッターは黒岩に対して完全に閉められ、鍵も何重にもかかっている。

 そのニュースが出てしばらくは、SNS上で『結婚してたなんてショック!』とか『ウタナロス』なんて書き込みも見られたが、ある程度の時期からそれもぱたりとなくなった。

 業績はピークより多少落ちたものの、攷斗の写真を開示する前より上がった状態で維持しているので、ひぃながいつか言っていた“少し落ち着けば、本当にウタナのデザインが好きな人が残るか、デザインも好きになってくれる人が残る”という意見が立証された。



 それから二ヶ月後――。



「社長~」

「はーい」

「いま少しお時間よろしいですか?」

 廊下を歩いていた堀河に、紙尾がスマホ片手に話しかける。

「いいわよー、どうしたの?」

「えっと……」

 周囲を気にしているのに気付き

「座りたいから場所変えよっか」

 社長室を指さして堀河が言った。秘書二人に退室を促して、神尾を応接ソファに座らせる。

「なにかあった?」

 堀河が促すと、

「私も、良くないことしてるとは思うんですけど……」

 前置きをして、スマホを差し出した。

「ん?」

 画面を見ると、そこにひぃなが映っている。

「何枚かあるんですけど……」

 と画面をスライドさせて、複数枚の画像を表示した。

 仕事するひぃなと共に、必ず画面内に納まっている人物がいる。

「……黒岩くん……?」

「そうなんです。時森チーフには業務依頼を絶対しないのに、事務室出入りするとき必ずチーフのことガン見してて……」

 服装が同じもの、違うもの、日によって数枚ずつ撮影されている。

「一緒に廊下歩いてると、かなりの確率で曲がり角から出てきて、チーフとぶつかりそうになるんですよね」

 堀河が紙尾の話を聞きながら、ゆるやかに顔を曇らせていく。

「うん。あと何か気付いたことはあるかしら」

「あとは、チーフのプライベートなお話……ご結婚のこととか、めっちゃ聞いてましたね」

「うん」

「事務室来たときも、喋りかけず見つめてるだけっていうのは前からだったんで、正直キモイねって他のコたちと話してたんですけど、チーフの結婚発表から頻度が上がってきてて……目付きもちょっと……」

 堀河が左右に何度もスライドして写真を確認する。

「うん。そうね。教えてくれてありがとう。この画像、全部私のスマホに送ってもらえる?」

「はい、すぐに」

 その場で紙尾が操作をすると、メッセの個別ルームに十数枚の画像が送られてくる。

「対策は早急に手配するから安心して。刺激したくないから、他の人には言わないでもらっていいかしら」

「もちろん」

「もしまたなにかあったらすぐに教えてね。直接でもメッセでも電話でも。いつでも何時でもいいからね」

「はい」

「面倒なことお願いしてごめんね! 教えてくれてありがとう!」

「はい……!」

 紙尾が退室したあと、堀河は少考して攷斗にメッセを送った。もちろん、先ほど送られてきた画像もだ。

 数分後、全てに既読がついて、通話モードの通知画面が表示される。

「は……」

『なんですかこれ』

 堀河の返事を切って、攷斗がつかみかかる勢いで問うてくる。

「紙尾ちゃんが教えてくれたのよ。最近、ひぃなのこと見る目付きがヤバいって」

『マジか、なんも聞いてないわ。今日いるんですか、黒岩』

「出社してるけどいまは多分外回り中ね」

 パソコンを操作して、全社員リストの中から黒岩の予定表を読み込んで答える。

『ひなには?』

「言ってないわよ」

『ですよね。ありがとうございます』

「うん。紙尾ちゃんにはなにかあったらすぐ教えてって言ってあるから」

『俺にもすぐに教えてください』

「もちろん。いまのところ特に実際なにかやってるわけじゃないみたいだから、警察からの警告は難しいかも」

『なにかあってからじゃ遅いんで、私設SP依頼します』

「うん」

『行動に移すようになったら、即警察行きます』

「うん。こっちも報告するから、そっちの進捗も教えてね」

『はい』

「すぐに退職させられなくてごめん」

『そんなことしたら社長が訴えられる側になっちゃうの重々承知してるんで、大丈夫です』

 会社は違えど立場は同じだ。昨今急激に取りざたされるようになった各種ハラスメントへの対応策は充分に理解している。

「じゃあ、また」

『はい。教えていただいてありがとうございます』

 通話を終えて、攷斗と堀河は同時にため息をついた。まさかこんな事態になるとは思っていなかったのだ。

 堀河は先ほどまで表示していた黒岩の予定表を常時確認出来るよう、メールシステムに登録する。

(“結婚発表から”って…もう9月なんだけど……)

 ひぃなが黒岩に苦手意識を持っていると話していたのを今更ながらに思い出す。

(あの時気付いていれば……)

 悔やんでももう遅い。

 いまから最速で対応すれば、最悪の事態は免れるはず、とネットでストーカー規制法について調べ始めた。

 同じ頃、攷斗は自身のスマホで電話をかけていた。

「あ、久しぶり、棚井です。……うん。個人的にね……スケジュールどうかな……」


* * *


「ただいまー」

 いつものように、誰もいない部屋に声をかけた。はずだった。

「おかえりー」

 リビングへ続く廊下から、攷斗が歩いてくる。

「あれ? ただいま。今日早かったんだね」

「うん。しばらくはこっちで作業しようかなと思って」

「そうなの? なにかあった?」

「ん? 気分転換」

「そう。何か手伝えることあったら教えてね」

「うん、ありがとう。あ、ごめん。さっき帰ってきたばっかだから、夕飯のこととか何もしてないわ」

「大丈夫だよ。お仕事優先してください」

「ごめん。ありがとう」

「うん。この先もおうちでお仕事のときも気にしないで大丈夫だからね?」

「うん。でも、手伝えることあったら教えてね」

 と攷斗が言い終わらないうちに、ひぃながくすくす笑い出した。

「ん? なんか変なこと言った?」

「ううん? 二人で同じこと言ってるなって思って」

「確かに」

 攷斗もつられて笑い出す。

 この笑顔を守りたい。

 日々増していくその想いは、堀河からの報告でより強くなっていた。


* * *


 攷斗のスマホには、私設SPからの定期連絡が入る。

 すぐに対応出来るように自宅で仕事をしているが、正直気が気ではない。車で送迎したいくらいだが、ひぃながそれをよしとするとは思えない。

 それに、ひぃなにも黒岩にも、危険を察知した人間がいることを知られたくなかった。

 あるとき、画像フォルダに溜まってしまった黒岩の写真を見て気付いたのだ。スーツは数着を着まわしているのに、ネクタイは常に同じ柄のものをしていることに。

 関連付けの如く、社内行事の誕生日プレゼントのことを思い出す。以前ひぃなが、最終的に購入するのは堀河だと言っていたので、購入履歴に画像が残っていないかを確認したところ、中途採用で入社した黒岩用に、個別で一本だけ購入した履歴が残っていた。

 その画像と写真の中で黒岩が身に着けているネクタイは全く同じものだった。

「これ、ひなが選んだって知ってるんですか」

『担当がひぃなだってのは社内の人ほとんどが知ってるわよ。ただ、この時は新規採用時期じゃなかったし一人分だったしで、私が適当に値段だけ見て買ったやつだけど……』

「それってあっちは知ってるんですか?」

『知らないんじゃない? わざわざそんなこと言わないもの』

「独り相撲ですね」

『ひぃなが巻き込まれた時点で独りじゃなくなってるけどね……』

 もしそれを“特別扱い”と捉え、勘違いを真実だとしてすがっているのなら。

 裏切られたと思った瞬間、何をするかわからない。

 私設SPに依頼してすぐ、堀河に協力をあおいだ。有事の際はすぐ社内に入れるよう、社員用の入構証を発行し、護衛達に渡す。社内での動向も可能な限り報告をしてほしいと要請した。

 社内にはビルにもともと設置されていた監視カメラが各所にあり、ビルの出入口に設けられた守衛室で管理されている。暴漢などが押し入ったときには常駐している守衛が対処に入るし、ひぃなも一人で行動しないようにしているらしいのでそこまで心配ではない。むしろ、一人になる時間の多い通勤中のが気がかりだ。護衛が付いているので、いざというときにはそれに頼るしかない。

 今日も無事終業時間を迎え、後輩たちと駅に向かった旨がメールで届く。

「ただいまー」

「おかえりー」

 パタパタと足音を立てて攷斗がひぃなを出迎える。そんな攷斗を、ひぃなはなんだかじっと見つめてしまう。

「……どしたの?」

「なんか、いいなーって思って」

 ひぃなが靴を脱ぎながら言う。

「そう?」

「うん。帰ってきて、出迎えてもらえるのっていいね」

「そうだね。これからも帰ってきたらちゃんと言ってね。大きい声で、奥まで聞こえるように」

 ふふっとひぃなが笑って、

「はーい」

 攷斗のあとに続きながらリビングへ向かった。

 ひぃなはその言葉の真意と切実さに気付いていない。しかし、それでいい。多少過保護だな、と思うくらいで、何も気付かず、気に病まず、終息するに越したことはない。

「今週末の買い出し、何時くらいがいい?」

「うーん、お昼食べてからとかかな? おなか空いてると買いすぎちゃうから」

「どこかで食べてから買い物行く?」

「それもいいかも」

「じゃあ、朝と昼兼用にしてカフェ寄ってからスーパー行こうか」

「うん」

 約束を取り付け、土曜日の朝リビングで待ち合わせ、一緒に地下駐車場へ行く。

 車に乗り込み移動すると、ほどなくしてメール着信の音がした。おそらく護衛からだ。

 信号待ちで確認すると、黒岩がタクシーを捕まえて車を追い始めたという報告が書かれていた。

(マジか)

 思わず声が出そうになって、平静を装いスマホをポケットに入れる。

 バックミラー越しに見える数台の乗用車とタクシー。距離的に乗客中かどうかの判別がつかない。

(巻くのも不自然だし、仕方ないか……)

 しばらく車を走らせて、スーパーに併設したカフェへ行くため専用駐車場に車を停める。

 そこそこのスペースが埋まっているので、スーパーか喫茶店が賑わっているのだろう。

 カフェで通された席は出入口を一望出来る場所で、ひぃなを出入口が見えないほうに座らせて、攷斗は向かいに着席した。

「初めて入ったけど、いいね、ここ。買い出しの恒例にしてもいいかも」

 程よく席が埋まったカフェは、客の会話とBGMが混ざって心地良い。

「うん。でも思ってるよりゆっくりしちゃうかも」

「いいじゃん、土曜なんだし」

「そうだね」

 ふふっと笑って、ひぃながメニューを眺め出した。

「ひなさぁ」

「ん?」

「……なんか、困ってることとか、大丈夫?」

 急な質問にひぃなが首を傾げた。

「あんまりそういう、不便とか窮屈とか言ってくれないから、大丈夫かなって」

「うん。快適だよ?」

「そっか」

「しいて言えば、トーストサンドとピザトースト、どっちにしようか悩んでる」

「両方注文しなよ。食べたいだけ食べたら、あと俺食うから」

「コウトは食べたいものないの?」

「それとは別にモーニングを頼む」

「すごい食べるね」

「頭使ってるからか腹減るんだよね……」

「お仕事大変なんだね……」

「うん、まぁ、心配はいらないけど」

 仕事のことだけで使っているわけではないので、余計にカロリーを消費している気がする。

「決まった?」

「うん、お言葉に甘えます」

「じゃあ」

 と、呼び出しボタンを押した。


 ブランチを終え店を出るまで、黒岩の入店はなかった。

(どこかで見張ってんのかな……)

 そう思ったが、ほどなくしてSPからの連絡が入る。どうやら諦めて自宅に戻ったようだ。

(俺と一緒にいるときはなにもしてこないか……)

 スーパーで買い物をしている間、ふと気付いたようにひぃなが後方を振り返る。

「……どした?」

「ううん? なんでもない」

 苦笑して前に向き直るが、その理由が思いあたる攷斗は、ひぃなにカートを押すようにお願いした。そのすぐ後方で、ひぃなの背後をかばうように回した手でカートを支える。

「……ありがとう……」

「うん。案外寒いから、温かくて助かる」

 わざと見当違いの回答をして、ひぃなの買い物メモを見ながら必要な食材をかごに入れていった。

 さりげなく後方を確認した攷斗が、黒岩の姿を見ることはない。警護からも報告がないから、きっとその気配はひぃなの気のせい。

 しかし、それを感じるだけの危機感と恐怖感を感じているということだ。

(あんまり泳がせておくわけにもいかないな)

 その夜、攷斗は自室で警護にひぃなの心理状態を伝えた。早急に対策をして、早く安心して普通の生活を送らせたい、という希望も添えて。



 週明けの朝、ひぃなと一緒に朝食を作る。後片付けは攷斗が買って出て、仕事へ向かうひぃなをエレベーター前まで見送る。

 本当は――

 ひぃなが階下へ移動したのを確認すると、それまで浮かべていた笑顔が消えた。

 ジーンズの後ろポケットに入れていたスマホを取り出して、いつものようにメールで報告を入れる。

 ひぃながマンションを出たら、攷斗に出来ることはないからだ。

 マンションの出入り口付近では、護衛がひぃなの安全を確保するため待機している。しかしひぃなはそのことを知らないので、彼女からしたら別の誰かに見はられている感覚があるかもしれない。

 一方、堀河から転送されてくる黒岩の写真の顔は日に日に影を帯びている。

 早くどうにかしたくても、行動に移されないから何も出来ない。

 ただ見つめているだけ。

 そう言われたら引き下がるしかない“証拠”だけがどんどん増えていく。じりじりと焦燥感が押し寄せてくる。

 何も言ってくれないひぃなに、寂しさも覚える。

(きっと、また迷惑かけたくないとか思ってるんだろうな……)

 予想はつくが、湧き出る気持ちを抑えることは出来ない。

 攷斗は一人自室に戻り、仕事を開始する。

 社内への連絡はメールや電話、商談はビデオ通話で事足りる。海外の企業とやりとりをする際はそれらの通信が主なので、特に不便もない。

 デザイン画も、タブレットで作成をして社内クラウドにパスワード付きでアップロードすれば良い。繁忙期でもない限り、出社しなくても仕事は出来る。

 しかしそれにも限界がある。

 ひぃなを最優先したいのはやまやまだが、数十名の社員を抱える身としては、いつまでも在宅勤務をしているわけにもいかない。

 新作発表会の予定も決まっているので、その頃には自宅待機が出来なくなる。むしろ、一度出社したら帰宅出来るかどうかさえ怪しい。

(あと一ヶ月半……)

 スケジュールを計算して出したその期間。そんな長い間、ひぃなを危険にさらすわけにいはいかない。

(もう、限界か……?)

 仕事とひぃなのことが脳内に渦巻いて、業務を進めながら攷斗が頭を悩ませた。

 事態は膠着状態のまま、一ヶ月が経とうとしている。


* * *


「ただいまー」

「おかえりー」

 すっかり習慣になっているその挨拶は、あくまで急を要する救済措置であり、いつまでも続けていていいものではない。

 ひぃなの身の安全が確保されたら、また以前のように平和な日常に戻るのが一番だ。

「あれ、なんか増えてる」

 シューズクローゼットの上に置かれたオブジェの中に、見覚えのないものがある。

「いいでしょ。かわいいから買っちゃった」

 レトロな蛇腹カメラの置物だ。小さなインスタント写真なら撮影出来そうなくらいの大きさとリアルさがある。

「うん、かわいいね」

 シャッターに指を置き、押してみる。

「残念。さすがにそこまでリアルじゃないわ」

「そうだよね」

 ひぃなが笑って、靴を脱ぎ廊下に上がる。

 少しずれたカメラの置物を、攷斗はひぃなに気付かれないよう、そっと直した。


 隠し事をしていると、ずっと嘘をついているような罪悪感がつきまとう。

(正直疲れる)

 それはきっと、ひぃなも同じだ。

 ターゲットであるひぃな自身は、思っている以上に疲弊しているのではないか。

 聞くことは出来ないし言ってこないし、家では普段通りの明るい態度なので、下手に探りを入れられない。

 膠着状態のまま、ただ時間だけが過ぎていく。

 攷斗よりも、狙われているひぃなのほうが精神的にキツイはずなのに、攷斗の前ではそれをめったに見せない。

 人を信用しているかどうか、ではない。人に頼る術を知らないのだ。

 ひぃなから言ってくれるのを待つが、その時は一向に訪れないまま、さらに半月が経過してしまった。



 朝起きてリビングへ行くと、すでにひぃなが朝食を作り始めている。

「おはよう。早いね」

「あ、おはよう。うん、なんか、目が覚めちゃって……」

「顔色悪くない?」

「そう? お化粧のノリが良くないのかも?」

「今日は会社休んだら?」

「昨日の持越し案件があって引継ぎできてないから、今日は行かないと」

「そう……」

「ありがとう、心配してくれて」

「心配するよ、当たり前でしょ。あとやるから、ゆっくりしてて?」

 朝食はもう、皿に盛りつけるだけの状態になっている。

「ありがとう。あ、そうだ」

「ん?」

「今日、もし手が空いたらでいいんだけど、お布団を干して欲しくて」

「うん。ひなのほうもいいの?」

「できたら」

「おっけー、やっとくよ」

 窓の外は秋晴れで、布団を干すには良い天気だった。

 朝食を食べ終え、いつものようにエレベーター前まで見送りに行く。

 途中階で不自然に階表示が止まらないかを確認して、部屋へ戻った。

 シンクに置いたままの食器を洗い、依頼された布団干しをするべく、ひぃなの部屋へ入る。

「あれ……」

 ベッドサイドに充電したままのスマホが置かれていた。

 すぐに追えば間に合うか。いや、さすがにもう電車に乗っているか。

 一応、護衛と堀河にはひぃなが連絡手段を持たないで出たことを伝達する。

 黒岩はここのところ出社もしておらず、マンションとひぃなの通勤経路をうろついているらしい。

(いっそ俺を狙ってくれれば……)

 そんな風に思うが、そううまくはいかない。

 ひぃなに全てを伝えて送迎しようか、それともいっそ休業させるか考える。

(……よし)

 少し悩んで、でも決意は固く、攷斗はひぃなにこれまでの経緯と現状を伝えることにした。

 そのうえで、対策を練ろうと思う。

 ひぃなが帰ってくるまでは何も進められないので、少し滞り始めた仕事にとりかかる。

 各所への連絡や伝達、ショーに出すためのデザイン案などをこなしていると、時間はあっという間に過ぎてしまう。

 ふと見上げた窓の外は、さきほどまでの晴天が嘘のように薄暗く、空には黒い雲が広がり始めていた。


* * *


 黒岩が無断欠勤するようになってから、一週間が経つ。

 社内で出くわすこともなくなって張っていた気が緩んだのか、昼休みに入った途端に体調を崩した。いつもの貧血やめまいかと思って少し休んだが、回復しない。

「あとは私たちがやりますんで、早退してください。タクシー呼びますね」

 紙尾が慌てて対応しようとするのをひぃなが止めた。

「いま、車乗ると、余計危ないかも……」

「じゃあ、旦那さんに……ってお仕事中ですかね…」

「そうだね……ごめん、動けるうちに帰るね……」

「駅まで送ります」

「大丈夫だよ、ありがとう」

 休憩時間をつぶしてまで対応させるのは気が引ける。

「早退報告は出しておくので、お大事にどうぞ!」

 気遣う紙尾たちに見送られ、通常より早い時間に帰路に就く。

 攷斗に連絡しようとして、家にスマホを忘れたことに気付いた。

 会社から駅までの間は人通りの多い道を選ぶ。歩くのも微妙に辛く、体調が悪いのを伝えて乗車しようかとタクシーを探しながら大通り沿いを歩くが、こんなときに限って空車に出会えない。

 堀河が在社していれば頼んで送ってもらっていたが、あいにく商談で外に出てしまっていた。

 仕方なく、ゆっくりと歩き、たまに周囲を確認しながら駅へ向かう。

 倒れるのも怖いので、椅子に座って電車を待つ。

 ホームではいつも椅子に座るか壁にもたれるかして身体を支えている。背後から襲われるのを無意識に警戒していることに、ひぃな本人は気付いていない。

 まだ昼間なので乗客も少ない。無人ではない車両を選んで乗車した。30分経てば、自宅の最寄り駅に到着する。

 駅を出ると小雨が降り始めていた。あいにく傘を持ち合わせていないので心持ち早足で道を歩く。とはいえ体調が回復していないので、そこまで急ぐことは出来ない。

 吐く息が冷たい。ざわめく心に、無意識に呼吸が浅くなる。

 自宅付近は普段からあまり人通りがない閑静な住宅街。昼間だというのに雨天のせいか人通りが全くない。だがむしろ、誰かいればすぐに察知出来る。

(だから大丈夫……大丈夫……)

 紙尾から贈られた防犯ブザーを握りしめ呪文のように頭の中で繰り返しながら、家路を急ぐ。

 マンションに着く頃には、降り続ける小雨のせいで全身がしっとりと濡れていた。九分袖のシャツから出る腕には鳥肌が立っている。体温調整がうまく出来ず、暑いのか寒いのかが良くわからない。

 エントランスに入って管理人に挨拶をしようとするが、窓口には【外出中】のプレートが置かれていた。念のため自動ドアが閉まるまで待ってからエレベーターに乗る。途中で止まることもなく自宅のあるフロアに着く。

(あとは部屋に入るだけ……)

 と、安堵のため息が口から息が漏れた。

 ドアを開け、鍵を閉めてただいまと声をかける――つもりだった。

 いつもなら手に触るたるドアノブの感覚が、ない。不思議に思い振り返ると、そこに、ドアの隙間から無理矢理入った人の身体。

 引いていた血の気が更に引く。倒れそうなのをこらえて踏みとどまる。全身が心臓になったように脈打つ。呼吸が浅く、強くなる。

 見て見ぬふりをしたいが、そうもいかない。

 その姿が誰なのか、確認しようとゆっくりと目線を上げる。黒の革靴にスラックス。目に飛び込んだ見覚えのあるネクタイと、その人物の顔がリンクする。

「くろ…いわ……さん……」

 あんなに気を付けていたのにどうして――考える間もなく腕を力いっぱい掴まれた。冷えたひぃなの腕とは対照的に熱いその手の感覚に身の毛がよだつ。

 貧血とめまいとで、黒岩の顔が一瞬ブラックアウトした。同時に、幼い頃の記憶がフラッシュバックする。

 黒いマジックで塗りつぶされたようなその顔は、幼いころ見た母のアルバムに貼られた、“父親”の写真と同じだ。

「迎えに来たよ」

 地を這うようなバリトンボイスが耳に障る。

 助けを呼びたくても声が出ない。

 バッグに付いた防犯ブザーを鳴らそうとするが、掴まれた手が動かせない。

 視線の先にそれを見つけた黒岩が、ひぃなの肩からバッグを掴み取って廊下の片隅に投げた。その手が肩を掴む。

 伸びたままの爪が食い込むほどの強い力に、植え付けられた過去の記憶が呼び起こされる。

 抵抗したらもっとひどい目に遭う――。

 その言葉に縛られるように、ひぃなの体が動かなくなる。

「このネクタイ俺のために選んでくれたんでしょ、どうして棚井と一緒に住んでるの、俺と一緒じゃなきゃダメでしょ、一緒に逃げよう」

 静かに、一気にまくしたてた黒岩が、ひぃなの身体を引き寄せようとした。

「ゃ……!」

 その身体を押し返そうとするが、パンプスのヒールが軋んで足元が安定せず力が入らない。

「早く!」

 先ほどよりも強い声と力が、ひぃなの全身にぶつかった。

(つれさられる――)

 霞がかった脳内にそんな言葉が浮かぶ。


 ――やっぱりわたしは、しあわせになっちゃ、ダメなんだ――


 自分が考えたのか、どこからか振ってきたのかもわからないその言葉は、ひぃなに重くのしかかる。

 最後に振り絞っていた力が、自分の意志とは関係なく抜けていく。

(……こぅと……――――)

 ひぃなの意識が消えそうになったその刹那――

「てめぇ手ぇ離せ!」

 部屋の奥から駆けてきた攷斗が黒岩の腕を掴んで引きはがし、力任せに玄関ドアへ叩きつけた。

 解放されたひぃなを攷斗が抱き寄せ、胸の中にいだいて身体を廊下に引き上げる。脱げたパンプスが玄関のタイルを叩き、硬い音を出した。

 居心地の良い攷斗の胸の中、安心出来る腕の力に、ひぃなは消えかけた意識と希望を取り戻し、涙ぐんだ。

「邪魔だ……」

 強かに体を打ち付けた黒岩が奥歯を噛み締めながら吐き捨てるように言う。後ろ手でドアのカギを閉め、スーツの腰ポケットから小型のスタンガンを取り出すと攷斗に向かって構えた。

 攷斗がひぃなを背中に隠して、黒岩との距離を取る。

(どこか安全な場所……!)

 部屋の間取りを脳内に展開するが、一番近い攷斗の作業部屋には廊下に面した窓がある。鉄柵で仕切られているものの、命の安全が確保出来るかといえば不安が残る。洗面所や浴室も同様、ルーフバルコニーに侵入されたら内部へ入り込まれる。リビングかひぃなの部屋が安全だが玄関からでは距離が遠く、体調が悪いであろうひぃなを庇いながら移動するのは危険だ。

 わずか数秒の間に複数の可能性を探る。

 スキをついて黒岩を物理的に倒すのが一番いいと判断した攷斗は、背中にひぃなを隠したまま黒岩の動向を窺う。

 対峙する黒岩も同じ考えなのか、一定の距離を保ちにじり寄ってくる。

「どうせお前が無理矢理時森さんを連れ込んだんだろ」

 絞り出すように言って、黒岩が攷斗を睨みつけた。その手元でスタンガンがバチバチと鳴っている。

(まだか)

 間合いを測りながら攷斗が外の音に耳を立てる。しかし、聞こえてくるのは耳障りな電流の音だけ。

「はやく時森さんを解放しろ」

 身勝手なことを言う黒岩の顔色はどす黒く、目は血走っている。

「お前じゃ駄目なんだよ棚井……」

 じゃり、と黒岩が靴のまま廊下に侵入した。

(まだか…!?)

 ジリジリと迫る黒岩から遠ざかるために後退していくが、いつまでもこうしているわけにはいかない。そう思い始めたとき、開錠の音とともに、玄関ドアが勢いよく開いた。

「遅い!」

 攷斗が言って、黒岩の腹を正面から思いきり蹴った。

 吹っ飛んだ黒岩の細長い身体を受け止めた桐谷が

「すみません!」

 ドアが開いた勢い同様に謝罪すると、黒岩の手を後ろにねじあげる。

 痛みに耐えかねて、黒岩がスタンガンを落とした。空いた手で拾おうとするが、一瞬先に桐谷が廊下へ蹴り出す。

 ドアを開けた外間がそのスタンガンを足で踏んだ。「事件のほうです」電話口に話しかけている。相手は警察のようだ。

 桐谷は黒岩を廊下へ引きずり出して、床に押し付け自由を効かなくしている。

「いま警察きます」

 電話が終わり、外間が攷斗に告げた。

「離せよ! あいつ捕まえろよ!」

「それ以上騒ぐと罪状増えますよー。いいですかー」

 外間が穏やかに笑顔で告げるが、目の奥が冷えている。

「必要なときにお声かけますので」

 それより、と攷斗の後方を見やった。

 攷斗が振り返ると、ひぃなが壁に身体をもたれさせてやっと立っていた。

 顔色が相当悪い。

「ひな」

 声をかけるが反応がない。手で外間に合図を送ると、外間はうなずいてドアを閉めた。

「ごめん、座ろう」

 攷斗が体を支えてゆっくりと座らせる。そのまま、固くこわばるひぃなの身体を抱き寄せた。

「遅れてごめん。もう大丈夫。深呼吸しよ」

 リズムを教えるように攷斗が深呼吸を始める。

 浅く、断続的だったひぃなの呼吸がそれに誘導され、通常のサイクルに戻っていく。

 攷斗は全身を包むように腕と足をひぃなの身体に巻き付け、あやすように肩を撫でたり、リズム良く叩いたりする。

「大丈夫……もう大丈夫だから……」

 その言葉はひぃなだけではなく、自分にも言い聞かせているようだ。

「……ほんとうは……」

 呼吸の速さが戻ったのを確認してから、攷斗が話し出した。

「こうなる前に、なんとかしたかったんだけど……」

 掴まれて、薄くアザになった腕を隠すように攷斗が優しくさする。

「証拠がないと逮捕できないらしくて……」

 安心させるよう声色は穏やかだが、その眉間は苦しそうにしかめられている。

「ひなに内緒で、私設のボディガードに付いてもらってたんだ」ごめん、と申し訳なさそうに攷斗がつぶやく。

 その腕の中で、ひぃなが小さく頭を振った。

 肩を撫でて、攷斗が続ける。

「そこに飾ってあるカメラね、中に機械が入ってて」

 一日毎に記録を上書きしながら、録画していたことを明かす。録音も出来るので、先ほど襲われた一部始終が記録として残された。

「さっきのが、決定的な証拠になるから」

 玄関ドアがノックされ、細く開いた。

 攷斗がひぃなを腕の中に隠して「はい」とその隙間に返事をすると、外間が空間を埋めるように身体で隠し

「失礼します。引き渡します」

 声をかけ、横に移動した。隙間から警察官の姿が見える。手錠を掛けられた黒岩は、歯を食いしばり立ち尽くしている。

「ありがとうございます、お願いします」

 警官が「落ち着いてからで構いませんので、事情聴取にご協力ください」と攷斗に声をかけた。

「はい」外間に視線を移し「仲介、お願いしてもいいですか?」

「はい。あとで連絡先お伝えします」

「うん、お願いします」

 それでは、と外間が閉めたドアの隙間から、黒岩が警察に連行される姿が見えた。

「……あいつら……覚えてるかな? 外間と桐谷。引っ越しのとき手伝いに来てくれた俺の後輩たちなんだけど」

 うん。とひぃながうなずく。

「子供の頃から格闘技やっててさ。卒業して二人で会社立ち上げて、私設SPやってんの」

 なごませるように雑談すると、再度ひぃなが小さくうなずいた。“ちゃんと聞いている”という意思表示だ。

 その律義さが愛おしくて、攷斗は微笑みひぃなを抱く腕に少し力を込めた。胸に収まっているため表情や顔色は見えないが、呼吸はだいぶ落ち着いている。冷えていた身体も、攷斗の体温が移って少し温かくなってきた。

「……怖い思いさせて、ごめん……」

 攷斗の言葉にひぃなが首を横に振る。

「…わたしが……」消え入りそうなひぃなの声。「かんちがい、させる……ようなこと、した…から……」

 絞り出すように言ったひぃなの言葉に、攷斗が苦しそうにかぶりを振る。

「ちがう。それは違うよ。ひなはなにも悪くない。ひなが謝ることなんて、なにもないよ」

 攷斗がひぃなを更に抱き寄せ、声を震わせた。

「ごめん。謝るのは、俺のほうだよ。怖い思いさせて…我慢させて、ごめん……!」

 ぼたりと大きな水滴が攷斗の腕に落ちる。四粒、五粒と、それは突然の夏の夕立のように、攷斗の腕に降り注ぐ。

 声を押し殺して泣くひぃなの頭を撫でようと上げた手の気配に、ひぃなが体をビクリと震わせ縮こまる。

 以前にもされたことのあるそれが、いつか聞いた話とリンクする。


 ひぃなの父親はDVの加害者だった。母親だけでは足らず、まだ幼く、抵抗すら出来ないひぃなを虐待してたと、輪郭だけを簡潔に、努めて明るくひぃなが語った。その次の瞬間、いまと同じように大粒の涙をこぼし、それでもなお笑って“大丈夫”と、攷斗からの慰めの言葉を封じた。


「大丈夫……。ぶったりしない……」

 ゆっくり降ろして近付けて、ひぃなの頭に手のひらを置いた。いつくしむように優しく撫でる。

「俺がひなの頭に手を近付けるときは、ひなの頭を撫でたり、抱き寄せたりしたいときだけ。絶対だから、覚えておいて」

 攷斗が言い終わると同時に、新たな滴が零れ落ちる。

 ふと、ひぃなの身体から力が抜けて、攷斗に身体を預けた。

 意識があるか心配になり、

「ひな?」

 だらりと降りた手を取った。

 冷たいひぃなの指先が、攷斗の手を緩く握る。

 安心したように息を吐き、辛そうに眉根を寄せた攷斗は、温めるようにひぃなの手を包んで胸の中におさめた。空いた手でひぃなを抱き締める。


 たった二人の空間で、身を寄せ合う。

 心臓の音が混ざり合って、一つになって溶けてしまいそうだ。


 しばらくすると、涙の雨は降りやんだ。頬を拭おうとした攷斗の手のひらに、ひぃなの冷たい息がかかる。雨と涙で濡れたせいか、頬も冷たい。

「もしかして貧血出てる? アレ持ってこようか」

 待っててと言って立ち上がろうとした攷斗を、ひぃなの冷たい指が止めた。

「どした?」

 覗き込んだ顔は、まだ血色が悪い。すがるような瞳が攷斗を引き留め、攷斗の心臓が潰れそうなほど締め付けた。


 もう、片時も離したくない。


 同じ場所に座り直した攷斗は、ひぃなの体温を少しでも上げたくて、脱いだシャツをひぃなの身体にかけ、そのまま再度抱き寄せた。

「ひな……」

 攷斗の胸に当たる指が、シャツを緩く掴む。

「辛かったら、ちゃんと教えて? ベッドまで運ぶから」

「…………」

 ひぃなは何も言わず首を縦に動かして、甘えるように身体をすり寄せた。

 その身体を温めるようにさすりながら、攷斗はひぃなの頭に頬を寄せる。


 強く抱いたら壊れてしまいそうで、なのに離したら消えてしまいそうで……

 世界でたった二人きりのような静寂に包まれて、ただお互いの存在だけを、感じていた。


* * *


 少し体調が回復したひぃなを警察に連れて行く。事情聴取中のひぃなを待合室で待ちながら、堀河に簡潔にメッセを送る。すぐに既読がつくが、返信がない。

 きっと自分の中に渦巻く感情をうまく言語化出来ないのだろう。

 とにかく、黒岩の身柄が警察に確保されたことと、ひぃなが無事なので安心して良い旨を取り急ぎ連絡して、アプリを閉じた。

 警察には前もって相談、報告していたこともあり、対応はスムーズだった。

 ひぃな自身、知っていることが少ないから、事情聴取と言ってもあまり話せることはないだろう。

 攷斗の脳内で、一連の出来事が自動再生される。


 今日は朝から晴れていて、ひぃなに頼まれた布団を干していた。

 ひぃなが帰宅してから取り込もうと思っていたのに、スコールのような夕立が窓を叩き始めた。

 まだ時間も早いし、いつもの帰宅時間までは余裕があったので慌ててバルコニーへ向かう。

 さして重くはない掛け布団だが、嵩が張り、多少てこずった。

 二人分の布団を取り込み、洗面所から廊下へ出るドアを開けた途端、玄関から地を這うような男の怒号が聞こえた。

 ぞわりと身の毛がよだつ。

 考えるよりも先に、足が玄関に向かって駆け出していた。


(もう少し早く気付いていれば――)

 大きな悔恨が攷斗を襲う。

 ひぃなが誘拐されなかったことだけが唯一の救いだ。

「棚井さん」

 個室から女性の警察官が出てきて攷斗に声をかける。

「すみません。奥様が体調を崩されて……」

「はい」

 立ち上がって個室へ入ると、もう一人の女性警察官に身体を支えられ、ひぃなが辛そうにしていた。

「ありがとうございます」警察官に声をかけ「ひな」呼び掛けて、肩を抱き寄せた。

「お辛いときにすみません」

「とんでもないです」立てる? 顔を覗き込んで問う。小さくうなずいたのを確認して「もう大丈夫ですか?」帰っていいか確認する。

「はい。お疲れのところ申し訳ございません。ご協力ありがとうございます」

「はい。ひな、帰ろう」

 抱きかかえるようにして立ち上がらせ、歩を進める。

 玄関口まで付き添って来た女性警察官が「また、ご協力をお願いするかもしれないのですが……」申し訳なさそうに口を開いた。

「はい。妻はちょっと、難しいかもしれませんが……」

「はい。任意でかまいませんので」

「わかりました。そのときはご連絡いただければ幸いです。今日はありがとうございました」

 警察署の駐車場で待っていた外間と桐谷の車で帰宅する。

 後部座席にひぃなを先に乗せ、攷斗の膝枕で横たわらせた。繋いだ手がまだ冷たい。

 外間の迅速かつ丁寧な運転で、マンションの地下駐車場へ到着した。

「付き添います」

 桐谷と外間が申し出たので承諾して

「揺れるかもだけど、ちょっと我慢ね」

 車を降りたところで、攷斗がひぃなを抱きかかえる。

 地下駐車場から自宅前まで先導する外間が、依頼時に預けた鍵でドアを開けた。

「中も確認します」

 先に桐谷が玄関へ入る。

「うん。あ。ごめん、靴……」

「あ、はい。失礼します」

 ひぃなの靴を脱がせて玄関に置き、内側から鍵を閉めた。外間はドアの外で安全確認をしながら待機している。

「リビング、安全です」

「ありがとう」

 桐谷が室内の全ての部屋とクロゼットなどの人が入れる広さのある個室を確認してる間に、攷斗はソファにひぃなを横たわらせた。

「全室無人。安全を確認しました」

「ありがとう。うちの鍵、もう少し持っててください」

「はい。念のため、今日も警護を続けます」

「うん、助かります。お願いします」

 少しだけ待ってて、とひぃなに声をかけて、玄関先まで桐谷を送る。外間にも礼を言って、鍵とドアチェーンをかけ、冷蔵庫に寄ってひぃなのところへ戻った。

「飲む? 飲めそう?」

 ひぃながいつも飲んでいる、貧血対策ドリンクを見せる。

 うなずいたのを確認して、紙パックにストローを刺した。ひぃなを抱き起こして隣に座り、支えになる。

「はい」

 両手で紙パックを受け取って、少しずつ飲み下すと、

「……ごめんね……?」

 少し落ち着いた様子で、ひぃながつぶやいた。

「謝るのは俺のほうだよ。色々勝手に、ごめん」

 攷斗に寄り掛かったまま、ひぃなが緩やかに首を振る。

「社長が、疲れてるだろうからしばらくゆっくりしてね、って。特別休暇扱いにするって」

「うん」

 自力で身体を支えようとしたひぃなに、

「ずっと寄り掛かってていいよ。つらいでしょ?」

 言って、肩を抱き寄せた。

「まだ冷たいね」

 頬に触れるとヒヤリとしている。

 ひぃなは特に抵抗も委縮もせず、攷斗の温もりを受け入れている。

「ごはん食べられそう?」

 ひぃなが首を横に振る。

「お風呂は?」

 もう一度、首を横に振る。イヤイヤ期の子供のようだ。

「そっか」

 可愛らしくて思わず微笑んでしまう。

「じゃあ、もう寝よっか」

「うん……」

 何かを言いたげに、攷斗の肩口にひぃなが頬をすり寄せた。

「まだこわい?」

 今度は、縦に小さくうなずいた。

「……一緒に…寝る……?」

 恐る恐る聞いてみる。

「……………」

 ひぃなはしばらく考えて、うん。と、消え入りそうな声で答えた。

「……俺の部屋でいい?」

 問いかけると、ひぃなはもう一度うなずいて、意思表示をした。

「うん。じゃあ、行こう。歩ける?」

「うん……」

 ひぃなの手を取って誘導する。指先はまだ氷のような冷たさだ。ベッドに座らせてクロゼットをあさり、自分の部屋着を取り出した。

「これ、着替えられる?」

「うん……」

「着替え終わった頃に声かけるね。ちょっと、色々見て回ってくる」

「ん……」

 服を受け取るひぃなを確認して、ドアを開けたまま部屋を出る。

 玄関ドアや窓の施錠を確認して回る。室内ドアも出来るだけ開け放して、有事に備えて常夜灯を点けた。

(セキュリティ、もう少し強化しないとな……)

 オートロックの玄関さえかいくぐれば、部屋の前まで侵入可能なことが証明されてしまった。鍵を忘れてインロックされた住人を装えば、管理者でもない限りその人物が本当に住人かどうかなんてわからない。

 ごみ庫や地下駐車場から入れば、たとえ監視カメラで見られていようと、管理室の前を通らずエレベーターに乗れてしまう。

(もうちょっと考えて買うべきだったか……)

 しかし今更遅いので、今度外間と桐谷に相談して対策を練ろうと決めた。

 冷蔵庫から何本か飲み物を取り出し、リビングに置かれた飲みかけの紙パックも一緒に持つ。

「ひなー?」

「はい」

「もういい?」

「うん」

 少し張りを取り戻したの声に、小さく息を吐く。ベッドサイドに飲み物を置いて、ドアを閉めた。

「横になってて? 俺も着替える」

「…うん」

 クロゼットの中身を漁って、攷斗も着替え始める。

 こんな状況で不謹慎なのは重々承知しているが、心臓がバクバクと跳ね、落ち着かない。

 サッと着替えて振り向くと、ひぃながベッドに横たわって瞼を閉じていた。小さく丸まって、胎児のような形になっている。

「ひな」

「ん……」

 呼ばれて、ゆっくり瞼を開ける。

「奥、行くね」

「うん……」

 足元から回って、ドアとひぃなが視界に入る位置、ひぃなの背後に寝転がる。布団を被せてから

「ちょっと、ごめんね」

 枕と身体の隙間に左腕を入れて、ひぃなを抱き寄せた。少し身を固くするが、抵抗はしない。右手を上からかぶせて、ひぃなの冷たい指先を絡めとる。

「この先なにがあっても、絶対に守るから」

「…うん」

 ひぃなの指先にゆっくり力がこもる。

 愛しくて、苦しくて、抱き締める腕に力が入った。

「くるしいよ……」

「うん、ごめん」

 それでも力を緩めない。

 スゥッとひぃなの身体から意識的に力が抜けた。それは、攷斗の力を受け入れたという意思表示。

 攷斗の心にポツッと暖かい明かりが灯る。

「ひな」

「うん」

「もう、なにも心配しなくていいから。安心して、ゆっくり寝て?」

「うん…ありがと」

 腕に冷たい唇が触れた。

 身体の力や呼吸の速度から意識が抜ける。一定の速さで繰り返される呼吸音も、腕にかかる息や重みさえも愛しくてたまらない。少し強めに抱き寄せると「ん…」と鼻にかかった声が漏れる。

 ひぃなは少し身をよじり、枕に顔をすり寄せた。

 巻き付けるようにくっつけた足先に、攷斗の体温が移る頃、吐息に温もりが戻る。

 ひぃなの身体から完全に力が抜け、眠ったのだとわかる。

 攷斗もようやっと安心して、ひいなを腕の中に抱いたまま眠りに就いた。



 小さな子供が泣いている。そのすぐそばに、怒りに支配された男が立っている。握った拳を震わせて、いまにも爆発しそうなほど怒りをたぎらせている。

 ――泣いてもダメだよ。もっと怒られちゃうよ。

 その声は少女には届かない。届いても通じないかもしれない。まだ幼くて、言葉の意味を理解出来そうにない。

 男は怒りに身を任せ、何か訳のわからない言語で喚き散らしている。顔がマジックで黒く塗りつぶされていて良くわからないが、どうやら泥酔しているようだ。

 その声に怯えた少女がますます大声で泣く。

 ――泣き止んで。でないと――

 大きく振った男の手が、少女めがけて飛んでいく。体に当たる寸前で、少女の近くに倒れていた人影が身を挺してかばった。振り降ろされた拳は、強かにその人影を打つ。

 ――お願い、泣き止んで。でないと、また殴られる。

 男の手をその身体に受けると予測した人影が身を固くする。しかし、男は光に照らされた影のように、一瞬で姿を消した。

 ――もう、大丈夫。

 男性とも女性ともつかない“声”は、二人の音が混ざり合って出来ているよう。

 少女の頭上に、あたたかな光が頭に降り注ぐ。中から伸びた腕が、少女の身体に触れようとした。反射で身を固くする少女に、

「ごめんね」

「大丈夫。ぶったりしない」

 人影と声がそれぞれ語りかけた。

 光から伸びた温かい手のひらが、そっと少女の頭を撫でる。

 ――俺がひなの頭に手を近付けるときは、ひなの頭を撫でたり、抱き寄せたりしたいときだけ。絶対だから、覚えておいて――

 その優しい声の主は…いつもそばにいてくれる……



「――…こうと……」

 ひぃなが目を覚ます。目の前に、人の身体。反射でビクリと身体を固くする。

「ひな……?」

 声の方向に視線をずらすと、そこには攷斗がいた。安堵し胸を撫でおろすひぃなの目から、涙が溢れ出していた。

「どした? 怖いユメ見た?」

 なだめるように抱き寄せて頭を撫でる攷斗にすり寄り、その体温を確認する。

 夢には、幼い頃の自分と母親、かつて父親だった男と、そして……

「…だいじょうぶ……」

 先ほどまでおぼろげだったその身体は、目の前に確かに存在していた。

「そう?」

 言いながら、頭を撫で続け、厚い胸にひぃなを抱き寄せた。

 本当に大丈夫、という言葉が出てこない。

「…今日は二人とも休みだしさ、ずっとそばにいるから。泣きなよ、たまには。そんで、思う存分なぐさめさせてよ」ね、と穏やかな声でひぃなに笑いかける。

「――――――」

 攷斗の胸の中から嗚咽が聞こえた。

 泣いたらぶたれる。だからもう、人前で泣くのはやめよう。

 幼心に誓ったその自分への約束。破ることは決してないと思っていた。だけど。

 それは守らなくてもいいんだよ、と言ってくれる人がいた。

 その優しい手のひらは、これまでも、いまもなお、ひぃなを安心させるように差し伸べられている。

 こんなにも愛おしいと思える相手はもう現れない。だから、離したくない。なのに何故、それが言えないのだろう。

 泣いている理由がごちゃまぜになって、頭がボウッとしてくる。

 口から漏れ出す声を抑えることもせず、ひぃなはただ、泣いていた。


 しばらくして、胸の中の声がやんだ。

 ひぃながゆっくり身体を離すと、攷斗が優しい笑みを浮かべてひぃなの頬を拭う。

「水分摂ろう。スポドリ、ぬるくなっちゃったけど」

 攷斗が半身を起こしてベッドサイドのテーブルから500mlのペットボトルを取った。

「起きれる?」

「うん」

 昨夜よりも体調は回復しているようだ。

 ヘッドボードを背もたれにして二人で座る。

 パキパキと音を立てて開栓したペットボトルを、ひぃなの両手に持たせた。落としてしまっても大丈夫なように、攷斗が軽く手を添える。

 ひぃなはゆっくりとスポーツドリンクを口に含み、飲み下す。食堂を通って胃に水分が広がる感覚がわかる。きっと、おなかの中は空っぽだ。

「何か食べられそう?」

「減ってはいるだろうけど、食べる気が起きてない」

「そっか」

「でも食べないと、また貧血でちゃうかも……」

「うーん……」

 と唸る攷斗のおなかがぐうぅと鳴った。

「ごめん、ご飯食べてもいい?」

「もちろん。ごめんね」

「じゃあ……俺特製おじやでも作ろうかな」

 それは、ひぃなが風邪で寝込んだとき、攷斗が初めてひぃなに振る舞った手料理。

 味や香りを思い出して、くるる…と胃の動く音が鳴る。それは攷斗の耳にも届いたようで、

「食べる?」

 嬉しそうにひぃなの顔を覗き込んだ。

「うん」

 うなずいたひぃなの笑顔を見て、攷斗が安心したように相好を崩した。

「できたら呼ぶから、寝てていいよ」

「うん…ありがとう」

 昨夜よりもだいぶ楽になっているが、今日は攷斗に甘えてしまおうと思う。

 攷斗が部屋から出るのを見送って、ふと気付く。

(…メイク、そのままだよね……?)

 さすがに落としたくて、部屋を見渡す。

(あれ…? なんか配置が違う…?)

 としばらく見渡して

(あ)

 ここが自室ではないことに気付く。

(そうだ、コウトの部屋だ)

 襲われた時のことを思い出して血の気が引くが、そのあとの攷斗との時間を思い出すと、カアァ……と頭に血が上る。

 ときめきの時間差攻撃までおまけで付いてくる。

 苦しいやら恥ずかしいらやで忙しい感情を持て余しつつ、洗面所へ向かう。鏡を見て

(うわ……)

 近来稀に見る自分のひどい顔に退いた。

 血色が悪い上に泣きはらしてむくんだ顔。メイクはそこまでひどく崩れていないのが唯一の救いだ。コスメの優秀さに感謝。とはいえ、ファンデを塗っていてもわかる顔色の悪さは、貧血がまだ癒えていない証拠。

 メイク落としで洗顔する。ついでに歯磨き。

 さっぱりしたところで、鏡の中の自分が攷斗の服を着ていることに気付いた。

(あとで洗って返そう)

 朦朧としていたのか、昨夜の記憶がところどころ曖昧だ。さっきまで覚えていた夢の内容も、泣いている内に飛散して忘れてしまった。

 身だしなみを整え、トイレへ寄ってからリビングへ向かう途中、攷斗の部屋の前で部屋主と会った。

 こわばった顔を緩ませ息をつくと、笑顔を浮かべた。

「どこ行ったのかと思った」

 その声から、心配の色がにじみ出ている。

「ごめん。声かければ良かったね」

「うん。無事ならいいんだ」

 ごはん、出来たよ。と攷斗がひぃなの手を取り、リビングへ向かう。それは、迷子の子供を見つけた親のよう。

 そんな経験ないのに、その手の温もりに何故だかとても安心して、少し泣きそうになる。

 少し力を込めて握り返すと、気付いた攷斗が同じようにしてひぃなの手をくるんだ。

 久しぶりに食べた“攷斗特製おじや”は、空っぽの胃に優しく染み込み、とても美味しかった。


* * *


 後日、マンションで管理されている防犯カメラの映像が警察に確認された。

 やはり正面からではなく、ゴミ庫へ出るための通用口前で鍵を忘れた住人を装ったようだ。たまたま中から出てきた住人と二言三言会話を交わし、マンション内へ入って行った。

 その後、非常階段に身を潜めてひぃなの帰宅を待ち、部屋に押し入ったらしい。

 自宅から出た痕跡もなく、攷斗の部屋が入っているマンション付近でも黒岩の姿を確認出来なかったらしい。どういうルートを通って包囲網をかいくぐったのかは、黒岩本人しか知らない。

 玄関に置いてあった防犯カメラの映像を見て、待機していた外間と桐谷は慌てて攷斗の部屋に駆け付けたという。

「すみません! オレたちのミスです!」

 二人が攷斗に謝罪したが、そこを責めるつもりはない。

 むしろ、不意を突けたから証拠も身柄も確保出来た。もう二度と、ストーカー(黒岩)がひぃなに近付けなくなればそれでいい。

 マンションの管理会社にもこのことは報告され、より一層セキュリティを強化する旨が、詳細を伏せられ、マンションの全住居に告知された。

 シューズクローゼットの上に置かれていたカメラのオブジェを、外間と桐谷に返却する。

「二人に依頼して本当に良かった。ひなを助けてくれて、感謝してます。本当にありがとう」

 頭を下げる攷斗に二人は恐縮して、今後の業務に抜かりがないよう、一層身を引き締めると決意を新たにした。

「僕らの力が必要なときなんてないに越したことはありませんけど、もし万が一、またなにか危険が及ぶようなことがあれば、全力でお守りしますのでご用命ください」

 頭を下げる外間と桐谷に、

「頼りにしてます」

 攷斗が笑顔で答えた。

「早速で悪いんだけど、明日俺、出社しないとならないから、家で警護してもらっていいかな」

「もちろん。また伺います」

「今日はもう、俺が家にいるので、下も、もう大丈夫だと思うから、ゆっくり休んでください」

「すみません、ありがとうございます」

 仕事とはいえ、連日車内泊は身体にも悪い。

「それでは、また明日」

「はい、お願いします」

 玄関先で二人を見送って、ひぃなの部屋のドアをノックした。

「はい」

 返事と共にドアが開く。

「ごめん、話終わったよ」

「うん」

「明日、外間と桐谷に来てもらうことにしたから、家、上がってもらっていいかな」

「もちろん」

「体調つらくないなら、一緒に映画でも視ない?」

「視たい」

「うん。じゃあ、リビング行こう」

 手を繋いでソファに座り、ネットで映画のラインナップを探す。

「なにか飲む?」

「ん、俺やるよ?」

「なにかやってないと落ち着かないの」

「……そっか」

 事件以降、ひぃなは会社を休んでいる。自主的にではなく、攷斗と堀河がそれを薦めたのだ。

 体調も安定せず、急に寝込んだりするので、まだ安心は出来ない。しかし、攷斗の会社の繁忙期まであと少し。いつまでも自宅勤務をしているわけにもいかなかった。


 翌日、プリローダから打ち合わせのアポが入ったので、ついでというわけではないが色々世話と心配をかけた堀河に報告をする。

「示談ねぇ……」

「ひなに近付けなくなればそれでいいですし」

「そうね」

「裁判ってなるとまた顔合わせることになっちゃいますし、ひなも証言するの辛いでしょうし」

「…そうね…」

 ふぅーと二人が深く息を吐く。

「最悪の事態にならなかっただけ良しとするしかないのかしら」

「そうですね。証拠は提出したんで、ストーカー規制法は発令されましたよ」

「それは良かったわ」

 堀河の会社でも、無断欠勤が続いたことを理由に解雇する予定だ。ひぃなが在籍する以上、ストーカー規制法が発令された時点で在社は出来なくなるが。

「今日はひぃなは?」

「家です。独りにさせたくなかったんで、護衛たちにいてもらってます」

「仕事とはいえあんたも不安よね。ごめんね」

「いや、まぁ…。業務たまってたんで……」

 苦笑する攷斗。

 実際、久しぶりに出社したときには確認待ちの列が出来そうになったので、時間制で予約を取って高速で業務をこなした。経営に支障が出たわけではないが、もうあんな詰め込み式で仕事をやるのはこりごりだ。

 ひとしきり堀河への現状報告を終えたところで、会議室のドアがノックされる。

「失礼しまーす」

 遠慮がちに室内に入ってきたのは紙尾だ。

「あ」

「あれっ、棚井じゃん。久しぶり」

「久しぶり」

 席を立って攷斗が挨拶をする。

「どーしたの? あれ? これ私、部屋間違ってます?」

「あってるわよ」

 紙尾を呼び出した堀河が答えた。

「お礼を言いに来たんだ」

「え? 私に?」

「うん」

「なんかしたっけ?」

「うん。俺の大事な嫁を助けてくれてありがとうございます」

「はい…。えっ、棚井結婚したの? おめでとう!」

「あっ、うん。ありがとう……」

「えーっと…?」

 肝心な知識の共有が足りておらず、話が噛み合わない。堀河はそのやりとりを、頬杖をつきながらただ眺めている。

「あー……まだ、誰にも内緒にしててほしいんだけど…」と前置きをして「ひな……時森さん結婚したでしょ、去年の年末あたりに」

「うん。良く知ってるね」

「それの相手、俺なんだ」

 紙尾はきょとんとしたあと、

「…えー! あっ、じゃあさっきのお礼って…」

 やっと理解した。

「うん。ストーカーのこと。社長に伝えてくれてありがとう。紙尾が気付いてくれなかったらと思うとゾッとする」

「ううん? 時森チーフが無事だって、旦那さんが助けてくれたって社長から聞いたとき、本当に安心したの。そっか、棚井だったか……」

 感慨深そうな紙尾。

「入社してすぐくらいの頃からずっと片想いしてたもんねー」

「いや、まぁ、そうなんだけど……」

 改めて言われると恥ずかしい。

「あら、紙尾ちゃんも知ってたの」

「チーフとは同じ部署ですからね。間に入って取り持ってくれってうるさかったんです。そのうえ連絡先交換したとたん直接やりとりして仲間外れにされてー」

「あらー、ケチねー」

「いや…みんなで行ったらただの会社呑みになっちゃうじゃないですか……」

「それはわかるけどー。私だってチーフと飲みに行きたーい」

「私もひぃなに会いたーい」

「紙尾は今度メシ誘う」

「やったー」

「社長は……来ます? 今日、うち」

「いいの?」

「いいっすよ。ひなも会いたがってたし。連絡入れておきます」

「じゃあ、仕事終わったらメッセするわ」

「ナビにうちの住所の履歴残ってますよね」

「んー、多分? 残ってなかったら聞くわ」

「じゃあそれで。紙尾にはまた予定聞くから」

「うん。チーフによろしくお伝えください」

「了解です。じゃあ、俺、そろそろ会社戻りますね」

「うん、じゃあ、また」

 紙尾が会議室にとどまり攷斗を見送る。そのまま飲み物を片付けるつもりのようだ。

 堀河は通常の打ち合わせ時同様、エレベーター前まで攷斗を送る。

「また、夜に」

「はい、お待ちしてます」

 二人でお辞儀をして、エレベーターのドアが閉まるのを合図に頭を上げた。

 その表情には、安心と悔恨が入り混じっていた。



 夕方、攷斗は早めに仕事を終えて車に乗り込み、ひぃなに帰宅の旨を電話した。

「もしもし? そっちどう?」

『うん、外間さんと桐谷さんが来てくれてるから大丈夫だよ』

「そっか、良かった。あと30分くらいでそっち着くと思う」

『うん……待ってる……』

 普段ならただ嬉しいだけのその言葉に、いまは少しの不安もよぎる。

 まだまだひぃなの心の傷は癒えていない。この先、傷痕がきれいに消える保証もない。

「すぐ帰るね」

 安心させるように優しく言って、電話を切った。

 渋滞もなく予告通りに自宅へ到着すると、自宅ドアの前に桐谷が立っていた。

「あっ。お疲れ様です」

「お疲れ様です、いつもありがとう」

「いえいえ、お仕事ですから」

「外の警護、もう大丈夫だよ。寒いでしょ、中で暖まってから戻って」

「いやいや、勤務中ですし」

「雇い主からの依頼です」

「……はい、かしこまりました」

 二人は笑って、部屋へ入る。

「ただいまー」

 中へ声をかけると、

「おかえりー」

「おかえりなさい」

 ひぃなと一緒に外間が玄関口まで出迎えに来た。

「……なんか変な感じ」

「仕方ないじゃないですか。そこは勘弁してくださいよ」

 外間が笑いながら攷斗に言う。

「いや、いいんだけどね?」

 玄関に入った桐谷が、ドアを閉める。念のためチェーンロックもかける。

「飯食ってく?」

「そこまでお邪魔するわけにはいきませんって!」

 桐谷が慌ててそれを辞退した。

「そうですよ。それに昼間けっこうオレら、おくさんに良くしていただいてたんで、それで充分です」

 時間制で交代しながら室内と室外の警備をしていた外間と桐谷に、自宅待機を命じられて手持無沙汰なひぃながホットドリンクを出したり差し入れを作ったりしていたので、攷斗が思っているほど冷えたり飢えたりはしていない。

「あ、そうなの? じゃあいいか。まぁ、一旦座ってお茶でも飲んでいきなよ。今後の話も少ししたいし」

「はい、ありがとうございます」

「私、お茶淹れるね」

「いいよ、俺やるよ」

「大丈夫だよ。やることやりつくして手持無沙汰なんだよね……」

 確かに、日に日に部屋全体が綺麗になっている。

「そっか……じゃあ、お願いしようかな」

「なにがいいですか?」

「旦那さんと一緒で大丈夫です」

「俺、アイスコーヒーなんだけど」

「あ、すみません。ホットで」

「僕もあったかいのがいいです」

 桐谷と外間が口々に言ったのを聞いて、攷斗が少しだけ口を尖らせた。

「はーい」

 その光景を見ながら笑って、ひぃなはキッチンへ移動する。

 実は途中でやめていた資格取得の勉強なんかもしているのだが、それでも往復の通勤時間と業務時間が丸々空いているので、日々の時間に余裕がある。

 子供がいればその仕事で忙しいのだろうけど、棚井家には子供はいない。というか、いまだに性交渉がないので、出来るはずがない。

(今後の話……)

 攷斗が警備二人に使った言葉を思い返す。

(私たちも、ちゃんとするべきなのかな)

 今回の件で、ひぃなは攷斗に相当の労力をかけてしまったことを心咎めている。

 もっと早く相談するなり対策するなりしていれば、ここまで大きな話にはならなかったはずだ。

 プリローダだって、急な退職者と休職者が出て業務にしわ寄せが出ているだろうし、社内の空気だっていままでとは少し違ってしまっているかもしれない。

 堀河を始めたくさんの人に心配をかけたし、何より攷斗には本当に心労をかけてしまった。

 一緒にいることで相手を不幸にするくらいなら、いっそ離れたほうがいいのではないかと思う。でも、これまでの生活が、攷斗との様々な出来事が、それを実行させる気持ちを鈍らせる。

「ひな?」

 背後から声をかけられ、ハッと我に返る。

「大丈夫? やっぱ俺やろうか?」

 とっくに湧いたお湯と、出てくるはずのお茶とのタイムラグを気にかけて、攷斗がキッチンへ様子を見に来た。

「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」

「一緒にやるよ」

「お話、だいじょうぶ?」

「うん、もう終わったよ。マンションのセキュリティも強化されたし、そろそろ自宅警護は解除しても大丈夫そうって。今日これから社長も来るし、ひぃなの職場復帰の時期も相談しよう」

「……うん」

「あ、でも、しばらくは俺が送り迎えするけどね?」

「そんなに迷惑かけられないよ」

「迷惑だなんて思ってないから。ほら、お茶淹れよ」

 笑顔の攷斗が手をあげてひぃなの頭を撫でる。その動作に、もうビクッとはならない。

「うん……」

 ひぃなが勝手に迷惑をかけたと思っているだけで、攷斗にとっては当然の行動だったのかもしれない、と思い直したりする。それでもやっぱり、と自分の意見が勝ったり、いやでも~、と負けたりを繰り返す。

(やっぱり、今後の話、しないと……)

 自分が中途半端なことをして攷斗を宙ぶらりんの状態で待たせている可能性は高い。

 外間と桐谷のコーヒーを淹れたカップを、攷斗が入れた自分用のアイスコーヒーと一緒にトレイに置く。ひぃなの紅茶が入ったカップも一緒に置かれているので、そこそこ重そうだ。

「持ってくよ」

「ありがとう」

 リビングへ戻ると、カウンター越しに一部始終を見て聞いていた外間と桐谷がニヨニヨしながら攷斗を出迎えた。

「……見てた?」

「「いえ?」」

「聞こえてたでしょ」

「「いえー?」」

 まったく同じ動作と言葉で外間と桐谷が攷斗の問いを否定する。

「えぇなー。俺も優しくて可愛い奥さん早く欲しい~」

 桐谷が身もだえるように言うと

「おまえはまず彼女を見つけんとやな」

 外間が言って笑う。

「なに、こないだまでいたんじゃないの?」

 カップをそれぞれの前に置きながら攷斗が問う。

「こっちの仕事が不規則すぎて振られたらしいですよ」

「ちょっ! お前ー、言うなよー」

「ええやん、ほんまなんやし」

「シフト組んでやりくりできるくらい社員いるんでしょ?」

「いますけど、緊急の呼び出しとかもありますし」

「彼女とデート中にどうしても行かなあかん案件の電話かかってきたんですって」

「まぁそりゃしょうがないよね」

 社長業の“休日”など、あってないようなものだ。

「棚井さんだって時期によっては不規則でしょう?」

「うん、出張とかもちょこちょこあるしね」

「そういうとき奥さんなんも言わないです?」

 桐谷がひぃなに向かって聞いた。

「えっ、そうですね……。一応同じ業界で働いてますし、彼が在社中にどんな仕事してたか知っていて、想像はつくので、仕方ないかなって……」

「ほらー、優しいー」

 桐谷は再度身もだえる。

「料理も上手やしマジうらやましい~」

 一人分の昼食を作るのも面倒だし、一人だけ食べるのも気が引けたので、外間と桐谷の分も作って振る舞っていた。

「はやく見つかるといいね、可愛い嫁さん」

 攷斗は余裕の表情で桐谷にわざとニヤリ顔を見せた。

「うわー! むかつく! 先輩やけどマジむかつく!」

 桐谷の素直な反応に、外間とひぃなが笑った。



 二人が棚井家をあとにして、ひぃなが夕食の支度をしていると堀河から連絡が入った。

「今から会社出るって」

「お、意外に早かったね。なんなら泊まってってもらえばいいんじゃない?」

「そっか、そうだね」

 堀河にもさんざん心配をかけたので、たまにはご奉仕しなければ、と堀河の好物であるカレーを作った。“それに素揚げの鶏肉が乗ったらもう最高!”とは堀河談。

 堀河の嗜好に沿って、鶏もも肉の素揚げも作る。

 ほどなくして、エントランスの呼び出し音が鳴った。攷斗が操作して開錠させる。そして、自宅の呼び出し音。

「鍋、俺見てるから」

 攷斗が入れ替わりでキッチンへ入ってきたので、

「ありがとう」

礼を言って移動したひぃなが玄関ドアを開けた。そこには堀河が立っている。

「久しぶり」

 言って堀河を招き入れる。

「ひぃなー!」

 玄関に入るや否や、堀河がひぃなにガバッと抱き着いた。子供をあやすように背中をぽんぽんと叩くひぃな。

「ごめんね? 心配かけて」

「なんであんたが謝るのよぅ! あんたなにも悪くないじゃない!」

 うわーん! と漫画みたいに堀河が泣いた。

 攷斗は微笑みながらその声をキッチンで聞いている。

 堀河が泣き止むまで、ひぃなはその場でずっと堀河の身体を抱き締めていた。それはいつか、攷斗がひぃなにしてくれたのと同じ行動。

 しばらくすると、堀河がひぃなを抱き締める腕の力を緩めた。

「顔すごいよ」

 思わずひぃなが笑う。

「なによ、そんな言い方ないじゃない」

 堀河が口をとがらせる。廊下に上がって、まずは洗面所を案内した。

 メイクを直した堀川がひぃなと一緒にリビングへ戻ると、攷斗が配膳を終えていた。

「どうも」

「どうも。お邪魔します」

「メシ食っていきますよね」

「食べたい。ひぃなの料理、久しぶりだもの」

「まぁ、匂いでもうお分かりかと思いますが……」

 ひぃながぽつりとつぶやく。

 隠したくても主張してくるカレーの香りが、キッチンからリビングに充満している。

「アレよね? すごい楽しみ!」

 同居していたときに食べたことがあるその味を反芻して、堀河が満面の笑みを浮かべる。

「今日帰る? 泊まってく? それによって出す飲み物が変わる」

「今日は、帰るわ。家で、待ってるから」

 おそらく“元・旦那”になったり“旦那”になったりしている“現・婚約者”のことだ。

「じゃあお茶にしておくね」

「ありがとう」

 座ってて~と言い残して、ひぃながキッチンへ移動した。

 攷斗と堀河はソファに座る。

「思ってたより落ち着いてるみたいで安心した」

「まだ不安そうなときありますけどね」

「そりゃそうよ」

「絶対守り抜きますんで」

「うん。もうプライベートはあんたに頼るしかないからさ、よろしくね」

「はい」

 そんな二人の会話は、ひぃなの耳には届いていない。

「お待たせ~」

 カレーの上に鶏肉の素揚げが乗った皿を、まずは二人分運んできた。そのあとに、ひぃなが自分の分を運ぶ。

「じゃあ、食べましょう」

「わーい!」

 堀河が子供のように喜んで、楽しい夕餉がスタートした。


* * *


 警察による周囲の見回りとマンションのセキュリティが強化され、警戒レベルを下げた状態で付いていた護衛も、ようやく任務完了となった。

 身の回りも落ち着き、攷斗は少しずつ出社勤務するようになった。ひぃなもそれを薦めた。

 堀河との相談で、ひぃなも職場復帰を果す。

 一部の社員しか事情を知らないので、大げさに気を遣われることもなく無事復帰初日の業務を終える。

 休養前に移動した席の配置はそのままだが、誰かにガードしてもらっていたほうが気持ちが安定するので、そのままにしてもらった。

 攷斗の送迎はしばらくの間続いたが、ほどなくして繁忙期に入ったのでそれも難しくなってしまった。

 湖池と紙尾が同じ沿線に引っ越したので、途中まで一緒に帰ることが多くなった。二人ともひぃなの事情や結婚相手のことを知っているので、もう黙っていなければいけないことはさしてない。

 そろそろ籍を入れるそうで、その保証人は棚井夫婦が務めることになっている。

 自宅の最寄り駅で「また明日」と挨拶を交わし、先にひぃなが降りる。

 引っ越してきてから、そろそろ一年。通勤経路も近道を見つけるほどに通い慣れたその道を、ひぃなが一人、歩く。

(早いなー)

 湖池と紙尾の婚姻届の保証人や式でのスピーチを引き受けはしたものの、少しの後ろめたさもある。攷斗とひぃなが仮初めの夫妻だということを、彼らは知らない。

 いつまでもつきまとう“(仮)”の単語が、自然に消えることはない。

(結婚記念日……)

 ひぃなの誕生日でもあるその日。共有のスケジューラーの攷斗欄には仕事の予定が入力されている。開始時間は早朝、終了時間は翌日の夜半。前後一週間の予定も似たようなもので、現在も同様の日がちらほらある。

 出勤や帰宅時間も当日の業務進捗によるようなので、攷斗の予定は当日にならないとわからない。

(どうしよう……)

 これまでの癖で「ただいまー」と声をかけるが、それにおかえりと答える声はない。当たり前だが、やはり寂しい。

 今日も帰りの遅い攷斗を待つが、ひぃなの就寝時間になってしまった。

 そんな日々を繰り返しているうちに、“その日”はやってきた。



 12月に入る。婚姻届を出してからちょうど一年。

 攷斗との生活は、部外者から持ち込まれたトラブルがあった以外、すこぶる順調だ。

 だからこそ、ひぃなは思い悩んでいる。

 偽装は偽装であって、書類上のつながりでしかない。

 攷斗の愛情はこれまでの共同生活の中で十二分に感じていた。

 “偽装”だの“(仮)”だのにこだわっているのは、きっと自分だけだとひぃなは気付いている。

 いままでの生活が全て仮初めだとは思えないし、思いたくはない。

 なのに、自分の気持ちを言葉にして伝えることが出来ない。

 もし自分から伝えて断られ、いまの生活が終わってしまったら――。

 そうなったら、攷斗との関係はきっと途切れてしまう。それが何より怖かった。

 このまま何も言わなくても、態度で伝わるのではないか。

 “逃げ口上”を“暗黙の了解”という言葉にすり替えて回避し続ける。ひぃなはそこから進むことが出来ない。


 身支度を整えて電車にゆられ出社する。何かすべきか、でも今日も帰ってこられるかわからないと、リビングにメモが置かれていた。

 ここのところまともに顔もあわせていないが、攷斗は毎日、ひぃなが作った料理の感想と、当日の予定を書き残してリビングのテーブル上へ置いてくれている。

 それがひぃなの毎朝の楽しみになっていた。

回収して、そっと手帳に挟む。

「行ってきます」

 今日も誰もいない部屋に言って、家を出る。

 おめでたい日にかわりはないが、色々独りで祝うのは正直避けたい。

 明日、明後日と取得した有給休暇も、もしかしたら独りで過ごすことになるかもしれない。

(そしたら大掃除しよう)

 予定を入れることで前向きに捉え、やっと安心出来るようになった社内で午前中に予定していた一通りの業務を終わらせた。昼休憩は堀河からのアポが入っているので、社長室に赴いて一緒に行きつけのカフェに入る。

「はい、おめでとう」

 オーダーを終えると、堀河が小さな包みを差し出した。

「ありがとう。えっ、良く覚えてたね」

「何年祝ってると思ってるの」

「え?」

「え?」

「あ、誕生日か、そっか」

「やだ。老化進みすぎじゃない?」

「言い返しにくいこと言わないで」

「あっはっは、同い年同い年」

 と、堀河がテーブルに置いたひぃなの手をバンバン叩く。

「チカラ強いんだよなー……」

「夜は? 旦那と約束してんのよね?」

「いや……仕事だし……出張? っていうか、遠出してて、いま東京にはいない」

「あら、そうなの。忙しいわね。寂しいわね」

「……うん」

 あっはっはと堀河は笑って

「いい加減素直になんなよ。もう一年経つんだしさ。色々あったけど、だからもう、上辺だけの関係じゃないでしょ?」

 話している内に運ばれてきたランチプレートを目の前にして「さー、食べよ食べよ。いただきまーす」と堀河がフォークをチキンに刺した。

(素直になったら終わっちゃうかもしれないじゃん……)

 ひぃなも同じようにして、食事を始める。

 いい年してモダモダ好きの嫌いの思い悩むこと自体から目を背けたいくらいだ。

 周りの友人や同年代の女性は、家事や育児や仕事やと未来に向かっているというのに、まさかこんな形で自分が“結婚”に縛られるだなんて思ってもみなかった。このまま何も明らかにしようとはせず、利害が一致した関係のまま終わって良いのだろうか。攷斗にだって要望や希望がきっとあるはずなのに。


 もっと早く言うべきだった。

 好きだと言ってくれる攷斗に甘えて、自分の気持ちをまるで伝えていない自分を責める。


 毎年この時期、攷斗の会社は繁忙期で、そういえば去年も無理矢理仕事を終わらせて来たと言っていた……気がする。

 一緒に食事をすること自体が珍しくなってしまったので、翌日の朝食分と一緒に夕食を作り、先に一人で食べて、遅くに帰ってくる攷斗のために冷蔵庫へ入れておく日々が続いている。

 メッセや電話で連絡は取っているが、顔をあわせず一日が終わることもある。

 結婚記念日用に何か作ろうかと思ったが、遅い時間に豪華な食事を独りで食べるのも嫌かと思い、何も準備しなかった。

 攷斗の仕事が落ち着いたら、また改めて祝えばいい。

 帰りに、目に留まった花屋に立ち寄る。一年前に攷斗がひぃなにプレゼントしたのと同じ店で、攷斗のイメージを伝えて黄色を基調にした中くらいのブーケを作ってもらう。

 歩くとカサカサ紙袋が鳴る。

 攷斗と会えず、だんだんしょんぼりしてくる自分の心の乾燥具合は、音にしたらこんな感じかもしれない。

 部屋のドアを開け、真っ暗な廊下の電気を点ける。

「ただいまー」

 誰もいないのはわかっているのに、つい癖で声をかけてしまう。

「おかえりー」

 なのに、奥から返事が聞こえてきた。玄関に近付く足音。その声の主は、もちろん攷斗だ。

「ただいま……え…。今日、帰れないかもって……」

「うん、その予定だったんだけど、めっちゃ頑張ったらなんとかなった。せっかくの記念日だし、一緒に祝いたくて」

 攷斗が笑顔で続ける。

「連絡すれば良かったんだけど、驚かせたかったから、なにも言わないで帰ってきちゃった」

「そう、なんだ……」

「ご飯作って待ってようかと思ったんだけど、超準備中。全然間に合わなかったわ」

「私…ごめん…なにも……」

「え? いいよ。帰ってくるかわかんない上に連絡もしないような相手に気ぃ遣わなくても。あれ? 花?」

「あ…うん」

「いいじゃん、飾ろうよ。そんで、ご飯作るの手伝って?」

「…………」

 優しい攷斗の声を聞くと、何故だか涙があふれてくる。

「えっ? えっ? どしたの? なに? なんか嫌なこと言った?」

 慌てる攷斗に、ひぃなが首を振って見せる。

 ぐずる子供のようで嫌なのに、涙が止まらない。

 言葉にならない“好き”の気持ちがあふれてくるようだ。

 ――どうしたらいいの?

 玄関に立ち尽くして、なすすべもなく涙をこぼす。

 攷斗は少し困ったように微笑んで、

「荷物ちょうだい」

 ひぃなの手から荷物を取って廊下の脇に置いた。空いたひぃなの手を取って軽く握る。

 外気にさらされた冷たい指を包んで、身体を引き寄せ胸の中にいだく。あがりがまちの段差のせいで、ひぃなの身体は攷斗の胸の中にすっぽりとおさまった。

 優しくされるとスキになってしまう。

 いつか終わってしまう仮初めの関係なら、早くはっきりさせたほうが良かった。

 頭の片隅でいつも思っているのに、攷斗の優しさが、温もりが、その全てが手放せなくて、後にも先にも動けなくなっていた。

「なにがあったのか知らないけど、なんかあったなら言ってよ。俺たち夫婦でしょ?」

 攷斗が頭を撫でながら言う。

 でもそれは、紙切れ一枚の、利害が一致しただけの“契約”で。

「ね」

 泣き止んだ頃を見計らったかのように攷斗が身体を離し、優しく頭を撫でながら、ひぃなの顔を覗き込むように少し首をかしげた。

「だって……偽装じゃん……。カッコカリ、なんでしょ……?」

 ひぃなが泣きはらした顔でぽつりとつぶやく。

 攷斗は一瞬驚いたあと気まずそうな顔を見せて、ひぃなから手を離して自分の後頭部を掻いた。

(潮時かな……)

 そう考えた攷斗は、仕方ないなぁと言いたげな笑顔になり、ひぃなの顔を両手で包んだ。少し上へ向けると頬を伝う涙を拭った。

 冷えた頬に攷斗の手のひらの温もりが伝わる。

(なんで優しくするの……)

 その気持ちよさを抗いたくて、涙をこらえるように眉をひそめて唇を固く結んだ。


 その唇に、攷斗が優しくキスをする。


 一瞬何が起こったのかわからず、目を丸くして攷斗を見つめた。

「そんなに驚かなくても」

 不服そうに、それでいて笑みを含みながら攷斗が言う。

「夫婦なんだし、するでしょ。キスくらい」

 困ったような不思議そうな顔のひぃなに、攷斗が続けた。

「我慢したほうだと思うよ? 一年でしょ? ほんと俺、良く我慢したわ。えらいでしょ」

 衝撃が強すぎたのか、ただうろたえるひぃなの頭に、

「だーから」と手のひらを乗せ「驚きすぎでしょ?」あやすようにポンポンと動かして頭を撫でる。

「どうして……?」

 ひぃなの口からやっと出てきた言葉。

「えぇ? 今更聞く?」

 思わず笑って、

「とりあえず部屋入んない? ここ寒いわ」

 床に置いた荷物を持って、空いた手でひぃなの手を取り、靴を脱ぐのを待つ。あがりがまちに上がったのを確認して、繋いだ手を引きリビングへ移動した。

 ソファを背もたれにして、二人で床に座る。ホットカーペットの温もりが冷えた足先に沁みる。

「落ち着いた?」

「…うん」

 玄関先で取られた手は繋がれたまま。

「けっこう何回も伝えたと思うんだけどなー、好きだよって」

「それは……ライクの意味だと思ってたから…」

「そう思ってるかなーとは思ってたけどさ」

 ひぃなの手をもてあそびながら攷斗が笑う。

「好きでもない相手としないでしょ、結婚」

「だって…それは…ただの救済措置なのかなって」

「だってあのタイミングじゃなきゃ俺としてなかったでしょ? 結婚」

「それは…そうかも、しれないけど……」

「俺、めちゃめちゃドキドキしてたんだからね? さりげなく言って、もしダメでも、関係続けて次のチャンス掴めるようにって」

 ひぃなが腑に落ちない顔をする。

「好きでもない人の誕生日、毎年わざわざ呼び出してまで祝ったりしないよ」

 その言葉にひぃなが顔に疑問符を浮かべた。

「いつ、から…?」

「え? 好きになったの?」

「うん」

「そりゃーもう、最初っから。だから、もう十年以上前?」

「えっ…だって…彼女いたとき結構あったじゃん」

「うん、あった。出会ったとき、ひなにはもう相手いたみたいだし、いつまでも後輩扱いされて、もう望みないのかなって思ってたし。でもやっぱり申し訳なくて。ちゃんと真剣にお付き合いしてたけどね? 会いたいなって思うのは消せなくて……あ、ひなにね? 会いたいなって、誰と付き合っててもずっと思ってた。だから、長続きしなかった…。サイテーだよね」

 攷斗が苦笑する。

 それが最低だとしたら、いまその気持ちを聞いて嬉しい自分も最低だ、とひぃなは思う。

「婚姻届出したのはその場の勢いみたいなのもあったかもだけどさ、ひなと結婚したい、独り占めしたいって気持ちはずっとあって……恋人関係とか全部飛ばしちゃったし、色々…辛い思いもさせたけど…」握っている手に力を籠める。「この一年一緒に暮らしてきて、ひなのこと、もっと好きになった。もっと大事にしたいと思った。それだけじゃ、ダメかな」

 ひぃなが首を振る。

「私も……一緒に暮らしてて、すごく安心できたし、楽しかったことのが多いし、それに……」小さく深呼吸をして「好きでもない相手と、たとえカッコカリだっとしても、結婚なんてしない……」

 ひぃなの口から初めて聞くその言葉に、攷斗が顔を緩めた。

「きっと…私もけっこう前から…好き、だったよ。コウトのこと……」

「過去形なの?」

「今は…もっと、好き……」

 照れたような怒ったような口調の告白に、攷斗が笑った

 繋いだ手を離して、攷斗がひぃなに向き直り正座する。

「俺は、出会ってすぐの頃から、ひなが好きです。この先もずっと、隣にいてほしい。だから…俺と、結婚してください」

 頭を下げる攷斗に、

「…はい…。ずっと、隣にいさせてください」

 ひぃなが優しい声で言った。

 頭をあげた攷斗に

「これからも、よろしくお願いします」

 ひぃなが微笑みかけて、涙目で頭をさげる。

「こちらこそ」抱き締めて、「……大事にするから」攷斗が言う。

「わたしも……」

 ようやっと言えたその四文字の言葉に、自然と笑顔が浮かぶ。少しの間抱き合って、身体を離した。

 絡まる視線、近付く距離。

 ゆっくり、遠慮がちに重なる唇。


 これまでの物足りなさを埋めるように、口づけはしばらく続く。


 ようやっと離れた唇から、

「…もう、離さないから」

 攷斗が言葉をつむぐ。

「うん……お願いします」

 嬉しそうに、恥ずかしそうに、ひぃながはにかむ。

「あー、安心したらおなか減っちゃった。作るの手伝って」

「うん」

 改めて手を繋いで、キッチンへ移動する。

「本当に準備してただけでさ……」

 調理器具が並んでいる。食材は冷蔵庫に入ったままのようだ。

「一緒に作れるの嬉しいし、大丈夫。なに作ろうとしてたの?」

 傍らに置かれたタブレットを見てひぃなが言う。

「あ、メインのご飯はもう作ってあって」

 と冷蔵庫を指した。

 冷やして美味しいメインのご飯がパッと浮かばず首をひねると、

「あんまり冷やしすぎてもご飯固くなっちゃうと思うから」

 攷斗が開けて、大皿を取り出した。

「わっ! すごい! 可愛い!」

 そこには色とりどりの具材を使った手鞠寿司が乗っていた。さすがデザイナー作。色彩がとてもいい。

「あと、それ、ローストビーフなんだけど」

 シンクの作業スペースに、アルミホイルの塊が置いてある。

「ソースをいまから作ります」

「えっ、全然“超準備中”じゃないじゃない」

「そう? 全部作ってあと食べるだけ、にしておきたかったんだけど」

「いいよ、手伝う」

「いいよ、ひなの誕生日なんだから、休んでてよ」

「でも結婚記念日でもあるんだから、一緒に作りたい」

 少し拗ねるように口を尖らせたひぃなに、

「かわいいな~」

 と攷斗が軽くキスをした。

「……突然は心臓に悪いです」

「可愛いこと言うからでしょ」

「そんなの知らないし」

「あ、じゃあさ、温野菜サラダ作ろうと思ってたんだ。それの野菜、焼いてくれる?」

「はーい」

 すでに切られた野菜を、フライパンに入れて焼いていく。

 すぐ横で、攷斗がローストビーフのソースを作り始めた。

 さっきまでしおれていた心は、水を吸った植物のようにふっくらと柔らかく膨らんでいる。

「あ、あと、冷蔵庫にケーキあるよ」

「嬉しい、ありがとう」

 ひぃなが買ってきたブーケを花瓶に生けてテーブルに置く。

 攷斗が作った料理と、二人で一緒に作った料理とをテーブルに並べる。

 中央に置かれた大皿には手鞠寿司、それぞれの前にローストビーフと温野菜サラダが乗った平皿。

 大きめのお椀に入っているのは白菜のすまし汁だ。

「なんか和洋折衷になっちゃった」

「美味しそうだし問題ないよ。私の献立もそんな感じだし」

「そっか、そうだね」

 ひぃなの生まれ年のワインで乾杯して、久しぶりに囲む二人の食卓を満喫した。

 ケーキはホールではなく、大ぷりなプチケーキだ。白鳥の姿を模したものとキノコの家を模したものを、ひぃなが気に入っているティーソーサーに置いて、

「お待たせいたしました」

 運んだ攷斗が執事のようにうやうやしくテーブルに置いた。

「うわぁ! なにこれ可愛い~!」

「好きそうだなーと思って」

 味の説明をして「選んでいいよ」とひぃなに決定権を委ねるが、案の定迷ったので二人で半分こすることにした。

「ひなってさ、普段すごい即断即決なのに、食べ物がらみだと迷いがちだよね」

「食いしん坊なんだよね。できるだけいろんな種類の美味しいものを食べたいというか……。だから、手鞠寿司すごく嬉しかった」

「それは良かった。単純に寿司が食べたかったんだけど、握る技術はないからさ」

「手間かかったでしょ? 美味しかった。ありがとう」

「喜んでくれたんだったら良かった……って、ひなっていつもこんな気持ちなのかな?」

「うーん、正確にはわからないけど、おそらく同じ気持ちではあると思う」

「そっか。だったら嬉しい」

「うん」

 二人で笑い合って、ディナーを終える。

「そうだ、危ない。渡しそびれるとこだったわ」

 食器を洗い終えて、攷斗が自室へ戻った。

「リビング行こ」

 キッチンで冷蔵庫を整理していたひぃなの手を取り、ソファへ並んで座る。

「これ、誕生日プレゼント……になるかわかんないけど」

 はい、と攷斗が大きな紙袋をひぃなに渡す。

「えっ、ありがとう。開けていい?」

「もちろん。むしろ開けてほしい」

 かなり大きな箱なので、床に置いて開封することにした。

 包装を解き、真っ白な箱を開けるとそこには……

「えっ……!」

 純白のウエディングドレスが入っていた。

「これ……」

 驚いて、ひぃなが攷斗を見やる。

「うん。多分サイズ大丈夫だと思うんだけど……オーダーメイドの一点ものなので、返品不可です」

 ひぃながそっと、大事そうにドレスを取り出した。

「渡すとき、改めてプロポーズしようと思ってたんだよね。ちょっと前後しちゃったけど」

 ひぃなはずっと涙目のまま、言葉を探している。

「当ててみてよ」

 立ち上がった攷斗が、ドレスをひぃなから受け取り、同じように立ち上がったひぃなの肩に当てた。

「うん、すその長さは丁度よさそうだね」

 ひぃなが服を押さえたのを確認してから、少し離れて全体像を確認する。

「……似合ってるよ。キレイ」

 ひぃなの瞳に涙が溜まる。

「ありがとう……」

「うん。俺も嬉しい」

 だいぶ前から準備していたそのドレスを、ようやっと渡すことが出来て、攷斗は胸を撫でおろした。

「式場、予約するか、撮影だけにするかはひなに任せていいかな」

「……うん。ありがとう……」

 ドレスを丁寧に箱に戻しながら、ひぃなが微笑む。

「あと、年末年始に、温泉宿の予約取ったんだ。そっちは新婚旅行も兼ねて、一緒に、行かない?」

「行きたい。予定、空けておくね」

「うん」

 一年遅れの新婚生活に、二人は終始、同じように穏やかな笑みを浮かべていた。

 お風呂に入り、リビングで【地上波初放送】の映画を視る、いつもの日常。

 違うのは、いままで一定の距離を保っていた二人の間が物理的に縮まったこと。二人の間の空気に甘さが加わったこと。触れ合うことに、遠慮が減ったこと。

 ただ隣りに座って手を繋ぎ、テレビを視ているだけでこんなにも幸せだということ。

 攷斗の肩に寄りかかりながら、隣にいるのが攷斗で良かったとしみじみ思う。

 最初から始まっていたのに、それに気付こうとしなかった。今となってはそれはそれで楽しかったので、結果オーライということにしておく。

 映画がCMになる。マグカップの中身はカラだ。

「何か飲む?」

「んー? ひなが飲むなら」

 じゃあお茶でも…と立ち上がるが、攷斗は手を離さない。

「離してくれないと向こう行けないんだけど……」

「うん」

 返事はするが、離そうとしない。手を持ち上げてみるが、離す気配もない。いたずらっ子の笑みで攷斗がひぃなに顔を向ける。

 “もう離さない”とは、物理的なことだったのか。

(うーん、かわいいな)

 これまでもたまに思ってはいたが、改めてそう思う。

 人を好きになると苦しいこともあるけれど、やっぱり心が弾む。少し若返った気分にもなる。

「なに、見つめちゃって」

「かわいいなと思って」

 言われた攷斗は一瞬たじろいで、

「急なんだよな……」

 照れたように苦笑した。

「CM終わっちゃうんですけど」

「じゃあ一緒に行こう」

 手を繋いだままキッチンへ移動する。お互いが空いた手にお茶のポットとコップをそれぞれ持って、リビングへ戻った。

 CMはすでに終わっていて映画の本編を少し見逃してしまったが、毎年のようにリピート放送される映画だし、なんならネットで視聴すればいいだけなので問題ない。

 一時間ほど経ち映画がラストを迎えた。エンドロールが流れ終わってからテレビを消す。明日は休日。さてどうしようか、とソワソワした空気が流れ始めて、攷斗が口を開いた。

「…眠い?」

「…ううん…?」

 質問の意図を汲んだひぃなが、少しためらいつつ返答する。

「そっか、じゃあ……一年遅れの初夜、しよっか」

「なっ!……に、言ってるの……」

「え? やっとちゃんと心が夫婦になったんだから、身体もなろうよ」

 予想はしていたものの、割と直球な申し入れに、はわはわして言葉が出てこないひぃなを見て攷斗が微笑む。

「どんだけ俺が一人で夜な夜な悶々してたと思ってんの」

「知らないよ」

「ひなはしなかった? 悶々」

「し……てない……」

 攷斗とは違う意味で悶々と思い悩んではいたが、身体は攷斗が言うほどではない。

「ほら、行こ」

 攷斗が立ち上がり、繋いだ手を引く。部屋へ入るとセンサーが反応して間接照明が点いた。

 ベッドへひぃなを座らせて、

「ひな……」

 押し倒しながらキスをする。

「…こうと…」

 目の前に、嬉しそうに相好を崩す攷斗の顔。

 愛しくて、身体の奥が疼く。

 攷斗が着ていたパーカーを脱いで、Tシャツ姿になった。ひぃなの服を脱がせようとすると、ひぃながためらうように胸元を隠した。

「……今度にする……?」

 小さく問うた攷斗の言葉に、ひぃなが小さく首を振った。

「肩に、子供の頃の傷痕が残ってて…見るの、嫌かなって……」

「いいよ、別に。俺は気にしない」

 手を握ってどかして、服をはだけさせる。

 左の肩に、その傷はあった。

 何かに裂かれ、縫い合わせたようにひきつれた皮膚、白く滑らかな肌に痛々しく残る熱さの痕跡。

 想像していたよりも広範囲にわたって残る傷痕を見て、攷斗が思わず手を止めた。

「やっぱり、嫌だよね……ごめん……」

 空いてる手を使って服を戻そうとするが、攷斗がそれを止めた。

「痛む?」

「…たまに。いまは平気……」

 優しくうなずいて、

「痛かったら、教えて?」

 その熟した果実のような痕に指を滑らせる。そのまま、場所を変えながら攷斗は何度もキスを落とした。

 痛みとは違う疼きがひぃなの傷痕に走る。

 攷斗が触れたところから、過去の苦しみが消えていくよう。

 肩から首筋、そして頬、瞼、鼻、唇。軽く何度もするキスに、ひぃなの体温が上がっていく。恥ずかしそうに身をよじるひぃなから身体を離して、

「もう、独りで抱え込まなくていいから」

 視線を絡ませた。

「頑張ってたんでしょ? 誰にも言わないで」

 ひぃなの瞳が見る見るうちに透き通っていく。

「ひなはえらいよね。そういうとこも好きだよ」

 頭を撫でると、瞳の中の薄い水面が揺れた。

 ひぃなが嬉しそうな照れくさそうな笑顔を浮かべる。けれど、その表情はどこか困っているようにも見えて……可愛くて、熱い身体の中心を押し当てながら、ひぃなの唇に深くキスをした。

 攷斗の熱さを受けて、ひぃなが身じろぐ。

「……どこか痛い?」

「――は…はずかしい……」

 顔を背けてつぶやくそのしぐさが、攷斗の欲情を掻き立てた。もうどうにも抑えられない感情をぶつけるように、攷斗がひぃなの唇をむさぼる。

 重なる隙間から時折漏れるひぃなの切ない声。

 出会った頃から切望していたこの状況に、攷斗が溺れた。

 やっと手に入れた愛しい人を、じっくり味わい尽くすように愛撫する。

 弾む息。熱っぽく柔らかい肌。濡れる粘膜。甘く鼻にかかった声。

 そのどれもが、愛おしくて、たまらない。

 はぁっ……と溜まった息を吐いて、攷斗がひぃなから離れた。

「体調、辛くなったら教えてね」

 服を脱いで、攷斗がひぃなに囁きかける。

「…ん……」

 トロンとした目つきで攷斗を見つめ、ひぃながうなずく。その身体から、攷斗が衣服をすべて脱がす。


 愛おしそうにゆっくりとまばたきをして、身体を寄り添わせ、もう何度したかわからないキスをする。

 それだけで、イッてしてしまいそうだ。


 自らを落ち着かせるようにゆっくり呼吸すると、

「……挿れるね……」

 ひぃなの耳元でつぶやいた。

 返事を待たず、位置を確認してゆっくりと押し広げていく。

 恥ずかしそうにまぶたを閉じ、少し苦しそうに眉根を寄せるひぃなの顔を見ながら攷斗が腰を押し進め、二人は一つに繋がった。

 攷斗が動きを止めると、二人は顔を視線を絡ませ照れたように笑って、どちらからともなくキスを交わす。

「愛してるよ……ひぃな……」

 極上の甘い笑みを浮かべて、攷斗は初めて、ひぃなの本当の名前を口にした。

 ひぃなは少し驚いて、とても嬉しそうに微笑んで、

「私も、愛してる…攷斗……」

 覆いかぶさるその身体を、抱き寄せた。


* * *


 目覚めて(遅刻…!)とハッとして、有休中だったと思い出す。

 目の前には攷斗が寝ている。絡みつく腕の重みが心地良いが、目の前の胸板に自分の吐いた息がとどまって少し息苦しい。

 ゆっくりと寝返り、攷斗に背を向ける。

 目の前に置かれている攷斗の手。その指の間に自分の指を入れて、手を繋いでみる。

(おっきい手……)

 その温もりや肌の感触も愛おしい。攷斗の手を抱き寄せて、そっと腕にキスしてみる。

「……すき……」

 なんて呟いてみる。

 攷斗は背後で寝息を立てて…いたはずだった。

 キスを落としたその腕に意思が戻り、ひぃなを抱き寄せる。

 驚き、身じろぐひぃなに身体を押し付け

「かわいいな~」

 嬉しそうに言って、ひぃなの後頭部に顔を埋めた。

「起きてたの?」

「うん。おはよ」

「おはよう……いつから、起きてた?」

「んー? ひなが寝返り打ったあたり」

(じゃあ最初からじゃん……)

 まぁもういいやと攷斗に身体を委ねる。

 布団の中が二人の体温で暖まり、とても気持ちいい。

 時間が知りたくて可能な限り室内を見渡すが時計が見当たらない。枕元に置いてあるのは攷斗のスマホなので、勝手に見るわけにもいかない。

「どしたの?」

 モゾモゾと動くひぃなに攷斗が問う。

「いま何時なのかなと思って……」

「いいじゃん、今日休みでしょ?」

「そうだけど……」

 なおも起きようとするひぃなを、攷斗は抱き寄せて離さない。

「もう少しこのままでいさせてよ。十年越しでやっと叶ったんだから、もっと浸りたい」

(十年……)

 攷斗との十年間を思い返してみる。ずっと“叶わぬ想い”をいだいていた相手とこんな朝を迎えられたら、浸りたいのは当たり前だ。

 ひぃなだって、攷斗には及ばないかもしれないが、ずっと同じ想いでいたはず。

 自分の気持ちにも気付いて、動くのをやめ、攷斗の腕の中におさまった。

 ただ、昨夜は下着もつけずにそのまま眠ってしまったので、あまり身を寄せられると、なんだか色々気恥ずかしい。

「ひぃなさぁ」

「ん?」

 ちゃんとした名前をさらりと呼ばれ、ひぃなの心臓がきゅんと締め付けられる。

「体調どう?」

「ふつう」

「のど乾いた?」

「少し」

「おなか減った?」

「それはだいじょぶ」

「じゃあ、もう一回しよ?」

 言うや、攷斗が身体を起こしてひぃなに覆いかぶさった。

「えっ? 起きたばっかだよ?」

「うん。でもしたい」

 ひぃなが答えるより先に攷斗がひぃなの唇を塞ぎ、じっくり味わってから、

「いい?」

 離して、可愛らしい微笑みで問う。

「……お好きにどうぞ……」

 恥ずかしそうな嬉しそうな、それでいてふてくされたような、何とも言えない表情で答えて、ひぃなが少し顔を背けた。

 攷斗はとろけそうな笑みを浮かべて、身体を重ねた。


* * *


 穏やかな春の午後、ひぃなと攷斗は撮影スタジオにいた。

 控室のドアを開けて、攷斗が目を丸くする。

「…どう?」

 不安げなひぃなに、

「うん。キレイ。さすが俺の奥さん」

 タキシード姿の攷斗が微笑みかける。

「攷斗も、似合ってるね」

 へへっと笑い合う二人を、周囲の人々が嬉しそうに眺めている。

 ひぃなは、攷斗が誕生日にプレゼントしたウエディングドレスで身を包んでいた。

 馴染みのスタッフたちも、普段あまり見ない攷斗のデレた顔にニヤニヤしている。

「これぞオートクチュールね」

「えぇ、正真正銘の一点ものですよ」

「ウタナもウエディング業界に進出?」

「しないですよ。俺がデザインするウエディングドレスは、ひぃな専用です」あ、コレもね。と取って付けたように、自分が着ているスーツを指でつまんだ。

「“ひな”呼び、やめたのね」

「だってもう、身も心も俺のですもん」

 もう、“特別”を意識させるための呼び方は必要ない。

「なんかむかつくわー。ねぇひぃな、いまからでもやめない? こいつと結婚するの」

「ちょっと」

 堀河の提案に攷斗がツッコミを入れる。

「え? やめないよ? 攷斗じゃなきゃ嫌だもん」

 当たり前という顔のひぃなに、攷斗がいまにも溶けだしてバターにでもなりそうな笑顔を見せた。

「あらあら、二人してデレデレしちゃって」

 後輩たちに囲まれているひぃなを見やって、堀河がまなじりを下げた。

「式も挙げれば良かったのに」

「俺も言ったんですけど、ひぃながやらなくていいって」

「……あぁ……」

 ひぃなの生い立ちや現在の家庭環境がそう言わせているのか、と思うと、他人がどうこう言えない。

「あんたんちの親御さんはそれで納得してるの?」

「えぇ。一応、お互いの家には挨拶に行って、事情も説明してますよ」

「そう。まぁ、ひぃなが幸せならそれでいっか」

 堀河も嬉しそうに破顔して

「ねー、私も仲間に入れて~」

 ひぃなのそばへ移動した。

 それと入れ替わるようにいつの間にか両脇に立っていた湖池と井周に、攷斗が脇腹をごつごつ小突かれる。

「ちょっとなに、痛い」

「念願かなって良かったね!」と湖池。

「姉さん女房とかもっと早く教えろっての」逆サイドから井周。

 ティアラやブーケなどの装飾類は、全て攷斗デザイン、井周オフィス製の一点ものだ。

「ウタナかうちで出そうよ、ブライダル用品」

「やだよ、俺のブライダル用のデザインはひぃな専用なんだっての」

「うわー! 恥ずかしいことサラッと言うわ~!」

 湖池が口元を抑えてニヨニヨする。

 すぐ近くで見ていた外間と桐谷がヒューヒューと古い感じで囃し立てた。

「なんなのお前ら。テンション高すぎ……」

 心底ウザそうな表情を浮かべ、攷斗が苦笑する。

「そりゃ高くもなるでしょ。親友の念願のお相手との結婚なんだから!」

 ねー! と、湖池を筆頭に井周と外間と桐谷が声を揃える。

「そんで、いつの間に仲良くなったの? みんな」

「えー? 内緒!」

 湖池が撮影後に企んでいるサプライズパーティーのセッティングを協力してもらうために、ひぃなを介して連絡を取ったのは、まだ攷斗には内緒の話だ。

「失礼いたします。カメラのセッティングできましたので、まずは新郎新婦のお二人、スタジオまでお越しいただけますか?」

「はーい」

「よし、行こう」

 攷斗が差し伸べた左手にひぃなが右手を乗せ、二人並んで撮影スタジオへと移動して行った。


* * *


「棚井さーん」

「はい」

 休暇明け、久しぶりに参加する朝礼で堀河がひぃなの名前を呼んだ。

「ご挨拶、よろしくね」

 いつかのそれとは違う、晴れやかな笑顔でひぃなが皆の前に立つ。

「おはようございます。お久しぶりです。時森あらため、棚井です。長期休暇をいただきまして、ありがとうございました。棚井でも時森でも、呼びやすいほうで呼んでいただければ幸いです。これからも、ご指導ご鞭撻のほど、お願いいたします」

 ひぃなの挨拶が終わるや否や、湖池が腕を頭の上に上げ、大きく拍手した。

 それに続き、全社員もひぃなに拍手を送る。

「あ、もう、そのくらいで……」

 予想以上の盛り上がりに恐縮したひぃなが両手を広げて止めようとするが、喝采がすぐにやむことはなかった。



 ひぃなはバッグから仕事用のキーケースを取り出し、オフィスの一角にある鍵付きのロッカー前へ移動した。開錠して、【従業者名簿:事務部門】と書かれたファイルを取り出す。ファイリングされたクリアポケットの中から自分の従業者名簿のページを開いて、従業者名簿と住民票を取り出した。

 新たに取得した住民票と、新たに作成した【棚井】姓の従業者名簿をファイルし直す。

「……よしっ」

 旧姓の書かれた書類をシュレッダーにかけ、棚にファイルを戻した。

 腕を上げて、伸びをする。

(今日もがんばろー)

 頭の中で自分に檄を飛ばして、事務部内の自席に向かった。



end

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