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中編

* * *



 自室で目が覚める。アラームより先に起きたのなんていつ以来だろう。

 楽しみなことがあるから早く起きれるなんて、我ながら少年のような心の持ち主だ。

 ベッドから降りて、洗面所に行く。

 自分のものとは別に置かれた、ひぃなの歯ブラシとメラミンのコップが目に留まる。

(一緒に住んでるんだなー)

 嬉しさにニヤニヤしながら歯を磨いて顔を洗う。鏡を見て顔のコンディションなんかもチェックしてしまう。

 少し早い鼓動を携えて、リビングへ続くドアを開けた。すぐ脇のキッチンから、人の動く音がする。

「おはよう」

 リビングとキッチンの境目から声をかけてみる。

「あ、おはよう」

 ひぃながエプロンをして、卵を溶いている。

「ごめんね、今作ってるから、ちょっと待ってて」

「急がなくていいよ、早く起きちゃっただけだから」

「うん。ありがとう」

(うわー!)

 と、脳内に棲んでいる小さな攷斗が攷斗本体の脳内を走り回る。あの時思い切って言ってよかった! と両手を挙げて、歓喜の雄たけびをあげている。

 何度となく妄想した姿のひぃなが、いま現実に、目の前にいる。

 妄想の中ではこの段階で後ろから抱きついたりしてイチャイチャしていたが、さすがにそういうわけにもいかない。

 平静を装い、リビングのソファに座る。

 テーブルの上には二人分のカトラリーセットが置かれている。中央には攷斗が誕生日に渡した花が活けてある花瓶。ボリュームが少し減っているので、都度手入れしているようだ。

 新聞はネットで契約していて、出社してからタブレットで読むのでテレビを点ける。

(これから毎日こんな状態とか、幸せすぎない?)

 もっと早くからこうなりたかったが、きっとこのタイミングだから上手くいったのだ。

 じゅわぁと熱い鉄板に液体が流し込まれた音が聞こえる。さっき溶いていた卵を焼いている映像が思い浮かぶ。

 カウンターの向こう側で料理をするひぃなが見たくて、座る位置を変えてみる。サイドソファからだとテレビ画面は見えないが、別に問題ない。

 テキパキと動くひぃなを、まなじりを下げた攷斗が見つめる。集中しているのか、攷斗の視線には気付いていないようだ。

 トーストが焼けた音を合図に、あちち、と小さく言いながらトースターからパンを取り出し半分に切っている。うんと小さくうなずいて、リビングへ目線を移す。攷斗と目が合って、少し驚いた顔を見せたあと照れたように笑った。すぐにシンクへ向き直り、何かを持ち上げる動作をした。

「おまたせ」

 大きな皿を両手に持って、ひぃながリビングへやってくる。

「おお、カフェ飯だ」

 一枚を両手で受け取り、攷斗が嬉しそうに言った。

「ごめんね、簡単なのしかできなかった」

「いや、充分だよ。ありがとう」

 スクランブルエッグと茹でたソーセージにコールスロー、半分に切ったトーストが食パン一枚分。

 ひぃなは自分の分の皿を置くと、再度キッチンへ行ってトレイにコーンスープの入ったカップと調味料を持ってくる。

「味付けはご自由にどうぞ。お茶とか飲む?」

 スープカップを置きながら問うひぃな。

「うん。あ、いいよ、俺やる」

 言いながら立ち上がる攷斗に

「ありがとう」

 ひぃなが礼を言う。

 キッチンへ赴いた攷斗が片手に二つのグラスを持ち、冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出す。

「ひなもお茶でいい?」

「うん」

 攷斗の右手からグラスを二つとも受け取る。空いた手でペットボトルのキャップを開けたので、そのまま注いでもらう。

 コップをテーブルに置いて、「じゃあ」と、着席した攷斗を見やる。

 二人が胸の前で手を合わせ「「いただきまーす」」と唱和した。

「こんなちゃんと朝ごはん食べれるの嬉しいな」

「喜んでもらえたなら良かった。足りなかったら追加で作るから言ってね?」

「うん。朝だし、丁度いいよ」

 トーストにバターを塗り、フォークを手に取ってコールスローを口に運んだ。

「ん、旨い」

「良かった」

 カット野菜にマヨネーズと少量のドレッシングを混ぜただけなのだが、口にあったようだ。

「ひなが作ってくれたからなおさら旨い」

 嬉しそうに攷斗が目を細める。

「そう言ってもらえてなによりです」

 ひぃながゆっくり頭を下げると、攷斗が笑った。

「夜ご飯で食べたいモノあったら教えてください。18時くらいまでなら対応可能です」

「じゃあお昼に食べたものの写真、メッセしようかな」

「あっ、助かる」

 一人暮らしなら調整可能だが、離れて活動する人がいる場合、昼と夜のメニューが被る可能性がある。堀河の実家に居候していたときもたまにそういうことがあって、堀河とひぃなはこっそり笑いあっていたのを思い出した。

「ごちそうさまでした」

 胸の前で手を合わせて攷斗がお辞儀をする。

「おそまつさまでした。……足りた?」

「うん、ちょうどよかった」

 お腹をさすりながら攷斗が言った。

「あんまり食べるとまた寝たくなっちゃう」

「それは大変」

「休みの日だったらもう少し多くてもいいかも」

「じゃあ、棚井がお休みの日はなるべく和食にするね」

 一緒に入る定食屋で、和食を中心にオーダーしていたのを思い出して言った。

「うわー、ありがとう。無理しないでいいからね」

「うん。通勤時間半分になって、いままでよりは楽になるはずだから」

「でも二人分だよ?」

「一人分ずつ作るわけじゃないもん」

「そっか」

「もし大変そうだったら手伝ってもらうかも」

「喜んで」

 じゃあ早速、と後片付けを手伝ってから攷斗が着替えに自室へ戻り、出勤の準備を終えた。

「じゃあ、行ってくるね」

「うん」

 ひぃなが玄関先まで見送る。

「誰か来ても、当面出なくていいからね」

「うん、わかった。いってらっしゃい」

 子供の初めての留守番を心配するような言葉を残して、攷斗が出社した。

 しかし確かに、初めてこの部屋で一人になるひぃなは、少しだけ不安だったりする。

 インターホンの操作方法もまだ良く把握していないけれど、日中の来訪者なんてほぼセールスだろうから気にしない。

 宅配ボックス完備のマンションなので、その辺も心配無用だ。

「まずはー」

 今日の作業の段取りを一人つぶやく。

 洗濯をするのに衣類を仕分ける。お互いそれなりに服へのこだわりがあるので、普段着と外出着とは洗い方を分けたい。とはいえ、引っ越し前日までに攷斗は自分で洗濯を終わらせていたようだ。洗濯かごの中には昨日着ていた服し入っておらず、ひぃなの分と併せてもさしたる量ではない。

 家で使っていた洗濯機とは違う仕様なので少し手間取るが、スマホで調べてなんとかなった。便利な世の中だなぁとスマホをジーンズのポケットに滑り込ませる。

 洗濯機が回っている間に軽く浴室の掃除をする。続いて共用部分。攷斗は綺麗好きのようで、清掃する箇所はほとんどなかった。浴室も昨日の時点でザッと洗ってから使い終えた様子。正直、ひぃなが元々住んでいた自室のほうが汚れていたくらいだ。

(部屋もキレイそうだなー)

 と思いつつ、一応確認してみる。ドアを開け、そっと中をのぞく。

(うん、キレイ)

 もう片方の部屋も見て同じ感想を抱き、そっとドアを閉じる。

 広いほうの部屋を寝室、狭いほうの部屋をアトリエとして使っているよう。壁一面に設えられた本棚には、ファッション関係の書籍や雑誌が大量に収まっていた。

(楽しそう……)

 趣味の合うひぃなにも興味深いタイトルばかりだ。今度攷斗に閲覧可能か聞いてみようと思う。

 仕事が忙しくなるとすごいことになると言っていたからそのときフォローしようと決めて、攷斗の部屋も含めた床をザッと全体的に住居用ワイパーで拭き歩いていく。終わったと同時に、洗面所から洗濯完了のアラームが聞こえた。

「おっ、天才」

 取り出してかごに入れ、ドアの内側にかけられたサンダルを片手にルーフバルコニーへ移動する。

「うわ、広い」

 外は良い天気。洗濯物も早く乾きそうだと心が弾む。

(夏は日焼け対策しないとダメかも)

 日当たりの良さが美容の大敵になるのは世の常。

 洗濯物を干しながら、今後掃除するときの順路を間取りを思い浮かべながら考える。

 攷斗は言っていなかったが、おそらく新築であろう家の掃除は楽しい。

(築年数調べてみようかな)

 水回りのシステムも新しいので、新築かリフォームかのどちらかだろうと予想をしてポケットの中のスマホに指をかけるが、

(いやでも調べてお家賃知っちゃうのもなぁ)

 思い直して、やめた。引き続き洗濯物を干すことにする。

 知りたい情報と共に知りたくない情報を得てしまうリスクがあるのは、情報化社会の弊害だと常々思う。

「よしっ」

 二人分に増えたとはいえ、一日分の洗濯物だけなのであっという間に終わる。

(これだけスペースあったら、お布団も干せるな)

 二人ともベッドを使っているが、掛け布団やシーツを陽にさらせる。出入りのときに少しまごつくかもしれないが、何か上手い方法があるに違いない。

 洗濯かごを洗面所に戻してリビングへ行く。お昼までまだ余裕があるので、少しお茶の時間にする。

 外の音もほとんど聞こえない、日当たりの良いリビング。

(贅沢だな~)

 いままでの辛かったことが中和されるほどの穏やかな時間が流れている。

 一人暮らし用にしては広い間取りに、誰かと一緒に住む予定でもあったのかな? と邪推してしまう。でもそれなら、同居しようだなんて持ちかけたりはしないか。

 攷斗の思惑は攷斗にしかわからない。

「さて…」

 スマホを操作してアプリを立ち上げる。昨日【お気に入り】に入れたレシピをいくつか確認し、頭の中で手順を算段してみる。

(下ごしらえしつつ、お昼作るかぁ)

 伸びをして立ち上がり、キッチンへ向かう。前の家より格段に充実した設備のキッチンは、作業しやすく、使っていて楽しい。

 冷凍・冷蔵保存食材を作るために、まずは野菜を切り始めた。



 昼食を挟み、全ての下準備を終えた。お茶などしつつ、攷斗からメッセで届いた帰宅時間から逆算して、朝食の簡素さを埋めるように夕飯の支度を始める。

 攷斗が一食でどのくらい食べるのか、一緒に食事に行ったときのことを思い出し、分量を決めた。

(男性にしては細いのに、食べるんだよね……)

 昼過ぎに攷斗から送られてきたメッセの写真は焼き魚定食だった。夜は洋食にしようとしていたので丁度良い。

(そういえば…人にご飯作るの久しぶりだな…)

 ふとそんな風に考えて、元婚約者との別れ際が脳裏に浮かぶ。

(この生活、この先もずっと続けられるのかな……)

 すぐそばに攷斗がいる生活に慣れてしまったら、きっとそれはもう、手放せなくなる。

(見切り付けられないように頑張ればいいか……)

 言葉に出来ない二人の関係性。

 どこかでちゃんと確認出来れば。聞いても大丈夫と確信出来るように、信頼関係を結んでいければ。

 料理の手順を追う脳内の片隅でそんなことを考えながら、フライパンに火をかけた。


* * *


 自席で会議資料を作成している攷斗に、スマホが震えて着信を報せる。

「お」

 発信者は井周だ。

「はい、棚井です」

『どうも、井周です』

「お疲れ様、どしたの?」

『できたよ、マリッジリング一式』

「え? 早くない?」

 約束の納期は明日だったはずだ。

『作るの楽しくて早く終わっちゃった』

「マジか、ありがとう。助かる」

『いつ来る? 今日都合悪かったら後日でもいいけど』

「いや、今日行くよ。19時くらいになっちゃうけど」

『いいよ。待ってます』

「うん、ありがとう。お願いします」

 通話を終えて、デザイン画から立体になった姿を想像する。同時に渡したときのことも想像して

(ひな、どんな顔するかな)

 にへら、と表情を緩めた。

「なにかいいことあったんですか?」

 ちょうど企画書を持参した社員に声をかけられる。

「うん、ちょっとね。書類ありがとう、見るよ」

「お願いします」

 それから社内のデスクワークを終わらせ、打ち合わせや商談に出向くべく席を立つ。今日は直帰の予定だ。

「じゃあ、打ち合わせ行ってきます」

「はーい。お戻りは?」

「今日は直帰します。なにかあったら連絡ください」

「はーい」

「お疲れ様でーす」

 社員たちが口々に言い、見送ってくれる。ワンフロアのオープンオフィスならではの光景を、攷斗は気に入っている。

(プリローダもこういう環境だったら、もうちょっと違ってたのかな)

 それとも、同じ環境で時間を共にすることで満足してしまっていただろうか。

(指輪渡すとき、改めてプロポーズしようかな……)

 ビルを出て、すぐ近くにある専用駐車場から車を出そうと自分の車に乗り込んで、思いついたようにスマホを取り出した。

『今日の夜、少し遅くなるかも。19時半くらいには帰れると思います。』

 ひぃなのアカウント宛にメッセを送る。

 夕飯を作ってくれているだろうし、待たせるのも申し訳ない。

 ほどなくして、ぴよっ♪ と通知音が鳴った。運転中なので手が離せず、ソワソワしながら信号待ち中に確認すると、

『わかりました。気を付けて帰ってきてね。』

 ひぃなから返信が来ていた。

(うわ~、なにこれ。幸せ)

 デレデレとゆるむ口元を隠す間もなく信号が変わったので発車させる。

 もう一回正式に結婚を申し込んで、もし“そういうんじゃないんで”と断られたらこの状況も終わってしまうのでは? と急に不安になる。

(もうちょっと、いいかな……)

 でもさぁ、と気弱になった攷斗の脳内で【脳内攷斗】が異論を唱える。

((ちゃんと申し込んで承諾してもらえたら、もっと甘い生活が待ってるんじゃないの?))

 それは確かにそうだ。指一本触れられない(とか言いながら頭を撫でたりはしているが)生活に、いつまで耐えられるかわからない。十代、二十代のさかりは過ぎたとはいえ、そのあたりの欲求が消滅したわけではない。

(いやでも、ゆっくり行くって決めたし、いまは、一緒に生活して距離を縮められれば……)

((お前それ、いつまで耐えられんの))

(……ですよねー)

 脳内自分に打ち負かされ苦笑を浮かべると、脳内攷斗は((へっ))と鼻で笑って姿を消した。

(そうなんだよなー、実際一緒に住んだら、思ってたより耐久力が必要だったんだよなー)

 煩悩が流れ出ないようにする理性のダムを、ひぃなは叩き壊そうとする。ひぃなにその自覚は皆無だ。

(いいや、その時になったら対策考えよう)

 目的地が見えて来たので思考を切り替える。

 まだ社外での仕事も終わっていない。まずはそちらを終わらせてから、と来訪者スペースに車を停めた。


* * *


 社外での仕事を終えて、予定通り井周の店へ向かう、

 いつものコインパーキングに車を停めて、少し早足に目的地へ赴いた。

 ここのところ打ち合わせで良く来ている井周の店が、なんだかいつもより光って見える。

(漫画とかで良く見るアレって、現実にもあるんだな)

 などと思うが

(…あ、ライトアップされてんのか……)

 店外に設置されたいくつかの照明器具が、実際に店を照らしていた。

 普段の来訪は昼間が多いのですぐには気付かず、少し恥ずかしい思いをする。

 扉を開け、中に客がいないのを確認してから「どうも」カウンターにいる井周に声をかける。

「お、いらっしゃい」

 井周がニヤリと笑い、カウンターの引き出しを開けた。

「今からでも微調整は可能だから、確認してみて」

「ありがとう」

 カウンターに置かれた二つのジュエリーケースのうち、一つを開けてみる。

「うわー、すごい。イメージ通り」

 攷斗の顔にパァッと笑みが広がる。

「なら良かった」

 開けたのは自分用だったので、もう片方のひぃな用も開けて確認すると、やはり期待以上の出来栄えだった。

 これなら、いま計画しているジュエリーのラインも成功するに違いない。

「もしサイズ合わなかったらお直しするんで教えてください」

「うん、了解です。じゃあ、支払いはこれで」

 財布からクレジットカードを出して、井周に渡した。

「金額は昨日言ってたこれでいい?」

 井周が計算機を使って提示した額を「はい、それで」と攷斗が承認する。

 レジに打たれた額も同じかを確認して、クレカの暗証番号を打ち込んだ。

「ラッピングしますね」

「俺のほうは袋に入れてくれれば大丈夫なので、嫁のほうだけお願いします」

「はい、かしこまりました~」と、井周がラッピングをしながら口を開く。「奥さん、キレイな人だね」

「そーなんだよ。キレイだし可愛いし仕事できるし気が利くしでさ~」

「あ、ノロケは間に合ってます」

 ラッピングの手を止めず、井周が攷斗の話をバッサリ切った。

「いいじゃん、聞いてよ。まだ言える人少ないんだよ」

「今度どっかで呑んだときにね」

 はい、どうぞ。と二つの小さな袋を攷斗の前に置いた。

 それを受け取り、愛用のバッグに入れて

「じゃあ今度、これの感想も添えてじっくり聞いてもらうわ」

 井周を呑みに誘う。

「それはありがたい」

「また連絡するね」

「はーい、お待ちしてます」

 井周が手を振って攷斗を見送った。

 来た道と同じように速足でコインパーキングに戻り、家路に着く。マンションの地下でいつものように車を停め、自室のある階までエレベーターでのぼって自宅ドアを開ける。

「ただいまー」

 玄関を開けて、室内にいるであろうひぃなに呼び掛けるが、自分が室内でこんな風に声をかけられたことがないので、聞こえるかはわからない。

「おかえりー」

 少し間があって、ひぃなが廊下の奥から小走りに出て来た。

 朝と同じように、エプロン姿だ。

「お疲れ様。ご飯、もうすぐできるよ。お風呂先でもいいけど」

 ドアの開放とともにキッチンから鼻をくすぐる香りが流れてくる。いつもより遅い夕飯だから、言葉の代わりにおなかの音が返事をした。

「先にご飯食べたい」

「はーい、すぐ用意するね」

「手伝えることある?」

「ううん、大丈夫。ありがと」

「なんかあったら言ってね」

「はーい」

 さりげなく鞄をソファ脇に置いて、中身をすぐに取り出せるようにする。

「ちょっと、着替えてくるね」

「うん」

 攷斗が着替えに行っている間に、ひぃなが盛り付けを進める。

 大きな皿にメインの煮込みハンバーグをドカンと乗せる。付け合わせには茹でたブロッコリーと、バターソテーしたいんげん豆。大きめのカフェオレボウルには野菜たっぷりのコンソメスープを注ぐ。別のお皿に白いご飯をよそって終了だ。

(うーん、上出来)

 それぞれの工程は単純だが、我ながら満足のいく出来栄えだ。

「うわー! めっちゃうまそう!」

 着替えを終えた攷斗がリビングへ戻ると、テーブルの上に二人分の夕食が配膳されていた。

「簡単で恐縮ですが……」

「いやいや、めっちゃ豪勢だよ」

 攷斗は弾けそうな笑顔で手を合わせ、

「いただきます」

 ハンバーグを口に運ぶ。

「んー! んまい!」

 攷斗の満面の笑みにつられて、ひぃなも笑顔になる。

「良かった」

 味見はしたが、好みは人それぞれなので反応が心配だった。安心したところで、ひぃなもハンバーグを口に運ぶ。

「うん、おいひぃ」

 うなずきながら咀嚼していると、傍らで微笑む攷斗と目が合う。

「ん?」

 何か言いたげな瞳をしていたので短く問うと

「いや、幸せだなーと思って」

 攷斗が目を細めた。

 ひぃなは少し驚いて、少しあとに「うん」と短く同意して、はにかんだ。

 こうやって少しずつ、信頼を積み重ねていけたら、いつか素直に気持ちが伝えられるかもしれない。

 そんな期待を胸に、夕餉ゆうげを終えた。

 並んで洗い物をして、お茶を淹れソファでくつろぐ。

「そうだ。はい、これ」

 攷斗がソファの脇に置いたバッグから、小さな手提げ袋を取り出し、ひぃなに渡した。

「ありがとう……」

 両手でそれを反射的に受け取ったひぃなは不思議そうな顔をしている。

「開けてみて」

 言われるがままに中から取り出した包みを丁寧に開けると、横に長い手のひらサイズのジュエリーボックスが見えた。

(あれ? 納期明日なんじゃなかったっけ?)

 と思いつつその箱を開けると、

「わぁ……!」

 そこには結婚指輪と、誕生石が付いたベビーリングのネックレスが入っていた。

「それなら、石ついてても大丈夫でしょ? どっちもプラチナだけど、ネックレスはお風呂のときは外したほうがいいと思う」

「うん」

 ひぃなと攷斗、それぞれの誕生石が埋め込まれた小さな指輪が二重に組まれ、トリニティリングのようになっている。ベビーリングは良くある立て爪のものではなく、指輪自体に石が埋め込まれていて段差がない。どこかに引っ掛けてしまう心配がないので、どんな服にも合わせることが出来る。

「で、俺のは……じゃーん」

 ネックレスのかわりにブレスレットが入っている。留め具に二人の誕生石が配置された、シンプルなシルバーチェーンのデザインだ。

「わぁ、ブレスもかわいいね」

「でしょ? たまに交換しよ」

「うん」

 どちらもユニセックス対応のデザインなので、交換しても違和感はない。

 嬉しそうに指輪を取り出そうとするひぃなから「ちょいちょい」攷斗がボックスを取り上げた。

「自分でしちゃうかな」

 攷斗が苦笑して、二人分のケースを並べる。一方に二本の指輪を、もう一方にネックレスとブレスレットを入れる。

 ひぃな用のリングをケースから出して、「はい」左手を差し伸べた。乗せて、という意味だろう。

 嬉しさと恥ずかしさが混ざって、くすぐったい気持ちになる。

 無意識にはにかみながら左手を乗せると、攷斗はその薬指に指輪を付けた。そのまま緩やかにひぃなの手を握って、嬉しそうに、感慨深そうにその指を眺めて微笑む。

 いままでに見たことがないその穏やかな表情が、ひぃなの身体の奥をきゅんと締め付けた。

「俺も、いい?」

「うん」

 攷斗に倣って指輪を取り、左手の薬指にはめる。

 表面に少しのねじれを加えたシンプルな結婚指輪が、二人の左手、薬指に同じように輝く。

「これからも、よろしくね」

「こちらこそ」

 言って、気付く。

 これは偽装結婚なんだ、と。

 頭から冷や水をかけられた気分だが、それを攷斗に気取られないよう笑顔を浮かべる。

 いっそこのタイミングで聞いてみようか。

 この結婚には、どういう意味が込められていますか?

 私はあなたのことが好きだけど、あなたは私のことをどう思っていますか?

(……重いわ……)

 誰とでも良かったわけじゃないと言うその言葉の裏を、つい読んでしまう。

 私とが良かったわけじゃないのでは、と。

 それでも、こんなにも心を尽くしてくれているのだから……。

 気持ちを確認するような質問をしたら、攷斗を傷つけることになるだろう。

 それに、こんな表情を見せててくれるのに信じられないのは、自分に自信がないせいなのだ。

「ひな?」

 黙りこくるひぃなに、攷斗が声をかけた。

「えっ?」

「どうしたの?」

「あっ、ごめん。ちょっと、感慨深くて……」

 攷斗はその言葉に少し笑って、

「そうだね」

 照れくさそうにうつむいた。

 先ほどとは別の理由で、ひぃなの胸が締め付けられる。

「ネックレスも、付けてみていい?」

「もちろん」

 攷斗がネックレスを手に取って、金具を外す。両端を持って、ひぃなの首の後ろに腕を回した。抱き締めるような形のままで留め具をいじる攷斗の体温が肌に当たる。

 このまま胸に飛び込んだら、どんな反応をするだろう。なんて思うが、

「はい、できた」

 決心がつかないうちに身体が離れた。

「どう、かな」

「うん。似合ってる。かわいい」

 屈託のない言葉と笑顔に、こわばり気味だったひぃなの表情が緩む。

「ありがとう……」

 近くに鏡がないのが残念だ。

「たな……コウトも、付ける?」

「うん。お願いしていい?」

「うん」

 ブレスレットを手に取って、差し出された左手首に巻いた。

 攷斗は左手を持ち上げて、光にかざしてみたりしている。

「シンプルでかわいいね」

「でしょ?」

 一瞬回答の意図を考えて

「そっか。全部棚井がデザインしたんだ」

 思い出したように言った。

「そうだよ。えっ? 忘れてた?」

「ごめん。ジュエリーのデザインは見たことなかったから、ちょっと新鮮で」

「うちの会社でラインに加えようと思っててさ。それで、井周に立体化をお願いしてるの」

「そうなんだ」

 と指輪やブレスレットを眺める。

(ウタナのラインにありそう)

 ここのところお気に入りのブランド名が頭に浮かぶ。けれど、プロのデザイナーに別のブランドのデザインと似ているだなんて言いたくはない。しかもこれから始動するプロジェクトなのに。

「すごく素敵」

「ありがとう」

「洋服も、きっと素敵なんだろうね」

「……多分、見てると思うよ」

「え?」

「俺がデザインした服。知らないうちに、見てると思う」

「そうなの?」

 うん、と攷斗がうなずいた。

 事務とはいえデザイン会社勤務なので、一般の大人よりは知識が豊富なはずだ。攷斗の会社は【プリローダ】の取引先でもあるので、資料か何かを目にしている可能性は高い。

(休み明けに資料室行ってみようかな)

 なんて思う。

 もう一度、指輪を見つめてみる。

 シンプルで存在感のあるそのデザインは、見れば見るほど愛着が湧いてくる。

「大事にするね。ありがとう」

 遅ればせながらの礼に攷斗が照れ笑いを浮かべた。

「うん。俺も、大事にするよ」

 それはひぃなに向けての言葉だったが、攷斗は敢えて主語を抜かして伝えた。

「? うん」

 案の定、ひぃなは良くわかってなさそうに小さく首をかしげながら、笑顔で答える。

「そういえば…今日もお風呂じゃんけんする…?」

 ご飯を食べている間に準備完了のアナウンスが聞こえたのを思い出して攷斗が言った。

「私あとでいいよ。きっとコウトより時間かかるし」

「そう? じゃあ、お言葉に甘えて」

 前日悶々とした反省を生かして、甘んじて受け入れることにした。

「バスタブ、俺のあと嫌じゃなければお湯残しておくけど」

「うん、嫌じゃないから残しておいてください。出るときいつもどうしてる?」

「軽く掃除するからそれ流すのに使って、残り湯はそのまま流しちゃってる」

「わかった、やっておくね」

「ありがとう」

(やっぱりこまめにキレイにしてたんだな)

 シャンプーなどのポンプ類が床に直置きしない収納方法になっていたのを見てなんとなく感じてはいたが。

「じゃあ、行ってきます」

「はーい、ごゆっくりどうぞ」

 攷斗を見送って、いそいそと自室へ戻り鏡を見てみる。

(かわいい……)

 ベビーリングのネックレスは、遠目にはインフィニティマークを模したようなデザインに見える。永遠を誓うようなそれを、攷斗は果たして意図していたのだろうか。

 ふと、ゆるんだ表情の自分に気付き、恥ずかしくなる。

(そりゃ嬉しいよね……)

 そして問いかけてみる。

 ラックの一部をカスタマイズして作った簡易ドレッサーから、使っていない小さなトレイを持ち出した。着替えと一緒に持って行って、入浴時にネックレスを外して一時保管するために洗面所に置くつもりだ。

(こまめにお手入れしよ)

 左手を伸ばして照明を当ててみる。

 加工方法の違う曲面に光が反射し、通常時とは違ったニュアンスに見える。

(すごいなぁ)

 攷斗や井周の能力に改めて感心してしまう。

(私も頑張ろう)

 忙しさにかまけて読むのをやめてしまったテキスト本を取り出してみて、嬉しい気分になり、一人笑った。


* * *


 翌日、帰宅後の攷斗を出迎えたひぃなが

「どうしたの?」

 開口一番、攷斗に聞いた。

「え? なにが?」

「なんか…ごきげんみたいだから」

 ニコニコを通り越してニヤニヤしているが、本人にその自覚はないらしい。

「会社で色々聞かれちゃった」

 コレ、と左手薬指に光る指輪をかざした。

「そうなんだ」

 それ以上の言葉が見つからず、無意識にそっけなくなってしまった。けれど攷斗は気にしない。

「もーみんな目ざとくてさぁ。相手誰ですかーとかいつの間にーとか、めちゃめちゃ食いつき良くて~」

 どこかで聞いた話だなぁ、なんて思いつつ、ひぃなはキッチンへ向かう。

「アットホームな会社なんだね」

「そうね。そっちの会社がワンフロアに集まったみたいな感じかな」

「へぇ、楽しそう」

 ひぃなは、攷斗と堀河は同じカテゴリに分類されるタイプだと思っている。どちらもレスポンスが速い上にフットワークも軽く、仕事が出来る。

 人望も厚いので、人の上に立つ職業に向いている。

 あくまでひぃなの印象だが。

「転職してくる?」

「今の会社に特に不満ないからなー」

 味噌汁の鍋に味噌を溶き入れながら、ひぃなが笑う。

 攷斗は会話をしていた流れから、キッチンとリビングをつなぐ出入口からひぃなの後ろ姿を眺めている、

「もう長いもんね、あそこ」

「うん、立ち上げメンバーだからね。もう十年以上経つよ」自分で言って「うわー、長い」自分でヘコむ。

「すごいね。俺ひとつの仕事十年も続いたことない」

「まだ、これからでしょ」

「そうだね」

 夕食を作り終えて振り向くと、攷斗がニコニコしながらひぃなを見つめていた。

「できたよ、ご飯」

「うん、運ぶ」

「ありがとう」

 攷斗が配膳を手伝って、「「いただきます」」二人そろって夕食を食べ始めた。



 長いと思っていた連休も、あれやこれやとしているうちに折り返しになった。

 年末年始はどちらの会社も休業なので、二人でのんびり出来そうだ。

 新婚旅行を兼ねて近場の温泉宿にでも行こうかという話が持ち上がったが、さすがにどこも予約でいっぱいだったので諦めた。その話の流れからハタと気付き

「ところで、棚井さんにお伺いしたいことがあるのですが」

 ひぃなが攷斗に問う。

「…なんでしょう」

 改まった口調に身構える攷斗。

「お正月の前にはクリスマスという行事がございますが、棚井さんに於かれましては毎年どのような過ごし方をしていらっしゃいましたか?」

「…なんだ、急になにかと思った」

 攷斗はため息交じりに笑う。

「だって……」

 クリスマスと言えば、日本では“恋人同士のイベント”感が強い。

 過去のこととはいえ、男女関係にまつわるプライベートな部分にはあまり触れたくない。

「別に特になにもしてないなぁ。平日だと仕事だし、休みだからって男一人でケーキ食ってもねぇ……」

「えっ」

「え? そういうことじゃなかった?」

「ん、いや、そういうことだけど…」

(意外…)

 湖池からはかなりモテると聞いていたし、女性の後輩たちからの人気も高かった。

 恋人がいてもイベント事に無関心なタイプだったのかもしれないし、ひぃなも別にこだわりがあるわけではない。

「あーでも。クリスマスはやるつもりなかったけど、正月はおせち予約してあるよ。こないだ行った【笹本亭】のやつ」

 【笹本亭】は、二人で引っ越し当日に行った、一軒家をリフォームした和食の店だ。

「え、嬉しい」

「11月に予約して一人分のつもりだったから、そんなに量ないけど」

「全然いいよ。むしろ予定外に一人増えてごめん」

「嬉しい予想外だけどね」

 攷斗がスマホを操作して、「ほら、これ」とおせちの見本写真をひぃなに見せた。

「わぁ、美味しそう」

 しかし確かに二人分にするには内容量が少ない。真空パックに詰められた食材が届くよう。盛り付けの仕方も考えながら、

「追加でなにか作ろうかな……」

 温かい煮物系のレシピをいくつか思い浮かべた。

「マジで? やった。リクエストしていい?」

「うん、もちろん」

「うわー、嬉しい。贅沢な正月になりそう」

「大げさだよ」

 攷斗の口ぶりにひぃなが笑う。

「だってクリスマスも正月も一緒に過ごしたことなかったし」

「それはそうだね」

 というか、誕生日以外の世間的な【イベント】のとき、一緒にいたことがない。

 誕生日も、お互いに恋人がいた時期は、当日祝うことはしなかった。

「ホントは誘いたかったんだけど、悪いかなーと思ってたからさ」

「そうなの?」

「うん」

 まぁ、ひぃなもその気持ちがわからなくはない。

「今度の正月は一緒に初詣行こう。近所に芸事の神様が祀られてる神社があるから」

「うん。楽しみにしてる」

 と、会話が脱線したまま途切れてしまったので

「…ときにクリスマス…」

 話を戻すと

「やろう」

 即答した攷斗がスマホでケーキの予約を取った。

「……相変わらず仕事速いね…」

「一人の時もだけど、相手がいるときは特に、どっちかがその気になったときに行動しないとチャンス逃すから」

 実際、その理論で長年片思いをしていたひぃなをめとることが出来たのだから、攷斗の人生にとってそれは間違いではなかったと証明された。

「コンビニのだけど、ちゃんと美味しいからいいよね」

 予約したのは検索結果の上位に出て来たらしい大手コンビニエンスストアのケーキで、四人組の男性アイドルがイメージキャラクターを務めているらしく、予約用のサイトへリンクするバナーには正装した彼らの写真が載っている。

 彼らがプロデュースしたというケーキと、他にも数種類掲載されている中から、2~3人用の小振りなブッシュドノエルを選んだよう。

(中身は私より女子っぽいのかもしれない……)

 薄々感じてはいたが、喜び方やワードセンスに“女子”を感じるときがある。

「じゃあ…クリスマスも料理のリクエストをお受けいたします」

「やったー! じゃあ来週末の休みの日、一緒に買い出し行こう」

「うん。なににしよっか。チキンは食べるよね」

「食べる! あとはねー」

 攷斗がスマホを操作する。ひぃなが愛用しているレシピアプリをダウンロードしていたらしく、

「これ、お気に入りシェアできるんだよね? ID教えてよ」

 【マイページ】を表示してひぃなに見せた。

「うん、ちょっと待って」

 いつの間にと思いつつも、ひぃなもスマホを操作し、攷斗のIDと連携させる。

「全部作らないでいいけど、できれば食べたい」

 攷斗が追加したいくつかの【お気に入り】レシピを確認しながら

「全部作ったら食べきれなさそう」

 どんどん増えていくレシピの量にひぃなが笑う。

「全部じゃなくていいんだけどね。食べたいモノ入れてってるだけだから」

「普段出しても良さそうなの入ってるから、クリスマスとかじゃなくても作るよ」

「ほんとに?」

「うん、食べたいものあったら共有して? いつ作れるかわからないけど」

「いいの? めっちゃたくさん入れちゃうよ?」

「献立に悩まなくていいのは助かる」

 話している間にもどんどん【お気に入り】に追加されていくレシピは、確かにどれも美味しそうで、写真を見るだけでも食べたくなるものばかりだ。

「すごい量。全部作るのにどのくらい期間かかるかな」

「おじいちゃんとおばあちゃんになる頃にやっと作り終えるくらい追加するつもりだけど、俺も時間作って手伝うから安心していいよ」

 さりげなく笑いながら言った攷斗のその言葉に、ひぃなの胸が熱くなる。その言葉の意味の深さは、果たして自分と一緒だろうか。

「とりあえずこんなもんかな?」

 と、追加するのを攷斗がやめた。

「また知らないうちに増えてると思うから、確認お願いします」

「はい」

 業務口調の攷斗に笑いながら返事をして、いくつかクリスマス用に、と、個別に【お気に入り】フォルダを作って格納していく。

 一緒に【買い物リスト】も更新して、二人は少し早いクリスマス気分を味わった。


* * *


 土日と有休を含めた九連休が終わり、今日から出社再開だ。

 新居から会社までは前の家より近いので、朝に時間の余裕が出来た。新しい沿線の混雑具合がどのくらいかは不安だが、土地柄車の利用者が多そうなので、そこまでひどくないんじゃないかな、と思う。いままで使っていた路線が通勤時間帯には日本一混雑すると公表されていた路線だったので、それよりは確実にマシにはなるだろう。

 人波にのまれ、何度貧血で倒れてホームや救護室で休憩をしたかわからない。

 久しぶりの上、初めて使う通勤経路だからと、念のため予定よりも二本分早い電車に乗ってみる。やはり、すし詰め状態にはならなかったので、安心した。

 守衛室に社員証を呈示してオフィスへ向かうと、ちょうど出社してきた堀河とエレベーター前で遭遇した。

「あら、早いわね」

「社長こそ」

「いつも早めに来て朝ごはん食べてるのよ」

「あ、そうなんだ。知らなかった」

「出社していきなり社長室こっちには来ないもんねぇ」

「そうね、行かないね」

「始業までお茶でもする?」

「いいね。お邪魔じゃない?」

「うん。ご飯食べるだけだもの」

 始業まであと30分もあるので、お茶の一杯くらいは余裕だろう。エレベーターへ一緒に乗り込んで、社長室へ向かう。

「どうだった? 連休中」

「んー、まぁ、移住は完全に終わったって感じかな」

「今日は旦那も仕事?」

「そう」

「駅まで一緒だったとか?」

「いや、向こう車だし」

「あーまぁそうか」

 堀河も出先に行くことが多いから、自家用車通勤が主だ。

「送ってもらえばよかったのに」

「いやー、それに慣れたら電車乗れなくなっちゃう」

「そうねー。渋滞にハマるとしんどいけど、満員電車に乗るよりは楽かなー」

 オフィスフロアに着いて、社長室のドアを堀河が開錠した。慣れた様子で照明とエアコンをつける。

「好きなとこどうぞ~。お茶もどうぞ~」

 堀河がコートを脱いでポールにかける。

「はーい。サエコもなにか飲む?」

「ありがとう、ひぃなと一緒のでいいわ」

「りょうかい」

 ひぃなは脱いだコートとバッグをソファに置いた。ウォーターサーバーの横に設えられたフリードリンクコーナーから、紙コップとルイボスティーのティーバッグを取り、お湯を入れる。

「あちち」

 ふちを指先で持ち、テーブルへ置くと堀河が笑う。

「あんたもプラカバー使えばいいのに」

 サエコの分にはしっかり被せてある。

「いいよ、少しの間しかいないのに」

「んで? どうよ、新婚生活」

 堀河がひぃなの向かいに座り、コンビニ袋からおにぎりを取り出し開封しながら問う。

「んー? 楽しいよ? 元々気が合うのはわかってたし 家事も手伝ってくれるし」

「そう。良かったわね」

 おにぎりを食べながら嬉しそうに言う堀河。

「うん」

「あれ?」

 ひぃなの左手に視線を移して細目になる。さすが目ざとい。

「あらあら」

「気付くの早いね」

「そりゃそうよ。棚井デザイン?」

「そう」

「わー、愛されてるわねー!」

「私よくわかんないんだけど、デザイナーさんって自分でこういうの作りたい人ばっかなんじゃないの?」

「そうでもないわよ。服飾畑の人だとジュエリーのデザイン自体やらないって人もいるし。棚井が器用ってのとマメってのもあるんじゃない?」

「それはそうだと思う」

「いいじゃない、似合ってるわよ」

「ありがとう」

 実はネックレスもしているのだが、それは服の中に入れているので気付かないようだ。

「棚井も会社で色々聞かれたんじゃない?」

「あー、ねぇ……」

 気恥ずかしくて攷斗の話はサラッと流してしまったが、攷斗は皆の質問にどう答えたのだろうと今更気になってくる。

 無理に着けなくていいよ、という提案をあっさり却下し颯爽と出勤していった攷斗とは真逆に、ひぃなは堀河が朝礼で開示していなければ、結婚指輪はおろか、入籍したことすら言うつもりはなかった。

 いままでは自分ばかりが不安かと思っていたが、自分が攷斗を不安にさせてやしないかと心配になる。

 ふと、ひとつの可能性が脳内に浮かんだ。

「もしかしてさ」

「んー?」

「棚井になんか言われた?」

「なにを」

「結婚したこと、会社で報告してください、みたいな」

 堀河が意外そうに目を丸くする。

「ああいうの、私があんまり好きじゃないのわかってるでしょ。サエコがわざわざするかなと思ってさ」

「まぁ、棚井に言われたかどうかは別にして、朝礼で言うかどうかは私の判断によるんだからさ。棚井の意志はあんまり関係ないかも?」

「そっか」

「なにか言われたの?」

「ううん? もしそうだとしたら、あんなに怒って悪かったなと思って」

「いいわよ。たまには感情、表に出したらいいのよ」

「めんどうなんだもん」

「まぁ、私もあんまり負の感情は表に出さないようにしてるけどさ」

「そりゃ職業病でしょ」

「お互い様でしょ」

 へへっと笑い合っていると、ドアがノックされて開き、

「「おはようございまーす」」

 社長秘書が二人そろって入室してきた

「はい、おはよう~」

「わ、時森さん、おはようございます」

 熱海がパッと笑顔になる。

「おはようございます」

「もうそんな時間か」

「じゃあ私、行くね」

「うん」

「えー、まだいいじゃないですか」

「遅刻しちゃいますよ」

 ひぃなが笑って言って、まだ半分ほど中身が入ったコップを持ち事務室へ移動する。途中で久々に会った後輩たちと合流して、自席に荷物を置いて朝礼場所である大会議室へ向かう。

 特に変わったこともなく朝礼が終わり、事務室へ戻る途中で黒岩を見かけた。長身で人より頭一つ、物理的に抜きん出ているのですぐにわかる。振り向かれそうになったので即座に視線を逸らし、素知らぬ顔で見なかったことにして自席に戻った。

 有難いことに連休中の書類は全て処理されていたので、溜まったメールを30分ほどかけて確認し、対応が必要なものだけ返信や処理をするだけで良かった。

 個別で担当していた業務は、前もって休暇取得を相手先に報告の上、後輩に一時的な担当として動いてもらっていたので、特に問題もない。

(ありがたい……)

 後輩たちに感謝しつつ、一日の業務を終えた。


 何事もなく帰宅して、オートロックの共用玄関ドアを開ける。

(あ、郵便受け)

 エントランスを入ったところに全戸分の郵便受けと宅配ボックススペースがある。個人情報流出防止のためか、名前を掲げている部屋も少ない。

 自室の部屋番号を確認して中を除く。数点の郵便物が入っていたので開けようとして

(……番号、聞いてない)

 気付く。

 宅配ボックスもカードキー式なので、それを持っていないひぃなには開けられない。

(棚井が帰ってきたら聞かなくちゃ)

 様々な登録の住所変更登録は終えているので、自分宛の郵便物や荷物もここに届くはずだ。それらを全部を攷斗に取り出させるのは申し訳ない。

 今日のところは仕方がないので、そのままにして部屋へ帰る。

 部屋着に着替えてエプロンを着け、夕飯の準備に取り掛かった。休暇中とは違って、攷斗が帰宅するまでにあまり時間がない。

 朝食を作るとき一緒に仕込んでいた炊き込みご飯に合うおかずとして、下ごしらえしていた食材と作り置きの常備菜を活用する。

(毎週土曜は下準備の日にしよう)

 この先のことを考えつつ料理を作っていく。

(買い出しのために毎回車出してもらうの悪いなー)

 と、通販の利用も検討してみる。

 そうこうしている内に、

「ただいまー」

 攷斗が帰宅してきたので、

「おかえりー」

 キッチンから返事をする。ちょうど炒め物をしていたので、手が離せず声だけの出迎えになってしまった。

「ひなのクレカ届いてたよ」

「ありがとう~。あとで確認する」

「うん、お願い。郵便受け、勝手に開けちゃってよかったのに」

「あ、そうだ。帰ってきたら番号聞こうと思ってたんだった」

「あれ、教えてなかったっけ」

「うん。あと、宅配ボックスのカードキーも持ってない」

「そっか、ごめん。実家出て以来誰かと一緒に暮らしたことなかったから、多分色々教えそびれてるわ」

(そうなんだ)

 と内心安心して、少し後ろめたくも感じる。きっとその感情は、ひぃなにとって攷斗が“初めての相手”じゃないから。

 自然と湧いたそれはただの欺瞞かもしれない。けれど、自力で消す術もわからない。

 それに気付くことはなく、ソファの隅に郵便物の束を置き攷斗がキッチンへ移動した。

「他にも、俺が家にいないときで困ったことあったらメッセちょうだい。仕事でも使うから、割とすぐ返せると思う」

「うん。ありがとう」

「っていうか、ひなは……」

 気軽に聞こうとして、何かを思い出したように口をつぐんだ。

 家庭環境か元婚約者とのことか……内容を察したひぃなが攷斗を窺いつつ口を開く。

「……聞きたいなら、話すけど……」

「……いや、大丈夫」

「……うん」

 それ以上の言葉を紡げない。

「ごめん、着替えてくるわ」

 気まずそうに言って、攷斗がその場を離れた。

「はい」

 正直どちらを聞かれても答えづらかったので助かった。家庭環境はともかく、元婚約者の話はもうほとんど忘れていて、話そうにも簡単な事実を伝えるしかない。

 攷斗が着替えている間に味見をして料理を仕上げる。

 女性にしては背が高い部類に入るひぃなでも腰をかがめることなく使える高さのキッチンは、使い勝手が良く体に負担もかからないので有難い。

(小柄な人だったらずっと背伸びかな。ヒールが高いスリッパとか履けばなんとかなるか)

 よもや内装を決める際、一緒に住む相手をひぃなで想定していたとは気付きもしないし、攷斗も言う気はなさそうだ。

「手伝うよー」

 着替えから戻ってきた攷斗は、いつもの様子でひぃなに声をかける。

「ありがとー。カウンターの上の物を運んでください」

「了解」

 リビング側に回って、攷斗がカウンターの上を確認した。

 今日の献立は肉じゃがにほうれん草とベーコンのソテー。しめじの炊き込みご飯に中華風のわかめスープだ。

「あー、今日のごはんも旨そう」

 言ったと同時にお腹がグゥっと鳴る。

「反応が素直だよね」

 その音が耳に届いていたひぃなが笑う。

「脳と体が直結なんだよね」

「いいと思う。瞬発力ありそう」

 手を洗い終えたひぃなが、カウンターに残った皿をテーブルに運ぶ。ソファ横でエプロンを外して

「お待たせしました」

 ソファに座り、攷斗に声をかけた。

「いえいえ。では」

 手を合わせるのを合図に

「「いただきます」」

 二人で声を揃えて、食事を始めた。


 先ほどの気まずさはなかったことにして、団らんの時間を過ごす。

 もう何年も前から一緒に住んでいるような感覚が、不思議だし気恥ずかしい。そして、愛おしくてたまらなく、もう、手放したくない。

 そんな想いをいだきながら、今日も一日を終えた。


* * *


 連休が明けて、早いもので一週間|(正確には五日)が経ってしまった。

 折しも世間はクリスマスシーズン。当日まであと一週間と数日ともなると、街中のディスプレイやショーウィンドウ、街路樹までもがクリスマス装飾で飾られている。

 街が色付き始めると、今年もそろそろ終わるなぁ、と実感する。雰囲気は明るくなるし、街ゆく人たちの表情もどこか楽し気で少しだけ心も弾む。とはいえ、アパレル業界は季節を先取りしているので、毎年一般的な大きい行事があるたび体内の時系列がおかしくなる。十年も経験すれば、さすがに克服出来ているが。

(個人的には特にこれといって別にって感じだったけど……)

 幼少期はそんなイベントとは関係のない暮らしをしていたし、同棲をしていた頃もお互いあまりイベント毎に関心がなかったので特に何もしていなかった。

 堀河家で暮らしているときは毎年ファミリーパーティーに参加していたが、そこを出てからというもの、クリスマスはただ過ぎていくだけのイベントだった。

 仕事柄必要なので、知識を蓄え、年間行事として押さえているだけ、という印象。

 でも今年は違う。

 仕事が速い攷斗のおかげで、クリスマスケーキの予約が出来た。明日にはディナー用の食材を買い出しに行く予定だ。

 仮装をするつもりなど毛頭ないが、部屋の飾り付けくらいは何かやってもいい気分になってくる。

 ふと、暗い道の途中で暖かな灯りに照らされた一件の雑貨店に目が留まる。

 会社帰りに通る道で、いつも気になってはいたが入店することはなかったその店は、今年の初め頃にオープンした新しい店だ。

 北欧系の家具や雑貨を取り扱う素朴で可愛らしい店頭に、大きなツリーが飾られていた。LEDの小さな電球が規則的に明滅を繰り返し、その存在をアピールしている。

(さすが本場……)

 ついつい足がそちらに向いてしまう。

(可愛いなー)

 そろりと店内に入る。

 間口から想像していた以上に店中は広く、しかし所狭しと雑貨が並べられている。

(かわいい~!)

 ひぃな好みのテイストで埋め尽くされた店内を回って見るうちに、自然とテンションが上がっていく。

 一角に特設コーナーが設けられており、クリスマスグッズが目に眩しいほどにディスプレイされていた。

(やっぱりなにかしようかなぁ)

 ひぃなの膝丈くらいの棚に、小さなツリーのセットが置かれているのに気付く。

 蓋が外された箱がOPP袋で包装され、セットの中身が見えるようになっている。

 紙の緩衝材が敷き詰められた箱の中央に60cm程度の白いツリー。その周りに、カラー分けされ、瓶詰めされた小さなオーナメントが収まっていた。

 すぐ脇には見本として、中身を使って飾り付けられたツリーが立っている。

(えっ! 可愛い!)

 しゃがんで、目線の高さをツリーに合わせる。

(えぇー、どうしよう。キッチンのカウンターに置くのに丁度よさそうな大きさだけど~……邪魔になるかなぁ~)

 値段を見ると、一番価値の高いお札が一枚とちょっと。

(オーナメント凝ってるもんね~)

 うーん、と悩んで、しかしやはり心惹かれた事実には逆らえなくて、未開封の箱を手にレジへ向かった。

(もし邪魔だったら自分の部屋に飾ればいいや)

 大きな紙袋を持って駅へ向かう。うっかり時間を使ってしまったため、いつもより帰宅が遅れそうだ。

 冷蔵庫の中身を思い返し夕食の献立を考えながら少し速足で歩いていると、バッグの中でスマホが着信音を奏で始めた。

「ん?」

 歩く速度を落として画面を確認すると、攷斗からの着信案内が表示されている。

「はい」

 道の隅に寄って電話に出る。

『ひな、後ろ後ろ』

「え?」

 攷斗に言われるがまま振り向くと、見覚えのある車が路肩に停まっていた。

「えっ」

 あまりの偶然に驚いて車に歩み寄る。中をのぞくと、運転席に満面の笑みを浮かべた攷斗が座っていた。もちろん、電話中だ。

『乗ってよ』

「うん」

 通話をやめて、助手席に乗り込む。

「びっくりした、よくわかったね」

「うん。そのコート良く着てるし、ひななら後ろ姿でわかるよ」

 そういうものかと感心してしまう。ひぃなの気配を察知する“アンテナ”が攷斗に備わっているとは思いもよらないようだ。

「打ち合わせで近くまで来たんだけど、偶然見かけてさ。このまま直帰するから一緒に帰ろうよ」

「うん、ありがとう。あ」

「ん?」

「お仕事お疲れ様」

「ひなも、お疲れ様」

 ニコニコと笑い合って、ひぃながシートベルトを締める。

「荷物後ろ置く?」

 正方形の大きな紙袋を抱えるひぃなに気付き、攷斗が提案する。

「そうだね」

「いいよ、貸して」

 シートベルトを外そうとするひぃなから紙袋を預かり、後部に身体を伸ばして座席に置いた。

「ありがとう」

「いえいえ。じゃあ行こうか」

「うん」

 正面に向き直り、攷斗が車を発進させる。

「どっか寄りたいとこある?」

「うーん、明日の分の買い出しを今日行っちゃうとかくらいかなー」

「あー、そうだね。買うものもう決まってるの?」

「うん、一応リストは作ってある」

「おっけー。じゃあスーパーも行くとして、その前にちょっとドライブでもしない?」

「したいけど~」

「けど?」

「ご飯の支度できてないから、夕飯遅くなっちゃうなーって」

「いいよ、どっかで食べてこうよ。久しぶりにデートしたいし」

(久しぶり……?)

 攷斗的にはデートのつもりだったひぃなとの時間は、ひぃなにとっては後輩と交流の時間という意識が強かった。

 誰か他の女性とのことを言っているのかな? とコメントに窮していると、

「すごく不思議って顔されるの、ちょっと不服なんですけど」

 攷斗が拗ねたような面白いものを見るような顔で唇を尖らせた。

 何か言わなければと思いつつも言葉が出てこず、口を小さく開けたままひぃなが考えこんだ。

 仕方ないなぁ、と言いたげな笑顔で

「俺的には、結婚前にひなとメシ行ってた時間は、デートのつもりだったんだけどな。言わせないでよ、恥ずかしい」

 ひぃなの回答を待たず攷斗が一気に言った。一瞬遅れてその言葉の意味を理解したひぃなが、密かに顔を赤らめる。

 そしてますますなんと言っていいかと悩みだす。

「そんなに悩まれるとかえってつらい」

 信号待ちで前を向いたまま攷斗がぽつりとつぶやいたので、しかし謝るのも違うと思い、ひぃながあぅあぅと小さく慌て出した。

「……ごめん、冗談」

 ひぃなを見つめて攷斗が微笑む。

 ひぃなはまだ困った顔のまま、攷斗を見つめ返した。

「かわいいなぁ~」

 デレッと笑い、頭を撫でようと伸ばした手に、ひぃなが身体をビクリと縮こませる。そのすぐ後に、しまった、という顔になる。

 攷斗はその反応で一瞬手を止めるが、少し速度を落としてひぃなに近づけて、髪を撫でた。

(前にもこんなことあったな)

 そう思い返しつつ、攷斗はひぃなの頭からハンドルに手を戻した。

 照れたような困ったような顔でひぃながうつむく。

 信号が青に変わり、隣の車線で車が動き出す。ゆっくりとアクセルを踏み、攷斗も車を発進させた。

「ごめんね? 俺、けっこうエスっ気あるから、ひなが困ってる顔してるの可愛くて、もっと困らせたくなっちゃう」

 少し冗談めかした攷斗のそのセリフ通り、ひぃなはもっと困ったような顔になる。窓の外に視線を移すと

「……お好きにどうぞ……」

 タイヤとアスファルトがこすれる音にかき消されそうな小声でつぶやいた。

(うわぁ! かわいい!!!)

 家の中でやられてたら押し倒していたかもしれない、と、攷斗が人知れず安堵の息を吐く。

「あ、ほら。ここからの大通り沿い、イルミネーションにチカラ入れてるとこだよ」

「わ、すごい」

 パッと、ひぃなに笑顔が戻った。

 立ち並ぶ街路樹にLEDの照明が巻き付き、その全てがクリスマスツリーのように輝いている。クリスマス前ならではのその光景を、攷斗はいつかひぃなと見たいと願っていた。

 カーステレオから19時の時報が聞こえる。

「もう少し走りたいんだけど、いいかな」

「うん」

 先ほどとは打って変わって明るい表情のひぃなが、子供のように無邪気にうなずく。

(あぁ、もう、かわいいな)

 心の中でモダモダしながら、攷斗は車を走らせた。


* * *


「こちらへどうぞ」

 海沿いの夜景が見えるレストラン。その窓際の席に、ウエイターがひぃなと攷斗を案内する。

 ドレスコードのない気さくな店だが、雰囲気は高級レストランのそれだ。

 ひぃなは予想外の展開に戸惑いながらも、攷斗のエスコートに身を任せる。

(これは確かにデートだわ)

 いままで二人で行く店と言ったら居酒屋か、少し大人向けのレストランが多かった。

 しかし、結婚前の関係性でここに連れてこられたら、少し身構えていたかもしれない、とひぃなは思う。

 慣れた様子でオーダーを進める攷斗は、いつも見ていた彼とは違う、少し大人びた雰囲気をまとっている。いや、実際に大人なのだが。

(こりゃモテるよね)

 湖池から(何故か)逐次聞いていた攷斗の恋愛遍歴にも納得がいく。

(私で良かったのかな)

 攷斗より年齢も上で、そこそこ離れている。正直結婚なんてもうしないんだろうな、と思っていた節のあるひぃなは、少しの不安を覚える。

「以上で」

「かしこまりました」

 攷斗をぼんやり眺めて考えているうちに、オーダーが完了したようだ。ひぃなの視線に気付き、攷斗が首をかしげる。

「どしたの?」

「ううん? 大人になったんだなって思って」

「え? 出会った時から大人だったんだけど……。いままでなんだと思ってたの?」

「若くて可愛い新人の後輩」

「え? で? いまは?」

「いまはー……可愛い、年下の、旦那さん……?」

「疑問形だし大人どっか行ってるし」

 笑いながら攷斗が突っ込みを入れる。

「あれ?」

「いいよ、ゆっくりで。結婚してからまだ一ヶ月も経ってないんだし」

「そっか……そうだよね」

 あの怒涛の展開からまだ数週間しか経っていないことに驚きを感じる。脳内の時系列がぐにゃりと曲がって、どこかおかしなところで繋がってしまったような感覚が拭えない。

 目の前にいる“夫”は、先月末まで“職場の元後輩”だった。

 なにがどうして――。

 けれど、目の前にいる攷斗は、この先一緒に人生を歩んでいく、パートナー。それはもう紛れもない事実で。

(カッコカリって、いつ取れるんだろう……)

 途切れた会話の静寂しじまに、ふと思う。

 “偽装”とか“(仮)”とか、そんなそぶりを見せない攷斗に聞くのはためらわれるその疑問。

(両想いだって、思っていいのかな)

 そっと攷斗を見つめてみる。

 穏やかな表情で窓の外を眺める攷斗の横顔。

 その目線はすぐにひぃなに移った。

「ん?」

 手に顎を乗せ、その頭を少しかしげる。

(かわいいなぁ)

 攷斗がひぃなに思うように、ひぃなも攷斗が可愛い。

「キレイだね、夜景」

「うん」

 二人で夜景を眺めていると、ウエイターが皿を持ってやってきた。

「失礼いたします。こちら前菜の……」

 説明と共に出される料理の数々を、目でも舌でも満喫した。



 夕飯というよりディナーと形容したほうが似合う食事を終えて、スーパーで買い出しを済ませてから家路に着く。

「あー、楽しかった」

 ジャケットを脱いで攷斗がソファに座った。

「もうこのまま寝たい」

「せめて着替えたら?」

 同じ気持ちを抱くひぃなが、自分にも言い聞かせるかのように笑いながら言った。

「うーん…。あ。お風呂先どうぞ。いま入ると風呂の中で寝そう」

「ありがとう。ほんとに寝るなら、お部屋戻ったほうがいいよ?」

「うん」

 とろんとした目付きで攷斗が返事をする。

 仕事帰りに長く運転させて申し訳なかったなと思いつつ、やはりひぃなも楽しかったので十二分に感謝した。

 買ってきたものを冷蔵庫や保管棚に格納し、

(ツリーは明日飾ろうかな)

 自室に置いた大きな紙袋の中身に思いを馳せる。

 攷斗が興味を持ったら一緒に飾り付けるのも悪くない。

「お風呂行ってきます」

「いってらっしゃい」

 いまにも寝そうな表情で手を振り、攷斗がひぃなを見送る。

(確かにこれは寝ちゃいそう……)

 湯船に浸かると長くなりそうなので、サッとシャワーを浴びてリビングに戻ると、攷斗はソファに座ったまま寝息を立てていた。

(子供みたい)

 そっと隣に座ってみる。前かがみになって顔を覗き込む。

「……風邪ひくよ~」

 小さく呼び掛けるが反応はない。

「コウトー」

 名前を呼んでも、規則正しい寝息が返ってくるだけ。

(ほんとに寝てる……)

 座面に置かれた攷斗の手を少し触ってみるが、反応はない。

(起きない…よね……?)

 そのまま指を滑らせて、手のひらを重ねてみる。

(大きい…。やわらかいし、あったかい……)

 少しだけ指に力を入れて握ってみる。初めて繋ぐ攷斗の手。感触も、体温も、心地が良く離れがたい。

(…カッコカリって……いつ、取れるんだろう……)

 繋いだ手を眺めながら思う。

 ……すき。

 とつぶやこうとして口を開いた瞬間、攷斗の指先に力がこもって、ひぃなの手を握った。

「!!」

 思いがけない動作に驚き、手を離そうとするが適わない。

「ひな……?」

 寝ぼけた声で攷斗が名前を呼ぶ。

「……はい……」

 ひぃなはそれに小さく返事をするが、攷斗の意識は夢と現実の狭間にいるようだ。

 ピントが合わない目線で、攷斗がひぃなを見つめる。

「……たない、さん……?」

 次の瞬間、攷斗の身体がひぃなをゆっくり押し倒した。

(ひょえ?!)

 脳内で変な声を上げて、ひぃながソファに倒れこむ。

「た、棚井……?」

「ひな……」

 ひぃなの胸に、攷斗の声は埋もれて、くぐもっている。

 攷斗はひぃなに覆いかぶさったまま、再度寝息を立てた。

(寝ちゃった……?)

 着痩せするようで気付かなかったが、筋肉質で意外に重い。完全に力の抜けた攷斗の下から這い出すのは難しそうだ。

 エアコンが付いているので寒くはないが、乾燥しそうなので風邪は心配だ。

 とはいえ、攷斗が起きるか動くかしないとひぃなも身動きが取れない。

 明日は土曜。休日出勤があるという話も聞いていない。明日が仕事なら無理にでも起こしてベッドへ連れていくところだが……

(潰れそうなほど重いわけでもないし…いっか……)

 ソファに置かれていたクッションを枕替わりにする。

 攷斗の暖かさと重みが心地良い。規則正しい寝息に同調して呼吸をすると、ひぃなにも眠気が襲ってくる。

(起きたとき…驚くかな……)

 攷斗が自分にそうするように、そっと頭を撫でる。セットされていない髪は案外猫っ毛でやわらかい。

(ほんとの猫も、こんな感じかな……)

 ぼんやりとそんなことを考えていると、ひぃなの意識が緩やかに消えてゆき、やがて眠りに落ちた。


 ……………………

 …………

 ……


「…ケホケホッ…んん……」

 自分の咳で攷斗が起きる。

(のど乾いた……布団…こんなだったっけ……?)

 頬ずりをした布地越しのやわらかい感触に違和感を覚え、瞼を開ける。

(え?)

 明らかにベッドに敷いたシーツや布団ではない色合いにぎょっとして、その正体が何かを確認しようと目線を動かすと、自分のものではない手と身体が目に入る。

「!」

 それが誰のものなのか。

 瞬間で思いあたり、慌ててソファの座面に手を付き、身体を起こした。

「んぅ……」

 重さから解放されたその身体が声をあげる。ひぃなだ。

(ヤッ…! ちゃっ…てない……よな……?)

 思わず双方の服装を確認してしまう。

(あぶねー……)

 勢いに任せて襲ったわけではなさそうで安心する。というか、何かあったとしたら覚えてないとかもったいなさすぎる。

 とはいえ、ヤッてはいなかったが“やってしまった感”は拭えず、夕べのことを思い出そうとして早々に諦めた。

 ひぃなが風呂へ行くのを見送ったあとの記憶がまったくないからだ。

(とりあえず、落ち着こう)

 息を吸って、喉が渇いていることを思い出す。エアコンのせいか、肌も乾燥している感じだ。

(なんか飲み物……)

 ひぃなを起こさないようにそっとソファから降りて、冷蔵庫へ向かう。お茶の入ったピッチャーと、ひぃなの分と併せて二つのコップを持ってリビングへ戻る。

 無防備な恰好で眠るひぃなを起こさないよう、床に座った。冷えたお茶を流し込むと、身体が目覚めてくる。

(マジでこれ、どういう状況……?)

 無理な体制で寝ていたのか、身体が痛い。

 眠っている間ずっとひぃなに覆いかぶさっていたとしたら、ひぃなも苦しかったはずだと気付き、苦笑を浮かべる。というか、頬ずりした布越しのあの柔らかい感触は……? と追及しようとするが、背後でゴソリと動く気配がした。振り向くと、ひぃなが寝返りを打っていた。

 何かに気付いたように瞼がゆっくりと開く。

「ぁ……おはよ……」

 少しかすれた声。やはりひぃなの喉も乾燥しているようだ。

「おはよう……ごめん」

「んぅ? ぜんぜん?」

ケヒン、と咳をして、ひぃながゆっくり起き上がった。

「お茶、冷たいけど、飲む?」

「ん、もらう」

 コップの半分ほど注いで、ひぃなに渡した。それをゆっくりと飲み下して、

「体痛くない? 大丈夫?」

 攷斗に問うた。

「俺は大丈夫。ひなこそ…」と、なんと聞いていいかわからず「…重くなかった?」先ほどの心配を声に出してみる。

「重かったけど…まぁ、別に……」

 コップを置き、両手を開いたり閉じたりしている。

「俺……なんか……」

 万が一何かしていたら、それを聞くのは甚だ失礼だが、聞かずにいられるほど安心も出来ていない。

「してないよ?」

 言葉尻を察したひぃなが微笑んで伝える。

「なにも、されてない」

 言外に“大丈夫”という言葉が見える。

「そっか……良かった」

と、攷斗が安堵の息をつく。

 その言葉の先の分岐点が二つ見えるひぃなには、複雑な思いが生まれてしまう。

 “大事にしたいから”なのか“責任を取りたくないから”なのか。

「あ…。誤解、しないでほしいんだけど……」

 攷斗が気まずそうに口を開く。

「その……勢いに任せて、なにかしちゃわなくて良かったって意味で…その……したくない、とかじゃないというか……いや、この言い方もおかしいな……」

 心の声が漏れていたのかと思うくらいピンポイントな弁明に、ひぃなは安心したように優しく微笑んだ。

「うん…大丈夫」

 少し寝癖の付いた髪。眠そうな顔で笑うひぃなが、愛しくてたまらない。

 舌の根も乾かぬうちに抱き締めたい気持ちに駆られるが、グッと堪えてもう一杯お茶を飲む。

「いま何時だろ」

 窓から差し込む光はやわらかく、まだ午前中なのではないかと推測される。

 リビングに設置されたHDDに【6:01】と表示されていた。

 いつもより早く寝た分、いつもより早く起きたという感じ。

「今日、どうしよっか」

「買い出しは昨日できたし、ゆっくりしない?」

「そうだね。とりあえず俺、シャワー浴びてくる」

 帰宅してそのまま眠ってしまったので、埋め合わせと目覚ましのために赴くことにする。

「うん、行ってらっしゃい」

 眠たさと眩しさに目を細めたひぃなが、ゆるりと手を振り送り出した。


 攷斗がシャワーから出ると、今度はひぃなが舟をこいでいる。

(やっぱり熟睡できなかったか)

 そっと隣に座り

「ひなー?」

 小声で呼び掛けてみる。

「ん……」

 寝ぼけ眼でひぃなが返事をしたので、

「眠いなら無理しないで、ちゃんと寝なおしてね?」

 優しく問いかけた。

「んー……」

 ぐずる子供のようにひぃなが攷斗の肩におでこを当てて、ぐりぐりと擦り付ける。

(うぉっ!)

 猫のような愛らしさに攷斗が脳内で声を上げた。

「ひな?」

「んー……」

 寝ぼけているのか、その体制をやめないひぃなの頭に手を乗せる。

「部屋戻る?」

「……だいじょぶ……」

 と息を大きく吐き、ハッと息をのんでひぃなが覚醒した。

「ごっ、めん…!」

 勢いよく離れるひぃなに、攷斗は驚いた顔を見せる。

「いや……」

「寝ぼけてた…ごめん」

「いや、いいよ、別に」

(もうちょっと甘えててくれればよかったのに)

 と口に出そうとしたのを、

「朝ごはんの支度するね」

 慌てて立ち上がったひぃなが遮る。

「眠いなら無理しないでいいよ。ちゃんと眠れなかったでしょ?」

「そう…でもない……」

 攷斗の重さと温もりは存外に心地良くそのまま溺れてしまいそうで、最初のうちは襲ってくる眠気に少し抗っていた。それでも、その心地良さには抗えず、思っていたよりスムーズに眠りに落ちた。

「なにか手伝う?」

「うーん…いまのところ大丈夫。なにかあったらお願いします」

「うん」

 小走りにキッチンへ向かうひぃなの後ろ姿を眺めながら、身体に残ったひぃなの残滓を追う。それは不確かで、先ほどまで腕の中にいたのが嘘のようだ。

 すでに朝の恒例となった、料理中のひぃなの姿を眺めながら、

(もったいない……)

 ついそんな風に思ってしまう。

 せめて意識のあるときに意識のないフリをしたかったなぁ、と。しかし同時に、そんな意識のないときにしか行動に移せない自分の意気地なさを恨めしく思った。

 攷斗のやるせなさを余所に、ひぃなは朝食の支度をする。

 休日だし、しっかり和食にするつもりだったが昨晩やるはずだった予定の仕込みが何も出来ていない。

 仕方ないので、いつもの朝食と同じくパン食にした。せめてもの抵抗で、ただトーストするだけではなく、牛乳と卵液に浸してフレンチトーストを作る。ハムステーキと一緒に食べると、甘じょっぱくてなかなか良い組み合わせだった。

 朝食を食べ終えてもまだ午前7時を過ぎたあたり。買い出しに行くにはまだ早く、二度寝をするには微妙な時間。

「ちょっと、着替えてくるね」

 ひぃながまだ寝巻のままだったのを思い出して、自室へ戻った。

 そこで大きな紙袋を見つける。

「あ」

(忘れてた……)

 中には昨日買ったミニツリーが入っている。

(ちょうどいいかも)

 着替え終わって、リビングへ行くときに袋ごと持って行ってみる。

「コウト~」

「ん~?」

「昨日こんなん買ったんだけどさぁ」

 と、紙袋を見せてみる。

「あぁ、中身なにか気になってたんだよね」

 攷斗の隣に座り、紙袋から簡易包装された箱を取り出した。

「ツリー?」

 外箱に描かれたイメージ画を見て、攷斗が言った。

「うん。ディスプレイがすごく可愛くて思わず買っちゃったんだけど……」

 包装を外して、蓋を開けた。

「うわ、なにこれ。めっちゃ可愛いじゃん!」

「ね、可愛いよね?」

 攷斗は箱を持ち上げて中身をマジマジと眺めている。

「邪魔じゃなかったら、カウンターに飾ってもいい?」

「飾ろう飾ろう。一緒にオーナメント付けようよ」

「うん」

 思いのほか嬉しそうなひぃなの笑顔に、攷斗もつられて笑顔になる。

 二人して子供のようにはしゃぎながら、キッチンカウンターに中身を全部並べ、ツリーの定位置を決めた。

「なんか、キレイに見える法則があるみたい」

 以前テレビで視た知識を思い出して言った。

「へぇ。調べてみよっか」

 攷斗がジーンズのポケットに入れていたスマホを取り出し、検索してみる。

「お、これ?」

「あ、そうそう」

 どの色をメインにするか、そしてどの飾りを基盤にするか。ツリーに飾り付けをするときの法則が、画像と共に紹介されている。

 攷斗とひぃなはあれこれ話し合いながら見栄えが良いようにオーナメントを飾っていく。

 オーナメントの中には動物を模したものがいくつか入っていて、それはツリーに付けるのではなく、その根元、カウンターの上に直に置いた。

 段々と箱庭を作っている気分になる。

「うわー、これ、脳内でなんか出てる感じすごいする」

「わかる」

 あれやこれやと試してみつつ、

「…うん、いい感じじゃない?」

 二人で遠目から眺めて、顔を見合わせうなずいた。

 その小さなツリーは、クリスマスが過ぎるまでの間、ひぃなと攷斗を楽しませてくれた。


* * *


 慌ただしく仕事納めをしたら、あとはもう年を越すだけ。


 近くに神社があるとはいえ、除夜の鐘が聞こえるような距離でもなく。

 二年参りするには人が集まりすぎる人気スポットとのことで、年が明けた昼過ぎにゆっくり出向くことにした。

 前日届いたおせち料理のパックを開けてお重に詰め替えつつ、三箇日用の煮物類を仕込みながら大みそかを過ごす。

 足の長いスツールに座りカウンターで頬杖をつく攷斗は、ひぃなが料理する姿を眺めている。

漂ってくる甘辛い煮込みダレの匂いが空腹感を増幅させる。

「めっちゃいい匂い」

「まだしばらく煮込むけど、多めに作ってあるから味見してみる?」

「してみる!」

(子供みたい)

 反応が可愛らしくて思わず笑うと

「いま子供みたいだって思ったでしょ」

 攷斗が口を尖らせた。そのしぐささえも可愛らしいので

「どうでしょう」

 ひぃなは敢えて否定しない。

「別にいいんだけどさ」

 拗ねる攷斗にクスクス笑いながら、ほぐれて塊から落ちた肉のかけらを小皿に乗せた。

「はい」

 お弁当用のピックを刺して、攷斗に渡す。

「やった! ありがと」

 受け取るや否やパクつく攷斗に

「まだお肉硬いでしょ」

 使い終わった小皿とピックを受け取りながらひぃなが言った。

「噛みごたえあって肉肉しくて、これはこれで美味しい」

 噛めば噛むほど肉の味も染み出してきて、全部の繊維が無くなるまで噛み続けていたいくらいだ。

「味、どう?」

「ちょっと薄め? でも煮込むから濃くなるんでしょ?」

「そうそう。じゃあいい感じかな」

 奥側の鍋が置かれたIHコンロの火力メモリを【弱火】に設定して、鍋に蓋を乗せる。

 二つ並んだ手前のコンロの片側は強火に設定し、鍋をゆすって煮汁の水分を飛ばす。中には鶏肉や里芋、レンコンにニンジンなどが入っている。筑前煮だ。水分が飛んだらみりんを回し入れ、照りを出して完成。

 もう片方のフライパンは、すでに電源を落として煮汁を冷ましている最中。それを考慮して最初に早めに作り始めたので、もう良い頃合いのようだ。先に取り出して入れておいた肉の塊が入った食品用のジップ袋に、冷めた煮汁を注ぎ込む。空気を抜いて口を閉め、冷蔵庫で一晩寝かせたら簡単ローストビーフの完成。

 角煮は圧力鍋を使えば時間短縮になるが、あいにく二人とも持ち合わせていなかったので、じっくりトロトロと煮込むことにした。

 使い終わった調理器具を洗い始めるひぃなに、

「手伝うよ」

 椅子から降りて攷斗が申し出た。

「いいの? ありがとう、助かる」

 少し前までクリスマスツリーが置かれていた場所にはいま、大きな鏡餅が置かれている。中に小分けの丸餅がいくつも入っている商品だ。

 一応、毎年減を担ぐために小さな鏡餅を飾っていたが、二人暮らしになったし、ひぃながアレンジレシピを作ってくれると言うので、思い切ってスーパーに陳列されていた中で一番大きな箱のものを買った。

 縁起物やシーズングッズが部屋に飾られていると、それだけで少し非日常感というか、イベント事に参加している気分になって楽しい。

「さて」

 攷斗のおかげで綺麗になった調理器具を定位置にしまって、ひぃながエプロンを外した。

「角煮はあと一時間くらい、様子見ながら煮込みまーす」

「はーい」

「ちょっと休憩しようかな。何か飲む?」

「俺やるよ。紅茶でいい?」

「うん、ありがとう」

 攷斗が淹れたミルクティーを飲みながら、ひぃながこのあとの予定を手帳に書き出していく。

「普段からこまめに掃除してると、大掃除しなくていいんだね」

「そうなのよ。年末忙しいとき多いしさ、休みの時くらいゆっくりしたいじゃん」

 と言ってはいるものの、攷斗は少し潔癖の自覚があり、少しでも汚れていると気持ちが悪いのだという。

 掃除はひぃなより攷斗のほうが得意なので、余裕があるときはお願いしてしまっている。

 テレビは年末特番の宣伝番組や再放送が主で、まぁそれはそれとして面白いので、BGV程度に流している。

「いま作ってるのは角煮と?」

「筑前煮とローストビーフ。煮物とお肉ばっかりになっちゃった」

「全然いいよ。筑前煮は野菜たっぷりだったし、肉好きだし」

「なら良かった。他にもいくつか作れるように材料買ってあるし、元日はお雑煮作るよ」

「やった!」

「しょうゆベースの澄まし汁で大丈夫?」

 自分たちは同じ地域の出身だが、親の出身地によっては地方色がかなり出る食べ物なので、念のため聞いてみる。

「うん、なんでも大丈夫。っていうか、色々試してみたくない?」

「みたい! あーでも、お味噌が赤だしのしかないや」

「いまから車出そうか?」

「いいよ、悪いし」

「いや、言ったら食べたくなっちゃった、いろんな地方のお雑煮」

「そう? じゃあ、お願いしようかな」

「おっけー」

「どんなの食べたいか、レシピ共有してくれる? 買い物リスト作る」

「りょうかーい」

 【お気に入り】をシェアしてから、コンスタントにレシピが増えている。忙しいとき、ちょっとした息抜きにいいのだそうだ。

 攷斗の食の好みもわかるので、ひぃなにとっても有難いシステムになりつつある。

 ティーブレイクしつつ、角煮の面倒をみつつ、追加されていくレシピを確認しつつ、これまでの人生の中で、一番穏やかで、一番楽しい大晦日を過ごす。

「じゃあ、軽いドライブがてら行こうか」

「うん」

 念のため年内の営業時間を調べて、まだ余裕だったのでいつものスーパーへ買い出しに出かけた。



 年越しそばと、煮込み終わった豚の角煮を食べながら、年末恒例の歌番組やバラエティ番組を転々として無事年を越した。

「「あけましておめでとうございます」」

 年が明けたと同時に、二人で頭を下げる。

 朝は少し遅めに起きて、おせちとお雑煮をブランチにするつもりだ。大体の起床時間を示し合わせて、リビングで待ち合わせをする。

 来年の年越しは、一緒の部屋で寝起き出来るのかな? なんて、鬼が聞いたら大笑いしそうなことを思いながら、二人はそれぞれ自室に戻った。



 夜が明けて、リビングでの待ち合わせより少し早く起きたひぃなは雑煮用の澄まし汁を作っている。攷斗が起きて来たらいくつ食べるかを聞いて、角餅を焼く予定だ。

 冷蔵庫で一晩寝かせたローストビーフを薄く切って、空けておいたお重の隙間に詰めた。

(おぉ、上出来)

 まるで元々入っていたかのようにしっくりきている。お重の蓋を戻し、キッチンへ移動する。

(あー、なんだろ。幸せ)

 出汁の香りがする湯気の温度を感じながら、ひぃなはそんなことを考える。

 ちょうど一ヶ月前に婚姻届を出して、最初はどうなることかと思ったが、攷斗とならいつまでも平和で、幸せに暮らせる気がしていた。

(棚井もそう思ってたらいいな)

 そんなことを思っていると、背後に人の気配がした。

「おはよ」

 少し寝癖のついた髪と寝ぼけ眼の攷斗が首をかしげながらひぃなに挨拶をした。

「おはよ。まだ眠い?」

「んー、ちょっとね」

「なにか飲む?」

「お茶のむ。あ、自分でやるよ」

「ありがとう。もうご飯食べられそう?」

「うん、食べたいな」

「お雑煮、おもち何個入れる?」

「んー、にこ」

「別途焼いたお餅も食べます?」

「えー、迷う。どうしようかな」

 ひぃなの隣で空いているスペースを使い、コップに移したお茶を飲みながら攷斗が悩む。

「いまじゃなくても、食べたくなったら対応いたしますよ?」

「ありがとう。あ、じゃあ、いま焼いてもらうの、一個お雑煮で、一個磯辺焼きがいい」

「あ、それいいね。私も真似しよ」

「大丈夫? 食べきれる?」

「一個を半分に切って対応いたします」

 個包装された袋から取り出した餅を半分に切って、攷斗の分と一緒にオーブンへ入れる。

「頭いいね」

「お褒めいただきありがとうございます」

「なに、さっきから改まっちゃって」

「ん? 新年だし、元日くらいはしっかりしようかなって」

「いいのに別に」

 攷斗が笑いながらひぃなの手元を覗き込む。

「やっぱ同じところ出身でも、中身違うんだね」

 お雑煮用の澄まし汁の具材を見て、面白そうに言った。

「あ、やっぱ違った?」

「うん。でも美味そう」

 攷斗はいつものようにニコニコと笑う。

「なんか手伝う?」

「あ、じゃあ、そこのトレイを持って行ってください」

「はーい」

 攷斗がトレイを持ってリビングに行くと、テーブルの中央にはすでにお重が置かれていた。運んだトレイの上には、祝袋に入った丸箸と取り皿が二人分。それに醤油の卓上用ボトルが載っている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

 箸と取り皿を二人の定位置の前に置いて、醤油は真ん中あたりに配置。トレイを戻しにキッチンへ行く。ついでに、さっき使ったままで置き去りにしていたコップとお茶のポット、そしてもう一つ新しいコップを持ってソファへ座った。

 キッチンから焼き上がりの音が聞こえる。

「お待たせ~」

 大きなトレイに雑煮の椀と磯辺焼きの皿、温め返した豚の角煮と筑前煮の皿も載せて、ひぃながリビングへやってきた。配膳してお重の蓋を開け、

「食べますか」

 攷斗に微笑みかける。

「うん」

「「いただきまーす」」

 普段同様二人で号令して、新年最初の食事をとる。

「あー、うまーい、幸せー」

 雑煮や煮物類をパクつき、攷斗が食料と一緒に幸せを噛み締めた。

「お口に合ったようでなによりです」

「それもそうだし、ひなと一緒に過ごせるのが幸せ」

「……ありがとう」

 なんと言っていいかわからず、礼を述べる。

「おせち、おいしいね」

「ね。ここ何年かは笹本亭の買ってるんだけど、いいよね。また店も行こうよ」

「行きたーい。あれ、もしかして年越しそばもあそこで食べてたりした?」

「いや、すんごい混むから予約しないとなんだけど、予約しても行けるかどうかわかんないから家でカップ麺食ってた」

「そうなんだ」

 誰か一緒に年を越す人がいたのかと思っていたが、そうでもないらしい。

「ひなは?」

「私も大人になってからは、一人で乾麺茹でて近くのスーパーでお惣菜買ってって感じだったな~」

「あれ? 社長と過ごしてたんじゃないの?」

「サエコはほら、そのあたりの時期、ここ何年かは旦那さんいたから」

「あぁ……え、じゃあ結構な間、年越し一人でしてた?」

「そう……だね……」

 行間で過去のことを思い出しながらひぃなが答える。

「なんだ、じゃあ誘えば良かった。遠慮してたわ」

「ん? そうなの?」

「うん。だって行きたいじゃん。一緒に年越しそばとか初詣とかさ」

 元・後輩、現・旦那はたまにとても可愛らしいことを言う。

「できるよ、今年は」

「そう。だから嬉しくてさ」

「初詣、たのしみだなー」

「いつも行くとき、車停めらんないから歩いて行ってるんだけど、どうかな?」

「いいよ? どのくらい?」

「片道、一人で普通に歩いて3~40分くらい」

二人でゆっくり歩くと一時間弱程度か。

「腹ごなしにはいいかも。歩きで大丈夫です」

「うん。じゃあ、14時過ぎに出よ」

「はーい」

 ブランチを食べてお茶をして、正月特番に飽きた頃家を出る。

 いつもとは違うラフな格好のひぃなと一緒に並んで歩く攷斗は、それだけで嬉しそうだ。

 神社が近くなってくると、出店や人通りがだんだんと増えていく。

「すごい人……はぐれそう」

 思ってたよりも盛況で、ひぃながぽつりと呟いた。

 それを聞き逃さなかった攷斗が、じゃあ、とひぃなの手を取り、繋ぐ。

 はぐれたら電話で連絡とればいいか、と言おうとしてたのに、先手を取られてひぃなが少し慌てる。でも、冷えた指先に攷斗の手の温度が沁みて離す気が起きない。

攷斗はそのまま、自分が着ているオーバーサイズのコートのポケットに手を入れた。

「出したくなくなるね」

 その温かさは、棚井家にはないコタツのような魔力があるように感じる。

「ほんとだね」

 二人で寄り添って神社の境内へ入り、一般的な参拝の順路を辿る。手水舎の水が思いのほか冷たくて二人で声を出さないよう我慢したり、お守りを贈りあったりしてから、少しだけ出来ている待機列に並ぶ。ほとんどの参拝客は二年参りで昨晩訪れているらしいが、それでもなかなかの盛況ぶりだ。

 おみくじは二人とも【大吉】で、家内安全、商売繁盛、今年一年無病息災とのこと。

「“【待ち人】すでにあり”、だって」

「え、私も」

「え。ほかのとこは?」

「えーっと……あ」

「ん?」

「“【愛情】心を尽くせ 言葉で伝えよ”……」

 二人の内容を見比べるが、番号は違っている。その他の項目やお告げの内容も違うのに、【待ち人】と【愛情】だけが一致していた。

「……持ち帰ろうか」

「そうだね」

 顔を見合わせた二人は、各々の財布におみくじを丁寧に折り畳んで入れた。

 境内を出てからも、攷斗はひぃなの手を取り、繋いで歩く。

(もう大丈夫なんだけどな)

 と思いつつ、暖かさや手の感触が心地良いのでひぃなも言わない。

「ついでに買い物していく?」

「うーん、特に大丈夫かなぁ」

 年始用の飲み物は、大晦日の買い出しでケース購入したので充分足りる。

「どっか寄りたいところあったら言ってね」

「はーい」

 二人は普通の夫婦のように仲睦まじく歩を進めている。

 心の中にいつもある“願い”も一緒。

 ――このまま、本当の夫婦になれますように。

 密かに抱いたその願いは、一緒に暮らしていくうちに、大きくなっていた。


* * *


 短い冬休みが終わり、日常生活に戻る。

 夕食後、いつものようにリビングでくつろいでいると、思い出したように攷斗が口を開いた。

「そうだ。明日そっちの会社に打ち合わせに行くよ」

「そうなの? 何時頃?」

「14時」

「じゃあお茶出し係、私だ」

「お、マジで。砂糖とミルク、いつもの感じでお願いします」

「了解です。助かります」

 あらかじめわかっていれば小分けの物を別添しなくていいので、無駄もないし回収時に楽だ。

「そういえば、棚井が打ち合わせ来るときって社名入ってないよね」

「あぁ、一緒に働いてた人まだけっこういるし、本名で入れといてくださいってお願いしてるんだよね」

「そうなんだ」

 ひぃなの会社は来客時にお茶を出すのだが、その担当は事務部内で持ち回りとなる。誰がどの時間帯の責任者かは前週末に割り振られるが、来客があるかどうかは、当日スケジュールが確定してから社内クラウドの予定表にアップされるので、前もってわからない。突然アポが入ることもあるため、逐次担当者各自がチェックすることになっている。

 クラウドの予定表にはあらかじめ打ち合わせに使える場所が入力されていて、アポが入った日時に使用する場所を決め、その欄に相手先の社名と個人名を入力する決まりだ。入力欄が埋まっている箇所は、もちろん先約があるので使えない。

 攷斗もそのシステムを知っているし、打ち合わせ相手は堀河だけなので多少の融通は効くようだ。

(サエコはきっと知ってるんだろうな)

 取引先の社名を知らないで打ち合わせなんてするはずもない。湖池が知っているのかどうかはわからないが、攷斗が退職後に就いた仕事のことを誰かから聞いたことがない。

 少しの秘密が大きく気にかかるときがある。

 けれど、それはひぃなだって持っているものなので、深く追及したくない。

「もうちょっと時間が遅かったら、一緒に帰れたんだけどなー」

「そうだねぇ」

「次行くときはそれも考えよ」

 楽しいことを画策するような声色に、ひぃながふふっと笑った。

「なに」

「んー? ありがたいなーと思って」

 束縛とは少し違う、少しでも長く一緒にいたいという気持ちが、素直に嬉しい。

「そう? じゃあ次からね」

「うん」

 実行するかは別にして、“ふたりだけのヒミツ”の計画を立てるのは、いつだって楽しいものだ。



 翌日、ひぃなの目の前に設置されたモニタ上でアラーム画面が開き、“棚井攷斗”が来客する10分前だと報せた。

(あ、もうそんな時間か)

 お茶の用意をするべく給湯室へ移動する途中、

「!」

 曲がり角から突然人影が現れた。

「…お疲れ様です……」

 自然と声のトーンが落ちてしまう。

「お疲れ様です」

 ぶつかりそうになった相手が黒岩だからだ。

 特に用事も時間もないので、会釈をしてやり過ごした。

(なんかちょっと、そろそろ怖いな……)

 ぶつかりそうになったのは今回だけじゃない。堀河がひぃなの結婚を発表して以来、度々同じようなシチュエーションで出くわしているので、偶然ではない確信がある。

 引っ越し後の連休明けから頻度が上がっている“曲がり角での突然の遭遇”は、さっきので今日だけでも三度目だ。

(サエコに相談するか……いやでも、いきなり社長ってのもなー)

 考えながら、二人分のコーヒーを準備する。

 攷斗にはいつものようにアイスコーヒーにガムシロップとミルクを少しずつ。堀河にはホットコーヒーにスティックシュガー一本とポーションミルクを二個添付。A4サイズ程度のトレイに乗せて、予約の入った会議室まで運ぶ。

 ガラスがはめ込まれたドアをノックして「失礼いたします」入室すると、攷斗と堀河が向かい合わせに座っていた。

「「ありがとう」」

 普段通りに礼を言う攷斗と堀河に、

「お疲れ様です」

 ひぃなが普段とは違う挨拶をして、トレイの上からドリンクを各自の前に移動させた。

「あら、えこひいき」

 攷斗のカップの中で、すでにコーヒーの色が変わっていることに目ざとく気付いた堀河が怒るでもなく言った。きっと湯気が立っていないことにも気付いている。

「社長きまぐれで配分変えるじゃないですか」

「そうだけどー」

 今度は拗ねたように口を尖らせる。

「仕事できるんですよ、俺のヨメ」

 その言葉にひぃなが苦笑して、他の来客時と同様の対応をして退室した。

 攷斗はことあるごとに“俺のヨメ”というワードを使う。

 誰かに自慢するような、言い聞かせるようなその呼称。

「オタクの人みたいだからやめたほうがいいわよ?」

 それを聞く度に堀河が言う。

「事実だしいいじゃないですか」

「念願叶って嬉しいのはわかるけいたっ」

 言葉の途中で攷斗が堀河の足を軽く蹴った。

「聞こえたらどうするんですか」

「あんただって嫁ヨメ言って。社内ではひぃなの相手が誰だかまだ内緒なんですけど」

「そうですけど」

「もういい加減ちゃんと気持ち伝えて、普通に結婚生活しなさいよ。まだ手ぇ出してないんでしょ?」

「セクハラですよ。それに気持ちだったらしっかり伝えてますし」

「どうせ恥ずかしいからって茶化してるんでしょ?」

「マジメに言って退かれたら嫌じゃないですか」

「思春期じゃないんだからさぁ。二人でモダモダしてんじゃないわよ」

「いいじゃないですか……。それより、今日仕事で来てるんですけど」

 バッグから取り出したデザイン画を机に広げて、今度は攷斗が口を尖らせる。

「そうだった」

 テヘッと頭を軽く叩く堀河に

「かわいくないっす」

 攷斗はにべもなく言い放つ。

「うるさいわね。どうせ、ひぃながやったら可愛いんでしょ」

「ひなはなにしててもかわいいですよ」

「わー、ノロケ。やだやだ」

「言わせたの社長でしょ」

「社長が言いたがりなだけでしょ」

 二人の“社長”が口を尖らせ対峙する。

「時間の無駄だわ。始めましょう」

「はい」

 攷斗の描いたデザイン画と、堀河が作った企画書とを並べてミーティングは進む。

「…じゃあ、そんな感じで」

「はい。また再来週、ですかね」

「そうね」

 各々がスマホに予定を入力する。

「……そういえば」

 堀河が思い出したように口を開いた。

「ひぃなには仕事のこと、教えたの?」

「詳しくは、まだ」

「全部逆転してるのよねー」

 言って、使い終わった資料を片付けていく。

「興味ないかなって思って」

「そんなわけないでしょ! ホント、女心わかってないわねー」

 やだやだ、と苦々しく首をゆっくり左右に振った。

「なにか、言ってましたか」

 低いトーンの声色に、堀河が顔をあげる。

 真面目な顔で直視してくる元部下から、堀河は何かを考えるように目線を外した。

「棚井の仕事の詳細については、特になにも聞かれてない」

「そうですか……」

「でも、気になってるとは思う。あんたも私もなにも言わないから聞かないだけで」

 堀河はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲んだ。

「そもそも創立からだいぶ経ってるのに、いままでの関係性でひぃなになにも言ってないほうが不思議なんだけど」

「いや……最初は、軌道に乗るまでって思ってたんですけど……」攷斗が組んだ自分の指に目線を落とした。「なんか…言いそびれて、そのまま……」

「秘密は小出しにしろって言ったじゃない」

「小出しにしてる最中なんですよ」

「ちょっと小出しすぎるんじゃない?」

「ちょっとおせっかいすぎるんじゃないですか?」

「ひぃなはあんたの奥さんになる以前に私の親友なのよ。心配するに決まってるでしょ」

「……そうですね、すみません」

 堀河の正論に何も言い返せず、攷斗は素直に頭を下げた。

「なにか協力できることがあれば言って欲しいな。ひぃなにはもう、ただ幸せでいて欲しいのよ」

「粉骨砕身がんばります」

「素直だったらそれはそれでなにか裏がありそうで怖いわね」

「早速で恐縮なんですけど」

「なに」

 真面目顔の攷斗に堀河が少し身構えた。

「ひな、早退させていいですか。一緒に帰りたいんです」

「却ッッッ下!」

「えー」

「あんただってこのあと仕事あんでしょ。おとなしく一人で帰りなさいよ。家帰ればあの子いるんだから」

「そっか、そうですね」

 帰宅後のことを想像したのか、攷斗がデレデレ笑う。

「あんたのノロケ聞いてるほどの時間はないのよ、この部屋もあとの予定入ってるんだから」

 早く帰んなさいよ、と堀河が席を立つ。

「ちょっと冷たくないですか」

 攷斗はわざとらしくふくれっ面を見せて、荷物をまとめた。

「いいじゃない! 仕事終わって家帰ったら、可愛い嫁が待ってるんでしょー!」

「いやいや、社長だって……これあんまり社内で言わないほうがいい話ですか?」

「別に隠してはないけど、まだ決定してないから言ってないだけよ」

 モバイルノートパソコンを小脇に抱えて、堀河は続ける。

「婚姻届、今度もひぃなに保証人書いてもらうつもりだから、そのとき借りるわね」

「どうぞどうぞ」

 二人で一緒に会議室を出て、堀河は攷斗が乗ったエレベーターの扉が閉まるまでお辞儀で見送る。

 堀河が二度離婚し、三度目に結婚しようとしている相手は全て同一人物だ。

 もうそういう趣味なのではないかと思って、攷斗とひぃなは驚きもしなくなった。

 一階に着いたエレベータを出ようとして、人とぶつかりそうになった攷斗が「おっと、すみません」両手を挙げてすんでで避けた。

「棚井さん……」

 ぶつかりそうになった相手は黒岩だ。

「あ、お久しぶりです。お疲れ様です」

 入社こそ攷斗のほうが早いが、社会人歴や年齢は黒岩のほうが遥かに上で、しかもあまり話したことがないので、敬語を使う。

「それ……」

「え?」

「ご結婚、なされたんですね」

「え? あぁ、えぇ」

 黒岩の目線が左手に注がれていることに気付き、さりげなく手を下げ、なんとなく指輪を隠した。

「おかげさまで」

 ただの社交辞令なのに、黒岩の顔が一瞬険しくなったのを攷斗は見逃さなかった。

「すみません、次の打ち合わせに行かないとならないので、これで」

 二の句を告げる間を与えずお辞儀をして、背中に黒岩の視線を感じながら足早にその場を去った。

(なんだあれ……)

 在社時代に少し話したときは、不愛想だが人柄が悪いわけではなく、先ほどのような威圧感や嫌悪感は抱かなかった。

(あんなのがひな狙ってるとか、ちょっと、なんか……)

 理由のわからぬ違和感に不快さが拭えない。しかし、ただ単に商談がうまくいかず虫の居所が悪かったとか、そういうタイミングの問題かもしれないし、と考えなおして車に乗る。

「次はー……」

 カーナビを操作して次の出先を検索し、セットした。

 車を走らせ、仕事のことを考えているうちに、先ほどの黒岩の一件は頭の中から消えてしまっていた。


* * *


 攷斗との新婚生活はすごぶる順調で、なんの問題もストレスもなく三ヶ月が経とうとしていた。

 唯一ストレスとするなら、心置きなくスキンシップが出来ないことだ。

 職場で疲れて帰ったとき攷斗が笑顔でそばにいてくれると、少しの間だけ抱き締めて欲しくなる。さすがに言うことが出来ず、いつかの夜、ソファで攷斗を布団にして眠ったときの感覚を思い出す。

(なんか…我ながらこじらせてるな……)

 自覚があるだけマシかしら、と自分を励ましたりして、たまに頭をもたげる軽い欲求を、料理にぶつけて日々を過ごす。

今日もそんな欲求がぶつけられた料理だとは知らずに、攷斗はニコニコと嬉しそうに夕飯を食べていた。

「そうだ」

 何かを思い出した攷斗が唐突に言う。

「湖池がさぁ」

「ん?」

「湖池が俺らとメシ行きたいって言ってるんだけど、どう?」

「別にいい、けど……」

「けど?」

「なにか聞かれても話せることがあるかどうか……」

 普段会社で気軽に会えるひぃなや、個人的に仲の良い攷斗をわざわざ揃って呼び出すということは、攷斗とひぃなに関して何か聞きたいと言われる可能性が高い。

「俺と結婚したってことはプリローダでは言うなって言ってあるけど」

「うん、それは大丈夫なんだけど」

 なんせ部署が違うし、なんなら部室のあるフロアも違う。たまに書類を依頼されるくらいで、ひぃなと湖池は実はあまり接点がない。

「湖池から来た希望日、クラウドの予定表に入れておくから、都合つくときあったらチェック入れといてもらっていいかな」

「はーい」

 とはいえ、ひぃなは終業後にどこかへ行く予定もほぼないので、日程は案外あっさり決まり、一週間後【プリローダ】近くの居酒屋で、湖池と攷斗、ひぃなが卓を囲んでいた。攷斗とひぃなが結婚を決めたのと同じ店、同じ席だ。

 会社の人間もたまに利用する店舗だが、個室なので大っぴらに姿をさらすことはない。

 客席に備えられているパネルでオーダーを完了させ、乾杯してから

「で? どうなの? 新婚生活は」

 湖池が本題に入った。

「んー? 楽しいよ?」

 ビールを飲みつつ攷斗が答える。

「うわー! 羨ましい!」

「そっちはどうなの、紙尾と」枝豆を食べながら何気なく言ったその言葉に、

「えっ?」ひぃなが驚き

「ちょっ!」湖池が珍しく慌てだす。

「いいじゃん別に。社内恋愛禁止ってわけでもないんだから」

「えー! 全然知らなかった!」

 突然の暴露に、ひぃなが声を上げる。

「いやあの……照れくさいんで、みんなには内緒で……」

「うん、わかった」その気持ちは良くわかるひぃなが、二つ返事で承諾する。「サエコは知ってるの?」

「はい。付き合い始めるときに報告しました」

「そうなんだ。いいじゃん、お似合いだよ」

 所属部署が違うので社内で一緒にいるのをあまり見かけないが、同期入社だし、接点はあったのだろう。

(ということは?)

 ひぃなが考える。

 紙尾からは度々“カレシ”の話を聞いている。こないだ遊びに行って楽しかったという話や、デートのときの対応がちょっと…なんて話。だとしたらその相手は……?

「いつ頃から付き合ってるの?」

「おととしの夏っすね」

 やはり湖池のことのようだ。数々のエピソードに湖池を当てはめると、なるほど確かにしっくりくる。

 付き合おうか悩んでいるという頃から聞いているひぃなの脳内で、足りなかったパズルのピースがハマったような爽快感が生まれる。

「私たちのことどうこうより、むしろそっちの話聞きたいんだけど」

「いやいやいいっすよオレらのことは!」

 いつもは強気にグイグイくる湖池とは正反対に、慌てて照れる姿がウブで可愛らしい。

「俺も最近あんま話聞けてないけど、どうなの?」

 出汁巻き卵を食べながら攷斗が湖池に問う。

「いやまぁ、うん。普通に…順調……」

「へぇ~」

「ほぉ~」

 ひぃなと攷斗がニヨニヨしながらじっくり話を聞く体制に入ると、

「……時森チーフにもバレちゃったし、いい機会だし、いっか……」

 独りごちるようなトーンで言って、湖池が顔を上げた。

「二人って、どういうタイミングで結婚って話になりました?」

「はっ?」「えっ?」

 攷斗とひぃなが同時に驚き、顔を見合わせた。

「あの、これ、まだ紙尾にも内緒にしててほしいんですけど、ちょっと、将来のことを考え始めていて……」

 割りばし袋をごにょごにょいじりながら、湖池が続ける。

「オレら、友達の延長みたいな感じで付き合い始めて、まぁそれなりに? 恋人同士っぽいことはやってるんですけど」

 テレテレしながら嬉しそうに話す湖池は変わらず可愛らしいが、ひぃなと攷斗は少し困り始める。きっと、湖池が想像しているような“経緯”が、棚井夫妻には、ない。

「あんまりマジメな話をしないまま来ちゃったんで、いきなり言ったら驚くかなーと」

 三十代で三年付き合っていれば相手だって考えているだろうから、そんなに驚かないと思うが、本人的にはやはり不安が残るらしい。

「うちは自由な社風だし、オレらの部署もお二人んときみたいにフロア違うし、社内で会うこともそうそうないから、どっちになっても気まずいとかはないと思うんだけど、やっぱ、不安なんですよね」

 うんうんと攷斗がうなずく。思い当たる節がありすぎるからだ。

 その隣で、遅ればせながら(やっぱりそうなんだ)とひぃなも密かに思う。

「だから、二人のなれそめっていうか、どういう流れだったのか聞きたくて……」

「なんだ、それなら最初から言ってくれればよかったのに」

「や。それが目的で誘ったんじゃないよ。普通に二人でいるところが見たかったっていうか」

「誰目線なの」

「いや、急な話だったからびっくりしてさ~」

 それは当事者もだよ、と二人は思うが、口には出せない。

「差し支えなかったら、プロポーズの言葉とか~……」

「差し支えございますのでお教えできません」

 攷斗が業務口調で拒否をした。

「え~、いいじゃん。参考にしたいんだって」

「参考には、ならないと思う、よ……?」

 ひぃなが控えめに伝える。なんせ“ケッコン、カッコカリ”をしようと持ち出されたのだ。

 この関係がカッコカリなことは、夫妻以外に堀河しか知らない。

 もう、それは取れてもいいんじゃないかと思っているが、一人の意見で判断出来るものでもない、とも思っている。

「いいじゃん別に。普通に言えば」

「なんて?」

「だから、結婚しようって。ちゃんと付き合ってんだし、向こうだって言われても不思議じゃないんじゃないの?」

 自分に出来なかったことを言っている自覚のある攷斗は、口の端に苦笑いを貼り付けながら湖池にアドバイスをしている。

「時森チーフもそうでした?」

「んんっ?」

 飲んでいた酒を吹き出しそうになって、少し慌てて、おしぼりで口元を拭いた。

「そ、うだね…。ちゃんと付き合ってる上で、そう言われたら、不思議だとは思わないかな。二人とももう大人だし、紙尾ちゃんだって考えてないわけじゃないと思うけど」

「そうですかねぇ……」

 当事者は、周りにどんなに言われても不安を拭えない。

 おしぼりを置いて、自分と話しているときの堀河はこんな気持ちなのかな、などと考えてみる。

 紙尾には、あまり踏み込むのも悪いかと思って、プライベートな話は向こうからされるまで聞かないようにしていたが、そろそろ年齢的にもなーなんて話を聞いたことがあるので、湖池にその意思があるなら早いほうがいいと思う。

湖池が不安なのもわかるが、やはり出来れば、男性からビシッと言ってもらったほうが女性的には安心するものだ。

 が、それをどう伝えよう。

「あっちはあんまり結婚願望なさそうなんですよね……」

「そうなの?」

「さりげなく話振ったりしてるんですけど、あんまり乗ってこないというか……」

「さりげなさすぎて気付いてないだけなんじゃない?」

「えー? そんなことありますー?」

「人によってはある」

 実際、ひぃなの元婚約者が回りくどいタイプで、遠回しすぎて言われた瞬間に気付けず、あとになって“あれはああいうことだったのか…?”と焦った経験がある。ひぃなもこと恋愛に関しては敏感でないほうなので、余計に気付き辛かった。

「紙尾ちゃん案外ぽんやりしてるところあるし、気付いてない可能性高いよ。言ってみたら? ストレートに」

「断られたら怖いですし……」

「それは大丈夫でしょ」

 “カレシ”が出来て初めての誕生日に贈られたネックレスを、いまでも大事に毎日身に着けているのをひぃなは知っている。

 たまに不貞腐れたり怒ったりしながらも、言ってる内容がノロケなことに紙尾は気付いていない。

「俺も怖かったけど、案外すんなり受け入れてくれたよ?」

 ね? と攷斗がひぃなを覗き見た。

 怖かったと思っていたのは初耳だし、正直“すんなり受け入れた”かは疑問だが、まぁ毎日楽しく、仲良くやっている。

「うん。なんとかなるもんだよ」

「そっか……じゃあ今度のデートのときに言ってみます」

 おぉー、と拍手を送られた湖池が、

「で、今後の参考に聞きたいんすけど!」

 いつもの調子に戻って“新婚生活”のことを聞いてきて、攷斗とひぃなは思い出したように困り顔になってしまった。



 その飲み会からしばらくして、

「時森チーフ」

 昼休み前に紙尾がひぃなに話しかけた。

「はぁい」

「今日、良ければランチ一緒に行きませんか?」

「うん、いいよ? どこがいい?」

「やった。じゃあ裏通りのカフェで」

 二人並んで店に入ると、先に湖池が席に座って待っていた。

(おや?)

 湧き出る笑顔を抑えながら、湖池の隣に座った紙尾の向い側に座る。

 何も言わず何も聞かず取り急ぎオーダーをすると、

「お気付きかと思いますが……」

 湖池の前置きで、二人が結婚する旨の報告を受けた。

 存分に祝福して、帰宅後攷斗にそれを伝えると、

「そうそう、俺んとこにもメッセ来てた。結婚式でスピーチしてくれって言われたから、断った」

「なんで。やってあげればいいじゃない」

「ひぃながいいならいいけど」

「え? 私は別に関係ないでしょ?」

「……」

 攷斗が少し複雑そうな顔をして、湖池から届いたメッセの画面をひぃなに見せた。そこには……

『こないだはどーも! プロポーズしたら受けてくれたので! 結婚することになりました!! いえーいv(≧▽≦)v つきましては、棚井夫妻にラブラブスピーチをお願いしたく存じます!』

 “ラブラブ”と“スピーチ”の間には、ご丁寧にハートマークが飛び跳ねている絵文字が入力されている。

「なに。“ラブラブスピーチ”って」

「わかんない」

 ひぃなから返されたスマホを受け取り、攷斗が首を横に振る。

「普通のならまだしも、ラブラブが付いてくるなら丁重にお断りください……あ、お式には参加するけどね」

「それは俺もするよ。なんかスーツ見繕っておかないと」

「私もなにか探さなきゃ」

 同年代の友人たちはとうに結婚していて、しばらく式に参列しなかったのでドレス的なワードローブは一切ない。

「今度の買い出しついでになにか探しに行こうか」

「まだちょっと早くない? 時期がわかんないと、決められない」

「そっか。お見立てしたかったんだけどな」

「またいずれ」

「いずれね」

 早くても半年前にはしなくてはならないらしい結婚式の予約など、未経験の二人には良くわからないが、婚姻届を確保するために買った情報誌を眺めていたらそんなことが書いてあった。

(わぁ大変)

 と、他人事のように思ったことまで覚えている。

 結局、湖池が妥協|(?)して“ラブラブ”は撤回され、会社の同僚・先輩として依頼が来たのでスピーチを引き受けた。


* * *


 仕事中に堀河から社内の個人アドレスにメールが届く。

『時森さんへ 来月以降のバースディプレゼント、そろそろよろしくー。 堀河』

『りょうかい。今日帰ったらやりまーす。 ときもり』

『お願いしまーす。 しゃちょう』

 個別のやりとりなので、書き方もざっくばらんが過ぎるほどだ。

 メールに添付されていた【四月度内定者リスト】のファイルを開いて性別と人数を確認する。

 入社一年目の新人へ誕生日プレゼントを贈るのが、プリローダでの恒例行事だ。新入社員が確定した段階で、人数分まとめて発注をかける。男性にはネクタイ、女性にはハンカチとミニタオルのセット。

 探すのはひぃなだが、名目上は【財布】である社長からの贈り物だ。

 もし誕生日が来る前に退職しても、その人の分は退職時に餞別として渡す、というのが、設立時、堀河が作った決まり事。これまで、一年持たず退社した人間はいないので、餞別として渡したことはない。

 攷斗と二人で夕飯を食べ終えて、攷斗が風呂へ行っている間にリビングでスマホを操作し、会社のアカウントを使って大手通販サイトへアクセスする。

 創立以降十年も経過していると、選ぶ範囲もせばまってくる。被らないように念のため保存しておいたスクショのデータと見比べつつ、うんうん悩みながらお気に入りに追加していく。

 風呂からあがった攷斗がミネラルウォーターを飲みながらひぃなの隣に陣取り、

「誕生日のやつ?」

 問う。

「うん」

「それさぁ……」

「うん?」

「そろそろ他の人にやってもらえないの? せめて男のほうだけでも」

 ひぃなはその提案を、不思議そうな顔で聞いている。

「義理とは言え、他の男のためにヨメがプレゼント選ぶの、ちょっと……」

 選ぶと言っても、価格帯と以前渡したもののデザインが被っていないかを確認するだけなので、会社の備品を発注するのと同様の、完全なる“業務”なのだが。

(義理の嫁でも、そういうのは嫌なものなのかしら)

 攷斗が聞いたら“義理”の文字が付くのはそっちじゃなくてプレゼントのほうだとツッコむところだが、口には出さないのでツッコミも入らない。

「んー、じゃあ、社長に相談してみるね」

「うん。ごめんね、なんか。束縛するみたいで」

「束縛っていうか……」

 やきもちでは? と思うが、

「全然、気にならないから大丈夫だけど…」

 一応否定しておく。

「そういえばそれ、ちょっと疑問だったんだけど」

「うん?」

「誰にこの柄あげようとか、そういうのもひなが考えてるの?」

「ううん? 全然? 人数と性別確認して、前年以前とデザインに被りがないか確認して、予算内に収まってるかどうかを確認するだけ。実際にどれにするか決めて購入ボタン押すのは社長だよ」

 そして、中身が男性用か女性用かしかわからない状態のラッピングをされてネットショップから送られてくるので、男女ともに新入社員が複数人いたら、実際に渡す社長も誰にどの色柄が行くかはわからない。

「あ、なんだ、そうなんだ」

 攷斗は安心したようながっかりしたような顔で拍子抜けしたように答えた。

「初年度とか二年目ならまだしも、悪いけど何年もそんなことやってられないよ」

「俺のときは?」

「棚井のときはー……忘れた」

「そっか」

「うん」

 なんて。

 設立二年目で入ってきた攷斗は、【プリローダ】で初めて採用した新卒の社員だった。同時に入ってきたのは生産管理部の湖池と事務部の紙尾の二人。デザイン部の攷斗と合わせて三人分なら負担ではなかったし、元々贈り物を選ぶのが好きだから、色や柄は各人のイメージに合うものを選んだ。ラッピングも個別に指定して、社長に預ける際、渡す物と人を指定した。

 いまでも三人がそれを使っているのを見ると嬉しくなるのはひぃなだけの秘密だ。

 設立と同時入社した数名分は、おそろいの高級ボールペンに社名と個人名を刻印して社長が各自に贈ってくれた。ロシア語で【自然】を意味する【природа(プリローダ)】は、ロシア語で書くとパッと見社名とは判断し辛く、なかなかにオシャレな仕上がりの逸品だ。

 皆そのボールペンがお気に入りで、リフィルを入れ替えながら十年以上愛用している。

 ひぃなももちろんその一人で、使っているところを見た攷斗に羨ましがられたので、個人的に誕生日プレゼントとして渡したことがある。他の社員にそんなことはしてないので、絶対に内緒、と口封じをしたのを覚えている。

 そのお返しにひぃなの誕生日を祝いたいと言われ、それがきっかけで、毎年お互いの誕生日には一緒に外食するようになった。

 とはいえ、最初の頃はひぃなにも攷斗にも恋人がいたので、誕生日当日ではなかったが。

 当時、攷斗はひぃなにとって“可愛い後輩”だったのに、いまでは“旦那(仮)”だ。

(人生って不思議)

 そう思いつつ、贈答リストを作成して社長に報告した。

「これで最後にしたいから、後任探してって言っておくね」

「ごめん、ありがとう」

 提案と一緒に送った打診には、すぐ返信がくる。

『そうよね。無神経でごめんって旦那に伝えておいて』

「だって」

 受信画面をそのまま見せる。

「『ほんとだよ。これから気を付けてください。』って送っといて」

「ははっ。はーい」

 文面そのままに送信すると、『生意気』とだけ返ってきたので、それも見せたら「えらそう」と口を尖らせた。


* * *


 日々が何事もなく過ぎていく。それがとても心地良い。

 攷斗とひぃなはお互いを尊重しつつ、自分の時間も持ちつつ、丁度良い干渉のバランスで一緒に暮らしていた。

 一緒にいる時間も愛おしく、楽しくて、嬉しい。

 このままずっと、一緒に暮らしていたい。お互いの“気持ち”が一致していたら、もっといいのに。

 夜、リビングで別れるたびに、デートしたあとそれぞれの帰路に着く恋人同士のような気分になった。婚姻関係を結んで同じ家に住んでいるのに、おかしな話だ。

 本当にこのまま何事もなく過ぎていっていいのだろうか、なんて考えたりもする。

 お互いがお互いの気持ちをはっきりと掴めず、それでも少しの可能性に期待をしながら、この先何年も縮まらない距離に悩み続けるのだろうか。

 それに、ひぃなには攷斗にばかり自分の気持ちを言わせている引け目がある。

 好きとか可愛いとか、そう言われても、受け入れるかはぐらかすかしか出来ない。


 その“好き”は、どの“好き”なの?


 日本語はときに曖昧で深く、裏を読んでしまうと【意味】がいくつも目の前に現れてしまう。その技術に長けた人の前には、より多くの選択肢が並ぶ。

 もしその選択肢を間違えたら、バッドエンドへのフラグが立ってしまうかもしれない。それが怖くて、真相にたどり着くことが出来ない。

 その堂々巡りをもう半年近く続けている。

 攷斗が都度口に出す“好き”が、もし本当の愛情表現だとしたら。それを、自分と同じような理由で、あえて曖昧に聞こえるように言っているのだとしたら。

 つかみどころのない相手にそれを続けるのは、非常に労力がかかっているのではないだろうか。

 年始に引いたおみくじの、二人が“神様”に告げられたこと。

 【待ち人】すでにあり 【愛情】心を尽くせ 言葉で伝えよ

 少し落ち込んだとき、疲れたとき、財布に忍ばせたそのおみくじを見て、(がんばろう)と思う。

 言葉で伝えれば、きっと現状は変わる。それが、良い方向なのかどうかはわからない。

 ただ想っているだけでは、相手にはきちんと、正確に、伝わらない。



 今年も折り返し地点になり、来月には攷斗が誕生日を迎える。

(今年はなにを贈ろうかな……)

 入籍してから初めての誕生日だし、攷斗の予定が合えば夕食を豪華にしても良いかと考える。甘いものも好きなので、手作りケーキなんかもいいかもしれない。

 スマホのカレンダーを確認すると今年の攷斗の誕生日は土曜日で、手の込んだ料理を作るのに良い。

 希望があれば外食でもいいし、昼間どこかに出かけて遊んでもいい。

 ベッドの中でそのまま目ぼしいプランを検索してみると、自然と心が浮き立ってきた。

(喜んでもらえたら嬉しいもんね)

 当日の予定は近くなったら確認してみるとして、様々な候補を探し、ネットを巡った。

 そのまま寝落ちしたからか、全ての情報がごちゃまぜになったようなショッピングモールを、攷斗と手を繋ぎながら見て回り、観客のいるオープンキッチンで二人で協力して料理を仕上げ、どこからか出てきた対戦相手に辛勝し、二人抱き合って喜びを分かち合う、という夢を見た。

 目が覚めて覚醒するまでの間、その夢を脳が自動リピート再生していたが、覚醒した瞬間、霧が晴れたように輪郭以外が飛散してしまい“なんだかおかしな夢を見た。それに攷斗がいた気がする”という印象しか残らなかった。

 折しも季節は梅雨時で、しとしとと降る雨が自室の窓を叩いている。

(うーん、頭が重い)

 首を鳴らして身だしなみを整え、朝食の準備を始めた。



 一日の仕事を終え家に帰ると、扉の前に身近ではそうそう見かけないレベルのスレンダーな女性が立っている。

(あれ? この人……)

 ファッション誌の紙面やショーで良く見る顔だから、サングラスをしていてもすぐにわかる。そもそも自分の正体を隠す気がないのか、身なりが相当きらびやかだ。

 名前は確か、ツナミ、だったはず。海外のショーにも出演している、売れっ子モデルだ。

 表札の出ていない棚井家のインターフォンを何度か鳴らしているが、攷斗もひぃなも部屋にはいない。

 どうしたものかと考えるが、このまま待つわけにもいかず、

「あのー……」

 恐る恐る声をかける。

「……だれ?」

 それはこっちのセリフだと思いつつ、

「ここの部屋の住人です」

 答える。

「えっ、やだ、引っ越しちゃったのかな」とツナミがつぶやいて「この部屋ってウタナさんの部屋ですよね? います? コイト、ウタナさん」

 世界的に有名なデザイナー名前を口にした。

「いま、せん」

 何故この部屋の前でその名前が出てくるのか。

ここは“ウタナさん”の部屋ではないし、じゃあ“ウタナさん”がどこにいるかと聞かれても、知らないから答えられない。

 疑問符が目一杯浮かんだところで、背後にエレベーターの動作音が聞こえる。

「あれ? なにして…」

ひぃなの背中に声をかけるが、

「うわ! えっ。何しに来たんですか?」

 その先にいる女性の姿に気付き、ひぃなを通り越して女性に声をかけた。声色や表情から“迷惑”という感情がにじみ出ている。

「あー、ウタナさーん、会いたかったです~」

ツナミがサングラスを外し、先ほどとは打って変わった甘ったるい声と口調で攷斗に近付いた。が、攷斗はあからさまに避けて、ひぃなを引き寄せ背中に隠す。

 ツナミは敵意に満ちた目でひぃなを検分するように眺めた。

 その顔、あなたが言うところの“ウタナさん”にも丸見えですよ、とはとても言えない雰囲気だ。

「その方、どなたですか?」

「ヨメ」

「え?」

「俺の、ヨメ。妻。奥さん。結婚したの、俺たち」

「……え?」

 攷斗の言葉をうまく理解出来ない様子で、ツナミが立ち尽くす。

「ほら、自己紹介」

 軽く後ろを振り返り、攷斗がひぃなに促すと、

「ヨメ、です……」

 ひぃなが会釈をしながら間の抜けた自己紹介をした。

「なにそれ」

 ほんと、なにそれ、だ。

 しかし、いきなり自己紹介をと言われ、不法侵入の上に初対面、素性もほぼ知らない相手に名乗るのはどうかと思い、“気の利かない返答”しか出来なかったのだから仕方がない。

「そういうわけなんで、どこからうちの住所知ったのかわかんないですけど、お引き取りいただけますか」

 疑問形ではない強めの口調に、ツナミが一瞬奥歯を噛みしめ、その次の瞬間にはとびきりの営業スマイルに表情を変換した。

「わかりましたぁ。またお仕事のとき、よろしくお願いしまーす」

「機会があれば」

 攷斗が業務的な会釈をしたので、ひぃなも軽くお辞儀をする。

 美しい顔立ちの人は表情も美しいが、感情が見えてしまった分、笑顔も怒り顔も同じように怖い。

 ツナミがエレベーターでエントランス階に降りるのを確認してから、

「入ろう」

 攷斗がドアを開錠した。

 聞いていいものかどうか、少し迷いながらあとに続いてドアを施錠する。

「なんもないから」

「へっ?」

 攷斗の言葉に顔を上げると、すぐ目の前に攷斗が立っていた。

「なんもなかったから。勝手に言い寄ってきてただけだから」

「……うん」

(すごい。モテるんだ)

 どちらかというと感心の感情が強い。

「俺は、ひなが好きだから」

 急な告白に、息が止まりそうになる。心なしか身体も熱い。

 いままでもことあるごとに言われてきたが、表情も声色もここまで真剣ではなかった。

「……うん……」

 さんざん迷って、やはり肯定することしか出来ない。

 “私も”……何故その四文字が言えないんだろう。

「……部屋、入ろう」

「うん」

 引き寄せられたときに指が触れた身体が熱く、うずいて浮いているように感じる。

 色々疑問がありすぎて、文章と単語が脳内を飛び交う。

 少し上の空で作った夕食は、少しぼんやりとした味になってしまった。

「ごめん。味、薄かったね」

「ん? 旨いけど」

「……優しいね」

(だから、モテるんだろうな……)

「いや、本当に旨いんだけどね。具合悪いの?」

「ううん? 大丈夫」

 ただ少し、思いのほか、ショックを受けていたのかもしれない。だから、味覚まで気が回らなくなっているのかも。

「疲れてるのかな。後片付け俺がやるから、お風呂先にどうぞ」

「うん…ありがとう……」

 攷斗に促され、ご飯を食べて、早めに風呂に入る。リビングへ戻ると攷斗はノートパソコンを使って仕事をしていた。

「お風呂、お待たせ」

「うん、ありがとう」

「後片付けありがとう。ごめん…部屋、戻るね」

「……うん」

 いつもならリビングでくつろいでお茶でも飲んで、テレビを見ながら攷斗が風呂から出てくるのを待つが、今日はその気力を保てない。

 静かに自室のドアを開閉して、ベッドに横になる。

 熱がある感じもないが、なんだか怠い。それに、いま一緒にいたら要らぬことを言ってしまいそうだ。

 好きだと何度言ってもらっても、それに応えられるほどの自信もない。そんな自分より、美しくきらびやかなツナミのような女性のほうが良かったんじゃない?

 そう言ったら、攷斗は怒るだろうか。

(そういえば……)

 彼女は攷斗のことを“コイト・ウタナ”と呼んでいた。

 ひぃなが好んで身に着けるブランドの一つであるその名前。

(もしかして……)

 そう考え始めたところで、ひぃなの部屋のドアがノックされた。

「起きてる?」

 室外から、攷斗の声。

 ドアを開けることで返答する。

 そこには、風呂上がりの攷斗が立っていた。

「少し、時間いいかな」

「うん」

 呼び出され、リビングへ移動する。ソファに座ると、攷斗がひぃなに向き直った。

「謝りたい、ことがあって」

「うん?」

「その……いろいろ、黙ってたことがあるから」

「うん」

 攷斗の謝罪の意味がいまいち酌み取れず、首肯しか出来ない。

「帰ってきたとき待ってたヒトに、俺が呼ばれた名前、憶えてる?」

「うん。コイト・ウタナ、でしょ?」

「そう」

 何故その名前を? と思ったし、そもそもその名前を知っているから忘れるはずもない。

「その、コイトウタナ、俺なんだ」

「……え?」

 ちょっとうまく理解が出来ない。

「だよね。そうなるよね」なんか証明できるもんあるかな……とつぶやき「ちょっと、待ってて」とリビングを出た。ほどなくして両手にスケッチブックやクリアファイルを抱えて戻ってくる。

「これ、いままでのデザイン画」

 テーブルに資料を広げる。

「あとこれ、入社のときに配られる社内報。社外秘だから、社員しか見たことない」

 そこには、社長である攷斗の写真とインタビュー記事が掲載されている。しかし名前は【棚井 攷斗】ではなく【小糸コイト 謳南ウタナ】と表記されている。

 デザイン画の中にも、アパレル誌に掲載されていたものや、ひぃなが持っている服の原画がいくつか含まれている。

「これの中にも、ショーのときの画像とかあるんだけど」

 とスマホを出そうとしたので

「いい、いいよ。大丈夫」

 もう充分理解したと、手で制した。

「驚いてるし、まだ全部受け止められてる気はしないけど、信じる。社内報だけでも、充分」

 供給が多過ぎても、かえって飲み込みづらい。

「そう。良かった。ごめんね、急で」

「いや、うん、まぁ……」

「あー、ちなみに、名前」

 と傍らのスケッチブックを手に取り、カタカナで【コイトウタナ】と書く。

「これ、アナグラムになってて」

 と、一文字ずつ矢印を引きながら、下部の空欄に【タナイコウト】と書き足していく。

 スケッチブックに書かれたその文字と矢印は、余ることなく全て繋がった。

「……全然気付かなかった……」

 服のタグやショップバッグに使われている社名のロゴは英語表記だし、そもそもアナグラムになっていると知らなければ、文字を入れ替えてみようなどと思わない。

「っていうか、私、一緒に住むようになってからもウタナの服、着てたよね?」

「うん。着てくれてるなーって思ってた」

「なんでそのとき言ってくれなかったの」

「言う機会なくて。それ、俺がデザインしたんだーとか、ちょっと恥ずかしい」

 世界的有名人が何を言っているのか。

 “俺が”と“デザイン”の間に、“ひぃなに似合いそうな服”という言葉が入るから、よけいに恥ずかしいとは口が裂けても言えない。

「あと、その……押しかけてきた人……」

「モデルの人だよね。ツナミ? さん?」

「うん。うちのショーにけっこう出てくれてる人でさ。カタログとかにも起用させてもらってるんだけど」

「うん。雑誌とかで見たことある」

 会社の休憩室に置いてあるモード系の雑誌で良く見る顔だ。

「……ほんとに、なにも、なかったから」

「うん」

 あまりにあっさりした返答に、攷斗が拍子抜けしたような顔になる。

「なんか、もっと、こう……いや、いいや」

「ごめん。なんか反応間違ってた?」

「間違ってるとかじゃないよ。気にしてないならいいんだ」

「正直驚いたけど、過去のことをとやかく言う権利、私にはないし…それより……」

「ん?」

「セキュリティ、大丈夫かな、って。鍵とか持ってないのに玄関先まで来れたってことだよね……?」

「そう、だね」

 思いがけない疑問に、攷斗が神妙な面持ちを見せる。

「オートロックは下のドア開いてれば誰でも入ってこれるの知ってるけど、不測の事態のときに対応できる力があるかが不安……かな」

「うーん。今度管理人さんに話しておくわ」

「うん。お願いします」

 ひぃなの脳裏に特定の人物が浮かんだことは内緒だ。

「あ、あともういっこ、言っておかないとだわ」

「ん?」

「この家、賃貸じゃないから、使い勝手悪いところあったら教えて。リフォームする」

「……ん?」

「持ち家なんだ。婚姻届出すちょっと前に買って、すぐに出ていくのもアレだから、ひなに引っ越してきてもらったの」

 ウタナの業績をもってすれば、社長がこのレベルの家を買えてもおかしくはない。とは思うものの、やはり純粋に驚きはした。

「リフォームは、不要です。とても、住み心地が良いので」

「そう? ならいいけど。海外移住でもしない限り、ずっと住むつもりだからさ。まぁ、しないけど」

「ないの? そういう話」

「海外拠点? ないかなー。ひながいいならそれでもいいけど」

「うーん……」

「でしょ?」

「いえ。それが棚井さんの飛躍につながるのでしたら、ワタクシのことはお気になさらず……」

「なんで業務口調なの」

「だって、私の都合で足引っ張りたくないし」

 うつむいたひぃなの声は、どんどん小さくなっていく。

「で? ひなに構わずひなを日本に残して俺だけ海外行っていいよって?」

「そしたら保証人不要の住居探しゅぎゅ」

 攷斗がひぃなの頬を手で挟み、言葉を無理矢理止めた。押し出された唇がとがってうまく喋れない。

「俺の気持ち無視しないでよ。俺はひなと一緒にいたいんだから」

 いままでだって海外拠点の話は出たが、会えないうちに誰かに持って行かれたくなくて断り続けていた。

 それでも日本を拠点にすることを武器に変えて、急成長を遂げたのだ。いまでは海外に支店を置いて、移住を希望する日本人スタッフや現地スタッフに仕切らせ、スキルアップに繋げようという話もでている。

(このままチューして押し倒してやろうか)

 しっとり濡れ、弾力がありそうな唇に、愛しさともどかしさとが絡まって感情が揺さぶられる。

「しゅみましぇん……」

 とがったままの口でしゃべるから、口語こうごがおかしい。

「ははっ」

 思わず笑って、手を離した。

「なんで笑うの。コウトのせいでしょ」

「ごめんごめん」

 ラッコの毛づくろいのように頬をマッサージして、ひぃなが自ら口を尖らせる。

「かわいいなぁ」

 思わず口をついて出た言葉に、ひぃなが動きを止めた。

「……かわいいよ」

 優しいまなざしと柔らかいその口調に見える愛情が伝わったのだろうか。

「……ありがとう」

 所在投げに視線をさまよわせ、ふてくされたようにひぃなが礼を言う。


 かわいい、と言うと、怒ったような拗ねたような顔で礼を言う。

 好きだよ、と言うと、恥じらいと困惑が混ざったような顔をしてうつむいて、やはり礼を言う。

 嫌われてはいないけど、好かれてもいないのかと、積み上げてきた自信がなくなる。

 心なしか照れたように恥じらう困り顔のひぃなは、いつも攷斗の理性を叩き壊そうとする。

 これ以上一緒にいたら、無理矢理手を出してしまいそうで、攷斗は大きく呼吸をした。

「夜遅くにごめんね。部屋、戻るよね?」

「そうだね。…おやすみなさい」

「うん。おやすみ」

 リビングで別れて、各々の部屋へ移動する。


 振り返って、抱き寄せたら、受け入れてくれるのだろうか。

 毎夜自室へ戻るたび、そんなことを思う。実行する勇気もないくせに、ただ妄想だけが膨らんで、いまにも破裂しそうだ。

 “偽装”結婚から半年が経って、現状では満足出来なくなっていた。

 それは、攷斗も、ひぃなも、同様だった。


 翌日――。

 昼休みに堀河を捕まえてランチへ出向く。

「なんで教えてくれなかったの」

 題材はもちろん、攷斗の仕事のことだ。

「ごめん。知ってると思ってたのよ。ブランド立ち上げたあとも何回もうちに来て打ち合わせしてたしさ、あいつが直接言ってるかなーって」

「来てることくらいしか知らなかったよ」

「まぁ、デザイナーにしては珍しく顔出しもしてないみたいだしねぇ」

 ウタナの新作発表会などでショーも良く開催されているが、ウタナ本人がステージに上がることはない。

 顔出しもしていないデザイナーの顔をどこで知れというのか。

「なんかあいつなりにあったんじゃない?」

「うん……」

「うちの子たちでも知らない人のが多いから、内緒にしといてあげてね」

「それは、もちろん」

 知った経緯を話すことも難しいし、アポイントの際に社名を入れていない理由も聞いているので、言うつもりもなかった。

 話しているうちに運ばれてきたツナと水菜のパスタをフォークに巻きつけながら、ひぃなが何かを考えている。

 堀河はエビとアボカドのバゲットサンドにかぶりつき、良く咀嚼して飲み込む。

「まだ知らないことたくさんあるかもねぇ」

「それは、お互い様だし……」

 ひぃなにだって、聞かれても答えたくないことはある。

「まだ遠慮が抜けないのね」

「だって……」

「だってじゃないでしょ、夫婦でしょ?」

「カッコカリだもん」

「まだそんなこと言ってるの? 好きなら好きって言やいいじゃない。ちゃんと応えてくれるわよ」

(ちゃんと否定されたら怖いから聞けないのに)

 そんな中学生みたいなこと、結婚歴二回、目下三回目を打診されているらしい堀河には言えない。

「一回ガツンと喧嘩でもしたらいいのに」

「する理由がないんだよねー。趣味も似てるし、居心地もいいし、基本的に家事にも協力的だからイラっとすることもないし」

 と言ったところで、ニヤニヤしながらコーヒーを飲む堀河に気付く。口ごもったひぃなを手で促して、

「はいはい、続けて続けて」

 煽った。

「いいよ、もう」

「ノロケるくらいなら告白しちゃえばいいのに」

 アドバイスまで中学生向けになってきた。

「ほんと似たもの夫婦ねぇ」

 お似合いだわーと堀河が笑って、机上の伝票を取った。

「はい」

 ひぃなが自分の食事代を堀河に渡す。

「うん」

 堀河が受け取って、レジでまとめて会計を終えた。

 出入り口のドアに手をかけたところで、

「ん、あれ。黒岩くんだわ」

 窓際のカウンター席を見やり、言った。

「えっ」

 その名前に身体がギクリと反応し、血の気がスッと引いていく。

「同じ店でご飯してたのね。気付かなかった」

 二人が陣取っていた席とは逆サイドの席でコーヒーを飲んでいるようだ。

 ひぃなは目線が合わないよう、黒岩がいないほうに顔をそむけ、店外へ出た。

「……苦手?」

「ちょっと……」

 先ほどの二人の会話を聞かれていないか心配になるが、混雑具合と席同士の距離がそれを杞憂だと思わせる。

「とっつきにくいもんね。会話のキャッチボールも続かないし。とはいえ、仕事そこそこできるのよね。どんな営業テクニックがあるんだか」

「……そうなんだ」

 ひぃなが苦手としているのはそこではない。根本的に他の社員とは接され方が違うので、いだく印象のスタートが違う。

 いつ曲がり角から黒岩が出てくるか。社内で廊下を歩いていると、それが怖くて仕方がない。

 角という角にコーナーミラーを付けてほしいくらいだ。

 近くで働きそれに気付いている事務部の後輩たちは、何か用事で営業部に行かなければならない案件をひぃながかかえていると、代わりに出向いてくれるようになった。

 出社時の電車でたまたま会うと一緒に会社まで行くし、社内で場所移動するときもなるべく誰かしら一緒に動いてくれる。事務部はほぼ毎日、全員が定時にあがれるので、連れだって会社の最寄り駅まで歩く。たまに寄り道をして、お茶や夕食も楽しんだりする。

 後輩たちとの交流が増えたのはいいことだが、理由が理由だけにひぃなも申し訳ない気持ちになるし、後輩たちは心配でたまらない。

 とはいえ、実際に何か連絡をしてくるとか強引に誘うとか触ろうとするとかをしてこないので、何も言えずにタチが悪い。

 社長は社長で忙しい時期に突入しており、証拠も確信も持てない状態で相談するのは気が引けた。

 もちろん、攷斗にも言えていない。


 社内で堀河と別れ、休憩終了時間の少し前に事務部へ戻ると、

「時森チーフ」

 後輩の紙尾が声をかけてきた。

「いまお時間いいですか?」

「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」

「こないだ、姉とその娘と私とで買い物行ったんですけど…」

 と、小さな紙袋をひぃなに渡す。

「良かったら、使ってください」

「? ありがとう…」

 袋を開けると、そこには四角いトリュフチョコを模した防犯ブザーが入っていた。

「いつもお世話になっているお礼と、チーフになにかあったら嫌なので……」

 紙尾は割とひぃなと連れ立って社内を移動することが多いので、黒岩の一件も知っている。

「ありがとう、お守りにするね」

「今日も良ければ、帰りご一緒しましょう」

「うん。いつもありがとね」

 満員電車で万が一誤作動したら大変なので、バッグの持ち手、金具部分にキーホルダーを着けて、本体を内側に入れた。

「可愛い」

「姪っ子と姉は別の絵柄で、チーフのは私のとおそろいなんです」

「そうなの? 嬉しいな」

「私もです」

 えへへと二人で笑い合う。

 攷斗と同い年なので三十代半ばだが、紙尾は小柄で可愛らしく、ひぃな自慢の後輩だ。

 結婚の際に行った手続きなどを教えるようになって、いままで以上に親しくなった。

 ちょっと適当そうな湖池とは正反対のように見えるが、それがかえって良いのかもしれない。

「午後の書類、私届けに行きますね。終わったらお声かけてください」

「いつもありがとう。助かります」

 営業部へ提出する書類を依頼されていて、午後一番には作成が終わる予定だ。黒岩がいつ戻るかわからないので、渡しに行くのは紙尾に託す。

 もういっそのこと、襲ってきてくれればその場で捕まえられるのに、などと思ってゾッとする。自覚している以上に精神を摩耗しているようだ。


 終業後、後輩たちと連れ立って電車に乗り、乗換駅で別れて帰路に着く。

 駅から自宅までは徒歩10分程度。

 ふと、道すがらに視線を感じて振り返るが誰もいない。シャンプーをしているとき、傍らに誰かいるような気配がする、あれと同じだろう。

(いざとなったらコレがある……)

 バッグに着けた防犯ブザーを握りしめ、帰路を急いだ。

 本当に誰かに見られているのか、それとも被害妄想か……。

 なんだか頭がぼんやりしていて調子が悪い。天気も思わしくないし、気圧のせいかな、と自分をごまかしつつ歩を進める。

 念の為、エントランスのドアが閉まって誰も入ってこないのを確認してからエレベーターに乗り部屋へ戻る。玄関ドアを開錠して、やっと一息ついた。

 リビングの時計は19時過ぎを指している。今日は攷斗の帰りが遅いと聞いていたので、夕飯は自分の分だけ作ればいい。けれどその気力もなく、リビングのソファに座ってぼんやりとしてしまう。

(おなか…へらないな……)

 手と足の指が熱く、じんじんしてくる。その割に身体は寒くて断続的に鳥肌が立つ。

 後頭部から発生したもやが、身体全体に広がっている感覚。

(なんだろ…だるい…)

 ずるずるとソファへ寝そべると、自分の意志とは関係なくまぶたが閉じていく。

(かぜ……ひいちゃう……)

 しかし抗うことが出来ず、そのまま眠りについた。


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