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前編

「家借りるときさぁ、保証人が必要だと困るとき来そうで不安なんだよね」

 酒の席で元後輩にそんなことをグチったら、旦那が出来ました――


 ――ことの発端は数時間前。

「久しぶり」

 居酒屋の個室にひょこっと現れたのは職場の元後輩・棚井タナイ攷斗コウトだ。

「おつかれさま」

 スマホをいじる手を挙げ、時森トキモリひぃな(ヒィナ)が挨拶する。

「なんか頼んだ?」席に着くや聞く攷斗。

「ううん? まだ。決めてはある」

「ん」

 攷斗は短く返事して、二人掛けシートの空きスペースにバッグと紙袋を置き、オーダーパネルを操作した。

「どれ?」

 向かいに座るひぃなにパネルを見せる。ひぃなは画面を数回押して、注文リストに飲み物を追加した。

「食いもんは?」

「先たのんで~。足りなかったら追加する」

「はーい」

 攷斗がひぃなに見せながら食事を選び、自分が食べたいものと、ひぃながいつも注文するものを合わせて数点【カート】に入れた。

「こんなもんかな。追加ある?」

「ううん、だいじょぶ。ありがとー」

 その返事を受けて、攷斗が【注文する】のボタンを押す。

「あ」パネルを充電器に戻しながら小さく言って「はい、これ。誕生日おめでとう」マチが広めの紙袋を差し出す。

「わぁ、ありがとう」

 袋に印刷されているのは、有名なフラワーショップの名前だ。

「一応、ひなのイメージ伝えて作ってもらったやつだから」

「えー、うれしい。部屋に飾るね」

 袋の中から小さなブーケを取り出す。ピンクと白が基調のそれを、ためつすがめつ眺めてみる。ひぃなは嬉しそうにへへーと笑って

「ありがとう」

 改めて礼を言った。

「うん」

 頬杖をついて微笑む攷斗に

「毎年毎年律義だよね。ありがとね」

 ひぃなが何度目かの礼を伝える。

「好きで祝ってんだから気にしないでよ。それより、なんか取って付けたようなもんでごめん。ここんとこちょっと忙しくて……」

「大丈夫なの?」

「うん、さっき終わらせてきたから、もう来年の始めくらいまでは余裕。だから、今度一緒になんか見に行こう」

「えー、いいよ、悪いよ」ブーケを紙袋にしまいながら、「嬉しいよ? お花。あんまりもらう機会ないし」傍らに置きつつ笑顔で返す。

 照れながらプレゼント用の花束を買う男性を見ると、思わずほっこりしてしまう。

 普段、洒落たことをこともなげにやってのける攷斗のことだから、照れつつオーダーするようなこともなかっただろうが、それでも嬉しいものは嬉しい。

「女子はみんな単純にお花もらうの嬉しいよ」

「そう? なら良かった」

「失礼しまーす」

とふすまの向こう側から声が聞こえて、ふすまが空いた。店員が酒とつまみをテーブルの上に置く。

「じゃあまぁ」

 と攷斗がビールのジョッキを掲げる。

「「おつかれさまー」」

 グラスを当てて、仕事終わりの身体にアルコールを流し込んだ。

「んんー、んまいっ」

 おっさんみたいな声を上げて、ひぃながグラスをテーブルに置き

「お仕事順調なんだね」

 言った。

「んー、まぁ、ぼちぼち?」

 人好きしそうな笑顔で首をかしげる攷斗。


 二人が一緒に働いていたのはもう五年近く前になる。

 ひぃなはデザイン事務所の経理事務として従事している。攷斗とは部署が違ったが、事務部の後輩で攷斗と同期の女性社員を通じて連絡先を交換してから、ちょこちょこと連絡を取り合うようになった仲だ。

 ある時、同じ地域の出身で通っていた小中学校が一緒だとわかって、思い出話に花が咲き急速に親しくなった。

 それからは、相談やお礼やと、ことある毎にお誘いがくるようになった。お互いの誕生日を祝うようになったのも、その交流の一環だ。

 攷斗が所属していたデザイン部と、ひぃながいる事務部は業務上あまり接点がないので、最初に後輩から紹介されたとき不思議に思ったのを覚えている。

 ゆくゆくは独立して会社を立ち上げるつもりだから事務処理を学びたいという理由を聞いて、それならばと協力することを決めた。

 両者の手が空いた時間を使って、基本的な事務処理などをOJTした。覚えが速いので教える苦労も感じず、むしろ楽しい時間を過ごした記憶しかない。

 攷斗が退職してフリーのデザイナーになると発表されたとき、会社勤めで終わらせるには勿体ない才能の持ち主だからと社内の誰もが納得し、盛大に送り出した。

 その後の詳細な活動内容は聞いていないが、成功している様子だ。


「そういや大丈夫だったの? 今日」

「ん? だから仕事は一段落ついたってば」

「じゃなくて、カノジョ」

 風の噂で三ヶ月前に出来たらしいと聞いた。

「……ソース誰」

 あからさまに不機嫌な顔で攷斗が問うと、

湖池コイケ

 ひぃなが、攷斗の同僚だった男の名前を伝える。湖池と攷斗は仲が良く、攷斗が退職したあとも交流がある。そのせいかどうかは知らないが、ひぃなは湖池から何故か攷斗の近況を良く聞かされている。

「あいつマジ……」

 言うなって言ったのに……。言外でぽつりと呟いたその言葉は、ひぃなの耳には伝わらない。

「嫌なんじゃない? 付き合いたての彼氏が、元先輩とはいえオンナと」

「別れた」

 ひぃなの言葉を攷斗がさえぎる。

「…え?」

「先週別れた。だから……」

「若いな」

「オレもう33だよ? いつまでも新人だった頃と同じ扱いしないでよ」

「ごめん」

 つい癖で若者扱いしてしまい、素直に謝る。

 それでもひぃなより9歳下だから、“若者”であることに変わりはない。

「うん。あと、すぐ別れるかどうかに若さ関係ないと思う」

「そう、だね」

 年齢が、というか、フットワークが軽いとかバイタリティがあるという意味合いが強かったが、特に注釈を入れたりはしない。

「俺の話はいいよ。そっちはないの、そーゆーハナシ」

「ないねぇ~」

 焼き鳥を食べながら即答で嘆く。

「したいとかもないの、ケッコン…とか」

「んー……」

「えっ?!」

「えってなに」

「いや…こないだまではソッコー“ない”って言ってたから……」

「いやー、親ももうトシだしさ? もうすぐいまの家が更新なんだけど、あれって保証人必要じゃん。うちは必要なのね? 親がいなくなったら、親戚づきあいも浅いから頼める人もいないし、友人知人じゃハードル高いしさ」出汁巻き卵をつつきながら、ひぃなは続ける。「病院の手術の同意書なんか、肉親じゃないとダメらしいんだけど、親が病院に到着するまで命の保証があるわけじゃないじゃない? でも夫婦だったらあっさりOKなのよ。たかが紙切れ一枚の契約だったとしてもさ」息継ぎついでに酒を飲む。「親も年金世代でいつ仕事しなくなるかわかんないし、頼れる兄弟もいないし、いつまでも一人ってわけにはいかないのかなーって思ったら、パートナーっていうか、旦那探すしかないのかなーって」話をこないだサエコとしたの、と言い終わらない内に、

「じゃあさ!」

 結構な音量で攷斗が話を切った。

「しようよ、俺と」

「なにを?」

「けっ……ケッコン…カッコカリ……」

 尻すぼみに消え入るような声で出されたその提案に、お前は何をどこぞのゲームシステムみたいなことを言ってるんだと思いつつ、見たことないような真剣な顔で言うもんだから。

「…うん…」

 酒の勢いもあって、思わず承諾していた。

「えっ! マジで! やった! よし、気が変わらないうちに届出行こう」

 攷斗は素晴らしい速さで婚姻関係を結ぶのに必要な手続きを調べていく。

 ひぃなは飲食の手をとめ、そんな攷斗をポカンと眺めている。

「婚姻届ーはなんとかなる〜…戸籍謄本……ひなって本籍覚えてる?」

「えっ、うん。実家のまま変えてないけど……」

「じゃあ俺と同じ区だよね。おっけー」

 スマホで必要書類などを調べつつ

「婚姻届の保証人誰かいい? すぐ呼び出せる人いる?」

「えっ? いやっ?」

「じゃあ、湖池と社長でいい?」

「えっ? うん。えっ?」

「まだ二人ともどうせ仕事してんでしょ?」

 矢継ぎ早に質問を投げかける。

「うん、たぶん……」

 ひぃなが退勤するとき、二人は会議室で書類と格闘していた。その時点で定時を少し過ぎていたが、当分目途が立ちそうになかったので、今頃残業の真っ最中だろう。

「じゃあ一旦電話……」

「まっ」手を出して止めて「まって。待って」やっと言葉が追いつく。

「なに?」

「いいの?」

「なにが」

「いいの? 結婚。私と」

 脳の処理が追いつかず片言になるひぃなに

「いいから言ったんだけど」

 攷斗がキョトンとした顔になる。

「なんで?」

 ひぃなの再度の疑問に、意外そうな、それでいて不服そうな顔を一瞬見せて攷斗が黙った。

「なんで? いいの?」

 ひぃなとしては至極当然の疑問に

「いいよ。好きだから、ひなのこと」

 攷斗は至極当然のように答える。

 しかし、ひぃなは信じられないといった顔で固まった。

 その反応を見た攷斗も、同じように固まってしまう。


 周囲の音がやけに大きく聞こえる。


 長いようで短い沈黙のあと、攷斗が大きく息を吸って、

「――…ってのもあるけどー」おどけて見せて「俺もさ、俺んちも片親だし、頼れる兄弟もいないしさ。パートナーいたほうが色々ラクかなーって思ってたんだよね」

 取って付けたように続け

「そしたらひながさ、同じようなこと言うから、ひなとなら楽しいかなーって」

 破顔した。

 攷斗はひぃなを“ひな”と略して呼ぶ。攷斗曰く“小さい“ぃ”を言うのが面倒”とのことだ。人の名前を面倒とはどういう了見だと反論したが、攷斗の独立以降、その呼び方が定着してしまった。もちろん、そんな風に呼んでくるのは攷斗だけだ。

「それに、さっきひなだってうんって言ったじゃん」

 唇を尖らせて反論してくる。

「いや、言ったけど、そんな本気だとは思わなくて……」

「俺とじゃやなの?」

 こういうときばかり年下ぶって甘えてくる。その表情はいつにもまして可愛らしい。

「嫌じゃないけど……」

「じゃあ決まりね」

 攷斗は満面の笑みで押し通して電話のアプリを立ち上げると、通話を開始した。

「……あっ、お疲れ。うん。いま会社? だよね。社長もいる? うん。うん。いや、ちょっとお願いがあってさ」

(えええー!)

 ひぃなを余所に話はどんどん進んでいく。

「おっけーおっけー、二時間後ね。はーい、はーい」

 通話を終えて

「よし」

 攷斗がひぃなに笑いかけた。

「余裕できたからメシ食っちゃおう」

 ぽかんとするひぃなとは正反対に、攷斗は止まっていた箸を進める。

 ひぃなは言葉を探したまま、口を開けて黙ってしまった。

「どしたの、ぽかんとして。ハラいっぱいになっちゃった?」

「…だって…本当に好きな子できたら、棚井バツイチになっちゃうんだよ?」

「え? 結婚する前から別れ話する?」

「だって……」

「それはそっちだって同じでしょ?」

「それは……そうだけど……」

「不安なのはわかるよ。でもさ、一緒に暮らしてくうちに……ねっ」

 一瞬言い淀んで、はぐらかす。

「あ、保証人。社長と湖池があと二時間くらいで仕事終わるって言ってたから、そのタイミングで会社行くことになってる」

「…わかった……けど、その二人に言ったら、即日会社全体にバレるやつじゃない?」

「大丈夫でしょ、口止めしとけば」

「それ本気で言ってる?」

「いやー?」

 攷斗はビールを飲んで

「俺は別にバレてもいいし」

 やんわりとひぃなの言葉を否定する。

「そりゃ棚井はもううちの社員じゃないからさ…」

「まぁね。あとさ、いまはいいけど、名字呼びそのうちやめてね?」

「えっ」

「同じ名字になるんだし、夫婦で名字呼びもなかなかないでしょ」

 じゃあなんて呼べばいい? なんて愚問はしない。名字がダメなら残る選択肢はひとつだ。

「…………コウト?」

 んぐ、と飲んでいたビールを吹き出しそうになって、攷斗がジョッキを置いた。軽くむせている。

「ちょっと大丈夫?」

 おしぼりを渡すひぃなに、攷斗は苦笑いを見せた。

「…急なんだよな、いつも」

「だって呼べって言うから……」

 今度はひぃなが唇を尖らせる。

 アルコールに紛れて、照れからくる顔の赤さを誤魔化せて良かった――攷斗は内心息を吐いた。

「いますぐにとは言ってないじゃん。いやいいんだけど、それで」

「どっちよ」

「いーよ、ふたりのときは、好きなほうで」

「曖昧なんだよな、いつも」

「ひなに委ねてんの。いーから食べよう。旨いよ」

「うん……」

 納得はいかないが残すのも嫌なので食事を再開する。

 少し冷めたつまみ類も、それはそれで美味しい。けれど、ゆっくり味わうのとは程遠い心持ちになってしまった。

 なんだか妙にソワソワと浮足立つ心。それが期待感なのか不安感なのかは自分でも良くわからない。

「そうだ」

 出汁巻き卵を食べながら攷斗が口を開く。

「会社行く前にコンビニ寄らないと」

「なんか買い物?」

「婚姻届」

「……あれって売ってるもの?」

「アレに付録で付いてんでしょ? 結婚情報誌」

「あぁ」

 そういえばテレビCMで聞いた気がする。

「ハンコ持ってるよね」

「スタンプ印なら」

「あ、じゃあダメだ。ゴム印ダメだって書いてあった」

「じゃあ多分、社長サエコはまだしも湖池も持ってないよ」

「そーだよね」

 攷斗はひぃなの話を聞きながら、スマホで何やら調べている。

「棚井だっていま持ってないでしょ? だったら」この話は一旦保留で、と付け加えようとしたのに

「途中にドンキあるでしょ。あそこで作って行こう」ひぃなの言葉は遮られた。

「作る?」

 ほらこれ、とスマホの検索結果を見せてくる。なるほど【ハンコの自販機】。世の中便利になったもんだ、と感心してふと思う。

(ホントに本気なんだな……)

 その心中を察することは出来ないが、その場のノリにしては仕事が速すぎる。そもそも攷斗は冗談でここまでゴリ押ししてくるようなタイプじゃない。

 酒の勢いに任せて承諾してしまったが、この先の人生ことを考えるとパートナーはいるに越したことはないだろう。それに……

(棚井となら、うまくいくのかも……?)

 なんて考えてみる。

 そもそも攷斗は基本的に【我関せず】のスタンスが多い。“どうでもいいことは心底どうでもいいし、そんなんに使う時間もったいない”と何回も聞いたことがある。

 それがこんなに熱心|(?)に取り組んでいるということは、そこにはきっと“本気”があるのだろう。

(くくるか、ハラ……)

 やっぱりおっさんみたいな決心をして、この流れに乗ってみることにした。


* * *


 居酒屋を出て、会社へ行く途中で大手チェーンのコンビニに寄る。

「俺、住民票とってくわ」

「はーい」

 出入口付近のコピー機を操作して本籍地入りの住民票を印刷する攷斗から離れ、ひぃなは窓際に設置されたブックラックを眺めて目的の雑誌を探す。

(あった)

 上部に大きく誌名が書かれ、ウエディングドレスに身を包んだ女性のモデルが表紙を飾る。その雑誌に向かって伸びた手がピタリと止まった。

 “各種手続きに必要なチェックリスト”や“祝い金をもらうには何をどこに申請すればいいか”、“結婚式にかかる費用や期間、開催までにやらなければならないことのチェックリスト”が掲載され、【彼】に読ませる小冊子が添付されている。と表紙の見出しが教えてくれる。今月号の付録はなんと、“有名テーマパークに棲む動物たちのイラストがプリントされた鍋つかみ”だそうです。

「どしたの、固まっちゃって」

 住民票を取得し終えた攷斗がひぃなの隣に立った。

「いや……いままで手に取ったことなかったから、気が引けて……」

「なんだそりゃ」

 攷斗が笑ってラックに手を伸ばす。

「えっ、重…」

「カラーグラビアばっかの本は重たいんだよ」

 空中で止まっていた手をそっと戻して、さしてお役立ちでもない情報をひけらかしてみる。

「いや、そりゃ知ってるけど……」

 職業柄、二人ともファッション誌を読み慣れているが、それにしても重いものは重い。

「あとなんかいる?」

「んーん。大丈夫」

 ひぃなの回答を聞いて、攷斗が雑誌をレジに持っていく。

 会計を待つひぃなの内心は、気恥ずかしさでいっぱいだ。

 ――なにがどうしてこうなった。

 そんな言葉が浮かんでは消えを繰り返す。

「はい、お待たせ。次ドンキね」

 攷斗が自分のバッグに雑誌を入れ、歩き出した。

「重いでしょ? 持つよ」

「重いから持ってんの。だいじょぶだよ」

 本当のカップルだったらここで手でも繋いで歩くことだろう。けど、攷斗とひぃなは“偽装カップル”だ。

 いつものように、少し離れて並んで歩く。

「あった」

 大きな国道沿いに目立つ看板を見つけた攷斗が小さく言った。店頭付近にある大きな機械前で操作方法を確認して、作業に移る。

 まずは【湖池】印。安いのでいいやと攷斗が言って、プラスチックの印材を選択する。

 ひぃなも攷斗もこういう“少し変わった機械”が好きだ。キラキラと目を輝かせ、完了までの段取りを眺めながら楽しんでいる。

 彫り終わりを待つ間、「ひなはどれがいいの?」とディスプレイされた印材を眺めながら攷斗が問う。

「私も安いのでいいよ。この色がいいかな」

 とディスプレイを指さし、財布を出そうとしたところを攷斗に止められた。

 攷斗はいつも何も言わず、ひぃなの支払いを断る。

「ありがとう……」

 そしていつも少し申し訳なさそうにひぃなが礼を言う。

「いい加減受け入れてよ。ひな今日誕生日なんだし、これから夫婦になるんだし」

 言いながら操作を進めていく攷斗。

「うん…」

「時森のやつはそれね。棚井のはいいやつにするか」

 と、合計三個のハンコを作成した。出来あがった判子を「持ってて」とひぃなに渡す。

「ん」

 ひぃなはそれを受け取って、バッグの中のポーチに入れた。

 飲食店からひぃなの会社までは徒歩15分程度だ。買い物をしても約束の時間まで余裕で到着する。

「こんばんはー、お疲れさまです」

 ひぃながテナントビルの守衛室内に声をかけた。

「はい、お疲れ様です。お連れさま?」

「はい」

「こんばんは」

「はい、こんばんは。じゃあこちらに必要事項をご記入ください」

「はーい」

 言われた攷斗が返事をして、慣れた様子で訪問記録表に来訪日時や氏名を記入する。

 その間に、ひぃなは社員証を確認してもらう。

「はい、ありがとうございます。こちらね、帰るときにご返却ください」

 必要事項が全て記入されていることを確認して、守衛が攷斗へゲストパスを渡した。

「「ありがとうございます」」

 二人で挨拶をしてビル内に入り、奥まで進んでエレベーターに乗る。6階建てビルの5階と6階がひぃなの勤める【プリローダ】のオフィスだ。

「どっちだろ」

「多分会議室にいると思う」

「じゃこっちか」

 攷斗が階数ボタンを押すと、エレベーターが動いた。到着したフロアの入口から明かりの点いた一角を見つけて、慣れた足取りでオフィスに入る。

「こんちはー」

 先立って歩いていた攷斗が、時間にそぐわない挨拶を室内へ投げかけた。

「あら、棚井。久しぶり。どうしたの? こんな時間に。いるの良くわかったわね」

 対応したのは、コーヒーブレイク中の【プリローダ】社長・堀河ホリカワ沙江子サエコだ。

「えぇ、ちょっと……」

 と、後方の人影に目線を送った。

「どーも……」

 顔を出したひぃなに、堀川が意外そうな顔を見せる。

「あれ? お疲れさま。なに、二人して来るなんて珍しい。棚井が辞めてからは初めてじゃない?」

「いやぁ」

 なんと言っていいかわからず、ひぃなは言葉を濁す。

「さっき湖池には電話したんですけど」

「あら。あいつなら会議室にいるわよ? 呼んでこようか?」

「あ、いや。湖池だけじゃなくて、社長にもお願いしたいことがあるんですけど」

「ん? そうなの? なに?」

 どうやら堀川は何も聞かされていないようだ。

「そのー…ちょっと……保証人になってほしくて」

「えっ?! いやぁよ! あんたたち借金するほど困ってないでしょ?!」

「いや、カネの話なんてしてないですよ。そーじゃなくて」攷斗が肩から提げたバッグをドサッと手近な椅子の上におろし「重かったー」中から分厚い雑誌を取り出した。「これ。湖池と二人で、保証人になってほしいんです」

「……えっ」

 絶句した堀川が机の上に置かれた結婚情報誌をマジマジと眺めて目を丸くして、真偽を確認するようにひぃなを見た。

 ひぃなは苦笑しながら、肯定するために首を縦に動かす。

「えー! やだちょっと、ほんとぉ! ソッコー仕事終わらせてくるから座って待ってて! ねー! 湖池ぇ!」

 堀河は興奮しながら、湖池が作業しているという会議室に入っていく。

「……すげぇテンション」

(そりゃそうでしょ……)

 社長――堀河沙江子とひぃなは高校生のとき同じクラスになってから、かれこれ二十数年来の付き合いだ。日常のどうでもいい話や仕事のこと、そして将来設計のことももちろん話している。その中でまったく話題にあがることのなかった“攷斗との結婚”は、まさに青天の霹靂だろう。

「じゃあ……書こうか」

「うん」

 二人並んで椅子に座る。

 攷斗が雑誌を広げ、丁寧に付録の婚姻届を取り外して机上に広げた。

 ピンク色で印刷されたその書類を、ひぃながペンも持たずマジマジと見つめている。

 攷斗はその顔を覗き込んで、

「……やっぱり、やめる…?」

 静かに問いかけた。

 その表情が思いのほか寂しそうで。

「ううん? やめないよ?」

 子供をなだめるような口調で答え、微笑みながら攷斗を見つめた。

「こっち側書くの初めてで心配だから、良く確認してから書こうと思って」

 事務業のさがはいつでも付きまとう。

「そっか…そうだね。俺も心配だから、書き方教えて?」

 内容とは裏腹に、表情が安心に満ちた。

「うん。……なんか懐かしいね」

 攷斗が入社した当時のことを思い出して、ひぃなが笑う。

「ん?」

「棚井にそういうの聞かれるの、めっちゃ久々」

「ここ入りたてのときはなんもわかんなかったから」

「あの頃はタメ口じゃなかったのにねぇ」

「そりゃそうでしょ。先輩だし年上だし、敬語も使うわ」

 それが退職を機に“これからは先輩後輩じゃないから”という急な宣言と共に、攷斗はひぃなに敬語を使わなくなった。名前を省略して呼び捨てにし始めたのと同じタイミングだ。

 攷斗にならそうされても嫌じゃなかったので、その提案をそのまま受け入れて早五年。いまではどちらもすっかり馴染んでいる。

 人懐っこい性格と、少年のように可愛らしくそれでいて整った顔立ちはとても人受けが良い。業務の飲み込みも速いうえに気が利くという何拍子もそろった後輩が、可愛くないはずがない。


 その“可愛い後輩”が、書類上で“夫”になろうとしている。


 ひぃながバッグに入っている愛用のボールペンを取り出して持つと、手のひらにジワリと汗が滲んでいる。知らぬうちに緊張していたようだ。

「ちょっと」気持ちをほぐすために立ち上がって「住民票、持ってくるね」攷斗に宣言した。

「うん」

 ひぃなはバッグから仕事用のキーケースを取り出し、オフィスの一角にある鍵付きのロッカー前へ移動した。開錠して、【従業者名簿:事務部門】と書かれたファイルを取り出す。ファイリングされたクリアポケットの中から自分の従業者名簿のページを開いて、片側に入れられた住民票を取り出した。ファイルをロッカーに戻して施錠する。

 攷斗の隣に戻って、住民票を傍らに置き婚姻届と対峙した。

「じゃあ……書きますか……」

 これから戦場に赴く兵士のような面持ちのひぃなに気付き、

「失敗したらまたコンビニ行ってくるから、緊張しなくていいよ」

 攷斗が笑って、気分をほぐそうと声をかける。

「うん……」

 しかし、この緊張は書き損じを憂うためのものではない。が、あえて訂正はしない。

(…よし…)

 決意も新たに、婚姻届の【妻】欄を埋めていく。

 氏名、生年月日、現住所、本籍、職業と届出人。

 自分だけでは決められない項目は空欄のままにしておく。

 ひぃなが自分の欄を全て埋めたと同時に、堀河が湖池を連れて戻ってきた。

「なになに? いつから付き合ってたの? どういうなれそめ? 全然知らなかったんだけどー!」

 堀河に負けず劣らぬテンションの湖池が、矢継ぎ早に問いかける。

「なんなのお前のそのテンション」

 眉間にしわを寄せてうるさそうに攷斗が言った。

「えー?! だってめでたいじゃん! 棚井ずっと時森チーフのこと」

「そういうのいいから!」

 湖池に負けぬ大声で言葉の続きをかき消した攷斗を、ひぃなと堀河が目を丸くして見やる。そういう一面をあまり見たことがなくてビックリしたが、湖池は「えー、冷たいなー」などとぼやきながら普通にしているので、男友達と接するときはそういう態度も珍しくないようだ。

「座って、書いてよ。はい」

 ひぃなが書き終えた書類を、攷斗が半回転させて向かい側の席へ向けた。

「せっかちねぇ。そんなんじゃモテないわよ? あ、いいのか。もうモテなくて!」

 ねー! と、社長と湖池が満面の笑みを見合わせて笑う。

「なんなの? ふたりとも酒入ってんの?」

「呑んでないわよぅ。嬉しくてテンションあがっちゃってんのよぅ」

 実際にアルコールの入っている攷斗とひぃなのほうが冷静だ。

「ハンコいるのよね? どれがいい? どれでもいい?」

 ザララ、と数本の判子を机上に広げた。

「ゴム印じゃない認め印でいいです。実印はさすがにちょっと……」

 ひときわゴツイ判子入れに目を止め、攷斗が言いよどむ。

「あらそーお? せっかくの幼馴染の祝い事だから本気見せなきゃって思ってたんだけど」

「えっ重い」

 さすがのひぃなも退いている。

「じゃあ普通のでいっか」

 特に気にすることもなく、広げた判子を机の脇に寄せて【妻】の欄が埋まった婚姻届に手を伸ばす。

「ひぃなの保証人になれるなんてねぇ……」

 堀河がしみじみ言いながら、ボールペンをノックした。

「なってもらったことはあるのにねぇ……」

 結婚するとき、ひぃながその保証人を二度とも務めたことを言っているようだ。

 堀河がしみじみしながら書類を書き進める中、

「オレ、スタンプ印しか持ってないけど」

 先ほどの会話を聞いていた湖池がすまなそうに言う。

「あるよ。ね」

 攷斗がひぃなに問いかけると、

「うん」

 ひぃながバッグの中から三個の判子を取り出した。全て違う印材なので、【湖池】の物もすぐわかる。

「さっすがタナイ、仕事できるー」

「500円」

「えっ? カネとんの? いいけどいま財布持ってない」

「うそ。あげるよ。なんかで使うでしょ」

「やったー、サンキュー」

 湖池と攷斗のやりとりを聞きながら、堀河が書類を書き終えた。

「汚しそうだからハンコは湖池が書き終わってから押すわ」

 はい、と書類を湖池に差し出す。

「あんたしっかり丁寧に書きなさいよ? 一生もんの書類なんだからね?」

「はいっ!」

 湖池は背筋を伸ばして、敬礼せんばかりに返事をした。

「オレ、ペン習字やってたんで大丈夫です!」

 言って、胸ポケットから愛用のボールペンを取り出して書き進める。

 なるほど、確かに達筆だ。そして牛歩のごとくゆっくりだ。

 たっぷり時間をかけ、記入を終えた湖池が「ふぅー」と息を吐き、汗ひとつかいていないおでこを手の甲で拭いながら上半身を起こした。

「……その速度じゃ業務には向いてないわね……」

 無事書き終えて満足げな湖池に、社長が頬杖をつきながらつぶやく。

「すごい。フォントみたい」

 思わず関心するひぃなに湖池がドヤ顔を見せるが、

「書類の書き文字に三分の一でいいからその丁寧さを反映させてほしい」

「すんません」

 つぶやいたひぃなに謝って頭を下げる。

 湖池の速筆はなかなかに解読が難しいときがあり、事務部には解読班がいるほどだ。

「じゃああとは印鑑ねー」

 堀川が判子類と一緒に持ってきた朱肉の蓋を開けて

「湖池、先に押してよ」

 湖池の前に置いた。

「はーい」

 上下を確認して朱肉を経由し、書類へ印面を押し付ける。続いて堀川。

「…はい、綺麗にできました」

 ティッシュでハンコを拭きながら満足そうに堀河が言う。書類を手で扇いで印影が乾いたのを確認してから、

「残るは夫欄ね」

 攷斗に書類を渡す。

「やばい、さいご緊張するな」

 手の汗をジーンズで拭って、攷斗がバッグからさっき取ったばかりの住民票を出したところで、

「コーヒー淹れてくるかぁ。湖池手伝ってー」

「はーい」

 堀川が湖池を連れて休憩スペースへ移動した。

 ひぃなからペンを借り、ひぃなと同じ順序で空欄を埋めていく。自分の情報を全て書き終え、ひぃなが残していた項目に取り掛かった。

「届出日は今日でしょー? あれ、これって結婚記念日になるのか」

「そう、じゃないかな?」

「そうだよね」

 年月日を書き入れ、

「今日だったら絶対忘れないな」

 攷斗が口の中でつぶやく。残念ながらひぃなには聞こえていない。

「名字、俺のでいい?」

「うん」

 躊躇ないひぃなの回答に攷斗が相好を崩し

「ありがと」

 子供のような笑顔で礼を言う。

「【新しい本籍】だって。どこにしようか」

「んー、特にこだわりはないけど……」

「便利だろうし、俺の家でいい?」

「うん。大丈夫だよ」

 はーい、と返事して、攷斗の自宅住所を記入した。

「同居も結婚式これからだから空欄ー、と」

 連絡先も俺のケータイ番号でいいか、と記入する。

「これで大丈夫かな」

 と、ひぃなに問う。

 ひぃなは一通り書類を確認して、必要事項欄に書き漏れがないかを探す。

「……うん。大丈夫、だと思う」

 専門外なので自信はないが、おそらく問題ないだろうと判断する。

「よーし。じゃあ、あとは押印だけ」

 はい、とひぃなに書類を差し出す。それを受けて、先ほど作ったばかりのハンコを持ち届出人の欄に【時森】印を押した。続いて攷斗。

「……うん、できた」

 攷斗の言葉に、どちらからともなく顔を見合わせ、

「よろしくお願いします」

「こちらこそ」

 はにかみながら会釈などしてみる。

 少し気恥ずかしくなって、

「しまってくるね」

 机上に置いてあった自分の住民票を手に取り、ひぃなが席を立った。

 従業者名簿のファイルに住民票を戻し未使用のクリアファイルを持って戻ると、攷斗は子供のような純真な顔で、婚姻届を嬉しそうに眺めていた。

 何故だか少しだけ、ひぃなの涙腺が刺激される。

「あ、おかえり」

 言ったそのすぐあとには、いつもの表情に戻っていた。

「うん。ただいま。書類、これに入れる?」

 クリアファイルをそっと差し出すと、

「うん、さすが。ありがとう」

 攷斗はパッと笑顔になり、婚姻届と住民票を一緒に入れた。さらに折れないようにと結婚情報誌に挟んで、バッグに入れ、

「はい、これあげる」

 ティッシュでインクを拭いた判子二本をひぃなの前に置いた。

「えっ」

 まさか【棚井】姓のほうまで渡されると思っていなくて、驚きの声を出してしまう。

「俺、自分のやつ家にあるし。この先手続きで色々使うでしょ?」

「そっか。そうだね……ありがとう」

 考えてもいなかった未来のことを言われ、ひぃながやっと気付く。同時に、【棚井】姓の判子の印材をグレードアップさせた意味がわかって、少し照れくさくなる。

「あ。それは誕生日のプレゼントってわけじゃないからね?」

「うん」

 ひぃなが笑いながら、ボールペンと【時森】【棚井】の判子をポーチにしまっていると、

「おっ、書けたみたいねー」

 四人分のカップを持って、堀河と湖池が戻ってきた。

「はい、おかげさまで」

 礼を言って四人でお茶をする。

「そういえば、ひなの有給ってまだあるんですか?」

「あるわよー、今年度で消えるやつが、たんまり十日間」

「じゃあそれ使わせてもらっていいすか」

「どーぞぉ」

「ちょっと」

 当の本人を余所に進む話に、本人であるひぃなが口を挟むが聞き入れてはもらえない。

「新婚旅行っすか」

「「ちがうよ」」

 湖池の質問に攷斗とひぃなの回答が被る。

「引っ越し」

「えっ?」攷斗の回答にひぃなが疑問符を投げると、

「「「えっ?」」」他の三人が疑問符を投げ返した。

「だってもうすぐ更新なら早いほうがいいでしょ」

「いやそうだけど、急じゃない? まだあと三ヶ月は余裕あるんだし」

「えー、急なの? 同棲とかしてないんだ」無邪気に問いかけた湖池を

「あんたはちょっと黙ってなさい」堀河がたしなめた。

「はいっ!」

 湖池は背筋を伸ばして敬礼し、そのまま押し黙る。

「このあたりなら俺も休めるから手伝えるんだけど」

 机上にあった卓上カレンダーの、土日の定休日も含めた9日間分を示す。

「いいわよー、あとで本人から申請してね。別にいまメールくれてもいいけど」

 本来は前月までに申し出るのが原則だが、突発的な事情による直前の取得でも対応可能だ。あとから行き違いがないように、必ず文面で残す決まりがある。

 だが、いまは十二月初旬。その予定で休暇を取得すると、年内は一週間とちょっとしか勤務の日がなくなってしまう。

「年末にごめん」

「だーいじょうぶよぅ。あんたが育てた後輩たちがフォローしてくれるって。たまにはまとまった休み取ってよ。有給取らせないとおかみがうるさいんだから」

「オカミ? 旅館とかのですか?」

 堀河の言葉に湖池が首を傾げた。

「そっちじゃなくて、お役所のこと。えっ? いまってそういう表現しない?」

「私シャチョーと同い年だからわかんない」

「言いますよ。そいつバカなんで気にしないでください」

「ちょっとぉ」

 棚井にイジられて、湖池は嬉しそうだ。

「……あの…協力してもらってなんなんだけど…」

 ひぃながおずおずと切り出す。

「うん?」

「そのー…今回の、結婚のこと…」

「うん」相槌を打つ堀河を上目遣いに見て

「みんなには、内緒にしててほしいんだよね……」

 ひぃなが提案した。

 堀河と湖池はキョトンとして顔を見合わせる。

「私たちは別にそれでかまわないけど……」

「はい…」

 堀河と湖池は承諾しつつも攷斗の様子を窺う。

「…なに…」

 その視線を受けて、持っていたホルダー付きの紙コップを置いた。

「あの……!」ひぃなが慌てて付け足し「落ち着くまでで、いいんだけど…」ひぃなも攷斗を窺うような視線を投げた。

「…俺はもう、ここの人間じゃないんで、社内でのことに口出しする権利ないですよ」

「じゃあ、まぁ…」

 湖池が同意して、堀河を見やる。堀河は肯定も否定もせずに、コーヒーを飲んでいる。

「ごめん……」

 申し訳なさそうにシュンとするひぃなに、

「いいよ、色々面倒なこともあるだろうし」

 攷斗が優しく声をかける。

 その光景を見ていた堀河が、おもむろに口を開いた。

「これから24時間やってる出張所行くのよね? 早いほうがいいだろうし、今日クルマだから送って行こうか?」

「マジですか。助かります」

 コーヒーを飲み終わり「さっ」と自分の腿を叩き「行くか、出張所」堀河が立ち上がった。

「録画する?」スマホを取り出す湖池の手を

「しないでいいよ」攷斗が押しとどめた。

「湖池はここ閉めて、電車で帰りなさいよ」

「えー、オレも行きたいですよー」

「行ってどーすんの。私だって帰るついでに送って行くだけよ?」

「提出立ち会わないんすか?」

「うん。だってオジャマなだけじゃない。ほらほら、準備してー」

 鳥を追い立てるように両手で三人を急き立てると、自分もコートを着てバッグを片手に帰宅の準備をした。

 堀河を先頭にして、攷斗とひぃなが敷地内の駐車場に移動する。

 あとから着いてきた湖池が、

「今度あらためてお祝いしようね」

 攷斗に声をかけた。

「うん。ありがとう。急に悪かったな」

「ぜーんぜん。定時で帰っちゃわなくてよかったっすね社長」

「そうねぇ。そういうことにしとくかぁ」

 そういえば昼間電話の取次ぎしたなぁ、とひぃなが思い出す。

 湖池の引継ぎミスが原因で発生した業務に思いのほか時間がかかり残業になっていたらしい。

 一足先に車に乗り込んだ堀河がカーナビを操作して、

「ここでいいのよね?」

 車内に入った攷斗とひぃなに問いかける。カーナビには攷斗とひぃなの出身地区にある出張所の名称が表示されている。

 攷斗がスマホの検索結果と見比べて「はい」返答した。

「じゃあ、また」

 車内を覗き込んでいた湖池に、攷斗が声をかける。

「うん、また今度」

「私たちはまた明日ね」

 湖池に手を振ってから発車させる堀河に

「お疲れ様っす! お気を付けて!」

 駐車場に残った湖池が挨拶をして、大きく両手を振り目的地に向かう車を見送った。


「この時間なら道も空いてるし、そんなに時間かからないと思うわ~」

 堀河の言葉通り、信号に停められることもあまりなく、二十分ほど走ったところで目的地に到着した。

「はいどうぞー」

 出張所の一角にある駐車スペースに車を停めて、堀河が後部座席に声をかけた。

「ありがとう」

「じゃあ……行ってきます」

 少し緊張した面持ちで攷斗が言って、ひぃなと一緒に下車した。

 いままでと変わらぬ距離を保ちながら、二人が出張所の出入り口から建物内に消えていく。

「どんな必殺技使ったんだかねぇ」

 ハンドルにもたれかかり、攷斗とひぃなの背中を眺めながら堀河がぽつりとつぶやいた。



 車内にBGMが数曲流れた頃、攷斗とひぃなが出張所内から姿を現す。

「お帰りー」

 車内に戻って来た二人に堀河が声をかけると、

「ただいま」

 後部座席に乗り込んだひぃなが返事した。

「どうだった?」

「うん、大丈夫だった」

「そう、良かった。おめでとう」

「ありがとう」

「ありがとうございます」

「お祝いは改めてするとして、もう遅いし家まで送って行くわね」

「助かります」

「ありがとう」

「どこに送っていけばいい?」

「いままで住んでた家で大丈夫です」

 堀河のカーナビには、攷斗とひぃな、それぞれの自宅住所が登録されている。仕事の帰りに自宅近くまで送って行くことがあるからだ。

「じゃあ、ここからだとひぃなんちのが近いのかしら」

 地理に疎いひぃなが首を傾げたので。

「そうですね。ひなんち先でお願いします」

 攷斗が代わりに回答する。

「はーい」

 目的地を設定して、堀河が車を発車させた。

「……後悔、してる?」

 心持ち小さな声で、攷斗が隣に座るひぃなに問うた。

「ううん? してないよ? 嫌だったら書いてないから」

「そう。良かった」

 とはいえ、気持ちの整理は微妙についていない。

 両想いになったから、ではないので、物理的にも心理的にも、距離感がつかめずにいる。

「そうだ。二人で住む家なんだけどさ」

 当たり前であろう提案に、思わずドキリとする。そもそもひぃなが家の契約更新をしなければならないが保証人が云々、という理由が発端だ。一緒に住まなければ、婚姻届を出した意味がなくなる。

「新しく探すんじゃなくて、いまの俺の家でいいかな」

「それは…かまわないけど」

「良かった。実はうち……契約、したばっかりで」

「えっ、そうなんだ」

「うん」

「なんか……ごめん」

「なんで」

「だって、私の都合押し付けたでしょ……」

「ちがうちがう。俺はいま更新の必要がないってだけ。ゆくゆくは、ひなが言うようにパートナーが必要になるし」

「…そう…?」

「うん。必要。とても必要。あと、誤解しないでほしいんだけど」

「うん?」

「…誰でも、良かったわけじゃないから」

 運転席には聞こえないように、ひぃなの瞳をまっすぐに見つめて攷斗が言った。

 ひぃなは一瞬きょとんとして、

「……うん……」

 意味を汲んで、うなずいた。

(私だって、誰でも良かったわけじゃないけど……)

 心の中にうずまく少しのモヤが、ひぃなを素直にさせてくれない。

「準備期間短くて大変だと思うけど、手続きとか手伝えることあったら言って。協力するから」

「うん。ありがとう」

 心配しすぎなくらいの気遣いが嬉しい。

「引っ越すとき、家具とか処分したほうがいいかな?」

「んー……いまの家って広さどのくらい?」

「ワンルームで居住空間は十帖」

「あー、じゃあたぶん大丈夫…かな。ひな用に八帖の部屋空けとく」

「助かります」

「そのー……」攷斗が少し言いよどみ「心配、しないでいいから」ぽつりと伝える。

 あえて言わなかったであろう“心配”の元。それはきっと、貞操に関することだろう。

 特に気にしていなかったが、口に出して伝えるということは自分のことを女性として見ているということか。なんて、かえって意識してしまう。

「あ、でも。冷蔵庫とか洗濯機とかの大型家電はうちにもあるから、共用が嫌じゃないならリサイクルしてもらったほうがいいかも」

「なるほど」

 いまいちイメージが掴めていないのか、ひぃなは考え込んでしまう。

 攷斗も一緒になって考えてから、口を開いた。

「今度うち来る? 広さとか使い勝手とか、一回見てもらったほうがわかりやすいかも」

「うん、そのほうが嬉しい」

「じゃあ今週末おいでよ。土曜日休みでしょ?」

「うん」

「したら土曜日迎えに行くわ。ひなんちの物量も見ときたい」

「うん、わかった。お願いします」

「二人ともー。話割って悪いんだけど、もうすぐ着くけど停車するのどの辺がいい~?」

 運転席から質問が飛んでくる。

「あ、えっと」

 と、ひぃなが自宅近くの大通り沿いに面した丁字路を示すと、指定の場所に堀河が停車させた。シートベルトを外すひぃなに、

「家の前まで送るよ」

 攷斗が申し出る。

「近いしいいよ」

「いーから、ほら」

 肩をポンと叩いて降車を促され、ひぃながその提案を受け入れた。

「今日は色々ありがとね」

 ひぃなが堀河に礼を言う。

「うん。また明日、会社で」

「うん。帰り気を付けてね」

「ありがとう」

 手を振りあって降車する。後ろから着いてくる攷斗を振り返り

「ほんとすぐそこだよ?」

 家の方角を指さした。

「うん」

 攷斗はひぃなの隣に並んで、ゆるゆると歩く。100メートルほど小道を歩くと、マンション前にたどり着いた。

「ここの3階」

「トラックはここの目の前じゃキツイかな」

「うーん。まぁまぁ狭いからねー」

 停車出来なくはないが、トラックに阻まれ、人が通るスペースがなくなってしまいそうな道幅ではある。

「じゃあ台車持ってくるか」

 周囲の道路事情を確認し、顎をさすりながら何か算段しているようだ。

「ん、オッケー。じゃあ一旦明後日来るね。一応あとで住所メッセしといて」

「うん」

「13時くらいね。来る前に連絡する」

「うん」

 それまで笑顔で応対していたひぃなが、ふと表情を失った。その次の瞬間には、微苦笑を浮かべる。

「なんか……色々ありがとう」

「ん? うん。まぁ、まだ始まったばっかだよ」

「…うん、そうだね」

 マリッジブルーなのか、突然始まる新生活に対応しきれていないのか、漠然とした不安を抱いているようだ。

 その切なげな表情に、攷斗の胸が締め付けられる。

(やっぱり、急すぎたかな)

 いますぐ抱き締めて耳元で大丈夫だよとささやきたい気持ちに駆られる。

(ま、できないけどね……)

 行き場のない手で自分の後頭部を撫でつけ気持ちを静める。気弱になっているひぃなを独りにしたくはないが、このままとどまるわけにも家に上がり込むわけにもいかないので、仕方なく口を開く。

「…社長待ってるだろうし、行くね」

「うん」

「なにかあったらすぐ電話ちょうだい」

「うん、ありがとう」

「…またね。おやすみ」

「おやすみなさい」

 言って、ひぃながエントランスでオートロックを開錠し建物内に入る。

 姿が見えなくなるまで見送ってから、攷斗は堀河の待つ車へ戻った。

 窓をノックして、助手席に座る。

「お待たせしました」

「いーえー」

 迎えた堀河は心なしかニヨニヨしている。

「ずいぶん強硬手段に出たわねぇ」

「チャンスは掴まないと」

 助手席からカーナビを操作して、履歴から自宅の住所を選択しつつ攷斗が言う。

「いいと思うわよー」

「でもなんか……」シートベルトを締めながら攷斗が続ける。「ちょっと強引すぎたかなーって」

「いいんじゃない? そのくらいのほうが。ひぃなからのアクション待ってたらまた十年経っちゃうし、ひぃなだって本気で嫌な相手とは結婚したりしないわよ」

 ナビの案内を確認して、堀河がエンジンをかける。

「そうだといいんですけど」

 頭では“そうだろう”と思っていても、どこかで“そうだといいな”という期待にすり替わってしまう。やはり、攷斗も攷斗なりに不安なのだ。

「それにしても急展開よね。どうやって持ち込んだの?」

「えー? ひなが、家借りるときの保証人になりえる人がいなくなったら困るし、この先パートナーがいたほうが安心、みたいなこと言ったんで、じゃあ俺なんてどう? みたいな」

「わー、あんたっぽーい」

「いいじゃないですか、俺なんですから」

「で? なんて告白したの?」

 発車させながら言う堀河の質問に、攷斗は答えられない。

「……えっ? 伝えたのよね? ひぃなのことがずっと好きだったって」

「……たぶんあっちは、利害が一致しただけの、偽装結婚のつもりでいる…と思います……」

「えー! ちょっとぉ。私のかわいい親友を犯罪者にしないでよー?!」

「しないしない! 俺は偽装だなんて思ってないですし!」

「だったらそう言ったら良かったじゃない。気持ちは言葉で伝えなきゃ相手にはわからないのよ?」

「そんなの急に言ったら、ひなビックリして心のシャッター閉めちゃいますよ」

「そーだけどー」

「いいんです。年単位でじっくり行くつもりなんで」

「片思い期間長いだけあるわねー」

「いやもう、やっと前進したんで」

「中間工程いくつもすっ飛ばしてるけどねぇ」

「それはこれから埋めていきますよ」

「ひぃなは手強いわよー」

「充分知ってますよ。十年間、ずっとちょっとずつアレコレしてきたんですから」

「ちょっとの嘘が未来に亀裂入れていくからね。良きタイミングで少しずつ種明かししていってあげてね」

「さすが経験者。含蓄がんちくのあるお言葉ありがとうございます」

 攷斗が堀河にうやうやしく礼をする。

「伊達に二回もしてないわよー」そして、目下三回目を検討中だ。「ひぃなにはもうしんどい思いしてほしくないからさ」幼馴染の堀河はひぃなの家庭事情を常に心配している。「ご両親のこととか、ホント色々あったから……あなたにはいずれ話すと思うけど、それまでは聞かないであげてね」

「はい。まぁ、割と聞いてて、多分そこそこ知ってるんですけどね……」

「そうなのね、それは良かった」

「コツコツ信頼と実績積み重ねてきたんで。まぁ、全部の話のうち、どこまでなのかはわからないですけど」

 攷斗の言葉にハハッと堀河が笑い、

「努力が報われることを祈ってるわー」おっと左折か、とハンドルを緩やかに切った。「棚井が粘り強く頑張ってくれて良かった」

「そう思ってもらえたんならいいですけど……親みたいですね」

「そうねぇ…。親ほどのことはできてないけど、姉みたいな感じかしらねぇ。家族同然であることは間違いないわ」

「高校出てからしばらく一緒に住んでたようなこと聞きましたけど」

「うちの親が見かねてね……」堀河家は両親ともにデザイン関係の仕事をしており、裕福な部類の家庭だ。年頃の娘の一人や二人、増えても心配はいらない。「私もそうしてほしかったから、ご家族を説得して、無理矢理呼んだんだけど」

 懐かしそうに目を細める。

 その頃、すでにひぃなの両親は離婚していて、ひぃなのは母方の祖父母と、母と一緒に暮らしていた。しかし、母は心労でうつ状態になりほぼ寝たきり、祖父母も母とひぃなを養うために共働きをしていて帰宅が遅かったので、母や祖父母の身の回りの世話はほとんどひぃながしていた。

 同級生が恋や部活や遊びに使っている時間をひぃなは家事に費やしていて、身も心も疲弊していた。

「…偶然見ちゃったことあるんだけど…あの子さ……泣くのよ、たまに。一人で。でも、何も言ってこなくて」

「あぁ」攷斗が短くつぶやく。「前にいっかい飲ませすぎたときに急に泣かれてビビったことあります」

「あなたにはそういう一面も見せてたのね」

 気の置けない関係になっているのだと知って、堀河は安堵の息を漏らした。

「普段気丈にしてる分、周りが慌てちゃうのよね。で、そうさせたくないからってますます人前で泣かなくなっちゃって」

「そんときもめっちゃ言われましたよ。ごめん、なんでもない、って、慰めさせてもくれなくて」

「その辺は棚井がほぐして、甘えさせてあげて」

「もちろん」

「それにしてもホント棚井で良かった! 秋田や黒岩やになんかされたらいやだなーって思ってたからさー」

「……え?」

「あれ? 知らないか。まぁあいつらとあんたじゃ部署違うし、被った期間も短いもんね」

 秋田と黒岩は堀河の会社の営業部に所属している。攷斗はデザイナーだったので、部署が置かれているフロア自体違っているからあまり顔を合わせない。そもそも、二人とも攷斗より入社が遅かったので、社歴が被ったのは二年と短い。

 女性社員にはまんべんなく声をかけるタイプの秋田はまだしも、女性が苦手なのではないかと噂されるほど、女性社員とは交流を持たない黒岩は正直予想外だった。

「なんか、あったんですか」

「ないない! なんにも!」

 面を入れ替えたようにこわばる攷斗の表情に気付き、堀河が慌ててフォローする。

「あいつらが勝手に秘かに狙ってただけ。誘われても二人でどっか行くとか頑なにしなかったみたいだし、社内でそういう関係性の男性は、私が聞いてる限り後にも先にもあんただけよ」

 堀河の説明を聞いて長い溜息をつき「そう、ですか」攷斗がその息と一緒に吐き出すように言葉を紡いだ。

「好きなのねぇ」

「結婚するくらいなんで」

「んふふ」

 攷斗の言葉に堀河がニヨニヨする。

「なんですか?」

「ひぃなも同じ気持ちだといいわねー」

「嫌われてない自信はあるんで」

「消極的ねぇ」

「じっくり行こうって決めたんで…ってさっき言いましたっけ」

「まぁペースは人それぞれだけど、あの子の年齢も考えてあげてね?」

「それはもちろん」

 ひぃな本人はそこまで気にしていないようだが、若く見えても四十路よそじの身だ。だからこそ、今後のことを気にし始めたのだろう。

「まぁ、パートナーについてはこないだたまたま話してたんだけどね。家の保証人もだし、手術の同意書のこととか色々。そこにひぃなの誕生日でしょ? タイミング良かったんじゃないかな」

「感謝します」

 再度うやうやしく礼をする攷斗に、アッハッハと堀河が笑う。

「こちらこそだわー。ありがとね、ひぃなのこと、末永くよろしくね」

 感謝の気持ちを伝えたところに、カーナビが『目的地まで、あと、5分、です』と告げた。

「そろそろ着くみたい。マンション前停められる?」

「一時的になら」

「おっけー」

 信号が赤になる予兆が見えたので、一旦停止する。

「あの」

「うん?」

「結婚のこと、ひなは内緒でって言ってたんですけど、俺は別に、言ってもらって構わないんで……」

「オッケー。牽制しとくわねー」

 攷斗の行間を読んで、堀河はあっさり快諾した。社内での“虫除け”になるであろうその提案を、堀河が断る理由もない。

「……お願いします」

(一回結婚したら、よほどのことがない限り離婚するようなタイプじゃないけどねー)

 と堀河は思うが、楽な近道のためのヒントは与えないことにした。


 そして翌日。

 実感が伴わないまま、ひぃながいつも通り出勤する。

 いつも通り全従業者揃っての朝礼が、堀河の主導で行われる。

 トピックスや連絡・引継ぎ事項の申し送りをして、堀河の号令で終わる。はずだった。

「あっ、そうそう。時森さーん」

「はい」

 思いがけず呼ばれて、きょとんとした顔で返事する。

 堀河は手招きをしながら

「前に出て、結婚のご挨拶してー」

 半日前に“内緒”と誓った事案を、全社員の前でこともなげに開示した。

 一瞬静まり返ったオフィス内が突如どよめく中、内心の怒りを気取られぬよう平静を装ったひぃなが堀河の隣へ移動した。

「……ワタクシゴトでお時間取ってすみません。先日入籍いたしました。名字は変わらず【時森】として業務に励みますので、今まで通りのご指導、ご鞭撻のほどお願いいたします」

 おじぎして、挨拶を終わらせる。

「はい、ありがとうー。ではみなさん。本日もよろしくお願いします」

 少しのざわつきを残しながら、従業者は三々五々持ち場へ移動する。

 それには続かず堀河の隣にとどまるひぃなを、少し離れたところから湖池が心配そうに見つめている。

 それまで貼り付けていた微笑をはがし、

(許さん……!)

 目で語りかけるひぃなの鬼の形相に気付き、堀河が笑顔を凍り付かせてフリーズした。

 立ち去るひぃなの後頭部、そのてっぺんからギュルリと螺旋を描くツノが見えた気がする。

「社長」

 その一部始終を見ていた湖池が堀河にそっと歩み寄る。

「昨日の話誰かにしたら、オレ、殺されますかね」

「あんたもだし私もよ……特に相手が誰なのか、絶対言うんじゃないわよ……」

「りょうかいっす……」

「大丈夫になった段階で教える」

「お願いします」

 それじゃ、と挙手で合図をして、堀河と湖池もそれぞれの持ち場に着いた。


* * *


 ひぃなが事務部の自席に着いた途端、わっと数名の社員が集まってきた。目的はもちろん、朝礼時の報告について、だ。

 祝いの言葉や状況の詳細に関する質問、これからの生活はどうするのか、相手は誰なのか。

 様々な言葉を投げかけられるが、そのどれにも明確な回答が出せない。

 人波の中には何故か社長付き秘書の姿もあって、皆そんなにも他人ひとの結婚に興味があるものなのだなぁ、と人ごとのように感心してしまった。

 さすがに業務に支障を来すので、一通りやりすごしてから事務部のメンバーに声をかけて【学習室】と呼ばれる一室へ移動することにした。そこなら一人用の仕切り付きデスクと専用のパソコンが使えて、さらに“集中したいんです”アピールが出来るので都合が良い。

 今日やる分の書類を抱えて移動する。面倒だが致し方ない。

 行く途中の廊下で、営業部の秋田とばったり会った。

「あ、お疲れさまです」

 秋田がひぃなに声をかける。

「お疲れさまです」

 ひぃなもいつも通り、挨拶を返して立ち止まる。秋田とは社内で会うたび、少し立ち話をする関係だ。

「ご結婚なされたんですね」

「はい、おかげさまで」

 先ほどと同じ質疑応答が繰り広げられるかと警戒したが、そうではなかった。

「ちゃんとしたお相手がいるのに気付かず、色々お声かけてすみませんでした」

「いえいえ、全然。お相手してくださって楽しかったので、こちらも甘えてしまって」

 秋田が懸念して気遣ったのとは違う意図の回答が返ってきたので、秋田がハハッと笑った。

 ひぃなは秋田に“恋愛対象者”として見られていたことに気付いていない。秋田はそれに薄々気付いていたが、どこかにチャンスがあるのでは、と機会を見つけては声をかけていたようだ。

「旦那さんは果報者ですね。また社内でお会いしたら、お話させてください」

「はい、是非。ありがとうございます」

 じゃあ、お疲れさまです、と二人で会釈をして、それぞれの目的地へ移動した。

 学習室に入ったひぃなが、自分のデスクとは違う使い勝手に多少戸惑いながら、書類を分類してそれぞれ専用ソフトに入力していく。

 事務部で人波に揉まれた記憶がよみがえる。書類をかき集め、いつも使っている文具類もまとめてエコバッグに入れて移動した経路や、おそらく気を遣い始めたであろう周りの空気感も思い出す。

 それもこれも、全部朝礼で堀河が暴露したせいだ、とだんだんムカついてきた。

(サエコにはサエコの思惑がある……のかもしれないじゃない)

 フォローしてみるものの、怒りの感情に勝てるほどの強さもなく。

 思考を遮るように業務を開始する。


 堀河が事務部に様子を見に行くと、ひぃなの姿はなかった。居合わせた社員から、学習室で作業していると聞いたので礼を言って移動する。

 ガラス張りのドアから室内を覗くと、ひぃなが業務を進めているところだった。

 ドカラタタタタタと恐ろしい速さでキーボードを打っている。時折カチカチというクリック音が混ざる。作業を進めるひぃなの瞳の奥には虚無が宿るが、ドア側からは見ることが出来ない。

「…時森さーん」

 そっとドアを開け、堀河が恐る恐る声をかけた。

「はい」

 画面を見据えたまま返事するひぃなの背中からは、まだ怒りがにじみ出ている。

「処理をお願いしたい書類があるんだけどー……」

「はい」

 差し出された手に書類を乗せると、処理待ちの束の上へ移動させた。小銭を乗せると手が出てきて箱の中に引き入れる貯金箱のようだ。

「時森さーん…」

「はい」

「……怒ってる…?」

「はい」

 間髪を入れずひぃなが答えた。

「良かったら、でいいんだけどー……お昼、一緒に行かない……?」

「……はい」

 承諾された堀河は安堵の笑みを浮かべ、

「じゃあ、キリが良さそうなところでまた声かけるわね。早めに終わりそうだったら教えてもらえると嬉しいわ」

 融通の利く提案を添えた。

「はい」

「じゃあ、あとでね」

 挨拶をして社長室に戻ると、

「時森さんって怒るとすごく怖いんですね……」

 通りかかりにその光景を見ていた社長秘書の熱海が堀河に声をかけた。

「普段めったに怒らない分、余計にね……」

 そこに、会社設立当初から所属している秘書の吉岡も加わる。

「私、怒ったところ初めて見ました……」

「おめでたいことだからって色々聞いちゃまずかったですかね……」

 熱海が申し訳なさそうに言うので

「んー? 恥ずかしいから大っぴらに言わないでーって言ってただけだから、まずいことはないと思うわよー」

 フォローを入れたつもりだったのに、

「それは言っちゃった社長が悪いですね」

「うん」

 にべもない熱海の言葉に吉岡がうなずく。

「えっ、私?」

「「はい」」

 二人の秘書は容赦なく即答した。

「それにしてもやっぱり時森さんってカワイイですよねー!」

 熱海が胸の前で指を組んで言った。人当たりが良く仕事も出来るひぃなは、女性社員からの支持も厚い。

「いつまでも思春期なのよ」

「それ社長もですよね。中二男子」

「男子って」

「孤高の狼を射止めたのがどんな人なのか気になりますけど、あんまり聞かないほうが良さそうですねぇ」

「私聞いちゃったんですけど、社外の人としか教えてくれなかったです」

「うーん。そうねぇ。私がひぃなに燃やされても良ければ、もうちょっと聞いてみてもいいと思うけど」

「社長が燃やされちゃったら困り…ます?」

「困る…かしら」

「困る理由があまり見当たらないですね……」

「ねぇ。それ本人の前で言う?」

 わざとらしくハッとする秘書二人。

「“そういえばそうだった”みたいな顔やめてちょうだい」

「スミマセン、ジョークです」

 熱海がにこやかに告げる。

「本気だったらビックリしちゃう」

「ところで本日のご予定ですが…」

 吉岡はいつでも突然だ。

 午前中は社内で事務処理と各所連絡、と手帳を見ながら一日の予定を吉岡が読み上げた。熱海はその隣で自分の手帳を見ながら内容を確認している。

「午後は14時半から取引先との打ち合わせが入っています」

「じゃあ、12時前後から14時まで、お昼とミーティングで外に出てくるわね。14時過ぎにはこっちに戻ります」

「「はい」」

 秘書二人が予定表に新たな案件を書き込んで、社長室のデスクに戻る。

(あんなに怒ると思わなかったのよね~……)

 自席のパソコンでメールをチェックしながら、堀河が内心でため息をついた。

 攷斗に牽制をかけるよう頼まれたとはいえ、もちろんそれだけのためにひぃなに挨拶を促したわけではない。堀河にもまた、これ以上ひぃなを追い回してほしくないと思う人間が社内にいるのだから。

(……一応報告しておくか)

 私物のスマホを起動して、アプリのアイコンをタッチする。

『朝礼で報告しておいたわよ』

『ひぃなに静かにキレられて、この世から消されるかと思った』

 メッセの送り先は攷斗だ。

「さて……」

 もう一度パソコンに向き直り、書類を作成していく。

(お昼のときに色々聞いてみるか……)

 業務を進めながら、ひぃな対策も考えてみる堀河であった。


* * *


「ふぅー」

 処理待ち書類の対応を全て終えて、ひぃなが両腕を前方に出して伸びをした。

「時森さん」

「はいっ」

 急にバリトンボイスで声をかけられ振り返ると、営業部の黒岩がすぐそばに立っていた。数年前に中途採用で入ってきた、ひぃなより年上の後輩だ。

 気配を感じなかったことに少々驚く。ドアが開いたことにすら気付かなかったので、単に作業に集中していただけかもしれない。

 呼びかけた割にそのあとの言葉がないので、

「おつかれさまです」

 挨拶をするが返答がない。合わない目線は、ひぃなの顔を通り越して手元に注がれているように見える。

「……どうかされましたか……?」

「ご結婚されたんですか」

(わざわざここまで来て……)

 本日何度目かの質問に少々嫌気がさしつつも、

「はい、おかげさまで」

 笑顔で返答する。

「お相手は」

「社外の方です」

「お付き合いされている方、いらしたんですね」

「え? えぇ、まぁ……」

 質問が少し予想外のところから投げられて、ペースが乱れる。というか、大きなお世話だ。

「指輪」

「へっ?」

「してないんですね。結婚指輪」

「あー…」持っていない、とは言わないほうがいいように本能が感じ取って「急に決まった話なので、まだ出来上がっていなくて……」咄嗟に嘘をついた。

「そうですか」

 聞くだけ聞いてお辞儀をして、黒岩は学習室を退室した。

(なんだったの……)

 少し呆然としていると

「なんだかヤバそうでしたね……」

 はす向かいの個別席からその光景を見ていた事務部の後輩・紙尾がひぃなに声をかけてきた。顔には“心配”と書いてある。

「…うん…なんかね……」

 営業と事務は書類処理の関係で比較的業務の交流があるが、黒岩は避けているかのようにひぃなに依頼をしてこない。どんなにドアに近い席で作業をしていても、ひぃな以外の事務スタッフの席までわざわざ行って、各種書類の処理を依頼する。

 ひぃなもそうされることが当たり前になってしまい、黒岩が事務部に訪れても通り一遍の挨拶しかしなくなっていた。

「普段話しかけもしないのに、こういうときだけあんなに、とか、ちょっと…アレですよね……」

「うーん……」

 なんとコメントしたらいいかわからず、曖昧に返事する。

「気を付けてくださいね」

 紙尾の言外に含まれた意味に気付き

「あー、まぁ、ね……心配してくれてありがとう」

 肯定も否定も出来ずに、苦笑しながら礼を言った。

 ともあれ、少し早めに業務が完了したので、社長室へ赴くため机上を片付ける。

「ちょっと早いけど、お昼行ってきます」

「はーい、いってらっしゃい」

 紙尾が笑顔で手を振り、ひぃなを送り出した。



 事務部へ書類を置いて社長室へ行く途中、曲がり角から現れた人影とぶつかりそうになる。

「わっ、ごめんなさい」

 反射で謝った人影は、黒岩だった。

「いえ……」

 黒岩は会釈して、エレベーターの方向へ移動していく。

 先ほどのことがあるので一瞬ギクリとする。とはいえ、別に何かされたわけでなし、気にしないことにした。

 社長室のドアをノックする。中から返答があったのを確認して「失礼します」と挨拶し入室する。

「午前の業務が完了したので、お声かけに来ました」

 朝よりは溜飲が下がった様子のひぃなに、堀河が笑顔を向けた。

「あら、ありがとう。じゃああそこ行こー」

 行ってくるわねーと秘書二人に声をかけて、ひぃなを連れ近所の定食屋へ向かった。

 ランチのピークタイムより少し早めに着いたので、すんなり席に案内される。

「なんでもどうぞ」

 堀河がメニューを開き、ひぃなに献上した。添えられた言葉には、昼食代を奢るという意思表示が込められている。

「じゃあ、B定食」

「かしこまりました」

 接客業のごとく返答して、すいませーんと店員を呼び、二人分の定食をオーダーした。

「ごはん奢ったくらいで許されると思ってんなよ?」

 口元に笑みを浮かべながらひぃなが言う。

(やばい、本気だ)

 同じく口元に笑みを浮かべながら、堀河がおびえる。


 めったに怒らないひぃなは“笑いながら怒る人”だ。

 普段怒らないから自分が怒り心頭の状態であることが面白くなって、つい笑ってしまうそうだ。

 要は、怒れば怒るほど笑ってしまう、という性質を持っている。それを知らずに“笑顔だから大丈夫だろう”とタカをくくって対応すると、知らぬうちに心のシャッターを閉められ、叱ることすら放棄されてしまう。


「本当にすみません」

 それを知っている堀川は、両手を机についてしっかりと頭を下げた。

「うん。もう大丈夫、怒るの飽きた。意固地になってごめん」

 ひぃなもぺこりと頭を下げる。それに気付いた堀河が頭を上げると同時に店員がやってきた。

「B定食のお客様~」

「はい」

 ひぃなが挙手する。

「先どうぞ」

「ありがとう。いただきます」

 両手を合わせ、軽くおじぎをしてから箸を持った。

「……おめでたい話だし、内緒にしなくてもいいんじゃないかな? って思ってね? 言っちゃった。ごめん」

「うん。もう大丈夫だよ」

 味噌汁に口をつけて、食事を始める。

「なんで内緒にしてほしかったの?」

 堀河の質問にひぃなが少しためらって、

「迷惑、かけるかもしれないじゃない」

 ぽつりとつぶやいた。

「誰に」

「棚井に」

「それはないでしょ」

 迷惑だったら牽制目的で結婚したことをバラせだなんて言ってくるわけがない。とはいえ、その会話を知らないひぃなからしたら、攷斗がひぃなのことをどう想っているかなんてわかるハズがない。

 午前中攷斗に送ったメッセには『すみません、感謝します。』という返信があったくらいだ。

「お待たせしましたー、日替わり定食でーす」

「はーい」

 目の前にトレイを置かれた堀河も手を合わせて「いただきます」とお辞儀して食事を始める。

「それよりさ」ひぃなを気にかけていた男性社員たちを思い浮かべながら「誰かになにか言われなかった?」問いかけた。

「なにその抽象的な質問」

「えぇー? 言われなかったー?」

「別に、特に。“おめでとう”はたくさん言われたし、“相手だれ?”もたくさん聞かれたけど」

「なんて答えたの?」

「社外の人」

 確かに間違ってはいないが、

「ふぅーん」

 堀河は不服そうだ。

「私はひぃなと棚井、お似合いだと思うよ? なんか訳ありっぽいけどさ」

「……」

 ご飯茶碗を持ったまま、ひぃなが押し黙る。

「あなたとは長い付き合いだし、棚井とだって色々話してるのよー」

 堀河はさらりと少しの秘密を開示して微笑んだ。

 何か考え込むひぃなの言葉を待ちつつ、二人は黙々と食事を進める。

 トレイ上の食べ物がなくなりそうな頃、

「なにか、聞いてる?」

 ひぃながぽつりと問う。ご飯を口に運びながら不思議そうな顔をする堀河に、

「その……今回の、こと」

 もう少し具体的な内容を付け加えて再度聞いた。

「いや? 急すぎてビックリしたわよ。なにがどうしてそうなったの」

 夕べ棚井から聞いたことは忘れたふりをして、堀河が問い返した。

 幼馴染に何も言わないのは気が引けて

「…話すと若干長くなる」

 親友として答える。

「いいわよ、聞くわよ。河岸かし変えてミーティングという名のティータイムしましょう」

 さすが社長。超フリーダムだ。

 定食屋を出て、国道沿いのオープンカフェへ移動する。テラスはさすがに寒いので室内の角席へ着席した。

 オーダーした品が来たところで

「で? どういう経緯けいいだったの?」

 堀河が促した。

 ひぃなが昨夜のことを思い出しながら、居酒屋での経緯をざっくりと説明する。契約上の都合による婚姻、という要点だけかいつまんだので、本当に簡潔なあらすじのようになってしまった。

「ひぃな、それ……」

「良くないのはわかってる。だから万が一のことがあったとき、棚井を巻き込みたくなくて……」

 堀河が言いたかったのはそういうことじゃないが、

「万が一ってなによ」

 ぐっと堪えて気になった点を聞き返す。

「なにって……なんだろ……」

「いいじゃない、普通に結婚生活すれば。ひぃなだって、棚井のこと悪からず思ってるから承諾したんでしょ?」

「それは…そうだけど……。私の気持ちだけじゃさ……」

(だからちゃんと気持ち伝えろって言ったのに!)

 堀河が脳内で攷斗の胸ぐらを掴みつつ

「棚井だってそうだと思うわよー? ひぃなのこと、どうでも良かったら、その話の流れでプロポーズなんかしないでしょ」

 怒りをひた隠し、笑顔で続ける。

「ぷろぽーず……」

「されたんでしょ?」

「…いや…?」

「え?」

 堀河がさすがに眉根を寄せる。

「なにも言われなかったの?」

「いや…言われたけど、あれは…プロポーズ……?」

「なんて言われたの」

「えーと……」再び記憶を呼び起こす。「“しようよ、結婚…カッコカリ”だったかな」

「はぁ?!」

「ちょっと声でかい」

 驚いてこちらを見る他の客に苦笑で会釈をしながら、今度はひぃなが眉根を寄せた。

「あいつマジッ」

 堀河が吐き捨てるように棚井を小声でなじる。

「……まぁ、二人のことだからあんまり口出しはしないけど……」頭を抱えて「棚井もひぃなと一緒で、どーでもいい相手と結婚なんてしないと思うわよ?」堀河が攷斗の肩を持つ。

「そう…だよね……」

 返事するものの、半信半疑だ。

 自信なさげにティーカップに口を付けるひぃなを見ながら、いっそ帰りの車内での会話を言ってやろうかしらと堀河は思うが、ひぃなの性格上、他人から言われてもすんなり受け入れないだろう。

 堀河は内心奥歯を噛みしめながら――実際無意識に噛みしめていたが――二人の行く末を見守ることにした。しかし内心は怒りに満ちていて。

(あいつマジシメる……!)

 独り秘かに誓った。


* * *


 週末。

 インターフォンが鳴る。エントランスの玄関からだ。

「はいはい」

 ひぃなは室内を移動して、小さな画面に映る攷斗の姿を確認した。

「はーい」

 返答し開錠すると、カメラに向かって手を挙げた攷斗が画面から消える。

 攷斗はエントランスの共有玄関から自動ドアをくぐり、エレベーターに乗った。狭い個室で、妙にソワソワしている自分に気付いて苦笑する。

(ただの下見だよ)

 どこかで秘かにしている期待などあっさり打ち砕かれるに決まっているのに、それでも0.1パーセントの可能性に望みを抱いてしまう。

(この先まだ時間あるから)

 自分に言い聞かせて、ひぃなの部屋のインターフォンを鳴らした。

「はーい」

 とドアの内側から声が聞こえる。

「いらっしゃい」

 ドアが開き、休日着のひぃなが姿を見せた。

 これまではあまり見ることのなかったラフさと可愛らしさに思わずときめき、挨拶の言葉が喉に詰まる。

「どうぞー」

 その様子を特に気に留めず、ドアを開けたまま脇にずれて、ひぃなが攷斗を招き入れた。

「おじゃまします」

 初めて来たひぃなの部屋に、緊張しながら足を踏み入れる。玄関から部屋を目隠ししている洋風のれんをくぐると、ひぃなが愛用している香水の香りがふわりと漂っているのに気付く。それだでけ更に心拍数が上がる。

 自分の身体の反応が思春期レベルで、これまでの経験なんて何の役にも立たないのだと思い知る。

 これが本当の結婚なら、スキンシップのひとつやふたつしているところだ。しかし、残念ながらひぃなはただの【契約】だと思っている。ここで焦ってしでかして、スピード離婚なんてことは絶対に避けたい。

 もどかしい思いを抱えながら、攷斗がひぃなの案内で室内を確認する。

 壁際に配置された棚の一角に、誕生日に贈った花が飾られているのを見て、攷斗は思わずにへらと笑ってしまう。しかしそれには触れずに平静を装った。

「物、少ないね」

「何回か引っ越したら少なくなっていった」

「わかる」

 笑いながら攷斗が同意して、引っ越し業者のように脳内で見積もりを始める。

 業務で大量の荷物を運ぶこともあるので、手慣れた作業でもある。

「やっぱり冷蔵庫とか洗濯機とか、共用できる大物家電以外なら余裕かな。テレビとデッキは持ってく? 置く場所取れると思うけど」

「うん。持っていけたら嬉しい」

「わかった。退去手続きは?」

「不動産屋さんに連絡したけど、急だったから来月までは契約解除できないみたい」

「そっか。じゃあそのときもっかい来ないとだね」

 攷斗がスマホを取り出して、予定を入力した。

「あんまり遅くなってもあれだし、俺んち行くか」

「うん」

 ひぃなの家を出て、コインパーキングまで移動する。攷斗の運転する車にはこれまでにも何度か乗車したが、攷斗の家に行くのは今日が初めてだ。どんな所に住んでいるのか、詳細は聞いたことがない。

 しばらく車が走る。

「そういえばこないだ、社長からメッセ来たよ」

「へぇ、なんて?」

「『朝礼で結婚のこと言ったらめっちゃ怒られた』って」

 堀河のメッセを一部改編して伝える。

「そりゃ怒るでしょ。昨日の今日で約束破られたんだから」

「まぁ、俺は全然、ありがたいけどね」

「私も別にもう怒ってないし、言ってもらって良かったかもとは思ってるんだけどさ」

「そうなの?」

「うん。ずっと黙ってるのって、騙してるみたいな気分になりそうで……。言わなきゃって思ってるうちにタイミング逃しそうだし」

 攷斗への気持ちも、そんな感じで言い逃しているので容易に予想が付く。

「まだ、相手が誰かは言えてないんだけどね……」

「……まぁ、わざわざ言うことでもないし、気が向いたらでいいよ」

「うん……ありがとう」

「お礼言われるようなこと言ってないよ?」

「うん。でも、ありがとう」

「……うん」

 攷斗もひぃなも、それきり黙ってしまう。

 走る車は区を越えて、都心へ近づいていく。

「最寄駅ここね」

 信号待ち中に、道の両脇にある地下への出入り口を指さした。

「うちから歩いて10分圏内かな?」

「はーい」

 ひぃながスマホのメモに駅名を入力する。あとで通勤ルートを検索するつもりだ。

「引っ越しが落ち着いたら、近所の店とか散歩がてら案内するから」

「うん、ありがとう。お願いします」

 ほどなくして、とあるマンションの地下駐車場へ入る。

(すごく高級そうなマンション……)

 指定されているのであろう番号のスペースに駐車して、ひぃなに降車を促した。

 都心部にそびえ立つタワーマンションの中層階に、攷斗の部屋があるという。3LDKで大きなルーフバルコニーが付いているらしい。

 エレベーターが目的階に着くと、先を歩く攷斗がキーケースを取り出しながら

「この階、ワンフロアに一部屋しかないから、ご近所付き合いとかそんなに気にしないでいいからね」

 ひぃなに説明した。

「うん…」

 玄関からして高級感漂う攷斗の自宅。外観や地下駐車場の広さから予想するに、想像していたよりも広い部屋だと推測される。ひぃなの家から車で15分、都心に近付いて移動したので家賃の相場も上がっているはずだ。

「はい、どーぞ」

 ドアを開けてひぃなを招き入れた。

「おじゃましまーす……」

 廊下沿いにあるドアが何の部屋なのか、攷斗が説明しながら先を進み、

「で、ここがリビング」

 廊下の突き当りにある、擦りガラスがはめこまれたドアを開けた。

「広っ……!」

 リビングに通されて思わず声が出る。ひぃなの部屋がすっぽり収まってもあまりある広さだ。

「でしょ?」

「えっ。私、お家賃半分とか無理だよ?」

「え? ちょーだいなんて言ってないでしょ?」

「いやそれはダメでしょ」

「いいよ。俺の都合で越してきてもらうんだし」

「でもー」

 一向に退かないひぃなに、攷斗が思いついたようにして

「んじゃ、交換条件、いい?」

 満面の笑みを向ける。

「…なんでしょう…」

 身構えて、問うひぃな。

「家賃の代わりに、奥さんとして色々俺に世話焼いてほしい」

「世話?」

「うん。家事とか色々。ひなも仕事あるから、できる範囲でお願いしたい」

「…棚井がそれでいいなら……」

「うん。すっげぇ助かる。いまはまだいいけど、仕事詰まってくるとほんとヤバくてさ」

 苦笑しながら言った。

「どこまで踏み込んでいいの?」

「どこまででも。俺の部屋も、できれば」

「仕事のものとか大丈夫?」

「こっちには触られて困るものないよ。その辺は全部向こうにあるから」

「……?」

 向こう、とは?

 言葉に出さなくても顔に出ていたようだ。

「あ。えーっと…別の場所に、あるから。会社が」

「……すごいね」

「いや、うん、まぁ」

 攷斗はその反応に、わかりやすく言葉を濁した。ひぃなもそれ以上追及しない。

「ひなの部屋はこっち、の予定」

 と、会話を切り替えるようにリビングにつながるドアを指さした。

「見てみて」

「うん」

「鍵はないんだけど、俺の部屋からはリビング通らないと行き来できないし、距離あるから安心でしょ」

「そこは別に気にしないけど……」言いながら自室となる予定の部屋のドア開ける。「わ、広いね」

「クローゼット付きの八帖ね」

「いいの? もっと狭い部屋でいいよ?」

「もともと使ってないような部屋だし、俺はあっちの二部屋使うから。あの荷物の量だったら、そんなに捨てたりしないでいいと思う」

「そうだね、助かります。ありがとう」

 充分すぎる待遇にひぃなが頭を下げた。

「いいって気にしないで。じゃあ、しあさって段ボール箱持ってそっちの家行くね。荷造り手伝う」

「なにからなにまでありがとう」

「なに言ってるの。夫婦なんだから気にしないでよ」

「うん」

 でも――ひぃなは思う。

 “夫婦”になったのは戸籍上だけで、実際はただの“同居”だ。“夫婦”の前に“偽装”の二文字が付く、二人の利害が一致して成立した“契約結婚”。それがいまの二人の関係性。

 気持ちの上での繋がりがなければ、やはり遠慮は生まれる。

「さて。どうする? お茶でも飲んでく?」

 攷斗の提案にひぃなが腕時計を見る。

「ううん、今日は帰る」

「そう。じゃあ送って行くよ」

「ありがとう」

「車酔いとか大丈夫?」

「ん? うん、大丈夫だけど……」

 攷斗の質問の意味が一瞬わからず、しかしすぐに気付く。

「帰り、電車で帰るから大丈夫だよ?」

「え、いいよ。送っていくよ」

「悪いし、ここから駅までの道、確認しておきたいから」

「…そう…。じゃあ、駅まで送っていく」

「うん、ありがとう」

 攷斗と一緒に部屋を出て、エレベーターに乗り込んだ。


 攷斗が立ち上げたブランドの名前を、ひぃなは知らない。

 一度【タナイコウト】で検索をかけたことがある。

 漢字、平仮名、片仮名、英語。そして、それらいくつかの組み合わせも試したが、結果は出てこなかった。

 あまりそういう例を聞いたことはないが、ペンネームのようなものを使っているのかもしれないと思い、それきり探すのをやめた。

 架空の名前だったら、どんなに考えても他人にはわからない。

 攷斗からは言わないし、言いたくないのかとも思ってあえて聞くことはしなかった。

 会社員であるひぃなの一般的な収入では到底払えないような家賃であろう物件に住めるほど活躍しているのかと思うと嬉しくなる。反面、少し寂しさも感じて、

(いつか話してくれるかな)

 なんて思いながら、下りエレベーターの個室内で前に立つ攷斗の背中を見つめてみる。

 ふと気付いたように攷斗が振り返った。意外そうに驚くひぃなに、攷斗も驚き顔になる。

「……なに……」

 漏れ出す笑みを隠しながら、口を尖らせて攷斗が問うた。

「いや……お仕事がんばってるんだなって」

「ん? うん。頑張ってるね。認めてほしいから」

 誰に? と聞くのも踏み込みすぎなんじゃないかと遠慮してしまう。

「そっか。すごいね」

 ひぃなのあっさりとした対応に、攷斗が苦笑を浮かべる。わざと抜かした対象者について、言及がないからだ。

「まぁいいけど」

 笑いながら言って、前を向き直ると同時にエレベーターが1階に着いた。

「ホントにいいの? 送って行くのに」

「うん」

 車で何度も往復させるのは申し訳ない。

(なんでこんなに親切にしてくれるんだろう)

 ただパートナーがほしい、というだけの理由にしては労力がかかりすぎている。

 浮かんだ疑問を声に出そうかと口を開くが、ストレートに聞くのもどうかと思いぱくりと閉じた。

「……どしたの」

 普段とは違う様子のひぃなを不思議に思ったのか、攷斗が顔を覗き込んで問う。

「――――」

 なんでもないよ、と言いかけて、それもまた声にはならない。だって、なんでもなくない。

 攷斗は少し困ったように微笑んで、ひぃなの頭に手のひらを乗せようと手を持ち上げると、ひぃなはビクリと身体を縮こまらせた。その反応に、攷斗が目を丸くして固まる。

「――…ごめん」

 謝ったのはひぃなだ。

「ちょっと…、ビックリした、だけ…」気まずそうなひぃながさらに言葉を紡ぐ。「棚井に触られるのが、イヤなわけじゃ、ないから…」

 誤解されたくなくて、恥ずかしさをこらえて伝える。

「…うん」

 攷斗はゆっくり手を移動させて、ひぃなの頭に手を乗せた。

「言いたくなったらなんでも聞くから、遠慮しないでね」

 頭を撫でる大きな手。

(あったかい……)

 その温かさをもう少し感じていたいと思う。

 隣にいられる心地良さに、甘えてしまっていいのだろうか。

「……うん」

 少しためらって、うなずいてみる。

「うん」

 ひぃなと同じ言葉で返事をした攷斗は安心したように笑って、もう二、三度、手のひらを滑らせてから離した。

 マンションから最寄り駅までの間に建つ店舗の説明を受けながら、ゆっくりと歩く。

 冬の外気にさらされた肌は冷たいが、撫でられた後頭部に攷斗の温もりが残る。その心地良い感覚の残滓を追いながら、いま隣にいるのが攷斗で良かった、と秘かに思った。

 でも、口には出せない。

 極力ゆっくりと歩いていたのに、あっという間に最寄り駅に着いてしまう。

 地下に続く階段を降りて改札階へ到着するが、名残惜しくてどちらからともなく自然に歩みが止まった。

 邪魔にならない位置を陣取って、少し話す。

「帰り、気を付けてね」

「うん。送ってくれてありがとう」

「……楽しみにしてる」

 ためらって、でも口に出した攷斗の言葉にひぃなが首をかしげる。

「……一緒に住むの」

 照れくさそうに言う攷斗に、ひぃなが思わず相好を崩した。

「うん。私も」

 二人で少し照れくさくなって、はにかんで、付き合いたての学生カップルみたいになってしまう。

 このままモジモジしていてもキリがないので、攷斗を見つめてひぃなが口を開いた。

「じゃあ、またね」

「うん」

 改札に入ってホームへ向かうひぃなの姿が見えなくなるまで見送ってから、攷斗が両手で口元を押さえた。

(あぁ~! かわいいな~!)

 壁にもたれて顔全体を手で覆う。

(これ…一緒に住み始めたら理性崩壊しないようにしねーとやべーな)

 喜びと引き換えに抱くであろう苦悩を胸に、はあぁ~と息を吐いて、帰路に着いた。


* * *


 約束の日、荷造りの準備を進めているとインターフォンが鳴った。

「はーい」

 オートロックの玄関を開ける。続いて玄関ドア。

「おはよう」

「おはよう」

 朝の挨拶をして、両手に段ボールの束を抱えた攷斗を招き入れる。玄関と部屋の境目に掛けられていたのれんはもう撤去されている。

「下に後輩二人待たせてるから、運び出しとかはやってもらえるよ」

「わぁ、ありがとう。速めに荷造り終わらせないとだね」

「んー、まぁ、仕事で待つの慣れてるやつらだし、そんなに焦らなくていいよ」

 服や日用雑貨などがカテゴリ別にある程度仕分けされた状態でラックの棚に置かれ、あとは箱に詰めれば荷造りが完了するようになっていた。

「お、さすが。仕事早いね」

「こういうの好きなんだよね」

 書類をさばいてまとめるのも好きだから事務職に就いた。

「じゃあ、箱組み立てるから詰めてって。ある程度箱作ったら手伝う」

「うん、了解」

 部屋の中心部に空けたスペースで、攷斗が手際よく段ボール箱を組み立てていく。

 ひぃなはそれを受け取って、あらかじめ分けてあった物を詰めていく。

「そういえば」と攷斗が口を開いた。「冷蔵庫とか洗濯機とか、どうしたの? リサイクル?」部屋を見まわして聞く。

 以前、攷斗が訪れた時、それらがあった場所はもう空いている。

「実家のがいい加減古いんじゃないかと思って、聞いたら欲しいって言ったから送っちゃった」

「あ、そうなの? 挨拶がてら運んだのに」

「おかしいでしょ、挨拶と一緒に家電運ぶって」

「そうだけど、一度くらいは会っておきたいじゃん」

「それはこっちだってそうだけどー……」

「会う気ある?」

「いいなら行くけど、なんて説明したらいいかわかんない……」

 ひぃなの回答に、攷斗が少し複雑そうな顔を見せた。

「嫁……でしょ?」

「……うん……」

 複雑なのは攷斗だけじゃない。

 一応、攷斗もひぃなも親に入籍したという報告はしている。双方の親も淡白な性格が故、驚きこそしたが連れてこいという催促をされなかった。もう少し希望してくれれば紹介する口実が出来るのに――と二人は思ったが、それを親に強いるのはおかしな話だ。

「機会があったら、ぜひ」

 なんとなく業務的な言葉選びになってしまった。

 うまい言葉が見つからず、しばらく黙々と作業する。

(しまったなー……)

 お互いが同時に思う。

 やはり婚姻届を出すときにちゃんと気持ちも付いて来ているのかを確認すれば良かったのだ。

 けれど、せっかく前進した二人の関係を、言葉で確認することで壊してしまいそうで怖かった。

 だから、相手の行動に甘えて言葉での確認を怠った。


 沈黙の部屋に、外からの音が流れ込む。


 十数分の作業を経て、箱詰めが終わった。家具はほとんどスチールラックだったので、一旦バラして運ぶことにした。

「バラすのは俺らでやるよ」

「ありがとう」

 そのほうが作業時間の短縮になるだろうと、任せることにする。

「これは、あとで手で持っていくから……」

 キッチンにぽつんと置かれた花瓶を指して、ひぃなが言った。

「うん。了解」

 攷斗が嬉しそうに目尻を下げるのを見てしまって、ひぃなは照れくさくて、荷物を気に掛けるふりをして目線を逸らした。

「あと運び出すから、ひなはトラックで駐禁とられないように番しててもらっていいかな。積み終わったら俺の車でうちまで行こう」

「うん、ありがとう」

 じゃあ行くね、とキーケースとスマホを持ってひぃながマンションを出る。

 攷斗に聞いた場所に、一台のトラックが停まっていた。腕を伸ばして助手席側のガラス窓をノックする。

 それに気付いた茶髪の男性が車外を見て、あ、という顔になり、ドアを開けるという意思表示をして見せたのでひぃなはドアに当たらない位置まで避けた。

 助手席から梯子を下りるようにして道路へ立つと、

「初めまして。棚井さんの後輩の外間ソトマです」

 笑顔で挨拶をする。

 返答しようとひぃなが口を開いたところで、

「はじめましてっ! 桐谷キリヤですっ!」

 運転席側から降りてきたガタイの良い男性がトラックの影から勢いよく現れた。二人共イントネーションが関西のそれだ。

「はっ、初めまして」思わず詰まって挨拶を返す。「棚井の妻です。お世話になります」

「お世話になりますっ!」

「お前おくさんビビってるやん、やめとけよ。すみません」

 外間が申し訳なさそうに会釈した。

「すみません、棚井さんには色々とお世話になってまして、嬉しさのあまり」

 桐谷が人好きしそうな笑顔で謝罪する。

「いえいえ、こちらこそすみません」

「じゃあおくさん、お手数ですが、少しの間だけお願いします」

 外間が笑顔でドアの前を開けた。

「はい」

「高いですけど乗れます?」

 どう乗り込もうかと考えるひぃなに、桐谷が声をかける。

「そこをつかんでハシゴみたいに登るんですけど……」

 特殊な乗り方のレクチャーを受けて、なんとか乗り込んだ。

「一人で乗り降りするの危ないんで、誰か来るまで乗っててくださいね」

 桐谷が子供に言い聞かせるように言う。

「はい」

「なにかあったら旦那さんにご連絡ください。すぐ誰かしら来れるようにしておきます」

 今度は外間だ。

「ありがとうございます、お願いします」

 お辞儀をして、二人を見送る。車内に残されたひぃなは、いつもより高い目線から周囲の街並みを眺めていた。

 三度の賃貸契約更新をしているから延べ六年、住み慣れた街から離れることになった。しかしまさかその理由が攷斗との結婚になるとは思ってもみなかった。

 この街に移り住んだのは、以前交際をしていた男性との別れがきっかけだった。


 服が好きだから、という理由で高校卒業後にアパレルショップへ就職した。そこで出会った男性と、二十台後半頃から結婚を前提に付き合い始めた。

 同じ会社の社員だったので、ひぃなは転職をすることになった。ちょうどその頃、堀河が会社を立ち上げるために社員を募集していたので、面接を受け、見事合格した。

 しかしその数年後、男性側の浮気が発覚して婚約破棄になった。浮気というか、男性に“本気の彼女が出来た”と告げられたのだ。

 話し合う気も起きず、その話が出てすぐに一緒に住んでいた家を引き払い、新しい土地に移った。

 そのとき攷斗も【プリローダ】に入社していて、それなりに親しくなっていた。

 婚約者がいることも別れたことも言ったことはなかったが、攷斗は持ち前の勘か堀河から聞いたのか、状況に応じた誘い方をしてくれた。

 特に一人暮らしを始めた頃からは、何かを察したように、それまで以上にひぃなを構うようになった。

(まぁ、ずっとしていた指輪がなくなったんだから、察しもつくだろうけど)

 いまは何も装着していない左手の薬指を眺める。

 それからほどなくして、攷斗が独立することを決めて退職した。

 独りになってからの六年間、大きな喪失感に苛まれることがなく過ごせたのは攷斗のおかげだと思っている。けれどそれは、攷斗の厚意を利用してしまったのではないかという罪悪感を抱くことにもなった。

 そんな状態で“あなたのことが好きになりました”なんて言えるわけがない。

 攷斗の退職を機に、攷斗から離れようと自分から連絡するのを控えたが、それでも攷斗は定期的にひぃなを遊びに誘う。忙しいであろう時期にも、生存確認と称してメッセを送ってくる。

 行動や会話の端々に散りばめられた優しさ。それが好意だったらいいのに、と何度も思った。

 何も言わなくても気持ちは通じている。ような気はしていたが、やはり言葉で確認出来なければ、予想や期待が確信に変化することはない。

 湖池や堀河から攷斗に恋人が出来たらしいと聞くたび、チクリと刺す心の痛みと共に、自分のことを構ってくれているのは“世話になった先輩への厚意”なのだろうと考え直す。

 今年の誕生日も攷斗の厚意に甘えて誘いに乗ったら、どういった流れか結婚話が急浮上した。

 あまりの展開に、正直気持ちの置きどころがわからない。

 引っ越しや結婚にあたっての様々な手配も、ほとんど攷斗が請け負ってくれた。その真意はなんなのだろう。

 予想を真実だと思い込まないように、自分の気持ちを心の奥に隠しこむ。でないと、冷静に同居などしていられない。


 コンコン。

 不意に窓ガラスをノックする音が聞こえて、意識が引き戻される。

 音のしたほうを見ると、外間がひぃなを見上げていた。“開けますね”と口が動きドアを指さしたので、うなずいて承諾する。

「荷物の積み入れ終わりましたんで、これから運搬しますね」

 ドアを開け、外間が笑顔で伝えた。

「はい、ありがとうございます」

 と車を降りようとして、一手目の出し所に迷うひぃなに

「ここに左手を……」

 外間が手順をレクチャーした。

 ひぃなが無事下車するのを見届けて、サポートを終える。

「ありがとうございます」

「いえいえ、とんでもない。旦那さんから伝言で、部屋で待ってる、と」

「わかりました。戻ります」

「じゃあまたあっちで」

「はい、お願いします」

 外間の隣に桐谷がやってきて、二人でニコニコとひぃなを見送った。


 ひぃなが自室に戻ると、

「おかえり」

 何もない部屋で攷斗があぐらをかいて出迎えた。

「ただいま」

 この部屋で誰かに出迎えられるのは、これが最初で最後だ。なんて、少しノスタルジックな気持ちになってしまう。

「ちょっと掃除してから出るね」

「うん。手伝う」

「ありがとう」

 水回りは昨夜までに終わらせていたので、家具をどかしたあとの床と壁を掃除したらそれで終了だ。退去日当日に軽く拭き掃除すれば、綺麗な状態で引き渡すことが出来る。

 すっかり綺麗になった部屋に、「お世話になりました」ひぃなが小声で語りかけた。

 攷斗はその後ろ姿を眺めて、優しく微笑んでいる。

 小さなビニールバッグに花を生けたままの花瓶を入れ、貴重品類をまとめて入れたバッグと一緒に持った。

「おまたせ」

 ひぃなが攷斗を振り返る。

「うん」

 ごみ袋を持って攷斗が玄関を出た。続いてひぃな。

 攷斗がごみ庫に行く間に、ひぃなが管理人へ挨拶をする。

「退去日にまた伺います」

「はい。鍵はそれまでお持ちくださいね」

「はい」

 ごみ庫から戻ってきた攷斗と一緒に「お世話になりました」と挨拶をして、近くのコインパーキングに移動した。車に乗り込み、シートベルトを締める。

「んじゃ、行きますか、新居」

「うん。お願いします」

 攷斗がカーナビに目的地を表示させて発車させた。

 カーステレオから流れる音楽を聴き、窓の外を眺めるひぃなの脳内で思考が勝手に走り始める。

 婚姻届が受理されてから一週間足らず。目まぐるしく変わっていく環境に、慣れない自分がいる。

 聞かなければいけないのに聞けないことが頭の中をぐるぐると回り続けている。

 いくつかあるその質問がごちゃまぜになって、何から聞けばいいかわからない。だから言葉に出来ずにいる。

 一緒に生活していく上で、疑問は解消されるのだろうか? そんな不安が、日に日に大きくなっていく。

「……どした? 酔っちゃった?」

 信号待ちで攷斗が、無言で窓の外を眺めるひぃなに声をかけた。その声でひぃなは自動的に湧き上がっていた憂慮の感情から引き戻される。

「んっ。ううん? 大丈夫」

「そう?」

「うん」

 笑顔になって、ひぃなはうなずく。

 あまり不安そうな顔を見せて攷斗に心配をかけるのは良くない。

 新生活が始まる不安はあるけど、もちろん楽しみでもある。

 たまにしか会えなかった、一緒にいると楽しい人と、これから二人で生活してくのだから。

 そう思うと、自然に笑みがこぼれてくる。

 うん、この気持ちを増やして行こう。そんな風に思いながら眺めた窓の外に、二人の“新居”となるマンションが見えてきた。

 地下駐車場に入ると、来客用の駐車スペースにトラックが見えた。外間と桐谷が台車に家具を積んでいるところだ。

「ごめん、お待たせ」

 攷斗が車を降りて二人へ歩み寄る。

「いえいえ全然」

 外間が笑顔で返答する脇で、桐谷が台車に大型の荷物を載せていく。

 あとに続くひぃなに、

「先に家にいてくれる? 階数とか覚えてる?」

 攷斗が問いかけた。

「うん、大丈夫だよ」

 攷斗から差し出された一本の鍵をひぃなが両手で受け取る。

「家の中にいてくれるなら、鍵閉めなくていいから」

「うん、わかった」

 よろしくお願いします、と三人に挨拶をして、先に部屋へ向かう。

 至れり尽くせりだなー、なんて思う。

 六年前は堀河が軽トラックを出して荷物の運搬を手伝ってくれたので、それはそれで楽だった。それ以外のことは正直あまり覚えていない。忘れたいという意識もそんなになかったが、思い出す必要ももうないのだしそれでいい。人間の脳は良く出来ているなと思う。

 渡された鍵を使ってドアを開け、室内に入る。

 リビングへ続く廊下にはブルーシートが敷かれ、壁には養生用のプラダンが貼られている。

 たまに手伝う荷物搬入の光景を思い出す。そういえば攷斗はこういう作業も人一倍手際よく、上手にやっていた。

 リビングの一部、ひぃなの部屋に続く経路にもビニールシートが敷かれている。部屋の中まで、靴を脱がずに荷物を運び入れられるようにしているのだろう。

 持っていたサブバッグから花瓶を取り出して、リビングのテーブルの上に置く。バッグはソファの横に一時置きした。

 ほどなくして玄関ドアが開く音がする。出迎えるひぃなに気付き

「おぉ。荷物運びは俺らでやるから、ひなは配置の指示出ししてくれる?」

 攷斗がドアストッパーを下げて言った。

「うん、ありがとう。ベッドとテレビは置いて欲しいけど、ラックは組み立てなきゃだし、運び入れるだけで大丈夫だよ」

「そっか。じゃあそうするか」

「うん」

「桐谷~、外間~」

 二人に呼びかけ廊下へ出て行った。

 まずはベッドとテレビ。そして大型家具。そのあとに段ボール数箱。

 慣れた様子で指示を出す攷斗と、それに応える桐谷、外間は、本職の引っ越し業者のようなスムーズさで作業を進める。

 荷物を全て運び入れたところで、今度は敷いていたビニールシートと壁に貼られたプラダン板を外して、桐谷と外間に渡す。

「使った段ボールどうします?」

「できれば回収してほしいけど~」

 まだ開梱していないが、箱数はそんなに多くない。

「あ、じゃあ一旦これ車に持っていくんで、もっかい来ていいですか? 終わったときにご連絡いただくんでもいいですけど」

 桐谷の提案に攷斗がパッと笑顔になる。

「それ助かる。ひなはそれで大丈夫?」

「うん、大丈夫。すみません、お手数おかけして」

「全然ぜんぜん」

 提案者の桐谷が顔の前で手を左右に振った。

「じゃあ、とりあえず中身全部出すか」

「うん」

「またしばらくあとにピンポン鳴らしますね」

「うん。焦らなくていいからね」

「「はーい」」

 外間と桐谷が揃って返答して、資材を運び出した。

 ひぃなの部屋に二人で移動し、段ボールを開けて中身を出していく。ある程度空きが出来たところで、攷斗が箱を畳み始めた。

「相変わらず手際いいね」

「そりゃいまでも現役ですから」

「そっか」

 経営者になったいまでも、現場の仕事を手掛けているようだ。

「こういう作業も好きだしね」

 言いながら、全ての段ボール箱を畳み終え、束ねて簡単に紐で括る。玄関近くへ運んだところでチャイムが鳴った。

「ナイスタイミング」

 言って、ドアを開ける。

「どーもー」

 外間が挨拶をして

「あ、一人で行けそやわ」

 桐谷が受け取る。

「ありがとう、今度メシ行こう。なんか食べたいモノ考えておいてね」

「あざっす!」

 段ボールを抱えて桐谷が元気よく礼を言う。

「またなにか手伝えることあったら呼んでください」

 外間は攷斗とひぃなに笑いかけた。

「うん、頼りにしてる」

「ありがとうございました。助かりました」

 遅れて到着したひぃなが二人に頭を下げる。

「棚井さんをよろしくお願いします!」

「お前が言うことちゃうやろ」

 コンビのような間で桐谷に突っ込みを入れる外間。ひぃなは思わず笑ってしまう。

「梱包材は積んだままでうちの会社の駐車場に入れておいてくれれば、あとうちの人たちがやってくれるから、鍵だけ返してもらえるかな。受付には話、通してあるから」

「「了解っす!」」

 二者二様のニュアンスで承諾して、それじゃ。と帰っていった。

 さて、と攷斗がひぃなに向き直り

「ラック作ろうよ。どこにどう置く?」

 問いかけた。

「えーっと……」

 元の部屋の配置を思い出しながら位置を指定して、二人で一緒に組み立てる。

 攷斗がテレビとHDDデッキを手際よく配線している間に、ひぃなが衣類や服飾小物類をウォークインクローゼットに収納していく。組みあがったラックや本棚には、前の部屋と同じように配置して中身を収納する。

「調理器具って勝手にキッチンに置いちゃっていいの?」

「うん。二人の家なんだから、どこでも好きにいじっていいよ」

「ありがとう」

 キッチン用品と洗面・浴室用品を持って部屋を出る。それぞれのスペースに赴いて、とりあえず物を置いていく。使っているうちに使い勝手がいい場所に収納し直せばいい。

「ん?」

 キッチンツールがかかっている壁沿いのフックに、見覚えのある鍋つかみがぶら下がっている。

(結婚情報誌の付録のやつだよね?)

 タグを見ると、やはり誌名がプリントされていた。

(取っておいたんだ)

 少し意外な気がして、でも攷斗が使っていたら可愛いな~なんて想像しながらキッチンをあとにする。

 下見のときには入らなかった浴室は、足を伸ばして入れる大きさのバスタブとシャワースペース。温風乾燥機が付いていた。

(雨降った時に便利だな)

 元の自宅にはなかった機能の活用方法を考えつつ部屋に戻る。

「付録のやつ、使ってるの?」

 ラックを組み立てる攷斗に聞いてみる。

「付録?」

 すぐには思い当たらなかったようで、しばし考えてから

「あぁ、鍋つかみ?」

 正解にたどり着いた。

「そう」

「使ってはないけど捨てるのもなんだし、ひなが来たら使うかなーと思って」

「そうなんだ、ありがとう」

「まぁ、使うかどうかはお任せします」

「はぁい」

 なければないでなんとかなるが、あったらあったで使う、くらいのスタンスで考えておく。

 とりとめのない雑談をしながら作業を続け、夕方に差し掛かったあたりで生活出来るレベルの部屋になった。

「すごい…早い……」

 一人暮らしを始めたときのおぼろげな記憶では、レイアウトと収納に夜までかかった記憶がある。

「二人だとね、単純に二倍になるからね」

「そうだけど、やっぱり棚井、作業早いよね」

「褒められるの嬉しいけど、照れるね」

 へへっと攷斗が笑う。

「そろそろ休憩しようか」

「うん。お茶淹れるね? キッチン使っていい?」

「もちろん。とはいえ、あんまり自炊しないから必要なものがあるかどうか……」

 首筋をさすりながらひぃなと一緒にキッチンへ向かう。

 元々あった食器や調理器具の場所を教えながら、棚に眠っていた贈答品と思しきセット品のティーバッグで紅茶を淹れた。

リビングで一休みしつつ、次の算段を考える。

「まだこまかいとこ片付けるよね?」

「うん。でももう一人でできるよ」

「そっか。じゃあ、家は一旦落ち着いたし……お茶飲んだら結婚指輪買いに行こうか」

「えっ、いいよそんなの」

「ダメだよ。リアルにしとかないとバレるじゃん」

「う……」

 確かに黒岩に指摘されたなと思い出す。

「なーんてね。単純にひなとおそろいの指輪が欲しいだけなんだけど」

 なんで? もう何十回と抱いた疑問。攷斗の本心がどこにどういう形であるのか、ひぃなにはまだわからない。

「あと、誕生日プレゼントの追加も兼ねてさ」

 一瞬なんのことかわからずに、無意識にテーブルの上の花を見やる。

「……あぁ、いいのに。お花、長持ちしてるし」

 それを受け取ったときの会話を思い出して、気にしないでいい旨を伝えるが

「俺があげたいの。いいでしょ?」

 攷斗が人懐っこい笑みで顔を覗き込んだ。

 ひぃなはこの表情かおに弱い。

「……うん」

「やったー。じゃあ、俺デザインするわ。作ってもらいに行こ」

「えっ」

 思っていたより大げさな話になって、思わず声をあげてしまう。

「これでもデザイナーの端くれなんで、デザインできるし作ってくれる人脈だってあるんですよ」

 確かに攷斗が被服以外のデザインが出来るのは初耳だが、

(驚いたのはそこのポイントじゃないんだけど……)

 言葉には出さず、思ってみる。

 攷斗はご機嫌で鼻歌を歌いながら、ソファの傍らに置かれたマガジンラックからA5サイズの小さなスケッチブックと色鉛筆一式を取り出した。

「どんなのがいい?」

「えー……」

 急な話でイメージが湧かず、テーブルの上に置いてあったスマホを手に取った。【結婚指輪】と入力をして検索をかける。

「婚約のほうは調べないの?」

「婚約してなくない?」

「……したよ……二時間くらい」

 二人で思い返して、笑ってしまう。

 攷斗が内心思っている“男避けの結界”という意味合いには及びもつかないひぃなは、

「ほんとは気持ちだけで充分なんだけど……」

 言いながら検索結果の画像をスクロールさせていく。

「けど?」

「いや……聞かれちゃって…。指輪してないんですねって」

「誰に?」

「黒岩さん」

 名前を聞いた瞬間、攷斗の顔がこわばる。けれど、小さな画面に集中しているひぃなはそれに気付かない。

「…そういえば聞いてない」

「なにを?」

「社長がどんな風に報告したのか」

「どんなもなにも……」

 と、かいつまんで当日の出来事を説明した。

「そのあとめっちゃいろんな人に相手誰ですかーとか、いつの間にーとか言われたんだけど、指輪のこと聞いてきたのは黒岩さんくらいだったなー」

「なんて答えたの?」

「え? どれに対して?」

 やっと顔をあげて攷斗を見やった。

「……ぜんぶ」

「えーっと…」

 ひぃなは当日の会話を思い出すため、手を止め、天井のほうに視線を向ける。

「相手は、社外の人ですって。いつの間に~は、私もいつの間に? って感じだったから、濁して答えるしかなかった」

「うん」

「指輪は、急に決まった話だからまだできてないって言った」

「……じゃあやっぱ、作らないと」

「……そうだね……」

 既製品でもいいけどと思うが、デザイナー的に何か抵抗があるのかもしれないとも思う。

「あ。こんな感じの、シンプルなのがいいな」

 少しひねりを加えたような、石無しのプラチナリングの写真を攷斗に見せると

「なるほど」

 その写真を参考に、スケッチブックに鉛筆を走らせた。

 ひぃなは横からその筆致を眺める。

「立て爪にしないから俺らの誕生石入れていい?」

「うん。そのあたりはお任せします」

 7月が誕生日の攷斗はルビーだが……。

「12月って誕生石いくつかあるんだけど、なにがいい?」

「水に強ければなんでもいいけどー」

「水に強い宝石自体が少ないなー」

「だよねぇ」

「あ、わかった」

 と、攷斗はデザイン画をひぃなに見せないようにした。

「え、なに?」

「ないしょ。石、なにがいいか決めておいて」

 子供のように目を輝かせて、攷斗がニコリと笑う。

「わかった……」

 スケッチブックを覗き見するのは諦めて、【12月の誕生石】を検索する。攷斗の誕生石と並んだときの色合いや質感なども考慮して、ひとつに決めた。

「どれにした?」

 スマホを置いたひぃなを横目に、色鉛筆を走らせながら攷斗が問う。

「タンザナイト」

「おっけー」

 石の名前をメモするように、文字らしき動きで走り書きをする。

 ひぃなはお茶を飲みながら、スケッチブックに対峙する攷斗を眺めていた。

 その瞳には何が映っているのだろう。

 頭の中にあるイメージを画像として可視化する能力は、どのように会得するものなのか。自分のは未知の体験を体感しているであろう攷斗が、とても輝いて見える。

「でーきた」

 と、スケッチブックを閉じてテーブルに置き、少し冷めた紅茶を飲み干した。

「よしっ。行こう」

「えっ、うん。ちょ、ちょっと待ってね」

 ソファから立ち上がる攷斗に少し遅れてひぃなも立つ。空になった二つのカップをシンクへ持っていって、サクッと洗う。

「マメだね」

「落ちにくいの洗うほうが面倒だもん」

「確かに」

「着替えてきていい?」

「いいよ。俺も準備してくる」

「うん」

 新しい自分の部屋へ入って、クローゼットの中からワンピースを取り出す。最近買った、お気に入りのブランド『コイト・ウタナ』のものだ。

 一枚でサラリと着られるし、色々組み合わせて着まわしてもおしゃれなので重宝しそうだ。なにより、標準サイズが自分の体型にピッタリで、スタイルが良く見えるところがいい。

 少しメイクも直してから上着を羽織り、バッグを持って部屋を出る。

「おまたせ」

 その姿を見た攷斗が一瞬顔をほころばせるが、その表情をごまかすように、自室から持ち出したバッグを肩にかけた。

「うん。ついでに飯も食おっか。なんだろ、蕎麦?」

「あ、いいね」

「そんじゃ、指輪作ってもらってる間、近くの店で飯にしよう」

 どうやら攷斗の脳内には目的地の地図が浮かんでいるようだ。

 一緒に地下駐車場まで降りて、車に乗り込み目的地へ向かう。

「そういえば」と少し走ったところで攷斗が口を開いた。「さっき渡した鍵。あれひなのだから、持っててね」

「え。あ。そっか。うん」

 ジーンズのポケットに入れたままのそれを思い出す。そういえばさっきは攷斗が自分のキーケースに着いた鍵を使って施錠していた。

(帰ったらすぐ出そう)

 着替えた時にクローゼットにしまったジーンズを思い返す。

 忘れそうで仕方ないが、生活するのに必要なことだから大丈夫、と自分に言い聞かせてみる。でもきっと、忘れるんだろうなとも思う。

 攷斗はこの道を使い慣れているのか、特にナビも頼りにせず到着した道沿いのコインパーキングに車を停めた。

 下車して5分ほど歩いた小道にある、こぢんまりとした店に攷斗が入っていく。カウンターに座って作業をしている、あごひげを蓄えメガネをかけた、いわゆる“ガチムチ体型”の人物に

「どうも~」

 攷斗が声をかけた。

「あれ、どしたの。今日なんか商談入ってたっけ?」

「ううん、プライベート。いま大丈夫?」

「うん、大丈夫だけど」

 男は作業の手を止めて攷斗のほうを向く。しかし目線は攷斗の先に向けられている。お辞儀をしたひぃなにつられ、会釈をした。

「えっと……?」

「うちの嫁です」

 その紹介に一瞬言葉が詰まるが、

「初めまして。ひぃなです。棚井がお世話になってます」

お辞儀をしてごまかして、言葉を紡いだ。

「はい、こちらこそ……えっ? いつの間に?」

「先週」

「えぇ? 急! 急すぎない? 先月末会ったときなんも言ってなかったじゃん!」

「うん、今月頭に急に決まったから…。周りも知らない人のが多いから、これで」

と唇に人差し指を当てた。

「いや、そりゃそうでしょ。ちょっとしたニュースだよ」

「うん。なんで、正式な発表するまでは」

「わかった」

 攷斗の後ろで二人のやりとりを見ていたひぃなを、攷斗が振り返る。

「この人はジュエリーデザイナーの井周イシュウさん。うちのショーのときとかにお世話になってる方」

「初めまして」

 紹介されて、井周がお辞儀をする。だいぶと時差だ。

「…で? 今日は…?」

「作ってほしいものがあって」

 と、バッグからスケッチブックを取り出し、

「完成図、まだ内緒なんで」

 ひぃなを見やる。

「あぁ、はい」

 心得たといった顔でスケッチブックを受け取って

「細かいこと詰めたいから、裏いい?」

 カウンターの後方にあるバックヤードを指さした。

「うん。ひな、待っててもらっていい?」

「いい、けど……」

 オープン状態の店に、勝手知らぬ自分だけがいていいものかと井周に視線を送る。

「あ。表の看板、クローズにしてきます」

「すみません」

「大丈夫です。旦那さんからたんまりいただくんで」

 井周がニヤリと笑い、ドアを開けて看板を裏返して店内に戻ってきた。

「良ければ椅子、どうぞ」

「ありがとうございます」

 それまで自分が座っていたカウンターの椅子をひぃなに薦め、攷斗と連れだって井周がバックヤードへ移動した。

 せっかくなので店内を見回ってみる。

 男性女性問わず普段使い出来るデザインで手に取りやすい。ゴールドやシルバー製のものをメインとしていて、一角にステンレスやプラチナ素材のコーナーも設けられている。

 ネックレスやリングだけではなく、耳や髪用、ボディピアスなんかもあって、かなり多彩な品ぞろえだ。

 テイストの違うコーナー毎にブランド名と思われる小さな看板が掲出されているのを見つけて、レンタルスペースやセレクトショップのような経営方法も採っているのかな? と推測する。

 一通り店内を見て回り、手持ち無沙汰になったので、先ほど勧められた椅子に座る。

 カウンターの内側は机状になっていて、手入れの途中だったのかシルバーアクセサリー数点と専用クロスが置かれていた。簡易ラッピング用の小さな紙袋やシール、リボンには【alquimia(アルキミア)】と印刷されていた。スペイン語で【錬金術】を意味するそれは、この店の名前。それらがまとめて入れられたケースは、高級洋菓子店の空き缶を再利用したものだ。

(かわいい)

 誰かが便利なように持ってきたんだろうな、と思う。ひぃなの職場でもちょくちょく見かける光景に微笑んでしまう。

 客側から見えない位置に電話の子機とメモセット、カタログや注文票が置かれている。電話が鳴ったら反射でうっかり出てしまわないようにしないと…と、事務業病の発症を未然に防ぐよう意識する。

 カウンターの背後、仕切りの向こうに恐らくスタッフ用のバックヤードや事務所スペースがあるのだろう。電話の親機がそこに設置されているなら、万が一電話が来ても対応可能なはずだ。

 そのバックヤードに移動した攷斗の瞳は、何か思いついたように輝いていた。

 何を思い浮かべたのか、何をスケッチブックに描いたのか。それは予想もつかないが

(きっと素敵なんだろうな)

 それだけはわかる。

 社内コンペが行われるとき、デザイナーの名前が伏せられた状態で数点のデザイン画が掲出される。従業者が自由に投票出来るシステムなので、事務部でも毎回参加していた。ひぃなも好みのものに投票し、結果が出てデザイナー名が開示されると、それは決まって攷斗が描いたものだった。

 テーマや目的に沿って考えられたそれらと、ある程度は枠から外れることが出来るであろう自社デザインはテイストが違っているかもしれず、攷斗の退社後のデザインがどんなものかひぃなは知らない。

 ましてや、出来ることすら知らなかったジュエリーのデザインは、予想もつかない。

 小さなスケッチブックに描かれた、攷斗の脳内から反映された結婚指輪のデザインがどんなものか気になるが、あの様子だと教えてくれそうにない。

 数日後には実物が手元に届いて謎は解ける。それまではあれやこれやと想像を楽しもうと思う。

 しばらく思考を巡らせていると、バックヤードから二人が戻ってきた。

「お待たせ」

 攷斗は満足げな微笑みを浮かべている。

「ううん」

 ひぃなが返事をしながら席を立ち、井周の場所としてスペースを空けた。

「すみません、奥さんの指のサイズ、計ってもいいですか?」

「あっ、はい。お願いします」

 ひぃなの同意を確認して、井周がリングケージをカウンターの引き出しから取り出す。

「どのあたりですかね」

「右手だといつもこのあたりですね」

 と、サイズの書かれた輪をいくつか指し示した。

「了解です。じゃあ中間くらいからいきますか」

 大体のアタリを付けて井周が一つの輪を持った。ひぃながその輪に指を通そうとすると、攷斗がケージを取り上げてそのままひぃなに渡した。ひぃなと井周はその動作にきょとんとするが、一瞬あとに理由を察した井周がすぐにニヤニヤしだして

「気が利かずにすみません」

 攷斗にヘラヘラと謝る。

「……そうですね」

 それを受けた攷斗は抑揚のない返事し、照れたようなふてくされたような顔で井周を見た。

 ひぃなは良くわからず、きょとんとしたまま「お借りします」と渡されたケージを使い、自らサイズを確認した。

「これがちょうどいいです」

 一つの輪を持って井周へ渡す。

「はい」そのまま受け取って数字をメモし「かしこまりました」ケージを引き出しに片付ける。

「じゃあ、納期は明後日で。お渡し可能になったら棚井さん……旦那さんに連絡します」

「お願いします」

 笑顔で言う攷斗の隣で

「お手数おかけします」

 ひぃなが頭を下げる。

「いえいえ、やりがいありますよ」井周は言って「棚井をよろしくお願いしますね」笑顔で続けた。

「はい」

 外間や桐谷にも同様によろしくお願いされたが、そんなにもよろしくされるほど頼りないとは思えない。とはいえ、自分が相手の立場だったらやっぱりよろしくお願いしてしまうか、とも思うので、挨拶や決まり文句として受け止めた。

 表の看板を【OPEN】に変えるついでに井周が店先まで見送ってくれる。

 じゃあまた、と挨拶をして、店をあとにした。

 時刻は夕方。攷斗は指輪を受け取るまでの時間で夕食をとろうとしていたようだが、夫婦二本分の指輪を一から作るには時間がかかるよう。ましてやオーダー品ともなれば、型にハメてはいどうぞ、というわけにもいかなさそうだ。

 ひぃなの都合で言えば、九連休が終わる週末までに手元に届けば間に合うので、出来上がりが明後日でも特に問題はない。

「かわいいお店だね」

 外装や店内の品揃えを思い返してひぃなが言う。

「そうなの。井周は専門学校のときの同級生でさ」

「えっ、同い年?」

「そう。見えないでしょ」

「そうだね」

 どちらかというと、井周が年相応で攷斗が年より幼く見える。

 攷斗は髪型や服装によっては、遠目に見ると高校生のように見える時がある。それを言うと“また子供扱いして!”と怒りそうなので口に出したことはない。

「卒業して、俺は【プリローダ】、あいつは大手のジュエリーショップに就職したんだけど、おんなじようなタイミングで独立したんだよね。で、あいつは店かまえて、俺は会社立ち上げた」

「えらいなぁ」

 ひぃなはその時の攷斗と同年代の頃の自分を思い出す。

 二十代中盤の頃、それまで居候していた堀河家を、堀河と一緒に出て二人暮らしを始めた。部屋の更新時期と同時に堀河が一度目の結婚を決め、ひぃなもまた元婚約者との結婚を前提とした同棲を始めた。

 それから二年後に堀河がいまの会社を立ち上げるからと、それまで勤めていた会社を辞め、経営者になった。

「井周も俺も、将来の夢というか、目標がはっきりしてたってだけだよ」

「それ大事だよ。ちゃんと叶えてるし、すごいよね」

「なんか照れる。ありがとう」

「うん」

 なんて答えたらいいかわからなくて、なんとなく相槌を打ってみる。

「昼間手伝ってくださった桐谷さんと外間さんは後輩なんだっけ?」

「そう。あいつらは高校のときの後輩」

「あれ? 関西ご出身っぽかったから専学のときかと思ってた」

「二人ともスポーツ特待生なんだよね。うちの学校、格闘技に強いとこだったんだけど、それの関係で上京してきたの」

「あぁ、なるほど……」

 道理で二人とも(特に桐谷は)体格が良かったわけだ。

「改めてお礼しないとね」

「そうだね。今日は夕方から仕事の打ち合わせあるとか言ってたから無理だったけど」

「えっ、そうなの? 悪いことしちゃった」

「だいじょぶだいじょぶ。体力には自信あるやつらだから」

 笑いながら歩を進める攷斗に着いて行くと、小ぎれいな和門構えの一軒家にたどり着いた。

「ここでご飯にしよう」

「…おうち……?」

「を改築したお店。和食屋さん」

(びっくりした)

 前置きなしに攷斗の実家に連れてこられたのかと思って焦る。地元とは離れた土地だから可能性としては低いが、ありえない話ではない。

「こんにちはー」

 引き戸を開けて中に声をかける。

「あら、棚井さん。いらっしゃいませ」

 和服に身を包んだ女将らしき女性が攷斗を招き入れた。

「今日は二人です」

「はーい」

 行きつけの店なのか、それ以上何も言わずとも女将が店の中を誘導した。

「はい、こちらどうぞ」

 座面が畳になった椅子の個室に案内される。

「ありがとうございます」

「お世話になります」

「ごゆっくりどうぞー」

 女将が言い残して、ふすまを閉め退室した。

 二人は上着を脱いで壁面のハンガーにかけ、向かい合わせに席に座った。

 勝手知ったる動作で革表紙のメニューを広げて

「何がいい?」

 攷斗がひぃなに聞いた。

(わぁ、いいお値段……)

 思わず意味ありげな微笑を浮かべてしまう。

「一応言っておくけど、ここ、ご褒美メシだから。いつもこんないいもん食ってないからね?」

「うん。ちょっと安心した」

 家事を担当するということは食事の用意も含まれている。高級で美味しい料理ばかり食べている肥えた舌に、下手なものは出せないという危惧はいまの言葉で払拭された。

 攷斗はメニューを見るひぃなをニコニコと眺めている。それに気付いて

「たな……コウトは、なに頼むの?」

 顔をあげた。

「んー? ひなが決めたら決める」

「えぇー、焦る」

「いいよ、ゆっくりで」

 頬杖をつきながら攷斗が笑う。

「食べきれなさそうだったらシェアしよう。俺わりとハラ減ってる」

「ほんと? じゃあねぇ」

 と、鴨南蛮そばと出汁巻き玉子を提案してみる。

「いいね。じゃあ俺こっちのセットにしよ」

 と、希望が決まったところで呼び出しボタンを押した。ほどなくして

「はーい、失礼いたします~」

 女将がオーダーを取りに来た。

 攷斗がメニューを指し示しながら

「えーと、鴨南蛮そばと、天ぷらそば定食と、出汁巻き玉子、お願いします」

「はーい。鴨南蛮~、天定~、出汁巻きですね~。かしこまりました。少々お時間いただきますね~」

「はい、お願いします」

 女将が伝票にオーダーを記載して、「ごゆっくりどうぞ~」と退室した。

「ひなって卵焼き好きだよね、俺ここのやつ食べたことないや」

 メニューを元の位置に戻しながら、攷斗が言う。

「うん。手軽に美味しくたんぱく質を摂取したい」

「え、そういう理由?」

「割と」

「それは意外」

 攷斗が笑った。

「卵料理全般が好きなんだけどね? お店だと、卵焼きくらいしか選択肢ないからさ」

「確かに。十年付き合ってきて初めて知ったわ」

 “付き合う”と言ったって恋人関係だったわけではなくて。やはりどうしたって知っている部分は限られてくる。

「まだまだお互い、知らないことたくさんあるでしょ」

「うん。先は長いし、ちょっとずつでいいから教えてほしいな」

「可能な限りね」

 全部を知ればいい、ということではない。知らないほうが良いことだってあるはずだ。

 果たして本当に先は長く続いているのかな、なんて少し不安に思っていることだって、いまは秘密にしておいたほうがきっといい。

 ふと、ひぃなが自分の服に視線を落とした。

(ウタナのワンピ、ほんとに優秀だな)

 思わず微笑んでしまう。

 和テイストの少しかしこまったこの場にもしっくりきている。

 バスト下あたりに適度な絞りが入っていて、着痩せ効果も抜群だ(と思いたい)。

 これから着まわしていくのが楽しみだな、と手持ちの服との合わせ方を考えていると

「似合ってるね、それ」

 向かいに座った攷斗がワンピースを指して言った。

「そう? ありがとう」

 攷斗とは服の好みも合うので、趣味の話をしていても楽しい。

「それに合う小物、今度一緒に見に行こうか」

「あっ、行きたい」

 思わず声が弾む。

「今日でもいいけど、遅くなっちゃうもんね」

「そうだね。楽しみだなー」

「行きたいお店あったらリスト作っておいてよ、車で回ろう」

「いいの?」

「いいよ? いいから言ってるんだけど」

「嬉しい。今度見つけたら聞いてもらう」

「うん、待ってる」

 しばらく雑談していると個室のドアがノックされ、女将が姿を現した。

「失礼いたします。お待たせしました~。はい、鴨南蛮と出汁巻きです~」

 はーい、と挙手しつつ返事をしたひぃなの前に鴨南蛮、中央に卵焼きを。続いて入ってきた店員が、攷斗の前に天ぷらそば定食のトレイを置いた。

「そちら天そば定食ですね~。こちら伝票です。追加ございましたらまたお呼びくださいませ~」

「はーい」

 女将と店員は連れ立って退室する。

 湯気と出汁の香りが立つ出来立ての食事は、なんとも魅惑的だ。

「美味しそう~」

「冷めないうちに食べようよ。いただきます」

「いただきます」

 胸の前で手を合わせて食事を始める。

「んー、おいひい」

「ね。ここ旨いから、いつか連れてきたかったんだよね」

「そうなの? ありがとう」

 二人で卵焼きを突きつつ、具材を交換しつつ食事を楽しんだ。

「は~、ごちそうさまでした」

「いいでしょ、ここ」

「うん。すごく美味しかった。連れてきてくれてありがとう」

「気に入ったなら良かった。また機会があったら一緒に来よう」

「うん」

 席会計を済ませて、席を立ちコートをはおる。

「お世話になりましたー」

 店先まで送ってくれた女将に礼を言う。

「またどうぞ〜」

 胃も心も満たされて店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。

「ごちそうさまです」

 やはり財布を出させてくれなかった攷斗にひぃなが礼を言う。

「いえいえ」

 腹ごなしにゆるゆる歩きながら車に戻った。

「運転なしなら酒もいけるんだけどね」

「ごめんね? 免許なくて」

「そういう意味じゃないよ、大丈夫。自分か他人を殺めそうとかいう物騒な理由があるんだから、むしろ取らないでいてほしい」

「なんだかホントにすみません」

 攷斗が口にした“理由”は、ひぃなが以前、運転免許証を取得しない理由として開口一番上げたもの。絶対に自分には向いていないと確信しているので、取得しようという気すらない。

「あ。帰りにスーパーみたいなところ寄れるかな」

 シートベルトを締めながら、ひぃなが攷斗に確認する。

「うん、大丈夫だけど」

「明日以降に使う食材を買って帰りたいのですが」

「え、作ってくれるの?」

「そういう約束だったよね?」

「うん。えー、嬉しい。ひなの料理食べるの初めて」

「そういえばそうだね。あ、でも、帰り遅いとか泊まり込みとかあるなら無理して食べなくていいからね?」

「うん。しばらくは大丈夫だから、お願いしたい」

「じゃあ明日から」

「やったー。リクエストしてもいい?」

「いいけど、レシピ見ながらになるかも」

「全然いいよ、充分うれしい。なにがいいかなー」

 鼻歌交じりに運転する攷斗は、なんだか子供のようだ。

「食べたいものありすぎて困る」

「難しいのはできないかもよ?」

「ぜーんぜん。ひなの手料理ってだけで嬉しい」

 そう言いつつ、思い浮かんだ料理名を攷斗が羅列する。

 ハンバーグ、エビフライ、餃子、カレー……

「子供なの?」

「ちがうよ。外ではあんまり食べないけど、自分で一人分作るにはちょっと面倒な料理だよ」

「確かに」

「肉じゃがとか生姜焼きとかの定番だって食べたいし」

 作れなくはないラインラップにひぃなが少しほっとする。

「まぁ、無理しない範囲でね。俺が帰れないときとか、その逆もあるでしょ」

「私がすごい残業になるのなんて、年に何回かしかないけどね」

「疲れてるときも無理しないでいいし」

「うん。ありがとう。なるべく食べてもらえるように頑張るね」

「マジで嬉しいわー。あ、見えてきた」

 目的の建物を見つけて、攷斗がウインカーを出す。店に併設された駐車場に入って、シートベルトを外した。

「ここがうちから一番近いスーパーなんだけど」

 さすが都心。いままで使っていたスーパーより高級な品ぞろえのチェーン店だ。駐車場の反対側には大手カフェもあって、なかなか便利そう。

 スーパーの自動ドアから店内に入る。

「けっこう買う?」

「うーん…そこそこ」

「じゃあ一応、これ使うか」

 と、かごを乗せてカートを使う。

「うちいま多分、飲み物と缶詰くらいしかないから、フルで買っていいよ。冷蔵庫ほぼカラだわ。あ、おでこに貼る冷却シートは山ほど入ってるけど」

「そうなんだ」ひぃなが小さく笑う。「調味料とか見てくれば良かったな」

「お中元だかお歳暮だかにもらったおしゃれなやつはどっかにあったはずだけど」

「なるほど……」

 オシャレな調味料は常用には向いていなさそうなイメージがある。独り暮らしのときに使っていた調味料類は、冷蔵庫と一緒に母親の住む祖父母宅に送ってしまった。

 塩コショウや砂糖などはストックがあってもそこまで困らないだろうが、味噌や醤油は使い切る前に古くしそうで、在庫の有無がわからない現状では購入がためらわれる。

「足りなかったら追加で買うのに車出すよ。この店歩くとちょっと距離あるから、重いものは買い出し大変だし」

 それはそれで申し訳ない。

「自転車買おうかな」

「それでもいいけど、近くにコンビニあるし、食材の宅配使ってもいいよ」

 そうか、その手があった、と思う。

 そこまで食料品を消費しない一人暮らしではなかなか手が出ない手法だ。

「いままではどうしてたの?」

「インスタントかコンビニか、仕事関係で外食。たまに宅配メシ」

 男性の一人暮らしっぽいなぁと思うが、手を抜きたいときはひぃなも同じような食卓だった。料理を作るのは嫌いではないので、自炊を選択していただけだ。

「さっき言ったのもそうだけど、煮物とかも食べたいな。あと、ひなの得意なやつがあるならそれで」

「得意…かどうかは不安ですが、作り慣れてるものならいくつか」

「うん。それも食べたい。食費とかも出すから、気にしないでいいからね」

 夫婦なら当たり前なのかもしれないが、生活費が完全に攷斗頼りなのは気が引ける。

「いいよ、自分の分は出すよ」

 一緒に食事に行ったとき、ひぃなに良く言われるその言葉。先輩とはいえ気のある女性に金を出させたくない、という男のプライドは譲れない。

 何度か断るうちに言葉は出なくなったが財布は毎回出てくるので、そっと手で押し戻す。その攻防は、最初に勃発してから十年近く経ついまでも続いている。婚姻関係を結んだあとでも言われるのは予想外だった。

「二人分の食材をまとめて買うのにどうするの。俺のが絶対多く食べるよ? 使った分グラムで割って、一人分に換算するの?」

「う」

 そんなレシピ本や料理番組のようなことは、面倒で出来ない。

「よし、帰ったらまずそのへんのルール決めよう。今日はとりあえず俺に出させてよ。引っ越し祝い」

 そのお祝いをもらっていい引っ越しなのかは疑問だが、一番しっくりくる理由なので甘んじて受け入れることにする。

「わかりました。ありがとう」

「うん。二人で食べるもの以外にも、なにか欲しいものあったら入れてね」

「あ、じゃあ、あとで飲料コーナー寄りたい」

「うん、オッケー。近いし、一旦調味料コーナー見るか」

 カートを押しながら陳列棚を眺める攷斗が

「あ、ねぇ、これは?」

 と、調味料コーナーの一角を指した。そこには、少々割高ではあるが、比較的日持ちのする小分けパックの調味料が各種並んでいる。

 余らせてダメにするよりはいいし、お弁当にも活用出来るしで、アリかもしれない。

「そうだね。これにしようかな」

 保存が可能な砂糖や塩は小分けされていない袋の物を選び、その他の基本的な調味料もかごに入れていく。

「おっけー?」

「うん」

「じゃあ次は食材かな。あ、小麦粉とかパン粉とかは確実にないから、必要なら買おう」

「そっか、了解」

 必要な食材類がパッと浮かばず、スマホのレシピアプリを立ち上げる。ちゃんと行動で返していかないと、と思いながら、攷斗が移動の車内で言っていた食べたい料理の個別レシピをいくつか【お気に入り】に入れた。

「先に飲料コーナー行こうか。その間にゆっくり考えたらいいよ」

「ありがとう」

「どれがいい? ミネラルウォーターなら箱であるけど」

「うーんと、あるかな……」と紙パックのコーナーを眺める。「あ、これこれ」

 とひぃなが手にしたのは、【一日分の鉄分配合】とパッケージに書かれたヨーグルト飲料だ。消費期限を確認して、まとめて数本かごに入れる。

「美味しいの?」

「うん、美味しいし、これ飲み始めてから貧血あんまり出なくなったんだよね」

「貧血? だったの?」

「うん。いまもたまに出ちゃうときあるかな」

「困ったらすぐ教えてね。見た目で気付けるかわかんない」

「ありがとう。そんなにしょっちゅうなるわけじゃないから、心配しないで大丈夫だよ」

「うん」

 攷斗がカートを押しながら、心配そうに眉根を寄せる。

「あ、特徴あるわ」

「え、なに?」

「吐く息が冷たかったり唇が冷たいと危ない。私の場合は」

「それは……確認して、いいもの……?」

「ん? 手の甲とか当てたらわかるよ? 棚井が嫌じゃないならだけど」

「あ。あー。そう。そうね」

 秘かに頬を染める攷斗には気付かず、ひぃなが生鮮食品売り場をじっくり眺める。

「よし。まずはー」

 と、数日分のレシピを考えながら、食材をかごに入れていった。


* * *


 帰宅して、冷蔵庫内を整理しつつ買ったものを冷蔵庫に詰める。明日は昼間から下準備まつりだ。

「さて」

 と、リビングでお互いが愛用の手帳を広げ、生活費のことやスケジュールの共有についてミーティングする。さながらそれは仕事のようだと同時に気付いて、二人で少し笑ってしまう。

 恋人や同棲期間を経ていればその間に話すことなのだろうが、そのあたりの段階をすっとばして婚姻関係を結んだ二人は、やっと考えが及んだように思案の時間を作る。

 生活費は全額自分が出すと言う攷斗にひぃなが難色を示したが、家事全般を担当するというひぃなに今度は攷斗が異論を唱えたので、生活費は全て攷斗が担当し、家事全般はひぃなが担当するということで折り合いをつけた。

「家事全部やってもらうのに生活費まで出してもらうとか、俺甲斐性なさすぎでしょ」

「そんなことないと思うけど……でもありがとう。助かります」

 実際、前の同棲生活では家事のほとんどをひぃながやって、生活費は折半だった。実家に居ても同じような生活だっただろうなぁ、と思って受け入れていたが、まぁ人それぞれの考え方があるか、と、そこは攷斗の意見を尊重する。

 趣味や交際・外食費は各自。衣服類も自分で買うものとして分類した。

 要は、二人のことは攷斗の、各自のことは各自の財布から出そう、ということだ。

「ま、この先変化もあるだろうし、その辺は臨機応変でね」

 ここまで決めて身も蓋もないことを言うが、確かにそれもその通りとひぃなは納得する。

「ファミリーカード申し込んでおくか。さすがに俺のクレカ貸すわけにもいかないし」

 とスマホを持った。

「ほとんど引き落としだけど、新規で登録するサイトとか店で買う場合はそれで払ってね」

 専用アプリを立ち上げて順を追って操作していくと、小さな画面に【申し込み完了】の文字が表示される。

「よし、おっけー。届いたら使っていいから、それまでになんか支払いあったらレシートちょうだい」

「うん」

 ちょっとした買い物なら自分で払うつもりだが、ひぃなは言わない。

「そうだ、風呂。機能説明しとくわ。今日入るよね」

「あっ、うん……そうだね……」

 深い意味はないその質問が、何故だか気恥ずかしい。

「…………こっち」

 攷斗が口を開いて言葉を探し、出そうとした言葉を飲み込んで経路案内のそれに変えた。

(「なにもしないから、大丈夫」……かな……)

 そこの心配はしていないし、そうなったらそうなったでいいんだけどなぁ、と思いつつ、少しうつむきながら攷斗のあとを着いていく。

(返答に躊躇したからこんな空気になっちゃったんだよね……)

 と反省もする。

 案内された浴室で、パネルの使い方を教わる。どこのシステムもそう変わらないので特に問題なさそうだ。

「ついでにお湯入れとく?」

「今日はシャワーだけでいいかな…。棚井が入るならセットしてもらったほうがいいかも」

「んー、いや。俺も今日はいいや」

 浴室から出て、併設された洗面所の説明を受ける。

「タオル、ここから自由に使ってね」

「うん」

 白いタオルがホテル並みの正確さで畳まれ、積まれている。攷斗の正確な性格が垣間見えた気がして、洗濯と掃除に対しての意識を強めることにした。

 洗濯機や洗面台が設置されている洗面所の一角に、玄関ドア同様、内カギとドアチェーンの付いた鉄扉がある。その向こう側はルーフバルコニーだそうだ。

「照明器具は設置されてるんだけど、夜だと危ないから、出るのは昼間だけのがいいかな」

「はーい」

「一応、上の階の構造的に、ドア側には屋根があるけど、完全に雨が防げるわけじゃなくてさ」

「そうなんだ。晴れてたら洗濯物干してもいいんだよね?」

「うん。手前側にスペースあるよ。夏は日光浴とかできるんじゃないかな。俺もまだここで夏過ごしてないからわかんないけど」

「へー、いいね。広いんだ」

「まぁまぁ。洗濯は自分でやったほうがいいかな?」

「棚井が嫌じゃなきゃ一緒にやるけど」

「じゃあ、お願いしようかな」

「はーい。明日、やるね」

「うん」

「じゃあ、お風呂お先にどうぞ」

「いやいいよ、ひなが先に入りなよ」

「悪いよ」

「悪くないよ」

 引かない相手に「「んー」」と二人が唸り、「「じゃーんけんっ」」二人で同時に腕を引いた。


* * *


(待ってる間、けっこう拷問なんだよなー)

 攷斗がソファの上で膝を抱えながらテレビを見ている。画面に映る番組を視聴しているのではなく、ただ、眺めている。何故なら、浴室が気になって内容が頭に入ってこないから。

 まぁどちらが先に入っても、結局ひなが出てくるまでリビングで待っていただろうから順番はあまり関係なかったかもしれない。

 変に想像しないようテレビに集中しようとするが、どうにも間が持たない。

 タバコは吸わないし酒を飲んだら理性を抑えられなくなりそうだしで、時間をつぶす手段がなく手持無沙汰がはなはだしい。

 仕事のアイデア出しをしようかとも思うが、なんだか悶々としたデザインが出来そうだ。それはそれでいいと思うが、見る人が見たらその時の感情がわかってしまうので、人に見せるとき自分が恥ずかしいよなと思う。

 番組が終盤にさしかかったところで、リビングのドアが開いた。

「……お待たせ、しました」

 上下共布のボア生地で出来た有名ブランドの部屋着に身を包んだひぃなが姿を現した。初めて見るノーメイクの顔は、部屋着と同じ桜色に染まっている。

「……うん」

(えっ。かわいい。やばい。これ毎日見せらてなにもできないのキツイ)

 思わず凝視してしまい、ひぃなに不審がられる。

「なんか、どこか、おかしい?」

 実は攷斗と同居をするにあたり購入して、今日初めて着るので似合っているかどうかが不安だ。身を半分よじりながら自分の体を確認する。

 やっぱり若者向けだったか、と反省しようとしたところで

「おかしくない。ごめん。かわいくて、見ちゃってた」

 否定と謝罪と賛辞が一度にやってきた。

「う、あ、はい。ありがとう」

 突然のことに対応しきれないひぃながあたふたするのにつられて、攷斗も慌てたようにソファから立ち上がった。

「俺も、入ってくるね」

「うん」

「気にしないで寝ちゃってていいから」

「うん」

「色々、ご自由に、どうぞ」

「…うん…」

 我ながら言わなくていいなと思うことを残して自室へ戻る。

(いやマジやばい。毎日こんなに我慢しなきゃダメなの?)

 クロゼットから着替えを漁り、洗面所へ向かう。

(あれ、もしかして脱いだ服とかかごに入りっぱなし……?)

 見たいわけじゃなく、見たらまずいという理由で気に掛ける。

(やっぱり順番関係あったわ!)

 なんとなくソッと洗面所のドアを開ける。普段と変わったところは特に見受けられない。

 洗濯機のすぐそばに置いてある洗濯かごに脱いだ自分の服を入れようとして、すでに洗濯ネットが入っていることに気付く。絵柄付きで中身が見えにくいタイプの小さいネットと、中身がわかる普通の白いネット。シャツなどが入った白いほうが上に置かれているので、小さいほうは、まぁ、それだろう。

(あっ、ねっ。そうだよね、うん)

 ホッとしたようながっかりしたような気持ちが綯い交ぜになってなんとも言い難い表情が浮かぶが、洗面台に置かれている攷斗の歯ブラシセットの隣に、ひぃなのそれが並んでいるのを見つけた途端、すぐににへらと緩んだ。

 浴室へ入ると、蒸気の温もりを肌に感じる。さきほどまでひぃなが使っていた痕跡は、攷斗の理性をこれでもかとゆさぶる。

(あー、やっぱりこれからは先に入らせてもらおうかなー)

 ひぃなが持参した、攷斗の物とは違うのシャンプーやボディソープの甘い香りが鼻と煩悩をくすぐる。意識と関係なく反応しそうになるのをなんとかこらえて、シャワーのカランをひねった。

(そういえば換気扇のスイッチの場所教え忘れた)

 いまからでも遅くはないが、なんとなく、そのままシャワーを浴び始める。

(冬だし、寒いし、シャワーだと)

 自分に言い訳しながら頭と身体を洗い終えた。洗面所で身体を拭きドライヤーをかけ、部屋着を身に着けてリビングに戻る。

「あ、お帰りなさい」

 ソファに座ってテレビを視るひぃなに「うん、ただいま」軽く返事をしてキッチンに立ち寄る。

 ミネラルウォーターを持ってリビングへ行き、ひぃなの隣に座った。テレビは丁度CM中で、何を視ていたのかわからない。

「なんか面白そうなのあった?」

「いつも視てるバラエティ番組を点けてる」

「そうなんだ。一緒に視ようかな」

「ほかに視たいのあったらそれでいいよ? 自分のデッキで録画してるから」

 見逃してもいいように毎週予約をしてるが、放送時に視聴出来たらリアルタイムで視るようにしている。自室で視ても良かったのだが、同居初日だし攷斗が戻ってくるのを待ちたかった。

「いや、大丈夫。一緒に視たい」

「うん。明日は? お仕事?」

「そうだね。ちょっと休めなくて。ごめん」

「全然。忙しいのに、今日お休みさせちゃってごめんね。ありがとう」

 ひぃなが有休期間中というだけで、世間的には平日だ。

「そりゃ休むでしょ。今年の最重要案件なんだから」

「おおげさ」

 言って、ひぃなが笑う。

「いやいや、最重要でしょ。奥さんが自分ちに引っ越してくるなんて。いままで生きてきた中での最重要案件でもいいよ」

「そっか、そうだね」

 確かに、電撃結婚した夫婦が同居するその初日は、いままでの人生に於いて最重要案件かもしれない。

 なんだかちょっと、くすぐったい気持ちになる。

 相手の肌に触れたい気持ちが湧いたことには気付かないフリをして、二人でテレビを眺めて(・・・)いると、朝にはパンをお勧めするという旨の歌詞が、軽快なメロディに乗ってテレビから流れてきた。大手食品メーカーのCMだ。

「そういえば、朝ごはん食べる派?」

「食べたり食べなかったり派」

「パン派? ご飯派?」

「パンでもご飯でも嬉しい派」

「曖昧な派閥だなぁ……」

「ひなに合わせるよ。あったら食べたいし、なければ食べないし」

「じゃあ、明日から朝ごはん食べる派で」

「えっ、作ってくれるの」

「うん。いつも朝食べてるから。簡単なのだけどいい?」

「もちろん!」

「いつも何時に家出るの?」

「フレックスだから何時でもいいんだけど、起きるのは大体7時くらいかな」

 その時間なら、食べてからでも出勤に間に合う。

「了解しました」

「えー、楽しみ」

「がんばります」

 多大な期待に副えるかどうかわからないが、楽しみにしてもらえるのは悪くない。

 テレビに映る番組のタイトルが切り替わった。時刻は22時。寝るにはまだ早いが、昼間の疲れも出ているからそろそろ休みたいな、という感じ。

「部屋、戻ろうかな」

「そうだね。俺ももう寝るよ」

 テレビを消して、立ち上がる。

「なにか困ったことがあったら、夜中でもいいから部屋来てね」

「うん、ありがとう」

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」

 食事の帰りに駅で別れ、自宅に帰るときとは全く別の感情が二人に降りかかる。新婚初夜なのに家庭内別居をしているようだ。

 ひぃなが自室のドアを開け、電気を点ける。

 リビングの照明が消え、背後でドアが閉まる音がする。その音は攷斗が自室へ移動した合図のように聞こえた。

 そっと振り返ってみるが、そこに攷斗はもういない。

 当たり前のことなのに、寂しく感じてしまう。

(ドラマじゃあるまいし……)

 電気が消えドアが開閉したあともそこに攷斗がいて、溢れ出る感情に身を任せ駆け寄る攷斗に抱き締められたいとでもいうのか。

 都合のいい自分の妄想に苦笑しながら自室に入って、大きく深呼吸した。

 長いような短いような、時間の経過が体感に伴わない一日だった。

 ベッドに寝転がりながらまだ見慣れない天井を眺めていると、新しい家での生活が始まる実感がじわじわとわいてくる。

 はっと思い出して、クロゼットに入れたジーンズのポケットから合鍵を取り出した。

「あぶない」

 これがないと、ちょっと外出しただけでも閉め出されてしまう。

 一緒にしまっていたバッグからキーケースを取り出し、カチリと新しい鍵を装着する。

「結婚……かっこかり、か……」

 攷斗から言われたその言葉は、プロポーズではなく提案だ。

 気持ちが通じ合って、というのではない。ただ、利害が一致しただけ。

 それだけなのだ、と自分に言い聞かせる。でないと、いまこの部屋に一人でいることが寂しくなってしまう。

 素直な気持ちを言えないままモダモダ過ごしたら、どのくらいの月日が経つのだろう。また、他に好きな人が出来たと一方的に告げられ、別居しなければいけなくなるのだろうか。

 元婚約者を引きずっているわけじゃない。攷斗にそれを言われたら、本当に人生が立ち行かなくなりそうな気がしているのだ。

 だから、白黒はっきりつけずに二人で会って、二人の時間を過ごせる関係を保っていたかった。

 一方的に好きなだけでは、気持ちを伝えた段階でその関係性を維持出来なくなってしまう。

 なのに、差し伸べられた手を取ってしまった。

 果たしてそれは、正解だったのだろうか。

 もう放したくないそのぬくもり。繋がっているのか確信が持てない心。

 何度否定されても、自分の都合を押し付けたのではと、優しい攷斗が自分の境遇に見かねたのではないかと、疑心暗鬼になってしまう。

 いつかこのモヤが晴れる日が来るだろうか。気持ちが通じ合ったと安心出来る日が……。

 なんだかどんどん暗い気持ちになってきたので、明日の朝の献立を決めることにした。

 スーパーで食材を選んだときに併せて買った自分の朝食用と常備食材の中で組み合わせを考える。

 パンと何かしらの卵料理とハムかソーセージかベーコンか、とにかく加工肉食品を焼いたもの。あと粉末のスープ。

 本当に簡単なものになりそうだ。

(それでも喜んでくれるんだろうなー)

 ニコニコと朝食をほおばる攷斗の顔が目に浮かぶ。

 ふふっと笑って、スマホのアラームをセットした。

 ドキドキして眠れないかもと思ったが、昼間の疲れも相まって、その心配は杞憂に終わった。



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