かのはらから、いと怪しきこと
今は昔、帝に女御更衣数多さぶらいたまいける頃――。
そんな数多の女御更衣の中で、帝の寵愛を我が物とする一人の女がいた。雷鳴の壺の更衣。摂関家と縁の深い藤原北家のとある流れを汲む家の出身で、今は亡き先の大納言の妹、そして現在の権大納言の姉である。更衣は自分の子供というものをその腕に抱いたことは未だになかったが、自分の子供であるかのように大切に大切に、大事にしている甥や姪達がいた。そんな彼らは皆、宮中で人気を博していて……。
○
「更衣様が私を?」
本日の勤務を終え、左兵衛府の外へ出てきた左兵衛佐兼俊は待ち構えていた人物に呼び止められた。告げられた内容に彼はすっとんきょうな声をあげる。
「ああ、そうだ」
相手は頷く。兼俊を呼び止めたのは中納言業久だ。
雷鳴の壺の更衣の甥であり、整った顔に加えて瑪瑙のような美しい瞳とすらりとした長身が宮中の女官や女房達を惹き付け、そして牛飼童や小舎人童の憧れとなっていた。神仏や極楽浄土の存在を信じない当時としては随分と風変わりな面も、いと奇しだと言って注目される原因の一つである。しかし当の業久は心に決めた妹一筋であり他の女人には一切関心を示していない。
赤い地に雲居の満月が描かれた檜扇を弄びながら業久は兼俊を見ている。
「わ、私なんかが更衣様にお会いするなんてそんなそんな」
兼俊は直衣の袖を振り振り、首を横に振り振り、動揺を隠しきれない。
「常日頃から右兵衛佐と共に梅壺に出入りしているではないか」
「梅壺の更衣様は親友の姉上様ですし……」
兼俊の親友右兵衛佐定真の姉は梅壺の更衣であり、姉を訪ねる定真に便乗する形で兼俊もしばしば顔を合わせていた。しかし、梅壺の更衣と雷鳴壺の更衣では兼俊との関係性が違い過ぎる。
ぶんぶんと首を振る兼俊を眺めながら、業久は溜息を吐いた。檜扇が畳まれ、薄っすらと嘲笑に似た形を浮かべている口元に添えられる。
「されど、更衣様のお誘いを断るのは無礼なのではないか」
「そう、ですが……。でも、えっと、私なんかに更衣様はどのような御用なのでしょうか」
業久は再び溜息を吐いた。今度は先程よりも大きく深い。整った顔には「面倒臭い」と大きく書かれているようだった。
「知らぬ。そもそも何故私がわざわざ左兵衛府まで出向いて言伝てを告げねばならないのだ。斯様な雑務宣忠に任せればよいものを」
従兄弟である頭左大弁宣忠に対して業久はやや厳しく当たる。仲はすこぶるよいのだが、真面目でおとなしい業久にとって陽気で元気な宣忠は少し五月蠅い存在なのかもしれない。「アホぅアホぅ」と扇で宣忠を叩いているところを兼俊も何度か見ていた。
機嫌の悪そうな業久が兼俊を睨みつける。
「して、行くのか行かないのか」
後の世ではシスコンと言われるほどに妹をこよなく愛する兼俊は、妹との用事があれば梃子でも動かない。しかし、今日は特に用事はなかった。
「い、いい、行きます!」
威圧感に押されながら答える兼俊を見て業久は満足そうに、愉快そうに、嘲笑を浮かべた。
襲芳舎、通称雷鳴の壺。後宮の七殿五舎の中で、光源氏の母親が主とされた淑景舎(桐壺)と並んで最も奥に位置している。
兼俊が簀子縁に踏み入ると、待ち構えていた一人の女房に出迎えられた。見るからにまだ年若く、宮仕えを始めたのはつい最近ではないだろうかと思えた。初対面の男を前にして、彼女は緊張も警戒もなく、そして、素顔を晒していた。さらに扇を手にしてすらいない。
桔梗の襲色目が美しい小袿姿の少女はまじまじと兼俊を見た。足下から頭のてっぺんまでまんべんなく見て、ふふんっ、と笑う。
「貴方が左兵衛佐?」
「いかにも」
「兄上様から聞いていた通り、人の良さそうな方ですわね」
兄上様、と語る少女の顔は恍惚そうで頬が紅潮していた。今にもとろけてしまいそうだ。
「わたくしは中納言業久の妹ですわ。十四夜とお呼び下さいな、左兵衛佐様」
こんなにすぐに来てくださるとは、さすが兄上様お声掛けがお早い。と言いながら十四夜は赤く染まる頬を押さえる。兼俊はシスコンだが、彼女はブラコンであった。宮中の視線を集める兄は素晴らしい人物であり、言い寄ってくる女房達は兄の素晴らしさの顕れである。届く手紙も兄の素晴らしさを更に高めてくれるものだ。方向性は違えど、彼女もまた同胞に強すぎる想いを向けている人間であった。
自分のことを棚に上げながら「少し危ない子だなあ」と十四夜を見る兼俊は呆れ顔だ。
「左兵衛佐様、さあ、こちらへどうぞ」
十四夜に案内されて兼俊は雷鳴の壺の中へ入る。指し示された円座に座ると、十四夜がすぐ後ろに控えた。
「更衣様、左兵衛佐様をお連れしましたわ」
「ありがとう十四夜」
几帳の向こう側から大人の女性の声がする。兼俊が初めて耳にするこの声こそが雷鳴の壺の更衣の声だった。本人は姿を見せないつもりのようだ。
兼俊は姿勢を正す。帝の寵愛を我が物とする更衣を目の前にして、この上ないほどに緊張していた。目を回して倒れそうになりながらも、几帳の向こう側をじっと見つめて堪える。
「左兵衛佐」
「はっ、はいぃ」
「昨年の夏に不可思議なものに出会ったそうね」
昨年、宮中のみならず庶民の間でも、山が光る「山明かり」という怪異が話題になっていた。最初は街の人々の小さな噂にすぎなかった。しかし、業久と十四夜の間である先の大納言の三男・式部大輔が目撃したことで宮中にも一気に噂が広がったのである。次兄と違い神仏に熱心な式部大輔が言い出したので、多くの者が信じて疑わなかった。
兼俊はその怪異に巻き込まれたのだ。しかしそれはまた別の話。
更衣の質問に、兼俊は頷いた。
「はい。人々を騒がせていた山明かりに」
几帳の向こうから笑い声が漏れ聞こえる。
「いいわ。いいわね」
それだけ言うと、更衣は黙ってしまった。そして、衣擦れの音がした。兼俊の前から立ち去ってしまったようである。会話が中途半端になってしまったように感じられて、兼俊はぽかんとして十四夜を振り向いた。
「終わり?」
「終わりですわね」
十四夜がにこりと笑う。
「叔母上はきまぐれな方ですので、左兵衛佐様が山明かりに出会ったことを確認されたら、もう飽きてしまわれたのでしょう」
「あなや……」
「おそらく貴方に会うことだけが目的だったのでしょう。……叔母上はもののけの類を感じ取るお力をお持ちです。貴方自身がもののけではないかと疑われていたのでは?」
実際に持っているのかどうなのか、それは兼俊には分からない。しかし、十四夜の語るその力は千年後の世では霊感と呼ばれているものである。
山明かりに遭遇してから宮中で注目されていた兼俊のことを気になっていたのだろうと十四夜は言う。
「まあ、本当にもののけであれば兄上様が気が付くはずですが……」
じゃあ帰ろうかなと立ち上がった兼俊の耳には、十四夜の呟きは聞こえていなかった。
雷鳴の壺を後にした兼俊は、内裏の門のところに小さな子供が立っているのを見付けた。どこかの牛飼童だろうか。
紫苑色の水干姿で角髪を結っている。夜の闇のように深い漆黒の瞳が兼俊を捉えた。目を合わせていると、漆黒に吸い込まれてしまいそうだ。覚えてしまった小さな恐怖を振り払い、兼俊は童に歩み寄る。
「やあ」
「こんにちは」
「主はどこだい。迷子かな」
訊ねると、童は首を横に振った。
「いえ、違うのです。迷ってなどいません。わたしはただ、人を観察していただけなのです」
「変わった趣味だね」
「……観察していれば人の子を学ぶことができますから」
「変わった子だね……。では、私はこれで。妹が屋敷で待っているから」
迷子でないのであれば大丈夫だろう。兼俊は小さく手を振って内裏を出る。急いで帰って、妹をこの腕に抱きしめたい。しかし、その歩みは数歩で止まってしまった。直衣の袂を思い切り引っ張られたのだ。驚いて振り返った兼俊の目に映ったのは袂を掴む童の姿だった。小さなその体から出るとは思えない力で兼俊のことを引っ張っている。
兼俊は、ふと、親友の定真が語っていたことを思いだした。昨年の秋頃、宣忠に連れられて紅葉を見に行った際に紫苑色の水干を着たおかしな童に出会ったそうだ。幼いのに、長い時を見てきたかのように話すおかしな子供であったと。それもまた別の話なのだが。
童は少し潤んだ瞳で兼俊を見つめていた。
「ひ、一人にしないでください。ようやく頼れそうな方を見付けたのに」
ぐいぐいと兼俊を引き寄せて、童はじっと見上げる。
「幾人かがここを通って行きましたが、いずれもわたしのことを主を待つ牛飼童だと思って素通りして行くのです。迷子かな、と心配して声をかけてくださったのは貴方が初めてです」
「やっぱり迷子なの」
童は首を横に振る。
「違います。迷子になったのは連れの方なのです」
連れ。という言葉に兼俊は疑問を抱く。一緒にいたのは主である貴族ではないのだろうか。
じっくりと見てみると、使用人が着るには質の良すぎる水干だった。どこかの貴族が内裏の見学だと言って連れてきた息子かもしれない。幼いながらに整った顔の童を見て兼俊は考える。しかし、父のことを連れと言うだろうか。
兼俊は屈んで童に目線を合わせる。そして無言で見つめていると、小さな手で額を叩かれた。
「いてていてて」
「そのようにじろじろ見ないでください。……あの、連れが来るまで一緒にいてもいいですか」
拒否はさせない、と言うように童は兼俊の袂を更に強く掴んだ。仕方ないか……と溜息をつく兼俊を見て、童は満足そうに笑みを浮かべた。
内裏の近くでしばらく待っていたが、酉の刻になり次第に日が暮れてきた。行き来する貴族や使用人達に不審な目で何度か見られたが、童の連れは現れる気配が全くない。
「来ないね」
「……わたしは見捨てられたのでしょうか」
これ以上遅くなると、残業になったという言い訳が通用しなくなる。暗くなっていく空を見上げながら兼俊は妹の顔を思い浮かべた。きっと家で待っているはずだ、と顔をだらしなく歪めながら。当の妹・宗子は兼俊が書いた物語を読んで女房と過ごしており、帰ってこない兄のことなど特に気にしていないのだが……。
まだ十になっているかいないかという幼い姿と不釣り合いな落ち着き方をしていた童だったが、時間が経つにつれて不安になってきたようだった。兼俊の袂を掴む手が小さく震える。
「左兵衛佐様、もう少しお付き合いいただいてもよろしいでしょうか」
「あと少しだよ」
兼俊を見上げて、童はふふんと笑った。自信たっぷりに頷く。
「逢魔が時です、わたしと一緒にいた方がいいですよ。都の中心部にも鬼は現れますからね」
「君といれば大丈夫だというのかい」
「ええ、そうです」
深い深い漆黒の瞳が兼俊を見据える。定真が出会った不可思議な童とこの童は同一人物なのだろうか。人間離れしている不可思議な童。兼俊は童の頭を撫でる。
「君は……君自身が、もののけの類なのではないかな?」
童は答えなかった。「鬼が来てもどうにかしますから」と言っただけで、質問には答えない。
鬼はもののけの中でも特に危険な存在である。二十年ほど前に、酒呑童子と呼ばれる鬼が退治された話は有名なものだ。当時片手で数えられるほどの年であった兼俊は詳しいことは覚えていない。元服した頃にようやくことの詳細を知ったのだ。数多の人々を手にかける恐ろしい鬼の話を聞いて、若き日の兼俊は震えあがった。
その恐ろしい鬼から兼俊のことを守ると童は言った。不安そうだった表情が凛々しい物に変わっていた。
「左兵衛佐様は怖くありませんか」
「私は怪異に巻き込まれたことがあってね。怖いけれど、他の貴公子達よりも平気な自信があるよ」
「巻き込まれた?」
袂を掴む童の手を振り解き、手で握り直す。
道行く人々を軽く目で追いつつ、兼俊は自分が出会った怪異を語り始めた。妹に聞かせた時のように、あの時の情景を思い出しながら語る。
そして、兼俊は語り終えた。すると童は両手で兼俊の手を握った。
「素敵なお話ありがとございました、左兵衛佐様。このようなお話は他にもあるのですか?」
「妹にせがまれるから、考えたり、する……」
「左兵衛佐様の紡がれる物語を読むことができて妹様は幸せですね」
「あ、ありがとう。そんなに感激されると思わなかったよ」
見た目の年相応の笑顔を見せる童につられて兼俊も笑う。
「やっと見付けた」
そこへ、狩衣姿の青年が姿を現した。年の頃は兼俊と同じくらいだろうか。月明かりの下で鬼火に似た青白い色の瞳が揺れていた。そして、化粧と思われる黒い線が目尻に引かれていた。
青年を見た二人の反応はそれぞれだった。ありえない色の目をした青年の登場に兼俊は小さな悲鳴を上げ、童は喜びの声を上げた。
「お待ちしておりました! もう、どこへ行っていたのですか」
「此方の台詞だよ。どこへ行っていたんだ。先に帰っているかと思ったらいないし……」
彼が童の連れだろうか。青年は兼俊に頭を下げる。
「世話になったようだな、ありがとう」
「貴殿がこの子の?」
「ああ。ほら、行こうか」
青年に手を引かれて、童は兼俊から離れた。「素敵なお話、これからも妹様に紡いであげてくださいね」と言い残して。
不可思議な二人が宵闇に消えるのを見送り、兼俊は妹の待つ家を目指して歩き始める。歩き始めたはずだった。
左兵衛佐様ですね、と声をかけられたのだ。立ち止まり、周囲を見回す。すると、直衣姿の貴公子が一人暗闇に立っていた。またもののけだろうか、と兼俊は警戒する。しかし、貴公子はにこにこと笑顔のまま近付いてきたのだ。威嚇されていることなど全く気にしていないようである。
すぐ目の前に来て、貴公子は一礼した。
「こんばんは。僕は式部大輔です。兄から貴方の話は聞いております」
「どうして私だと」
「もしかしたらそうかなと思って訊いてみたんですが本人でしたか! いやあ、もののけじみた人と一緒にいたので、あの夏の左兵衛佐様かと思いまして」
式部大輔義頼は兼俊に体を近付ける。
「先程の方々はもののけですか? それとも神仏のお遣いですか? 稲荷社から慌てて飛び出してきた貴公子がいたので追い駆けたらここに着きましてね」
早口でまくしたてるようにしながら、義頼は兼俊に迫る。
「あのっ、あのっ、いいですか? 先程の貴公子と童は一体?」
「早く帰りたいんだけど」
「左兵衛佐様、どうか、どうかお話を!」
○
雷鳴の壺の更衣の甥はあてなるをのこであり、姪はきよらなおなごであった。麗しい容姿に加えて、家も人々を惹きつける要因だ。しかし、そんな彼らは皆それぞれに風変わりな一面を持っていた。
妹を愛し物語を紡ぐ左兵衛佐兼俊。問題児兄妹の三番目に目を点けられた彼が屋敷に帰還し妹の元へ辿り着くのは亥の刻も過ぎようかという頃になるのだが、少しくらいは付き合ってあげようかなどと考えている今の彼は知る由もない。