私なりの「レベルが低い」論(?)
この度、とある方が書かれたエッセイにおいて扱っておられました「レベルが低い」ということに関して一席ぶってみたいと思い、筆(?)をとりました。
さて、皆様このレベルというものに対して様々な意見をお持ちです、まあ当然ですね。
で、私もこれに関して思うところがありまして、「小説家になろう(以下なろう、と略)においてレベルが高い、低いとはどういうことか」について、ちと自身の意見をあげてみたいと思ったわけです。
レベルが低い、さてこれはどういうことか。
元になりましたエッセイとしましては、「なろうの読者はレベルが低い、故にレベルが低い連中が好むなろうは駄作が多い」という感じの論調があるよ、というところから始まってます。
そういうものの言い方をしている人たちは相対的なものの見方をしているようですね。
曰く、なろうの読者はレベルが低い、そう見ぬける私はレベルが高い、そういう見方。
まあなろう読者のある程度の割合の人たちを馬鹿にしている、というかしたい、そういう意図があるんでしょうか。
馬鹿、頭が軽い、まあそんな言い方ですよね、民度が低い、も最近では同じ使われ方ですか。
そうなると、彼らが言いたい「馬鹿」とは何ぞや、というところから考えた方が良いのでしょう。
馬鹿、という言葉の意味合いとしては、大辞林からの引用として
1 知能の働きがにぶい・こと(さま)。そのような人をもいう。
2 道理・常識からはずれていること。常軌を逸していること。また、そのさま。
3 程度が並はずれているさま。度はずれているさま。
4 役に立たないさま。機能を果たさないさま。
5 特定の物事に熱中するあまり、社会常識などに欠けること。
6 名詞・形容動詞・形容詞の上に付いて、接頭語的に用い、度はずれているさまの意を表す。
というものであるそうです。
今回語るべき「馬鹿」は1と5というところでしょうかね。
この場合1については「分かりやすく」また「分かり辛い」とも言えるのでは、と考えます。
というのも、知能の働きが鈍い、となりますとそもそも小説は読まんのではないでしょうかね。
文章を楽しむ、となると、文章からその情景を想像し、脳内での映像化をする、というんですかね、そう言うのを楽しむとか、登場人物の心情に共感し、その心の内を感じるとか、まあそういった作業が必要になるかと思うのです。
その際に必要なのは様々な知識だと思うわけです。
実体験ですが、かつて私はTRPGという遊びをやっておりました。
私のプロフィールを見ればわかるかと思いますが、当方なろうのなかではそこそこ年かさであります。
で、TRPGに最初に触れた時期は、インターネットもなく、新紀元社の「Truth In Fantasy」のような解説本も出ていない時代だったのですな。
それでですね、私の買ったゲームはファンタジーものでして、武器の項目に「ロングソード」「ブロードソード」と書いてあったんです。
ロングソードは分かりました、「ロング」+「ソード」ですからいわゆる長剣のことだろうと。
その数年前に西洋騎士がチャンバラするアニメをやってましたんであれのことだろう、と推測できましたね、間違えて「両手剣」のことだと思ってましたけど。
で、どんな剣か分かりませんでしたんでまずは英語辞典で「ブロード」を調べますと幅広、と出てきました。
問題はその先で、「ブロードソード=段平」と出てきたわけですよ。
まあ、さらに混乱しますわね、更にわけわからん言葉が出てきたんですから。
で、今度は「段平」国語辞典やらを調べましたら、幅の広い刀と出てきたわけですよ。
そう、刀。
私はここからブロードソードを中国刀、いわゆる柳葉刀と勘違いしたわけです。
それが知識のない仲間内だけだったらともかく、後々きちんと知っている方に出会って赤っ恥をかいたのは良い思い出です。
まあ、何が言いたいかと言いますと、小説などに限らず、共通認識、というのは大事なのです。
小説を書く側と読む側、双方が知っていないといけないこと、それが多ければその部分は文字数をかけることなくさらりと流してしまえます。
昨今の場合、「トラックにはねられて死んだけど、それは神さまの手違いだった、お詫びにチートをもらって異世界に転生した」というのがありますわな。
これの場合、神さまの定義(大概の場合世界の管理者、という立場の高位存在)、チート(すっごい特殊能力、本来の意味の騙す、卑怯という意味合いは薄い)、異世界転生、などの概念を感覚的にしろ理解していないことには読むのが面倒なことになるでしょう。
古い世代の異世界転生ものが序盤において数回に渡って神と対話し、特殊能力をもらうところに文字数を割いているのはこういった「共通基盤」がまだ成立していなかったときの名残なのではないかな、と思っているんですがどうでしょうか。
で、1の馬鹿、知能の働きが鈍い、それを以ってレベルが低い、とする場合なのですが、この場合、文章が冗長になるものが多いでしょう。
なにせ知能が低い、のですから理解能力も低いでしょうし、持っている知識も少ないでしょう。
そういう人に対応した小説、となると、一つ一つの事象を懇切丁寧に書き、しかるにそれを読者に飽きさせない技量をもった人が書いたもの、ということになります。
…なろうにそんな奴どれだけいるねん。
事細かに説明を入れるのは出来ますでしょうが、それを知能の低い、集中力がない連中に大喜びで読ませるような、そんな文章力のある方は無料で読ませるようなサイトにいてはむしろいかんのではないですかね。
活字離れが叫ばれている昨今、さっさと商業的作家活動に移行していただければ、出版業界教育界も大喜びで世のためなんではないかな、などと思うわけです。
そう考えると、頭の軽い馬鹿、知能が低い馬鹿という1をレベルが低い人たちと定義するのは少なくともなろうでは筋違いではないかと。
小説を読むくらいならダイレクトで視覚情報が得られるマンガや映画、テレビドラマなどの映像媒体がありますし、そっちの方に流れるでしょうね、そういった方々は。
という訳で私の結論としては「なろうにおいては知能が低い≠レベルが低い」という感じになりますかね。
させて5の場合ですといわゆるオタク的、というのでしょうか、
オタクとは何ぞや、ということですが、まあ、マニアの蔑称ですかね。
元は昭和40年代から50年代くらいにいろんなジャンル(ここポイント)のマニアが「お宅」という二人称を使い始めたのが始まりで、50年代の中ぐらいだったかに当時コラムニストであったアイドル評論家の中森明夫さんがロリコン雑誌上で今でいうアニヲタを揶揄して使ったのがはじまり。
この時のイメージから、オタク=悪いイメージのマニアというのが方向づけられ、その悪いイメージが若干払しょくされながら今に至る、というところです。
己の趣味嗜好に偏ったものを至上とするためにその他を否定する人たちということでまあ間違いないかと。
で、この場合ですと見方によってはレベルが低い、と見ることもできる状態になるのではないかと思います。
なろうにおける月間ランキングをざらっと見てみますとハイファンタジーが上位を占め(ローファンタジーがほんの少し入る感じでしょうか)てます。
それらを読んでみると敵である魔族がどのような存在であるとか、人々の生活風俗がどうなっているとか、そういった情報は、まああんまり入っておりません。
つまりはそれらは作者と読者の間では共通認識となっている、ということでしょう。
小さな情報かもしれませんが、それらとて数が多くなればかなりのものになります。
なにせ異世界の話ですから。
現代日本の話ならば「民家がある」と書けばまあある程度は想像できますでしょう、周囲を見回せばいくらでもあるものですから。
しかし、ファンタジーの世界の家、さてどんなものでしょうかね。
木造のバラック? 石造りのがっしりしたもの? 煉瓦造りかも?
こういった情報を作者は話を進めながら読者に直接・間接的にイメージを提供し、読者はそれを元に物語の舞台をイメージするわけですが、ここで作者読者に共通の認識があると「家」だけで読者がイメージできるわけです。
こういった己の好きな分野の共通認識部分を増やした人たちを読者として作者が小説を書いていくと、その分野の知識の少ない人たちにとっては甚だ困ることになります。
例えば、ファンタジーの常識を知らん若かりし頃の私が「山賊に襲われている、お姫様を乗せた馬車を発見した主人公がさっそうと助けに入る」文章を読んで想像すると。
西洋風のプリンセスラインのスカート(ディズニーのお姫様風)を身に付けた金髪の女の子が牛車のようなものに乗っているところに和弓で射かける小汚い恰好をした山賊と直剣を持った山賊(足軽風の胴鎧装備)、ヒーローは柳葉刀を構えて突進していく図柄になります。
…なんか違いますよね。
普段からコルセットとかつけとるのは今のなろうファンタジーのヒロインにはイメージには合わんでしょうし、馬車と牛車は作りも違いますし、和弓なんて高等なもんを下っ端山賊は持っていないはず。
山賊の親分はたぶん皮を加工したハードレザーアーマーあたりでしょうし、主人公は直剣か日本刀といったところでしょう。
少なくともレベルが低い、といわれるほどなろうの読者は知識が少なくないはずです。
しかるになろう上位に挙がるような作品の読者はレベルが低いといわれる。
それは視点が違うからではないかと思うんですよ。
アニメマニア、例えばガノタ(ガンダムの熱狂的ファン)の作品語りをガンダムに全く興味のない人間が聞いたとしたら、「…きしょ」で終わりかと思われます。
同様に前出の中森明夫さんが色々こじれまくったアイドル論(これがまたひねてて面白いんだが)をガノタにしたとしたら、やはり「イイ年した奴が何言ってんだか」となると思われます。
オタクとは「特定の物事に熱中するあまり、社会常識などに欠ける」馬鹿であると規定しましたが、物事に熱中するあまり、周囲への配慮、自分と考え方の違う人間がいるという社会常識を忘れ、自分と趣味嗜好が決めつけてコミュニケーションを取ろうとする。
その結果として理解できない専門用語(のように聞こえる言葉)、逆に相手側のの話を理解しない態度、結果として相手側は話し手の理解を廃棄するわけですな。
「レベルが低いから仕方がない」と。
つまり、レベルが低い、という言葉は「お互いの」理解の放棄から生まれる状態、といえるんではないでしょうか。
これはかなり危険なことかと。
そもそもレベルが低い、というのならばレベルが高い、知性が高いと嘯く人たちが相手を引き上げる努力をすべきでしょうな。
だってその人たちは知性が高いというのだから、知性が低いとみなしている人たちの考えを理解できるはずです、レベルが高い、つまりは上位互換なんだから。
相手が理解できる平易な言葉に概念を読み変え、理解しやすい状態にすることができるのが「レベルが高い」状態です。
言ってしまえば凡人と秀才の違いですかね。
私見、持論なんですが、天才と秀才の差って「発想の違い」だと思うんですよ。
天才はだれも思いつかない理論を作り上げることができ、秀才は理論を作り出すことはできないけれどその理論を世の中で普及させる事ができるまでに落とし込むことができる。
この場合の秀才は凡人の上位互換であり、凡人が天才の理論を使いこなすことができるようにすることができる存在なわけです。
それができない場合、その人物は「レベルが高くない」、つまりはレベルが低い、とみなされることになってしまいます。
ただ専門分野が違う、というだけで。
まあそれも仕方ありません、相手をレベルが低い、という意味で切り捨てるのですから。
お互いが全く違う方向を見ながら「レベルが低い」と罵りあっている状況が今の「レベルが低い」という言葉の状況かなあ。
と、考えてみてなんかこれに近いことを論じている本があったなあ、と思い出しました。
養老孟司氏の「バカの壁」です。
これ自体は面白くもある一方、思考停止を助長した悪書でもあると思ってます。
理解できない相手を、自分自身を正しいと思い込むことで相手が馬鹿だからしょうがない、と決めつけることで思考停止する、それがバカの壁である、と言う感じの論調です。
個人個人の「正義」ではなく、普遍的な「常識」によってのみお互いが手を取って生きていける、と言うのが結論だったかな。
まあレベルが低い高いで罵りあう人の場合、「それが常識だろ」「みんながこう言ってんだよ」という「自己のコミュニティの中だけの常識」すなわち「正義」を振りかざすんでどうにも。
さて、皆様、以上が私の「レベルが低い」に関する持論です。
皆様はどう感じられたでしょうか。
無論、こんなん全く違う、という方もいらっしゃるでしょう。
そう言った方はぜひ自分なりの「レベルが低い」論を展開していただきたいですね。
そうすることでエッセイ部門も盛り上がるでしょうし。
ただ、それをするなれば是非、言葉を短絡的に使わないでください。
もちろん文章を短く、端的にまとめることができるなら最上です。
しかし、端的にした結果、読者にその思いや意味が伝わらなければ誤解、曲解の原因となります。
エッセイってそういう誤解による意見の曲解が多いような気がしますんでお気をつけて。
以上を持ちまして私の持論展開を終了させていただきます。
お読み頂きありがとうございました。