読逍遥《しおりなければよみとまれぬ》
ぼくの話をしてもいいかな、嫌だと言われてもするのだけども。ぼくはまぁなんというか面白みのない人間で、趣味を訊ねられたとき、読書と散歩としか答えられないくらいつまらないやつなのだ。
そう自覚はしているが、それはあくまでも客観的な立場になったときの話で、ぼく自身としては、それさえできていれば、もう満ちに満ち、足りに足りた人生なのだ。
だから今日もぼくは人生を満たすため、よむ、あるく、読む、歩く。人と少し違うところは、読書と散歩を同時に行う点、つまりぼくは、読み歩く。
朝目覚めて布団のなかでもぞもぞと本を読み、疲れてくると本を読みながら居間に移る。空腹を覚えると台所で料理をしながら本を読み、排泄感を催せばトイレで本を読み、気分転換に押入れの薄闇で、浴槽で本をビショビショにしながら、それをベランダで乾かしながら読み、それにも飽きたら昼夜問わず外に出る。快晴であればジョギングをしながら上下に揺れる文字を読み、雨天ならば傘を差して雨露を防ぎながら、夜は街灯と星明かりを頼りに文字を追い、曇天の暗夜はペンライトを片手に読み歩く。片時も目を離さず文字を追っている所為で、いつの間にか電車やバスに乗って見ず知らずの土地にいることもあるが、そのような状況に陥っても、現実一切構わずに文字を追って歩いていれば、不思議や不思議、必ず家まで戻っている。
そんなふうに常に本を読んで生活をしているぼくにも、天敵といえる存在がいて、彼女は様々な手段を駆使して本を閉じさせようと画策している。たとえば、パンを食べながら本を読んでいると、トースターをそっと近づけ、本を焼こうとし、シャワーを浴びながら読んでいると、足もとに石鹸を設置し、転倒を企て、外を歩いているときには、突如として物陰から現れて驚かせるという古典的な方法を試みる。しかし、そのすべてをぼくは飄々とやり過ごすので、たいていの場合、本を強引に閉じさせるという力技に出る。そのときばかりは、ぼくも必死に抵抗しなければならない。たとえそれが人波立った街中であろうとも彼女は容赦を決してしない。表裏の表紙を押しつ押されつ取っ組み合い、行きつ戻りつページを捲り、組んず解れつ大立ち回り、その多くの結末は、頑なに本を手放さないぼくに彼女が折れる形になる。
彼女が諦めたのを確認し、ぼくは安心して読書に没頭する。彼女はうらめしそうな様子で辺りをうろつき、肩をぶつけてきたり、脛めがけて小蹴りをしたりして八つ当たりを繰り返す。それら物理的な妨害も、文字を追っているぼくには他人事のようにとどかない。
ぼくは紙面に印字されたインクの海に潜行し、内側に満ちる活字の順列で呼吸をする。視界は常に黒いので不鮮明で不明瞭、不可解で奇怪、自分が目を開けているのか閉じているのか、それすらも判然としない。ただなにかを追うようにして、前に前に、ひたすらに進んでいる。時折、眼前をよぎる光で思い出したかのように海上へと顔をのぞかせると、深緑芽吹きの田園でカカシのように突っ立って、青空に浮かぶ白い雲を数える、渋谷のスクランブル交差点で立ち往生して、行き交う人々を数える、月明かりだけを頼りに暗い森林を行き、転がる頭蓋を足台に、荒波うつ断崖の縁を跳び、足もとにひろがる暗夜を数える。
一夜にして立ち昇る飛沫で物書きを忘れ、二夜で滄海に溺れる夢を見る、三夜目の布団のなかで読書をしていると、ふと思い立ったぼくは、隣で横になっている彼女に「いい加減、かんべんしてくださいよ」と言ってみた。スマホでパズルゲームをしていた彼女は「いやです」と返答し、「よし、6連鎖」と小さくガッツポーズをした。良い返答を期待していたわけでもなかったので、ぼくはそのまま読書を続けた。
翌朝、スズメの声が聞こえはじめ、やけに読書が進んだなと思っていると、そういえば夜間、一度も彼女の茶々入れを受けていないことに気が付いた。普段ならば、寝相の悪さを巧みに利用した打撃や、深夜に設定されたアラーム攻撃があるはずなのに。
少し気になったので本から顔を上げ、辺りを見回す。どうやらまた知らぬ間に外に出ていたようで、ぼくは近所の公園のベンチに座っていた。滑り台やブランコには小学校の低学年くらいの子どもらがわちゃわちゃと遊んでおり、時計台で時間を確認すると午後の4時を回ったところであった。彼女は子どものなかに潜んで機をうかがっているのではと予測し、動き回る子どもらを観察したのだが、その姿は見られなかった。読書をしていればまた出て来るだろう。そう思って本に目を戻そうとすると、すぐそばにあった植木の枝が一本折れかかっているのが目に入った。なにやら妙な胸騒ぎに襲われはしたが、深くは考えないで読書を再開した。
次に本から顔を上げると、ぼくは車の後部座席にいた。外を見ると暗闇で、時折遠くに民家の明かりが見えるだけで、他に景色らしきものはなかった。正面に向き直り、運転手の様子をうかがう。もしかしたらその人は彼女ではないかと軽く期待したのだが、運転していたのは壮年の男性だった。
「どうしました?」
急に運転手に訊ねられ、ぼくが、あ、う、と言葉に窮していると、
「大丈夫ですよ、もうすぐつきますから」
とややこちらを振り返りながらそう言った。過ぎ去る街灯に一瞬間照らされた横顔の鼻梁は、なにかで抉られたかのような不自然なカーブを描いており、ぼくは逃げるようにして手元の本に目を落とす。視界の隅にある折れ曲がったサイドミラーがしばらく脳裏に残っていて気持ち悪かった。
そしてどうにも息苦しいので本から顔を上げると、ぼくは走っていて、なにやら背後にはぼくを追っているものがいるようだった。これは彼女だろうと後ろを見ると、見知らぬ女性が険しい顔で接近してきていたので、ぼくは全力で逃げた。なにか悪いことでもしてしまったのだろうかと、あれこれ考えてみたものの、思い当たる節はなかった。それよりも日頃の運動不足がたたってか、体力も限界に近かったので、ぼくは曲がり角を素早く曲がり、手前にある電柱の陰に身を隠して女性をやり過ごすことにした。
ぼくが身を潜めた数秒後に女性が角を折れてきたが、そのときぼくはもう読書に夢中になっていたので、互いに互いを認め合うことなく終わった。彼女が落としていった紙切れにもぼくは気付かなかった。
しかし、邪魔の入らない読書というものは、なんとも滑らかに進行するものだと思った。思い返せば同じ本を何年も読んでおり、ページ通りに読むのも飽きてきたので、適当に開いたところの文章をアトランダムに読んだ。そうなってくると、もう本に書かれていることなどまったく頭に入ってこず、言葉なんてものは意味をなさない記号になっていた。このまま読んでいてもなんの意味もないことにようやく思い至り、ぼくははじめて自発的に本を閉じ、それを目の前の本棚にしまった。
大きくあくびをして、首の凝りをほぐすために頭をぐるりと回す。身体は軽く、それはぼくが今までまったくなにも、まったくなにも経験を積んでこなかったことを示しているかのようだ。ははっ、ぼくは軽いな。体重計に乗ると47.5キログラムしかない。これは軽いのか? 本に換算すると何冊分だろう? 試しに乗せてみようと思い本棚に向かい、そこにある適当な一冊を手に取る。すると、取った拍子にページに挟まっていた栞がはらりと落下した。見覚えのないその薄桃色の栞を拾い、顔の前に掲げて記憶からあぶり出すように矯めつ眇めつする。そしてやっと気付く。そこに記された彼女からのメッセージに。
《膨大な時間のその総量に恐れをなす前にまず前に進むのよ》
ぼくはその言葉に従って一歩前に出た。顔面から本棚に激突、数冊の本が落ちてきて、そこに挟まっていた無数の栞が床に散乱する。その一枚一枚に書かれた言葉は、もう見飽きた本のなかの無意味な言葉よりも、はるかに情感を揺さぶる。眩暈にも似たその振動は、周気と微小に摩擦して、ぼくの体温をわずかに上げる。眉間はほのかに熱を帯び、ジっと手に汗がにじむ。少し温かくなった血液は皮膚からゆらりと煙立ち、ぼくの輪郭を陽炎のように歪ませて、ここにはいないが、このどこかにはいる、ぼくが、栞をひとつ拾いあげ、そこに書かれた言葉を読む。
《人目避け 選んだ路地は薄暗く そこで静かに待つけだもの》
《誰も見てないから たまには誰かを見てみたら?》
《水族館でも読むんだね 口を挟むとすねるから ペンギンのくちばしをつまむよ》
《上映中、原作を読むきみの心臓をポップコーンでねらい撃つ》
《本に挟んでいちご狩る きみをよそ目に枝折るよわたしは》
《プラネタリの星明り いちゃつく男女で遠いわたしらはまるで七夕か》
《地面に落とした涙は待ち合わせまでの道しるべ きみは来るのかい?》
《帰り道 手をつなごうにもきみの手に しっかり握られた大江健三郎》
《やみくもに追いつづけて、つづけていても、つづかないってことは、きみには才能がないってことだよ》
もちろん分かってはいるよ。それでもつづけるしかないだろ。
《葉裏にいる虫を ちゃんと表に出さないと》
そうだね、小説と、それに詩だ。
どんなに才能がないからって、ぼくはそれを書きつづけるしかないんだ。
《どうして?》
分からないけど、たぶん、その分からないことを、分かるためだと思う。
《っふ、なにそれ。まぁ、きみの人生はきみのものだから》
そうだね。ぼくの人生はぼくのものだ。
ぼくのものだけど、ぼくのものではあるんだけど、と思いながら玄関に向かい、そこに置かれたぼろぼろのスニーカーを履いて外に出る。
うす雲のかげり一つない清廉な空を独壇場とする太陽は、自らが有する立場に思い上ることなく、眼下の景色、そこいるぼくを平等に照らす。いつも顔を伏せていたから分からなかったけど、陽射しってこんなに眩しかったのか、明るすぎて目を開けるので精いっぱいだ。ぼくと同様に光を受ける樹木、その梢の葉にこされた光は、幾千本もの長細い糸のように視界を縦断し、薄布のように景色にかかる。それをかき分けるようにして歩んでいく。陽光に軽く触れるだけで、その熱量が持つ無報酬の温もりに涙が出そうになった。これを一身に受けている陽だまりの小花は、そよ風ともに打ち震えるようにしてゆれていて、ぼくもその揺らめきを少しでも得たくて、自らの肺腑にゆっくり落とし込んで息をする。
吸った空気は生暖かく、もうそんな季節になったのかと今更のように驚く。なるべくゆっくり生きていたはずだ。気付けば前のめりになっていた。気付けば遮二無二駈けていた。速度を落とす方がもっと息苦しくなると思っていた。立ち止ればもう死んでしまうと、常に動いていなければ、ぼくはすぐにいなくなってしまうと思っていた。でも、そうじゃないんだね。たまに動きを止めなければ、人はどこにもいられない。きっときみが言いたかったことって、そんなことだ。
ぼくは止まってしまうような速度で、慎重に足を運び、一歩一歩の振動を確実に身体に送って地を踏みしめる。足裏から伝わる温もり、頭上にも同様の温度を感じる。ぼくはこんなにも温かい場所にいたのだ。それほどまでに冷え切っていたのだ。今さら感謝してももう遅いか。いや、まだ、いいや、まだだ。ぼくは緩慢にくちびるを動かし、それを繰り返し口にする。はたから見ればまぬけか狂人、しかしここから見ればひとりの人だ。どこにもいない、ここだけにいる人だ。
近所の公園にたどり着いたぼくは、周辺を駈けまわる子どもたちを避けながらベンチへと向かい、そばにある植木の折れかかった枝に手を添えてもぎ取る。折った枝を手に持って、公園の前に停まっていたタクシーに向かい、それでサイドミラーを叩き折り、ずっと後ろにいた女性に「なにか用ですか?」と訊ねる。彼女は《用はないけど》と言う。用がないならどこかへ行ってくれ、なんていえない。これからもずっとそばにいてほしい。一瞬も離れることなくそこにいて、常に移ろおうとするぼくを、もうどこにも行かないように見張っていてほしい。もしどこかに行ったのなら、引っ張ってまたここに、今この瞬間に連れ戻してほしい。《きみは自分が軽いから簡単だと思っているけど、けっこう大変なんだよ》ごめん。《っふ、いいよ》ありがとう。《どういたしまして》代わりにぼくはきみに言葉を書くよ。きみがぼくにしてくれたみたいに、言葉を書いて、それをきみに、ずっとあげる。《たとえば、どんな?》《春風吹く 目をつむってやりすごす きみの前ではもうなにも読まない》《っふ、なにそれ》《どんなに寒い日も 大江健三郎とはもう手をつながない》《ようやく空いたきみの手 さわる前にふっと吐息ふきかける もう春も終わるよ》《桜木の下で待ち合わせる 一睡もせず微睡みもせずにきみを待てる》《喧騒のただなかでもひと目できみを見付けるの得意だよわたしは》《ただよう沈黙にことばを泳がせてそれをずっと育てよう》《いいよでもそれはわたしではなくて、それを読むすべての人のためにして》分かった。《約束だよ》分かった。《良かった。じゃあ、そろそろお別れだね》うん、分かった。分かっていた。いずれきみがいなくなってしまうことなんて、でも読書を中断するとき、栞をはさむと必ずきみとその言葉を思い出すよ。思い出して、なにかを書きたくなる。たぶん、またきみのことを書いてしまう。約束なんて知らないよ。ぼくはずっときみのことを書く。そうしなければ、きみのことも忘れてしまうようなところに、いってしまうような気がするから、ずっと書く。書いて書いて書いて、でもたまに書くのも止めるよ。止めて辺りを見渡して、この小説にはいないけど、この世界のどこかにいるきみのことを見付けにいくよ。
感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。