オンリーイージーデイ・ワズ・イエスタデイ ──「遊びは終わりだ。今日の予定はハードだぞ」
現代、東京、日本橋。
十二月二十四日、クリスマスイブ。
朝六時、警視庁特殊部隊庁舎にて。
俺は、何も書かれていないプレートが掲げられた警視庁特殊部隊SAT第四小隊待機室のドアを静かに開いた。
誰も居ない、殺風景な部屋。
飾り気のない折り畳みテーブルと、五つのパイプ椅子が置かれている。
俺は壁のスイッチを押して部屋の蛍光灯を点け、空気を入れ替える為に換気扇も作動させた。
部屋の奥の窓のブラインドを開くと、格子状に切られた朝日が部屋に差し込んでくる。
俺は窓の前で背伸びをして、大きくあくびをした。
少しばかり眠いものの、この誰も居ない待機室というのは妙に解放感があって、居心地がいい。
振り返って席に着こうとすると、テーブルの下に、空になったコーラのペットボトルが転がっていることに気付いた。
「まったく……ずぼらな奴らだ」
俺は溜息をついて、しゃがんでペットボトルを拾い上げ、ラベルを剥がしてキャップも取り、分別してゴミ箱に捨てた。
共用のスペースは掃除を欠かさず清潔に。至極、当たり前のことだ。どの訓練よりも簡単な事なのに、何故出来ないのか理解に苦しむ。
出鼻をくじかれたような気分で、俺は自分の椅子に腰掛けて、「ふう」と大きめの息を吐く。
そのまま何となく無言で肩をゆるく動かして筋肉を少しほぐしてから、テレビのリモコンを手に取って、朝のニュースを見る為にテレビを点ける。
いきなり、激しい銃声が鳴り響いて、俺は驚いて椅子から滑り落ちそうになる。
だが、それは何のことはない、テレビからの音声だった。
『警視庁、市街地テロを想定した実弾訓練の様子を公開』
ニュース映像のテロップにはそう表示されている。
警視庁が先日公開した、サブマシンガンで武装した警視庁銃器対策部隊の射撃訓練の映像についての報道のようだ。
白線の前に横一列で並んだ重武装の隊員たちが、側面から次々と流れてくる人型標的の頭や胸を正確に撃ち抜いていく。
「……俺たちが撃つ実際の標的も、物言わぬ紙一枚だったら、どれだけ気が楽な事かな」
意味もなく、一人呟く。
映像が終わり、ニューススタジオの場面に切り替わると、緊張した面持ちのアナウンサーが、コメンテーター達の意見を求めた。
お茶の間の人気が高いとされる大物俳優や、若いお笑い芸人、胡散臭い雰囲気の元弁護士が次々と思い思いの感想を述べていく。
<ちょっと思うんですけども、警察官に、これだけの武装が必要なのでしょうか? マシンガンですよ? 戦争の道具じゃないですか。市民が住む市街地を、戦場にする気なんでしょうかね。正直、やり過ぎだと思いますよ>
<僕は、いきなり頭や胸を狙っているのも怖いと思いましたね……。まず、足や手を狙うべきじゃないでしょうか。通行人に流れ弾が飛んでくる危険もありますし……>
<全ての人間には人権があり、裁判を受ける権利があります。警察官の重武装化は、勝手な現場判断による私刑が横行する可能性があり、慎重になるべきと思いますね。冤罪の場合だってあります。その場で殺害してしまっては、事件の真相は明らかになりません。何事もまず、『対話』が重要なのです>
警官隊が発砲するシーンだけを見せられたら、彼らの不安がる反応はある程度は仕方のないことだとは思うが、それでも当事者の一員である俺は少し不快な心境になった。
彼らは、全ての警察官が警棒一本で、テロリストを含めたあらゆる凶悪犯に対応できるとでも考えているのだろうか。
無論、犯人の射殺は最終手段に他ならない。こうして強力な火器を使った訓練を行うのは、国防を脅かすような最悪の事案が発生した際に、命を懸けて民間人を守る為の備えなのだ。
しかしながら、税金泥棒、市民の敵と疎まれることはあっても、感謝されることは少ない。残念ながらそれが、この国の多くの警察官が受けている風評だろう。
俺は無言で適当にチャンネルを変えた。
海外の日本語吹き替えドラマが放送されていて、どうやら不倫してるらしい男が愛人に「奥さんと別れるっていつなの!?」と詰問されていた。
どう考えても爽やかな朝には相応しくない内容であるが、気を紛らわすために何となく観始めてしまう。
「おはようございます」
おっとりした女性の声と共に、ドアが開いた。
黒艶のあるショートカットの女性隊員、柚岐谷綾。
スタイルは女性らしい肉つきに見えるが、腕っ節が驚くほど強く、女性隊員からは憧れの対象、男性隊員からは畏怖の対象として常に注目を浴びている隊員だ。
彼女は、湯気が立ったコーヒーカップを二つ持っていた。
「あぁ、おはよう」
俺は右手を上げる。
柚岐谷はニコニコしながら、コーヒーカップのひとつを俺の前に置いた。
「コーヒー淹れてきましたよ。ミルクは二杯、ガムシロップは三杯……ですよね?」
「ありがとう。……俺の好みを完全に掌握するとは恐ろしいな」
「大したことじゃありませんよ。いつも、一緒にやってきたんですからね」
柚岐谷は朗らかに微笑みながら、俺の隣に腰掛ける。
<────君が好きだ!!>
テレビに映るドラマの男が、そう力強く告白して愛人に熱いキスをした。
驚いた俺は蒼ざめて椅子から半分ずり落ちてしまう。チャンネルを変え忘れていた。
慌ててリモコンを掴みテレビを消す。
「……朝から、大胆なもの見てますね」
柚岐谷は目を細め、両手で持った自分のコーヒーをずずっと啜る。
「冤罪だ。テレビを点けたら、たまたま映っていたんだ。興味があったわけじゃない。そんな不純なもの朝から見たいわけないだろう」
俺は早口で弁明すると、コーヒーをぐいっと飲む。
「へぇ……小隊長は、興味ないんですか。私は、良いと思いますけどね。そういう不純なのも」
「……あ?」
俺は恐々、澄ました表情の柚岐谷の横顔を見る。
「今日の夜……空いてますよね。美味しいディナーが食べられる新しいレストラン、知ってるんです。行きませんか? 行きますよね?」
「……あまりに急過ぎないか。行くのは、この小隊の全員で、か?」
「私と小隊長の二人だけで。あとは邪魔ですね……。
SBUに居た時から数えると、もう十年の付き合いになるんですよ。そろそろ、仕事だけじゃなく……こう……プライベートでも進んできていいと思うんですけどね。
二人で、クリスマスを楽しみませんか。どうでしょうか……?」
そう言ってコーヒーを啜る彼女の横顔は、少しばかり紅潮している。
……彼女の気持ちは非常に嬉しいが、これに応えてしまうのは小隊長としてはいかがなものだろうか。
俺は考えあぐねて、自分の顔の熱さを紛らわすためにコーヒーを啜る。
気まずい時間が流れた。
柚岐谷が紅潮した顔をこちらに向け、何かを言おうと口を開きかけた。
その時、ドアが蹴破られた。
「おはよう!!」
いやに威勢よく現れた女性隊員、宮潟瑯矢。
高雅で蛇のように鋭い目つきをした、ロシア人の母親を持つハーフの美人。セミロングの髪は白い毛が多く、ほとんど灰色に見える。バストは柚岐谷よりも大きく、装備の着用には少し苦労が多い。
「小隊長! コーヒー淹れといたわよ」
大量のミルクが入ってほとんど白くなっているコーヒーが俺の前にドンと置かれる。
ひたすら面食らって黙り込んでいる俺に構わず、宮潟は肩から下げたバッグから、紙皿を一枚取り出し、そこから大量のクッキーを鷲掴みで皿の上に積んでいく。
「クッキー焼きすぎちゃったのよ。沢山あるから、食べて?」
「……いや、本当に焼きすぎだろう」
宮潟は普段の二倍はニコニコしながら、山のてっぺんのクッキーを一つ取って、俺の口の前に差し出す。
「はい、小隊長。あーん」
「え?」
「ほら、あーんして」
俺は横目で、柚岐谷の表情を伺う。
柚岐谷は凍てついたような無表情で、一切も瞬きせず宮潟を睨み続けている。
「……何、私のクッキーが食べれないの? 拒否するの?」
宮潟も急に真顔になって、俺の顔を覗き込んで見つめる。
俺は、彼女の背後に、厳格な顔つきをした警察庁長官官房長の宮潟晴十郎の幻影を見た。
宮潟瑯矢は、宮潟晴十郎の四人いる子の中の一番末の娘。言うまでもなく、特に可愛がられている。
隊での俺の行動は全て彼女に監視されており、もし彼女が機嫌を損ねるようなことがあれば、尾ひれをつけた悪い報告が宮潟晴十郎の耳に入ることになる。
警視庁は東京都を管轄する警察機関であるが、『警察庁』はその全国の警察を統括するトップだ。
今のところ目立つ何かが起きたことは無いが、彼女とその父親の機嫌を損ねることでどのような辞令が飛んでくる羽目になるかを考えると、とても逆らえるものではない。
宮潟がこの小隊に初めて配属された時、宮潟晴十郎自らこの待機室に来て、『宰河くん、娘を頼むぞ』と俺の肩を強く掴んできたことは、未だに忘れられない。
俺は堪忍して、覚悟の表情で口を「あーん」と開く。
「はい、召し上がれ」
宮潟はニコニコした顔つきに戻り、俺の口の中にクッキーを突っ込んだ。
俺は黙ってガリガリと噛んで、よく味わってみる。
「どう、美味しい?」
クソ不味い。
「うん、美味しい」
「良かったぁ。砂糖と塩、途中で入れ間違えちゃったんだけど、小隊長の口には合ったみたいね。やっぱり男って塩辛いの好きよね? もっと食べて良いのよ?」
塩辛いおかずは確かに好きだが、クッキーに塩辛さを求めたことはない。心外だ。
容赦なく俺の口に追加のクッキーがブチ込まれそうになった時、柚岐谷がクッキーを横からひょいと一つ取って食べた。
口の中で噛むなり露骨に吐きそうな顔をして、軽蔑の目で宮潟を見やる。
「料理がド下手なら、無理に披露しない方が良いんじゃないですか? 好感度が下がることはあっても、上がることは絶対ないでしょうに」
「……別に、貴女に食わせる為に作ったわけじゃないんだけど?」
この雰囲気。非常に嫌な予感がする。
宮潟はテーブルの上に素早く飛び乗ると、這う姿勢で柚岐谷に顔を寄せる。
「それより……美味しいディナーが食べられるレストラン、私にも紹介して欲しいわぁ。邪魔、なんてイジワル言わずに、ね?」
「……紹介したいのは山々なんですが、味覚が腐ってる人にはお金の無駄ですよ。牛丼でも食べていたらどうですか?」
「まぁ、そう言わずにねぇ。貧乏人の貴女と違って、あいにく私は自分のお財布は気にしないのよ」
「自分の財布? お父様の財布、の間違いじゃありませんか?」
この爽やかな朝に、ドラマ以上にドロドロした罵倒合戦は本当に止めてほしい。
そろそろ二人を制止しようと思った時、開いたドアから鼻歌と共に一人の中年隊員が入ってきた。
彼は、テーブルの上に乗った宮潟を見て、それから彼女を恐ろしい顔で睨み返す柚岐谷を見て、最後にぽつんと座る俺を見た。
「おはよう、小隊長どの。……また新たな訓練を編み出したのかい?」
古淵昭夫。この第四小隊のチームメイトだ。
三十九歳で、俺の小隊では最も高齢。白髪は少ないがかなりの老け顔で、五十歳にも六十歳にも見える。趣味は、パチンコと風俗。
「……ああ、独身男性の一人クリスマスパーティ中に、二体の猛獣が乱入してきたという想定の訓練だ」
「ずいぶん限定的な状況の訓練だな。それで、俺は何をすればいいんで……?」
すると古淵の後ろから、最後の第四小隊の隊員が顔を覗かせた。
彼は、ドアを塞ぐ恰好で立ったままの古淵の背中を引っ叩く。
「古淵、そんな所に突っ立っていたら邪魔だぞ。……おはようございます、宰河さん」
半田卓郎。二十四歳。
髪を七三分けに整えた、意志の強い鋭い目をしている男。異論があれば年上や上司にも物怖じせず主張できる肝の据わった隊員だ。
「……ん? 宰河さん、これはどういう状況ですか?」
「ちょうど良い、半田。そこの古淵を羽交い締めにしてくれ」
「はあ、分かりました」
特に躊躇いもなく、半田は素早く古淵の脇を自分の両腕で捕まえる。
「おっ!? な、何するんで? まさか、そういうプレイ? 朝から勘弁してくれや……!」
俺の意図を察した柚岐谷が無言で立ち上がり、右手でクッキーの山を鷲掴みにしてバキボキッと手の中で砕くと、左手で古淵の顎を強く掴んで無理やり口を開かせ、粉砕したクッキーをサラサラと流し込んだ。
「……おブッ!! しょっ、しょっぺぇ!! 何だよこりゃあ……!!」
柚岐谷は、それ見たことかと言いたげな強気の視線で、宮潟を睨む。
テーブルの上に乗ったままの宮潟は、特に何も気にしていないという顔つきで鼻を鳴らしてから、そのままスルッとテーブルから降り、柚岐谷が座っていた席を奪って平然とそこに収まると、椅子をずらして俺の隣にピタリと座った。
憮然とする柚岐谷を、宮潟は勝ち誇った顔つきで見返しながら、自分のクッキーを取って一口かじる。
「……うわっ、しょっぱ! 何コレ……?」
「お前が作ったんだろうが……」
コーヒーをたっぷり口に含んで苦みや甘みと中和させながら食べるとそこそこ悪くない味になると気付き、クッキーをちびちびかじりながら、俺はテーブルを二度叩く。
「とにかく全員、座れ。遊びは終わりだ。今日の予定はハードだぞ」
四人の荒くれ部下を全員着席させてから、俺は本棚から一冊の大きなファイルを取って、わざと大きい音を立てて開く。
「警視庁術科センターで行われる、警視庁銃器対策部隊との模擬戦。非致死性弾薬を使用した、人間同士の撃ち合いだ」
ファイルには、使用される射撃訓練用建造物の見取り図と、敵対することになる銃器対策部隊の隊員たちの一人一人の情報が書かれたプロフィールシートが挟まっている。
半田は、クッキーをポリポリとかじりながら、人差し指を立てる。
「二日前の、SAT第三小隊と銃器対策部隊第七班の模擬戦の結果は、とても衝撃でしたね……。なんせ、練度で勝るはずのSAT第三小隊が、小隊長を失い敗北したんですから」
その発言を受けて、宮潟はいかにも不服そうな顔つきになる。
「……麻戸井が、ゴムナイフで小隊長をブッ倒したのよね。アイツ、とんでもないことするわ、本当に」
麻戸井茗子。
俺は彼女と直接会話をしたことはないが、宮潟の高校時代の同級生だったとは知っている。
だが、宮潟の口ぶりから察するに、おそらく二人の仲は良くない。むしろ互いに嫌悪しているような雰囲気さえある。
……そもそも、宮潟から『友達』と呼べる存在を聞いたこと自体がないのだが。
今回の模擬戦で俺たちの相手となるのは、警視庁銃器対策部隊の第二班。
件の麻戸井とは異なる班なので彼女とかち合うことはないが、この第二班にも女性隊員がおり、プロフィールを見る限りはかなり気性が激しく、特に行動が読みにくい要注意人物であった。
「ただの的撃ちとは違う。敵も思考し、攻撃と防御を行う。常に最適解を弾き出すコンピューターと違って、人間は決まった行動を取らない。俺たちは今日の為に綿密な訓練を積んできたが、相手の行動との噛み合わせによって、アクシデントは必ず起こるだろう。油断せず、覚悟してかかれ」
そして俺は、本番前の最後のミーティングを始めた。
【The Only Easy Day Was Yesterday】-【楽な日は昨日まで】(米海軍特殊部隊Navy SEALsの標語)





