第79話 悠吾の思惑 その3
鋭い視線で睨みつける小梅にルシアナはきょとんとした表情を浮かべたまま、呆然とテントの入り口に立ち尽くしてしまった。
明らかに友好的ではない視線を放っているツインテールの可愛らしい女の子。
どこかで会った記憶があるような気がすると思ったルシアナだったが、その名前は出てこない。
「ええと、貴女は……」
「ノイエの妹よ」
「ああ、ノイエの……確か名前は……小梅さんだったかしら?」
思い出しました、昔お会いしましたよね。
小梅の刺すような視線に一瞬表情が曇ってしまったルシアナだったが、思い出せて良かったと言いたげにぱん、と手のひらを合わせ、にっこりと笑顔を覗かせた。
「お久しぶりです。そして助けていただいて本当に有り難うございます」
「……ッ!」
サンドイッチケースを片手に、丁寧に頭を垂れるルシアナ。
ノスタルジアの代表という立場でありながら、それを鼻にかけず、腰が低く気品溢れる立ち振舞に同じ女性でありながら、小梅は一瞬どきりと胸が高なってしまった。
「な、何なのよ……」
思わずぎょっとして、頭から足先までルシアナの姿を吟味する小梅。
何よこの女。お淑やかだし、綺麗だし……なんか腹立つわね。
心の中でそう吐き捨てながら、ぷるぷると身を震わせる小梅。
超一方的な一触即発の空気──
怒りを押さえる小梅と、そんな事に全く気が付かず「小梅さんもいかがです?」と呑気にサンドイッチケースを差し出すルシアナの姿がどこか滑稽に悠吾の目に映ってしまうが、一方で猛獣の檻の中に生身で入って行くか弱い女性を見ているかのような身も凍る恐怖が悠吾の顔から血の気を奪っていく。
「たた、食べないわよッ! そんなものッ!」
「……? どうしてですか? 私、サブクラスに料理人を持っていますので味は悪く無いと思うのですが」
「……え?」
変わらない剣幕で差し出されたサンドイッチケースを払いのけようとした小梅の手がぴたりと止まった。
そして、引き寄せられるように小梅の視線は、サンドイッチケースに並べられた形の良いライ麦サンドイッチに降りていく。
大ぶりのベーコンが食べて欲しいと言わんばかりにその身をさらけ出し、ベーコンと共に顔を覗かせている水々しいレタスとたっぷりのマヨネーズが、思わずじゅくりと喉奥から食欲を誘い出す。
たまらずごくりと生唾を飲み込んでしまう小梅だったが──
「……そういう意味じゃないっ!!」
慌てて煩悩という名の食欲を払いのける為に怒りに任せた叫び声を上げる小梅。
そして自らの声が引き金になり、ついに我慢していた怒りが爆発し、ルシアナに飛びかからんと小梅が踏ん張ったその瞬間──
「ちょ、ちょっと小梅さん!」
それはまずいです、と即座に背後から小梅を羽交い締めにし、その動きを制したのは悠吾だ。
「離しなさいよっ! 悠吾!」
「離しませんっ! 何をするつもりなんですかっ!」
「うるさい! ……ッてあんたどこ触ってんのよッ!」
このスケベ! と喚き散らしながらじたばたと暴れる小梅。
離せ、離しませんと言い合いを繰り返す小梅と悠吾の姿をしばらく眺めていたルシアナだったが、何かを悟ったらしく、ぱん、と勢い良く両手のひらを合わせた。
「気が付かなくて申し訳ありません」
「何よ! 何がよ!? なんであやまんのよ!」
振り上げた拳の落とし所が無い小梅が苛立ちの篭った声でまくし立てる。
そういう態度もなんか腹立つ!
そう喚き散らす小梅だったが、次の瞬間、ルシアナの口からは全く想像していなかった言葉が飛び出した。
「小梅さんは悠吾くんの……その……彼女さんだったんですね」
伏し目がちでそう言い放つルシアナ。
その言葉に思わず目が点になってしまった小梅と悠吾は固まってしまった。
「「……はい?」」
そして、かすれるような声で二重奏の生返事を返す小梅と悠吾。
テントの中に、これまでの喧騒が嘘のようにしんと静まり返った静寂が、かすかに聞こえるトラジオの寝息とともに広がっていく。
そして、なんとも表現のしづらい重い空気を切り裂いたのは甲高い小梅の声だった。
「ちっ……違うわよッ! なんでそうなんのよ!」
「えっ、違うんですか?」
顔を真赤にしながらも必死の思いでひねりだした小梅の言葉に、ルシアナは身を竦ませ、目を丸くてしまう。
凄く仲が良いので、そういう関係なのではないかと思いましたが、違ったんですね。
そしてルシアナは、どこか安堵したような表情を浮かべ、続ける。
「……じゃあ、大丈夫ですね」
「な、何がよ」
小梅の狼狽したような声に、意にも返さぬと言いたげに、ルシアナの顔にうっすらと滲んでいた明るい色が満開の花となりその顔を彩る。
「私、高校時代に後悔していた事がありまして、もし……もし奇跡的に悠吾くんに再会できたら、伝えようと思っていたことが有るんです」
「……え? ぼ、僕に?」
突然話を投げかけられ、びくりと身を竦める悠吾。
だが、その脳裏に何か嫌な予感が走った。
ルシアナさん、ひょっとして……火に油を注ごうとしていませんか?
「私、悠吾くんの事をもっと知りたいと思っています。その……ええと……1人の男性として」
「……ぶっ!」
頬を赤らめ、後悔はすまいと、必死に想いを告げるルシアナ。
そして、その言葉に思考回路が吹き飛んでしまう悠吾。
「……ええっと……」
これまでになくふわふわと視線を泳がせながら、呻き声に近い声を漏らす。
そして悠吾は緊急事態に一度シャットダウンしてしまった思考回路を必死に再構築させ、強引に動かし始めた。
ふたりきりだったらどれほど嬉しい言葉だっただろうか。いや、今でも十分うれしいですけど。
だけど、その言葉は──
油どころかニトログリセリンを炎にぶち込まれた感覚がしてしまった悠吾。
そして、彼が押さえつける小梅の身体が一瞬びくんと──跳ねた。
「あんたに……ッ」
そしてその小さな身体のどこにそんな力があったのかと思うほど、爆発するような凄まじい腕力で悠吾の両手を引き剥がすと、小梅は悪魔も泣き出すような鬼の形相で叫んだ。
「あんたなんかに、悠吾を渡すもんかぁぁッ!!」
***
「うむ、やはり旨かったな……」
太陽が高く登り、木々の隙間からちらちらとその姿を覗かせている昼下がり、解放同盟軍のキャンプの中でひときわ大きいテントから満足気な表情で現れたトラジオがぽつりとそうつぶやいた。
トラジオが出てきたテント、そこは解放同盟軍の「食事処」だった。
トラジオが食事処に、それもひとりで訪れていたのには理由があった。
ゲームの世界で楽しみ、という表現は矛盾しているものの、この戦場のフロンティアに酷似した世界で楽しみといえば「旨い食事」以外には何もない。
探索前の準備としてステータスアップ効果がある食事は必須とも言えるものだったが、睡眠と同じく、必ず取る必要が無い食事は次第に「娯楽」としての色が強くなり、昨今、生産で料理が自由に作れる料理人はクランに1人は欲しい人気職となりつつあった。
だが、逆にプレイヤー達のそのニーズを補えるほどの料理人は存在していなかった。
生産職のひとつである料理人は食事を生産することが出来るがこれといって有効なスキルが無いために、メインクラスに設定するプレイヤーは皆無で、特定のプレイヤー達の中で、サブクラスとして定着している程度の不運なクラスだったからだ。
しかし、不人気職業である料理人が解放同盟軍に所属しているという事をトラジオはひょんな事で知る事になった。
その事を知ったのはトラジオが目を覚ました20分ほど前、彼が寝ていた野戦テントの中だった。
トラジオが目覚めた時にテントに悠吾と小梅の姿は無く、そこにあったのは、ぽつんと置かれたサンドイッチケースだけだった。
ケースに並べられているのは、見た目から旨いと言いたげに佇むサンドイッチ達。
ちょこんとテーブルに置かれたサンドイッチに、差し入れなのかとどこか納得してしまったトラジオは、そんな「彼ら」を無視することは出来なかった。
躊躇すること無く、いくつかあるサンドイッチの中からひとつを選び、豪快にかぶりつくトラジオ。
旨い──
一口食べただけで判るほど、それは旨かった。
一見、何の変哲もないベーコンとレタスのBLTサンドだったが、ベーコンの塩気とレタスとトマトの新鮮な歯ごたえ、そして、その影に隠れるマヨネーズのクリーミーで濃厚なコクが見事にその素材たちを1つに繋いでいる──
これまで何度か地人が商いをやっている食事処で食事を取った事があるが、これほど旨いものは食べたことが無い。
そしてこれほど旨いサンドイッチを作れるのは、高レベルの料理人に違いない。
そう感じたトラジオはテントを飛び出すと、まっすぐに解放同盟軍のメンバー達の胃袋を守る食事処を探した、というわけだった。
「サブクラスに料理人か。それも悪くないな」
ちらりと食事処のテントを見上げ、再度ひとりごちるトラジオ。
サブクラスはいつでも変更ができる。この状況を克服できた後に取得しても損はないと、今しがた食べた料理をトラジオが思い返しながら唸ったその時だった。
トラジオの目に映ったのは、真っ青な顔で何処かへ向かう悠吾の姿──
「悠吾?」
明らかに異変を感じたトラジオはすかさず悠吾を引き止める。
今後の作戦の事で何かあったのだろうか。
そんな不安さえ頭をよぎってしまう。
「ト、トラジオさん……!」
トラジオの姿を見て、驚きを露わにする悠吾。
そう言えば、寝ている時になにか言い争っている声がした記憶がある。
もしかするとノイエと今後の事でもめているのではないだろうか。
「どうしたその顔は。一体何があった」
「い、いえ、なんでもないです」
「なんでもないわけは無いだろう。顔色が優れてないように見えるが」
「……ッ!」
思わずびくりと身を竦める悠吾。
「ななな、なんでもないですったら」
「そう言えば起きた時に小梅の姿も無かった」
俺と同じく、あのサンドイッチを作った料理人の料理を食すために食事処に向かったのかと思ったが、居なかった。そう言えば、あのテントに置かれていたサンドイッチは誰も手にとって居なかったな。あのベーコンと野菜のシャキシャキ感が奏でるハーモニーは小梅を虜にするに違いないはずなのだが。
「さ、さぁ、良くわからないです。ぼぼぼ、僕は用事がありますのでこれで!」
「む……」
虚空を見つめたまま、すたすたとトラジオの傍を離れる悠吾。
その姿を訝しげな表情を浮かべながらも、トラジオはふと納得したような表情を浮かべた。
今後の事であれば、悠吾が俺に隠すわけはない。それに、小梅やノイエが俺に何かしら連絡をよこすはず。
となれば──原因は小梅との痴話喧嘩といったところか。
「……痴話喧嘩に立ち入る必要はないか」
悠吾の後ろ姿を見つめながらそう判断したトラジオは、ぽりぽりと気まずそうに頭を掻きながら野戦テントに残したサンドイッチを思い起こし、踵を返した。
***
トラジオに事の真相を問い詰められる事無く避難できた悠吾は、胸をなでおろしながらも、浮ついた心を落ち着かせるために、当てもなくキャンプ内をうろうろと歩き回っていた。
今思い返しても恐ろしいあの状況。
あれは、いわゆる修羅場。
あのテントは正に修羅場と形容していい空間だった。
小梅の口から、とんでもない言葉が放たれた次の瞬間、百戦錬磨の熟練プレイヤーでオーディンのマスターでもあるはずのルシアナは、あまりに恐ろしい小梅の剣幕に思わず恐れおののき、再度「御免なさい!」と深々と頭を下げると、身の危険を感じ悠吾達のテントを後にした。
高校時代の美優さんだったら、小梅さんと取っ組み合いが起きてもおかしくなかったけど、月日が彼女をおしとやかな女性に変えたのか、大人の対応をしてくれてよかった。
今思い返しても恐怖と共にルシアナさんの対応で最悪の状況を免れたと安堵してしまう悠吾。
結局その後、顔を真赤にした小梅は何も言うこと無く、テントを飛び出していった。
後に残されたのは、異様な緊張に包まれた空気と、石のように固まった悠吾。
そしてトラジオの寝息。
しばし停止した思考の再起動に時間を使った後、悠吾は出て行った小梅を追いかけようとしたが、自分の言葉でさらに火に油を注ぐことになりかねないと判断し、どこへ行くとも無く、テントを後にしていた。
『色々大変だな悠吾くん』
『……!? ノイエさん』
とぼとぼとあてもなく歩く悠吾の耳に届いたのは、小隊会話で話しかけるノイエの声だった。
『小梅に色々聞いたよ。大変だな』
冗談半分でそういうノイエにどこか気まずさを感じてしまう悠吾。
テントを出た小梅さんはノイエさんの場所へ行ったのか。まぁ、そうですよね。
『いや、本当だったら、天にも登るうれしい出来事のはずなんですけどね』
引きつった笑顔で悠吾はそう返す。
小梅さんはキツイ性格だけど、可愛いし、仲間思いで以外と優しい一面もある。ルシアナさんは、言わずもがなの女性だ。そんな2人に言い寄られた……と考えても良い状況はいわゆる「モテ期」が来たと思って間違いない状況のはずだ。
なのに、ある意味あの多脚戦車と対峙するよりも恐ろしい状況になるなんて。
『小梅は僕がなんとかするから、君は工廠に行って気持ちを切り替えてきたらどうだい?』
『……? 工廠、ですか?』
『ああ。君の力を貸して欲しいと言っていたの覚えてるかい?』
『あ、匠のクエストをクリアしたアイデアを……ってやつですか?』
『そう。是非工廠の力になって欲しいし、それに今悠吾くんは武器が無いだろ? 武器を作れる鍛冶屋に何か武器を作ってあげるよう伝えておいた』
『……ッ! 本当ですか!?』
どんよりとしていた空気を弾き飛ばすように笑みをこぼす悠吾。
トットラの街でMagpul PDRを無くし、武器がM9ベレッタだけに戻ってしまった事も悠吾の悩みの1つだった。
これから向かう中立国で戦闘はご法度だとはいえ、丸腰はやはり落ち着かない。
そんな悠吾にノイエの心遣いはとても嬉しいものだった。
『ミトというプレイヤーが居るはずだから、声をかけてみてくれ。後で僕も工廠へ向かうよ。明日以降の事を打ち合わせしよう』
『了解です!』
それじゃ後で、と小隊会話を終わらせるノイエ。
なんとも頼れる人だ。ノイエの気遣いに、悠吾は感謝で胸が苦しくなってしまった。
「……明日以降の事、か」
ノイエが言ったその言葉に悠吾はふと我に返ると、両手を合わせ天を仰いだ。
相違点に関して、今調査してもらっている解放同盟軍のメンバー達から集まった情報を元にラノフェルさんとユニオンとの会合の場に行けることになったとはいえ──ユニオンがラウルとノスタルジアを諦める確証は無い。
──より確実に、万全を期して挑まなきゃ。
自分に言い聞かせるように心の中でひとりごちる悠吾。
そして次の瞬間、まるでジグソーパズルがぱちぱちと合わさっていくかのように、悠吾の脳裏にとあるアイデアが舞い降りた。