第49話 とある少女の告白 その2
クラスの最前列の窓際。そこが彼の指定席だ。
存在感が無く、こうして彼の事を気にするまで、こんな人が同じクラスに居たなんてまるで知らなかった。
同じ学校でおっとりとして、黒縁メガネのくるくるパーマ。
その全部が当てはまる彼があの歪んだ犬小屋を作った人で、あの子犬を助けた本当の人なんじゃないかって思うようになった。
「何ぼーっとしてんのよ」
授業が終わり、琥珀色に染まった教室で片肘を突いてぽかんと彼の事を見ていた私にいつものようにリコが話しかけてくる。
私の視線をなぞるように、彼の方を見たリコは「へぇ」と何やら含みのある笑みを浮かべた。
「居るか居ないか判んない。あんな奴が好みなんだ?」
リコのおめでたい想像に思わず私は吹き出してしまった。
すぐそうやってくっつけたがる。
「そんなんじゃないったらぁ」
いつものように冗談半分で私はそう答えた。
でも。でもほんの少し彼の事が気になっているのは事実だけどね。誰も知らない、私の心の中にだけにある事実。
誰でも褒められるのは嬉しいはず。
彼があの子犬を助けたとしたら、それは自慢してもいいくらいのこと。増水した川の中に子犬を助ける為に飛び込むなんて普通の人じゃ出来ない。
──学校一のイケメン君である崇君であっても。
「奴、ゲームと犬が好きらしいんだけどさ、崇君が子犬を助けた同じ日、同じ場所にいたらしいよ」
「……え?」
ゲームと……犬が好き?
「崇が子犬を助けるのをじっと見ていただけだって」
酷いよね。犬好きなのにさ。
呆れたような表情でリコが言う。だけど私にはなぜかそれが信じられなかった。
犬好きに悪い人は居ない。
おばさんが言ったあの言葉が引っかかったのかもしれない。
「それって誰が言ってたの?」
「な、なによ?」
私はつい凄い剣幕でリコを問いただしてしまった。
その剣幕にリコが引いているのが判る。だけど、私にとって重要な事なの。
「その話、誰に聞いたの?」
「えーっと……彩香かな?」
「彩香は誰に?」
「わ、判んないけど、確か崇が言ってたんじゃないかな。崇と最近いい雰囲気なんだって自慢してたし」
その言葉に私は全身の力が抜けていくような気がした。
あの日、増水した川に彼も居た。ゲームが好きで、イヌ好きなくるくるパーマで黒縁眼鏡のおっとりとした彼が。
──助けたのは崇君じゃなくて、彼だ。
「ちょ、ちょっと……」
突然立ち上がってつかつかと歩き出した私に驚いたリコが何かを言いかけたのが見えたけど、私は構わず足を進めた。
その先に居るくるくるパーマの彼の元に。
「ちょっと良いかな?」
「……えっ!?」
まだぱらぱらと生徒が残っている教室に私の声が響く。
ざわついていた教室が私の声にしんと静まり返ったのが判った。
そして、目を丸くしてお化けでも見たかのように教室に浮かんでいるのは彼の表情。
「……助けたの、崇君じゃなくて君でしょ?」
「……へ?」
何を言っているのか判りませんと言いたげにすっとんきょうな声を彼は上げたが、その目が泳いだ事を私は見逃さなかった。
「どうして君は誰かを助ける為に、自分を犠牲にするの?」
「え?」
私は自分の中で疑問に思っていたその言葉を真っ先に口にしてしまった。でも犬を助けるため、とは言わなかった。
犬だけじゃない。彼はきっと犬以外でも同じことをやってそうな気がしたから。
自分でも変だと思う。
話したことも無い女の子に急にそんな事言われても混乱しちゃうよね。
「……君に話してるんだけど」
「あ、えっと……」
しばらく目を白黒させたまま、あーとかうーとか呻き声をあげるだけで答えようとしない彼に思わず私は続けてしまった。
身を竦ませて鼻の頭をぽりぽりと彼が掻いた。男の子って緊張すると鼻の頭が痒くなるって何かで読んだ事がある。
「兄が原因だと思います」
「お兄さん? どうして?」
私は続けて彼に問いかけた。
気になる。彼の心の中を知りたい。私は単純にそう思った。
「えーとですね……」
そう一呼吸置いて、彼が続ける。
「なんというか、その、少しでも周りの助けになれば、居て良い理由になるでしょう?」
ね? と小首をかしげる彼に釣られるように私も小首をかしげてしまった。
言いたいことは判る気がするけど、ぼんやりとしてはっきりとは判らない。
彼の性格がそのまま出ているようなその答えに、何故か私の心がとくんと脈打ったのが判った。
自分の事ばかり考えてちゃ駄目。
彼は遠回しにそう言いたかったんじゃないかな?
きっと彼は誰に対しても同じように特別扱いをせず、のんびりとした空気で一歩下がった場所からいざというときに助け舟を出すような人なんだと思う。
あの日、増水した川に飛び込んで子犬を助けた時と同じように。
これまで会ったどの人とも違う、全くもって変な人だ。
──だけど、ますます彼の事を知りたくなってしまった。
「そうなんだ」
だけど、私は自分の心に嘘をついて、そう冷たく返した。
彼の事を知りたい。その熱が心から溢れだして私の頬を染めているんじゃないかと思ったから。
彼と会話したのはそれが最初で最後になった。
彼と話す勇気が出ないまま、学年が上がって、別のクラスになってしまった私は時々廊下ですれ違う彼を、視線の端に感じる事位しか出来なくなった。
勇気を出してもう一度声をかけることが出来たなら、彼は本当の私を一歩下がった場所から、その純粋でおっとりとした目で見てくれたんじゃないかって思う。
そして出来るならば、そんな彼を傍で見たかった。
でも、できなかった。
私に残ったのはちくちくと疼く心と、ずきずきと痛む後悔。
それだけ。
***
『君がネットゲームの世界にハマったきっかけって何?』
私はクマたんを抱きかかえたまま、ネットゲームでそう問いかけられた事をもう一度思い出した。
私しか知り得ない事。私の中だけの秘密。
あれから何年も経ったけど、ふとくるくるパーマの彼のあの驚いた顔を思い出す事がある。
やっぱり子犬を助けて公園で世話していたのは崇君じゃなかった。
影が薄いクラスメイトが助けてるのを見て、その事が噂にならなかったから冗談半分で噂を流したんだ。
崇君本人に尋ねた所、笑いながらそんな最低なことを彼は言い放った。
やはり子犬を助けて、あの公園で世話していたのは、くるくるパーマの彼だった。
君がどんなゲームが好きかということはリコを通じて知ったよ。
君を少しでも知りたくてて、君が好きだと言っていたゲームにも手を出したよ。
今でもふとふとくるくるパーマのおっとりとした君の事を思い出す事がある。
出来るなら、もう一度会いたい。
会ってあの時聞くことができなかった君の事を色々と聞きたい。
一歩引いた場所から、本当の私を見て欲しい。
そして、傍でそんな彼を見ていたい──
私がネットゲームにハマったきっかけ。
それは、限りなくゼロに近い確率かもしれないけれど、初めて私が恋をした君にもう一度会えるかもしれないから──
僅かな願いを込めて今日も私はパソコンの電源を入れた。
ぱちんと電気が通った音がして、ぶうんと電源ファンが回転し始めた音が私の部屋に響く。
そして私は、両手で抱きしめていたくまっちに年甲斐もなく、いつものように心の中で女々しく問いかけた。
──今日こそ会えるかな?
いつもと同じ、黙ったままのくまっちがあざ笑うかのようにじっと私の顔を見ている。
でも、今日は違った。
私を見つめるくまっちは、ふと「きっと叶うよ」って笑ってくれた──
そんな気がした。




