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第四章 守るべきもの

 翌日、青雲の七人が体育館に集結した。対戦相手は厚木商業。青雲にとって、初めて本気モードにならなければならない強豪だ。

「気合は入っているな、みんな!」

 いつもは真琴が吐くセリフを、幻舟が怒鳴り散らす。あまりの迫力に、青雲のメンバーはもちろん、相手ベンチまでぎょっとした。

「さつき、鬼神、小太郎!ガンガンパスを出すから、容赦はするな!雅和、ゴール下は頼んだぞ!」

「お、おう」

「は、はい」

 幻舟の目が座っているのに、さつきたちはもちろん、真琴まで圧倒されている。唯一、幻舟の気持ちを理解できる由奈だけがキャプテンに熱い視線を向けた。

「頼もしいわ。それでこそ幻ちゃんよ」

「由奈ちゃん、ありがとう!今日の試合、必ず勝って君に捧げる!」

 幻舟のセリフにさつきたちは唖然とした。普段はどちらかと言えば控え目で、強気な鬼神の抑え役に回る幻舟が聞いているほうが恥ずかしくなるような熱い言葉を公衆の面前で吐いている。

「おい、さつき。幻舟のやつ、変なもん拾って食ったんじゃないだろうな」

「わかりません。いずれにせよ、僕らが冷静にならないと」

 真琴が作戦を授けるタイミングを失ったまま、試合が始まった。ジャンプボールをいつものようにさつきが幻舟に渡す。すると、いきなりトップスピードに乗った幻舟が厚木のメンバーをごぼう抜きにして、最後はセンター福本までかわしてシュートを決めてしまった。

「すげえー、青雲の四番!」

「何が何だか分からねえうちに決めちまった!」

「まさに電光石火!」

 客席が早くも沸いている。厚木の五人は呆然とした。

「なんなんだ、今のドリブルは……」

「とにかく、一本返すことに集中だ」

 厚木はガードの梨田がボールを運ぶ。が、十分に注意していたにもかかわらず、あっさり幻舟に奪われてしまった。

「戻れ!あの四番を調子づかせるな!」

 厚木の監督、青木が声を上げる。しかし、ほかの九人がスローに見えるほど、幻舟のドライブは早かった。相手の選手たちが何もできないまま、再びレイアップが決まる。

「由奈ちゃん、幻舟に何があったの?」

 真琴が驚きを隠せず、マネージャーを振り返った。

「さあ、なんでしょうね。わたしにもわかりません」

 由奈はしれっとした顔で答えた。

「無理に大杉の所から攻めるな!ゆっくりボールを回してスクリーンをかけろ!」

 青木が指示を出すが、厚木のメンバーは幻舟の気迫に押されている。外からシュートを放つが、リングにはじかれた。

「ふんっ!」

 リバウンドを制したのは幻舟だった。いったん小太郎にパスを出し、敵をひきつけるとフリーになっていた鬼神に渡す。得意のダンクが炸裂した。

「よくやった、小太郎、鬼神!」

 幻舟が二人の背中をたたく。まだまだエネルギーをもてあまし気味のキャプテンに、小太郎は苦笑した。

「岩倉さん、今日の試合、大杉さんが暴れられるよう、僕らはサポートに回りましょうよ」

「ああ、それが良さそうだ」

 この日、幻舟は文字通り、独壇場というにふさわしい活躍を示した。

 四七得点、一八アシスト、七スティール、一二リバウンド。

 試合が終わってみれば、一〇三対四四で青雲の圧勝。接戦を覚悟していた真琴も驚愕の結果だった。

「おいおい、大杉ちゃん、今日はどうしちゃったのよ?」

 客席で見守っていた桑谷も言葉が見つからない。実際、今日の青雲と対戦したらと想像すると、飄々とした桑谷でさえ、背筋に冷たいものが走った。

「槙原、こいつは浅野も連れてくるべきだったな。そうすりゃ、あいつの自信家ぶりも少しはおさまっただろうよ」

「そうだな……だが、俺はこの程度でうちが青雲に負けるとは思っていない。第一、浅野は相手が強ければ強いほど燃える男だ。心配はいらない」

「あれあれ、うちのキャプテンも冷静だねえ」

 いつものように体育館を去っていく槙原に、桑谷は鼻歌を奏でながらついて言った。口にこそ出さないが、槙原は幻舟のプレーに危機感をつのらせていた。

(あいつの限界は計りしれん。浅野、うちの司令塔はお前しかいないんだ。青雲との対戦まで、少しでも成長してくれよ……)

「最高の出来じゃない!幻舟、あなた、すごいわ!」

 ベンチの真琴が興奮を隠せない。いつものようにドリンクとタオルを配る由奈も、笑顔でキャプテンをねぎらった。

「すごいね。今日の主役は間違いなく幻ちゃんだよ」

「まったく、大したご活躍ぶりですね。ねえ鬼神?」

「ああ、俺たちの出番、ほとんどなかったもんな」

 各人が幻舟を賞賛する。しかし、当の本人はやや呆然とした様子だった。

「どうしたんだよ?みんながお前を褒めてんだから何か言えよな」

 鬼神が小突いても、幻舟はじっとしている。しばらくたってから、小さな声を押しだした。

「試合、勝ったんだよな」

「はあ?」

 幻舟のつぶやきに、全員が目を丸くした。

「幻舟、おかしいですよ。あなたが引き寄せた勝利じゃないですか。まして明日は決勝なんだから、しっかりしてくれないと」

 さつきまでがきつい口調で苦言を呈した。だが、幻舟は右手をじっと見つめながら、手を閉じたり開いたりしている。

「勝ったんだな、俺たち」

 呆けたように繰り返す幻舟に、さつきと鬼神はささやきあった。

「こりゃ、本当に変なもん拾って食ったかもしれんぜ」

「ありえますね。まいったな、明日は決勝なのに」

 ダブルエースが遠目から危険人物を警戒する目つきで見守る中、いきなり幻舟は大きな声を出した。

「よおし!みんな、明日もこの調子で一気に予選突破だ!油断はするなよ!」

 黙りこんだり突然怒鳴ったり、壊れたロボットのような幻舟の様子に、真琴は頭痛を覚えた。

「あのー、気合が入っているのはわかるんだけど、幻舟、大丈夫?あなた、おかしいわよ」

「大丈夫ですよ!みんな、全国制覇まで長い道のりなんだ!一戦必勝!怪我だけはするなよ!」

「だから、その点一番心配なのはお前だろうが……」

「どんなにリードしても油断はするな!逆に離されてもあきらめるな!一番の敵は自分だぞ!」

「だめだ、全然人の話聞きやしねえ……」

 鬼神があきれ顔で髪をいじった。さつきはそんな鬼神の肩をたたき、慰める。

「鬼神、幻舟も人間ですから。おかしくなる時もありますよ。僕らがフォローすればいいだけのことです」

「まあ、いざとなりゃ真琴さんの鉄拳が炸裂するし、何とかなるだろ」

 かくして、一抹の不安を抱えたまま青雲のメンバーは戦場を後にした。

 翌日、体育館がほぼ満席になった。横浜西のレギュラーが全員客席に陣取り、桑谷がデジタルビデオカメラを構えている。

 遠藤、久美子のコンビも忙しい合間を縫って、取材にやってきた。

 青雲の相手は川崎工業。全力を発揮すれば問題ない相手だ。

「みんな、気負う必要はないからね。自分たちの力を信じて戦えば大丈夫。幻舟、調子はどう?」

 昨日、突然変異を起こしたリーダーに対する真琴の信頼は揺らぎはない。

「はい、冷静です。みんな、ジャストのタイミングでパスを出すから逃さないでくれよ。いつも通り、ゴール下は三人で固め、小太郎が外から決める。いいな?」

「おう」

 さつきと鬼神が目配せした。キャプテンが元に戻ってほっとした様子だ。

「さあ、存分に暴れて来い!一気に県大会出場を決めよう!」

「おお!」

 この日の青雲は、決勝という緊張感など吹き飛ばすほどの圧倒的な強さを見せつけた。序盤から幻舟のゲームメイクは冴えわたり、次々とアシストパスを決める。小太郎は小柄な体を躍動させ、正確無比な3Pをリングに沈めた。もう一人の一年、雅和は相手のシュートミスを逃さず、リバウンドを支配。ダブルエースは監督の期待通りのゴールラッシュを決め、前半を終わった時点で勝敗は決した。

「どうだ、見に来たかいがあったろ?」

 桑谷が浅野に白い歯を見せた。当の浅野は不機嫌そうな表情だ。

「話になりませんよ、こんな弱い相手じゃ」

「なら、お前だったら大杉を止められるんだな?」

「当然です。確かにあいつはでかいですが、スピードで負ける気はしません。密着ガードして、パスコースを限定すれば問題ないですよ」

「言うねえ。しかし、槙原よ、俺の言った通りだろ?一年坊二人、一戦ごとに伸びてないか?」

「そうだな。この試合に限っては、見に来て正解だった。後はお前のビデオを分析して弱点をあぶりだす。俺たちの負けはない」

「かっかっか、どなたも強気だねえ。まあ、青雲と当たるまでまだまだ時間はある。俺も皆さんの足を引っ張らないよう、努力しますよ」

 どこまでも飄々とした口ぶりで、桑谷はカメラを構えなおした。試合終了のブザーが鳴った。スコアは一一三対四八、青雲の圧勝である。これで県大会の切符が手に入った。真琴は満面の笑みで五人を迎える。

「みんな、よくやったわね。これで予選はおしまい。けど、県大会ではもっと厳しい戦いが待っているわ。覚悟はできているわね」

「はい」

「よろしい。明日は日曜だから、完全オフにするわ。ゆっくり羽を伸ばして、また明後日からみっちり練習してもらうわよ」

「ホントですか?」

 身を乗り出したのは鬼神である。早くも、遊びたくてうずうずしている様子だ。

「ええ、明日の練習はなしよ。ただし、遊びすぎて体調を崩したらただじゃおかないからね」

「ありがとうございます!いやー、なにしよっかなー。買い物にも行きたいし、ゲーセンにもしばらく行ってないし、迷うなー」

 すでに気持ちは明日に向かっている鬼神に、全員が苦笑した。

 そこへ、見知った顔が二人来た。遠藤と久美子である。取材スタッフの許可証を胸にぶら下げ、いつものように遠藤は人好きのする笑顔を浮かべた。

「長谷川君、いや、長谷川監督、予選突破おめでとう。それに、みんなも。君たちの素晴らしいプレーは客席から楽しませてもらったよ」

「お久しぶりです。遠藤さんもお元気そうで」

 真琴は頭を下げた。久美子とさつきの視線が自然にぶつかった。

「お見事でした。天野選手」

「永岡さんも、遠いところからわざわざありがとうございます」

 さつきはさりげなく久美子の姿を観察した。相変わらず野暮ったい印象だが、眼の光が強くなった気がする。メモ帳を片手に幻舟たちを質問攻めにする遠藤をよそに、さつきと久美子は見つめあった。

「永岡さん、失礼ですが変わりましたね」

「わたしが?」

「ええ、初めてあったころとは別人です。年下の僕が言うのも生意気ですが、すっかりプロの顔つきをしている」

「そ、そうですか。自分ではまだまだ遠藤さんについて行くのに精一杯なんですが、褒めていただいて感謝します」

 久美子はやや頬をあからめた。しばらく久美子はさつきに質問をぶつけた後、こう締めくくった。

「天野選手、最後に聞かせてください。県大会の決勝リーグ、あなたたち青雲に立ちはだかるのは横浜西とわたしは読んでいます。何か秘策はありますか?」

「そうですね……申し訳ないですが、作戦を考えるのは監督の仕事ですし、うちには大杉という信頼できる司令塔がいますから、基本的には彼のアシストを引き出すのが僕らの役割だと思っています。ただ」

「ただ?」

「県大会レベルで、僕のスカイフックを止められるセンターはいないと自負しています。もちろん、相手を舐めているわけではありませんが、僕らの目標は全国制覇ですから。横浜西は伝統と実績のある強豪ですが、負けるなんて考えてもいないです」

 久美子は唖然とした。神奈川の頂点に君臨する横浜西ですら、さつきの脅威にはなりえないのか。しかも、さつきの口調は少しもおごったふうではなく、いたって淡々としている。

(これが天野さつきの自信……!)

 スポーツ選手としてはむしろ穏やかなさつきの横顔を見ながら、久美子は背筋がゾクッとするのを感じた。

「どうしました?」

「いえ。お疲れのところ、ありがとうございました」

「どういたしまして。ところで、失礼ですが永岡さんは今日中に東京に戻られるんですか?」

「いえ、今夜はビジネスホテルに泊まって、神奈川見物に出かけようと思っています。明日は自由にしていいと遠藤さんから言われていますので」

「そうですか。良かったら、僕が案内役を務めましょうか?」

 この申し出に、久美子はぎょっとした。男性経験など皆無である久美子にとって、長身で甘いマスクのさつきはまさに王子様だ。しかし、ジャーナリストと高校生がデートなど、許されることか、久美子には疑問だった。

「ご迷惑だったら、無理強いはしませんが」

「いえ、そんなことは。とにかく、遠藤さんに許可をもらわないと……」

 ちらっと久美子は師匠に目を向けるが、相も変わらず延々と鬼神たちを質問攻めにして、とてもお伺いを立てられる雰囲気ではない。

「じゃあ、僕の携帯番号とアドレスを渡しておきますから、気が向いたら連絡をください。どうせ僕は暇な身分なんで」

 ささっと紙切れにメモをして、さつきは久美子に渡した。

「それでは、僕はここで失礼します。永岡さんもお気をつけて」

 悠然と去っていくさつきの後姿を見送りながら、久美子は夢見心地だった。

 遠藤の仕事が終わるのを待って、久美子は遠慮がちに申し出た。

「あの、お願いがあるんですが」

「なんだ、あらたまって」

「明日、天野選手とお出かけしてもいいですか?」

 遠藤は眼をみはった。たっぷり二〇秒ほど、久美子を見つめたのち、相好を崩した。

「永岡君、君が年下好きとは知らなかったよ」

「はい?」

「いや、なんでもない。こっちの話だ。明日は君の好きにしなさい」

「ありがとうございます」

 ぺこりと一礼する久美子の肩を、遠藤はぽんと叩いた。

「ただし、簡単に気を許してはいかんよ。彼も男だ。十分に警戒しなさい。わかったね?」

「は、はあ……」

 久美子はどうにも遠藤の言葉が解せない様子だった。当の遠藤は、にやにやと笑ってばかりで、それ以上何もいわなかった。

 帰宅途中、さつきは背中をたたかれた。振り向くと真琴が意味深に笑っている。

「ちょっと、あなた、なに永岡さんにちょっかい出してるのよ」

「人聞きの悪い。僕はただ、予定がないからあの人のお伴をすると言っただけですよ」

「そんなこと言って、わたしのいないところで変なことを企んでるんじゃないでしょうね」

 真琴の追及は警察官真っ青だ。いささか辟易した顔で、さつきは頬をかいた。

「真琴さん、考えすぎですよ。第一、僕が永岡さんに下心なんか出したら、真っ先に幻舟に殴られますよ。彼、そういうところは厳しいですからね」

「まあ、今回は大目に見てあげるわ。ただし、次にわたしの許可を得ないでこんなことしたら、どうなるか、わかっているわね?」

 真琴はメガホンで自分の肩をたたきながら、子分をいびるやくざのような笑みを浮かべた。

「わかっています。今度から、ちゃんと監督の了解を得ますから。それでいいですよね?」

「そうそう、素直でよろしい。ちゃんと言うこと聞いてくれたら、わたしも何も言わないからね」

 やれやれ、と言いたげな顔でさつきは頭をかいた。その後ろで、一年生コンビが疲れも見せずに歩いている。

「小太郎、お前、明日は何か予定あるんか?」

「いや、特にないけど」

「だったら、うちに遊びにこんか?おとんもおかんも、友達連れてこいてうるさくてのう」

「いいよ。大船駅で待ち合せようか?」

「ホントにええんか?いやー、嬉しいわ。わしゃ、こう見えても義理人情には厚い人間じゃ。この恩はきっちり返すけえ、期待しとってくれ」

「……雅和君、悪いけど、義理人情なんてやくざじゃないんだら……それに、ただ遊びに行くだけで恩義なんて、おおげさだよ」

「そうかあー?自慢じゃないが、広島県民は熱い奴らばっかりじゃ。わしが神奈川に移ると言うたら、中学の友達は泣いて色紙を書いてくれたぞ。関東の人たちは冷めとるんか?」

「いや、別にそういうことじゃないと思うけど……」

 唾を飛ばしながら熱弁をふるう雅和に、小太郎は冷や汗をかいた。


 翌日、さつきが大船駅の入り口にたどりついたのは午前十時前だった。すでに久美子はバッグを手に下げ、さつきに気がつくと胸に手を当てた。

(やだ……もう心臓がドキドキしている……)

 小走りに近づいてきたさつきは、深々と頭を下げた。

「すみません!時間には注意したんですが」

「いえ、あやまることでは。まだ五分以上ありますし」

「でも、目上の人を待たせるのは礼儀に反します!今日のお昼は僕にごちそうさせてください!」

 大声で謝罪を続けるさつきに、周囲の視線が集まっている。特に若い女性は立ち止まって、興味津津の様子だ。

「見て、あの人、かっこいいわねー」

「背が高いわ。スポーツ選手かしら」

「モデルかもよ。まだ若いけど、いけてるわね」

 久美子は赤面した。さつきと自分がいかに釣り合っていないか、自覚はしている。これ以上相手に恥をかかせないよう、頭を回転させる。

「と、とにかく場所を変えましょう。話はそれから。いいでしょう」

「わかりました。お荷物、僕に持たせてください」

 どこまでもさつきは紳士だ。久美子と並びながら川沿いの道を歩くが、とにかく一九七センチの長身は目立つ。久美子が小柄なのでなおさらだ。

(……わたし、大丈夫かしら?)

 事実上のデートが始まってから、久美子はめまいを感じていた。

 一五分ほど歩くと、二人は古風な喫茶店に遭遇した。さつきが指をさして解説する。

「あの店は、父の友人が経営しているんです。一息入れましょうか」

 さつきに促されるまま、二人はドアを開けた。チャイムの音がする。店内はせいぜい十数名でいっぱいになりそうな、こじんまりとしたたたずまいだった。

 口ひげを整えた店主が顔を出した。

「さつき君、久し振りだね。おや?そちらの女性は?」

「ああ、紹介します。こちらはバスケ雑誌のジャーナリスト、永岡久美子さん。永岡さん、マスターの原田さんです」

「永岡です、はじめまして」

「原田です。うちはご覧のとおり狭い店ですが、コーヒーの味には自信がありますよ。さつき君、オーダーは?」

「僕はアイスコーヒーを。永岡さん、何にします?」

「じゃあ、カフェオレで」

 原田は慣れた手つきでコーヒーを入れると、白い皿にカップを載せて、テーブルに運んでくれた。

「どうです?マスターがご自慢の味は」

「ええ、とてもおいしいです。心が安らぎます」

「それは良かった」

 テーブルをはさんで、さつきと久美子は対峙している。あらためて久美子はさつきの顔を観察した。芸能界からスカウトされてもおかしくないほど、目鼻立ちは整っている。幻舟は古風な日本男児、鬼神はワイルドないまどきの若者といった印象だが、さつきの表情は温和で、見ているだけで心がなごむ。そして、この少年がひとたびコートに立つと、別人に変わることを久美子は知っている。

「永岡さん、失礼ですが今日は一段とおしゃれですね」

「そ、そうですか?ありがとうございます」

 今日の久美子は白いブラウスの上に青いジャケットを羽織り、グレーのスカートをはいている。相変わらず実年齢よりずっと若く見えるが、三つ編みにしていた髪はストレートに変わり、ぐっと洗練された感じだ。

「女性は服装や髪型で別人に変身しますからね。あと、恋愛かな。恋する女性はきれいになると昔ら聞いていますけど、永岡さんは意中の男性はいらっしゃらないんですか?」

 久美子は言葉に詰まった。確信があるわけではないが、今の久美子は間違いなくさつきに惹かれている。しかし、相手は高校バスケ界のスターで、自分は駆け出しのジャーナリスト。何と答えていいかわからず、久美子はハンカチで額の汗を拭いた。

「わたしは社会人として、ジャーナリストとして修業中の立場です。正直、恋愛なんて考えられません。天野さんのように異性を引き付ける魅力もないですし」

「お言葉ですが、そんなことはないと思いますよ」

 さつきの口調は温厚だったが、久美子を見つめる目つきは真っ向から相手をとらえていた。

「うちの長谷川監督を見てください。失礼な言い草ですが、あの人の実家は商店街の八百屋で、いつもはエプロンを着てお客さんに唾を飛ばしながら商売をしている。その人が、監督としてベンチに立つと威厳にあふれているでしょう?永岡さんだって、僕らを取材している時は真剣そのものです。何かに打ち込んでいる時ほど、人を輝かせるものはない。僕はそう思いますね」

 決して大きな声ではないが、さつきの口調は久美子に響くものがあった。同時に、ゴール下でボールを奪い合うさつきの映像が浮かんできて、胸が熱くなった。

(この人は、まだ高校生なのにちゃんと人生について考えている。わたしもしっかりしなくちゃ……)

「おいおい、さつき君。少し言葉が過ぎるぞ。言いたいことはわかるが、相手は若い女性なんだから、優しい言葉をかけるのがマナーじゃないか?」

 原田は苦笑しながらさつきをやんわりと制した。さつきは赤面して久美子に頭を下げる。

「そうですね。すみません。僕は時々、熱くなってしまうんです。やっぱり、大杉幻舟という司令塔あっての僕なのかな。彼は鬼神が暴走しても、僕がおかしくなっても、すぐにたしなめて軌道修正してくれる。キャプテンとして、最高の存在ですよ」

「確かに、大杉さんは生まれながらのリーダーという印象ですものね。初めて会った時、押しつぶされそうなプレッシャーを感じました。でもインタビューすると礼儀正しくて、青雲の皆さんは本当にしっかりしていると思います」

「そのお言葉、しっかり本人に伝えておきますよ。もっとも、幻舟は照れ屋で謙虚だから笑ってごまかすしかないでしょうけど」

 幻舟がうろたえる姿を想像して、二人は屈託なく笑った。

同じころ、小太郎は雅和の住むマンションに案内されていた。

 まず、小太郎はマンションの規模に圧倒された。一八階建てのビルは入口に厳重なセキュリティーが施されており、エントランスもピカピカだった。

 雅和が暗証番号を入力し、通話ボタンを押す。しばらくして、女性の声がした。

「雅和なのね?」

「おう、友達連れてきたぞ。開けてくれや」

「はいはい」

 すぐに透明なドアが開き、二人はエレベーターに乗った。

 小太郎が呆然としているのを見て、雅和は首をひねる。

「おい、さっきからどうしたんじゃ?様子がおかしいぞ」

「……いや、こんな立派なマンション、初めてだから感動しちゃって」

「はは、大げさな奴じゃな。まあ、確かにできてから数年じゃし、わしも広島にすんどった頃に比べると幾分快適じゃ」

 エレベーターが一二階で止まった。雅和はすたすたと歩き、一室のドアの前に立つと鍵を開けた。

「お帰りなさい。早かったのね」

 スリッパの音を立てて、女性が出迎えた。年齢は四〇代の半ばだろうか。ゆるいパーマをかけた上品な婦人で、青いセーターの上にエプロンを着ている。

「おかん、岸川小太郎君じゃ。わしが一番世話になっとる友達じゃけえ、おいしいお茶を頼むぞ」

「母の恵子です。どうぞよろしく」

 恵子は深々と頭を下げた。小太郎は恵子があまりに若々しく、雅和に似ていないので度肝を抜かれた。やや頬をあからめながら挨拶する。

「はじめまして、岸川です。雅和君にお世話になっているのはこちらのほうです。よろしくお願いします」

「おう、二人とも硬い挨拶はこのくらいでええじゃろ。おかん、わしらは部屋でくつろいどるから、お茶を頼む」

「はいはい。岸川君、ゆっくりしていってくださいね」

 恵子は再びキッチンへと去って行った。その後ろ姿を見送りながら、小太郎はボーっとしていた。

「どしたん?わしの部屋に行くぞ」

「う、うん」

 雅和に案内されながら、小太郎は廊下を歩いた。実に広い。いくつ部屋があるのか知らないが、調度品も豪華で、生活レベルの高さを思い知らされた。

「ここがわしの部屋じゃ」

 ドアを開けると、ベッドに机、テレビなどが並んでいる。

「座ってくれや。どうじゃ、感想は?」

「うん、うちとはえらい違いだね。広いし、きれいだし。ちなみに、お父さんの仕事は?」

「商社マンじゃ。神奈川に引っ越ししたんも、会社の人事異動らしい。なんでも、おかんが言うにはエリートらしいが、見た目は普通のオヤジじゃ」

「ふうん」

「小太郎、お前の家庭はどうなん?両親は元気なんじゃろ?」

「いや、母は僕の小さい頃、がんで亡くなったよ」

 小太郎は感情を込めずに言うと、雅和はいきなり頭を下げた。

「すまん!わしとしたことが、配慮が足りんかった。勘弁してくれ」

 小太郎はあわてて手を振った。

「いいんだよ。たいていの人は同情してくれるけど、もう昔のことだしね。それに、バスケに打ち込んでいると嫌な思い出なんて忘れてしまうよ」

「そうか……しかし、本当のことを言ってくれて、わしは嬉しいぞ。もともとお前のことは尊敬しとったが、立派な奴じゃ。体は小さいのに根性も体力もあるし、わしはいい友達を持った」

「そんな、おおげさだよ。話は変わるけど雅和君こそ、神奈川にはもう慣れた?もっとも、神奈川と言っても広いから一口に言えないけど」

「休みの日はなるべく出掛けて、この辺の商店会には慣れたところじゃ」

 そこへ、お茶とお菓子を持った恵子がやってきた。

「はい、おまたせ。どう、岸川君。うちの雅和が迷惑をかけているんだったら、遠慮なく言ってね。この子は、すぐに熱くなるくせがあるから」

「いえ、雅和君はお世辞抜きでいい友達です。僕は神奈川のことしか知りませんから、広島の話を聞かせてくれるとすごく面白いですし」

「そうなの。雅和、こんなに褒めてくださっているんだから、きちんとしなさいよ」

「大きなお世話じゃ。わしと小太郎は持ちつ持たれつ、対等の間柄じゃ。おかんもいろんな稽古事で忙しいんじゃから、わしらにかまわんでええぞ」

「まったく、口だけは一人前なんだから」

 恵子は口に手を当てて笑った。菩薩のような穏やかな頬笑みに、小太郎は亡き母の面影を重ねた。

(親子っていいな……)

 しばし三人は談笑した。たわいのない話ではあったが、小太郎は言い知れぬ幸福感を味わっていた。

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