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エピローグ

時は2025年、夏。


あの夜の出来事は、夢だったのか、現実だったのか、

今でも分からない。

特に茹だるように暑いこの季節になると、決まって思い出す。


何となく毎日をやり過ごしていたあの頃。

SNSに翻弄され、炎上に加担しながらも見て見ぬふりをしていたこと。

投げかけた反応や言葉が、誰かの胸にどんな重さで落ちたのか、考えもしなかったこと。


誰かに落とした事実は、消すことはできない。

それが誰かにとって重ければ重いほど、修復が困難だ。

あるいは、もう戻すことができないかもしれない。


言葉は武器にもなり、刃にもなり、時には自分に返ってくるものだと知っている。


声を上げることが正しいとも限らない。

黙ることが卑怯とも限らない。


それからの十年。


裕誠は自分の道を歩いてきたつもりだ。

迷い、時には立ち止まった。


社会に出た今も、正解はどこにもない。

大人になればなるほど、曖昧になることもある。


言葉にしたら命が晒される世の中も、

言葉にしたら画面の中で晒される世の中も、

気づかぬ合間に自分を迷わせる。


善意のつもりで放った言動が、誰かの胸に棘のように残ることもある。

そして、相手の都合や感情によってまったく違う形に塗り替えられてしまうこともある。


一度烙印を押されたら、簡単には消えない。

それは生きづらさまで感じるものだ。


だからこそ、あの夜に聞いた言葉だけは今も手綱のように自分を引き止めている。


——弓を力任せに引いては中らない。


的を外れた矢は、思いもよらない場所に落ちる。

そして、誰かを傷つけるかもしれない。

あれから、そう肝に銘じてきた。



「はい、静かに——」


黒板にチョークの音が響く。


裕誠は教壇に立っていた。


目の前には、夏休みを前にざわめく生徒たちがいる。

教室の窓から差し込む光は強く、蝉の声が遠くで鳴いていた。


『戦後80年』


黒板にはこう書かれていた。

裕誠はチョークを置き、教室を見渡した。


「今年は戦後80年です。

夏休みの課題は、このテーマで作文にしてきてください」


黒板の文字を指し示す。


「戦争の話でもいいし、家族の話でもいい。

ニュースでもいいし、本でもいい」


少し間を置く。


「正解はありません。

自分がどう思ったのかを書いてきてください」


教室のざわめきが少しずつ収まっていく。

生徒たちは黒板の文字を見上げながら、それぞれ考え込んでいた。


その表情は迷っているようにも見えたし、何かを探しているようにも見えた。


誰かの言葉に流されていたあの頃の自分も、この中に

いるのかもしれない。


裕誠はしばらく見守り、口を開いた。


「夏休み明けに、先生の好きな言葉を紹介します。

楽しみにしていてください」


教室の後ろの方からすぐに声が上がった。


「えー?今教えてよー」

「気になるー」


再び教室が一気にざわめく。


裕誠は思わず笑った。


「作文が集まったら、ちゃんと教えます」


「えー!」


さらに不満そうな声が上がった。


裕誠はそれを軽く手で制した。


「楽しみにしててください」


窓の外では、蝉が鳴き続けていた。



そして、今年もこの日がやってくる。


八月十五日。


北陸新幹線と車を乗り継いで裕誠は久しぶりに祖母の家に帰省した。


本当は教師となった年に帰省するつもりだった。

だが感染症の流行や慣れない仕事に追われる日々で、

気がつけばそのまま時間だけが過ぎていた。


それでも、戦後八十年という節目の年にこうして帰ってこれたのは、偶然ではないのかもしれない。


巡り合わせというものがあるのなら、

きっと今なのだろう。



車を降りて墓地へ向かおうとした時、後ろから祖母の声がかかった。


「裕誠」


振り向くと、祖母は家の方を指しながら、


「お盆はね、家に帰ってくるから。

仏壇で手を合わせるといいよ」


裕誠はその言葉を噛みしめ、静かに頷いた。


祖母の家に上がり、仏間へ向かう。

仏壇の前に座り、線香に火をつける。

細い煙がゆっくりと立ちのぼった。


あの日と、変わらない光景だった。


裕誠は静かに手を合わせる。


そして、小さく声をかけた。


「……ただいま」


その声は、静かな部屋に溶けていった。






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