第二部 二章
「……てか、その前にさ」
裕誠は目の前の男を改めて見つめる。
やはり何度見ても仏壇に置かれている若すぎる遺影の人物と同じ顔だ。
そして、その人物が今は裕誠の目の前で平然と喋っている。
何が起きているのか到底理解できなかった。
「俺のひいおじいちゃんなんですよね?どうしてここに?それに、幽霊ですか?それとも夢?」
我ながら少々失礼だとは思ったが、他に言いようがなかった。
「まあどちらでも構いませんよ。お盆には亡くなった人が家に帰るとよく言うでしょう」
そう言って清一はその場に腰を下ろした。
理屈としては勿論聞いたことがある。
だがそれが本当に、目の前に現れることとは話は別だ。
「そうは言っても迷信じゃ……。それに、幽霊だったらもっと透けたりしませんか?」
清一は自分の手のひらを見下ろし、確かめるように握った。
「すみません。そこまでもてなす力はないようです」
そう言って肩を竦めながら笑った。
「もてなすとか、そういう問題じゃないですよ」
思わず裕誠は突っ込んだが、頭はまだ追いついていなかった。
夢なのか、疲れているのか。
考えれば考えるほど、現実感が遠のいて余計に頭が可笑しくなりそうだった。
それでも、奇妙な落ち着きと言葉にできない好奇心の方が勝っていた。
聞きたいことが山ほどある。
「……あの」
裕誠は一度視線を逸らし、それから覚悟を決めたように清一を見た。
「戦争で亡くなったと聞きましたが……その、何があったのかっていうか……」
口から出た言葉は思っていたよりも軽かったが、聞いて良かったのかと後悔が混ざった。
その曖昧な問いに清一は少しだけ目を伏せた。
それは沈黙でも、否定でもない言葉を選んでいる時間であった。
「戦時中に死んだのは事実ですよ」
そう前置きし、言い直すように首を静かに振る。
「ですが、"戦争で死んだ"のではありません」
裕誠はしばらく言葉を失った。
確かに祖母は戦争で亡くなったと言っていた。
頭の中で言葉の意味を転がしてみたが、裕誠の中で
「戦争で死ぬ」ということは一つの形にしかならない。
弾に当たる。
爆撃に巻き込まれる。
戦地で倒れる。
だが、目の前の男の言葉はどれにも当てはまらない。
祖母の言葉をもう一度、思い返したからだ。
——ちゃんと、戦争の"頃"に亡くなったと言っていた。
「……どういうこと?」
また聞いてはいけないところに足を踏み入れた気がして喉がひりついた。
間の抜けた声の一言に、これまで疑ったことのなかった戦争の形が滲み出ることとなる。
清一はゆっくりと息を吐いた。
「戦地で敵に撃たれたわけでも、爆撃に巻き込まれたわけでもありません」
それから、視線を逸らさずに続ける。
「味方であるはずの、同じ国の人間に
——殺されました」
清一の眼差しはこれまでの受け答えとは違っていた。
表情だけは穏やかで、怒りも悲しみも感じさせない。
だが冗談も逃げ場も許されない、ただ事実だけを突き出す視線をしている。
その視線に見つめられていると、自分の中の軽率な好奇心が一つずつ剥がされていくようだった。
まだ理解も追いつかない。
不謹慎にも踏み込んでしまったことが厄介とさえ感じてしまう。
しかし、何よりもこの話を聞かずにいることの方が酷く怖かった。
このまま、何も知らないまま終わることはできない。
「……ごめんなさい。やっぱりよくわからないです」
一度視線を落としてから、意を決したように清一を見る。
「……何があったのか、知りたいです」
清一はすぐには答えなかった。
秒針の音だけが鳴る静けさの中で、僅かに事実だけを突き出すような視線を伏せた。
「そうですね。長い話になります」
そう前置きしてから、ゆっくりと口を開く。
それまでの穏やかで丁寧な口調が少し崩れた。
「……当時はね。子供たちが好きに自分の道を決めることが難しかった。誰かが決めた道で自分を見失ってほしくなかった。自分で考えて道を切り拓いてほしかった。
微力だとは思うが、それを教えたくて教師になったんだ」
教師として教壇に立ち、
好きな人と出会い、
家に帰れば、そこには家族がいた。
誰にとっても特別な奇跡ではないが、確かに幸福があった。
清一は過去をなぞるように一度瞬きをした。
「暮らしは平凡で、忙しい日も大変な日もあった。けれど充実していたと思うよ。
……あの頃は、ちゃんと自分を生きていた気がする」
そこには、清一が生きた日々の重みがあった。
だが、清一はそこで言葉を切る。
声の調子だけが、僅かに変わった。
「……けれど、ある時からこの日々に影が落ち始めた」
自分を生きていくはずだった日々はある日突然壊れたわけではない。
言葉が変わり、空気が変わっていった。
そして、人の目が変わり、人の考えが変わった。
——変えさせられた。
「……最初はね、黙っていたんだ」
清一は視線を床に落とし、続けた。
「戦争に反対すれば捕まる。
……たとえ、それを誰かに聞かれただけでも。
そうなれば家族にも、職場にも迷惑をかけてしまう」
それは誰かを守るためであり、同時に自分を守るための沈黙であった。
「だから何も言わなかった。これが本当に正しいことなのか、正しいことをしているのか考える前に、"余計なことは言わない"ことを選んだ」
清一は指先を強く握りしめる。
「腑に落ちなかった。
それでも、そうするしかなかった。
黙ってさえすれば捕まることはない。
戦争さえ終われば、きっとまた自由に考えて、自分の道を決めることができる。そう信じるしかなかった」
だが、日常は少しずつ歪んでいく一方だった。
戦地へ向かう者を英雄と呼ぶ言葉。
死を美しいものに言い換える言葉。
有無を言わせぬ不穏な空気。
清一はそれらを止めなかった。
止めることはできなかった。
「……黙っているうちに、自分が何を思っているのかさえわからなくなった」
かつて子供たちに教えた言葉が頭をよぎる。
——自分で考えなさい。
——誰かが決めた正しさは必ずしも自分の正しさとは限らない。
「……皮肉なものだよ」
小さく、乾いた笑いが溢れる。
「私が一番できていなかった」
清一は言葉を切ったまましばらく黙っていた。
「それって……」
裕誠が何かを言いかける前に清一の方が先に口を開く。
「……そしてある日、教え子が死んだんだ」
声は低く、淡々としていた。
それは事実だけを並べるような語り方だった。
「教師になると私に伝えに来てくれた。その夢を叶えて、これからって時に赤紙が届いた」
行け、と言えば国のために死んでこいと言っているみたいで、……行くなとも言えなかった。
裕誠の喉がひくりと鳴る。
「……その子は戦地から戻ることはなかったよ」
一拍置いて、清一はゆっくりと続けた。
「守るために黙っていたことが、結局一番守りたかったはずのことを奪っていた」
沈黙が落ちる。
やがて清一の視線が裕誠ではなく、遠い何かを見るように逸れた。
「そんな時、さよに言われたんだ。
『私たちは大丈夫だから、あなたが帰ってきてほしい』とね。
家族のために黙っていたことが、逆に苦しめてしまったような気がしたんだ」
その言葉を思い出すように、清一はゆっくりと息を吐いた。
裕誠は何も言えず、ただ聞いている。
「そして、私にも赤紙が届いた」
変わらず、感情の起伏を感じさせない口調だ。
まるで他人の話のようだった。
「どうせ戦地に行けば、戻れる保証はない。
そもそも、命を奪い合うことなどしたくはない。
ならせめて——」
部屋の空気が張り詰める。
清一ははっきりと裕誠の顔を見た。
「最後くらい、自分であろうと思った。
……そしたら、軍人に連れて行かれた」
裕誠の胸の奥が酷く重くなった。
「何処かもわからない場所に連れて行かれて、どれくらいそこに居たかもわからなかった。
殴られたこともあるし、食事も碌になかった」
一瞬だけ目を伏せる。
「……そしたら、もう目覚めなくなっていたんだ」
そして、顔を上げる。
「日本人に殺された。
これが、私に起きたことです。
戦地より、銃より、爆撃よりも——。
"正しい顔をした同調"の方が、私はずっと怖い」
裕誠は何か言わなければいけない気がしたが、言葉が出てこない。
同情も、慰めも、謝罪も。
どれも酷く薄っぺらく思えて、口の中で溶けて消えた。
「……」
喉が詰まる。
戦争で死んだ。
そう聞いていたはずの出来事が、いや、勝手に自分でそう置き換えてしまった出来事が、いつの間にか"誰かに殺された"話に変わっている。
そして裕誠の頭に、さっきまで自分が見ていた動画が浮かんだ。
正しいことをしている"つもり"で、見えない誰かを叩いて、皆で同じ方向を向いて安心していた自分。
酷く、居心地が悪かった。
「……今も、同じことが起こっているんですね。
それに、俺もさっきまで……」
裕誠は無意識に拳を強く握りしめた。
ようやく絞り出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
正しさに酔った言葉ほど人を簡単に追い詰める。
かつてはそれが"国"で、今は"世論"となった。
己の感情のまま多い声に身を預け、"皆も同じことを言っている"という理由だけで他人を裁く。
情報に溢れている今でさえ、人は簡単に声を揃える。
その言葉を誰かへ投げ、いつの間にか同調が強要される空気が漂う。
投げた言葉が、誰にどんな重さで落ちたのかなど考えない。
清一が命を落とした時代と、そう違わない光景だった。
「形は変わっても、構造は似ている。
……だからこそ、怖い」
清一は少しだけ目を細めて言った。
「……まだどうしたらいいのか」
裕誠がぽつりと呟くと清一は少し考えるように視線を落とし、それから静かに口を開く。
「自分がどう思うかは自由だ。だけど、それを誰かに攻撃する道具にしてはならない」
裕誠は顔を上げた。
「誰かの考えに向けたつもりの言葉でも、
いつの間にかその人自身を否定することに塗り替えられることがある。
自由な表現と、好き勝手に傷つけることは違う」
一拍置いて、清一は続ける。
「集団で攻撃されたら尚更怖い。
気づかぬうちに一時の感情のまま人を追い詰めたり、
"正しい顔をした空気"を生み出してしまう。
そして攻撃した側もされた側も、自分が何者か分からなくなる」
裕誠はスマホを握りしめた拳に視線を落として言った。
「……俺もさっきまで怖いことをしてた。
画面の中の人が何であんな言動したのかも考えなかった。
政治のことだってよく分かってないのに」
「大丈夫だ」
清一がそう穏やかに言うと、裕誠は一瞬きょとんとした。
「流されずに立ち止まって考えられたなら、
もう大丈夫だ」
自分が今、同じ立場に立たされたらどうするだろう。
画面の向こうの誰かを叩くことすらあれほど簡単だった自分が、"現実の空気"に逆らえる気がしなかった。
「怖くなかったんですか?」
裕誠は小さく尋ねた。
清一に向けた問いのはずが、自分自身に突き返る。
「怖かったよ。死ぬまでね」
清一は少しだけ目を伏せ、静かに笑いながら言った。
それは取り繕いのない声だった。
「怖くなかったら、随分と黙っていなかった」
清一は天井の方を見上げる。
「さよが後押ししてくれたとはいえ、正直赤紙が届かなければ覚悟はできなかったかもしれない」
それでも、と言葉を切り、ゆっくりと裕誠を見た。
「それでも、戦地で命を奪い合うことだけはしたくなかった」
裕誠は視線を落としてぽつりと溢した。
「でも、その時代は仕方ないんじゃ……。
だって逆らったら本当に命が狙われるし」
言い終わると、自分の言葉の軽さに気づく。
相手にどんな重さで言葉が落ちるのか、ここで考えていなかったと酷く後悔した。
だが、清一は否定しない。
「そうだな。無理もない。
だから私も黙っていたし、皆もそうだったかもしれない」
間を置いてから、続けた。
「けどそれは人の考えを奪い、追い詰める。
酷い時には居場所まで奪われる。
……その人が死んだも同然なのかもしれない」
「……難しいです」
しばらく黙ってから裕誠は絞り出すように言った。
その言葉に、清一は困ったように笑いながら返す。
「答えがあったら、私もここまで迷わなかった」
そう言って、ゆっくり首を振った。
「正解はないよ。その時その時で、選び続けるしかない」
一拍置いて続ける。
「間違えることも、後悔することもある。
その時は一度立ち止まって考えてほしい。
そうすれば、自分だけは見失わないで済む」
裕誠は小さく息を吐いた。
「やっぱり難しいです」
「そうだな。
だから簡単な答えに縋りたくなるんだろうな」
ピロン——。
裕誠の手の中にあるスマホが鳴った。
画面はさっきまで見ていた動画のまま止まっている。
炎上、批判、誰かの偽りの正義。
ついさっきまで当たり前に見ていた光景は、今までとは違って、酷く重たく感じられた。




