第二部 一章
ピロン、とスマホの通知音が部屋に鳴った。
裕誠は部屋の床に寝転んだまま反射的にスマホへ手を伸ばした。
画面に浮かんだ通知は見慣れた名前だった。
『明日の準備忘れずにね』
仕事先にいる母、川原由美からのメールである。
「はいはい」
そう呟きながら母の言葉を聞き流すように裕誠は既読をつけ、そのままメールの画面を閉じた。
川原裕誠、十七歳。
高校二年の夏休み、明日からお盆で祖父母の住む家に
帰省する予定である。
夏休みに入ってからというもの、特別なことはまだしていない。
何かをしたいわけでもなく、何もしなくていいというわけでもない。
学校の課題は机の上に積まれたままだ。
気が向いたら適当に済ませはいるが、すぐに手が止まる。
そして、気が向くまでにはものすごく時間がかかる。
無意識に手が伸びるものといえば、スマホくらいであった。
指先が勝手に動くと動画を流し、SNSの投稿写真を眺め、飽きるとまた別の画面を開く。
友人がどこかへ出かけた投稿、ブランド物の服。
日常でよく見る光景を再現した、あるある動画。
惹かれる写真や面白い動画は山ほどある。
そして一際目立っているのが、いわゆる炎上した投稿であった。
その投稿には中年の男性が険しい表情で、ファミレスにいる高校生数人のグループに何やら厳しい言葉を浴びせているように見えた。
音はなく、切り取られた数秒だけが繰り返し流れている。
「なんだこれ、非常識すぎる」
既に何万と拡散されているが、そう呟いた裕誠はその炎上した動画をさらに拡散させた。
非常識なことをしているのだから、晒されて当然だと思っていた。
皆そう思っているはずだ。
皆もそうしている。
批判の言葉を浴びて、反省しろという圧をかけている。
この時だけは、自分が「いいことをした」正義感のような感覚に駆られていた。
窓の外は連日厳しい暑さで、毎年夏に姿を現す蝉もうだるかのように鳴いている。
裕誠は冷房の効いた涼しい部屋でひたすら画面と向き合い、ただ時間だけが静かに削られていった。
「便利になったもんだな」
裕誠の父である、川原誠が東京駅のホームでそう呟いた。
終戦後、日本は復興へと舵を切った。
声を失い、命を失い、それでも人々は前を向いた。
瓦礫の中から街は再建され、高度経済成長を遂げ、日本列島改造論が囁かれ、みるみるうちに日本の暮らしは便利で豊かになっていった。
北陸新幹線の開業もその一つだ。
この年、北陸新幹線の東京から金沢までの区間が開業したのである。
新幹線はかつて遠かった土地をあっという間に通り過ぎていく。
トンネルを抜け、浅間山や北アルプスの連なりが顔を覗かせる。
かと思えば、すぐに人の住む気配が現れる。
またトンネルを抜ければ平野が広がり、田んぼと集落の規則正しさが心地良い。
自然と人の気配が交互に窓の向こうに現れ、都内の情報量から少しずつ切り離されていく。
派手な景色ではないが、じわじわと効く景色であった。
「いい景色だな」
「ほんと、落ち着くね」
すぐ隣に座っているはずだが、両親の会話は遠くに居るようだった。
裕誠はそんな窓の向こうに目もくれず、車内でもスマホの画面と向き合っている。
「スマホばかり見て勿体ないぞ」
誠がそう裕誠に会話を投げかけるが、裕誠の顔は上がらなかった。
最近の夏といえば、日本中どこへ行っても暑さに大差がないように思える。
連日どこかで猛暑日や最高気温が観測史上一位といったニュースが報じられている。
だが同じ国でもどこか空気の匂いや時間の流れは違うように感じた。
駅を出ると、次はレンタカーに乗ってさらに山の方へと走っていく。
雑音や信号が減っていく代わりに、畑や低い家並みが続いていった。車窓の景色は似たようなものばかりで時間が伸びていくように感じられる。
「そろそろ着くよ」
母の声に裕誠は小さく頷いた。
祖父母の家は記憶の中とほとんど変わらない姿でそこにあった。
色の褪せた瓦屋根、少し傾いた物干し竿、縁側の板。
新しくなったものといえば、せいぜい玄関灯くらいであろう。
車を降りると玄関から人影が見えて、こちらへ近づいてくる。
「よく来たね」
祖母の川原文子がそう言って微笑んだ。
その言葉にどう返せばいいかわからず、裕誠は曖昧に笑って返す。
以前は普通に何でも話していたはずなのに。
小さい頃はこの家が好きだった。
庭を走り回り、用水路を覗き込み、祖父に連れられて近くの川まで行って水遊びをしたこともある。
何をしても、楽しくて時間が足りなかった。
ただ今は違う。
何をすればいいのか、よくわからない。
畳に腰を下ろしても手は無意識にポケットを探ってしまう。
「先に手を合わせておきなさい」
スマホを取り出しかけたところで母の声に促され、裕誠は立ち上がって仏間へ向かった。
仏壇の前には精霊馬とともに遺影額がいくつか置かれている。
祖父は裕誠が中学に入った年に亡くなり、今この家には祖母一人で暮らしているが、たまに近くに住む父の兄が様子を見に来ている。
中学に入学して以降は部活や勉強、受験と日々に追われ、裕誠が両親と帰省するのは祖父が亡くなってから初めてである。
「前は普通に楽しかったのにな」
そう呟きながら裕誠は線香を立て、手を合わせた。
線香の煙が細く立ちのぼるのをぼんやり見ていると、背後で足音がした。
「もう拝んだかい?」
祖母がそう言って仏壇の前に腰を下ろした。
「うん」
裕誠は頷き遺影に目を向けた。
——そういえば。
その中の一枚だけ、やけに若い人物がいる。
他の遺影は皆、白髪や皺の残る写真だった。
背筋を伸ばして写るその人物だけはまだ三十代くらいに見えた。
確か小さい頃、戦争で亡くなった曽祖父だと聞いた記憶はある。
その時は幼さから意味も理解していないし、あまり気に留めなかったのだろう。
祖父の遺影を見た流れで自然と目に留まったのかもしれない。
居心地悪くて、仏間のどこかに視線を逃しただけかもしれない。
そして戦争や生死を理解している今、その若い顔が裕誠の曽祖父であることがどうにも結びつかず、信じられなかったのだろう。
「……この人、誰?」
答えはわかっているはずだが、あえて祖母に尋ねた。
祖母は少し間を置いてから答える。
「おじいちゃんのお父さんだよ。ああ、裕誠のひいおじいちゃん」
『ひいおじいちゃん』
やはり、その若すぎる顔がどうにも結びつかなかない。
「まだ若かったんだよね?」
「そうだね。戦争の頃に亡くなったって聞いたよ。私も会ったことはないねぇ」
そう言って祖母は静かに手を合わせた。
裕誠は何も返せず、遺影の顔を見つめたまま息を吐く。
無意識のまま視線を下に落とすと位牌がそこにある。
そして、黒塗りの札に刻まれた戒名を追っているうちにまた一つ気づいてしまった。
曽祖父の位牌だけ、没年が見当たらない。
他の位牌には年号と日付がきちんと刻まれている。
裕誠は理由もわからぬまま、胸の奥がひやりとするのを感じた。
若すぎる遺影に、語られなかった生涯。
そして、どこか欠けたままのような文字。
「……」
「さあ、ご飯にしようねぇ」
問いかけようとしたところで祖母が唐突にそう言ったため、裕誠は言葉を飲んだ。
線香の煙がゆらりと揺れ、その位牌の文字を一瞬だけ曖昧にした。
夕食の席ではテレビから戦後七十年の特集が流れている。
「長いような短いような」
母がぽつりと呟く。
「俺のじいちゃんもこの頃亡くなったんだよな」
父が何気なく言い、何気なく祖母の方を見た。
「そうだねぇ。会ってみたいものだったよ」
祖母は一瞬だけ動きを止めたが、そう言うとすぐに味噌汁を口に運んだ。
裕誠は仏壇で見た若い遺影が頭の片隅に引っかかっていた。
だがその違和感は箸を動かすうちに少しずつ薄れていく。
曽祖父は戦争で若くして亡くなった。
それ以上は知らない。
戦争で亡くなった人は大勢いる。
わざわざ今聞くことでもない気がしたし、何より深く踏み込むほどの理由もなかった。
いや、そこに触れる準備がなかったのかもしれない。
裕誠は何も言わず、目の前の夕飯に意識を戻した。
「ここの部屋使ってね」
夕食後、入浴まで済ますと裕誠は祖母が用意してくれた部屋に引っ込んだ。
小さい頃とは変わってしまったこの家の距離感に気を張っていたからか、どっと疲れた。
布団に横になると無意識のうちにスマホに手が伸びた。
画面が点き、青白い光が暗い部屋を照らす。
何も考えたくない時ほど指は勝手に動く。
動画を流し、投稿写真を眺め、次へ次へと画面を送る。
「うわー、すげえ叩かれてるじゃん」
画面に映るのは、政治家の発言が一部だけ切り抜かれて拡散されている動画だった。
ここでまた一つの正義が燃えていた。
いや、偽りの正義感が誰かの上に影を落としていた。
コメント欄には当の政治家に対し「日本のことを分かっていない」「国の恥」などと批判する文面が並び、さらにその政治家の支持者までもが「非国民」と揶揄されていた。
裕誠は笑いながらその動画投稿にある拡散マークをタップすると、そのまま手慣れた様子で「叩かれて当然」とコメントを残した。
炎上した動画はそれだけにとどまらず、画面をスクロールするたびに似たような投稿がいくつも溢れ返っている。
「自業自得だよ。もっと晒されればいいんだよ」
独り言のように呟き、裕誠は次々と流れてくる"正義の言葉"を眺めながら親指を滑らせ続けた。
誰かが失言した投稿。
誰かが声を荒げている切り抜き動画。
誰かが誰かを批判する文章。
怒りと皮肉と罵倒が画面いっぱいに流れ込んでくる。
裕誠にとっては暇つぶしの感覚で、特別なこととは到底思わなかった。
拡散されていく勢いに合わせるように、自分の中に少しだけ自分が罰を下せた"正義感"と多数派の側に立てた"安心感"が浮かぶ。
だが——。
ほんの一瞬だけ、自分が分からなくなるような感覚が
夏夜の暗がりに微かに残った。
理由はまだ分からない。
それが何なのか深く考える必要も感じない。
裕誠がその感覚を振り払うように再び親指を滑らせ、
スマホの画面に縋った時だった。
「——それは、人間を攻撃する道具ですか?」
「えっ!?誰!?」
ぞくり、と裕誠の背筋が震えた。
振り返るとそこには、どこかで見たことのあるような
青年の面影を残した男が立っていた。
「失礼。私は川原清一と申します」
裕誠は息を呑んだ。
その名前は、戦争で亡くなったと聞かされていた曽祖父と同じであった。
そして、祖父母の家の仏壇に置かれている遺影と同じ顔をしていた。
「……俺、どこにいる?死んだの?」
状況が読み込めず、裕誠は自分を落ち着かせるように
そう呟いた。
夢だと決めつけるには、目の前の男はあまりにはっきりし過ぎている。
かといって現実だと認めるには頭が追いつかない。
エアコンと時計の秒針の音が不協和音のように重なり、思考をかき乱す。
「死んではいませんよ。ちゃんと生きています。
ただ——今あなたが何処にいるのかは、私にも分かりませんね」
その言葉に少し引っかかった。
自分が今いる場所を誰かに説明するという当たり前のことが、一瞬だけ不確かになる。
裕誠は無意識に部屋の天井や壁を見回してから答えた。
「どこって、今俺はじいちゃんばあちゃんの家にいるじゃないですか」
"何処にいるのか分からない"
裕誠は、ただ単に場所の問題としか捉えられなかった。




