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第一部 四章

新聞は連日政府を責め立てていた。

満州での出来事を「事変」と呼び、それを阻止しようとする者を「弱腰」と書き立てる。


当時首相であった若槻禮次郎は軍の独断と暴走を戒め、これ以上血を流すべきではないと訴え続けた。

しかし、それは軍や政府の思惑の中で次第に紙面や街の話題からも消えていった。


いや、消されていった。


「なぜ止める」

「軍を支持しない者は国賊」

「非国民」


代わりに残ったのは、血を流すことに反対した者への

怒りと批判であった。

死人を出さないために阻止しようとした者が、そして、阻止すべきと口にしただけの者が裏切り者として叩かれていった。


清一は朝の支度を終えて卓上の新聞に目を落とした。

紙面には相変わらず同じ文字が躍っている。


「満州事変」


大きく取られた見出しの下に勇ましい言葉と軍の行動を称える文が並んでいる。


「やむを得ぬ措置」

「正当防衛」

「国益」


血が流れたことにはほとんど触れられず、代わりにそんな言葉が並んでいた。

死人の名も、顔も、そこにはない。


「……事変、ねぇ」


思わず声に出たその言葉の響きに違和感を覚えた。


軽すぎる。

人の死を包むには、あまりにも穏やかな言葉だ。

爆音が轟き、銃で撃ち合い、人が大勢死んだというのに。

まるで、この世にいたことさえ跡形もなく意図的に消されているようだった。

最初からその命はなかったかのように。


清一は息が詰まりながらも、指先で紙を押さえながら

ゆっくりと読み進めていった。

次に目に留まったのは、軍の行動を疑問視した政治家への批判記事であった。

名前は伏せられているが、誰のことを指しているのかは明白だった。


——国のためにならぬ

——弱腰内閣


自然と新聞を持つ手に力が入る。


「止めようとしたのになぜ責められる——」


誰かを守ろうとした考えや言葉が、血を流さぬための

判断が、いつの間にか「悪」へと塗り替えられていた。


——考えを口にすることも許されないのか


清一は堪らず新聞を置いた。

いつもより紙が重い。

そして、それは日に日に重くなっていった。


「先生、満州はどんなところですか?」

「なぜ戦っているのですか?」


教室でもそんな質問が飛び交っていた。

清一は慎重に言葉を選びながら答えてきた。

いつからか見聞きすることが増えた「お国のため」と

いうような、勇ましいだけの言葉を盲信してほしくなかった。

その影で、大勢の犠牲があったことを忘れてほしくない。

何より、子供たちの自由な考えを奪われてしまうことを恐れていた。


だが無情にも、そんな願いは飲み込まれてしまった。

突然始まったわけではない。

だからといって、いつから始まったのかも定かではない。


「忠君愛国」

「名誉の死」


気づいた時には、称える言葉しか残っていなかった。

思惑で美化された新聞を読み、見出しをなぞり、大人の会話を聞き、そんな言葉を子供たちは覚えていった。


それも、子供たちなりに考えた結果なのかもしれない。

押しつけられた空気に飲まれて口にするのを恐れているのかもしれない。


清一も分からなくなった。


そして、勇ましいだけの言葉が「正しい」と誰も疑わなくなるまでそう時間はかからなかった。


「これ以上死人が増えるのはいかがなものか」

「本当に国のためなのか」


街の片隅でそう口にした者がいた。

だが、戦争反対と声を上げる者があの日を境に姿を見せなくなった。


「危ない思想を持っていたそうだ」

「警察に連れて行かれたらしい」

「軍の行動を否定したから仕方ない」


そんな噂が残り、人々は察する。


戦争に疑問を持つこと。

止めようとすること。

その考え自体が危険に晒されるということを。


姿を消した者がどうなったのかは分からない。

新聞には、「不穏分子検挙」の小さな記事が残るだけだ。

清一の周りでは、殴られたとも、厳しく取り調べを受けたとも聞いた。

姿を消した者の家族までが連行されたとも聞いた。

真実は定かではない。


ただ、確かなことは一つだけある。


反対すれば、戻ってこれない。


この社会が無言で提示した答えであった。


——同調圧力


その沈黙がやがてまた誰かを戦地へ送り、誰かを失わせることになる。

清一は思う言葉を今はまだ飲み込んでいる。


「余計なことは言わない方がいい。守るためだ」


職員室で教師仲間がそんな言葉を口にした。

子供たちを、家族を、自分自身の命を守るためには

銃でも敵国でもない、自国の空気に苛まれながら静かに息をするしかなかった。


そして、日中戦争の影が日常に溶け込み始めた頃、

清一の元にとある知らせが届いた。


「川原先生、電報です」


職員室の隅で書類を整理している時だった。

事務員がそう言って一枚の紙を差し出す。


電報——。

嫌な予感しかしなかった。


清一は胸騒ぎしつつ恐る恐る文面を見た。


『一度御目ニカカリタク 近クキキョウノヨテイ』


差出人は、田原秀雄であった。

彼は清一に教師になると誓った後、無事に師範学校卒業して地元を離れ、小学校で教壇に立っていると聞いていた。

忙しい日々の合間に届く便りには、子供たちの話や慣れない土地での暮らしぶりが綴られていた。

そんな生活も、気がつけば数年が経っている。


数日後、二人は町外れの茶店で顔を合わせた。

軍服に身を包んだ田原を見て清一は、彼が直接会いたいと電報をくれた理由を悟った。

背筋は伸び、表情は引き締まっている。

すっかり別人に見えたが、こちらを真っ直ぐに見つめる彼の目の奥には、清一の知る少年の面影が確かに残っていた。


「先生」


先に田原が声を掛けた。

落ち着いた声だが、どこか忙しなさが隠しきれていない。


「急に呼び出してすみません」

「……いや、会えて嬉しいよ」


かつての教え子に会えて嬉しいはずなのに、辿々しくて会話が思うように弾まない。

軍服姿など見たくなかった。

教壇に立つ田原を先に見たかった。

そんな思いを口にすることができないのが、余計に清一の口を閉ざした。


少し間を置いて、田原は懐に手を入れると一通の封筒を取り出した。


「察しの通りかもしれませんが……」


田原の手にあるものを見て、清一は息を呑んだ。

赤紙だ。


覚悟はしていたはずだが、現実として突きつけられると言葉を失った。


「……いつだ」

「明日、向かいます」


田原は天気の話でもするかのように淡々と答えた。


「正直、国のために戦いたいと言ったら、嘘になります」


声を潜め一瞬言葉を探すように視線を落とし、それから続ける。


「反戦と口にしただけで捕まるような社会や自分の考えを押し殺して従う空気が終わることを信じます。今余計なこと言ったら戻ることすらできなくなるので……」


小さく息を吸い、改まって真っ直ぐに清一を見る。


「自分の道に戻れることを信じて、行って参ります。

戻ってきたら、無事に終わったら、また堂々と思い思いの授業をします」


清一の喉が詰まった。

行くな、とは言えなかった。

行け、とも言えなかった。


教師としても、大人としても、一人の人間としても

何の言葉も掛けてやれない。

ただその場に居座ることしかできないことが、やるせなかった。


沈黙が続き、やがて田原は深々と頭を下げた。


「ありがとうございました。先生も、お元気で」


そう言って背を向けると、静かに歩き出した。

教師として歩き始めた人生も、選び取った自分の道も、戦争はその背中ごと連れ去った。


曇天の影がかかるその背中を、清一はただ呆然と見送った。

その場に立ち尽くしたまま、自分の無力さを思い知った。



田原を見送った後も清一の日常は、形式的な行動は

変わらない。

朝はいつも通り学校へ向かい、教壇に立ち、家に帰れば家族と食卓を囲む。

戦地へ向かった青年の背中など何もなかったかのようだった。


だが清一の勤める学校が国民学校となった今、日常に溶け込んで変わったことは山ほどある。


「気をつけ——」


朝礼で号令がかかると、子供たちは一斉に背筋を伸ばす。続いて聞き慣れ始めた旋律が流れてくる。


軍歌を歌う子供たちの口の動きを、清一は列の端に立って見ている。

意味を理解しているかは別として、誰一人歌詞を間違えることはなかった。


歌い終えると今度は木製の銃を手にとり、教え通りに構えて突き、引く。


「敵を見ろ!」

「躊躇うな!」


勇ましいだけの言葉が飛び交っていた。

それを口にするのは、以前なら「自分の意志で子供の未来を選ばせたい」と共に語り合ったこともある教師仲間である。


「先生、自分の構え、見てください」


かつての日常に思いを馳せていると、一人の生徒が無邪気に尋ねてきた。

真剣な眼差しで清一を見つめている。


「……そうだな。それで、いい……と思う」


言葉に詰まったが、答えるしかない。

それでも確信が持てない答えだった。



「国のために命を捧げた英霊」

「誉れ高き死」

「尊い犠牲」


黒板にはそんな文字が並び、子供たちは声に出しながら一文字ずつなぞる。

自由な考えなど認められる間もなかった。


——将来の夢


かつての自分で考えることができるように行った授業は何処へいったのだろうか。

いや、必要とされなくなっていた。


立派な兵隊、良妻賢母——。


子供たちの純粋で、無垢な、自由な輝かしい夢は、

誰が生み出した訳でもない目には見えぬ空気で押し潰され、限定されていった。


「今日もいい天気だな」

「また来週練習が増えるそうですよ」


職員室で清一は出席簿を整えながら周囲を見渡すと、どこにでもある会話が交わされている。

軍歌のことも、銃剣術の授業の話をすることもない。

反対も賛成も、疑問も口にすることはない。


清一はこの空気をどう名付けていいのかわからなかった。


これだけ日常が塗り替えられている中で、皆いつも通りにしている。

笑う者もいれば、疲れた顔をしている者もいる。


皆が何を考えているのかは誰にもわからない。

口にすれば、失うものがあまりに大きすぎる。

だから皆は平然としている。

それはわかっていても、清一はこの空気の中にいることが息苦しかった。


清一もまた何も言わず、今日この日も教えるべきことを教え、言ってはならないことを押し殺し、ただ一日を終わらせる。


——皆は何処にいってしまったのか。


それでも清一は自分の道に戻れることを信じ続けた。

信じていないと、自分が保てない気がした。

田原が戦地へ向かう前日に言った言葉に、かろうじで

救われていた。

戻ってきたら、胸を張って迎えてやりたかった。



戦地へ向かった日から幾度も季節は流れた。

稲は刈られ、雪が降り、また春が訪れる。


その日もすっかり塗り替えられてしまった学校での仕事を終え、家族と食卓を囲むはずだった。


家に帰り郵便受けを見ると、一通の封筒が届いていた。

見慣れない筆跡を辿り、差出人の名を見た瞬間に

清一の胸の奥が酷く冷えた。


差出人は、田原の父であった。

不謹慎だと分かっていながらも、田原の父がわざわざ

清一に手紙を送ってきたという事実が嫌な予感を強めていた。


清一はその場で封を切れず、ひとまず家に入った。

きっと何か別のことで用があったのだ。

必死にそう自分に言い聞かせ、嫌な予感を打ち消そうとした。

鞄を置き、机を拭き、いつも通りの動作をこなしてからようやく指先が便箋に触れた。


『戦死』


その二文字が、行間に滲んでいた。

その一語で終わってしまったことを、受け入れる準備ができないまま読んでしまった。


便箋の後半には、こう書かれている。

『生前、秀雄は自分に何かあったら、川原先生には伝えてほしいと申しておりました』


清一の目には光るものが滲み、それ以上文字を追うことができなかった。


名付けられない空気に屈したというのに——。

自由を奪い、考えを奪い、仕舞いには信じていたことさえ奪われた瞬間であった。



その夜、清一はいつもの顔で食卓についた。

箸を取り、湯気の立つ味噌汁を含み、成長した我が子の話に相槌を打つ。

何事もなかったように振る舞った方が自分も楽なのだと、そう思いたかった。

声の調子も、動作も、何一つ変わっていないつもりだった。

夕餉を終えて子供達が寝静まった後、二人は灯りを落とした居間に並んで座った。

行燈の光が揺れ、壁に二つの影を映している。


「何か……ありましたね?」


さよは気づいていた。

清一は言葉を探すが、否定はしない。


「さよには、敵わないな」


無理に口角を上げて、そう短く告げた。

そんな清一の様子を見て、さよはそれ以上聞き出さなかった。

理由は問わなかったがしばらく沈黙が続いた後に

こう口を開いた。


「……もう随分とあなたが帰ってこなくて、私もへとへとです」


さよもまた、無理に口角を上げて告げた。

少しでも穏やかに言わなければ、冷たい言葉に聞こえかねない。

でも清一は、そのさよの言葉が肯定であることを知っている。


「家族や学校のことを気にしているのなら、私はそれを望みません。本当のあなたが何処にもいないことが、何より辛いから」


そして清一の方を向き、はっきりと告げた。


「私たちのことは、心配いりません。信じてください。……あなたが帰ってきたら、心からお迎えします」


行燈の灯りが二人の間に落ちる。

清一は言葉の代わりに、さよを優しく抱きしめた。



数日後の朝。

清一が出勤の支度をしていると、戸口で郵便配達の声がした。

差し出された一通の封筒は驚くほど軽く、色は重い。


赤紙である。


清一はそれを手に取り、しばらく見つめていた。


「……最後の授業と、参るかな」


そう静かに呟く清一の背中を、さよは黙って見つめていた。



その日、いつも通り清一は教壇に立っている。

ただ今日は、戦争に塗り替えられた授業をしなかった。


「今日は、少しだけ話をしよう」


子供たちは一瞬ざわめいたが、すぐに静まった。

清一は教壇に立ったままゆっくりと教室を見渡した。


「もう何年も、皆同じように過ごしてきたと思う。

新聞も、街中でも、誰かと話す時も。余計なことは言うなと」


清一は少しだけ声を震わせながら続ける。


「今は授業でも、自分の夢も……戦争に対しても

自分が本当に思うことを口にできない世の中だ。何でこうしているのか、理不尽に振り回されて分からないことも沢山あるだろう」


一拍間を置き、

「ただ、これだけは覚えておいてほしい」


はっきりと告げる。


「自分で決めた道を歩いてほしい。見失うな」


子供たちは黙って聞いていた。

普段とは違う空気を感じ取っていた。

理解しているかどうかは、今はどうでもいい。

伝えることに意味があった。


「誰かが決めた『正しさ』が必ず自分の正しさとは限らない。それにただ従っていたら、自分が迷子になる」


少しだけ顔を伏せたが、すぐに顔を上げて再び子供たちを見つめる。


「今はできなくていい。黙って従うことを選ぶ日があっても、続いてもいい。それでもいつか、これが『自分の選んだ道』だと言える日が来たら……」


子供たちが息を呑む。


「その時は、今のような空気に負けないでほしい。

自分は、此処にいるんだと」


清一は、黙ったまま黒板に何かを書き始めた。


「これで授業は終わりにする」


号令はなく、子供たちは立ち上がることも忘れた。

去っていく清一を見送り、黒板に記された文字を眺めていた。

やがて誰かが椅子を引く音を立て、少しずついつもの

教室のざわめきが戻った。


『意志あるところに道は開ける』


これが、教師としての最後の授業となった。

清一は門の前で校舎に一例し、振り返ることなく去っていった。



家に戻った清一はいつもと同じように戸を開けた。

その瞬間、後ろから重い足音がいくつも重なった。


「川原清一殿」


名前を呼ばれた声は低く、感情がない。

振り返ると軍服姿の男が数名立っている。


「少し話を伺いたい」


「少し」という言葉とは裏腹に、有無を言わせぬ圧が

あった。


「……はい」


「不適切な言動があったと聞いている」


その一言で、悟った。


「私には、誰かの命を奪って正しさを証明することはできません」


清一は穏やかに、はっきりと言った。

言い直すこともなく、続ける。


「それぞれの考えを、皆の望む道を口にすることすら許されないのは……賛成しかねます」


空気が変わった。

あっという間に腕を取られていた。


「非国民め。連行する」


清一は抵抗しなかった。

荒げても意味はない。

もう自分は帰ってきたのだから、それで十分だった。


そして、背後の気配を感じる。

さよは何も言えず、目に光るものを浮かべながら立ち尽くしていた。


清一は押さえられながらもかろうじて振り返り、さよの顔を見て微笑んだ。

その顔を見て、さよは安堵したように口角が上がる。

ようやく、本当の清一が帰ってきた。


軍靴の音が遠ざかっていく。


連れて行かれる夫の背中を目に焼きつけ、


「……おかえりなさい」


そう彼に向けて呟いた。



清一はその後、冷たい床と壁だけがある場所に置かれた。

光も入らないその場所は、昼も夜も意味を失っている。

そして時折、身体中が鈍く痛み、怒号が響いた。


どれほどの時間が過ぎたのだろうか。


ただ清一は、二度とそこから帰ることはなかった。






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