表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

第一部 二章

清一が青春を過ごし、教師として歩み出した大正という時代は静かに幕を下ろした。

元号は昭和へと改まり、世の中は新しい時代を迎えたのだと、人々は口にする。

だが昭和に入るや否や恐慌の波が日本中を襲い、農業を営む清一の両親の背中にも、その影は少なからず及んでいる。


それでも清一は今日も教壇に立っていた。

時代が変わったからといって、人の考えや願いまでもが急に消えてしまうわけではない。

大正の世で生まれ、育まれた自由な思想はまだ人々の

心に灯り続け、失われきってはいない。


そんな時代の狭間で、清一はある女性と出会うことになる。


教師となり初めて学校に向かった朝も、こんな空気が流れていた。

冬を引きずったままの土の匂いと遅れて訪れる春の気配が重く入り混じる河川敷を、清一は歩いている。

ただ、向かうのは学校ではない。

行き先が決まっているということでもなく、今日は休日で息抜きに冬と春が混じる空気を吸いながら逍遥しているところだ。


その流れの先で、一人の若い女性が本を読んでいた。

いつもなら、そのまま通り過ぎていただろう。

だが、その日は違った。

雪解け水が轟々と流れる音や周囲の景色に構うことなく、彼女は静かに本の頁を追っている。

周囲のざわめきが不釣り合いなほど、彼女の時間だけが静かに流れているように見えた。


——自分はここにいると灯しているような気がした。


そんな彼女の姿が清一の歩調を乱した。

気がつけば、彼は足を止めていた。


迷いもあったが、少し間を置いて清一は口を開いた。


「……その本、面白いですか?」


彼女は不意の声にも動じず、ゆっくりと頁に指を挟んで顔を上げた。


「ええ。とても」


清一はその答えに言葉を探していた。

彼女の静かな時間を乱してしまったのではないかと、

目を伏せた。

しかし、そんな清一の姿を見て彼女は微笑みながら口を開く。


「この本、知っていますか?」


彼女の答えに清一は胸の奥で小さく息をついた。

声をかけたことの後悔がゆっくりと解けていく。

その安堵は束の間で、彼女が表紙を見せるとその題名が清一の視界に入った。


『青鞜』


それは女性が自らの言葉で思いを綴り、声を上げることを目的とした雑誌である。

『元始、女性は太陽であった』という一文は当時の世に、静かだが確かな波紋を広げていた。


「知っています。恥ずかしながら読んだことはありませんが、どういう雑誌かくらいでしたら」


清一は穏やかな表情で静かに答えた。

すると彼女は視線を落としてぽつりと口を開いた。


「……ご存知でしたか。軽蔑するでしょう?」


賛同もあれば、当時は反発も強い雑誌であった。

特に地方では好奇の目と警戒の視線が入り混じる存在でもある。

自由な表現や文化が芽生えたとはいえこれまでの価値観というものは根強く、女性の立場はまだまだ弱かった。

彼女もまた、その警戒の視線を向けられると思ったのだろう。

清一はすぐに言葉を返さず彼女の問いに込められた

重い影を照らすように、静かに口を開いた。


「軽蔑だなんて、とんでもない。……素敵です」


その言葉に、彼女は何も言わず大きく目を見開いた。

意外だった。


この本を家で読めば、理由を問われる前にきっと咎められる。

書かれている内容が問題ではない。

それを読む自分に向けられる周囲の目が、何よりも

厄介だった。

"そんなものを読んでいる"という周囲からの噂や視線が家に降りかかることを、家族は恐れているに違いない。

いや、自分がそれを恐れていた。

だから人目のない河川敷で頁をめくっていたのだ。


だが今思うと、清一には自分から読んでいる本を打ち明けていた。

なぜそうしたのか自分でも分からなかった。

少なくとも、この人なら自分を打ち明けられると

おぼろげだが、そんな思いがあったのかもしれない。


清一は彼女の視線の落ち方と、その指が無意識に頁をなぞる仕草を見ていた。

言葉にしなくとも、理由は伝わっていた。


人目、噂、世間体、そして——。

それを気にせずにはいられない自分がいること。

無論、何も悪いことはしていないのに。


私生活でも、教師として、一人の人間として幾度となく似たような影を見てきた。

声を上げることなく、黙っていることを選ばざるを得ない人を。世間体に飲み込まれてしまう人を。

それは臆病だからではない。自分も含めて、守ろうとするものがあるからだということも。


清一はこれ以上何も問わなかった。

彼女はもう自分が選んだ道を進み、居場所がある。


「……まだまだ冷えますね、邪魔してすみません。

では、これで」


どれだけ時間が流れていたかは分からない。

ただ川の音だけが響いていた。

本のことでも、思想でもない思いついたような言葉を

掛け、立ち去ろうとした時だった。


「……あ、あの!」


背中越しに声が届いた。

振り向くと、真っ直ぐな眼差しが清一の目に飛び込んでくる。

彼女は一度息を整え、覚悟を決めたように口を開いた。


「私、望月さよと申します。……よろしければ、あなたのお名前を教えて頂けませんか?」


緊張からか握りしめた手は本と一緒に少し揺らいでいた。

が、声は揺らがなかった。

清一は少し間を置き、穏やかに答えた。


「川原清一です」


さよはその表情に安堵し、少し視線を落としながら

続けた。


「もし……ご迷惑でなければ。ここでまた会ってお話しして頂けませんか?」


それは誘いというより、確かめるような問いだった。

清一は驚いたように目を瞬かせ、すぐに首を横に振った。


「勿論。迷惑だなんてとんでもない」


川の流れに目を向けながら付け足す。


「休みの日はこの時間、よくここを歩きます。

その時にまたお会いしましょうか」


さよは微笑んではっきりと頷いた。

「はい!ありがとうございます」


その言葉に清一は笑みを浮かべながら会釈し、その場を後にした。

二人の間には誰にも流されず、影を落とされることのない、確かな次の時間が約束された。




春の終わりから初夏にかけて。

河川敷の草は伸び、川の色も変わった。

それでも、あの約束された日から二人はこの場所で顔を合わせることがいつの間にか当たり前となっていた。

最初の方こそ交わす言葉は少なくて、さよは必ず本を読んでいた。

静かで、互いに自分の居場所を委ねられるような感覚が心地よかった。

それが二人の距離をゆっくりと縮めていった。


この日も二人は約束でもない約束の時間に河川敷で

顔を合わせていた。

だが、さよはいつものように頁を追ってはいなかった。

本は膝の上に閉ざされ、視線はぼんやりと川面の向こうに置かれている。

清一はいつものように隣に腰を下ろし、しばらく何も言わずさよと同じ方向をぼんやりと眺めた。


いつもと違うさよを察している清一は、やがて静かに

口を開いた。


「……今日は、何かありましたか?」


察しの良さに驚いたさよは一瞬こちらを見た。


「……ええ、少し。よく分かりましたね」


微かに笑おうとしたが、唇はすぐに閉じられた。


「仕事でよく人の顔を見ているので。子供も大人も、言葉より先に顔や仕草に出ることがあるんです」


清一はそう言って視線を川面の向こうに戻した。

問い詰めることも、問いただそうともしない清一との

距離は何より心地よかった。

この心地よさが信頼できたから、さよは答えたのも

しれない。


「……実は、家で見合いの話を勧められていて…」


その声は低く、小さくて川音に打ち消されそうだった。


「こんな私に、ありがたい話です。私もそういう年頃だし、お相手も良い方です。……けど」


さよは右手で自分の胸を締めつけるようにして続けた。


「ここへ来ると、この辺りがとても苦しいのです。

見合いが嫌だと言えないからなのか、それとも……」


視線を落とし、


「……自分のことなのに、わからないのです」


言葉を探したが、見つからなかった。

ただ川風が二人の間を抜けていく。

草が揺れ、水が光を返している。


清一はただ黙って聞いていた。

かつて自分も「選択できない空気」の中を彷徨っていた。

その中で光を見つけ出すまでに、どれほど影が怖かったかを知っている。


やがて清一は視線を変えずにゆっくりと口を開いた。


「……すぐに自分を見つけ出す必要はないと思います」


さよは僅かに肩を揺らした。


「誰にでも、自分がどうしたいのか見失うこともあります。……私もそうでした。——ただ」


視線をさよに向ける。


「……あなたがそれで苦しんでいるのなら、私は放ってはおけません」


驚いたようにさよの目が揺れた。

唇を結んだまま、ただ清一を見つめていた。


「……教師ではなく、一人の人間として、です。

ここで静かに過ごす時間も、揺るがず本を読む姿も、迷っている姿もすべて。私は、あなたのことを大切に思っています」


それは、間違いなく清一の思いだった。

さよはほんのり赤く色づいた顔を隠すように俯き、しばらく黙っていた。


やがて閉ざされたままの本を握りしめ、震える声で

告げた。


「……私は、怖かったのかもしれません。

何か言えば誰かを困らせる気がして」


顔を上げる。


「でも、自分を見失ったままなんて、やはり嫌です。

一度両親と、ちゃんと話します」


さよは小さく息を吸った。


「答えが見つかったら、またこの場所でお会いして頂けませんか?——その時は、私から自分の気持ちを伝えさせてください」


清一は頷きながら、

「ええ、勿論。この時間、いつまでも待っていますよ」


そう告げて、二人は河川敷を後にした。

さよの目には微かな光が宿っていた。




それからさよがどれほどの間、あの場所に姿を見せなかったのだろうか。

川は変わらず流れ、草は伸び、季節だけが少しずつ前へ進んでいた。

清一も変わらず休みの日のこの時間、同じ場所を

歩いている。

誰かを待つという意識は持たぬようにしていたが、

気がつけば視線はいつもあの辺りへ向かってしまう。

そして、この日まで、この声を聞くまで、果てしなく

長い時間が経ったように感じた。


「……川原さん!」


背後に控えめだが、芯の通った声が届いた。


振り向くと、そこにはさよが立っている。

本は手にしていない。

背筋が伸び、視線は真っ直ぐに清一を捉えている。


「遅くなって申し訳ありません。今日も来てくださって、ありがとうございます」


清一は安堵にも似た息をつき、


「約束しましたから」


二人は並んで腰を下ろした。

さよは小さく息を吸い、川面に目を向けた。


「うまく話せたわけではありませんが」


そう前置きしてから続ける。


「両親は今もどこか、突っかかっている面もあると思います。それに反対も、心配もされました。

——けど」


ここでさよは清一を見つめた。


「自分を見つけることができました」


清一は何か言う代わりに、ゆっくりと微笑んでさよの

言葉を受け取った。

その清一の表情に安堵し、さよは指先をぎゅっと結びながら次に繋いだ。


「……約束。——答え合わせ、ですが。

——私は、あなたに惹かれています」


彼女がどれほどの思いを背負って暗闇から光を見つけ出し、この場所に立っているのだろうか。

その重さを軽々しく言葉で覆ってはならないと、

清一は考えて、すぐには口を開かずにいた。


「あなたがここまで考え、悩んで、臨み——。

自分の言葉で伝えてくれたこと、とても嬉しく思います」


穏やかにそう告げると、視線を合わせる。


「私は以前話した通りですが、改めて」


言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。


「私は、あなたを大切に思っています。そして——」


一拍置いて、


「この先も、あなたを大切にします」


はっきりとそう告げた。

さよの目には、潤んだ光が滲んでいた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ