いつの間にか溺愛されてましたとは言うけれど。
「……今、なんと?」
「ですから、結構ですと言いました。ですので早急に離縁して下さいます?」
目の前で信じられないと言いたげな顔で唖然とするのは、もうすぐ元が付く夫と家令。
どうして自分達の申し出が受け入れられると思っているのかしら。
こちらの申し出は一切受け入れなかったのに。
そうね、妹の我儘で身代わりとして嫁入りした時から覚悟はしていたわ。それでも心の奥底で少しだけ期待していたのよ、冷酷だけど優秀な方だって話だったし、妹や両親がばら撒いた私の悪評が嘘だって気づくんじゃないかって。
ところがいざ嫁入りしてみれば、見事にその悪評を信じ込んで初対面の私の印象は最悪。せめてまともな方の妹を娶りたかったけれど、とにかく嫁を迎えて体裁を保ちたかっただけだからまともじゃない方の姉でも問題なかったんですって。
何処が優秀なの、この人。普通、伴侶として迎える相手の身辺調査くらいしない?
本当に優秀な人なら、真偽を確かめるために噂の裏取りくらいすると思うのだけど。
もうこの時点で見限ったわ。あ、この人本当はそこまで優秀じゃないんだなって。
ちなみに白い結婚、初夜は無し。跡継ぎは親族から優秀な子どもを養子に迎えるから問題ないとか。そこだけが救いね。あと三年もすれば清い身のまま離縁出来るもの。
当主がこうなんだから、使用人達だって当然私のことを冷遇してくる。専属侍女になるはずだったメイドは初対面で私を悪女と罵倒してきて、以降勤めを果たすことはなかった。
そして始まるドアマット生活。粗末な食事はまだ可愛いもので、酷い時は食事すらなかった。身の回りの世話もしてもらえないし、声をかけても無視される毎日。旦那様にいくら訴えてもなしの礫。使用人達にこんな態度を取られるのは私に問題があるからなんですって。
もう笑うしかないわ。女主人にこんな態度を取っても良しとする使用人達に、それを黙認する当主。辛い目に遭っている妻に寄り添う気は一切無しときた。
これ、心の弱い女性だったら絶望して世を儚んでしまうのではないかしら。彼らはきっと気づいていないのね、自分達が人殺しに加担しているってこと。
優秀な当主、その当主が選んだ優秀な使用人達……ねえ。まあ噂は噂でしかないもの。私の噂のように、こちらも嘘だったのね。
いえ、あの両親のことだもの。もしかしたら噂は嘘だと知っていたから、可愛い妹の代わりに私を嫁がせたのかしら。
まあ、無いでしょうけど。
さて、そんな四面楚歌の中で私はどうしたかというと。
特に何もしなかったわ。
だって私、転生者なのよね。勿論、異世界転生者らしくチート持ちだ。ただ、この世界は剣と魔法の世界ではないため、その概念が無い。何処かちぐはぐな文明の発展具合を見るに、中世ヨーロッパ寄りのご都合主義な世界観だ。
スチームパンクやナーロッパに憧れがあったのだけれど、この世界はそうではなさそうで残念だわ。ポストアポカリプス系の異世界に転生するよりは全然良いけれど。
話が逸れてしまったわね。
まあそんな感じの世界なので、私のステータスを見ることはこの世界の人達には不可能なのだ。なので誰も私が異世界転生者でチートスキル持ちであることを知らない。
魔法の魔の字もない世界なので、仮に私がこの事実を話してもとんでもなくイタい奴だと思われて終わるだろう。前世の記憶を思い出した瞬間に黙っていたほうが良いと即座に判断したわよ。
まああの両親だし、証拠を見せたところで信じなかったでしょうね。それか、金儲けの道具にしようとしたかしら?
ちなみに、私のチートスキルは前世の自分が住んでいた部屋に行けることである。
大した事ない能力だと思うでしょ? 私も最初はそう思ってた。でも実際にスキルを使ったら、それが杞憂であると気づいたのよ。
まず、生前の私の部屋と言っても恐らく仮想空間的な何かなのよね。だって実際の部屋だったら、恐らく身内の手でとっくに引き払われて何も無くなっているはずだもの。
生前そのままのかつての自分の部屋には、今の世界ではオーバーテクノロジーであろう愛用家電や家具たちがそのまま残されていた。
さらに冷蔵庫の中には食料が入っている。しかも無限湧き。この部屋の外には持ち出せないようだけれど、室内であればちゃんと調理も出来るし食べられる。当然腐ることもない。それに望めばどんな食べ物だって冷蔵庫に入っているのだ。それが前世の食べ物だろうと。
パソコンも電子レンジも洗濯機も使い放題。お風呂にだって入れる。勿論、エアコンもベッドもあるわ。なのに食費や電光熱費は無料!
もうこれ、チート以外の何ものでもないと思うの。好きな物食べられて好きなこと出来て、好きなだけ過ごせる。この部屋で全てが完結するのよ。
ずっと自分の部屋に居るのもどうかと思ったから、たまに外に出て領地内の散策に出たりもしたけどそのくらい。
まあ離縁されるまでこの気ままな生活も悪くないかもね。実家は何かと煩かったし、戻ってもまたろくでもない所に嫁がされそうだから二度と戻るつもりもない。離縁してここを追い出されたら、平民になってその時はこの世界をのんびり歩いて回ってもいいかもしれない。
そう考えていたのに、事態が大きく変わったのは約束の期限まで残り半月を切った時だ。
どんなに冷遇されても平然と過ごしている私を気味悪がったのか、使用人達が私の異質さを話しているのを当主の彼が偶然聞いてしまったらしい。
その時になってようやく私がどんな目に遭っていたのか知ったらしく、それでも変わらず過ごしている姿に悪評は本当なのか疑念を持ち始めたらしい。
そして慌てて私の身辺調査を始めたようだ。そこで私の悪評が全て両親による捏造で、身持ちの悪い噂も妹が私の名を騙った事が原因であることを知ったらしい。
いや、遅すぎない? もう離縁するまであと半月切ってるのに? むしろ丸々二年も何してたのかしら?
あと少しでこの家ともお別れか、もうあの粗末な食事も食べたことにしてこっそり捨てずに済むのねぇ、なんて前世で好きだった豚骨ラーメンを啜りながら考えていたら突然呼び出されたのである。
ちなみに部屋をノックされたので、すぐに自分の部屋から出て何もなかったような顔をして対応した。食事の途中だったので準備をしてから伺います、と伝えて豚骨ラーメンをちゃんと完食してから向かったわ。
だって冷めて伸びたラーメンなんて美味しくないじゃない。熱いうちに食べてこそラーメンよ。
明日は白米と家系ラーメンが食べたいわ、いや醤油ラーメンと餃子も捨て難い、なんて考えながら当主の書斎に向かえば、開口一番彼の口から飛び出したのは謝罪だった。
彼曰く、愚かにも噂話を全て信じてしまっていた。君を悪女だと決めつけ、冷遇してしまった。それに倣って使用人達も同じように君を冷遇していたのだと知った。使用人達がそれでも変わらず過ごす君の話をしているのを聞き、噂は本当なのかと疑問を持ち始めた。調べた結果、噂は全て嘘だと知った。
君を酷い目に遭わせた使用人達は皆解雇する。私も心を入れ替え君と向き合いたい。だからやり直す機会をくれないだろうか。
そんな感じの話を一方的に捲し立てるように言った後、期待するようにこちらを窺う姿に呆れた。
見限った相手に縋られるのってこんなに不愉快な気持ちになるのね。とても良い経験になったわ。
「いえ、結構です」
「……今、なんと?」
「ですから、結構ですと言いました。ですので早急に離縁して下さいます?」
目の前で信じられないと言いたげな顔で唖然とするのは、もうすぐ元が付く夫と家令。
どうして自分達の申し出が受け入れられると思っているのかしら。
こちらの申し出は一切受け入れなかったのに。
そして話は冒頭に戻るのである。
何か勘違いしてないかしら。謝罪したら許してもらえると思ってらして? それとも、自分は許されて然るべきだとでも?
二年もの間、こちらは使用人達からの冷遇について改善するよう何度も訴えてきたわ。それに対してこの人は何と返してきたかしら。確か、使用人達にこんな態度を取られるのは私に問題があるからでしたっけ。
そんな心無い対応をしてきておいて、たった一度の謝罪で帳消しになるとでも?
何度も話し合う機会が欲しいと願ったわ。その度に今度は俺を誑し込むつもりか? 阿婆擦れらしいな、と嘲りながら罵倒してきたわね。他にも私の人格を貶すようなことまで言ってきたわ。
完全にモラハラじゃないの。しかも、女主人としての威厳を保つために必要な身支度金すら無かったわね。経済DVも追加、と。
いくら顔が良くても中身がこれじゃあねえ? 幸い私も容姿はそれなりだし、それに自慢のチートスキルもある。こんなダメンズみたいな男に縋る理由も無いのよね。
とまあ、そんな感じの旨をオブラートに丁寧に包んで伝えれば、顔を青くして隣に立つ家令に尋ねていたわ。
身支度金を渡してないのは本当か、って。
あら、それくらいの甲斐性はあったのね。でもそれが私の所に来てないって事は、何処かで懐に入れている者が居たようだわ。
まあ自称専属侍女辺りでしょうね。私の世話は一切しないのにたまに部屋にやってきては、分不相応なアクセサリーをこれ見よがしに私に自慢しに来ていたもの。
ああ、そういえば旦那様の寵愛は私にあるのよ、なんて言っていたわね。
それを伝えれば、家令が泡を食ったような顔で書斎から飛び出していった。
一人残された彼は頭を抱えている。お通夜のような空気を纏って項垂れていた。
「それで、やり直す機会でしたっけ。あると思います?」
「……ああ、そうだな。慰謝料も君の望むだけ渡そう。流石に我が家が傾く程は渡せないが」
まだそこら辺の良心は残ってるみたいで良かったわ。平民として一生暮らせるだけの額を提示して、書斎を辞した。
贅沢をしなければ死ぬまで持つのではないかしら。まあ、今の暮らしが十分の贅沢だけれどね。
残りの数日、ガラリと入れ替わった使用人達が私を世話しに来たけれどその全てを断って自室でいつも通り過ごした。
だって前世のあの味を知ってしまったら、今の味気ない食事には戻れないもの。仕方ないわよね。
そうしているうちに約束の期限の日がやってきて、希望したよりも多い慰謝料を貰い私は屋敷を後にした。元夫は何か言いたげにしていたけれど、次は噂を完全に信じないようにして下さいねとだけ伝えておいた。
もう実家にも戻らないし、これから何処に行こうかしら。そうだわ、海のある港町に向かおう。そこで海を眺めて暫くのんびり過ごしたいわね。結構、あの生活でメンタルも削られていたし。
それにしても、恋愛小説でよくあるいつの間にか溺愛されてました系のヒロインに自分が転生するなんて思わなかった。まあフラグは見事にへし折って、舞台から降りたけれど。
というかあれって、相当心臓が強いか頭がお花畑の人じゃないと成立しない話じゃない?
私には無理だったわ。だっていくら生活の保証がされていようと、あからさまな悪意をあんな大人数に向けられながら平気な顔をして過ごすだけでも結構キツかったもの。
そこから嫌な顔をされながらも直向きに過ごして、頑なな周囲や夫の心を溶かして全てを許して和解するなんて私には無理ゲー過ぎる。
残念ながら私はそこまでのお人好しではなかった。既に起こった過去を水に流すことは出来なかったし、したくなかった。だってそれをしたら、踏み躙られた過去の私はどうなるの?
私は私に寄り添うことを選んだ、それだけ。
まあそれもチートスキルがあったから出来たことだし、それが無かったら本来の物語のヒロインのように行動していたかもしれない。
でもどうかしら、やっぱり耐えかねてあの屋敷から飛び出していたかもしれない。
まあ、たらればの私の話をしても仕方ないわよね。今の私に向き合いましょう。
まずは海のある港町に向かう。出来れば活気の良い所で、海が綺麗だったら尚良し。それで桟橋に腰掛けて、冷たい海水に脚をつけてその冷たさに笑いながら過ごすの。
今から考えただけで楽しみ。さあ、乗り合いの馬車は何処かしら?
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