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呪われた家

作者: 京惠须神護

001

堀川 潤の訃報は、あまりにも突然だった。

つい先週まで一緒に飯を食って、他愛もない話をしていた男が──

たった一本の電話で、遺体になってしまったなんて。

電話を切ったあと、俺は数分間、呆然と座っていた。

何も考えられなかった。頭が真っ白で、自分が何をしているのかも分からなかった。

やっと現実を思い出したのは、電話の相手が最後に言った一言。

「ご遺体の引き取り、お願いできますか? 緊急連絡先に、あなたの名前がありました」

……そうだった。堀川は身寄りのない男だった。

唯一登録していた緊急連絡先が、よりによって俺だったのだ。

簡単に荷物をまとめて、指定された住所へと向かう。

堀川 潤が死んだのは、仕事中のことだった。

やつの職業は──いわく付き物件、いわゆる「事故物件」の試し住みを請け負う、いかれた稼業。

半年で二百万円を稼いだって話で、いつも奢ってくれて、飯のときは財布の紐がとにかく緩かった。

正直、羨ましいとさえ思った。

……まさか、こんなにも突然、仕事先の事故物件で死ぬなんて。

俺はその家の前に立ち、しばらく動けなかった。

怖かった。

「事故物件」──その言葉が、背筋をぞくりと這い上がる。

玄関の前で名前を呼ぶが、返事はない。

もう一度電話をかけても、誰も出ない。

だが、ドアは開いた。

「ギィ……」という、いかにも古びた音を立てて。

……嫌な予感しかしなかった。

部屋の中は、妙に明るかった。

高層ビルに囲まれているはずなのに、窓から光が差し込んでいた。

だが──

俺の体は、家に一歩足を踏み入れた瞬間、明らかに拒否反応を起こしていた。

空気が違う。

いや、空気だけじゃない。この家そのものが……おかしい。

「すみません、誰かいませんか?」

声をかけながら、そっと中へ身を乗り出す。

返事はない。

だが──

部屋の隅に、誰かの服の裾が見えた。

……いる。誰かいる。

なのに、なぜ返事をしない?

無視されたことに腹が立って、つかつかと歩み寄る。

「おい、いい加減に──」

言葉が喉に詰まった。

目の前にいたのは──堀川 潤だった。

壁にもたれかかるように立ったまま、

その目は大きく見開かれ、

青白い顔には、血の涙が流れ落ちていた。

その瞬間、俺の心臓が一拍、止まった気がした。

「はっ……!?」

腰が抜けて、尻から床に崩れ落ちる。

──ふざけんな。なんだよ、これ、悪質なドッキリか?

だが、動かない。

堀川は、まるで人形のように直立したまま……

すでに、死後硬直が始まっていた。

非常棒的段落,氣氛越來越詭異,有那種「異空間恐怖」+「封閉密室」的絕望感,這在日文網文恐怖小說中也很常見。

この家には、誰もいなかった。

──堀川 潤の死体を除いては。

しかも、あんな不自然な姿勢で立ったままだなんて……

おかしい。どう考えてもおかしい。

これ、絶対ヤバいやつだろ……!

「っ、クソッ!」

俺は玄関へと駆け出した。

逃げようとした。けれど──

扉が、ない。

あのとき、確かに開いていた玄関が……そこに、なかった。

「……は?」

目を疑った。何度も、何度も見直した。

でも、やっぱりない。

ドアが……消えていた。

「嘘だろ……ありえねぇ……!」

ここだ。絶対ここにあった。

記憶違いなんかじゃない。なのに……どこにも、ない。

「落ち着け……落ち着けって……!」

自分に言い聞かせながら、部屋中をぐるぐると歩き回る。

だが、扉は現れない。

空気が、重い。息苦しい。

密閉された空間のはずなのに……なぜか、カーテンが揺れている。

風なんて、入ってくるわけがない。

それなのに、白いカーテンが、幽霊みたいにふわりと揺れ続けていた。

外に出ようとして、窓に近づく。

「……っ!?」

そこに広がっていたのは、白く霞んだ世界。

建物も、車も、人の気配もない。

あの騒がしい街の光景は……どこにもなかった。

まるでこの家だけが、ぽつんと異界に取り残されたような。

まるで──ここは、孤島の上に建てられた、閉ざされた建物だった。

そして──

元あったはずの玄関の場所には、見たこともない白い板が掲げられていた。

真っ白な板の中央に、血のように赤い文字で書かれていた。

「凶宅試泊ルール」


002

白い板に、血のように赤い文字で、こう書かれていた。

【赤いものには触れるな。赤いパジャマの女も同様だ】

【彼女が何を言ってきても、決して「泊まっていい」と言ってはならない】

【自分のベッドに、彼女を寝かせるな】

【ソファにスプレーがある。彼女が帰ろうとしない場合は、それを使え。近づけなくなる】

【午前0時、トイレの様子を確認せよ。絶対に、電気をつけるな】

【午前1時、ベッドの下・各部屋の天井・ドアの裏を確認せよ】

【午前1時半、地下室とベランダを確認せよ】

【午前2時、廊下の上下を確認せよ】

【午前2時、家全体を再確認。ただし──電気はつけるな】

【もし電気が勝手につき、「赤」に変わった場合は、即座にトイレに移動し、ドアと窓を完全に閉じよ】

【異常を発見した場合は、窓辺のホワイトボードに記録せよ。ただし、落書きは絶対にするな】

【自分が書いていない文字がホワイトボードに現れた場合──絶対に触れるな。その内容を信じるな】

【本規則以外のあらゆる文字情報を、信じてはならない】

【翌朝、異常の有無を総括せよ】

【危険と思われる場所には印をつけろ。なければ何も記すな】

【体に異常がないかを記録せよ】

【日中、訪問者が来ても、2時間以上滞在させてはならない】

【覚えておけ。夜に訪問者が来ることはない。ノックの音が聞こえても──絶対に扉を開けるな】

【もし誰かが無理やり侵入してきた場合──慌てるな、叫ぶな。即座に寝室へ向かい、枕元の固定電話で管理会社に連絡せよ。警備員が助けに来る】

【雇い主から点検項目の追加を求められた場合──2時間以内に承諾し、内容を確認。当日より毎日の点検に組み入れること】

……な、なんだこれ。意味が分からない。

俺はただ、遺体の引き取りに来ただけなんだ。泊まりに来たわけじゃない。

完全に……間違ってるだろ?

携帯は、相変わらず圏外のまま。まるでただの金属の塊だ。

「おーい!誰かっ……誰かいませんかっ!」

叫ぶ声は、空しく反響するだけだった。

……終わった。

俺は今──死体と一緒に、この「凶宅」に閉じ込められている。



003

窓を外そうと試みた。

──次の瞬間、右腕に電流のような衝撃が走り、痺れと痛みに襲われた。

気がつけば、気絶しそうになっていた。

ホワイトボードには、新たな赤字が追加されていた。

【室内の設備を破壊しないでください】

……冗談じゃねぇ。

どこからどう見ても、ここは出られない。

ルールに逆らえば「罰」が下る。

まじで、ふざけんな。犬にでもなった気分だ。

一通り抵抗して、結局……俺は諦めるしかなかった。

堀川 潤が言ってた。

「凶宅試泊」は、だいたい7日〜14日で終わる、と。

だったら……このクソみたいなルールに従って、14日間、耐え抜けばいい。

それだけで出られるかもしれない。

でも──

奴の死体は、まだ部屋の端に立ったままだ。

夜が近づくにつれて、俺の胸はどんどん締め付けられていく。

家のいたるところに、ルールが貼られていた。

キッチン、トイレ、冷蔵庫、そして……寝室。

まさか、寝ることにまで規則があるとは思わなかった。

【あなたの部屋は、バルコニーのある主寝室です。午後8時までにベッドに横になってください】

【他の部屋では寝ないでください】

【寝室のドアに鍵をかけないでください。バルコニーのドアは必ず5cm以上開けてください】

【洗濯物をバルコニーに干さないでください。不浄なものを引き寄せます】

【ベッドの上には何も置かないでください。常に清潔に保ってください】

【窓側で寝てください。夜中に確認を行う際以外、どんな音が聞こえても起き上がらないこと。叫ばないこと】

俺は焦っていた。眠れるわけがない……そう思っていたのに。

──気づけば、いつの間にか眠っていた。

そして、午前0時ちょうどに目が覚めた。

「ルール通り、トイレの確認だな……」

暗闇の中、体を起こそうとしたとき──

ひんやりとした指先に触れた。

驚いて目を見開くと、赤い衣の裾が視界を滑っていった。

女が、ベッドの端に座っていた。

真っ白な肌。女幽霊のような青白さではない。生きているような艶のある白。

そして……顔立ちは、信じられないほど美しかった。

けれど、その目には不安と、かすかな哀しみが宿っていた。

人か、幽霊か。もしくは……この家の「NPC」か?

もう、何が出てきても不思議じゃない。

ただ、彼女は俺をじっと見ているだけで、攻撃的な素振りはなかった。

俺は恐怖を必死に抑えながら、そっとベッドから降りようとした。

だが、女の手が、俺の腕を掴んだ。

──冷たい。

彼女は、首を横に振っていた。

「行くな」

そう言っているようだった。

「……なんで?」

「なんで止めるんだよ?」

離れようとしたが、腕はがっちりと掴まれていて、振りほどけない。

ルールでは、赤い衣装に触れちゃいけない。

だが、今まさに──触れざるを得ない状況だった。

必死に抜け出そうとすると、彼女の顔に焦りが浮かんだ。

そして……ぽつりと、口を開いた。

「行かないで……危ない」

──喋った?

「お前、誰だ?人間か?幽霊か?」

「ここ、何なんだよ?なんで閉じ込められた?」

「堀川は……どうやって死んだんだ?お前ら、何を企んでる?」

言葉が止まらなかった。だが、彼女は答えない。

ただ、哀れむような目で、俺を見ていた。

「ふざけんなよ……!」

もう限界だった。俺は彼女の手を振り払って、ベッドを飛び出した。

トイレに向かわなきゃならない。ルールを守らなければ。

でなければ、また何かが「罰」を与えてくる。

──だが、家の中は真っ暗だった。

ルール通り、電気は点けられない。

闇の中、空気はさらに重くなり、ひたひたと湿った気配が身体にまとわりつく。

「くそっ……なんなんだここは……」

トイレは、あの死体が立っていた場所のすぐ横だった。

近づくたびに、背筋がゾッとする。

窓の外から、異様に白い月光が差し込んでくる。

──ぞわり、と背中に冷気が走った。

堀川 潤の死体が……消えていた。

「…………えっ?」

──マジで、ふざけんな。

なにが起きてる……?

本当に、これは……

……見てはならないものを、見てしまった気がした。



004

逃げようとした。

体が勝手に動いた。だけど──

立ち上がった瞬間、全身にビリッとした電撃のような痛みが走った。

耐えきれず、その場に崩れ落ちた。

這いずるようにしてトイレにたどり着いたその時、ようやく痺れは消えた。

──真っ暗だった。

スマホの画面を懐中電灯代わりにして、震える指で照らす。

……その瞬間、息が止まりかけた。

便器の中、頭を突っ込んだ堀川 潤の死体があった。

首から力が抜け、まるで人形のようにだらりと垂れている。

……死んだ人間が、自分からトイレに移動するわけがない。

じゃあ……

あの女か? あの、赤い服の女……?

気がつけば、体が勝手に寝室に戻っていた。

ドアを開けた瞬間──彼女がこちらに向かって、飛びかかってきた。

全身が濡れていた。血なのか、水なのか、わからない。

体中に傷があり、顔は歪んでいて、目はどこか哀しげで……苦しげだった。

パニックになりながらも、ルールのことを思い出す。

ソファ……あそこにスプレーがある!

必死にソファの隙間に手を伸ばし、スプレー缶を掴んだ。

──まだキャップを外してもいないのに、

女は、悲鳴を上げて消えた。

ベッドの上に、血の跡だけを残して。

……こんな状況で、どうやって眠れっていうんだ。

それでも、夜のルールに従って、俺は一つ一つ確認作業をこなした。

死体の再出現。

女の再訪。

白板のルールの書き換え。

どれもこれも……いつ再び襲ってくるかわからない。

恐怖と不安で一睡もできなかった。

──そして、ようやく朝が来た。

その瞬間、俺は大きく息を吐いた。

……こんなに朝日がありがたく感じたことはない。

だが、空腹が限界だった。

ふらつく足で冷蔵庫へ向かった。

中には、整然とした食材と、貼り付けられたメモがあった。

【毎日、定刻に食材を配達しています。組み合わせに従って調理してください。食材を無駄にしないこと】

【冷蔵庫を破壊しないでください。破壊すると、食べ物が得られません】

【「あの人」が来たとき、冷蔵庫の中に隠れようとしないこと】

【冷蔵庫に「赤い食材」が出現した場合、その日のうちに必ず食べてください】

赤い食材……?

それ、触っちゃダメなやつじゃなかったのか?

矛盾してる……ルールが、食い違っている……?

冷蔵庫の奥に、一つだけ……血のように真っ赤なトマトがあった。

恐ろしくて、手を出せなかった。

他の食材だけ取り出して、調理することにした。

キッチンの壁には、料理の手順が詳細に書かれていた。

調味料の分量、加熱時間……すべて、まるで料理教室みたいに正確だった。

【必ずルール通りに調理すること!必ずルール通りに!】

味は、最悪だった。

涙が出そうになった。……いや、出た。

皿をルール通りに洗い、決められた位置に戻す。

キッチンをピカピカに掃除して、ようやく「キッチンルール完了」って感じだった。

誰が、こんな細かいルールを作ったんだ。

きっと、潔癖症の化け物に違いない。

食後、白板を見に行った。

昨日のルールと、微妙に内容が変わっていた。

──一部は、書き換えられていた。

──そして、新しいルールが追加されていた。

【今夜、来客があります。食事を準備し、客を迎えてください】

昨日のルールには、「夜に来客なし」と書かれていたはずだ。

その文言は消え、代わりにこれが追加されていた。

……嘘だろ。

ルールを消そうとしてみた。

指で擦ったが、真っ赤な文字は消えず、逆に発光し始めた。

まるで「重要な注意事項です」と言わんばかりに、熱を帯びていた。

……くそ。誰が消せるかよ、こんなもん。

いったい、今夜来るのは──

あの赤い女なのか?

それとも……別の、何か?




005

震える手で冷蔵庫から食材を取り出した。

料理の腕は壊滅的だ。

それでも必死に調理し、傷だらけになりながら、見た目の悪い皿をいくつもテーブルに並べた。

自分の料理に恐怖した。

この料理を見た客が来たら、間違いなく俺を食い殺すんじゃないかって。

あの赤い服の女にスプレーが効いたなら、

今夜来る客にも効くのだろうか?

その時、向かいの席に置かれた堀川 潤の死体が、突然目を開けて、俺に悪戯っぽく笑いかけた。

驚いて飛び上がった直後、チャイムが鳴った。

奇跡的に、あの扉が再び現れたのだ。

急いで駆け寄ると、扉の向こうから、真っ青な顔がこちらにぴったりと押し付けられた。

よろめいて後ろに倒れそうになると、赤い服の女がふわりと現れ、テーブルの周りをゆっくりと一周した。

焦げ臭い黒ずんだ飯を睨みつけ、女の顔色がどんどん悪くなっていくのがわかった。

どうやら、料理に満足していないらしい。

その真っ黒な瞳に見つめられ、鳥肌が立った。

「やべえ……何かされるんじゃ……」

そう思った瞬間、再びチャイムが鳴った。

女は音のする方を見た。

続いて、二人の男と一人の女が姿を現し、部屋は一気に混み合った。

彼らは確かに俺を認識しているらしく、にやりと笑いながら囲み、俺は恐怖で泣きそうになった。

まるで俺を丸呑みしようとしているみたいだった。

赤い服の女と一緒に席に着いた彼らを、こっそり観察した。

五感は人間の形をしているのに、そのパーツはどれもねじ曲がり、

透けるように白く、ほとんど透明に見えた。

動きも水中を漂っているようにゆらゆらしている。

突然、全員が一斉に俺を見た。

息が止まりそうになった。

赤い服の女が、にこやかに手を振った。

理光りこう

一瞬固まった。

俺の名前を知っているのか?しかも、やけに親しげに呼ぶなんて……気味が悪い。

なんてこった、堀川 潤も起き上がり、赤い女の隣に座っていた。

彼の死んだような顔も、笑みを浮かべていて、さらに恐ろしく感じた。

もう泣きそうだったが、恐怖で足がすくみ、その場でじっとしていた。

女は手を伸ばし、俺の頭を撫で、後頭部を掴んで「演技しろ」と命じた。

全員が俺の目を見つめ、真っ赤な口を歪めて笑っている。

拒否する言葉は出なかった。

ぎこちなく、音痴の歌を口ずさんだ。

まるで猫の巣に放り込まれた鼠のように、いつ食い殺されるかわからない恐怖と、弄ばれる無力感に包まれた。

彼らの口がさらに裂けて大きくなり、細長い手が俺の頭に触れた。

凍りついた。抵抗できず、息を止めた。

濡れた柔らかい手が頭頂からゆっくりと降りてきて、肌に触れた瞬間、寒気が走った。

危険を感じ、逃げようとしたが、その手が首を締め上げ、呼吸ができなくなった。

必死に暴れて、目の前のテーブルを蹴り倒した。

女の悲鳴が響き、頭が痛み、視界が揺らいだ。

やっと手を解かれたが、不思議なことに、彼らは互いに罵り合いながら、揉み合い始めた。

さっきまで和気あいあいと食事していた連中が、一瞬で激しい喧嘩に変わった。

大きく裂けた口から、何か言葉を叫んでいたが、俺には何を言っているのか全くわからなかった。

同じ種族なのに、容赦なく殴り合う様子は異様だった。

俺は角に身を潜め、一人の者が生きたまま引き裂かれるのを見た。



006

何が起きたのか、まったくわからなかった。

目の前で起こっていたはずなのに、気がつけば床はぐちゃぐちゃに荒れていた。

彼らはまるで血に染まった腐った麺のように床にばらまかれ、強烈な悪臭を放っていた。

耐えきれず、トイレに駆け込んで吐き出した。

だが、便器の中の物が血のような肉塊に変わり、自動で流れていく。

立ち込める生臭い匂いに息を止めた。

顔を上げると、堀川 潤が便器のそばに直立し、じっと俺を睨んでいた。

もう怒る気力もなくなり、免疫ができた。

トイレでじっと心を落ち着けてから、やっと腰を上げて荒れ果てた部屋の掃除に取りかかろうとした。

しかし、驚くべきことに、彼らは全員消えていた。

俺の作った料理も、倒れたテーブルも、まるで何事もなかったかのように元通りだった。

頭が痛く、吐き気も治まらない。

ルールに従い、白板に体調を書き込んだ。

そして、奇妙な出来事が起きた場所を一つ一つマーキングした。

何の意味があるのか分からなかったが、自分への戒めとして残した。

午前1時、床の下、各部屋の天井や扉の裏側を調査しなければならない。

トイレは異常なかったが、扉と床の下はぞっとする光景だった。

そこには血の手形や引っ掻き傷のような痕跡がびっしりとあった。

誰かが床の下に隠れて、無理やり引きずり出された時の血痕に見えた。

扉の裏の隠れた隅には、赤い文字でこう書かれていた。

「彼に薬を飲んでいることを見つけさせるな」

この凶宅の過去が何なのか分からない。

だが、この場所を調査するたびに、ますます背筋が凍る思いだ。

普通の住宅のように見えて、そこには生き延びようと必死に足跡を残した誰かがいた。

床の下に隠れ、扉の裏に潜み、この奇怪な屋敷でわずかな希望を探した。

地下室にさえ、窓や扉をこじ開けようとした跡が残っていた。

ベッドの脇の粗い彫り跡にはこう記されていた。

「五時に彼が戻ってくる。絶対に地下室に来たことを知られてはならない」

「鍵を隠せ。彼は奪い取ろうとする」

これらは誰が残したのか?

この屋敷で死んだ者か、堀川 潤か?

今の俺の境遇は同じだ。

彼の残した痕跡が、もしかしたら命綱になるのかもしれない。

ここに、脱出の秘密が隠されているのかもしれない。

地下室で鍵は見つからなかったが、時間は迫っている。

次は廊下の調査に向かわなければならない。

そこは陰気で、月の光が差し込んでいるにも関わらず、蒼白で寂しげだった。

誰かの影が揺れていた。

風に揺れるその姿は、やはり堀川 潤だった。

彼の顔を見ても、心は動かなかった。

ただ、早く手掛かりを見つけて、この地獄から抜け出したかった。

血痕が数か所あったが、廊下に有効な手掛かりはなかった。

赤い服の女も現れなかった。

全ての調査を終え、ベッドに戻る。

昼間の出来事が頭をよぎる。

あの「理光」という呼びかけが、どうしても引っかかって仕方がない。

どこかがおかしい、でも理由は分からない。



007

今日、俺は賭けに出ることにした。

あの男が残した痕跡が、新たな突破口を開いてくれたのだ。

「五時までには彼が戻ってくる」

だから、その後は地下室にこっそり入れない。

だが、昼間なら行けるのではないか?

「禁止されていないことは、やってみてもいい」

ルールには書かれていないことは、もしかしたら許されるのかもしれない。

そう思い、俺はこっそり地下室へ向かった。

鍵を探すために。

物が多くて散らかっている。

鍵のような小さいものを見つけるのは、運次第だ。

埃まみれの使われていない棚に、誰かが描いたミッキーマウスの頭があった。

なんだか可愛くて、つい指でなぞってしまった。

すると、テーブルが動いた。

まるで魔法のようだ!

テーブルが小さな箱を弾き出し、その中にはミッキーマウスのペンダントと鍵が入っていた。

見つけた!

これでここから一歩近づけた。

これは扉の鍵だろうか?

だが、扉は消えてしまった。

この鍵はどう使えばいい?

もしかしたら、まだ気づいていない扉がどこかに隠されているのかもしれない。

他にも、あの男が残した脱出の手掛かりが屋敷のどこかに隠されているに違いない。

残念ながら、昼間に来てみると、血痕や文字は消えてしまっていた。

だが、俺はふと期待した。

もしかすると、夜にならないと新しい手掛かりは現れないのかもしれない、と。

鍵を持ち歩きながら、次は扉を探す。

凶宅で迎える三晩目。

昨日とは違い、ここに残る痕跡が変わっている。

そして、あの赤い服の女をまた見かけた。

彼女は寝室のバルコニーに立ち、俺をじっと見つめていた。

何度も恐怖の瞬間を味わい、もう免疫ができていた俺は、落ち着いて彼女と目を合わせる。

彼女に気づかれないように、鍵を探していることを悟られまいとする。

気のせいだろうか、彼女がゆっくり近づくにつれて、彼女の目はずっと俺の鍵を見ていた。

まさか、気づかれたのか?

鼻先が俺に触れそうな距離まで近づいてきた彼女。

俺は必死に冷静を装い、いつでも鍵を奪い返せるように構えた。

しかし、彼女はしばらくそこに留まっただけで、ふわりと漂うように去っていった。

去り際に一度だけ振り返って、俺を見た。

俺はほっと息をついたが、彼女はまた玄関に現れ、じっと俺を見つめていた。

まるで「一緒に来い」と言っているようだった。

勇気を出して彼女についていくと、彼女は俺をトイレへ連れて行った。

鏡の前に立つと、彼女は不思議なことに消えてしまった。

その鏡に何か違和感があった。

スマホのライトで照らしながら指で鏡を触ると、鏡面の奥に距離がなく、普通の鏡ではなく、両面鏡だと気づいた。

鏡の裏側に誰かがいるのだろうか?

俺がここで弄ばれる様子を見物しているのか?

数秒間じっと鏡を見つめて、思い切って鏡を外せないか試してみることにした。

きっとこれが、赤い服の女が俺に示したヒントだ。



008

くそっ、この鏡、どうやっても外せない!

力を振り絞って外そうとしたその瞬間、鏡の中に蒼白い男の顔が突然現れた!

思わず手が緩み、数歩後退る。

それは赤い服の女ではなかった。

俺がこれまで一度も見たことのない男の顔だった。

じっと見ようとする間もなく、その顔はすぐに消えた。

もう鏡を壊す勇気は出なかったが、以降のルール確認には慎重さが増した。

俺をここに閉じ込めたのが誰であれ、もし俺の動きを監視しているのなら、あの鏡だけが監視装置とは限らないはずだ。

他の場所にも「目」が隠されているはずだ。

そう気づいたのは驚きだった。

便所を除き、この家の全ての部屋に外界と繋がる監視ポイントがあったのだ。

なるほど、毎晩調査に行っているのに、怖くて部屋を深く調べられなかったから気づかなかったんだ。

しかし、待てよ。

俺の隠れて見つけた遺言も、こっそり手に入れた鍵も、監視者がいるなら全部見られていたはずだ。

なぜ、誰も止めなかった?

それとも、これも全部彼らがわざと見せている「導き」なのか?

まるで操り人形のように、彼らの計画通りに動かされているだけなのか?

そう考えると、一瞬にして希望は崩れ去った。

俺のやってきたことは無意味なのか。

ここにいるのも三晩目、7日間の半分が過ぎた。

一見平穏に見えるが、7日間経てば本当にここから出られるのか?

経験豊富な堀川 潤でさえ、ここで死んだ。

俺のような素人が、規則を守って生き延びられるとは思えない。

わからない、もう正気を保てそうにない。



009

今夜もまた、まともな眠りは訪れなかった。

眠りに落ちかけたその時――息が、苦しい。

必死に目を開けると、ベッドの端に“あの赤い女”が座っていた。

目を見開いたまま、じっと俺を見下ろしている。

まさか、俺を――殺す気か?

ベッドサイドのランプを掴み、思いきり彼女に投げつけた。

一瞬、彼女の動きが止まる。その隙に俺はリビングへと逃げ出し、レーザーポインターを取り出した。

光が赤い女を照らすと、彼女は甲高い悲鳴を上げて、その場からかき消えた。

……どういうことだ?

あの女は、今まで俺にヒントを与えてくれていたはずだ。

味方ではなかったのか?

……いや、この狂った家で、普通の思考なんて通用するわけがない。

眠れないまま夜が明けた。

俺は再び、家中をくまなく調べることにした。

倉庫の物を全部引っ張り出して掃除していたら、ひとつの箱を見つけた――四桁の数字で開ける機械式ロックがかかっている。

試せる組み合わせは一万以上。でも、他にやることもない。

ひとつひとつ、地道に試していった。

……そして、400回を超えたあたりで――カチリ。

開いた。

「0413」

なんとなく見覚えのある数字だった。だが、今は考えている場合じゃない。

中を開けると――絶叫が飛び出した。

女の声、子供の声、入り混じった悲鳴が耳を貫く!

思わず箱を投げ出し、耳を押さえる。

頭が割れるほど痛い、あの音が、脳を直接引き裂こうとしてくる――!

その瞬間、声は止まり、代わりに、聞き覚えのある声が響いた。

「おい、どうした?兄弟……」

堀川 潤――?

目の前に、数日前に死んだはずの堀川が立っていた。

正気を失いかけた俺の頬を、彼が軽く叩いた。

……その手、温かい。

俺は夢でも見ているのか?それとも現実が狂っているのか?

「顔色、ひどいぞ。大丈夫か?」

試しに自分の頬をつねる――痛い。

なら……彼のもつねってみるか?

「痛っ、何すんだよ!」

本物……?

堀川は、不思議そうに俺を見ながら言った。

「箱、どうなってんだよ?お前、開けた瞬間、真っ青になって気絶しかけたじゃん。俺はなんともなかったけど……」

彼の話では、俺たちは一緒にこの“試住み”に参加しているらしい。

今までずっと俺が先行していたが、今回は頼み込んで一緒に来たと。

俺たちはこの家の奇妙なルールに囚われ、出口を探しているという。

もしかすると、あの箱を開けたことで、俺は“別の世界”に来てしまったのか?

ここでは堀川は生きていて、しかも俺たちの関係性も少し違っている。

部屋の構造も微妙に違っていた。窓の向き、家具の配置、すべてが少しずつ――ズレている。

さらに驚いたのは、リビングの光景だった。

女がひとり、倒れた食事のそばに座っていた。

彼女の横には、小さな男の子。服の裾を引っ張っている。

しかし女は彼に気づく様子もなく、黙って皿を片付ける。

やがて少年が何かを言い、彼女は一枚の千円札を渡した。

子どもは笑顔で家を出ていく。

女は無言で化粧をし、服を着替えた。

……なんだ、この奇妙な光景は?

数分後、子供が戻ってきて、薬の入った瓶を手渡した。

女がそれを開けようとした瞬間――俺の脳裏に、あの血で書かれた文字が蘇った。

「薬を飲んじゃいけない」

衝動的に駆け寄り、彼女の手から薬瓶を叩き落とした。

白い錠剤が床に散らばる。

女がゆっくりと顔を上げた。

目から血の涙を流しながら、無言で俺を見つめる――

鋭い悲鳴が、空間を引き裂く。

そして――すべてが白く、眩しく、何も見えなくなった。

……目が覚めると、箱が床に落ちていた。

堀川はいない。女も、子供も。

俺だけが、この異常な空間に――戻ってきた。



010

……さっきの出来事は、夢だったのか?

でも、今のこの現実を、誰が「本物」だと証明してくれる?

夜の帳が静かに降りるころ、俺は、過去数日に起きた出来事をひとつひとつ反芻していた。

あの平行世界らしき場所、そして箱の中に響いた叫び声……

何か、大切な何かを見落としている――そんな気がしてならなかった。

部屋の中から紙を数枚探し出し、頭に浮かんだ違和感や謎を全て書き出してみた。

あり得ない現象、不可解な人物、繰り返される“規則”……

バラバラの点が、夜の静寂の中で、徐々に線を結び始める。

そのとき――ふと、廊下に差し込む月明かりに目が留まった。

そうか……そういうことか。

違う。

あの“箱の中の部屋”は、ここを鏡写しにした世界だったのだ。

そして、あの風呂場の鏡――最初に“顔”が現れた場所は、もともとこの部屋の玄関にあたる位置。

だから、赤い女はいつも俺をそこへ誘っていた。

そして俺が破壊を試みるたび、別の“顔”が現れていたのだ。

……あそこに、出口があるのかもしれない。

風の強い夜だった。

本来なら家の見回りに行く時間だが、俺は動かなかった。

ずっと、鏡の前に立ち続けていた。

家中の道具という道具を集めてきた。

破壊すれば罰があるかもしれない――だが、もうそんなことはどうでもいい。

俺は、ここから出る。

絶対に。

左手に鉈、右手にハンマー。

力いっぱい振り下ろすたびに、鏡はひび割れていった。

そして、あの顔が現れた。

見るたびに不快感を覚える、忌まわしいその顔。

鋭い牙を剥き出しにして飛びかかってきた瞬間、俺はその喉元を掴んだ。

そいつはミミズのように全身をくねらせ、「ギャギャギャッ」と不快な声で叫びながら、俺に噛みつこうとした。

俺は手にした鉈を振り下ろした。

すると――そいつは女の姿に変わった。

その瞬間、俺の手が緩んだ。

すると女は一気に噛みついてきて、俺を床に押し倒した。

「っ……!」

そのとき、視線の端に“彼”がいた。

堀川 润が、風呂場の天井から吊られるようにして、こちらを見下ろしていたのだ。

……あの、ぞっとするような笑みを浮かべながら。

気が狂いそうなほどの混乱の中で、俺は再び鉈を握りしめ――

彼に向かって、刃を突き立てた。

何が起きたのか、よく分からない。

ただ、圧し掛かっていた重みがふっと消え、俺は一気に“鏡”へと駆け込んだ。

その瞬間――

鋭利な破片が全身を切り裂いていく。

皮膚という皮膚が割け、痛みが閃光のように走る。

目の前が眩しく、目を開けていられない。

全身が、白い光に飲み込まれていく。

……これで、俺は死ぬのか?



011

……俺は、死んでいなかった。

気づけば、戻ってきていた。

薄く目を開けると、俺の周囲を囲んでいたのは――警察と、数人の精神科医だった。

彼らの表情は、どこか重たく、哀れみを帯びていた。

「これで……信じてくれますよね」

頭の中はしばらく混乱していたが、すぐにすべてを思い出した。

「……俺は、殺してないんです」

その瞬間、警察官の目が変わった。

疑念に満ちた視線は、静かに同情へと変わっていった。

実際、検死結果がすべてを物語っていた。

堀川 润は、恐怖による心停止――つまり、「驚死」だった。

身体には外傷ひとつなく、俺に罪を着せるのは無理があるはずだった。

……ただ、問題はそこじゃない。

あの“凶宅”を紹介し、彼を連れていったのが俺だったということ。

そして――あの家は、俺の実家だった。

母が首を吊った家。

その後、義父も不可解な死を遂げた。

それ以来、何十年も放置されていた曰く付きの屋敷。

そこに、また一人の死者が出た。

堀川 润。

これだけ不吉な場所は、そうそうない。

「まるで、呪われてるみたいですね」

誰かがぽつりと呟いた言葉を、俺は聞き逃さなかった。

だが、俺には“証拠”があった。

スマホの中には、俺と堀川のやりとりが残っていた。

――一緒にやらせてくれ、頼む。

――稼げるんだろ?なあ、俺にも紹介してくれよ。

……そう。あいつがしつこく頼み込んできたんだ。

元々は、俺がふざけて「半年で200万稼いだ」なんて話を吹いたのが原因だった。

仕事もせず、金遣いの荒いあいつが乗ってこないわけがなかった。

そして――死んだのは、あいつだった。

それだけで、俺は“疑わしき者”として扱われた。

潔白を証明するため、俺はすべてを話した。

あの家で何が起きたのか、何を見たのか、何を感じたのか。

……もちろん、信じてもらえるはずがない。

だから、俺は自ら申し出た。

催眠、心理テスト、脳波検査……どんな調査でも受けると。

そして――ようやく、俺の無実が認められた。

だが、それは同時に、この世の理から外れた体験が“妄想”として処理された瞬間でもあった。

本当に、俺は戻ってきたのか?

それとも――まだ“あの中”にいるのか?



012

試し住みの仕事は辞めた。

あの家を最後に、俺はもう二度と足を踏み入れまいと心に決めた。

故郷に戻る前の晩、俺の担当だった警部が食事に誘ってくれた。

「料理は先に頼んでおいたんだ。君の口に合うといいが、何か他に食べたいものはあるか?」

テーブルには所狭しと並ぶ、赤々とした料理。

俺は軽く笑って首を振った。「いえ、充分です」

「最近は……調子が良さそうだな。医者が処方した薬は、まだ飲んでるか?」

「ええ。幻覚は、ほとんど見なくなりました」

俺は穏やかに答えた。

警部は箸を動かしながら、唐突に言った。

「精神科医の話だと、君が見た幻覚は、子供時代のトラウマの投影だそうだ。十二の頃から……母親の件で、かなり苦しんできたんじゃないか?」

「……まぁ、普通です」

「警戒してるのか?」

そう言いながら、彼は俺の皿にトマトと卵の炒め物をそっと盛った。

「そんなことありません」

「じゃあ、どうして箸をつけない?」

彼の声は静かだが、その目は油断なく俺を観察していた。

「……胃の調子が、あまり良くなくて」

「それは、これが君の“母親が最後に作ってくれた食事”だからか?」

笑っていたはずの彼の顔から、笑みがすうっと消えた。

目の奥には、どこか冷たい光があった。

俺は無言のまま、視線を落とした。

「数日前に、結案報告のために色々と調べ直した。君の母親と義父のこともね。母親が亡くなったのは君が十歳のとき。死因は睡眠薬の過剰摂取。そして……その薬を買ったのは、君だった」

「ええ……そうです」

「半年後、義父がアルコール中毒で死亡。それ以降、君はこの地を離れた。そして――堀川 润。彼もまた……君の義父の隠し子だった」

俺は思わず顔を上げた。「隠し子……?」

「知らなかったのか?」と彼は意外そうに眉を動かした。

「……そんなわけない。彼はあの男に、まったく似ていませんでした」

だが警部は、俺の表情をじっと読み取ろうとしていた。

信じていない。そういう目だ。

「本当に知りませんでした。堀川とは、ここ二年の付き合いです。彼も、俺と同じく孤児でした」

俺はひとつ深く息を吐いた。

「……あなたは、まだ俺を疑っている。彼の死に、俺が関わっていると思いたいんですね」

「――そうかもしれないな」

そう言って、警部は箸を静かに置いた。

「だが、君があの男を憎んでいたのは、事実だろう?」

俺はゆっくりと頷いた。

「父は早くに亡くなり、母と二人でなんとか暮らしていた。質素だけど、平穏だった。けれど――あの男が母に近づいてから、すべてが壊れた」

「詐欺まがいの甘言で母を騙し、結婚。金を吸い取り、酒と博打に溺れ……母への暴力は日常茶飯事だった」

「食事の内容、作り方、家の過ごし方……すべて、奴の命令どおりに動かなくてはならなかった。まるで、犬のように」

「客の前で“芸”ができなければ、俺はその場で殴られ、病院送りになったこともある。そんな日々が一年も続けば……母が壊れるのも無理はない」

俺は、そっと警部の目を見た。

「――俺は、人を殺しました。ただし、それは堀川じゃない。……俺の母です」

その言葉に、彼の目が一瞬大きく見開かれた。

「……あのとき、母は限界だったんです。毎日、死にたいと言っていました」

「ある日、彼女が聞いたんです。『ハンバーガー、食べたい?』って。俺は無邪気に頷きました。

彼女は微笑んで、俺に金を渡し――薬を買ってこいと頼んだんです」

「俺は、ハンバーガーを手に入れた。彼女は、安らぎを得た。

……その日、死ぬはずだったのは、きっと俺の方だったのに、生き残ってしまったんです」

「……警部、俺があのとき、もっと母を求めることができていれば。もっと、食べ物じゃなく、彼女の痛みに気づいていれば……今ごろ、俺は“母親のいる子ども”だったのかもしれません」

俺が微笑むと、警部の目がうっすらと潤んだ。

「もし、堀川 润がいなければ……俺は、あの家に二度と足を踏み入れなかった。

……彼は、俺を癒したかったのかもしれない。けれど――」

警部は静かに、重く、言った。

「君は……本当にそう思っているのか?彼が、君のために“それをした”と」



013

「……なに?」

今度は彼がため息をついた。

「君、本当に知らなかったのか?堀川 润が……君の精神科医と通じていたことを」

一瞬、時が止まったようだった。

箸を持つ手が、空中で固まった。

「……知ってます。発作を見られて……俺の過去も話しました。彼は……助けたかったんです」

だが、警部は無表情のまま、テーブルに一枚の紙を置いた。

「彼があの家に入ったのは――君の主治医と共謀してのことだった。

君を追い詰め、壊すためにね。……彼は君の財産を狙っていた」

その言葉が、体のどこかで鈍く響いた。

心臓ではなかった。胃の辺りか、あるいはもっと深い場所――感情が沈殿する、名もなき器官だったのかもしれない。

俺は、何も言えなかった。

彼が差し出した記録――主治医の供述書に、確かにそれらしい記述があった。

「君が精神的に不安定であることを利用して、意図的にあの家に呼び出すよう、彼は医者に指示していた。

“赤い服の女”は、彼が仮装して演じていた存在だった」

「……でも、計算外だったんだろう。君は、その夜――本当に“狂った”」

「そして……彼は“恐怖”に殺された」

俺は机の縁を指先でそっと撫でながら、言った。

「……嘘、だろ」

「彼は、君の母親の死にも疑念を持っていた。そして――君が遺産を『彼に残す』と以前言っていたことも、動機の一つだった」

そのことは、確かに俺の口から出た言葉だ。

結婚する気も、家族を持つ気もなかった俺にとって、それは“当然の未来”だと思っていた。

「……愚かだったな」

警部は静かに肩を叩いた。「……人を見る目が、なかっただけだよ」

それだけ言うと、彼は席を立った。

テーブルの上に取り残された、冷めた料理たち。

いつもは避けるはずの、トマトの赤さも、卵の柔らかさも、今日は妙に穏やかに映った。

俺はゆっくりと箸を取り、母が最後に作ったという、あの“色合い”に似た皿から一口ずつ、口に運んでいった。

食べながら、心のどこかで母に話しかけた。

――母さん、大仇は、取れたよ。

君が笑ってくれる日が来るのなら、俺はそれでいい。

……でも、

君は、俺を許してくれるだろうか?



014

母が息を引き取って三日目の夜、

あの男はようやく戻ってきた。

戸口で足をふらつかせながら、

「短命な女め……」

「てめえも役立たずのガキだ……」

と、俺に向かって痰を吐くように言葉を投げた。

そのとき、俺は果物ナイフを手にしていた。

小さな手のひらに、冷たく収まる鋼の感触。

俺は――殺そうと思った。

だが、子どもの力など、あまりに軽く、

一撃も届かぬまま、逆に壁に叩きつけられた。

白い指が首を締めた時、

視界は、ゆっくりと黒く染まった。

祖母は俺を引き取ろうとした。

けれど、俺は拒んだ。

――あの男が死ぬその日まで、俺はここを離れない。

そう、固く、心に決めた。

その夜は、大粒の雨が屋根を叩いていた。

あの男は鏡の前で、ふらふらと立っていた。

酒に酔い、顔は青白く、まるで死人のようだった。

俺は、その背後から近づき、

その頭を、鏡に打ち付けた。

だが、死ななかった。

返ってきたのは、怒りの拳。

また、殴られた。

俺はこっそり、貯めた小遣いで

安い、けれど度数の高い酒を買い集めた。

彼は喜んだ。

まるで餌に食らいつく獣のように、

ぐいぐいと飲み干し、足元をふらつかせながら

トイレへと向かった。

滑るように仕込んでおいた油――

その足が、あっけなく宙を舞い、

彼は音もなく、便器に倒れ込んだ。

それきり、彼は起きなかった。

――俺は、彼を殺していない。

死んだのは、彼自身の弱さと、貪欲さだ。

祖母が迎えに来た日、

俺は振り返らなかった。

あの家には、もう何も残っていないと思った。

だが、堀川 润――

あの男の“息子”が、現れた。

最初から気に食わなかった。

笑う時の目尻、酔った時の癖、

全てが、あの男を思い起こさせた。

ああ、やっぱり、血は争えない。

目つき、欲の深さ、すべてが似ていた。

俺は、話してやった。

過去のこと、母のこと、遺産のこと。

彼は動いた。

俺の主治医に接触し、共謀し、

“優しさ”を装って、俺をあの家へ誘った。

――だが、愚かだったな。

その一切が、俺の掌の上にあったとは

夢にも思っていなかったろう。

恐怖に殺されたのは、俺じゃない。

“過去の影”に呑まれたのは、彼の方だった。

雨は止んだ。

今夜は、不思議と静かだ。

俺は、最後に箸を取り、

母が生前好んでいた料理を、一つ一つ口に運ぶ。

苦い。

けれど、懐かしい味だ。

母さん――

もう、何も怖くないよ。

俺の中の闇は、今、静かに沈んでいく。

君は、俺を許してくれるだろうか。



――終。



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