36話 イデアにはなれない
きっと、酷い待遇を受けたのだろう。
目の前の空那を見ればすぐに分かった。
どの世界であっても、上を目指す場所であればあるほど、そこには実力主義が蔓延るモノ。しかも親の七光りで贔屓されたとくれば、周囲がどんな反応を示したのかなど想像に難くない。
……けど。
それは、空那が役者の道を諦めた理由だ。
僕を避ける理由ではあっても、イデアを辞める理由になんかならない。
「だったとしても、イデアはちゃんとやれていたじゃないか! 別に、今になってわざわざイデアを降りる必要なんて、どこにも――」
「……やっぱり、ムカイにも分かんないよね」
「え?」
「正直ね、イデアの事は嫌いだったんだ」
我慢の堰が決壊したかのようにして出てきた、突然の告白。
僕ができたのは絶句だけで、空那は皮肉げに歪んだ顔でそれを見下していた。
「だってそうじゃん。夢も希望も、全部打ち砕かれた私が、みんなを照らす希望の星になれだなんてさ。出来るわけないじゃん。滑稽なピエロだよ、そんなの。うらやましくて憎たらしくて、ムカイが見せてくれた設定を見た時はたまらず資料を破り捨てたくなったほどだったもん」
淡々とした言葉の節々から突き出される、無数の刃たち。自らが吐き出した言葉によって自分自身を傷つけるように、空那はさらに苦しそうに言葉を続ける。
「それにさ、ムカイの言う『最強の美少女』って何? 無邪気に明るいだけで、ひたむきに前向きなだけで、それが最強なの? あんなのただ現実を知らないってだけじゃん!」
「……空那」
「私なんか、がんばっておしゃれして、がんばって外に出て、がんばってムカイと再会したのにッ! うらやましくて、ねたましくて、どれだけがんばっても私なんかが成れるはずなくて……こんなのなら、最初からイデアに成るべきじゃ――」
「やめるんだ空那ッ!」
それ以上の言葉を僕が聞くわけにはいかなかった。
大声を上げて空那の言葉をかき消す。それに空那はビクッと身を縮ませるが、すぐにだらりと両手を下げて自嘲するように諦観の笑みを浮かべた。
「……やっぱり、私にイデアはふさわしくないね。自分の夢から逃げ出した私なんかが、誰かに認められるはずないんだよ。ねえムカイ、私はどうすればよかったのかな?」
「それは……」
……もう一度、頑張ればいい。
また立ち上がって、また前に進めばいい。
立ちつくして、うずくまって、動けないでいるだけじゃ何も変わらない。自分が「こうなりたい」と思うものがあるなら、現状を変えたい、打破したいと思うのなら、どんなに逆境のただ中にあったとしても、まず一番に自分から動くべきだ。
それを僕に教えてくれたのは――
しかし、それをこんな状況で言えるわけがなかった。
喉元まで出てきた言葉をグッと呑み込み、僕は口をつぐむ。しかし、空那はすぐに僕が言おうとした事を察してしまったのだろう。彼女は僕を、いや、僕の『目』を畏怖すような視線を向けてながら、怯えるように吐き捨てた。
「やっぱり、ムカイに私の気持ちなんか分かるわけないよね。そんな目を向けることができるような人が、できなかった私の気持ちなんて」
「……目?」
「自分は天才だぞって言う目」
……僕が、天才?
困惑する。僕なんてむしろ逆だ。
僕はただ自分がやりたいこと、成し遂げたい事のために必死こいて食らいついているだけ。
天才なんてモノとは程遠い人間である。
だけど空那はそう思っていないようで、冷ややかな眼差しで言葉を続けた。
「だって当然だよね。ムカイはすごいもん。私と同い年なのにもうプロになってて、それに独学でVドルを作ったんでしょ? みんな言ってるよ、ムカイはスゴイってさ」
「違う。そんなこと」
「あるんだよ。ムカイはただ、ずっとお姉さんのことを見ていたせいで感覚がマヒしてるだけだけ。ムカイは『目の色が違う』の。フツーの同い年の子じゃ、ゼッタイ向けてくるはずのない、天才の目をしてる。私はずっとッ……それが嫌いだった」
嘘か本当か判別つかない、揺らぐような空那の言葉。
「ねえ、ムカイはどうしてここに来たの?」
「――――え?」
「私に発破をかけるため? 違うよね? ムカイは『私がイデアを降りたから』私の様子を見に来たんだよね? 私なんかのためじゃなくて、イデアに異変があったから。イデアのために、イデアを守るために、ムカイはここに来たの」
「ち、違う! そんなこと――」
慌てて否定しようと僕は立ち上がって空那へ詰め寄ろうとする。
しかし、反論が出てくることはなかった。
言葉にならなかったのだ。どれだけ反論を言葉にしようとしても、それが形としてまとまることはなく、僕はただ口をぱくぱくと動かすことしかできない。
「あは、ムカイは変わらないね。やっぱり……嘘は吐けない」
「……だとしても、キミが心配だったのは本当だ!」
「もう遅いよ」
そう告げる空那の眼差しは、回復不可能なほどに冷え切っていて。
話は終わったと告げるように、一歩。部屋の中へと戻る。
「今までありがと、ムカイ。短い間だったけど、イデアに成れて楽しかった。もう一度夢を見れて楽しかった。新しく魂になってくれた人と、仲良くしなよ?」
「待つんだ空那! キミは本当にそれで――」
「さよなら」
バタン。
遮るようにして閉じられた扉の音はとても重たく、僕と空那の世界をどうしようもなく隔てるように響き――そして、消えて行った。
静寂。沈黙。
再び僕の前にそびえ立つ扉。その向こうからは物音一つ聞こえてくることはなく、全ての音が遠のいてしまったかのような中で、空那へと伸ばした僕の手は容赦なく扉によって遮られ、虚しく何も掴むことができずに終わった。
――――否。
ギリリと奥歯を噛んで立ち上がる。
……言いたい事を一方的に言うだけで、終わってたまるか。
空那の部屋の扉に鍵をかけられるようなモノは見当たらない。まあ話すことはある。まだ告げるべきことはある。僕は扉のドアノブへ手をかけ――
「待ちな、兄弟」
その手を、何者かに掴まれた。
ぎょっとして顔を上げる。僕の手を掴んだのは、外出しているはずのリュートだった。
「リュート? なんで……?」
「少し、外で話さねーか?」