35話 荻篠空那の現実
『これからキミの家に行く』
事務所を出て、僕はすぐに2人へとメッセージを送った。
1人はもちろん空那だ。しかし、いくら待っても空那からは返信どころか既読すらつくことはなく、仕方なしに送ったもう1人からはすぐに返信が来た。
リュートだ。
『分かった。鍵は昔隠してた場所にある。任せるぜ』
まるで僕らの事情を見透かしているかのような返事。
……いや、おおよその事情はすでに把握しているのだろう。あまりに段取りの良いメッセージに悪態を返したくなる気持ちをグッとこらえて、僕はその足で荻篠家へと向かった。
2人の家、荻篠家はウチから駅1つ隣にある。
世間では『高級住宅街』なんて言われる立地にある庭つきの一戸建てだ。昔は僕の家の近くにあるマンションに住んでいたけど、現在の家を建てたことでこちらに引越したのだ。
僕は緊張に顔を強張らせつつ門扉を通り、玄関の前に立つ。
「1年ぶりくらい、か……」
中学くらいまでは何度か来たことがあったけど、高校になって学校が別々になったことで時間が合わず、僕の方が仕事やイデアの作成に取りかかったりなどで忙しくなったこともあって、たんだんと訪ねることがなくなっていったのだ。
……配信機材のセッティングとかは、衣越さんに任せちゃってたし。
……最後に来たのは、たしか受験前とかだっけ。
当時はまさか、こんな形で再び訪れることになるとは思ってもみなかった。
「……よし」
深呼吸をしてから、インターホンを鳴らした。
ピンポーン。
軽快な呼び鈴の音がスピーカーから響く。
続いたのは沈黙だった。1秒、2秒、3秒……どれだけ待っても、玄関の扉が開くどころか、そのスピーカーから誰かの声が聞こえてくることはなかった。
……そりゃ、出るわけないよね。
念のためもう一度インターホンを鳴らすが、結果は同じ。
いつもこうして居留守を貫いているのだろう。リュートの話では、ウチと同じくご両親は海外での仕事で不在。当のリュートも今日は帰りが遅いそうだ。
とはいえ、ここまでは想定通りだ。
「……あ、ホントにあった」
庭先に並ん鉢植え。リュートのメッセージにあった「右から3番目」の鉢植えを動かすと、その下から家の鍵が出て来た。
少々不用心だとは思うが、おそらくリュートは今日あたりに僕が来ると予測してここに配置していたのだろう。
あの兄貴分はいったい何を企んでいるのかはともかく、ここはありがたく遣わせてもらうことにする。鍵を使うと、扉はカチャリという音と共にあっさりと開錠された。
「おじゃましま~す……」
恐る恐る中へと踏み込んだ僕を出迎えたのは、無人の玄関。
日当たりがいいからだろうか、明るい印象のある場所だ。しかし、生活感こそあれども人の気配は皆無で、僕がどれだけ待っても誰かが出迎えてくる様子はなかった。
「空那―ッ? 居るんだろうーッ?」
少し声を張って呼びかけてみるも、返ってくるのは沈黙のみ。
……仕方ない。行こう。
リュートの話では、空那の部屋は昔と変わらず2階の奥にあるそうだ。僕は靴を脱いでまっすぐに玄関近くの階段を昇り、目的の部屋の前に立った。
ぴったりと締め切られた木製の扉。可愛らしいプレートに『空那』と書かれている。
鍵は付いていない。だが、僕が扉の目の前にまで来ているのに物音一つしないこの沈黙が、来訪者である僕を拒絶するような空気を醸し出していた。
深呼吸をして、僕はゆっくりと扉を叩く。
「空那――」
「なんで来たの?」
僕の言葉を遮ったのは、ゾワリと総毛立つような低い少女の声。
目の前にある扉を隔てた先から。低く、暗い、僕を突き放つような冷たい声。いつもの明るい声とは打って変わった――空那の言葉だった。
……これは、いや、こんな。
こんな空那の声、今まで一度たりとも聞いたことがなかった。
あまりの変貌に思わず二の足を踏んでしまうが、それでもぐっと生唾を飲み下して踏みとどまり、僕は用意していた言葉を切り出した。
「木深さんたちから、話を聞いたよ」
「――――ッ」
「学校、辞めてたんだね」
返事はなかった。
しかし、扉の先から聞こえた息を飲んだような物音が、肯定を物語っていた。
「イデアから降りるって言ったんだって? 本気なの?」
「……さあ、どーなんだろ」
「学校を辞めたことを、僕に知られたくなかったから?」
「分かんないよ」
「キミが僕に黙ってイデアを続けられるように手を回したのも聞いた。キミは本当にこれでいいの? こんなことをして、もう二度と」
「だから、もう分かんないんだってばッッ!」
僕の問いを遮った空那の怒声。
それがえらくクリアに聞こえたと同時に、僕は勢いよく開け放たれた彼女の部屋の扉にぶつかって尻もちをついた。
「いっつつ……いきなり何す、る――」
困惑と共に顔を上げて、僕は言葉を失った。
扉が開け放たれたということは、部屋の主が出てきたということ。他に誰かが居るとは考えられない。扉越しにいた僕を突き飛ばしたのは、間違いなく空那だ。
なのに、姿を現した『彼女』は――
「自分でも、何したいのかなんて分かんないのッ!」
ボサボサの長い黒髪。泣きはらした目元にはメイクされた形跡は一切なく、パジャマ姿の胸元は、わずかながらにボリュームが小さくなっていた。
……顔立ちや声音は、空那本人のもの。
けれど、そこにいたのは間違いなく、僕の知らない空那だった。
「あ、空那……? それ、は……?」
「……あは。全部、嘘だったんだ」
だらんと両手を下ろし、天井を仰ぎ見る空那が告げる。
「学校のことだけじゃない。高校デビューしてギャルになったなんてのも、まるっきりぜんぶ、嘘。髪の色も、髪型も、メイクも。服装や口調――それに、その、おっぱいの大きさだって、ぜんぶぜんぶ嘘だった! ムカイに嘘を吐いてた!」
己の罪を告白し、罰を待つ罪人の如く。
言葉を吐き出す空那の顔は、あまりにも悲痛に満ち満ちていた。
「これが……ホントの私だよ、ムカイ。私は、ムカイみたいな天才じゃなかったの。すっごく頑張って進学して、ものすっごく頑張って演技の――役者の道に進んだ」
でも、それだけだった。
「私なんかより、すっごく上手い人はたくさんいた。私
なんかよりも何倍も努力して、何倍も才能がある人がたくさんいた。私なんか、ただ『親が有名な役者だった』だけの、半端者でしかなかったの。なのに――」
『空那は、強い子です。僕よりも、ずっと』
正義イノリとのコラボの時に、鈴鉢さんの問いに返した僕の言葉。
そう、僕の知っている空那は強い子だ。
いつもまっすぐで、明るくて、僕がくじけそうになった時だって引っ張り上げてくれて。誰かを明るく照らし出してくれるような、強い女の子。
それこそが、僕の知る荻篠空那という幼馴染だ。
けど、しかし。それが今……音を立て崩れていく。
「――一学期の終わりにね、ちょっとした発表会として舞台をやったの。そこで、私はお父さんとお母さんの子供だからって良い役を貰ったんだ。私よりもずっと上手い子は他にもいたのに、私なんかが選ばれた」
「……良いじゃないか。どんな形であれ、キミはチャンスを」
「モノになんかできなかったんだよ」
空那の顔が後悔に歪む。
「舞台のクライマックス、一番大事な場面で……台詞が飛んだの。アドリブで誤魔化すこともできずに、パニックになって舞台から飛び出しちゃったの。とーぜん、舞台はめちゃくちゃ。勝手に私に役を押し付けた先生にはすっごく怒られて、他のみんなや先輩たちからは、ものすっごく軽蔑された。文句だって言われた。だか、ら……ッ!」
「だから、逃げ出したの?」
「……そうだよ。だってもう立ち上がれるわけないじゃん。あんな失敗をした私に、もうチャンスなんか巡ってこない。みんなからも期待なんかされない。あそこには、もう、私なんかの居場所なんて、どこにもなかった」