33話 空那の答え
一瞬の沈黙。
ほんのわずかな、ためらうかのような沈黙。
「……うん。楽しいよ」
しかし、その後に、空那は頷いてくれた。
「イデアになるのは、楽しい。リスナーのみんなとやりとりするのも楽しいし、毎日が新しい体験の連続って感じで、とっても楽しいよ。ショーカや他のVドルたちとも友達になれたし。なにより、ムカイと一緒に頑張っているってことが、一番楽しい」
「空那、それって」
「うん。イデアが、私の新しい夢になったって言えるかも」
だから、だからね? ムカイ。
言葉を切り、目を瞑る空那。
空那の返答に僕がホッと安堵したのもつかの間。彼女の頬がほんのりと赤くなったと共に、空那は何故か一大決心をしたかのような瞳を僕へ向けて、告げた。
「ムカイがシたいなら……いいよ?」
「…………はッ!?」
今度は僕がうろたえる番だった。
い、いきなり何を言い出すのかなキミは!?
僕が何をシたいのか。きっと僕と空那の答えが違うであろうことはすぐに分かる。
空那は先ほどの様子から一変、ハァハァと妙に色気のある息を荒立てながら密着している臀部を僕にこすりつけてくる。ていうか目が血走って――いやもうグルグルしてるんだけど! 明らかに変なスイッチが入ってらっしゃるー!?
もはや話を聞き出すどころの雰囲気ではない。
というか空気が台無しであった。
「密室で2人っきり。邪魔する人は他に誰もいない。据え膳食わぬは男の恥じゃん? あははッ、可愛い顔してるクセして、ムカイもやっぱり男の子だ」
「ま、待つんだ空那! いきなりこんなっ」
「それとも、ムカイのココもウソを吐けない性分なのかな? 初めて触ったけど、ホントに固くなったのがすぐ分かっちゃうんだ。……コーフンしてくれてるんだ、私なんかで」
湿っぽいこと言いながら荒い息で迫ってこないでくれませんか……!?
グググ、と僕の制止を押し切るようにして顔を近づけてくる空那。思ったよりも空那の力が強く、だんだんと僕の方が押し込まれてしまう。
「ムカイ。私ね、これでもムカイに感謝してるんだ。こんな私なんかに、代わりの夢をくれたんだもん。私に返せるのはこれくらいだから、いいよね?」
マズイ。これはマズイぞ!
このままじゃ押し切られる!
湿っぽい空気とか色っぽい雰囲気とかそれ以前に、自分が描いたVドルの魂とねんごろの関係になんかなっていい訳がない! とんだスキャンダルだ!
「ムカイ。ハジメテだから、優しく――」
「その前に! ひとつ! いいかな!?」
互いの鼻がぶつかりそうなほどの距離にある空那の言葉を遮って僕は叫んだ。
太ももから胸にかけてまでピッタリ密着していた空那の身体がビクンと跳ねる。僕はその隙をつくようしてディスプレイのある壁側を指し示し、言葉を続けた。
「カラオケの部屋には、監視カメラが付いてるって知ってるかな?」
「――――え?」
「そこの、デンモクのあった棚の上にある半球型のやつ。他にもあると思うけど、キミが言ったようにカラオケは密室だからね。お客さんが変なことをしないように、どこの部屋でもあんなふうに監視のためのカメラを設置してるんだ」
「……それって、つまり」
彼女の視線がゆっくりと棚の方へ向かう。
半球型だからどんな画角で映っているかは分からないが、ソファの上が全くの死角になっているということはありえないだろう。
「うん。今の状態も、ばっちり見られてると思うよ」
「ご、ごごごめんなさい!?」
慌てて空那が僕の上から飛び退いた。
ようやく自由の身である。最後の一線だけはギリギリ守りぬけたことに安心してホッと息を吐き出しながら僕もソファから起き上がった。
「まさか、本気でここを誰も見ていない密室だと思ってたの?」
「そそそんなことないじゃん! も、もちろん監視カメラがあることくらい知ってるもんね! ジョーシキだよね! 知らないはずないよ忘れてただけだよッ!」
「確かに。忘れてなかったら僕を押し倒したりなんかしむぐ」
「は、恥ずかしいから蒸し返さないで~!」
顔を真っ赤にして僕の口を塞いでくる空那。
よかった……どうやらいつもの調子を取り戻してくれたようだ。
これまでも空那にはドギマギさせられることが多かったけど、今回のは本当に危ない気配がした。
空那の身体が押し付けられていた部分にはまだ彼女の体温が残っているし、背中は逆に捕食される恐怖で冷や汗でびっしょりと濡れていた。
「あは、あはは~あそーだ。まだ時間であるっけ?」
「……まだ延長の確認もないし、15分は残ってるよ」
それだけの時間があれば、話の一つでも聞き出すことはできる。
色んな意味で話を聞けるような空気ではなくなっているのだが、それで諦めるほど僕の決心は温くない。それを示すように僕が空那へ視線を向けると、タイミングを見計らったように着信のメロディが僕らの間に流れ出した。
「あ、ムカイごめん。私の電話」
「うん。続きは後でいいよ」
空那が「ゴメンね?」と手を合わせて、電話に出るために部屋の外へ出る。
「はい、もしもし。あ、お疲れ様です――」
お疲れ様ということは、もしかして衣越さんからの電話かな?
学校の先輩とかって可能性もあるけど。ガラス張りの扉のすぐ近くで話す空那の姿を見るに、少なくとも事務的なやり取りの電話であろうということは分かった。
「って、覗き見するのはよくないでしょ」
カラオケの部屋は当然ながら防音仕様だ。外にいる空那の声が室内の僕に聞こえてくることはない。
まあ、イデアのことで何かあったなら僕の方にも話が来るはずなので、ここでわざわざ聞き耳を立てるような必要もないだろう。
しばらく待っていると、やがて電話を終えた空那が戻ってきた。「誰からだった?」と僕が訊くよりも早く、彼女は両手をパンッと合わせて僕に頭を下げた。
「ごめんムカイ! 急ぎの用事で木深さんに呼び出されちゃった!」
「……木深さん? 衣越さんじゃなくて?」
「衣越さんが別件で出払ってるから代わりにだって。それで、可能ならすぐにでも事務所に来てほしいって言われちゃって、だから話はまた今度でお願い!」
「それは、いいんだけど」
拝むように両手を合わせてくる空那を見ながら、僕は首をかしげる。
「木深さんからの呼び出しなら、要件はイデア関係でしょ? 何があったのかは分からないけど、僕もいっしょに――」
「それは大丈夫! 私個人のことで確認したいことがあるだけだって! だからムカイはこのまま残って楽しんでていいから!」
空那は僕の申し出を遮り、そそくさと自分の荷物をまとめるや否や「それじゃね!」とテーブルにお金を置いて部屋を出て行ってしまった。
……ここ、前払い制だから僕が払ってるんだけど。
どうやらそんなことも忘れてしまうほど急いでいたのだろう。空那がどたばたと慌てた様子で出て行った扉を見て、僕はひとりごちる。
「残りの15分だけで、何を楽しめっていうのさ」
ついさっきまでの事もあって、もう1人で歌うなんて気分にはなれるはずもなく。
結局、僕はぽつんと一人だけ残された室内の空気に耐えきれず、しばらくしてからカラオケの部屋を引き払い、そのまま帰路につくことにした。
電車を乗り継ぎ、家に着いたのは日が暮れてから。
しかし、そんな時間になっても空那からの連絡は一切なかった。
まあ、日中ずっと思い切り遊び倒した後に事務所へ呼び出されたのだ。きっと帰ってそのまま疲れて寝てしまったのだろう。
正直、僕もほとんど似たような状態だったので、この日はそのまま寝てしまった。
何があったのかは、明日になれば教えてくれるだろう――なんて。
そんな楽観的な『明日』が訪れることは、ついぞなかった。
デートの翌日。
イデアのチャンネルではあらかじめ撮影していた動画がアップロードされた。
空那からの連絡はない。それどころか、僕の方から電話やメッセージを送ったりしても彼女からの返事はなかった。
さらに翌日。
予定では、空那が自宅で行うゲーム配信の日だった。
しかし、配信はされなかった。
待機画面はおろか、SNSの更新も一昨日から止まっていたのだ。すぐに空那へ何度も連絡したが、やはり繋がらない。ならばとマネージャーである衣越さんへ連絡を取ろうとしたけど、タイミングが悪いのか忙しいのかずっと通話中で呼び出しすらできなかった。
そして、さらに翌日。
当然のようにイデアの音沙汰はなく、予定された配信もなかった。
代わりとばかりに上がったのは、一本の動画。
ただ「おしらせ」とだけ書かれた短い動画タイトルでアップロードされたそれは、いつものステージに立ったイデアがタイトルの通りある『おしらせ』をする旨の内容だった。
見慣れ切ったイデアの3Dモデル。
仕草、口調――そして、声音。
「…………だれだ、キミは」
3Dモデル以外の全てが別物とすげ変わった彼女が、そこにいた。
『希望イデアch』
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