32話 一歩、踏み込む
空那から『イデア』へ。
まるで今からVドルの舞台に上がるかのように。
今日は遊びに来ていただけだというのに、驚くべき切り替えの早さだった。
息を吸って、一拍。ジャストタイミングで空那が歌い出す――
それは、僕の想像した以上の時間だった。
のべ三曲、全てをフルバージョンで歌い切ること15分ほど。一度たりとも息を切らせることなく、空那は歌い終えた。
最後の曲が終わり、再び部屋の中に静寂が訪れる。
気がつけば、僕は空那へ賞賛の拍手を送っていた。
「あ、ははは……拍手はいいのに」
「ううん、すごいよ! 空那って歌上手かったんだ」
「声出しは昔からやってたからね~。歌はまだまだだよ。たぶん、レッスンしてくれてる先生が聞いたらたくさんダメ出しされてたと思うし」
空那は答えながら、照れくさいのか頬をポリポリとかいた。
「ムカイってば、いっつも私のこと褒めてくれるよね」
「……そんなにいつも褒めてたっけ?」
「褒めてくれたよ。ホラ、私が初めてイデアに成った時とか」
……ああ、確かに。
あの時はリュートに止められるくらい絶賛してたんだっけ。
たった数カ月前のことだ。たいして昔でもないのに遠い昔のことのように思えてしまうのは、きっとそう思えてしまうくらい色々なことがあったからだろう。
疎遠だった空那と再会して、彼女がギャルになっていたり。
空那がイデアの魂に成ってくれて、本来の想定とは違う形でだけど人気になったり。
そのおかげで咲夏――正義イノリとのコラボが実現したり。さらにはシャニプロに所属することになって、サンステへの出演依頼を貰うことができたり。
僕の描いた『希望イデア』は、空那によって僕の予想を遥かに上回る急成長を遂げた。
きっと、これからだってそれが留まることはないだろう。
僕一人だけだったら、ここまで上手くいくことはあり得なかった。
それはひとえに、空那のおかげ。
だからこそ。僕は、知っておきたい。
みんなに夢と希望を与えるVドル『希望イデア』――その魂、荻篠空那。
昔は自分の夢にまっすぐだった彼女が、どうして自分の夢を諦めてしまったのか。
不安はある。懸念もある。
だけど、このまま『なあなあ』で今の関係を続けていくことは、したくない。例えそれが、取り返しのつかないことだったとしても。
今こそ千載一遇のチャンスだ。僕は大きく息を吸ってから空那の方を見る。
「ねえ空那――」
「ごめんムカイッ!」
意を決して投げかけようとした僕の問いは、しかし。
切羽詰まったような空那の声によって遮られた。
いや、それだけじゃない。
「へ? ちょ……ッ!?」
バタバタ、ドタン!
空那は続けざまに僕を掴み、そのまま僕をソファに押し倒したのだ。
勢い任せに押し倒され、その上から空那が馬乗りの要領で覆い被さってくる。
互いの下腹部から胸のあたりまでが極限まで密着し、目と鼻の先、それこそ唇が当たってしまいそうなほど至近距離にある空那の顔は、ぎゅっと瞼が閉じられていた。
「あ、あああ空那ッ? これはいったい……」
「少しだけ、少しだけでいいから――このままでいさせて」
そう告げる彼女は、震えていた。
僕を押し倒した腕が。
僕へ乞うように告げられる言葉が。
ぎゅっと閉じられた瞼が。
まるで何かに怯えているかのように、その感情を押し殺すかのように、震えていたのだ。
いったいどうしたのか。戸惑う僕の視界にある変化があった。
それは扉の方だ。部屋の扉はフレーム部分の他は全てガラス張りになっている。僕らの事が丸見えであると同時に、中にいる僕らからも外の様子を見ることができた。
扉から見えたのは、ちょうど僕らの部屋の対面にある扉だ。そこへ部活か何かで学校にでも行っていたのだろう、制服姿の女子グループが入っていった。
彼女たちは対面の部屋で僕が空那にソファへ押し倒されているのに気付くことなく、楽しげな様子で扉の中へ消えていく。その制服には見覚えがあった。僕の通う折仲高校のものではない。
あれは確か、空那の通う冨央学園の制服だ。
ということは、つまり。
空那は、あの子たちと顔を会わせないようにこんなことをしたの?
あり得ない話ではないだろう。昔からほとんどずっと一緒だったからその感覚は薄いものの、僕らは現在男女二人きりでカラオケにいるのだ。誰がどう見たってデートだし、事情を知らない友人に見つかれば当然、根掘り葉掘り訊き出されるのはむしろ確実だ。
あれ、でも、空那って友達の中で一人だけ彼氏がいないとか言ってなかったっけ?
むしろこの状況だと率先して僕を彼氏だと言い張りそうなものだというのに、なぜそうしないのだろう? いやされたらされたで困るのは僕なんだけど。
でも、しかし。それにしては。
眼前にある空那の顔を見る。
僕の上に覆いかぶさった空那はぎゅっと瞼を瞑り、何かを耐えるかのように身を縮めている。羞恥の色はない。それよりも、むしろ――
……いくらなんでも、おびえ過ぎだ。
「空那、空那。反対の子たちはもう入ったよ」
僕が空那の背中を叩くと、彼女はようやくぎゅっと閉じていた瞳を開けた。
気恥ずかしさと気まずさが同居しているような顔。けれど、今の体勢では事情を話すこともできないと判断したのか、彼女は起き上がろうと身を起こす。
まるで、自分を取り繕おうとするかのような間隙。
僕は、そこに踏み込んだ。
「ねえ、空那」
上半身を起こし、僕の上からどこうとした空那の腕を掴む。
僕の上で馬乗りになった姿勢のまま驚いた顔を向けてくる彼女へ、僕は『用意していた』問いを投げかけた。
「どうして、役者の道を諦めたの?」
「……今訊く、それ?」
「今だから訊いたんだ。今日はリフレッシュって目的はもちろんあったけど、これを訊くために誘ったからね。それに、こんな時じゃなきゃはぐらす気満々でしょ?」
空那の瞳がわずかに揺らぐ。
後ろめたさを誤魔化すような視線だが、言い逃れだけはさせない。
こうして踏み込んだ以上は、確かめられるものは確かめさせてもらうよ。
たとえそれが、空那にとって苦しいものだったとしても。
「昔は昔、今は今だ。昔はあれだけ役者を夢見ていた空那が、どうしてその道を諦めてしまったのか。その過程で空那にどんなことがあったのか。本当に話したくないなら、それでもいい。でも、せめてこれだけは訊かせてほしいんだ」
まっすぐに空那を見据え、僕は問うた。
「キミが夢見た世界を諦めた上で、今――イデアに成るのは楽しい?」