27話 思いもよらぬチャンス
木深さんが衣越さんへ目配せする。
それを受けた衣越さんが書類ケースから2枚の紙を取り出し、僕と空那の前に差し出してきた。
「まず、契約形式はマネジメント業務委託になります。弊社が提供するのは我々が所有するスタジオや各種機材の提供、イベント出演や案件依頼などの斡旋。対して、お2人は希望イデアの運営における収益の3割を報酬としてお支払いいただきます」
「はい。問題ありません」
衣越さんから差し出されたのは契約書だ。契約内容自体は事前に決めていたものであるため、僕は要項を確認してから頷いて返した。
しかし、空那の方は契約書に視線を落して黙ったまま。
いや、よく見れば視線が泳いでいて内容を見てもいない様子だった。
「空那? 空那?」
「え、あっ……ご、ごめんなさい! えっと、こういう場所はその、初めてで……」
「あはは、ええ。構いませんよ。パートナーである達間さんがしっかりしている分、判断を任せているようですね。聞けば最近まで運営のほとんどを達間さんがしていたとか」
「そーそー、私もしっかり者の社長がいるからこうして気を抜いてやれるし」
「アナタはもう少し真面目になってください」
茶化すように口を挟んだ衣越さんへジト目を向ける木深さん。
衣越さんが「気をつけま~す」と全くやる気が感じられない返事に諦念の嘆息を漏らしてから、木深さんはたたずまいを直して再び空那を見る。
「ですが、たとえパートナーが優秀だとしても、最終的な判断はVドル本人である荻篠さん自身がくだすべきです」
「……私が、ですか?」
「はい。突き放つような言い方ですが、達間さんも私たちもできるのはあくまでサポートだけ。たとえ方針の決定権がなかったとしても、その方針を実行するのはあなた自身なのですから、そこにご自分の意思があってもいいでしょう?」
「私――の、意思」
「それに、自分のやりたいこと、好きなことをまっすぐ貫く。好きとは力です。好きだから行動を起こせるし、好きだからこそ頑張れる。まあ、それが『やりがい搾取』だなどと問題になることも多いですが……それでも、何事でも嫌いになるよりは好きになる方が続けるぶんにはいいことだと私は考えています」
確かに、木深さんの言う通り判断には空那の意思もあるべきだと僕も思う。
……空那がイデアを好きになってくれているかは、まだ分からないけど。
それでも、空那も僕と同じ結論に至ったようだ。
再び空那の方を見ると、彼女は僕が何か告げるより先にもう一度手元の契約書類を見直し始める。あらためてじっくりと契約内容を読み終え、空那は大きく深呼吸をしてから木深さんらへ向けて頭を下げた。
「木深さん、衣越さん。私からも、よろしくお願いします」
「はい、任されました」
柔和な笑みを浮かべ、大きく頷いて見せる木深さん。
それから彼は、衣越さんから新たな書類を受け取って僕らの前に差し出した。
「では、もろもろの細かい取り決めをしてしまう前に、荻篠さんにはこちらの書類へご記入をお願いします。簡単なエントリーシートのようなものになります。住所や連絡先、あとは簡単な略歴だけ記入していただければ幸いです」
「……略歴?」
「荻篠さんの場合は現在通われている学校だけで構いませんよ」
記入し始めようとした空那の手がピクリと止まった。
「学校も書かなきゃいけないんですか?」
「荻篠さんは学生ですから、学校行事やテスト勉強など色々とあるかと思います。今後のスケジュール調整のためにも把握しておきたい、というのが我々の言い分ですね」
「別に事細かな学歴とかは必要ないよ。学校の名前だけでいいから」
「……うん、そだね」
木深さんと僕の言葉に頷いて、空那は書類に記入を始めた。
空那が記入している間、不意に衣越さんが「へえ」と声を上げた。
「冨央って、ひょっとしたあの冨央? じゃあもしかして演劇科?」
「進学時には。今は……その道は辞めてしまったそうですが」
「……恐縮です」
「そう。ごめんなさい、嫌なことを訊いたようね」
言いにくそうにしていた空那に代わって僕が補足すると、衣越さんはすぐに態度を改めて空那に謝罪した。自身のことで気まずい空気になるのを嫌ったのだろう。空那は「大丈夫です」と苦笑してからすぐに書類の記入に戻った。
ほどなくして空那が書類の記入を終え、書類を受け取った木深さんが言う。
「これで大筋の契約は完了です。後は以前にご要望のあったゲーム配信に向けた機材面などの手配についてですが、ゲームハードはお持ちですか?」
「は、はい! 前々から自分でもやってみたいなって考えてて」
「ならキャプチャボートとかの周辺機器の用意がメインね。そうだ、一応訊いておくけれど、もしかしてゲーム配信も3Dスタジオでやるつもりなの?」
「いえ、これを機に空那が自宅でも配信できるように設備を整えたいなと考えています」
これも前々から検討していたことだ。ゲーム配信なら、わざわざ全身を映す3Dスタジオを用意する必要はない。配信の度にゲームハード一式を持ってきてもらう訳にもいかないし、自宅で配信できるようになれば空那が負担も減らすことができる。
「では、細かい調整などは後ほど衣越と一緒にお願いします。キヌ、ウチが所有する3Dスタジオの説明も忘れずに」
「分っかりましたぁ社長~」
本当に分かっているのか怪しい衣越さんの返事に一瞥してから、木深さんは再び佇まいを直してから僕たちの方に向き直った。
「あれ、まだ何かありましたっけ?」
「ええ。実は、一つ私どもからご提案がありまして」
そう前置いて、木深さんは告げる。
「空那さん。歌って踊るVドルに、興味はありませんか?」
「「……はい?」」
僕と空那は顔を見合わせた。