帷に消える意識と月。
第一話 十から一へ。
二○七六年 十月二十日、午後三時。
日本の山間部に位置する小さな集落———その中にひっそりと佇む新築の居間で、六甲凛鈴の受け取り人であり親戚でもある九重詩代が、富士川との書類手続きを進めていた———。
「じゃあ真君は最後の便でまた向こうに戻る予定なのね?」
「ええそうです。本当に突然ですいません、忙しい中こんな事の為に時間を貰っちゃって。アイツの服とか食費は月末にでも……」
「別にいいのよ、全ての費用は既に受け取っているもの。それに、私は久しぶりに凛鈴ちゃんの姿を見れて嬉しい」
「凛鈴にもある程度持たせてありますので何かあれば使ってください。なにせ五年ぶりの日本ですしお金がかかると思いますから———」
「だから色々な事を教えてあげなくちゃね」
「……はい。後は凛鈴本人の問題ですが———」
富士川が隣に座る凛鈴の方へと視線をやる。
「……」
そこには俯き椅子に座る放心状態でいる凛鈴の姿は十九歳の少女とは思えない程に痩せており、唯一清潔感のある服装で外見を取り繕っているものの激しい傷跡が残る手首と首、極限まで荒れた髪を含めればその心身状況は明らである。
「凛鈴ちゃん……」
———二ヶ月前、中東の無名遺跡内で大規模な崩落事故が起き調査で現地へ赴いていた富士川と凛鈴は巻き込まれた。
偶然にも二人は外部にいた為軽傷で済んだが、凛鈴は親代わりでもあった教授の澪根十三子の死を前に立ち直る事が出来ず、今に至っている。
「まぁ色々あって一ヶ月間追われ身でしたからこんな調子です。環境も環境でしたし情緒不安定な凛鈴とはいつも些細な事で喧嘩してましたから」
「凛鈴ちゃん髪伸びた? 最後に見た時と比べてすごいもさもさしてるというか……」
「えぇ。向こうではその人に切ってもらう限り散髪する事はありませんでしたから」
「そう……。何があったのかは分からないけど、凛鈴ちゃんは責任を持って預からせてもらうわ」
話の本題へ戻った詩代は書類に必要な情報をさっと書きこみ、富士川に手渡す。
「よろしくお願いします。取り敢えず俺は時間なのでもう出ます。定期的に連絡は入れるので何かあったら教えてください」
この家に来てから頻繁に腕時計を気にしている富士川は他の用事で急いでいるのか、テーブルに並べられた書類の数々をファイルにまとめて席を立つ。
「真君もまだ二十歳なんでしょう? 無理しない程度にね」
「はい。年末にまた伺いますのでその時はよろしくお願いします」
そう言って、富士川は凛鈴を横に置いたまま家を去って言った———。
——————。
「凛鈴ちゃんも少しは気が楽になったんじゃない? 思う事は沢山あるだろうけど今はここでゆっくりしていくといいわ」
富士川が去って早数分、沈黙が支配していた凛鈴と詩代の間に言葉が挟まる。
「……」
詩代は柔らかな声で凛鈴に優しく接するが、いつになっても様子は変わらず無言。
しかしここへ来てから放つ虚げな雰囲気の裏で感じる物言いたげな表情と、膝上で力強く握る拳に気付いていた詩代は何かを察していた。
「真君も定期的にこっちに来てくれるみたいだしね。凛鈴ちゃん何かテレビでも見る? 日本のテレビも久しぶりなんじゃない?」
詩代は喋らない凛鈴に気を遣ってかリモコンの電源ボタンを押し、適当なチャンネルを回す。
『———続いてのニュースです。集落や村、町などで先週から発生している誘拐事件。昨夜もまた、千水村で二人の男女が行方不明となる事件があり、警察は近隣の住民から話を聞くなどして範囲を……』
『———今ならんと! こちら京都にある創業百五十年の和菓子屋の商品、この番組を見たと伝えれば五十円割引されます! 詳しくは番組の……』
『———濃厚で甘々な果汁をくらいなさい魔神リンゴドラゴン! この町の果物は貴方の物じゃないッ!』
『———天才ピアニストで世界的に名を馳せる柳木勇さんの失踪から約一週間。依然として手掛かりが掴めない中警察は捜査範囲を広げて……』
ぽちぽちとチャンネルを回していく詩代は無難にニュース番組に落ち着かせ、凛鈴の様子を軽く窺うが、そもそも顔を上げてすらいなかった。
「凛鈴ちゃん、私洗濯物取り込まないといけないからちょっと席外すね」
床に置かれた洗濯籠を手に取った詩代が無言の凛鈴を背に二階へあがろうとした時だ。
「分からないです……」
富士川が去ったのか、はたまた親戚である詩代だからなのか、凛鈴が吐いた小さな一言が居間を伝って詩代の意識を引かせる。
「……?」
「わっ、私はただ富士川先輩と投光器を取りに行っただけで……」
「後は何も知らなくて……気付いたら全てが無くなっていて、それで———」
「記憶も全然なくて……! でもっ、あの人達は邪魔だって声だけがずっと頭にあって———」
脈絡が全く無く途中でつっかえながらも懸命に喉から捻り出す凛鈴の声は震え、小さな身体は今にでも崩れそうだった。
「……あの人達って?」
言葉が度々詰まる凛鈴を引き出す為に詩代が一つ、問いを入れながら席へ戻る。
「それは———」
「それは凛鈴ちゃんもよく分からないのね?」
「……ッ!」
“あの人達“という脳内で渦を作っていた質問に反応したのか凛鈴は突然椅子から立ち上がり、自分なりの主張を腹の底から叫んだ———。
「分からないんです……っ! どうしてあの時の記憶がないのか、なんで富士川先輩は私の事を無視するのか、なぜ私が助かって先生が助からなかったのか……っ! もう何もかも全てが分からないんです……ッ!!」
「けど、気付いた時には既にあんな風になっててどうしようもなくて……っ!」
「……っ、そうですッ! 富士川先輩が私を無理矢理外へ連れ出したのが悪いんです! あそこで私が先生と一緒にいれば助けられたのかもしれなかったのに———ッ!」
「それで……っそれで———!」
瞬間的に感情が飛び出したものの、部分的な事以外は上手く言葉に出来ないせいか口をパクパクとさせてしまった凛鈴は息を荒くしながらも力が抜けたように再び椅子へ腰を落とす。
「……もう、あの日何が起きたのか私にもよく分からなくって。富士川先輩はまともな口をきいてくれなくなりました」
「……」
「私は心が弱いのかもしれません……、先輩にもそう言われました。冗談の通じない人間だって事も」
言葉を吐き出す弱々しい少女の憔悴した姿を見る詩代の瞳もまた、物事を重く受け止めている。
「自分から大切な何かが消えていくのが怖くて……、それで———」
「そうだったのね。でも———」
ぶるぶると震えが止まらない凛鈴を見かねた詩代は身を乗り出し、俯き顔でいる凛鈴の頬をむにっと掴む。
「———!」
「貴方の助けたかったって気持ちは嘘じゃないんでしょう?」
ちょっぴり強引に、凛鈴の落ちた顔を上げた詩代は自分との目を合わせる。
「さっきの凛鈴ちゃんの目は何かに抗い続けている目をしていたわ。私には貴方の身に起きた事についてはよく分からないけど、“その人を助けたかった“って気持ちが本心なら大切にして欲しいの」
「……っ」
特別詩代に力がある訳でもない。
彼女が触れた頬を通して伝わる暖かな体温は、心身共に疲弊した凛鈴の心に深く刺さるものがあり、不思議と今まで方向性を見失い曇り続けていた瞳が本来の姿……深みと色合いを兼ねた美しい栗色の目を取り戻していく———。
それまで視野が狭く、モノクロのようであった世界は一変して変わり———白色家具で統一されながらも暖かみのある居間や所々に飾られた花。そして詩代の薄紫に染まった髪までもが鮮明に映し出される。
「でも今のあなたは助けられる側だから、誰かを助けたり頑張ったりするのは禁止ね」
「……わ、私」
凛鈴の心の中で行き交う罪悪感。
結果的に先生を助けた訳でもなく、残ったのは被害と損害。それにいつまでも立ち直れずにいる中で他人である九重詩代に助けられる価値はあるのかと、ずっと心の中をざわつかせていた。
ただそんな思いさえ詩代の手が全てを消し去ってくれるような気もする。
「私はちゃんと貴方が頑張ってきたのを知ってるから、そんなに自分を過小評価しないで」
さらに身を乗り出した詩代は凛鈴を抱きしめ、暖かな体温で包み込む。
「あ———」
そんな詩代の声が。
様々な感情や思いで押し潰され弱った凛鈴の心に深く響く。
「ごめんなさい……」
たった一言。
凛鈴の口から、誰に向けてなのか、何に向けてなのか分からない。一言。
「ごめんなさい……っ! ごめんなさいごめんなさいぃ……!」
「謝る必要なんてどこにもないのよ」
心のダムが完全に決壊し、くしゃくしゃになった顔を隠すように机に突っ伏し叫びを上げる凛鈴の姿を、詩代はただただ見守る他なかった———。
——————。
時は進み時刻は夜の八時半。
結果として今日は何も無かった。
若干遅めになった夕飯の支度は詩代が行い、凛鈴と詩代は食卓に並んだ料理を囲み食事の時を過ごしている最中。
居間全体に広がる秋の味覚、秋刀魚の香ばしい匂いや炊き込みご飯の煌びやかな輝き、そして濃厚な香り混じった味噌汁やお新香など、食卓が彩り鮮やかになっていた。
「どう? 美味しい? 今日は旬の秋刀魚を買ってきたの」
「……はい」
てっきり食事も喉通らずの状態なのではと心配していた詩代だが意外にも凛鈴は黙々と箸を動かして料理の一品一品を口へ運ばせており、その姿を見て安心する。
「そうだ凛鈴ちゃん。貴方が使う部屋は二階にあるから後で案内してあげるね」
「……はい」
——————。
「凛鈴ちゃんも急な事で混乱してると思うの。お風呂も沸いてるし今日はゆっくり休んでいって」
「……はい」
——————。
食器の当たる音以外なく、あまりの静けさに詩代が話しかけるが上の空の凛鈴に直接通じるものは一ミリたりともなかった。
「あ! 明日、もし良ければ面白い事教えてあげる! きっと……いや絶対凛鈴ちゃんには合うピッタリのね」
「そう……ですか」
「あと、富士川君が持ってきてくれたバッグは部屋にあるからね」
——————。
詩代の至れり尽くせりな立ち振る舞いに慣れない凛鈴。
親戚と言えど長い間会っていなかったのは事実、いきなり富士川に一人で放り出されるのは勘の悪い凛鈴でも流石にくるものがあった。
沸き立つ感情を上手に出せないから苛立ちとしてただ食事にぶつける。
そんな自分に嫌気が差しながらも詩代の作ってくれた美味しい夜飯を口にする。
その後に一人で入る風呂も、用意された部屋で一人で寝る夜も、隣に誰かいないと不安に感じるこの心は弱いのだろうかと、自分は何の為にここに連れてこられたのだろうと自問自答を繰り返し続ける凛鈴の脳内は腐敗寸前だった。
虚でも無でもない、淡々と過ぎる時間は正直で、次に意識が向いた時には薄暗い部屋の中布団に入っていた凛鈴はどこまでも遠い空を眺めている———。
「———」
びゅうびゅうと吹く風が窓を激しく叩き、一人でいる凛鈴の不安を煽ろうといやらしく嗤う嵐。
現在日本は台風の被害に襲われている真っ只中。
今夜がピークであり、ここの地域も暴風に削られている為詩代からも窓は閉じてとの事。
しかし海外での環境災害や雑音に慣れている凛鈴には意味を成さず、空虚な空の中で朧に浮かぶ満月でもない欠けた月をぼーっと見つめている。
「……」
波のように押し寄せる睡魔の塊がどっと凛鈴を襲うも、瞼は閉じる事を許さない。
海外にいた時も、富士川と追手から逃げていた時も、明日の自分に恐怖を感じてならなかった凛鈴が快眠できた事など一度も無かった。
「先生———」
澪根が常日頃言っていた言葉を凛鈴は思い出す。
“解決に大事なのは物事を進める順序“と。
未だ整理のつかないごちゃごちゃとした気持ちもあるが、今一番優先すべきなのは安心を得る事なのかもしれないと、自身で一つの結論を出した凛鈴は睡魔に身を任せそっと瞼を閉じる。
次第に薄れる意識と認識と共に凛鈴は長く感じていた夜に終止符を打ち、深い眠りにつこうとしていた時だ。
「———?」
足元に置いてあるバッグの中から微かな音が漏れている事に耳が反応し、意識が戻される。
「……電話?」
持続的に続く振動と単的な音。
音の主が携帯と分かった凛鈴は疑問を感じながらもバッグから薄型携帯を取り出し、表示された通話相手の名前を確認する。
「富士川先輩……?」
『富士川』と表示された三文字。
いつまで経っても尚鳴り続ける携帯を片手に、何を今更と苛立つ反面、少しだけ嬉しさを感じた凛鈴は躊躇う事なく通話を開始した。
「———凛鈴?」
携帯を介して聞こえるいつもの声。
外からかけているのか頻繁に風音が入る為、まだ日本に滞在しているのだろう。
「聞こえてるのか?」
「……はい」
「まだ一日も経っていないが詩代さんの所は落ち着くか?」
「……分からないです」
「そうか。こんな深夜に電話をするのも図々しいとは思ってるが一つだけ知らせておきたい事があってな」
「……?」
「今年の年末に一度そっちへ行こうと思っていたが無理になった」
「え———」
「最悪の場合……いや、もう日本には戻れないかもしれない。本当ならもっと早く言うべきだったがお前もそんな状態じゃなかっただろうからこんな形で伝えるしかなかった」
「っ!」
「自分は例の遺跡の再調査に日本を出る。凛鈴も詩代さんに迷惑をかけない程度にゆっくりと身体を休めておけよ」
物事を手短に伝えようとする富士川の声はいつもより増して無であり、感情が乗っていない事が余計に恐怖を感じる。
「じゃあ切るぞ? 次に電話する時は———」
当然その言葉を受けきれずにいた凛鈴は何も言えず、察した富士川は話を締めようとする。
「———ないでください」
「凛鈴?」
「ふ、ふざけないでください……ッ!!」
「……っ」
電話の先にいる相手へと向けた尖った大声は雨風を掻き分け、富士川の心へと刺さる。
「いつもそうじゃないですかっ! 自分の都合で勝手に私を振り回しといて中途半端に放置する、どうしてこんな酷い事ができるんですかッ!?」
「……それはすまない。だが凛鈴に電話したのもある要件があってなんだ」
「な、何を今更———!!」
「……」
しばらくの沈黙を置いた富士川は何かを決したように続けた。
「実はお前に言おうか迷ってた事がある。なんと言うかその、まだ分からないかもしれないんだが———」
途端に茶を濁すような形で語り出す富士川に違和感を覚える凛鈴は携帯の音量を最大にして耳に深く押し当てる。
「……もしかしたらあの日起きた遺跡事故は意図的に仕組まれたモノだった可能性があると自分は思う」
「え———」
「正直そんな確証はどこにもない。ただの自分の感というか、でも不自然なんだ。でもこれから極秘で再調査に向かう」
まさかの発言に驚きを隠しきれない凛鈴の脳内は錯綜してしまい、適当に後の会話を流す事しかできなかった。
「そんな……っ!」
「心配は大丈夫いらない。機材とか荷物は———」
「そんなだったら私も行きます! 荷物持ちでもなんでもしますっ! だから私を一人にしないでください! 私をこれ以上不安にさせないでくださいッ!」
昼間の時に出た自動的な感情とは違う、別の感情。
勝手に期待して勝手に喪失を感じていた凛鈴の頭はぐちゃぐちゃになっていた。
ぽっかりと空いた大穴に侵入する孤独感と心の寂しさに襲われてならない彼女が求めていたのは詩代でもなく、長い間ずっと一緒にいた富士川なのかもしれなかった。
「……確かに自分は酷い事をしている。定期的に会いに行くって約束も破っておいて、その上二度と会えないかもしれないなんて言って、申し訳ないと思ってる」
「じゃ、じゃあなんで———!」
「でも今は、お互いに一人になる時間が必要なんだ。じゃないと自分もお前も進めない」
「……」
「それにお前はもう組織の人間じゃない。例の遺跡で起きた事件の真相については自分がなんとかするから心配するな」
どれだけ感情的になって悲痛な思いを叫ぼうが、富士川の冷淡な声で上書きされてしまう凛鈴にこれ以上の気力は湧いてこない。
「今はそっちでしっかり休養を———」
電話の向こうで更に強まる嵐の音が富士川の続く言葉を消し、もう凛鈴の耳に都合の悪い情報が入ってくる事もない。
感情制御ができず、脳中で滝のように流れ込む怒りと不安。
もう選択肢は一つしかなかった。
「……凛鈴?」
強く握りしめた携帯を静かに耳から離した凛鈴はちょうど視線の先にあった窓を見つめ、能動的に腕を振りかざして———
「———ッ!!」
なんの迷い無く力いっぱいに窓に向かって携帯を投げつける。
コンマ数秒の時間差を挟んで割れる窓硝子。
同時に吹いた暴風は歪に空いた穴を通り抜け、宙に舞った破片と共に小さな部屋を瞬く間に占領した。
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
騒めく心に居ても立っても居られなくなった凛鈴。
急速に奪われる部屋の温度を他所に近くにあるバッグの中を無我夢中になって漁り、あるモノを取り出す。
「あった……!」
こういった時に飲めば楽になるモノ、それは一シートの錠剤だった。
ここへ来る前———富士川と追手から逃げている時同居している家で貰った抗不安薬。
気付けば、残り一錠になっていた薬を惜し気もなく手に取り出した凛鈴は入っていた水と一緒に飲み込み、即座に布団を被り無理矢理目を瞑る。
「……っ」
朝になれば全てを忘れているだろうという微かに残った希望を胸にして———。
「———えぇそうね。晩御飯はちゃんと食べてたから大丈夫だと思うけどやっぱり真君がいなくなってからの凛鈴ちゃん、ずっと浮かない顔してた。まだ何か不安があるのかも」
そしてほぼ同時刻、たまたま通りかかった時に窓硝子が割れた音を聞いていた詩代は凛鈴の部屋前にて壁に背を預け、富士川と通話をしていた。
「……そうですか」
凛鈴に聞こえない程度に小声で話す詩代。
対して電話の向こう側から聞こえる富士川の声は凛鈴と話していた時よりも不安定で文面がハッキリとしなかった。
「ちゃんとその話は伝えたの? もしかして言わないつもり?」
「言いました……。けど途中で凛鈴からの返答がなかったというか……」
「……それで窓硝子がね」
「———何か言いましたか?」
「ううん、なんでもないの。凛鈴ちゃんが感情的になりやすくて繊細な子だって事は私もちゃんと分かってるから真君も自分を責めないで」
「……すいません。頼みます」
「また何かあったら教えてね」
両者共々どこか気分落ちな声のまま詩代が通話を終了しようとした時だ。
「最後に一つだけ———」
「ん?どうしたの?」
「……凛鈴は普段、物事の主張も他人との会話もままならないヤツってコトは詩代さんも見たと思います」
「そうね」
「でも、感情的になった時のアイツの目はいつも自信で溢れかえってるんです。そこにどんな理由があるのかは俺にも分かりませんでしたが、何と言うかその、アイツのする行動は謎めいてたりするけどそれには必ず意味あっての事なんです」
「……」
凛鈴との会話でもそう。これまでの会話で細々しい声を発していた富士川は自身の気持ちを吐露するが、どうも凛鈴に対する強い責任が未だ残っていた。
「と、とにかく宜しくお願いします! もし凛鈴に何かあったら———!」
——————。
「……? 真君?」
プツリと会話の途中で切れる通話。回線がやられたのか充電が切れたかのどちらかだろう。
時間差で気付いた詩代は仕方なく携帯をしまい、外界から聞こえる雨音に耳を澄ませながら天井を見つめる。
「———」
やはり、凛鈴と富士川の間にある見えない何かが二人の仲を疎遠にしつつあるのではと危惧していた詩代も、今の電話で更にその思いが強まった。
「物事の意味……ね」
凛鈴への明日からの対応と接し方について何かと行き詰まっていた詩代はそのまま腰を落とし、目を瞑る。
「新規の客は一旦止めて今はあの子に……ううん、それだけは絶対にできない。何かこう、もっと———」
明日からまた新しい一日が始まる。詩代にとっても、凛鈴にとっても。
色々と考え込んでいる内に意識を刈り取りにくる睡魔に身を委ね、疲労が重なった詩代は自部屋に戻る暇もなく、間接的ではあるが凛鈴と共に長く五月蝿い夜を過ごした——————。
完璧ですよ。