3. 悪夢は二度訪れる
頭の中で疑問符が湧き続ける。視界はホワイトアウトし、何も見えない。のみならず、音も聞こえないし匂いもない。
幾つもの疑問を言語化しようと思考し始めた時、飛行機の離陸時のような浮遊感に襲われた。飛行機よりもはるかに強い浮遊感は、気づけば本当に体を浮かび上がらせていた。
硬い感触を返していた足裏が宙に浮かび、漂うようにふわふわとしている。バランスが取れなくなり、身体が回転する。次第に上下の間隔が曖昧になり、自分がいまどちらを向いているのかが完全に分からなくなってしまう。
直後、頭が割れるのではないかというほどの激痛に襲われた。
徐々に強まる痛みに苦悶の声を洩らしながら耐えていると、頭の中に何かが直接入り込む奇妙な感覚を覚える。
頭の中を這い回るような得体の知れない気持ち悪さが続く。これで吐き気でも催せば返って気も紛れようものだが、そんな期待はあっさり裏切られ、胸を掻き毟りたくなる不愉快感だけが尾を引く。
ただただ無心に気持ち悪さを我慢し続けていると、足裏に硬い感触が伝わる。力を込めるとしっかり押し返されるので地面かどこかなのだろう。
元々道路に立っていて、恐らくは神隠しによってどこかに飛ばされた。身体が浮いた時には空中に放り出されたのではないかとも思ったが、ゆっくり足が地面と捉えたことから、思いのほか丁寧に扱われているようだ。
瞼の裏越しでも光が弱まるの感じ、ゆっくりと目を開いていく。
寝起きのように視界が曖昧になっているが、何度も瞬きを繰り返していると徐々に視界に色が戻る。同時に意識も靄が晴れるようにすっきりしていく。
視界の輪郭がはっきりし、ようやく周囲を観察する余裕が生まれた。
真っ先に視界に入ってきたのは、なんの変哲もない石畳だった。
その事実に落胆する。質の悪い嫌がらせであることを心のどこかで期待していたが、その希望はあっけなく打ち砕かれた。
鼓動が早くなり、呼吸が浅く短くなる。親に悪事が見つかった子供心よりももっと居心地の悪い焦燥を覚えながらも、周囲の状況を把握しようと半ば無意識に見渡す。
どこかの部屋のようだった。そんな事実よりももっと重要な姿を見つけた。
「佳吾!」
「和也か!」
声を掛けられた佳吾も俺の存在に気が付いたようで、険しい表情が一転して笑顔になる。
佳吾の姿を確認できたことで、少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。佳吾もほっとしたようで、顔に塗りたくられていた焦りが薄まっていく。しかし、険しい表情は消えてくれない。
「俺たちどうなったんだ?」
「分からない。たぶんこれが神隠しなんだろうけど」
佳吾が眉間に皺を寄せながら頷く。流石に異世界転移だなんだと喜んでいる余裕はないようだ。
いきなり足元にが光輝いたかと思うと、全く知らない場所にいる。そんな非現実的な現象など見たことはないけれど、連想される名称は覚えがあった。直前の状況と合わせて考えれば、考えたくなくとも自然と思い浮かぶ答え。それが神隠し。
神隠しで二人同時にいなくなる、というのは聞いたことがない。それはこれまで前例が無かっただけで、本来人数の制限は無かったのかもしれない。
もう一度直前の記憶を思い出してみる。
足元に突如現れた白い円。急激に光を放ち、全身が飲み込まれたかと思ったら身体が宙に浮かび上がる感覚を覚え、気が付けば全く知らない場所に立っていた。
何度思い出してみても、他の可能性を考えてみても、目の前の現実は神隠しを否定する材料足り得なかった。
どうやら神隠しとは、超常現象による空間移動のことだったらしい。ひょっとすると時間軸もずれている可能性があるが、それは確認の使用がない。俺たちの外見は変わっていないが、周囲の時間の流れが同じであるとは言えない。あり得ないと思っても、確信は持てなくなっていた。
一つ確信に近いことがあるとすれば、それは神隠しが人為的なものであるということ。
これまでの神隠しで一人ずつだったのは一人ずつしか連れ去れなかったからなのか、あるいは周りに人が居ないタイミングを狙った自重の現れだったのか。どのような事情にせよ間隔が短くなっていた時点で自重などできなくなっていたのだろう。俺たちは2人で並んでいたから、まとめて連れ去ったというのだろう。
「どこだここ?」
「少なくとも誰かの部屋とか物置って感じじゃないな」
改めて周りを見てみる。乳白色の石壁に囲まれ、三方面の天井近くに小さい光取りの穴がある。光が届いているので地下ではない。
穴は人が通れるような大きさではないため、あそこからの脱出はできそうにない。そもそも天井までの高さが2m以上あるので登るのも難しい。壁に凹凸があれば手足を引っ掛けることもできるだろうが、残念ながら表面は丁寧に磨かれている。
部屋の広さは学校の教室より狭いくらいだ。家具は勿論何一つとして物が置かれていない。物置きには使われず、私室にも、増してや牢獄といった様子も皆無。何のために存在している部屋なのかとか投げれば、どうしたって答えは絞られる。
「神隠しで連れてこられると、ここに着くのか」
「かもな」
ヘリポートのような場所と言えば早いか。召喚専用の場所だと思えば、室内に飾り気が一切ないのもしっくりくる。床にそれらしい模様でも刻まれていれば確信も深まっただろうが、あいにくそれも描かれていない。
「あの扉、開いてんのかな?」
佳吾が指さす扉は木製に見えるが、金属板で補強してある。内側に取っ手はなく、鍵が掛かっているかは確かめてみるしかない。逃げ出すにしても召喚した側の人間が訪れるにしても、正面の扉以外にはないので注意深く観察する。安易に触れればその瞬間に何かが作動するかもしれない。
しかしじっと見つめているだけで分かる情報には限りがあるため、そろそろ触れてみようかと考え始めた矢先。静かに扉の隙間が浮かび上がる。そのまま音もなくゆっくりと内側に開いていった。
隣の佳吾も黙って成り行きを見守っている。
扉が開ききった先に見えたのは、白いローブを羽織った3人の人間。頭までローブを被っておりその表情は伺えないが、男性らしいということは分かった。
3人のローブ男の少し奥に、3人よりも装飾の施された黒いローブを羽織り、背丈ほどの長い杖を持った老人がいる。こちらは顔を隠しておらず表情が伺えた。
長い髭を綺麗に整え、威圧感のある風貌をしたその老人と目が合う。その瞬間、背中に小さく震えが走った。
今まで見たことのない目だった。
精気を感じない暗い瞳でありながら、その奥から強烈な覇気とでも形容したくなる圧力が放たれている。
理解できない感触に気持ちが悪くなる。震える脚に活を入れなんとか姿勢を保つ。気を抜けばすぐにでもへたり込んでしまいそうだった。
それでも思考を止めなかったのは習慣に裏付けされた癖か、はたまた屈してはならないと身体が活動を始めたからか。今はどちらでも良かった。思考が回るならそれで充分。
何かされそうになったとき、何も抵抗できないのは嫌だ。だから相手の動きには注意し、読み取れる情報が無いかを探る。
黒いローブに施されている装飾には、見たことがない文字らしきものが刺繍されている。この世界の文字なのだろう。
左右対称に施された装飾は主張しすぎずに老人の存在感を強調していた。見た目の質感も、手前に居る3人のローブ男よりも上質なものだろう。地位の高い人物であることが伺える。
背丈ほどの長さを誇る杖は木の枝をそのまま使っているのか、弧を描くように曲がっている。先端には宝石らしきものが埋め込まれている。赤、青、緑、黄。見えるだけで四色の宝石が等間隔で並び、薄く光を放っている。
他に何かないか目を動かして探していると、その老人は3人のローブ男の内の一人に何かを耳打ちした。声は届かないためどんな言葉を喋っているのかは不明だが、長い言葉ではないようですぐに口を離していた。
顔を上げた黒ローブの老人は、そのまま背中を翻して去っていった。
残った3人は顔を見合わせると、先ほど耳打ちされていた男が他の2人に同じように話し出した。小声ではあっても耳打ちでなかったため、今度は微かに言葉が聞こえてきた。
「左の男は残せ。右はハズレだ」
「ハズレですか」
「せっかく用意したというのに」
「こればかりは仕方がない。あそこに送る準備をしておけ」
「はい」
日本語ではなかった。しかし何を言っているのかが完璧に把握できた。
その感覚に驚きつつちらりと隣を見ると、どうやら佳吾は理解できていないように見受けられた。不思議そうに様子を見ている。聞こえなかったという訳ではないだろう。
正面に目線を戻せば、3人のローブ男は一様に俺を睨みつけていた。俺が気づいても暫く睨みつけていたのは、気にする必要がないと考えているからだろう。
(左の男。佳吾のことか)
ローブの男たちから見て俺たちの位置関係は左に佳吾、右に俺だ。
ハズレという言葉に睨まれたということもあって、どうやら自分はローブ男たちにとって不愉快な存在であるらしい。そうなると、「あそこに送る」という発言が何を意味するのかは自ずと理解できる。
その先を考えるより先に、ローブ男たちが近づいてきた。
にこやかな笑みを張り付けながら、しわがれた声が発せられる。
「突然のことで驚かれたでしょう。私たちは案内を任された者です」
今度は日本語だった。それも流暢で違和感を覚えない発音に驚愕する。
思わず佳吾と顔を見合わせる。今度は佳吾にも日本語として聞こえているようだ。
「色々と疑問に思われていることでしょう。全て説明いたしますので、まずは我々について来てください。立ったままというのも疲れるでしょう」
そう言ってローブ男の2人が俺たちの背後に回った。3人の位置関係は三角形を形作るようで、まるで俺たちの行動を制限しているようにしか思えなかった。実際、ここで下手に抵抗する素振りを見せたら、後ろのローブ男に何をされるか分からない。
助かる可能性を下げる行動は控えるべきだ。それは佳吾も理解しているようで、小さく頷き合って指示に従う。
「さあ、こちらへ」
目の前のローブ男が踵を返し、扉に向かって歩き出す。俺たちは並んで後ろに続いた。
扉を出た先は長い廊下が続いていた。廊下の左右に扉は見当たらない。ずっと同じ石造りの壁が続くだけだ。今出た部屋は出島のように位置関係で、本体となる建造物から離れた場所に作られているのだろう。
廊下の床には紅い絨毯が敷かれている。あまり掃除はされていないのか、ところどころ土や埃が溜まり薄汚れている。何度も踏みしめられたためか元からか、毛も倒れて固まっている。
壁は繋ぎ目が分からない。石材を組み上げて隙間を埋めたように見えた。
壁には等間隔で燭台が掛けられているため明るい。だがよく見ると燭台に置かれているのは蝋燭でも炎でもなかった。形は確かに蝋燭だが、直接炎が灯されているわけではなく、炎のように見える燈が浮かんでいるようだった。
不思議な光景だが、注意してみなければ気づけないくらいには精巧に再現されている。
視線を前に戻すと、廊下の先では何かの影が伸びている。距離を詰めるに従って、その正体が判明する。人影だ。
廊下を抜けた先は部屋になっており、その奥に全身鎧を着こんだ騎士らしき人物がいる。その人影が廊下に届いていた。
部屋に入るとそれぞれの面の中央にぽっかりと通用口が空いている。その通用口から左右に数歩離れた位置に、鎧に身を包んだ騎士が立っている。
腰には肉厚の剣を佩いている。立っているだけで異様な圧力を放ち、兜を被っているその奥からも分かる鋭い視線が向けられている。ローブ男たちよりも明確に、何もするなと牽制している。
広間の中央まで来ると、先導していた男が立ち止まり振り向いた。
「申し訳ありませんが、ここからはお二人には別々の場所で説明を受けていただきます」
「なんで」
佳吾が思わず、といった勢いで問い返した。叫びと言えるほど張り上げた声量ではないが、口答えししてしまったと思ったのか恐れるようにローブ男を伺っている。
この程度で短気を起こすのかと冷や冷やしていると、ローブ男は気にした素振りはなく佳吾の質問に答える。
「詳しくは後で説明しますが、お二人には《女神の加護》を授けたいのです。これはお一人ずつでなくてはならず、準備も必要です。そのため別々の場所となります。どうかご理解を」
「女神の加護?」
俺同様どうしても気になったのだろう、佳吾が気になる単語をオウム返しに口にする。
正直に言えば胡散臭い言葉が飛び出した、と思う。知らないことを理由に出されて納得しろ言われても不可能である。つまり説明する気がない、もしくはしたくないのだろう。
ちらっと佳吾を盗み見ると、不安や恐れの中にも興味が見え隠れしている。
神隠しに遭った時はどうなるかと不安で仕方がない様子だったが、徐々に落ち着いたからか精神的に余裕が出てきたのだろう。ついでに雨後の筍のように好奇心が鎌首をもたげてきたのだろう。
あのまま不安を抱えたままでいるよりも精神的に安定しているならそれで良い。
ローブ男は質問に答えようとはせず、無言で俺たちを促している。佳吾の呟きが耳に届かなかったからではなく、聞こえなかった体でやり過ごそうとしているように見える。
ローブ男がこれ以上発言する様子がないので、佳吾はどうすればいい? と顔に書いてあるようにこちらを見る。が、俺が答えるよりも先に本人の中では答えは出ているようだ。ただ、俺の意見次第では答えを変更するつもりでもあるようだ。
つまり、俺の選択次第でこれからの命運が分かれるということだ。そうと分かると瞬時に、賢明に頭を働かせる。時間を掛けることもできないため、考えるのはただ一つ。
ローブ男の発言を考慮し、どうするのが一番佳吾の生存の可能性が高いか。
今だけでなく、今後の事を考えた最善は何か。考えた末に出した結論は至ってシンプル。
余計なことを佳吾に言わない。
それが今できることだ。俺だけが理解している情報を伏せ、相手の要求を呑む。非常に癪ではあるが、それが最も良い未来に繋がるだろう。
不思議と恐怖はなかったが、それでも余計な思考を巡らせると挫けてしまいそうだ。だから俺は努めて明るく、その選択を選び取る。
「まあ大丈夫だろ」
佳吾は、という言葉は苦労して飲み込んだ。
ローブの男たちは佳吾は残すことに決めている。すぐにどうこうなる、ということはないはずだ。少なくとも最悪の自体は考えにくい。
問題はハズレと言われた俺の方だ。なんとなくこの後自分がどういう扱いを受けるのか想像はできている。ここで無理に逃げ出したり指示に従わなかった場合、その場で殺される可能性が高い。そんな光景を佳吾に見せる訳にもいかない。だから今は大人しくするしかない。
それを佳吾に伝えれば佳吾は何かしら抵抗を示すだろう。そうなれば佳吾本人の助かる見込みが減るかもしれない。それは許容できない。
佳吾は一転、俺の態度にどこか納得していない様子だ。だがこれ以上俺が何も言うつもりがないと分かったのか、ローブ男に向かって頷いた。
(ごめんな)
佳吾とは小さい頃からの付き合いだ。言葉にしなくとも、俺が何かを隠していることは見抜かれたかもしれない。
(きっと怒られるだろう。会えればな)
俺がどうなったのか、後で知ることになるかもしれない。そうなったらとても怒るだろう。文句すら言えず更に憤る姿が目に浮かぶ。それでも、今この場ではこれが最善だと胸を張っている。
佳吾の首肯に満足気に頷いたローブ男は、佳吾を引き連れて奥の廊下へ直進していった。
その姿が見えなくなるまで、佳吾はしきりにこちらを振り返っていた。俺も完全に見えなくなるまで、脳裏に焼き付けるように目を離さずに見つめ続けた。
佳吾とローブ男が見えなくなると、俺は残りの2人に前後を挟まれる形で右手側の廊下に連れられて行った。こちらの廊下は絨毯が敷かれておらず、壁も床も剥き出しの石材のまま。それも綺麗に整えられた石材ではなく凹凸が所々に見受けられる。通路として機能する最低限程度の材料で建築したようだ。最低限の機能を確保し見栄えを一切気にしていない武骨な造りなのは、気にするだけ無駄だと知っているからだろう。
長さだけは先ほどの廊下よりも長い。長く歩く分だけ別の領域へと足を踏み入れているのだと錯覚してしまいそうだ。死刑囚が絞首台に向かう気持ちとはこのようなものなのだろうかと想像する。
考えれば考えるだけ呼吸が乱れ、吐き気がこみ上げる。
視界が歪む中、しかしその扉ははっきりと映った。
先導していたローブ男が鍵を外し扉を開ける。振り返り中に入るように促す。後ろに控えていたローブ男に背中を押され、半ば無理やり入れられる。
部屋の中は最初にいた部屋と同じような作りだった。広さは半分程度の狭さになっている。
「こちらで暫くお待ちください」
そう言い残して二人は扉を閉めた。
即座に扉に近づき耳を付ける。無駄かもしれないと思いながらも何か言葉を拾えないかと期待した。
「これでよし」
非常に聞き取りにくいものではあったが、それだけ聞き取ることができた。
直後、カチャンという金属質な音が聞こえる。鍵を掛けられたのだろう。その後2人分の靴音が遠ざかっていく。
扉から身を離し構造を検分する。最初にいた部屋同様扉の内側には取っ手が付いていない。内開きの扉を取っ手もなしに開けるのは難しい。指を引っかける突起でもあればまた別だが、生憎そのような箇所は見当たらない。外側からしか開けることを想定していない造りになっている。
入る直前に鍵を開けていたから、普段から施錠されているのだろう。何もない部屋に普段から鍵を掛けるとは思えない。俺を放り込んで鍵を掛けたのは逃げ出す可能性を心配をしているのだろうか。この扉を素手で開けられる力でもあるならそうかもしれないが、残念ながら力に覚えはない。
しかしそうなるとこの後どうなるのかが分からない。屈強な男がやって来て殺される、という可能性はかなり下がったと考えてよいだろう。それは嬉しいが、この後の展開が読めず素直に喜べない。
扉から離れ部屋の中央に移動する。部屋を見回しても、当然何もない。
「どうしたものか」
このままただ放置するということは考えにくい。直接殺される可能性はなくなったが、部屋そのものが処刑場のような機能を持っていないとは限らない。ただ、室内は綺麗だ。掃除されている形跡が見当たらないので、この部屋で汚れる事態にははならないのか、洗浄までがセットの機能なのか。せめて前者であると信じたい。
何かしら次の変化が起こるはすで、その前にどうにか脱出したいがどう考えてもそれは難しい。何度も室内を見渡すが、逃げ出せるような場所は見つからない。光取りはあるが、やはりそこから脱出するのは不可能だ。
壁に近づきノックするように叩いてみる。感触が石そのもの。ギミックでも隠されているなんて都合の良い展開がある訳もなく。
これを破るまで同じ場所を殴り続けたとして、果たして何年かかることか。水も食べ物もない状態で何日も生き残るのは不可能だ。よしんばあったとしてそんな悠長な時間が用意されているはずもない。
「打つ手がない、か」
ここで大声を出したところで無意味だ。この部屋の使用用途を理解しているのなら、叫んで誰かが助けにくることは無い。逆に黙らせられる可能性の方がまだ高そうだ。次に誰かが来るとしても、それがいつなのかは分からない。時間が経てばそれだけ助かる可能性は小さくなる。
考えが浮かばず溜息が零れる。
壁を背に腰を下ろした。同時に今更ながらリュックを背負っていることに気が付いた。下校途中に神隠しにあったため、その時持っていた荷物はそのまま持ってきていたようだ。
何かあったかなとリュックの中身を確認する。だがその前に、スラックスのポケットに入っていたスマフォを取り出す。
当たり前だがWi-Fiなんてない。あったら逆に驚く。時間の表示は18時を少し過ぎた頃。だがそれは日本での時刻であり、端末の内部時計の時刻だ。ここでの時間と合っているかは確かめようがない。
光取りから僅かに見える空が青い。太陽かそれに準ずる恒星はあるようだが、それが今どの位置なのかは分からない。そもそも方角が分からない上に日本と同じように東から西へ進むとも限らない。
この世界が球体かどうかすら疑い始める。地球ではないという漠然として認識があるだけで、それ以上は推測しかできない。
考えても詮無いことと諦め、スマホの電源を切ってリュックの中に放り込んだ。リュックの中身はA4ノートが2冊、下敷き、筆入れ、財布、スマフォ。それと小物が幾つか。使えそうなものなんて一つもない。
そして今更ながらに気づく。
「呼吸、普通にできてるな」
当たり前すぎて意識していなかった事実。呼吸になんの不自由も感じていない。つまりこの世界の空気は地球のそれと同じと考えられる。
もう一つ気になったことを確かめるべく立ち上がった。
何度か床を踏みつけ、軽くジャンプする。
「思った通りだ」
ジャンプの結果は、地球でやったものと全く同じ。床を蹴った際に飛び上がる高さも地球でやった場合と遜色ない。込めた力の分跳び上がり、着地する。予想以上に高く跳んだりゆっくり着地することもなかった。
「重力も同じくらいなのかな」
この世界が、少なくとも違和感を覚えない程度には地球の環境に近いことが分かった。
「考えてみれば当然か」
神隠しで召喚した人間がすぐに死んでしまうなら、召喚なんてされないだろう。召喚する目的が他にあるのなら、最低限生きることが可能な環境であるのは当然の帰結だ。それがここまで地球の環境に近いというのは驚きだが、地球に近い環境だからこそ、同じような人間に生命が進化したのだろうと結論付けた。
もう一度壁を背に座り直すと、無意識に溜息を吐き出す。
「こんな事態想定してるわけないだろ」
普段からどこかに連れ去られる可能性を考慮して生きている人間が果たしているのか。御代町に暮らす以上神隠しの可能性を考慮に入れることは可能だが、考慮したところで準備できるものなどない。
佳吾から聞かされた異世界転移では召喚されるものが多かった。神隠しも召喚だ。
召喚された側はある程度厚遇される展開が多かったが、そうでない場合に辿る末路は推して知るべしである。
佳吾は前者、俺は後者。ただそれだけである。だから佳吾は大丈夫だと思われる。確証だけは持てないが、99%大丈夫であろう。そうであって欲しい。
翻って俺はと言うと。逃げ出すことも許されず途方に暮れるしかない。打開案の一つも浮かばない。
せめて体力だけでも温存しようと蹲る。これで眠り次に目を開けたら実は夢でした、なんてことを願いならが目を瞑る。
だがそれは叶わなかった。
希望を抱く間すら与えられず、即座に現実を突き付けられた。
瞼の裏側から明りが強まるの感じ目を開く。目の前には、どこかで見たような、二度と見たくなかった白く発行する円が浮かび上がっていた。
目の奥と腹の底が熱くなる。
光が徐々に強くなり、ついには腕で顔を隠さずにはいられない程に眩しくなった。
震える喉から、自然と零れた声は情けないほど細く弱い。
「勘弁してくれ」
そして、再び浮遊感に襲われた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。