俺の人生の岐路の話
来た。
大学の正門から出てくる人物を確認して、仲間に目配せをする。
頷き合った後、その人物の前に立ちふさがる。
どこかボーッとした様子で歩いてきた人物が、私の前2メートル程の所で立ち止まる。
うつむきかげんだった顔を上げて、私の目をジッと見つめたその人物と無言のまま見つめ合う。
警戒されている?
こちらの目論見が露呈したのか?
相手の動きに注意を払いながら考えていると、ショルダーバッグに手を入れ、ゴソゴソと何かを探し始める。
?
まさかとは思うが、何か武器を護身用に持っているのだろうか?
周りの仲間とそっとアイコンタクトを取りながら、何を取り出すのか用心する。
取り出したのは、スケッチブックだった。
スケッチブック?いや、大判のノートか?
ページを開き何か書き始めた。
なるほど。この事か。
依頼主から、今回の人物が何か記録を残し始めたら絶対に邪魔をしないように厳命されている。
そのまま待つ。
ジッと待つ。
少し居たたまれない思いを抱いてしまうほどの時間待っていた。
次々にめくられるノートにすごい勢いで何かを書き込んでいる。
この人物。
とんでもなく優秀な研究者と言う話だ。
研究の成果はほとんど手放してしまうらしく、表に名前が出てくる事はまず無い。
どうやら、名誉欲や金銭欲、物欲、性欲がないらしく。今回の依頼主が何とか引き抜こうとして、ことごとく失敗したらしい。
大抵は、欲を刺激してエサを用意してうまくいくらしいのだが。
この人物、自分の研究成果にも欲が無いらしく・・・ホントかよ?と思ってしまうのだが・・・研究の特許等も申し出があればアッサリ売ってしまうらしい。
その際の代金も、大学側に8割、師事している教授に1割、自分が1割で受け取っているらしい。
教授は棚ぼたのようなものだ。
大学にも教授にもお世話になっているからと言う理由らしい。
何桁のお金が動いているのかわからないが、俺達に依頼してまで引き抜こうとしているという事は、億単位だろうと思う。
お。
書き終わったようだ。
ノートをショルダーバッグに入れた。
俺は、前に進み出て
「木ノ下博士。一緒に来ていただけますか。」
と声をかけた。
顔を上げてジッと見つめた後、
「何のご用ですか?もし研究成果に関してでしたら、大学に担当者が居ますのでそちらにどうぞ。」
と言って、俺の横を通り過ぎようと歩き出す。
俺は腕を伸ばして遮り、
「まぁ、その関連の話ではあるのですが、木ノ下博士ご本人にお話があるので一緒に来てください。
あちらの車にどうぞ。」
と、待機している車を示す。
「そちらの都合に合わせる必要がありますか?
この後予定が有りますので、失礼。」
と歩き出す。
「この後のご予定。お母様とのお食事ですよね?」
そう声をかけると足を止めて振り返った。
「お母様は我々がおもてなし中なので、木ノ下博士をご案内いたしますよ。」
ジッと見つめ合う。
「母に何をしたのですか?」
「何も。
さぁ、あちらの車にどうぞ。」
そう声をかけたが、黙ったまま動かない。
「では、我々と一緒だと言う事をお見せしましょう。」
仲間に目配せをすると、タブレットを持って来る。
そこに母親の姿を見た木ノ下博士が、無言のまま車へと歩き出した。
後ろからついて行き、一緒に車に乗り込む。
終始無言のまま、目的地に着く。
母親のもとへ案内した。
部屋のテーブルには、契約書類と筆記具が用意されている。
前置きも何も無しに
「では、こちらの書類を確認してご署名ください。」
と声をかけた。
広げられた書類を、手に取ることもなく確認してから顔を上げた木ノ下博士から
「サインするつもりはありません。」
と返答がある。
パターンの一つとして想定していた答えだ。
「では、あなたのお母様に少し泣いてもらいましょう。」
仲間が動き出す。
母親は青ざめた顔で宙を睨んで黙っている。
「意味の無い事です。」
木ノ下博士の言葉に、ニヤリと嗤う。
「まぁ、意味が有るか無いかはやってみたらわかる事です。」
そう答え、仲間に合図しようとしたら
「最終的に、どうするつもりでいるのですか?」
と聞いてきた。
「そうですね。
結局の所博士次第なのですが。
最終的な事態へもためらいが無い事をお伝えしておきます。」
そう言い、優位に立てただろうとニヤリとしながら博士の母親と博士を見る。
母親は変わらず宙を睨んだ目で青ざめている。
子供の顔を見たとたんに泣き叫ばない母親に感心したが、博士の心情に訴えるように少し痛い思いをしてもらわないといけないな。
そう考えながら博士を見ると。
ゾッとした。
体中から冷たい汗が噴き出して、背筋を何か冷たい物が走る。
私と目が合った博士が一言
「どうぞ。」
と言った。
一瞬で乾いて張り付いたような咽を潤そうとなるべくわからないように唾を飲み込む。
舌で唇の合わせ目の内側をなぞり、口を開く。
「どうぞ?
どういう意味だ?」
無表情なゾッとする目のまま私の目を真っ直ぐ見てきた博士が、
「言葉のままの意味です。
最終的な事態。この言葉が示す事が何であれ、私がこの書類にサインをすることは有り得ません。
ですので、あなたがなさりたいようになさってください。
という、どうぞ。です。」
表情無く青ざめもせず、目をそらすこともなく言う博士を、しばらく見つめる。
「強気に出れば、こちらが折れると思っているのなら」
大間違いだと言葉を続ける途中で
「強気。ですか?」
と博士が肩をすくめる。
「あなたが何をしようが、私があの大学を辞める事はありません。
これが私の変わることのない答えです。」
と口を一文字に結ぶ。
冷や汗が流れ落ちるほどで気持ち悪い。
最終的な事態。と言う言葉がわかりにくかったのだろうか?
今までだってこういう仕事は受けてきた。
殺人も犯している。
ただ、死体を見つけられた事は無い。
なので、お尋ね者でもない。
街中を大手を振って歩ける。
大金を手に入れて裕福な暮らしだ。
この仕事に、特に抵抗もない。
・・・。
いつも通りの手順で進めよう。
仲間に目配せをする。
母親の横に立っていた仲間が頷き、母親に効果的な痛みを与える。
猿ぐつわもしていないし手足を縛ってもいない。
暴れることも出来るし、悲鳴をあげる事も出来る。
目の前にいる子供に駆け寄って縋りつく事も出来る。
だが、母親は歯を食いしばって悲鳴をあげない。
顎をしゃくって合図をすると、もう一人が更に痛みを与える。
歯を食いしばって悲鳴をあげないがうめき声がもれる。
目を強く瞑って両手で口を押さえている。
博士に目をやると、変わらぬ無表情のままだ。
「いいんですか?母親を助けなくて。」
様子をうかがうが、一切感情が揺れた様子が無い。
「母親の体が傷つく前にサインしてしまった方がいいと思いますがねー。」
一切影響を与えられていない様子に、いつもの対象人物とは違うと焦る。
「あなた、母親を殺す気ですか?」
つい、いつもは使わない 殺す と言う単語を使ってしまう。
全くの無反応で母親を見つめていた博士が、私を真っ直ぐに見て
「何を勘違いしているのですか?
殺すのは私ではなく、あなた達でしょう?」
反応が返ってきたことで、ココをきっかけに押し広げて依頼を達成しようと言葉を募る。
「いいえ。あなたです。
サインをしないあなたが母親を殺すのです。」
「そうですか。あなたはそう思ってこういう仕事をしているのですね。
映画やドラマで悪人がよく使う手ですよね。
大事な人と引き替えに言うことを聞かせる、膝を折らせる。
ですが、私がここでサインをすれば、死ぬのは二人です。」
?
今回の依頼人にサインをする交換条件で俺を殺させる?
だとしても、後一人は?
仲間全員ならもっと数が多い。
・・・。
「二人?」
思わず聞いてしまった私を博士がジッと見ている。
「あなたとは死生観が違うようですね。
あなたにとって生きるとは、心臓が動いて息をしている事ですか?
その為なら膝も折るし、望まぬ事もしますか?
生きていればこそ。命あっての物種。生きてさえいれば逆転も挽回もチャンスがある。何が何でも生き延びる。
と言う考えでしょうか?
私にとっての生は、自分の信念を貫く事です。
信念を折られては、心臓が動いて息をしていても、それは生ける屍。
一度折った信念は再構築しても陰を帯びる。
母が、私を見もしない。叫ばない。悲鳴もあげないのは、私に膝を折ってほしくないからです。
自分が、子供の信念を折ってしまう原因にならないためです。
サインをする事で死ぬのは、母と私です。」
母親に目をやった博士が言葉を続ける。
「あなた方が、私がサインをしなければ殺す。
と言うのであれば、ここには選択肢は無いのです。
あなた達が母を殺して、私も殺す。
もしもサインをしてしまったとしても、同じく母も私も死ぬのです。」
そう言って黙る。
俺は見切りは早い方だと自分で思っている。
今回のこれ、この案件は無理だ。
この博士は、本当に母親を目の前で殺されたとしても感情を揺らしさえしないだろう。
痛みに我慢しきれずうめき声を上げている母親を、あんなに冷静に見詰め続けることが出来る時点で、この人物の異常さがわかる。
どうする・・・?
依頼主に失敗を告げたとして。
・・・。
あそこはまだ組織とガッツリ繋がってはいないはずだが、
ダメでした。はい、そうですか。
で終わるはずはない。
どうするか。
・・・。
「いいですか。」
考え込んでいた俺が顔を上げると、先ほどのゾッとする目では無いが何とも言えない冷たいとも冷静とも無感情とも言える目で博士が俺を見ていた。
「今回の事を諦めて私に一本電話をかけさせてくれたらあなた達が助かる可能性も有りますが、どうですか。」
と言ってくる。
?
よく理解できないが、無言で預かっていた博士の電話を渡す。
詰んでいるんだ。
お手上げだ。
黙って博士を見ている。
仲間達は俺をジッと見ている。
そんな中で博士が電話をかける。
外国語。英語ではない言語で話している。
今回の依頼主の会社名が話の中に出ていることはわかったが他は全く理解できない。
電話を切った博士が、
「今回の件を諦めて私たちを解放するなら、チャンスをあげましょう。
母を社長に会社を立ち上げます。
そこで働く気はありますか?」
いったい何の話なのか・・・。
理解できずボーッとする。
博士をジッと見つめているが、それ以上の説明や発言は無いようだ。
会社を立ち上げて、そこで働くかどうか?
今回の依頼主から逃げないといけないのに・・・。
「依頼失敗の時点で、逃げる選択しかない。
何の話をしているのか正直理解できない。」
そう答えると、
「大丈夫ですよ。
今の電話で、もうすぐあなた達の依頼主は消滅しますから。
後は、実行犯のあなた達の話です。
私たちにこれ以上危害をくわえないならチャンスをあげましょう。
チャンスと言っても、母にひどいことをしたあなた達です。
何もなかったように許すことは出来ません。
母の会社で誠心誠意尽くす気があるなら、雇いましょう。
と言う話です。」
そう言って黙る。
今、何て言った?
今回の依頼主が、“消滅” するって言ったか?!
消滅?!
しかも事も無げに、平坦な声で・・・。
博士の目をジッと見つめる。
博士は目を逸らさず見つめ返す。
知らず知らずのうちに博士に近づいていた。
間近に博士の目をのぞき込む。
どのくらい見つめていたのか解らない。
瞬きさえせず見つめていた。
博士もまた瞬きせずに見返していた。
ダメだ。
この人には勝てない。
例えば、ここで博士を殺す事は出来るだろう。
腕力で勝てない訳ではない。
でも、そもそも俺にこの人は殺せない。
勝てないんだ。
何かわからない、言葉にうまく出来ない奥底の根源的な部分でストンと納得した。
いつの間にか俺はその場に膝を突いて頭を下げる。
「誠心誠意尽くし生涯を捧げます。」
そのまま博士の言葉を待つ。
「母さん。どう?
会社立ち上げて任せるから、この人達を使ってみない?」
痛めつけられた所を手で押さえてジッとしていた母親が立ち上がった。
「いいわ。
でも、この痛みは一生忘れる事が無いでしょう。
その私の下で働くと言う事がどういう事か・・・。
わかっているんでしょうね。?」
俺は膝を突いて頭を下げた状態のまま母親の方へ体の向きを変え、
「はい!誠心誠意尽くします。」
と心の底から言っていた。
「で、仲間はどうする?」
そう博士に問われて、頭を上げ仲間を見回す。
怖れ戸惑っている仲間の顔があった。
俺は黙ったまま仲間達の顔を一人一人見ていく。
俺と目を合わせた後、仲間同士目を見合わせていく。
全員が全員と目を見合わせた後、全員が静かにその場に膝を突いて頭を下げた。
俺もまた一緒に頭を下げ、博士の言葉を待つ。
そのまましばらく、3分?5分?10分だろうか。
静かに時が流れるが、俺も仲間も微動だにせず博士の次の言葉を待っていた。
突然、誰かが入ってきた。
博士の感情が揺れないからか、俺も仲間もそのまま動かずジッとしている。
何人居るのだろう?
複数人なのはわかるが動きが静かすぎて人数が掴めない。
その中の一人が博士に近付き、博士の目の前、俺の横の辺りに来て博士に話しかけた。
「ご無事でしょうか。
この者達の処分はいかがなさいますか。」
「見ての通り、処分の必要はないよ。
全員母の会社で働くそうだから。」
「承知いたしました。
準備が有りますので一旦全員こちらに預かります。
よろしいでしょうか。」
「あぁ、聞いている。
構わない。よろしく頼む。」
「母上様と博士を病院へお連れするよう指示をいただいてます。どうぞ外に待機している車にお乗りください。
ご案内いたします。」
「わかった。
母さん。歩ける?」
「えぇ。足は痛くないから大丈夫。ついて行くわ。」
と会話をした後、博士と母親、入ってきた数人が部屋を出ていく。
「さて、君たち。立ってついてきてくれ。」
そう言われ、全員立ち上がり、指示している人物について行く。
外に出ると、丁度博士たちを乗せたと思われる車が走り去る所だった。
マイクロバスに乗り、待機する。
窓から外の様子を見ていると、数人が何かを今まで居た建物に運び込んでいる。
作業が終わったのか、全員がマイクロバスに乗り込み走り出す。
しばらくすると後ろで爆発音が聞こえた。
運び込んでいる荷物の中に、人と同じ位の大きさの物が有った。
俺たちは死んだ事になったのだろうと想像が付く。
今、後処理をしているこのチームは明らかに俺たちより優秀だ。
本格的な訓練を受けたプロ中のプロだろう。
依頼を受けてから博士の事はリサーチしていたのだが、博士は俺たちのリサーチ程度では解らない程の巨大な存在だったと言う事だろう。
今、こうして生きているのは奇跡と言ってもいいのかもしれない。
不安そうな目をした仲間達と目を見合わせた。
きっと俺も同じ目をしているだろう。
この後の人生。
どんな人生になるのだろう・・・。