牛タン
先日、用事があって仙台に行った。仙台には、大学受験の浪人時代の友人が住んでおり、会って来た。
友人は、夜は牛タンを一緒に食べていくかと誘ってくれたが、私は牛タンを食べたいとは思わなかったので断り、代わりに彼の家でピザを頼んで呑んだ。
私の思うに、牛タンは食べ物ではない。
言わずもがな、牛タンとは牛の舌のことである。生きていた頃はその舌をぐねぐねと使って牧草を食っていたのだ。牛にとっては、まさに毎日使う「道具」である。毎日使ってきた道具であることが、生々しくその生命を感じさせる。
今日、知人数人でランチをしていたときに、ふいに牛タンの話になった。ここでも私は、「牛タンは食べ物ではない」という持論を展開した。会話の中で知人の一人が、
「アメリカ人は牛のほとんどを食べるが、舌は食べないらしい。だからアメリカで余った牛の舌が日本に送られて来ているんだ。」
と話した。なるほど。
だいたい考えてみればおかしなものである。仙台に行けば牛タン屋がひしめき合っている。観光客はそこで毎日のように牛タンを食べていく。牛一頭に一つしか付いていない「牛タン」がどうして仙台にこうもあるのか?どう考えても日本の牛ではまかない切れないではないか。
結局、アメリカやオーストラリアから大量の牛の舌が送られて来るのだろう。外国人が唯一食べない残り物を日本人が喜んで食べているのだろう。肉を食べる文化の浅い日本人が「残さずに」肉を食べているとは、皮肉なものである。
(どうやら、世界の年間牛タン消費量は約10万トン、うち5万トンは日本で消費されているらしい。私の想像はどうやら合っているようだ。)
私はレバーが好きである。美味しくいただく。したがって「牛タンは食べ物にあらず。」というのは、誠に勝手な意見であろう。
しかし、私には舌という部位には抵抗を感じる。牛の顔に付いた、生命の強く残る部分である。思考を止めなければ、決して食べられないのではないだろうか。いくら素晴らしい食文化を持つ日本でも、他国の捨てた物を有難く食していては、下等に扱われてしまうだろう。