7.メサイア 少女期(MMの女の方)
☆~Platinum Heart~☆
メサイア・ムソン 十二歳のお洒落好きなロシア貴族令嬢
王子 パーティーで出会ったメサイアに好意を寄せている
雄 森の狼。メサイアのことを手に入れようとしている
エジプト国王 メサイアの実の父親。実子関係は明かされていない。
☆INDEX☆
1.可愛い王子様
2.森の狼
3.メサイアの揺れる心
4.エジプトの国王
5.旅立ち
☆STORY☆
1.可愛い王子様
メサイアは窓から天空の野外を見て、微笑み中へ引いて行った。
ソビエト連邦。
ロシアン貴族の末裔であるムソン一族令嬢、メサイアは、実に美しい髪と瞳を持ち合わせた美女だ。
年齢は十二歳。その誕生日には、プラチナとブラックダイヤモンドのリングと、ガーネットで出来た薔薇をプレゼントされていた。それを、彼女が好きな色、真っ白のクマのぬいぐるみが持っていた。
メサイアは口ずさみながら、プラチナの艶めくひっつめの髪を櫛で綺麗にとかし、その姿が姿鏡に映っている。彼女の水銀色の瞳が魅力的に光り、白の肌を引き立てるのは、緩いVネックが鎖骨にかかる白シフォンのドレスで、そのVは黒糸の縁が囲っている。腰を幅の広い白とシルバーのバンドで締め、バックルは端をブラックダイヤで縁取られたプラチナペガサスだ。
彼女の足を包むのは、黒のバレエシューズだった。
実際、バレエを三歳の頃から習っている彼女は、その他にも、ピアノ、ハープ、紅茶、乗馬などを趣味にしていた。薔薇好きの彼女の白ビロードと黒の射し色の部屋には、ローズピンクやホワイトピンクの薔薇が多く飾られ、香り高い風があった。
プラチナのシャンデリアにシルバーの灯が灯る。
彼女はローズクオーツ色のふっくらした唇に透明なグロスを乗せた。元々、エジプトの血が半分入っている彼女は、目元がとてもエキゾチックでミステリアスだ。
スカートの裾を翻し回転すると、黄金の蓄音機から流れていたレコードの曲にあわせて歌った。
「ねえリバコフ。今日は絶対にいい子を見つけるの」
そう、黒縁の白ビロードソファーにお行儀良く座っている純白のチンチラ猫を撫で、ソファーにうつ伏せに肘を掛け、リバコフに頬釣りした。
思い立って、彼女はパールが5連でバンドになっていては、黒ダイヤのあしらわれたカメオを中心につけてあるネクレスを填め、黒レースのタイツをレッグバンドに填めた。慌てて、ドレスを放って背に黒の大きなりぼんが着いている膝丈で裾が広がってクチュールが幾重にも生地の中に重なるドレス、チューブになっているものだ。それを着た。
黒のハイヒールはプラチナでMが華奢な薔薇で飾られトップとして着いている。
指には、美しい白百合のシルバーリング、ブラックダイヤのリング、細身で、一粒の小さなダイヤ粒があしらわれたリングをそれぞれはめる。
爪はアラベスクが掘り込まれたシルバー。レースで出来たロンググローブを填めた。
ひっつめにされた髪の天辺に、可愛らしいティアラを乗せる。まるで繊細な蝶々の様なティアラだ。
黒ミンクの丸いバック。そのなかに、ミラーコンパクト、薔薇とジャスミンとガーデニアのアトマイザー、グロス、カードケース、シルクレースのハンカチ、櫛。
胸部に、黒スワロフスキーの馬の大振ブローチをつけた。
薄桃色の香水をプッシュする。そのシャワーを微笑み浴び、瞬きとウインクを確認すると、彼女は思い切り微笑んで回転した。
「完璧!」
銀の器の蓋をあけ、ピンクエナメルの中のチョコレートをひとつまみしては、口に放った。
「きゃあ美味しい!」
チョコレートは中にはダマスクローズのペーストが入っている。ざらめも振りかけられていた。
メサイアはリバコフを抱き上げ、ルンルンと室内を出ては、上品で美しい廊下を歩いて行った。
プラチナがあしらわれていて、薔薇の装飾などが優雅に流れている特注のクラシックカーに、開けられ乗り込んだ。
白ビロードと白革のボリュームあるシートに座り、銀細工の中の薔薇のお菓子を食べる。銀箔の浮くハニーシャンパンを渡された。クリスタルの中で気泡を立てる。
リバコフの頭を撫でながら、ローズピンクのエナメル薔薇がトップに咲く黒のシャンデリアが煌く。
薄桃色と白と灰色の色合いが可愛らしい緻密な絨毯が敷き詰められていた。
シルバーの薔薇装飾や、ボックスがある。
パーティー会場でメサイアは、友人達とシャンパンを手に盛り上がっていた。
薔薇エステのことなどについて話し始めていた。
「薔薇とプラチナエステ、今度提案してみようとおもうんだけど、あたしが推奨するわ。」
「きゃあ。それって絶対魅力的!」
「そうでしょう?」
「ねえ。君」
メサイアは、黒髪ロングを真中でわけた一重の美人な友人と会話をしていた時だった。その子は焦げ茶のチューブレースドレスとグローブの子で、まるでその色のミンクのように深みのある子だ。ガーネットのネックレスがよく似合っていた。黄金のリングも。ナリーンだ。
それに、アルメニア人のためにその美しさのあるエレンに、薔薇のエナメルアクセサリがよく似合って、ホワイトピンクのカクテルドレスと、黒シルクのグローブが可愛いラナ。彼女は白ミンクのイヤリングがはえる、ホワイトブロンドが蝶のような子だ。
エレンの装いはまるでペガサスのようだった。
メサイアは声を掛けてきた少年を振り返った。蝶ネクタイがよく似合う金髪の子で、綺麗な顔をしていた。
少女達は微笑み上目を合わせ、彼と挨拶を交わした。彼はとある国の第二王子様だ。お近づきになっておこう。
メサイアは透明なほどに澄み切った夜空を見上げた。
星が、占領している。ダイヤモンドそのものの星がなんてたくさん。美しかった。
凍てつく空気は風が透明な息吹きのようで、この時期はまだ暖かなほうだ。
シベリアの雪原を、全ての生命をいてつかせるような猛吹雪が襲う時期ではない。
白の石材屋敷のテラス。望遠鏡など、きっと必要無いんだわ。こんなに澄んだクリスタルの様な夜空は、海王星や、月、金星とか、肉眼で見えそうな幻覚さえ覚える。
泉の水源の様な風音が、ハープを繊細に奏でるかの様な音に変る。
「寒くない? どうぞ」
彼は、メサイアの肩に黒革のボタンがファー襟についた純白ミンクのロングコートを羽織らせた。シルバーシルクの裏地がなめらかで、温かい。
「ありがとう」
メサイアは微笑み、ガラスにブロンズ取っ手の温かいハニージンジャーレモンも受け取った。
王子はメサイアの横に座り、共に鏡のような夜空を見上げた。
「あたしね、ペガサス座って好きよ。よく、古くてアンティークな星座の書物を見るの。ペガサスが美しく描かれていて、優雅に夜空を駈けているのよ」
王子は美しいメサイアの横顔を見つめ、彼女の言葉を聞いていた。
「その次のページには、薔薇星雲の絵が描かれているの。鮮やかで、ピンク色で、綺麗で、宇宙って宝石箱なのね。素敵だわ。宇宙旅行って、行ってみたいな。ペガサス座のせのうえに乗ってみたいの。そんな夢ばかりだわ。そしてね……」
メサイアはにっこり微笑んで、王子の顔を見た。
「宇宙空間の別次元にいる魔神の操りを操作するの」
「………。?」
王子は微笑みながらメサイアを見て、はてなを飛ばした。
「しっかり秩序を保っていなければ崩れてしまうから、美しい宇宙を続けさせるためには、美しいサイクルが必要でしょう?」
メサイアは再び夜空の星星に目を移し、王子の肩にこめかみを乗せた。
「あたしが開祖したら、信者になってね。あたしが教祖になるの。」
「………。?」
王子は驚きメサイアの閉じられる大きな瞼を見つめては、ハテナがまるで夜空に浮遊して行くように消えて、流れ星が連れて行った。
彼は彼女の頭に頬を寄せ、目を綴じた。
「外は寒いわね」
「中で温まろう」
「うん」
二人は立ち上がり、室内へ入って行った。
シベリア列車のVIP等級車両の中で、メサイアの母は娘を探していた。
きっと、またランクが低級な車両へ行ったのだろう。あの子はいつでもそうだ。そういった雰囲気を好み、用事があるわけでも無いのにふらついている。きっと、そのクラスの少年少女と会話でもしに行くのだろう。
ぴっちりとした黒革のパンツとブーツに、白シャツと、白の柔らかいファージャケットに、大きな黒サングラスにひっつめのメサイアを見つけた。
「あなたは」
彼女は飛び驚き、背の高くスレンダーな美しい母を見上げた。冷たい眼差しがメサイアに降り注がれた。まるで、美しい銀ぎつねのような母。
深い緑のドレスに、黒のロンググローブと、焦げ茶ミンクのボアケープに、そのファー帽子を小さく頭に載せている彼女は、大きなダイヤモンドのついたバロックパールの五連に連なるネックレスをしている。
元来、この型のネックレス全般は、ムソン一族のレディーが職人に作らせているものだ。
ムソン一族の女性は、皆パールの五連バンドのネックレスに、トップがさまざまなもののネックレスをいくつも所有している。黒のパールのぐるりと囲うものに、サーモンピンクのプチローズがあしらわれたものもある。とおもえば、黒真珠と黒ダイヤのものも。バリエーションはさまざまだ。白真珠に、金メッシュものもあった。
今のメサイアは、白パールの左右首に、白猫スワロフスキが対を成していた。それが、彼女の耳に揺れる薔薇スワロフスキイヤリングとも合っていた。
「あなた、どちらへ行っていらしたの」
母の低い声にメサイアは豪華な中を背後を見ては、首をかしげながら母を見た。
「パパを探しに行っていただけよ」
また、そうやって嘘を言って来る。それぐらいの嘘なら上手につけるものの、母にはそれぐらいの嘘はすぐに見破れた。
「いらっしゃい」
母に着いて歩いて行く。個室へ来ると、執事が微笑み出迎えた。
「お帰りなさいませ。お嬢様。お紅茶、お飲みになられますでしょうか」
「ローズジャムでお願い」
「はい。かしこまりました」
母と子は座り、室内には香り高いジャスミンが仄かに薫る。母が愛飲しているものだ。
メサイアはオペラグラスを目に当て、殺伐とした景色を見渡した。
心の中の平原は、白鳥の群が水色の空に飛び、そしてペガサスの群が駈けていた。やがて透明な夜空にダイヤの星が満天に輝き、白鳥もペガサスも星の煌きと変り、星座になっていく。
「どうぞ。お嬢様」
豊かな声が優しく響き、メサイアの空想を緩く遮断した。
瞑想に入る前に。
メサイアにとって、瞑想は大切な事だ。
温かいローズジャムティーのカップとソーサーをもち、口をつける。
「お母様。最近、王子と親しくしているの」
「そのようね。失礼をなさらないようにね」
母からしたら、今の落ち着いている時のメサイアは安心だ。この子ははしゃぎはじめると、絢爛好きで、まるで小悪魔かのようになるのだから。
きっと、王子と出会ったものだから清純を心描かせているのだろう。
「ええ」
扉が開き、そちらを見ると執事がメサイアの父に微笑み礼をした。
「パパ」
「戻っていたのか」
彼は二人を見ると、座ってから足を組んだ。
メサイアの祖母はフランス人だ。母はロシア人とのハーフだった。母は15までをフランスで過ごしていた。その母とは血が繋がっているのだが、実は生粋のロシア人である父とは血が繋がらない。
メサイアの父親はエジプトの王だ。極秘で出産されたのだが、この事に関しては、父も分かっている事だった。メサイア自身には知らせてはいない。自らが姫の称号を与えられるにふさわしい時期が来るのかもしれない事も。
娘は、奔放な性格過ぎて困る。お洒落好きでパーティー好きで派手好きで可愛らしい女の子というだけならまだしも。時に悪魔のような悪戯をするのだから恐い。自覚はあるのだろうか。
メサイアは純白でふわふわのクマの縫いぐるみを抱えていて、それを撫でていた。
「メサイア。こちらにいらっしゃい。髪をとかしてさしあげるわ」
彼女は微笑み母の所まで来た。
銀の美しい櫛で、娘のシルクのようなプラチナ髪を下ろし、ゆっくりととかして行く。本当に綺麗な髪の子だ。まるで、本物の金属の波打つような。
温かい髪の頭を撫で、母は微笑んだ。
「ありがとう」
メサイアは微笑み、髪を撫でた。
「今度、王子とノルウェーへ乗馬に行く約束をしたの」
「それは素敵なことね」
「でもあたし……」
メサイアの表情はかげり、膝を見つめた。
「自分が本当に彼と行きたいのかが分からないの」
彼は実に見栄えもいいし、優しい。年齢も十三で近い。
「まだ出会ったばかりですもの。ゆっくりと関係を続けていくことも素晴らしい事だわ」
「そうよね」
「一国を治めるお方のご子息としての考え方や、その上での関りは様々な崇高な事を得られるというものよ」
「うん」
メサイアは微笑み、そして窓の外を見た。彼女の可愛らしい顔を、美しくプラチナ髪が囲い彩った。
風景が流れて行く。大振のダマスクローズの花が降っている。彼女の頭の中で、雪の様に。
恋をすると、花開くようなものなんだって分かっている。繊細な花びらが、まるで多少の乱暴さを持つかの様に、ふわっと花開くのだ。
でも薔薇の幻想は、恋心とは別物のままだった。
白馬は美しいタテガミをしている。ノルウェーの森林の中、明るい木々の葉が彼等を彩っていた。
「そうよ。ダーツ。マスカットを一粒一粒的にして、ピアノ糸で吊るすの」
「命中するの?」
「得意なことだから、お手の物よ」
共に馬を並んで歩かせ、会話をしながら進んで行く。とりとめもない事だ。時々、くすくす微笑む声がこだまする。
ふと止まり、王子が体を伸ばして彼女のローズクオーツの唇に、ちゅっとキスをした。
メサイアは再び離れて行った王子を見ては、プラチナヘアが艶めいた。
「………」
メサイアはうつむき、心ときめかなかった事を罪悪に感じるのか、それとも、自身がキスを受け入れた事に罪悪を感じるのか、よく分からなくなってしまった。
「君?」
王子は不安になって彼女の顔をのぞきみた。
「……。いつかは、名前を教えてくれないかな。僕に」
それは、婚姻をいずれは、もしくは恋仲を考えたいという事だ。社交では貴族は名を明かさない。通り名を使うからだ。彼女の友人達も、通り名なのだから。
メサイアは、社交や友人達からはメルと呼ばれていた。ムソン一族の令嬢、メル・ムソンと。
「まだ、分からないわ……」
彼女はそう言い、馬をゆっくり歩かせた。王子はその背を見て、ゆっくり歩かせて行った。
「わかってる。答えを急いでるわけじゃないんだ。ごめんなさい。急ぎすぎたよね」
王子ははにかみそう言い、メサイアは彼を振り返った。
自分の心に正直なことはいいのだろうが、今は言葉を慎重に選んだ。自分に好意を持ってくれる真摯な眼差しが不安げな中を、見つめてくるからだ。
「走ろう。思い切り」
メサイアはそう呼びかけ、走らせて行った。彼女の髪が翻り、艶めく。
凛として。
湖畔に行き着き、馬を歩かせた。美しい泉には白樺や木々が映り、水面は凪いでいた。
黄緑の繊細な木の葉が映る湖面に、白馬達も映り。
恋をしたとわかったのなら
小鳥は心のなかにさえずるからね
心配ないわ
役立たず……そんな心を弄び
わたしは何処までさがしに行くのだろう
真実の人を求める心を持ったまま
湖畔に跳ね返る艶の陽が、メサイアの水銀の瞳にも集まり落ち着くかの様に、魅惑的に光る。
王子はドキドキし、メサイアの横顔から視線をうつむかせた。自分の事は、どうやら心内に無いらしい。彼女は性格がはっきりしているから、断ることは断ると聞いたし、好きならば相手が何を言おうがリムジンや馬でさらって来るという噂だった。一向に無口だし、キスをしたらうつむかれてしまった。自分はぶしつけな事を多くしては彼女に無理をさせているのだろうか。彼は馬を進めさせ、メサイアの横に来た。
「ねえ。あたし、………」
メサイアは顔を王子に向け、彼女の頬を今度は光が照らした。きらきらと緩い光が彼女の頬を照らし、そのメサイアの表情は思いつめていた。
王子は微笑み、そっと手を差し伸べた。
その彼の手を見下ろし、メサイアは王子の顔を見た。
「その手を取れないわ。なんだか、頼らなきゃならない気がするから。あたしの名前は……メル・ムソン。ごめんね……」
王子は差し出した手を微かに握り、首を横に振った。そして微笑んだ。
「ここまで付き合ってくれてありがとう。メル。しっかり言ってくれてよかった。こちらもごめん」
メサイアは馬から降り、王子の馬の横まで来て彼を見上げ、彼の手を取った。
頼りたくないだなんて、男の子に言ったらどんなに失礼かなんて、分かっている。
「あたし、頼られたいほうなの。走ろう!」
王子の手を引っ張り、彼は馬から滑るように降りてメサイアに手を引かれ走って行った。彼女の滑らかな手が柔らかくて心がときめいた。
森の中を駆け抜け、クリスタル珠のような露を弾き飛ばし、潤う森を走る。
そのまま帽子が転がりシダなどがはえる草の地面に転がった。彼等の顔の上に透明な水滴が、景色を映し草から揺れ滴り、木々から見える空を見つめた。
「本音で話し合ってくれていいよ。ありのままの君と友人になりたいんだ」
メサイアはおかしそうに一度笑い、王子の横顔を見た。
「それって、あたしが相当の性格だって噂でも、聞いていたっていうこと?」
王子もおかしそうに笑い、起き上がったメサイアを見た。彼女が腕を立て、白く小さな花を抜き、王子に持たせた。
「今は、思い切り走ったから心臓がドキドキしているわ。だから、思わせぶりに意地悪したくなっちゃった。あなたの事が本当は好きなのかもしれないわってね」
王子はメサイアを頬を染め見上げ、はにかんだ。
「本当、意地悪だな」
「好きよ」
そうわざと言い、王子の頬にちゅっとキスをしてから立ち上がった。
今は、この可愛い嘘でもいいから翻弄されていたかった。王子はステップを踏んで楽しそうに踊るメサイアを見つめた。
2.森の狼
彼女はデザイン画のスケッチを持つと、それを革のケースバッグに入れ脇に抱え、走って行った。
「どいてどいてどいて!」
使用人達が一斉に騒がしいお嬢様を廊下上で振り返り、風の様に疾走して行くメサイアの背を見送った。彼女はプラチナのチェーンを下階ホールのシャンデリアへ引っ掛けると、勢い良く吊る下がって宙に舞い絨毯に降り立つと、チェーンもそのままに走って行ったから、使用人達は急いで奥様が戻られる前に、巨大シャンデリアを下ろしてチェーンを外さなければならなかった。そうでなければ、お嬢様が泣き喚きながら怒って自分達をふっ飛ばしながらでも自室へ駆け込みに行くのだから、怪我をする。粗相を叱りつけられるからだ。
落ち着き払って冷静沈着、冷淡な風の強いムソン一族にしては、彼女は実に特異だった。
メサイアはドアを突っ込み開けると、表にいた秘書をふっ飛ばし駈けて行っては、馬車に飛び乗って自らが「ハア!」と掛け声を立て馬車をかけさせて行った。馬達は激しくいななき掛けて行き、その偶然見つけたから飛び乗った馬車に乗っていた父親は、再びあの娘のじゃじゃ馬によって出発させられたことを知り、乱暴な走りをせめても止めさせる為にリンリンとベルを引き鳴らすものの、娘自身は自らの掛け声で一向に気付いていない。
秘書は茫然として、再び娘に連れ去られて行った旦那様の乗る馬車を見送るほかなかった。以前までは門番のものが馬に掻け乗り、馬車を追いかけご主人様の存在をお嬢様にお知らせして止めさせたのだが。
メサイアは学び舎まで来ると門を越え、木々に囲まれた私道を走らせて行き、既に父親は気分が優れなくなって来ていた。馬車酔いだ。
幾度となくそのまま転げ落ちようとも思ったのだが、危険行為だ。
ようやく馬車が庭をぐるりと回ってから馬が駆け足をじょうほに変え、停車した。
メサイアはスッキリして額を拭いにっこりし、ルンルン言いながらスケッチブックを持って飛び降り、学び舎の林へとスケッチに向かった。
「………」
父親はうなだれ、それだけでこれだけ振り回されたので、溜息をついた。
元々、彼女の実の父であるエジプト国王はじゃじゃ馬な性格の青年時代だった。多少の強行的な部分もあり、そして色香のある男。背も高く、197はある。体格がしっかりし、眼光が強いのだ。勇ましい国王である。声は嗄らし声だがよく通り、迫力があった。女遊びも好きだし、王室に構える女は歴代の王の中でも最多とされている程だ。
彼はスペイン王室の皇子アルグレッドとも張り合う程の剣豪でもあった。その競技で幾度となく剣を交えては試合をしている。国王の方が体格や身長もあり、馬車を操っての剣競技を得意とする為に、実質的には彼の方が上手だが、地上戦でさしで勝負をすると、鋭利で殺気が静かに沸き立つ鋭敏なアルグレッドの動きは実に見事なもので、国王もその腕を気に入っていた。将来、スペイン王朝を継ぐアルグレッドは黙っていれば性格はきつく冷淡そうな鋭い男だが、話せば実にいい人格だ。その事で、竹を割ったような性格の国王とも古くからの親交があるようだ。
あの強靭なエジプトの父王の血を引き継いでいればやんちゃな娘になる事は窺えるのだが、何しろ、異常なまでにメサイアは持久力がある。まるで、そう。狼の様な、時に凛とする目を覗かせる……。不思議な子だ。
馬車にやってきた教諭達に、ムソン屋敷への連絡を渡させた。父はその事で一度落ち着き馬車を預け、教諭達は彼を応接間へ招き入れ、紅茶とビスケットを出した。
一方、メサイアは湖の白鳥を描いていた。美しい羽根や、ボリュームのあるさま、優しげな顔つきや優雅な態、そして綺麗な目元。
メサイアの目は実に良く、遠くまで見渡せるために、シャンデリアの巧妙な職人技がふんだんにつぎ込まれた細部にまで一瞬でチェーンを傷つける事無く掛ける事も可能だった。
彼女は空が灰色から薄紫色に沈み広がる時間を過ぎ様が、歩き続ける事が好きだった。
スケッチを終えると、他の日にスケッチした繊細な(ホワイトピンクの)花のページをめくる。そして、デザインしておいたドレスのページも。その美しいドレスに、白鳥と(濃いレッドピンクの)薔薇のエナメルをつける。
彼女はふと林を見上げ、蜘蛛の完璧な巣を見つけた。主であるその蜘蛛が、中心にいた。
彼女は枝にかかり、透明な雫を乗せるその巣と蜘蛛を描き始めた。
モノトーンのドレス胸部の柄にしよう。シルエットとして。それで、蜘蛛の部分を金属アクセサリーにして、胸部にブローチのようにつけて、(それか、重厚なチェーンから下がる蜘蛛のネックレストップ。)それで、蜘蛛から黒のチェーンを吊るすのよ。その先に大きなカラットのブラックダイヤを揺らすの。白とローズピンクと黒。そしてエナメルを囲う金。似合うわ。可愛くって、十二歳っぽい。
共に、白シャツバーションで、黒ビロードサブリナパンツも浮かんだ。ロングブーツも履いて、そうすればその上に金ボタンのビロードジャケットも着れて、その腰の部分に白鳥と薔薇が覗くのだ。格好いいなかにも、可愛い。
髪だって、綺麗にアレンジしちゃって、黒の小さな帽子をななめがけて。
今度、その服で王子とデートに行こう……。
メサイアは今の薄い水色の空を見上げ、おぼろげにそう思っていた。ローズピンクのチーク、新色をイヴサンローランで買おう。鮮やかな色のルージュも。
メサイアは今日、散策することは止めて戻って行った。
今、彼女のプラチナ髪にはピンク色の薔薇の飾りがつけられていた。実に可愛らしい。
「メル」
メサイアは、林を歩いているところを声を掛けられ、首をかしげて辺りを見回した。
こだました声の方向を探るために、神経を集中させる。
姿が見え無い。誰だろう?宇宙を司る【時の魔神】が彼女に語りかけてくることなどない。彼女が毎日、欠かさず崇拝を続けているのだから、秩序は乱れてもいなかった。
「メル」
繊細な音を察知する耳が、その繁みの方向を見た。
水銀色の瞳が、その細部に渡るまでを見る。
「………」
狼だわ。絶対にそう。分かるの……。
仲間だという事が。
メサイアは相手を刺激しないようにそっとそっと近づいて行った。こんな街中の森の中にどうやって来る事が出来たのだろう? メサイアには分からないが、きっと夜の闇に紛れ、徐々に徐々に近づいて来ていたのだろう。忍耐強く。
ユーラシアのツンドラオオカミ。
アラビアオオカミ。アメリカンオオカミ。グリーンランドのホッキョクオオカミ。
メキシコ西北のメキシコオオカミ。ウラル山脈のロシアオオカミ。コーカサスやトルコ、イランのカスピスオオカミ。北海道のエゾオオカミ。日本のニホンオオカミ。
イタリアからアルプスまでのイタリアオオカミ。エジプトやリビアのエジプトオオカミ。ヨーロッパ東部からロシア、中央アジア、シベリア南部、中国、朝鮮、ヒマラヤのヨーロッパオオカミ、シベリアオオカミ、チョウセンオオカミ。
カナダのオンタリオ南東とケベック南部のシンリンオオカミ。五大湖西岸、アラスカ南東、カナダ東部、バフィン島のグレートプレーンズオオカミ。カナダ北西、モンタナ北部のシンリンオオカミとアラスカオオカミ。イスラエルからインドのインドオオカミ。
高緯度に生息する狼ほど巨大だ。ハイイロオオカミは1メートル近くにもなる。
嗅覚が一気に雄狼の存在を彼女に伝えた。
彼女は注意深く、そちらにコミュニケーションを図った。
「あたしは何も武器を持っていないわ。あたしに何か用事があるの?」
木陰から、尻尾が一瞬覗いた。
狼が姿を少しだけ表し、辺りに充分気を配しているらしいことがよく分かる。
「注意して。ここは人が多いわ。今は気配がなくても、いつこないとも言えないから」
近づく事はやめておき、メサイアは目を凝らした。瞳孔が閉じ、視覚が優れる。
凛とした狼が、そこにはいた。
メサイアは頬を染め、スケッチブックを胸に唇を閉ざした。いい雄だ。男らしくて、涼しげな目をしている。
「腹がすいて、あの白い大きな鳥を食べたいが、奴等は俊敏だ」
「それはそうよ。白鳥は慎重だから」
「岸で眠ることを待っているが、一向に上がってこない」
「いつからいるの?」
「長いこと歩いた。そしてここにきた」
「何故?」
「パートナーを探しに」
「あたしはヒトよ」
「雌の匂いがする」
「それはするけど……」
「三晩前、お前を見つけた。あの白く大きな鳥を獲って、お前にやろう」
狼は目の光を変え、一気に繁みから飛び立った。
「やめて!」
さっき美しくスケッチした大好きな白鳥が、驚き飛び立って行く。
狼はその姿を表し、空へ飛んで行った白鳥を見上げていた。首をもたげ、顔を上げるとメサイアを見た。
メサイアの足許には、白鳥の描かれたスケッチブック。
彼女は射すくめられ、うつむいた。
「ごめんなさい」
飛びつかれると思い、顔を上げたが、立派な体格の狼は顔を反らし歩いて行ってしまった。
メサイアは胸の鼓動を高鳴らせ、慌てて追いかけた。
「待って。置いて行かないで」
雄は自分が空腹だというのに獲ってくれようとしたのだ。
「仲間の所にいけ。俺に近づくな」
メサイアは足を止め、悲しくて涙がぼろぼろ零れた。白鳥はまだ狼の殺気を警戒して空を飛んでいた。水色の淡い中に溶け込んでしまいそうだ。
狼は足を止め、戻って来てメサイアの胴体に頭を寄せた。しっかりした毛並みがメサイアの手の甲にあたる。メサイアに自分の匂いをしっかりつけると、狼はザッと繁みへと飛び走って行った。
メサイアはぼうっとして、頬を赤くその方向をじっとみつめ続けていた。
メサイアは部屋でぼうっと天井を眺めていた。
あの素敵な雄のことが忘れられない。
彼女は溜息をつき、恋する乙女の目が空想をまた描いていた。
「マレイルのところへ行ってハープを弾こう」
彼女は思い立ち、仕度を急いで始めた。いつもの様に着飾り、甘い甘い香水を振りかけようとした。
『俺のものだ。俺を忘れるな』
姿鏡の中のメサイアはポンプをもつ手を止め、頬を染め、そして唇が嬉しくて微笑んでいた。
でも、雄は獲物を捕らえる事が出来ているだろうか。まさか、人里に来たなんて。心配だった。
香水はいらない。
「大変!」
仕度を終えた彼女は、黒に白の大きなドットの裾の広いスカートに、黒シルクのバンド、白のシフォンシャツに、上から紫の可愛らしいコートを着て首下でりぼんをむすんでいた。耳に大きなマルのイヤリングをはめ、髪は綺麗に巻いて甘い甘いお嬢様なヘアスタイルになっていた。
「王子とデートだったわ!」
見回し、どうみても友人宅に遊びに行く女の子。あの時デザインした服の収まった綺麗なボックスを振り向いた。
薔薇懐中時計を開いて、シェルの上の黄金針は、時間を指し示していた。
「お嬢様。お迎えが参りましたよ」
ピンクのボンボンファーがついたパンプスを返し、執事の声に振り向いた。
彼女は仕方なく、甘い香水をふりかけ、唇にピンクのルージュをひき、そして王子の待つ車両へ急いだ。それか、お迎えだけで、他の場所で待っているかもしれない。
今日は、二人で昼食だ。
黒シルクのショートグローブをはめ、階段を彼女は駆け降りて行き、スカートを正してから執事があけた扉を潜った。
ポーチには、王子が微笑み立っていた。
「ごきげんよう」
挨拶をしあい、微笑んだ。
ロシアン美術の美しさは光り輝いている。それに囲まれ小さな恋人達が大人達の恋人達の中で昼食を終えると、広大な公園を散歩した。芝生の上を歩いては、メサイアの顔は微笑んでいた。
王子は、友人という事からはじめていこうと決めていた。
「ハープを?」
「そうなの。だから、いつでもあたしの爪は金属の付け爪でしょう?バレエも、ピアノも、爪を伸ばす事が出来ないから」
とはいえ、いつでもその上からグローブを填めているのだが。
「今度、是非聴きたいな」
メサイアはにっこり笑い、頷いた。
夕暮。
透明度の高い夕陽時だ。窓からはそれが射していて、闇の室内に燃えるような夕陽色が切り抜かれていた。
メサイアはハープをゆっくりかき鳴らし温かく響き、王子は幸せでその彼女の姿を見つめていた。
「宇宙が静かに見えるでしょう? 泉から上がって行く気泡が湧き出て、それが一粒一粒銀河の星の輝きとリンクして、回転しているの。その星星の回転が少しでも乱れていたら、一つ一つを指でそっとつまんで、正しい場所へと戻して行く作業をすればいいのよ。精神を操る事も同じ。」
繊細に、ぽろん、ぽろんと弾き鳴らしながらメサイアは言い、王子は聴いていた。
夕暮が、夜へと突入を始めていた。
暖炉に火がくべられ、彼女達はしばらくすると野外に出た。
庭を歩いて行く。
夜は闇に落ちていた。静かで、風すら今は無かった。コートと帽子に身を包み、二人は肩を寄せ合い歩いて行く。
甘い香りがする。今日のメサイアからは……。
雄狼は、闇の中で目が光り、閉じられた事で光が落ちた。
また開き、メサイアの背を追った。自分の野性的な匂いが、甘い香りに変えられていた。雄狼は横にいる小僧を見て怒りを覚えた。メサイアにも。
悲しくなり、雄はその跡をつけ始めた。
メサイアは体中の神経が騒ぎ、雄の存在を嗅ぎ取った。
メサイアのために獲って来た小鳥が、うつむいた雄の口から芝生に落ちた。
彼女が振り返った瞬間だった。
「!」
王子は驚き、目を見開いて口を開いた。メサイアは狼が飛び掛ってきたから見上げ、芝生に転がった。
狼は唸りを上げ、メサイアの襟元を噛んで自分に服従させようとした。腹の上に乗って来て、メサイアは重くてがっしりした雄の長い足を掴んだ。
「待って、分かったから」
王子は、まるで獣の様な唸り声を上げたメサイアと、その唸り声にメサイアの腹から降りた狼を見て、瞬きをした。
立派な狼が凛と立ち王子を見据え、メサイアが言った。
「ごめんね。狼はあたしの彼氏なの。浮気がばれると嫉妬深くて」
「………。?」
王子は瞬きをしながらハテナを飛ばし、狼がメサイアの体に体をなすりつけている姿を見て、腰が抜けていたのをゆっくり立ち上がった。
彼女が飼っているペットなのだろうかと王子は思った。
「今日はもう遅いから……」
メサイアがそう言い、狼が王子に対して殺気立つのを胴をしっかり腕で抱き寄せた。
王子ははにかみ、今日はまさかの巨大な狼が現れたために、頷いた。
「わかった。おやすみメル。今日もありがとう。楽しかったよ」
「あたしも。おやすみなさい」
王子は去っていき、狼はようやく目をメサイアに向けた。闇の庭の中のメサイアは、またフォルムが可愛らしくなっていた。雌らしく、いじらしさもある。だが、彼女の能力が高いことも分かっていた。共にいるべき雌だ。
メサイアは辺りを見回しながら、屋敷の自室へ狼を通した。狼はそれを始め嫌がった。でも、実際ヒトの体は寒さを感じているのだから、外に長い間はいることが出来ない。
メサイアは猫を他の部屋へやり、照明も消した中ソファーに座らせてずっと雄の胴に両腕を巻き、頬を乗せて目を閉じ、毛並みを撫で続けていた。狼はじっと暖炉の炎を見つめ続けていた。
メサイアは心落ち着き、ずっとこうしていたかった。
「何か食べたの?」
「小鳥を5匹獲った……」
「お腹、空いてるよね。一緒に今から狩りに行こう」
メサイアはそう言い、離れようとした。
狼はメサイアの服の袖を引っ張り、自分の胸部に頬を沈めさせた。もうすこしこうし続けていたいという意思表示のように。
メサイアは再び座り、ボリュームのある毛並みの胸部に頬を寄せ目を綴じた。
開いて、炎を見つめた。頬が熱い。遠くの炎のためじゃ無かった。しばらくずっと、寄り添い合っていた。
星座が夜を描いている。メサイアは星の記憶を辿りながら足を進めていた。いつでも夜、森を歩くときは、星の位置と、月の翳りの色合いと、匂い、木々の記憶を頼りに歩く。
雄は気配を探りながら森の中を歩いていた。
夜はリスとかは木の上にいる。小動物は巣の中だ。
雄は止まり、耳をそばだてた。体を低くし、近づいて行く。
一気に飛び掛った。
背を戻し、振り返り歩いて来た。
メサイアの足許にムササビを放った。
「お腹すいてるんでしょう? いいのよ」
雄はしばらくムササビを見ていたが、それを食べた。大きな獲物を食べたいが、ここにはいなかった。
メサイアは狼に寄り添って歩きつづけ、木に背をつけ座り、狼の頬に頬を寄せて闇を見つめた。
自分は、狼のDNAを注入されていた。未熟児で生まれて間もないカプセル育ちのうちでの事だった。完全に形成され尽くしていたわけではないうちに、組み込まれた。複雑に。
自分の存在が不確かになる時がある。時々。
崇拝をしている時、落ち着いた。リラックスした。今、雄にこうやって寄り添っている時、同じ安堵を感じる……。
「バレエ鑑賞にパーティーにエステに海にレース観戦?」
バレエ教室の友人のバリムがにっこり微笑み、コーヒーゼリーをスプーンですくい魅力的に微笑んだ。
「5人くらいで行こうよ。絶対楽しい。可愛い男の子とだってパーティーで出会えるわ」
「バリム、付き合ってるじゃない」
「喧嘩しちゃったの。だって、ヨハンったら!」
バリムは頬を怒らせて、ゼリーを口に微笑み運んだ。
「メルも、王子と仲いいけどどうなの? まだ友人止まりで許してあげてないんだ」
「だって……友人だもん」
メサイアは元々カールしていて、長くて厚いまつげに、マスカラをつけながらそう言った。
ぱちぱち瞬きをして、ウインクの練習をする。バリムが彼女のスツールの横にきて椅子に座った。
「ねえ。王子って一緒にいてどう?」
「彼も自分を制御してるのよ」
「なるほど」
バリムは宝石箱からブローチを出し、鏡にかざした。
「こうやって選びたいんだメルは。でも、さいきん元気ないよ。どうしたの?」
恋焦がれて仕方が無いからだ。あの雄に。
自分はヒトに変わり無いから、それが寂しかった。
「リゾート地でいっぱい遊ぼうよ」
もしも、自分が全てを捨てて、お洒落する事だとか、お洒落な部屋だとか、パーティーとか、ショッピングとか、お散歩とか、習い事とか、鑑賞とか、音楽とか、全て捨てて、狼の元へ行ったなら、どうなるんだろう。
セスナとか乗らなくなるし、優雅な飛行船の旅もしなくなるし、でも、それでもいいわ……。
でも、実際自分はヒトだ。狼じゃない。
どんなに恋焦がれたって、彼も恋焦がれて来てたって、狼とヒトの違いは越えられない。
メサイアの頬杖を着く目が、またぼうっとし始めていた。
「分かったわメル。そうしましょう」
「え?」
「恋しちゃったんでしょう?」
彼女は厚い唇をきゅっと結び、頬を染めた。
「お昼休みに、あなたがスケッチブックを持って森に行くこと、わかってるんだから。もしかして、素敵な男子と毎日待ち合わせしてるんじゃない? クラブはなんの子?」
バリムは伏せ目でそう聞いて、金髪を綺麗にとかし始めて上目でくるんとメサイアを見た。
鮮やかな濃い赤のチューブで裾の広いバリムのドレスは、彼女の頭につけられた黒のカチューシャがよく似合う。ダークブラウンのタイツも。彼女の首からは黄金の平らチェーンと、丸いペンダントが胸部に下がっている。
メサイアが、最近清純な乙女になっているからバリムは微笑んで聞いた。
「年上の人が好きだものね。メルって。男らしい顔で、いい声してて、オーラがある人。だから、綺麗目な顔の可愛い王子はタイプじゃ無いかなっておもってたんだ。前だって、先生とか、ジャビルのパパに色目使って」
「だって、素敵だったんだもん」
メサイアはクッションを抱え、身を乗り出した。
「素敵な人とか、可愛い男の子って、ついつい意地悪したくなっちゃうの」
「メルってば」
バリムは微笑み、メサイアも微笑を浮かべた。
時々、メサイアの微笑は、何かを含ませた。ヒト的でない、途方も無いなにかのこと。
3.メサイアの揺れる心
今日は専属の美容師を屋敷に呼んだ。将来、自分が考案した美容法でヘアエステもしたい。絹のようなこの美しいプラチナ髪。
一生を添い遂げたい……。
メサイアは鏡の中の自身を見つめ、そう思った。
あの雄と、それが本当に出来ないのかしら。どちらにしろ、森にいたら狼は生活できない。あの森は、狼には狭すぎる。獲物もいないから。それに、街中でもある。
いずれ、彼は帰ってしまうわ。そうやって離れるのは嫌よ。
メサイアはクッションの上に手を置かれ、香油で綺麗な手をマッサージされていた。
目を閉じる。
危険が多い。本能は、獲物が少なくてもある程度なら耐えていけると分かっている。サバイバルの世界で、頭も働かせないと。でも、一生を雄とだけとは過ごせない。子供を生めないから、正式なアルファの雌が今に出現する。
その時、雌や生まれる子供は自分の存在を受け入れないわ。だって、ヒトだから。
メサイアは肩をたたかれ、目を開けた。
「お嬢様。お電話でございます」
執事がそう横に現れ言った。
王子かしら。友人かしら。
「ありがとう」
オイルを綺麗に拭き取り、受け取った。
「ハアイ。可愛いメル。久し振り」
「あら。ごきげんよう」
クルーザー王の令嬢だった。十七の年齢のCCキラだ。
「あんたの友達がどうやら、あたしに会いにくるみたい。その話よ」
「そうよ。海で思い切りクルージングするってね。遊びまくる計画」
「パーティー、セッティングしておくわ」
「本当? ありがとう! 思い切りお洒落なパーティーがいいわ」
「どんなヤングパーティーがお好みかしらお嬢さん?」
「いろいろな風船を空間に浮かせて、植物もね。綺麗な珠も浮かべて、そして動物も多く離して。縞馬とか、ライオンとか、テナガザルとか、黒豹とかいろいろ。ティーンエイジャーのパーティーにしてね! 料理はピンクとかイエローとかホワイトとかの色で統一して、たくさん可愛い花もちらしてね。サプリ野菜とかフルーツのジュースもたくさんお願い。青い海の見える白いお屋敷がいいわ。大きな窓から出ることが出来て、その会場。プールにはしっかり金プレートから風船を浮かせてね。チョコレートと薔薇のお菓子、それまでに作って送るわ」
「OKキュートなメル。任せてよ。メルの頼みなら何だって出そうじゃない」
「ありがとう。あ! 始まりと終わりは、水色の空にピンク色の煙幕で飛行機雲をお願いね」
以前、セクシーなパーティーを催したときがあった。黒と青紫の空間に銀の光が暗澹としたジャズの空間に光り、ワインパーティーだった。もちろん、十二歳のメサイアはお酒は飲まないので、グレープジュースだったのだが。チェスとか、カードとか、ビリヤードとかをした。色っぽいジャズが流れて、美しい男に躍らせた。いろいろな提案好きなメサイアは、パーティー、服、装飾、インテリア、エステ、美容、空間、さまざまなデザインが好きだった。
メサイアは受話器を渡し、うきうきした。エステも楽しみだわ。みんなでいろんな所に行こう。
その間は、雄や王子とちょっとの距離。
「………」
メサイアは雄が絶対に人前に出たがらないことは分かっていた。本当は他の動物たちに紛れてパーティーにもぐりこませたいけど、何が起こるか分からないし、雄が人前に出たいなど言うわけが無い。
今回は一週間という短さの旅行だ。
ああ、また頭は雄のことばかり。
でも、何故、狼のDNAは持っているという特殊な体といっても、わざわざ自分の所まで来たのだろうと、メサイアは思った。遥々来たのだから。
山や森林には他にパートナーとなるべく雌はいるというのに。
マッサージとパックを終えた手に、金箔とプラチナ箔入りの薔薇のハンドクリームが塗り込まれて行った。
「遠くへ行くの」
森の中、メサイアは木を背に座り、狼の胸部に頬を乗せて言った。
「離れるという事か? どこかへ狩りに? あの小僧との子供を産みに行くのか?」
「違うわ。いずれ戻って来るから」
狼は煌く泉を見て、遥か遠い空を仰ぎ見た。
「俺は帰る」
メサイアは驚き、狼の胴に腕を巻いた。
「そんな……嫌よ。あたし、帰って来るのよ」
「俺は待ってる。その間まで、他の雌とも関らずに、狩りをして待ちつづける」
狼が立ち上がったために、彼女は首を振りながら嫌がった。
「だって何処から来たのか分からないのに、」
「俺の声を覚えていろ。俺の匂いを覚えていろ。俺の姿を、顔を」
メサイアは狼の目を見つめた。
「俺も、お前の気配も、お前の顔も、お前の声、匂い、全てを、お前を、忘れない」
狼はメサイアから視線を森の木々に向けた。心も、変らない。それを伝えたかった。
狼はメサイアに体をすり合わせた。メサイアは泣いていた。その彼女を見上げ、狼はメサイアが目に当てたハンカチを口で奪い走って行った。
真っ白の狼が、風の様に疾走して行った。
メサイアは駆け出した。
「待って! ねえ待って!」
そんなことされたら、二度と会え無い気がしてメサイアは必死に追いかけた。
それでも狼は振り向く事無く、とまることも無く走って行ってしまう。
何度も白い毛皮が木々の間に見えては消え、現れてはどんどん小さくなって行ってしまう。メサイアはミュールが脱げてしまっても葉を振り払い走り、タイツが破れてしまっても走りつづけた。セットした髪の装飾も煌き飛んで行き、肩から上着が落ちてもそのままに、涙で消えては流れ現れて走って行く。
追いかけて、見失いたくなくて、メサイアは叫んで転んだ。
顔を押さえ泣いて、すぐに体を起した瞬間だった。
白い影が、伸びた。
「メル」
「あんた……」
顔を歪め泣いて、狼の胸部にがっしり抱きついた。
「あたし、1年後に絶対にあんたのところに行く、だから待ってて。絶対絶対待ってて」
狼は異常な程体が熱いメサイアの頬を舐め、頬を摺り寄せた。
狼はメサイアから離れ、ゆっくり、彼女を振り返りながら、何度も振り返りながら緑の中へと歩んで行った。
メサイアはずっと、小さくなって行く彼のことを見つづけていた。
太陽の陽が射し、彼等の間に降り注いでいた。木漏れ日を越え、雪も越え、今に会いに行く。
4.エジプトの国王
メサイアは黄金に煌くパーティーホールで、国王に紹介されていた。
その立派で大柄な国王は勇ましい方で、メサイアは気圧されたものの、母の横で綺麗に微笑んでドレスの裾をひき、おじぎをした。
「ご機嫌麗しく陛下。わたしはムソン一族の長女、メル・ムソンです。陛下にお初にお目にかかれて光栄です」
国王は雄姿たる姿で小さな姫に微笑んだ。
母は国王に微笑み、そしてメサイアの肩を優しく撫でた。一瞬、メサイアの母と目が合い黄金のオーラを静かにさせ、見つめ合った。
母は頬を染まらないように意識しては冷静に微笑んだ。
メサイアも、そしてやはり国王も知らない事だった。彼女が自己の血を受け継いだ子供であるという事を。一生、知らせる事も無いはずだ。母は心にそれを仕舞い鍵をそっとかけた。
相変わらず美しいムソン夫人だ。
国王は小さな背を見つけ、そして微笑み歩いて行った。
「町が一望できるだろう」
メサイアは国王を見上げ、にっこり微笑んで頷いた。
「ええ」
大きなアーチ型の中に、親子は同じベンチに座り見渡していた。風が暖かく吹いては、メサイアのまとめられた髪を艶めかせている。
大きな目をした横顔は、何かを考えている様だった。きっと、お年頃の少女なりに様々な悩みや考えごとを抱えているのだろう。
メサイアはずっと悩みつづけているのだ。堂々巡りの悩み事だった。将来、本当に自分は狼の元へいくことが許されるのだろうかという事。母を悲しませないだろうか。驚かせないだろうか。自分は成長するまでを待てるだろうか。狼はメルのことをずっと思ってくれているはずだ。様々なことを……。
メサイアは顔を上げ、横にいてくださるととても安心する国王を見上げた。
国王は微笑みメサイアを見て、彼女も微笑み町を見渡した。
「素敵な国。エキゾチックで、まるで豊かな水源と妖艶な宴の国のよう」
「ああ。私もこの国と国民を愛している」
メサイアは嬉しそうに微笑んだ。
ロシアの風景とはまったく異なる異国の風と風景が、彼女の心を悩みの中から一時を救い出し、解放させてくれた。
メサイアはもっと下を見ては、城を護る逞しい衛兵達を見た。興味深げに槍だとか、甲冑を見ている。
彼女の目はとてもいい。
「乗馬や剣の試合を見ることが好きだという話を聞くよ」
そう国王はいい、メサイアは笑った。
「女の子なのに、とっても好きなの。見ていると鮮やかさだとか、鋭さや激しさに魅力を感じて。闘争する本能というのかしら」
「ああ。分かるよ」
国王もそうだった。剣の試合にも彼自らが出場するほどだ。彼は剣豪でもある。
「良かったら、共に剣の修行場まで来るかい」
「本当?! 嬉しい!」
ロシアにはそういった場所が無い為に、メサイアは大喜びだった。
手を繋いで歩いて行く。
城の者や衛兵が彼等にお辞儀をしていき、メサイアはほがらかに歌っていた。
濃い青の空は鳩が飛んでいる。異国情緒溢れる香りまで時に流れて来た。太い柱の立ち並ぶホールの中、巨大な香炉から、立ち昇っている。濃い緑の木々がアーチ窓の向こうに空を彩っていた。美しい巨大な盃には水とバラが浮いている。
頼りある国王の手を握り、メサイアは噴水をきらきら光る瞳で見つめ歩いて行った。
感性が似ているという事か、他人の様に思えない親近感があり、メサイアは嬉しくてつい考えていることさえ喋っていた。
雲の無い青空は、どこまでも乾いた気持ちいい風を乗せてくる。
「好きな人といつか、一緒になるまでってとっても心が切ないのね。水面みたいにうつろっているの。手でつかみたくて伸ばしても、つかめなくって、そして水面は鏡じゃなくなるの」
国王は小さなメサイアを見て、また噴水を見た。
「その人の事を愛しているんだね。メルは」
「そうなの……。遠くにいすぎてあえないけど、実感は存在感が直ぐ横に感じる安心感があるわ。仲間、なの……」
国王は優しくメサイアの背を撫で、メサイアは微笑んで見上げ、肩を抱いてくれる国王を見た。
「いつかはその人のものになりなさい。君の幸せの為に、その人の幸せのために。愛し合う時間の幸せは、とても素晴らしく尊いものだ」
「はい」
頬に柔らかい光が反射し、メサイアは気持ちが晴れてきて大きく頷いた。
剣の修行場にやってきた。
その勢いと熱気にメサイアは胸を躍らせ、目を輝かせた。
小さな拳を握る彼女は、心を爛々とさせ、
夜の宴は実にいい。
アーチの窓外は星が煌き黒色で、フルーツや料理の並ぶ絨毯上の床は色とりどりで、アーチを背に玉座の国王はサイドに客を置き、宴やハープや竪琴、踊りと葡萄酒を愉しんでいた。
黄金粒子の煌くような琥珀黄金の宴は美しい。
踊り子達は艶めかしく踊り、メサイアは目を輝かせていた。
5.旅立ち
十一月四日に十三歳になったメサイアは、この時を待ちわびた。
髪を結わえ、まとめた。
屋敷の中を充分見回し、腰にはジャックナイフとか、薬とか入った革のポーチ。縄を腰に巻いて鉤に引っ掛けた。手には厚手のグローブ。
黒革のパンツと、ランニングと、ヤギ毛のジャケット。ブーツ。それに帽子。
メサイアはスケッチブックを見つめた。
1年前に離れた雄の何枚にも渡るスケッチだ。
凛々しくて、勇ましくて、涼しげで、冷静で、低い唸り声がとても渋い。野性的な獣臭や、毛並みのボリューム。忘れた事なんか無い。あのがっしりした体格も、脚も。
メサイアは意を決し、猫を抱えて歩き出した。
「リバコフ。今日でお別れね。今まで楽しかったわ。ありがとう。ちょっと、メルはお屋敷を離れるの。寂しがらないで。愛する彼に会いに行くから、あたしは幸せ」
そう胴を抱えて言い、そして大理石の床におろした。
「メサイア? あなたは、どういう事なの?」
「………」
メサイアは母の声に飛び上がり、ゆっくり振り返った瞬間だった。
「メサイア!」
彼女は走って行き、ポーチにいさせておいた馬に飛び乗った。
「ハア!」
思い切り馬を走らせて行く。
ことの事態に母は驚き、ボディーガードに連絡を渡した。
黒塗りの高級車が屋敷から流れ出し、馬を追いかける。
「掴まってたまりますか!」
メサイアは無我夢中の馬を走らせ高級車が駆けつけるのをその背に乗り蹴散らしては走って行く。
ボディーガードはお嬢様を逃すわけにもいかずに必死におんぼろで追いかけた。
彼は狼だわ。あたしは人間。寿命で一緒にいられる時間の短さは分かっているの。でも、彼はあたしを探し出し、そしてあたしといたがった。
はぐれもののあたし。なのに、来てくれたのよ。あたしの元に、あたしの為に、彼は……。一つの人生で大切な時間を使い。
だから、絶対にたどり着いてみせる。
あたしの声の変らない内に。
巡り合って、一生を彼と添い遂げたいの。
メサイアは疾走させつづけた。
車両はそんな彼女の背を見つづけ、いつしか、スピードを緩めた。
あんなに真剣な顔をしたお嬢様は、初めて見た。彼女は王子との交際も断り、他の言い寄るジュニア達の誘いもなあなあに、ただ一人に会いに行くというのだ。
奥様にきつく物を言われる事はわかっていた。それでも、何かの力の働きかけか、ボディーガードはこれ以上追う事が出来ずに、ハンドルを動かす事も無かった。
母は煙管を目を閉じ深く吸い付くと、何度も頷きながら額を抑え、大振のアームチェア横に置いた。
金の置時計を流し見ては、冷めた媚態を含む顔つきの硬い頬を強張らせ、目を綴じた。
彼女は赤と金の配色の調度品の室内で、随所のキャンドルと暖炉のみに照らさせていた。指先が震え、目を開く。
もう時間は深夜の二時。あの子は、男と共に家出するために家を飛び出したまま帰らない。
王子が心配の連絡を昼に寄越したものの、どう答えろというのか。心配いらない。いずれあの子の事だ。気紛れで帰って来るはずと言った。
滑らかなドレスの肩に茶色の分厚いシルク帯がかかり、その中でルビーが微かに灯火を映している。
それが、あの子自身の母の心に残して行った心に思えてならなかった。自己のつける装飾品だというのに。
意思は変らないのだと。帰って来ないつもりであるのだと。緩い灯火が暗い部屋の隅々まで行き渡っているものの、闇が染み付いているかのように感じた。あの子は情熱的な子だ。一直線に進んで行ってしまう。
白く細い煙が立ち昇りつづけ、母はふと、目元を細長い指で押さえうつむいた。肘を掛けるアームにぽたぽたと涙が落ち、昼のうちには見せられない不安が襲う。
何を心配することがあるというの。あの子はあの子の道を選んだだけ。勝手気ままで自由奔放な子だもの。きっと、うまくやっていける器量もどこかにあるんでしょう。派手に遊んで、どこかのジュニアと結婚して、離婚でもして、パーティー三昧を口出しする一族から離れて愛に生きられれば万歳なんでしょうから。
そう自分は言って、放っておきなさい。と言っていた。
たしかに、それは当たっているだろうけれど、心の隅ではあの子を生甲斐に生きて来た部分もあったのだ。
元気で、悪戯ばかりしてきて、意地悪っぽくお茶目に笑って、落ち着き無くて、すぐにドジを踏んで、社交でも粗相ばかり。それをたしなめていても、あの子は心の救いだった。
どんなに冷静になりなさいといおうが、あの子は聴く耳を持たなく、どんなに利己的に、論理的になりなさいといおうが無駄だった。まるで、自分とは似つかない性格に、不安を覚える事さえあった。
いずれ、飛んで行くだろう事は分かっていたからだ。
どこのジュニアがあの子を連れて行ったというの?
本当に、帰って来る事はあるのかさえ、分からない。
毎日うるさく言いすぎたのだろうか。規律ある暮らしをしなさいという事や、秩序を持ちなさいという事。それを息苦しく感じてはいただろうけど、まだ十三の少女が意を決して……。
きっと、遊び感覚でいるはず。今頃、そのジュニアと共にセスナにのって夜の逃避行し、派手に微笑んでシャンパンでも傾けているのだろうけれど……。あの子の事だから……。
まさか、泣いて帰って来ないかが心配だった。それでも、厳しい世の中を分かってでも、無事に元気に帰って欲しかった。
彼女はゆったり立ち上がり、シルクを置くと歩き進んで行った。
不眠と夢を見ることで悩まされる彼女は、睡眠薬を毎夜服用している。数年前からそうだ。自己が妊娠し、そして出産後の判断があってから、夢に悩まされ恐怖していた。その為に、今回のことで更に不眠が酷くなりそうだった。
錠剤を飲み、彼女はドレスを肩から落とし、ベッドへ入った。
天蓋を下げ、闇の中を目を閉じる。しばらくすれば、眠りにつける。
愛した国王との我が子。
まさか、本当にこんなに早く飛んで行ってしまったなんて。エジプトの王子だけは避けて頂戴。あの子は自分のブラッドバイパスを分かっていない。
「ダ・スビダーニヤ」
メサイアは馬にそう言い首を撫で、馬を乗り捨て、葉の無い木枝の間を歩いて行った。
雪に覆われ、どこまでも続く世界は純白と黒だった。
馬を振り返ると、メサイアをじっと見ていた。
「スパシィーバ!」
そう手をぶんぶん振り、彼女は進んで行った。
凍てつく雪に覆われた森には、生物がいる。
巨大な鹿、リス、鳥、鷲、ミンク、熊、兎。
みんな美しい。森に生きている。
ある程度、刺激したりだとか空腹の獣に遭遇しなければ人間がそうは襲われないのだろうが、自分が狩らねばならない事もある。それに今は冬場だ。第一、熊などは強い。河の辺りにはいるはずだ。
どの森か分からない。どの山脈かも、どの山かも不明だ。でも、歩くことには自信がある。探し出すわ。
時々、群を成す狼達が狩りに出ている最中の遠吠えを耳にする。低く、心に響く声。
血が騒いだ。
彼女は白の世界の中、姿は確認できない事は充分分かっている狼の声を振り仰ぎ、歩みを進める。灰色の空は低い。
その空に声が吸い込まれて行く。声に答える遠吠え。重なり合うときもあった。
場所や状況を伝えているのだ。
彼女のプラチナヘアが風にゆるゆると翻った。匂いは、雪を払って引っ掛かれた木に鼻を押し付けなければならない。それや、その木の幹には獣の毛も着いているときもある。
一度目を閉じ、耳を欹てた。彼女はサクサク、という音に目を開いた。狐がトントンと飛んで行く。メサイアを見ると、一度首を伸ばし、背を屈めて慎重に上目で一歩一歩歩いて行った。そして、まるで心臓がひっくり返ったかの様に驚き、一気に走って行った。
一瞬、メサイアの目が獲物を追うかのような目になり、唇を閉ざしたからだ。
丸めた背を正したメサイアは、淡いピンク色の唇を突き出させた。
彼女は歌を歌いながら歩いて行く。彼女はくるくると回り、『ポーリュシュカポーレ』の澄んだ声が響いた。
「誰よ。あんた。新参者ね?」
メサイアは雌狼にそう唸られたのを、顔を上げた。ヤギ毛のジャケットの毛が舞った。
鋭い声のその雌は、その一瞬で雄狼に取り押さえられた。
「何故よ!」
雌はそう唸り、メサイアを上目で睨んだ。雄は雌から降り、メサイアをまっすぐ見つめた。崖の上から雄は駆け降りてきて、共に雪も舞った。
雄は充分メサイアの周りを回ると、匂いを確認した。彼女は雌の方に意識を飛ばした。
「妻なの? 攻めないわ。そうしなければならない事は分かってる。必要なことだから」
「子供はいない」
まるでそれは、雌が雄にどうしても着いてきたくてついて行きつづけている風もあった。
美しいその雌狼は、灰色の毛並みをしていた。利口そうな顔つきで、警戒して奇妙な形態なのに雌狼の気配も感じるメサイアをじっと見ていた。
「大丈夫よ。なにもしないわ」
メサイアはきっとここを去ることが正しいと思って、ゆっくり背後に歩いていく。
雄狼を見ながら、そして背を向けて、何度も何度も振り返りながら歩いて行った。
「番になれたなら良かった。だから、元気な子供の狼産んでね」
そういうとメサイアは小さく微笑んで、歩いて行った。
何度か雄狼を振り返りながら。
狼が一番好きな動物です。