6.アジャシンとカミーラ 少女・青年期(DDの両親)
7.アジャシンとカミーラ
今は壁に埋まっている超常現象を巻き起こす重度の麻薬中毒者アジャシンだが、元の青年時代はそれでも生気と正気があった。
エルサレムでの日常は、開放的なアメリカ女、カミーラと出会うまではアジャシンの中では感情上、滅亡の一途を辿っていた。
彼は心を保とうと崇拝に明け暮れ、ドーム広場に集まり、祈りを捧げては、他の若者達と共に他教と奮闘し、彼等自身や自らの心の拠り所を護ろうとして来た。
ユダヤとイスラムの混在する中、アジャシンは絶対に裕福な父親の屋敷には近づかなかった。
父親の屋敷には、秘書、執事、ボディーガード、使用人、メイド、庭師、厨房長、彼等はいたが、他にはブラディスは一人だった。アジャシンは、無宗教者でありイギリス人委託時代からいる父親の屋敷に帰りたがらずに、八歳になると完全に家出をした。
アジャシンが神への祈りでもなく、日常の戒律でもなく、酒を拠り所にし始めたのは、カミーラに出会う五年前からだった。浴びるように酒を飲み、そして西の異邦人から闇陰に流れてくる麻薬に手を出し始めた。
いつしか、線香の袋に交じり、それらは包まれ、そして十五のアジャシンは紙に巻いては麻薬の陰からの仲介人をし始めていた。
金をため、十六でカブを手に入れたアジャシンはおんぼろのそれに乗り込み、よく行動するようになっていた。色鮮やかな織物を大量に運んだり、香辛料の麻袋を運んだり野菜を運んだりとし始め、そのバザールで彼があった女が、金髪で、水色の瞳を持った異邦人の少女であり、十五の美女娼婦カミーラだった。
アジャシンは彼女に対し、激しいほどの衝撃を受けた。美しい顔つき。美しい肉体。美しい目元と声。そして、奔放であり、自由一眼な開放的空気感に、麻薬にすさみきるアジャシンには彼女自身が魅惑の救いを施す神に思えた瞬間だった。
アジャシンは巻き煙草も地面に落とし開いていた目を戻したが、その一瞬後に、嫌悪感が襲ったのは仕方が無い。
エルサレムでは異質であり、自己の父親にして異邦人でもあるイギリス人のブラディスを避け続け、アジャシン自身、西洋系白人に対する向きが冷たかった。白金髪に水色の目の生白い肌の女、カミーラは、いかにも享楽のみが浮かんでいた。
彼が闇で麻薬を卸す土壁に囲まれた路地で、夜、彼女を見かけたのはその日の事だった。
女神はアメリカ男の水平に寄り添い、悦楽したように微笑みまるで猫の様に、静かに鋭い目を向けてきた素敵な男、アジャシンを見た。鋭い目、ボーズの黒髪、高い背、均等の取れた体と長い腕、冷めた雰囲気と、殺伐とした何かのほかの人間には無い空気感。それは、一種の淋しさだろうか? 直感だ。
アジャシンは彼女の目を見ては、ついと流し反らし土壁から背を浮かせると、紫煙を引き連れ歩いていった。
カミーラは水平の腕を離すと、彼が他の現地の人間と話す内に歩いていった。
「ねえ、お兄さん? あたし、体綺麗。どう?」
そう魅力的な態でいい、アジャシンの腕を取ると彼は邪険に払って、教え込まれたのだろう下手なヘブライを話すアメリカ女を睨み見下ろした。
「恐い顔、アハハ! しないしない。それか、いいもの持ってる。これ、何か分かる? とてもいいもの」
それはアジャシンも見たことが無いような純白の代物だった。
一週間して、アジャシンの周りにはカミーラが常にいるようになっていた。アメリカ女に翻弄されたのだと、仲間達は愛し合っているらしいアジャシンとアメリカ女を見て、邪教の女に入れ込むことを軽蔑し始めていた。やはり、あの富豪の息子は息子だと、彼自身の存在を認めてやった事にたいして、白い目を向け始めた。
それでも、アジャシンはカミーラに惚れていた。その自分に無い感性、生き方、考え方、様々に。カミーラは何処までもアジャシンに尽くしてきたし、他の男から得たり、共にアメリカから乗りついた水平から物を盗って来ては、金に変えていた。
「あたしも父親、家、嫌で来た。ロサンゼルス遠い。でも、体綺麗売りたくて、逃げた」
かたことのヘブライは、気が強い彼女から発されるには、余りにも淋しげに聴こえた。
アジャシンは昼の彼女を元気付けるため、よくカブの後ろに乗せ走り回った。
「乗れよ」
アジャシンは横顔で笑み親指を向け、カミーラは笑顔になって彼の後ろに足をそろえ乗っては黄色の砂を巻き上げ走らせて行った。
共に酒をのみ、共に同じ葉を吸い、逃れたもの同士、寂しさを紛らわすために炎の周りで踊り、共に宗教でもユダヤの祈りを捧げ、酔っては、共に寄り添い、夜の星を見上げた。
透明すぎる星は恐いくらいに綺麗だ。
「あの星、アメリカにある。形同じ。なんだか、それとっても素敵。同じ空、見上げてたんだね……違う地」
片腕に抱えられ、白い煙が横に置かれた香炉からも立ち昇り、カミーラの言葉にアジャシンは無言で相槌を打った。
「宇宙が同じ」
そこにいるのだ。どんなに今まで離れていても。
放った足を猫がまたぎ通って行き、風が凪いでいて、そよとも何も動かない。
「あなた普段とてもクール。それ素敵よ。でも、たまに冷たい」
半分聞き取れなかったが、冷たいという言葉にアジャシンはカミーラの頭を引き寄せ、目を綴じた。
カミーラは甘えて目を閉じ、胴を抱きしめた。イスラエルの星のもと。
屋上。誰も居ない。猫以外は。どこまでも続く屋上の海。
星影の中のムスクが、月の光で浮かんでいる……。
徐々に、二人の関係が深くなるに連れ、麻薬の量も増えて行った。
カミーラが妊娠したのはすぐの事だった。
アジャシンは美しい布をカミーラに贈った。
子供を産んだり、育てることに対して特別な不安があったアジャシンは、自信など無かった。自分が子供を愛せるかが不明だった。それでも、言葉だけでは気丈に振舞っていた。
父親、ブラディスにはすぐに息子の恋人のことや、妊娠のことが噂で流れていた。アメリカ人の女が相手だとか、彼女にもユダヤの洗礼を受けさせたとか、カブで二人でよく走らせているとか、綺麗な布や綺麗な花を贈っているらしい事だ。
元々息子のアジャシンは、性格がブラディスとは違った。当然でもあるのだが、扱いづらいといえば、どう彼に対して接する事が妥当かなどの考えを与える余地もアジャシンは許さないまま、家を飛び出したのだ。
アジャシンの母親は既にいなく、彼を理解する人間は自分になりたかったものの、それを彼は他に求めた。それは仕方の無い事だったのだろう。
彼の屋敷に息子は寄り付かなかったが、定期的な親族会を友人のホテルのあるルクソールで開く際に、イスラエルにもその親族達は定期的に来ていた。話好きの使用人が言ったのだ。彼等に、アジャシンにアメリカ人の恋人が出来、その彼女が妊娠しているらしいのだと。
アジャシンを自分の二世にすることを半ば諦めていたブラディスに、親族達は再び声を掛け始めていた。その生まれてくるだろう孫に期待を向けるべきだと。だが、それはアジャシンが許さない事だろう。ユダヤの土地で育てさせ、そしてイギリスの血等ないと言いつづけているアジャシンだ。
カミーラ自身も、アジャシンの父親が偉大な人物だとは知らない。
快楽主義のカミーラは、子供が生まれることに楽観的だった。自分は十五で、生まれるとしたら十六で生まれる。若い母親だ。バン万歳じゃないか。子供が大きくなっても若く綺麗なままなのだから、現役でも体で稼いで行けるだろう。初産にたいする不安は他国でのことだ、多少はこれから出て来るだろうものの、カミーラは子供が出来たことが嬉しかった。
わりと生まれればやっていけるものだ。
アジャシンやカミーラは出産に対して、自らの親に無心するつもりは無かったが、カミーラが知らない地での出産を考え、少しは援助をアジャシンの親にしてもらいたいと言い出していた。
カミーラのためだ。アジャシンは頷いた。
だが、その前に薬をしこたまキメこんでからでなければ、アジャシンは父親に会いに行くことなど出来なかった。
というわけで、正気で無いアジャシンがブラディスの屋敷に現れた。
「………」
ブラディスは溜息をつき、頬に当てていた指を外し、組んだ膝に手を置いた。
「また麻薬に手を出したのか」
普段は笑顔が素敵で快活な性格のブラディスだが、十六の息子が通常の雰囲気でない状況で帰って来た事でその笑顔は途切れていた。
だが、彼の横に上目で屋敷の室内を、片眉を上げきょろついている少女を見ると、微笑んで手を差し伸べた。
カミーラは驚いて顔を上げ、男らしく微笑む紳士を見た。
彼女の目がハートになったのは言うまでも無い。まさか、ユダヤンであるアジャシンの父親がイギリス人で、しかもこんな大豪邸を持つ富豪だったなんて思ってもみなかった。彼女はスカートで手をざっざと拭き、そして手を差し出した。
「はじめまして。私の名はブラディス=オルイノ=デスタントだ」
「あたし、カミーラ。カミーラ=リアス=ハンソン」
「美しい子だ」
アジャシンをブラディスが見ると、彼はソファーに沈み、組んで揺らす足の膝に組んだ手を乗せ、他所を睨むように見ていた。
「どうもありがとう。英語が通じて良かった」
「ああ。そうだね。だが、それだと息子が機嫌を損ねるんだ」
「そうみたいね。でも、ヘブライってあまり分からなくって」
アジャシンは父親をぎらついたままの目で剣呑と見て、ブラディスは眉を上げ促した。
「頼みがある」
到底ものを頼む顔でも無いのだが。大人びて見えるアジャシンは、十六の年齢には見えなかった。世間でも、二十代半ばだと自らが言っている。
「子供が出来た。安全に産ませたい」
別につき返すつもりは無い。ブラディスはいつでもアジャシンがどんな理由を引き下げてでも帰って来ることを待ちつづけているのだから。男子供だから、そうは言わないのだが、心ではいつでも可愛い子には旅をさせるよりも、せめて成人するまでは屋敷にしっかりいつかせたいと願う。それが、子供が出来たなどとなれば大喜びだった。
ブラディスはカミーラを見た。カミーラは辺りを見回しては、豪華な花のアレンジをぼうっと見ていた。綺麗な子だ。見かけよりも、きっと物を深く考える少女だろう。横顔は意思の固いものを持っていた。話では、アメリカの輸送船に乗り、水平の相手をしながらも流れて来た街娼だと聴いていた為に、どんな子が来るやらと思っていたのだが、見かけの派手さに関らず、何某かのしなやかな強さを持っているように思った。
アジャシンがカミーラを見て、その胴に一度手を回した。
「………」
アジャシンの瞼を見て、息子の始めてみる表情にブラディスはしばらくアームと顎に手を当て黙っていた。愛情が二人の間に親密に折り重なり、覗いた。
すぐにアジャシンは顔を上げ、ブラディスは彼に微笑んだ。アジャシンは口をつぐんで目を反らし微笑まなかった。
「都合いい話だが和解するつもりはない」
ブラディスは未だに甘えて来るアジャシンの目を見た。アジャシンはしばらく反らさなかったが、カミーラが立ち上がった。
「う、吐く」
そう走って行き、メイドが慌てて走って行き、しばらくは帰って来なかった。
「アジャシン。生まれてくる子供をどうしたいと考えているんだ。お前のように麻薬漬けにするつもりか。子供は何も知らずに親についていくほか無い。道上で、途方にくれたお前達を子供はどう考える」
アジャシンは苛立たしげに煙草を出し、その手をローテーブルを挟みブラディスが抑え、真っ直ぐアジャシンの目を射抜くように見た。
「帰って来るんだ。お前達一家を見放すつもりは無い」
大人に見えても、実際麻薬に逃げる青年だ。未熟に他ならない。宗教という今までのアジャシンにとっての礎を欠いた彼には、カミーラという望みしかない。それでは、カミーラが大変になるだけだ。ああみえて、冷静そうだしいずれ子供も生まれればさらに強くなるだろう。
「俺は親父を認めない。これから先も絶対にな」
「それは私がイスラムの人間でも無く、ユダヤ教でも無いからか」
「ああそうだ。親父は俺たちから見れば余所者だ」
「………」
ブラディスは視線だけで一度うつむき、小さく頷くとすっと立ち上がった。アジャシンは顔を上げる事も無く、唇を噛み締めた。
「なんで親父はいつでも反論してこないんだ?」
凶暴な目をちらりと苛立たしげに覗かせたアジャシンは、ブラディスを睨み見上げた。組んだ足を揺らし、辺りを視線だけが見回してはアジャシンがまた癇癪を起こし、物を振り回す前にその手首を掴んだ。
「アジャシン。お前の名前をこうやって面と向かって呼べるだけでも私は嬉しいが、それでもお前を甘やかしたい向きがあるわけでは無い。母を失ったお前が一向に父親として受け入れないとしても、孤独にお前が生きて来たと思うだけでも、私の間違っていたお前に対する方向性をこれ以上は反らさせたくは無い。それには、今団結せずにどうするというんだ」
強くもたれる手首は痛く、今までアジャシン自身が逃げて来た屋敷と父親と今とをブラディスがつなげようと、しているかのようだった。
ブラディスの鋭いつくりの顔つきを見ては、アジャシンは腕を払い、ソファーに再び座った。
窓の外は、乾いた青の空が広がっている。開放的な爽やかさが、カミーラの瞳のようだった。
「あとはお前がどうするのかだ」
「俺は今まで親父の息子として生まれて来て辛かった」
空を見ながらそう言う横顔を見て、ブラディスはアジャシンの前に来た。
「それは重々分かっている。本当に申し訳無い。その為にお前を放っておくことしか出来なかったが、互いがこれからは一歩大きくならなければならない」
「分かってる」
「お前はお前だ」
ブラディスはアジャシンの肩をたたいた。
8.幼いディアンとデイズ
ブラディスの屋敷にはアジャシンはいなかった。やはり、寄り付かないままだ。
ブラディスは廊下を歩き、何かの気配がして立ち止まった。
「うお、」
ざっと避け、しばらくすると高い笑い声が響き渡った。ブラディスはそちらを見て、目を伏せ気味に背を正した。勢い良く飛んで来た割れた骨董品をスカーフに挟み拾っては、声の聴こえた暖炉の前へ進んで行った。
暖炉の中には、小さな二人が今日もクスクスと必死で口を抑えながら笑いをこらえていた。
「こらお前達は。物を大事にしない者は物に泣かされるぞ」
「べーっだ!」
小さな二人は利口そうな目元をし、小さな舌を出し、走って行ったが、髪がふさふさの子の方が暖炉フェンスに引っ掛かって転んだ。いつでも主犯は髪が短くバンダナを填めた子の方だ。とにかく機関坊で困る。屋敷に現れれば、全てがオモチャなのだから。
カミーラが出産した双子の兄弟だ。
転んで今泣き喚き、ブラディスが抱え上げた子が兄のディアン。それを見て大笑いしているバンダナの子が弟のデイズだった。
現在、四歳なのだがいろいろと悪事を覚え始めて困る。下町でもどうやら悪ガキで通っているようだ。カミーラは生活金のために娼婦を続けているし、アジャシンは頑として始めの内は子供を屋敷に預けたがらずにいたのだが、悉く赤ん坊に疲れさせられ、生活の足しにでもしようと割る居場所に手を出しつづけ、何か気に食わなければすぐに暴挙に出て仲間との喧嘩が耐えなく、抜けられなくなっては麻薬関係の仕事と麻薬に浸り、昼の仕事も薬中には勤まらずにどこもかしこも流され、仕舞いには双子が二歳の頃には常に酒か麻薬に酔う荒んだ人間になっていた。
その為に、二人の子供が物心ついた頃には、父親は正気な状態のときが無く、常に酒と麻薬が横にあり、凶暴に怒鳴り散らしていて、二人が悪戯をする毎に悪魔の様に怒鳴り散らし捕まえるとケツを狂った様に叩きつづけた。デイズが捕まったときは兄ディアンがアジャシンの背を蹴りつけ、ディアンが捕まった時には弟デイズは大笑いして走って行ったのだった。
「ディアンデイズ!! 何処に隠しやがった!!」
屋敷から帰って来た双子は、土で出来た壁の戸口の中で父親が叫んでいるので、立ち止まった。きっと麻薬が切れただけなのを双子がどこかに隠したと勘違いしているのだろう。とはいえ、二人でさえもよく目を盗んでやっていた。
彼等は顔を見合わせ、そのまま街に駆け出した。
ブラディスの屋敷に遊びに行くのは一日に四時間程だ。それ以外は、十二時間を下町で遊び、他は夜にどこかに出かける父親のいない土壁と戸口の中で眠っていた。
娼婦のカミーラが帰って来るのは四日に一度くらいだ。昼の内はずっと父親は家にいる。
始めのうち、知らない男といる母親を見かけたときは驚いた。父親にその事を慌てて言いに行ったディアンは、母親といる男に復讐に行ったデイズを置いて帰って行った。ディアンは父親がその事にたいして酷く不機嫌になる為に、もう二度と言わないと決めた。デイズは母親と共に他の男がいるのを見る毎に、その知らない男達に違和感を覚え、嫌で嫌で復讐に行っていた。
それが無ければ生活金がまともに入らないのだ。
アジャシンは双子が屋敷に行く事も許しているわけではなかった。それでもブラディスは屋敷に来させ、彼等は屋敷に遊びに行く事をやめなかった。怒鳴り散らしてばかりのアジャシンを避けていた事もあったし、ブラディスは様々な事を教えてくれた博識家でもあり、時々ディアンとデイズのことも短い航海に連れて行ってくれたからだ。
カミーラはだいたいは街角で壁を背にしていて、双子は違う場所で駆け回り、アジャシンは夜になれば出かけて行った。
ダイランとデイズ
六歳のデイズは船の中で、ずっと憮然としていた。激しく父親に拳骨されてたんこぶが出来ていた。だからおみまいに、アジャシンのケツにダーツの矢を投げまくってやった。
「どれ。頭を見せてみろ」
ブラディスは横に座ってデイズの頭を撫で、デイズは嫌がってバンダナを頭に巻くと、走って行った。
「昼にはアメリカに到着する」
小さな背にブラディスはそう言い、デイズは振り返った。
「俺、どうでもいいし」
そう言って向き直り、走って行った。デイズの口癖だった。
本当はそうは思ってもいないくせに、むしろ興奮気味だったりするといつでもそう言った。
ブラディスは苦笑しては丸い窓から青の海と空を見た。
デイズはディアンの所に戻って来ると一緒にパンを食べた。
「アメリカってモーリーじいちゃんがいる国だよな。初めて会うけど、かあちゃんに似て美人なのかな」
「かあちゃんに似てドキツイのかもしれねえじゃねえか」
「美人でドキツイじいちゃん? ドキツイわけだよな」
そのカミーラは甲板の先にテーブルセットを出していた。白い軽やかなドレスを風になびかせ青の海を背景に眩しい。そして、煙管の先から風で乱雑に煙が消えて行った。
確かに母、カミーラは美人だ。グラマラスで。
涼しげに海乃先を見ている。
彼女は昼になる前に、甲板から中へ引いて行った。
元々、カミーラはアメリカへ帰ることを嫌がっていた。父に会う事を拒みつづけているのだ。厳しいその弁護士の父から逃れたからだった。カミーラの性格からして、おとなしく落ち着くなど到底無理な話だった。放蕩を奔放に好む人種が、どう大学に行けというのか。どうまともに職につけというのか。冗談では無かった。
それでも親になり、妻になり、母になり、女として成長してきて、一度は会わなければならないのだ。同じ親をして来た父に。それは分かっていた。
中東では戦争のこともあり、アメリカにわたることになったのだ。
ディアンはまた一人でエルサレムの女の子のことを言いつづけていた。ディアンが好きだった子の事だ。その少女は黒いつぶらな瞳に黒髪がゆわれた子で笑顔が可愛い子だった。デイズは聞いていずに、ぐーぐー眠っていた。
アジャシンはまた海に落ちそうになっていて、船員が縄で胴を繋いでいるのだが、心もとなくおぼつかない。デイズはそれも放っておいていた。
デイズはちょこんと屋上に座り、缶の蓋をあけてイナゴを食べ始める。口にくわえ、もぐもぐ食べていた。甘く煮ているので、美味しい。柔らかいし。
こげ茶色の目をきょろきょろさせ、イナゴ嫌いのディアンに今日も投げるために仕込んだ。
だが、デイズは元気が無かった。
おなかを壊しているからだ。
たんこぶをさすり、ごろんと転がって横になる海を見ていた。風が小さな体を包む。音を体中で感じる。目を閉じ、輝く海をそのままに脳裏にインプットさせた。
細い体が吹き飛ばされそうになるが、ずっとそこにいた。
いきなり、ディアンの声が響いた。
デイズは目を開け、バンダナの頭をかいた。
甲板でディアンは縄で繋がれるアジャシンに獣のようにがなられていて、ディアンが逃げ回る先に、ぼんやりと陸が見え始めていた。
デイズは港に到着し、すぐに目が行ったのはなにやら煌びやかな街のほうだった。
今までみた事も無いような世界が広がっている。派手なのだ。見た事も無い色彩の群れで、それが動いている……。
それは夢の様な緑の街、アヴァンゾン・ラーティカだった。その横には広大な森林が広がっている。その向こうは風吹く緑の丘があり崖沿いに風車が立ち並んでいた。
ディアンはその街に大驚きし、目をまん丸にしては口を驚きのあまりぱくぱくさせていた。
ディアンやデイズが知らないもの、多くの樹木に囲われた建物の街はジェットコースターだとか、パイレーツ、回転木馬、サーカステント、鏡の迷路、遊園地キャラクター、オバケ屋敷、そういう未知の世界の物がそこにはある。
ディアンは自棄にそこへ行きたがっていて、デイズは「子供達が喜ぶところだよ」というブラディスの言葉に憮然とした。
「俺、子供じゃねえし」
六歳のデイズはそう言い、子供なはしゃぐディアンを見た。
ディアンは使用人に連れられ遊園地へ遊びに行ってしまった。デイズはブラディスが言う猛獣園に連れられて行った。どうやら繁殖施設を一部公開しているらしく、その繁殖させた動物も自然へと放流・放野させるための場所らしい。
「鷲とか鷹とか馬とか牛とか犬もいるのか? 大蛇は?」
「いろいろいるらしい。ほら。パンフレットだ」
デイズはさっきから何も言わずにいるが、明らかに目が爛々としていた。興奮しすぎるとデイズは頬が真赤になる為に、デイズの首に冷たいものを巻いて歩かせた。
全く見た事も無い世界は幼い子供には刺激的過ぎたのだろう。エルサレムで育って来た彼等に、このメリーゴーラウンドのような豪華絢爛な街は本気で森のミラクルワールドだった。毎日の様にパレードが行なわれ、木々が揺らめくなか街中にお洒落で個性的で派手な人間達が溢れかえり、街中がデコレーションされ、最新の曲が満たし、光りそのものであって、全ての欲求が充たせる街なのだ。色とりどりのその世界に包まれ、デイズは小さな体でキャーキャー行って走り回り始めた。
ブラディスの執事が駆け回るデイズを捕まえようとして追いかけるがいつもの様に予測不可能な動きでちょこまかするので、すばしっこいデイズを捉えられずにへとへとになって帰って来た。デイズは子供の様にはしゃぎ回っている。
猛獣園につくと、もう激しいほどにギャンギャン騒いでいた。繁殖され自然への放野前のライオン、虎、豹、鰐……初めて存在を知ったそれらの生き物に大いにはしゃいでいた。
「かっけー! すっげーかっけー! ほしー! じーちゃんこれほしー! おわすっげー! すげー!」
それを連発し続けていて、最後には何を言っているのか分からなかった。
デイズは猛獣達は買えないので、ブラディスから渡された大きな黒豹の縫いぐるみをもたされた。それを脇に抱えながら歩いていて、デイズはずるずる黒豹の尻尾を引きづりながら歩いて行った。
世の中にはこんな凄い世界もあるのだ。それを手にしている人間もいるんだ。
デイズはベンチによじのぼり座り、脇に黒豹を抱えながら上目で行き交う人間を見た。
「なんだこいつ」
デイズは振り返り、十歳ぐらいの少年を見た。
「その縫いぐるみ貸せよ貧乏! どうせ盗んできたんだろ! なんだよこいつズボンしか履いてないぜ!」
デイズはバンダナの下の上目を剣呑とさせ、その瞬間だった。
「きゃあテリー!」
十歳の少年の母親が駆けつけ、凶暴と化した危険な中東風の男の子は狂気そのものだった。息子を激しく攻撃していて、目が正気とも思えない。テリーはわんわん泣いていて、母親は警備員が駆けつけた為に泣き付いた。
テリーは保護され、デイズは殺気立った目で縫いぐるみを持ちに行ってベンチに座り耳に噛み付いた。
「デイズ!」
ブラディスがやってきて、デイズを見ると、乱暴者の孫の被害に遭った少年と母親を見て謝った。デイズは謝る事もせずにずっと他所を見ていた。
「何故いきなり喧嘩をしたんだデイズ」
「だってそいつが俺のもの取ろうとしたからだ!」
デイズががなり声を上げ、もうそれからずっと口を開かなかった。
充分謝ってからデイズを連れて行った。
デイズはリムジンの中でずっと黒豹を枕に眠っていた。
ディアンは使用人に手を引かれてリムジンに乗り込むと、大喜びでデイズの下から黒豹を抜き取ってデイズがシートに頬を落とした。
「あにすんだよ!」
「なんだよ俺にも寄越せよ!」
「返せよグリズリー野郎!」
ディアンはデイズが猛獣園で見た大きな熊のグリズリーの小型版のようだった。ディアンはデイズに顔をキックされたのをギャーギャー騒ぎ、リムジンは出発した。
「ええ~! 俺屋敷暮らしやだ! また下町がいい!」
「俺も! 行儀良くなんかいやだもん!」
「だがまともな生活をする必要がある。貧しく暮らす事は無いんだ」
「あたし、娼婦の仕事があるから辞めないわ」
彼等がそう言い始めると絶対に曲げたがらない。
その為に、アヴァンゾン・ラーティカのベッドタウンとなる隣の元街、リーデルライゾンにやってきた彼等は、その中でも最下層の地区、ハイセントルにやってきた。
「私は他の地区にある別荘で暮らす事になる。場所を後から教えよう」
デイズはこの貴族の街リーデルライゾン、七割方に木々が街を埋め尽くす間の屋敷が建つ街中を進んで行く内にも、じいちゃんちみたいな立派なのより小さい屋敷がぼこぼこ立ち並ぶ大きな道を見回していた。その場所は二流階級の人間達の住む地帯だった。相変わらず木々がいろいろ埋まっていて、各戸の庭も樹木が多い。よく品のある公園も見かけた。そこを抜けて行く。
徐々に、色味が目に馴染むような景色が目の前に広がり始めた。まるで巨大な扉開くかの様に。
「ここからがこに街のスラム地区になる」
デイズはスラブ建ての立ち並ぶ低層のそつない建物の群れを流し見た。色味が極めて少ない。モルタル壁と、地面の色のみだ。だが、空は青く、そして建物の間に数本立つ木々は緑が青い。
眩しい太陽が、挙っている。
デイズは心沸き立っていた。
デイズはリムジンから降り、そして一気にディアンと共に走って行った。
「こら待ちなさい。ディアン、デイズ」
リムジンの中で何やら電話をしていたブラディスは執事が追いかける双子達の背を見ては、リムジンから降りた。
以前、離婚した元妻がこの場所に来ると言う連絡だったが、正直、ブラディスがこのスラム地区に入る事ははじめてだった。最も、若い頃にこの街にいた婚姻時代には、このスラム地区は存在しなかったのだ。
元妻と別れてからは、この街をずっと訪れることは無かった。随分と、この街は変った。隣街が完成していて、元街であるリーデルライゾンも随分と様変わりしている。
その美しい元妻は、現在のこの街の地主であって、そしてアヴァンゾン・ラーティカを創った女性だった。上流貴族の末裔であり、自己で高級メイキャップブランドを立ち上げている。貴族達の間で評判がよく、いつしか近年を通し、一般向けにと高級百貨店でも展開し始めていた。
それまでは連絡を取り合う事は無かった。
一ヶ月前までは、何十年間も。
自分には新しい妻との息子、アジャシンも出来、孫も生まれている。同じく、元妻にも同じ様に新しい旦那との間に息子エナジーがいて、二人の孫がいるという噂だった。
相手もリムジンの中からの連絡だったために、いずれはやって来ると言っていた。
デイズはディアンと共に駆け回っていて、その背を見ているときだった。
「相変わらずじゃないの」
その声にブラディスは振り返った。初老女性がこの場にはそぐわないベージュの乗馬服姿で凛と立っていた。腰までのストレート髪はクリーム色であり、美しい顔立ちは瞳が鋭く輝いている。
「リカー」
デイズはブラディスと話し合う女を振り返った。首を傾げ、ディアンもその女性を見た。
「恋人かなあ」
ディアンがそう言い、デイズは視線に気付いて振り返った。
「………」
スラブ建ての間だ。路地裏に続く所。
そこには、まるで珠のような子がいた。黄金の珠のような……。
「………」
デイズは目を見開き口をあけ、走っていたのをとめ、その金髪ふさふさの小さな少年を見た。
まるで、新緑そのものの大きな瞳はつりあがっていて、大きな口の歯を剥き、ふさふさの金髪をぼうぼうにしていて、裸足に擦り切れた革パン、白のノースリーブの、三歳くらいの少年だった。
デイズとディアンのことを、まるで警戒する子犬のように血の気の多そうな目で睨んで来ていた。
デイズは衝撃を受けた。その存在に。胸がどきどきし、頬が熱くなって目の前が眩しかった。
「可愛い……」
そうぼそっと言い、そのちっちゃな太陽のような奴がどうしても欲しくて仕方が無くなった。
だから、ひとまず追い掛け回し始める事にする。
ディアンと共に走って行き、その少年は飛び驚いて走って逃げて行った。
「ギャー! ギャー! きゃー!!」
奇声を張り上げ少年は逃げて行き、デイズはその少年を捕まえて抱きつくかの様に地面に転がした。土ぼこりが舞って太陽によく焼けたいい香りがして、デイズはそのふさふさの金髪を見て暴れる少年を抑えた。
間近で顔を見て、デイズは口をつぐんで緊張し、だがその瞬間少年の頭をばしばし叩いていた。
「わああ! やえろよ! いたいだろ! バカ!」
三歳児にしてはよく喋るが、少年は六歳だった。
デイズは観念した少年の事がその時から好きになった。見た瞬間から好きになっていた。一目惚れだ。
少年はダイラン・ガルドと言った。スラム地区にあるバーの家の子供だ。祖父と親父と三人で暮らしているらしく、母親はいなかった。
だいたいは暴れん坊のデイズは喧嘩ばかりしていたり、悪戯ばかりしていたりで暴れまわっていた。逆にディアンがダイランとよくいるようになっていた。
引っ越す事になったボロい二階建ての改装が済むまで、カミーラは街娼をしてそのまま毎晩他の男の所に入り浸り、アジャシンはいつものように壁にもたれかかっていて、双子達を屋敷に招いていた。だがあまりいつかなかったのだが。
その為に、大体はダイランを連れてディアンはダイランの連れのところで寝泊りし、デイズは新しく自分で連れを作っていた。
デイズはダイランを可愛がっているというアングラ団体、レッドスネークのボスに、首根っこを掴まれ浮いた。
「あにすんだよ! 離せよ眉無し野郎!」
ボスがデイズをそのまま肩に乗せ、チビのデイズは頬をつくらめてボスの頭に手をついて顎を乗せた。
「ようユダヤの小僧。お前、最近ダイランやローランサンとよくいるじゃねえか」
「女となんかつるまねえよ」
ボスはくっくと笑い、歩いて行った。
「ダイランがお前の兄貴を俺等の仲間にしたいんだとよ」
デイズは、ダイランが自分には言って来なかったために不機嫌になった。
「ぜってえ俺入らない!」
そうがなり、ふんっと思い切り言った。
「お前、ダイランのことよく追い掛け回したり蹴り付けたりしてるようじゃねえか。お前のこと怖がってたぞ。ちょっとは可愛がってやれ。あいつは甘えん坊なんだぜ」
デイズは頬を真赤にし、組む腕に顎を乗せ、肩に乗る足をぶらぶらさせた。
「いいじゃん俺のだし」
「ダイランがか?」
「そう。俺のだ」
デイズはニカッと笑い、ボスの顔を覗き見た。
「俺、今にあいつにすっげえ良い想いさせまくるために絶対にのし上って王様になるんだ。それで、うまいもの一杯食わせて、あいつがやりたいこと全部やらせられるようになるんだ」
「へえ? お前、あいつの事が気に入ってるのか」
「え? べ、別に。俺、どうでもいいし」
デイズを見上げてボスはワハハと笑い、歩いて行った。
「ようチビ。お前は目に意気がある。ダイランもそうだ。きっと、大物になるぜ」
「当然だろ!」
デイズはそう言って肩から飛び降り、走って行った。
ボスはその小さな背を見て、フッと笑った。
ダイランがふらふら歩いていて、また麻薬にふらついていた。
二歳児や三歳児のようなダイランを見つけたレッドスネークのボスは、丁度横に来た団体の男、666にダイランを連れてこさせた。
666はダイランを抱き上げ、歩いて行った。
「また酷い混ぜ物でもやったようだな」
ダイランはうつらうつらしていて、丸い頬が火照っていた。
「いずれ、紹介出来る年齢になればいいんだが」
ブラディスは肩をすくめおどけては口端を微笑ませ、シャンパングラスを傾けた。
「双子のお孫さん達が、本当に危険な場所に居続けるなんて変った性格ねえ。ミスターブラディスの保護を受ければ、生活も潤うのに」
夫人は不思議がってそう頬にそっと手を添え、美しいピッタリとした黒のロンググローブの肘は、シルバーかかる丹念な繋ぎ合わせのドレスの丸い腰に添えられ、その直ぐ上に、真っ白の柔らかい上の上部を毛足の長い純白のファーが丸く囲い、覗く白の首元に六角形のブラックダイヤが光る。金の枠とチェーンで。まとめられたシルバーブロンドの髪は頭に黒ファーの小さな帽子を斜め前に乗せ、黒のはねがふらりと空間を指し、小さな顔の黒の唇をすぼめさせている。
彼女は崇拝の信者でもあり、今は他のトアルノッテにある屋敷会場で宴を楽しんでいた。
貴族達の中ではやはり、ミスターブラディスの双子の可愛らしい貴公子達、孫の話は知られている。彼等が変った事にも貧しい暮らしをしている事も、社交や交流の場にも出たがらないことも。
「今、お孫さん達はいくつ?」
「六歳だ」
「それならば、もしかしたらそろそろパーティーに出たがるかもしれないわね。愛らしい令嬢達もいるんですから」
「ミスターブラディス。将来のことを考えて、やはり、この辺で放蕩は控えさせて世のお勉強は場所を変えなければね」
夫人の夫がそう言い、遠くにいる自分達の孫を見た。
「交流会デビューが楽しみね」
実は、ブラディスは考えていることがあり、あの双子に許婚をつけることをしたらどうだろうと思っているのだ。それとなしに、ずっと屋敷に来させる後とにアルバムなどを見せ、彼等には世界中や街の貴族達の面子を覚えさせてはいるのだが、本人達が社交に興味を持たない。
イギリスの者達に任せてあるデスタント本家でも、双子達をあれ荒んだスラム地区の無いこちらに連れ戻させてはと言ってきていた。
「ミスター。本日も夜は」
黒の扇子で夫人は口元を隠し、ブラディスは魅力的に微笑んだ。崇拝の事だ。
ブラディスの別荘である荘厳な屋敷地下。
街の地主、リカーがバイプオルガン前にいた。その椅子には、ブラディスが腰を卸している。
松明が鉄の棒先で大きく燃えている。街貴族達は、クリーム色の長い髪が下ろされ、そして黒のドレスが柔らかく袖と裾を丸め広げるリカーの背を見ては、彼女が崇拝を執り行うときを待った。彼女はプラチナの剣を両手に掲げ見上げていては、その目元には黒く鋭利な形のビロードアイマスクが填められている。
ブラディスの広い背は、パイプオルガンに滑らかに、そして一瞬を置き重厚に激しく弾き鳴らされ始めた。
ちらりと覗く横顔の目元は鋭いアイマスクで瞼が閉じられ、リカーがその背後で顎を引き微笑し向き直っては剣を下げ、その滑らかなプラチナの光りが闇に光の絵を描いた。ドラゴンの爪を模したプラチナの束部分と、渦巻くプラチナの柄部分を持つ手は、黒のマニキュアが光る。
妖しい恍惚とした笑みを称え、パイプオルガンが激しさを増し頂点へ行ったと共に、剣が天に掲げられ崇拝が巻き起こった。
複雑な曲に乗せ袖のまくられた頼りある腕が動きベストの背が動いては、信者達のうねりのような低い祈りの言葉が揃って渦巻き発される。
膝を着く彼等は目元をマスクで隠し床を埋め尽くし、リカーが祈りの合間に崇拝する闇への掛け声をかける。
闇が彼等の蠢く波の様な上半身と共に松明に大きく影に映写され揺れ、そして掲げられる両腕の影が撫でる。その中心の段の上で、リカーが黒い翼を背にした悪魔の如く片手にプラチナ剣を持ち、両手をゆらゆらと天に掲げ撫でている。その影も揺れ、壁は松明の明りで光っている。
その横で松明に照らされる背でブラディスは巨大なパイプオルガンを弾き鳴らし、一瞬影が落ちてその頭に巨大な角が浮かび上がったかに思えた。
闇は常しえの暗黒かのようだ。
貴族達は完全に何かがキマッていて、狂乱するかのような低い地響きを天や地面、宙に上げている。
小さなデイズはそれを柱の背後から見て、眉を潜めていた。忍び込んだのだ。
異常な程の空気が濃密に充満し、充ちている。
なにか、美しい薫りがする。高貴であって、透明で、だがそこはかとなく濃密であり深い香りは、甘く、鼻腔にまとわりついた。
デイズは頭が多少ぼうっとし、その香りに包まれるとその目で再び会場を見た。
地面からぶくぶくと、真っ赤なマグマが湧きあがり、貴族達を中心から溶かし叫ばせ断末魔を上げさせる。リカーが猛り笑い、ブラディスが肩越しに悪魔の様に鋭く微笑し炎柱がホールを包んだ。
デイズは驚き後じさり、一瞬で元に戻った。幻覚だ。
シン、と、長くパイプオルガンが音を長引かせ、静かにブラディスは指を優雅に、空に浮かせた。
リカーは袖を翻し背を颯爽と向け、充分に信者達をブルーミングブルービューティーの香りとこの洗脳音程で気を昂ぶらせると、ブラディスの横へ来て肩に手を置いた。
一瞬、リカーの眉が寄せられ遠く背後の一点を目を見開きカッと射抜く。
デイズは影の中で驚き、そして柱の裏から影に紛れて逃げて行った。
リカーは目を細め戻り、何者かが侵入したらしい事に気付いた。
彼女は放って置き、緩く上目で微笑み信者達を見回し、「誘導」と「誘発」から、「覚醒」へうつる事にする。ブラディスはその曲を優雅に流れるように弾き始めた。
それにあわせ念仏能様な信者達の声が天井を響かせ木霊しては、空間を徐々に激しく圧巻していく。
デイズは狭い通路の中を走って行き、その声が不気味に追いかけてくる中を走った。だが、狂う寸前にも打って変わった清らかなパイプオルガンの美しい音色がデイズの背を撫で、不気味な事に、デイズは走りつづけて声を上げ転んだ。バンダナが飛んで行き、力が入らずに打った膝が痛い。デイズはバンダナを掴んで目元に押し付け目を閉じていた。体が痺れ硬直して動けずに。
追い討ちをかけるかの様に、破壊的な巨大な音を一度立てパイプオルガンが吠え、イカズチのように弾き鳴らされ貴族達の激しい 「狂気」 咆の哮が巻き起こった。
「享楽」とし、悲鳴と見まごう嬌声と、断末魔かのような悦楽の遠吠えと激しい高笑い……それが、甘い蜜のような唸りへと、落ちて行った。
デイズは背後を振り返り立ち上がって走って戻り、顔を覗かせた。
貴族達誰もが野獣のように全裸で、眠っていた。まるで、それが一つの銀河が回っている粒かの様にゆっくりと回転して思えた。その天井に、大いなる宇宙が渦巻き天体を宇宙ガスと共に広げているかのように錯覚する。
中には、まだ交わっている者もいた。しかも、最上に美しく、甘く蜜の様に。男と男。女と女。男と女。そうやって、最後を迎えると静かに「安静」の時へとヴェールの様に落ちて行き、丸まり眠りについた。白い肌も、全て。
それを、正気なままのリカーとブラディスが段の上にはいて、ブラディスは安静を促す曲をゆったりと弾いては宇宙と青を想像させ、リカーは鍵盤縁に腰と片手をつけて松明にワインを翳し、そのアイマスクの目元も全身も炎色に照らされ、横顔は悦として微笑していた。妖しくも。
そのゆったり回されるワイングラスが、鋭く炎色に白く光をまとっている。彼女の目にも、炎の天井先に宇宙が見えているのだろう事が感覚的に分かった。青の深さと共に。
ブラディスは鍵盤からそっと指を離し、横のリカーを見上げた。彼女は彼を見ては、静けさが流れた。アイマスクの中の瞳が互いに光り、それでも表情など無く、炎の音のみと鳴った中炎風が揺らし、リカーが首を伸ばしそっと、だが深くキスを交わした。
デイズは口を噤み、柱の後ろに戻って地面を見た。
「静寂」が、流れた。
「ようどうしたチビ助」
バンダナを填めた黒の少年はデイズだ。ブラディスの可愛い孫息子で、そのデイズが無言で夜のバーに入って来てカウンターの中に入ると、忙しく立ち回るマスタージョスの足にしがみついた。
「………」
ずっと暴れてばかりのそのデイズが、よほど何かがあったのかしがみついて来た為に小さな背に手を当てた。
今日はダイランは夜のバーにはいなく、ビールとウィスキー好きの気のいい常連達が飲んでいた。黒い影のような小さなデイズにはちょうど気付かずに、飲み交わしていた。
一瞬、消えたマスターにダイランの父親、ウィストマが会話を止めて顔を上げた。すぐに現れる。どうやら、レコードでも落としたのを拾ったのだろうとウィストマは思った。
マスタージョスはデイズの脇を持ち上げカウンター内のマスターの椅子に座らせてやり、そのバンダナの頭を一度撫でてから仕事に戻った。
デイズはカウンターの中からマスターがいつもの様に立ち回ったり、キッチンでつまみを作ったり、料理や酒を持っていったり、常連達と笑い話すのをバンダナから覗くこげ茶色の上目で見つづけていた。それやレコードの多く入る棚だとか、酒の瓶だとか、曇り一つ無いグラスの群れ、緩いジャズ音楽、談笑、会話、ソーセージの焼ける音、乾杯したグラスのぶつかり合い。
ずっと小さい頃から知っていたブラディスの一面を見てしまい、デイズはずっと琥珀黄金の光を反射し発する蓄音機を見つめていた。
戻って来たマスターは膝を曲げてその上に頬を乗せてぼうっとしているデイズの頭をなでてやり、デイズはマスターの顔を見上げてから言った。
「ダイランは?」
「ディアンと遊んでるか、Xの所じゃねえかなあ」
デイズは唇を突き出し膝を抱え、頬を膨らめた。
「何かあったのか?」
デイズは無言だった。身内の内緒は身内の内緒だ。デイズは首をぶんぶん横に振って、いきなり頭をボンボン叩かれたから顔を上げた。
「ようデイズじゃねえか。どうした? 爆竹みてえな機関坊が今日は静かじゃねか」
ダイランの親父、ウィストマがそう笑い、デイズは顔をぷんっと反らした。ウィストマはスツールに座り、デイズに言った。
「ダイランは今出かけてるぞ。そろそろ眠くなって帰ってくるかもしれねえけどな」
時間は夜の一時だった。
「ただいまーあああ」
デイズは顔を向け、娼婦にだっこされて帰って来たダイランを見た。ダイランは娼婦に降ろされ頬にキスをされるとニカッと笑い、入って来る。娼婦も入って来た。
「よう。送り届けてくれたのか。ありがとうな。飲んで行け」
「ありがとうマスター」
娼婦はマスターに色っぽくウインクしてから、ウィストマの隣に座り、ダイランがマスターの所に甘えに行こうとカウンターに入って来た。
「?」
ダイランは一瞬を飛び驚いてマスターの足にがしっとしがみ付き、上目で子犬の様にデイズを睨み見ては真っ白い歯を剥いた。
だが、デイズは椅子から降り立つと、ダイランの手を握り引っ張って歩いて行った。店の置くのドアにうんうん手を伸ばしていて、出てきた小さな二人を見て娼婦とウィストマは顔を見合わせ、ウィストマは立ち上がってドアを開けてやった。
「よう。悪ガキ二人組みじゃないか」
常連達がそう言い、デイズは顔を向けた。
「ガキじゃねえや!」
そう言ってダイランの手を引っ張って入って行き、階段を昇っていってマスターの部屋に入って行ってベッドに入ってダイランを抱きしめて目を閉じた。ダイランももう眠かったので、今日は追い掛け回して叩いてこないデイズにしがみついて眠りに着いた。
ぽかぽか温かいダイランを抱きしめて、デイズは目を開いてマスターの部屋を見つめた。目の前に狂い惑う貴族達の姿が浮かび、目を閉じてダイランの金髪の頭と背中を抱きしめた。闇の中に、悪魔のような笑い猛るリカーと、そして悪魔の様に覚醒を促すブラディスの背が浮かぶ。
ダイランは目を覚まし、ぼやける目でデイズの背を抱え込んで欠伸をした。デイズのほっぺにちゅっとキスしてやり、ふわふわの金髪にまた顔を隠して目を綴じた。
デイズは顔を真赤にして硬直し、口を一文字に結んで恐怖が全部吹っ飛んだ。逆に緊張して眠れなかった。そんなこんなで、気づかぬ内に三時になっていたのだ。瞬きして目を閉じれなかったデイズはマスターの部屋の様子が全て脳裏に叩き付けられたぐらいだった。明日も工場での仕事の為に遅くても三時には引いて行く常連達の後に、マスターとウィストマが店仕舞いをし、三十分にはマスターは二階の自室に上がって来た。
ベストを丁寧に畳んで椅子の背に置く。
小さな黒と金色の固まりを見て、頭を撫でてやると、それを避けてベッドに横になった。
デイズは一時間後も起きていて、ダイランに抱きつきながらマスターの眠る顔を見た。とはいえ、片腕を目元に乗せその方向の足を曲げて顔をそちらに傾けているので、顔は見えなかったのだが。
腕を伸ばしてそのがっしりした腕も抱え込み、落ち着いた闇を見つめる。
マスターは目を覚まし、意識をデイズに向けた。開く目に天井が映る。
「マスター」
デイズはあどけない声を掛けた。
「どうした?」
マスターは応えてやり、デイズは沈黙の後に続けた。
「マスターって怖いものあるか?」
彼は顔をデイズに向け、ダイランをぬいぐるみのように抱きかかえ、あちらを見るデイズを見た。その目は、今にも部屋の内装を映し出しそうな程強固として開かれ、空を見つめていた。