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3.アラディス 少年期イタリア時代(ラヴァンゾ一族)



■1921年■アラディス・レオールノ・ルジク 幼稚舎 五歳


 ★★★(1)演奏会★★★


 淡い水色の空の下。イタリアの北部である、街並が美しいミラノ。

貴族、ルジク一族の屋敷前の石畳。

アラディス・レオールノ・ルジク。彼は五歳の男の子である。

黒のタートルネックに黒いズボンの装い。黒の小さなガウンコートを着ている。真っ白のファーの手袋と耳当てをしていた。黒い髪の頭には、黒の毛皮の帽子を被っていた。

艶掛かる真っ黒の髪と真っ黒の瞳。それでもそれらは陽に輝いて笑顔が輝いていた。頬も唇も真っ赤で可愛らしい。柔らかく真っ白な肌は、雪の様に純白だ。

まるで黒髪と白肌の愛らしいビスク人形のような。女の子のように可愛らしい。

彼は、祖父に偉大なダイマ・ルジクを置いている。

ルジク一族の主、ダイマ・ルジクは、美術・芸術関係育成の学校、美術展示場、美術館、オークションハウス、サロンなどを構える著名な人物だ。

両親はというと、父がインテリア・建築のデザイン事務所を立ち上げている。母は、トスカーナにも別荘を持つ貴族、ラヴァンゾ一族から嫁いで来た人間だ。

「いらっしゃい。レオ」

アラディスは母に呼ばれ、走って行った。親しい者達からは彼は、時にレオの愛称で呼ばれていた。レオールノから取ったレオだ。

手を繋ぎあい、彼等の立つ屋敷前の石畳に、黒艶でシルバーの装飾が見られるエレガントな形の高級車が流れ込んで来た。そのドアが、白のグローブを填めた執事により開かれる。

慇懃に礼をする執事の横を、アラディスは母と共に乗り込んだ。

母の持つ皮製のバッグは美しいデザインで落ち着いた色をしており、母はそれを横に置くと、綺麗な足を組んだ。

今から彼等は、劇場へと向かうのだ。


 既に宵の口に突入し、街は夜の闇と、窓から差す照明、街路灯などの光に充たされていた。 

絢爛豪華な劇場へと、数々の高級車が到着し、石畳に光りを反射させて行く。

光り輝くような笑顔が車両から降り、劇場へと集って行く彼等から発されていた。

アラディス達親子も、執事にドアを開けられ、会場のある劇場へと入って行った。そして、黄金の光に彼等も充たされる。

アラディスの目は、同じ幼稚舎の友達、レッツォルノ・セルゾをホールで見つけると、嬉しそうににっこりと微笑んだ。

その子も微笑み返してくる。

アラディスはその子、レッツォが大好きで、母に許しを得ると、その子の元へ行った。

「レオ」

「こんにちは。レッツォ」

アラディスはそう言い、レッツォの横に立つ父親、セルゾのことも見上げニコッと可愛らしく微笑んだ。

レッツォの父親は、アラディスに微笑み、黒髪を撫でた。

「今日は楽しみだね。アラディス」

「はい。楽しみです」

そう礼儀正しく言った。

ほがらかな優しい母親と友人であるレッツォの父親は、やはり男らしく優しい。アラディスの、冷静沈着な父親とは性格が異なった。

母も他の夫人の友人との会話を一度終らせ、レオ、と呼び、奥へ進んで行く。

今日は、彼等子供達のクラシック演奏会だ。

執事がアラディスの小振りなバイオリンケースを運んで行く。レッツォはフルートを吹く。他の子供達も各々の楽器を持っていた。

ピアノを弾く少女が、廊下でレッツォの横に来て頬にちゅっとキスを寄せた。レッツォは微笑んで少女、マルネドーラと話し始め、アラディスはうつむいて、仲のいい二人を見てからレッツォの腕に腕を回して歩いて行った。

レッツォがマルネドーラの事を好きだということは分かっていた。

控え室に来て、彼等は小さなタキシードやワンピースドレスに着替えて行く。

早めに蝶ネクタイを巻きおえたアラディスは早くレッツォの横にいきたくて、気をそらしているので母はこちらを向かせる。

「マンマ。僕の靴早く出してもらって」

執事が小さな黒の革靴をそろえ置き、アラディスは真っ白の膝丈ソックスの足を絨毯の上の靴に通し、レッツォの所へ行こうとしたが、控え室を出て行ったレッツォの父親を横目で追い、やはりその後を走って行った。

「レッツォのおじさん」

レッツォの父親は振り返り、アラディスを見た。

「どうしたんだいアラディス坊や」

「お話が」

彼は首を傾げ、アラディスの手を取って歩いて行った。アラディスを廊下突き当たりスペースのソファーに座らせ、その背後は豪華なカーテンと、サイドに黄金も交える華やかな花がアレンジされている。その奥はアーチの上壁から金斑ネイビーの垂れ幕が囲うスペースで、今は中のセットは暗闇の中に閉ざされている。明りを灯され、垂れ幕を引くと、シガースペースになっているのだが、本日は子供達ばかりなので使用されないようになっていた。

生花からは芳しい透明な香りが漂っていた。エビ色石材のローテーブル横に来て、彼はアラディスの可愛らしい顔を覗き込んだ。

「言ってごらん」

アラディスは黄金のシャンデリアに輝く漆黒の瞳でレッツォの素敵な父親を微笑み見ながら言った。アラディスは彼の事も好きだった。

「僕、将来レッツォと、それにセルゾと結婚する」

ソファーのアームに手を掛けてアラディスを見ていたその彼、セルゾは瞬きした。

「え?」

聞き違いかと聞きなおし、アラディスはセルゾの長女、ミラのことを言っているのだろうと思った。息子レッツォはやはり男の子だ。

宣言したアラディスは聞き返した後にソファーの横に座ったセルゾを見上げ、嬉しそうににこにこしている。まるで、バンボラのように愛らしい子だ。

ミラのことの筈だから、五歳の男の子のまだ言葉がはっきりしない運びに相槌をうってあげる。

アラディスは満足してセルゾに抱きつき、腕に柔らかなほっぺを当てた。

セルゾは微笑んで甘えて来るアラディスの艶の髪を撫でてやった。


 演奏会は一部と二部に分かれている。

舞台の緞帳がサイドと上部に縁取っていた。巨大なシャンデリアの下の客席は美しく、ぐるりと囲うボックス席は優雅だ。幾つ物シャンデリアを囲う天井の絵画は見事なものだった。女神などの石像も優雅に清らかに微笑んでいる。

バイオリンのアラディスは客席側から左側のバイオリンスペースの中にいて、他の子達としっかりと座っていた。フルートは管楽器なので、半円を描く様に囲った中にいる。

グランドピアノは指揮台の横だった。アラディスとも近い。

指揮者が現れた。

小さなクラシック会が始まる。

ピアノ協奏曲だ。

アラディスは譜面にそって一生懸命弾いている。耳にフルートも微かに踊る様に響いていた。ピアノの部分が軽やかに響くと、アラディスはちらりと彼女の横顔と、暗闇の客席を見た。微かにシャンデリアの形が分かるぐらいだ。

バイオリンの部分で、他の子達に混じってアラディスが一瞬ひかずにいたが、遅れを取り戻して弾き続ける。

指揮者が片目を開けてアラディスを見て、アラディスは弓を操って引き続けている。いつでも気がどこかに行くアラディスは練習中もよくこうだった。すぐに練習にも飽きて遊びに行く為に席を離れてしまう。

アラディス達が奏でるのは、この幼稚舎を過去に卒園し、音楽学校に通う青年達が共同で描いた譜面だった。これは歴史ある恒例の行事である。

その客席の中、セルゾは横の席に据わっているアラディスの母親と共に、眩しく照らされる綺麗な舞台の中の子供達を微笑み見ていた。

「さっき、アラディス坊やにミラを欲しいと、正面から言われたよ」

微笑みながらセルゾは言い、アラディスの母親、ローザは足を組む腹部でいつものように手を組むセルゾの横顔をちらりを見た。

「ふ、レオったら。ませた子ね。もう婚約?」

「嬉しそうだったよ」

舞台の上のアラディスは、真っ黒で大きな目で譜面を見ていて、腕を動かしてバイオリンを弾いていた。アラディスが大好きなレッツォも赤の唇に銀のフルートを当て、嬉しそうに吹き鳴らしている。


 アラディスはセルゾに会いに来ていた。その為に、セルゾ一族の屋敷前に居る。

灰色の壁にアーチ型でローズウッドの扉。ルジク一族の執事は、扉に嵌る丸鉄のノックを手にした。

アラディスはウキウキし、深い黒紫色コートのポケットに赤革の小さな手を入れ、執事が請け負う事をまっていた。

扉は開き、使用人がルジク一族の執事と話し合っている。

招き入れられ、使用人はレッツォおぼっちゃまの友人、アラディスぼっちゃんに微笑んだ。彼もにっこり笑って歩いて行く。

執事は屋内に入ったので、コートを預かった。膝丈のグレーズボンをサスペンダーで吊るしていて、真っ白のアンゴラの丸襟セーターから、白のシャツ襟が覗いている。黒のローファーの足を進めさせる。

屋敷内は暗い感じであり、灰色のざらざらした壁が内部も続いている。円錐に高い天井はその先から厳かな暗褐色のシャンデリアを掲げていて、鎖の影にまるで何か不気味な鳥が止まっていそうだ。そのシャンデリアを中心に階段がぐるりと緩く壁伝いにある。その壁には、この屋敷の家紋である鷲と盾と交差するサーベルが、金百合紋章入り赤の垂れ幕に、金糸で縫われて掛けられている。

このホールの奥に見える間口の中はやはり、綺麗で風格ある調度品などがある。落ち着き払ったオリエンタルな風雅が窺える。他の煌びやかさのある室内も屋敷内には多くある。

アラディス達は一階の更に置くへ促される。廊下を歩いて行き、暗い壁からは窓から中庭が覗いていた。この時期は冬なので、薔薇やハーブなどの緑が光り輝いているわけではないのだが、初夏は実に美しい庭になる。今はそれでも、石畳が覗いては石のソファセットやゴンドラなどが綺麗だ。

進んで行くと、突き当たりの角を曲がらずに、明るい応接室に促された。

曲がった先は食堂だ。

アラディスはボリュームあるソファーにすわり、温かいジュースとお菓子を出された。なので、暖炉で温まる中を、頬を暖めて待った。執事は静かに立っていた。

「やあ。愛くるしいアラディス坊や。さっそく、ミラを貰いに来たのかい?」

「セルゾ」

アラディスはにっこり嬉しそうに微笑み、セルゾを見上げた。

「もうしわけないね小さな王子。ミラは今、レッツォと共に連れられてポニーに乗りに行っているんだ」

アラディスは聞分けが良く頷き、セルゾに横に座ってもらいたくて言った。

今日は二階の書斎で読み物をしていたセルゾは、すらっとした整った顔と整えられた髪でいつものように落ち着き払い、微笑んで横に座った。

いつもの様に、アラディスの父親は屋敷にはいずに仕事で忙しい。セルゾは本日、休暇だった。

オリエンタルヨーロピアンな趣向を持つのは、セルゾの妻で、さばさばとしたかんじの美しい女だ。アイラインを入れるモードな一重のその彼女はいつもミラネーゼらしく颯爽と黒革パンツスタイルで歩き、腰まで揺れる黒髪をポニーテールにし、綺麗なショートブーツがよく似合い、石畳を行くのだ。ショートジャケットもよく似合う。バイタリティのある彼女は、見かけに寄らずアジア旅行も好きであり、ボヘミアンな感じも好んだ。

レッツォとミラを二人生んだようには思えない二児の母だった。

性格もさっぱりしていて、貴族ぶる気配も無く、好感が持てる。細かく気配りや気遣いも出来る女性だ。

アラディスを見ると、いつでも爽やかに微笑み、そして黒のコートから覗くストッキングの足や、ハイヒールも鋭く、旦那の横に並ぶと何処までもお洒落で素敵な格好良い夫婦だった。

その妻は、若い頃はモンゴルにいたという変った経歴を持っていた。異国の風の吹く草原が好きな素晴らしい女性だ。

セルゾが妻にアラディスのことを話したら、微笑ましそうに聞いていた物だ。


 ★★★(2)誘拐事件★★★


 アラディスが、ダイマ・ルジクに手を引かれ百貨店に買い物に来ていた時だった。

子供モデルをやる男の子の巨大な白黒ポスターが目の中に飛び込み、アラディスはそれに駆け寄って見上げた。

ダイマ・ルジクはアラディスの小さな背を見て、ゆっくり歩いて行った。

「モデルなどはいけない。見世物の階級のすることだ」

だが、アラディスの耳には入ってなど居なかった。

「お爺様。この絵が欲しい」

「諦めなさい。お前が下等な職業などに憧れては困るからな」

アラディスは小さく頷き、俯いて手を引かれ歩いていった。

別にモデルになりたくない。でも、モデルになれば確かにああいうタイプの男の子がたくさんいるかもしれないが、ダイマ・ルジクの言葉は絶対だ。

もしも、屋敷に来させて自分の着る新しい服のデモンストレーションのためのモデルとして毎回呼びたいと言えば、許されるのだろうとは分かっていた。

また何度もアラディスは小さな肩越しに巨大なポスターを見つづけ、歩いて行った。

本日は、宴用の衣装を買いに着たのだ。本来ならば、百貨店などではなく彼等は専門店のVIPルームで買い物をしたり、屋敷にデザイナーを来させたり、専属のオートクチュールの人間に作らせたりするのだが、時々ダイマ・ルジクは孫を社会見学の為に連れて来ていた。五歳で自己で計算させ、カウンターで買い物もさせるようにする。宴にはどういった装いが必要か、その種類ごとに自己で選ばせるのだ。

買い物も一時済ませると、それを屋敷へ送らせ、昼食の為に料理店へ入る。屋敷で食事のときや、大人や同世代の子供達を集めた食事会でもするように、料理をマナーよく食べさせる。既に、何を言わずとも食事をする小さなアラディスは正しいマナーを身につけていた。

午後からは、屋敷の家族や友人達への贈り物を選ばせる。


 アラディスは、うずくまって目覚めた。体がどこか痛かった。ちょっとだけ痛いだけだ

顔をむくりと上げ、真っ黒くて多いまつげの下から当たりを見た。冷たい床の上で、室内はモルタルの質素な壁を、黒く塗られた木の枠柱で縊られていた。はるか上には円錐の先に窓があり、鉄のシャンデリアが掛かっていた。それは、実に精巧な鉄シャンデリアだ。

小さな体を起し、ダイマ・ルジクが居ない事で不安を覚えた。

夕食を終え、その後に再びリムジンに乗り込もうとした一番星の時間帯は、その後はオペラ劇場へオペラの勉強に向かう事になっていたのだが、覚えていない。美しい建築物の影を黒くさせ、空の色は鮮やかな宵口だった。

アラディスはきょろついて、同じ様に小さな女の子がうずくまっている姿を見つけ、駆け寄った。

「大丈夫?」

そう顔を覗き込み、少女は同じ位の年齢であって、顔は知らなかった。そういった友人や一族交流の中でも見ない。

階段があり、その下でも男の子が倒れていた。そこに駆けつけて、顔を覗き見た。その時だった。

階段の上の木のドアが開き、乱暴な声が聞こえた。

アラディスは怖くてがたがた震え、倒れた男の子にしがみついて目を必死に瞑った。

「ああ。身なりがどの猫共も良いから、相当のボンボン共だろう。良い身代金期待出来るぜ」

アラディスは何のことなのか分からずに、遠くで気絶している少女の方を、目を開けて見た。

その背後を男達二人が降りて来て、移動しているアラディスを見た。

「おい。黒猫が一匹目覚めてるぞ」

アラディスはいきなり項の襟をつかまれ持ち上げられた。巨大な目で頬のこけ落ちた男が、アラディスの目の前に現れた。アラディスは叫びそうになっていたが、声が出なかった。

「おい見てみろ。まるでこりゃ白黒のバンボラだぜ。高く売れるんじゃねえのか? 成長すりゃあえらい美人になる」

自分を人形呼ばわりする男が、いつ叩いてくるかも分からなかった為にアラディスは目をぎゅっと閉じていた。

いつでも、規則を破ったりマナーを間違えると、厳しい罰が飛んで来るのだ。ルジク一族は厳しい。

いきなり、叫び声が聞こえてアラディスは目を開けた。

少女がもう一人の男に酷い事をされて泣いていた。アラディスは降ろされ、腰が抜けて男を見上げた。少女の泣き声が響いていて、目の前の男もバックルに手を掛け、逃げようとした首根っこを掴んで来る。

「おいこのガキ、男だ。良く見りゃあ髪短いしズボン履いてるじゃねえか」

そう言った男の背後で腰を動かす男は肩越しにせせら笑い、アラディスは上目で男を睨んで動く男の所に駆けつけていき、その背を蹴りつけた。

男は青筋立てて動きを止め肩越しにアラディスを見て、アラディスは真っ黒の大きな瞳で、ダイマ・ルジクよりも恐く等無い男を上目で見た。

「なんだ、このガキ」

男は歯を剥き少女から離れチャックを上げるとアラディスの腕を掴んだ。アラディスはその腕を噛み、男に投げられた。

男の子の上に転がり、そのまま気絶した。

 目を覚ますと、犬用の首輪が鎖に繋がれ掛けられていた。

アラディスは窓からの黄色い月を、眩しそうに見て、石の床に頬を戻した。男達の声はしなかった。闇しか無い。月以外は。

ママやパパが助けに来てくれることをずっと願っていた。

寒い。

闇に慣れると、少女がうずくまっている。少年は見あたらなかった。

「起きてる?」

アラディスが声を掛けると、少女は首を横に振って意思を示したが、狸寝入りを続けていた。怖くて仕方が無いからだろう。男に酷い事をされて。

アラディスは少女の背を抱きしめてあげた。少女はぽろぽろと泣いていた。アラディス自身も震えている。怖くて仕方が無かった。

ダイマ・ルジクは今、何をしているだろう? 警察を呼んで探させているだろうか。逃げ出したかった。

円形の狭い筒の中のような場所にいるのだが、まるでここはどこかの塔の中らしい。すぐそこには、鎧戸があった。

アラディスは首輪を外したかったものの、それには鍵が掛けられていると少女が言った。

「男の人たちに、もう一人の子が連れて行かれたのよ」

少女が震える声で言い、アラディスはドアを見た。重い鎖は、重くて立ち上がることも出来ない。

まるで、サーカスで見た檻の中の猛獣の様に、行き場も無かった。少女の方は、足枷がつけられ、鉄球は二人の力を合わせても全く持ち上がらない。しかも、転がせ無い様にくぼみに填められていた。

ドアの先から、男達の声が響いている。女の声も響いていた。

男の子の泣き叫ぶ声もしている。

 ドアの先では、男達が男の子で遊んでいた。それを見て二人の女達も酒を飲んではしゃいでいる。

「もう一人、白黒のぬいぐるみみてえなのがいるんだが、おい連れて来い」

男は一人頷き、ドアに消えて行った。

白黒のぬいぐるみ、アラディスの腕を引っ張るが、首輪を填めている事を忘れていた。アラディスは痛くて泣き叫び、男は蹴りつけようとしたが気を鎮めて鍵をのんびり出して首輪を鼻歌交じりに外し、少女を一人残して連れて行った。

アラディスは泣き続けていたが、少年を見て声が引っ込み、口をつぐんだ。

「見てみろ。まるで百貨店のショーウインドウに飾られたお高い黒猫の縫いぐるみみてえだろう」

「きゃあ本当! 可愛い!」

女がいきなり頬釣りをしてきて、それを男が強引に奪って来て、アラディスは少年の上に投げ飛ばされた。

そのまま気絶した。


 アラディスは、声に目覚めると意識が戻った。

おぼろげに、嫌な夢を見たことを分かっていて目を開ける事が怖かった。それでも、声がママ、ローザの声だと判別出来る様になると、恐る恐る目を開けた。

「レオ!」

ママはアラディスを抱きしめ、背後の使用人が出て行った。

「ああ、目が覚めたのね!」

アラディスはママにしがみつき、震えながら目を綴じた。

父親が入って来て、アラディスの頭を撫でると言った。

「父が誘拐犯を連れて行かせた」

やはり、ダイマ・ルジクが助けに来てくれたのだとすぐに分かった。

アラディスはママに、またゆっくり眠るように言われ、手を握られながら眠りについた。


 ダイマ・ルジクは二人の女を地下でバラバラにし、男を生きたまま骨から肉を削ぎ落とさせ始めた。

警察に通報はしては居ない。

男は叫び声を上げていて、もう一人の男は有名人、ダイマ・ルジクを、自分達の女達のバラバラ死体と共に転がる檻の中で震えながらそれを見ていた。

ダイマ・ルジクの背が、悪魔の様に闇を落としている。台の上の拘束された仲間の男が肉を削ぎ落とされていて、腸を抉り出されている。それが天井の鉤から一つ一つ吊る下げられていく。

檻の中の男は、鉄のマスクで口元を覆われていて、めらめらと汗が流れていた。

激しく棘つきの鞭で鞭打たれつづけた男は、檻の中で女の肉塊に囲まれて震えつづけていた。ダイマ・ルジクは肩越しにその男を見ては、叫ぶ男を背に歩いてきた。

共犯者の男は、膝の骨が見え、頬もなくなっていた。他の部分の肉もやられ、真っ赤な腹の内部が覗く。

男はダイマ・ルジクを見上げ、震えた。

背の高い老人は背を折り、腕を伸ばし黒革グローブの手でガッと男の項を引き寄せた。

「今度はお前の番だ」

首を激しく振り続ける男は、老人の先の真っ白のキャンパスが目に入った。大きなキャンパスだ。

男はその後、キャンバスの中に奇怪な体勢で張り閉じ込められ、その上から糸で吊るされた。

闇芸術オークションに、人間シャンデリアとして出展され、それはある貴族仲間が夜の秘密の宴のために競り落とした。

あの腸を抉られた男の方は、その男の女の生首を腸に入れられ、そして硝子の蓋をされ、生きたまま裸体で枷を填められてショーウインドウの中に入れられた。共にオークションでとある貴婦人により競り落とされた。

例の人間シャンデリアを購入した男にダイマ・ルジクも招待され、その宴で競り落とされた照明器具は古城の天井から吊るされた。キャンドルの火が灯されて薄いキャンバスが男の奇怪な死体を緋色の影の中に浮き上がらせた。そして、その下で宴がいつもの様に催され、キャンドルはキャンパスに燃え移って轟々と燃え始め、ブランと死体が首をつった状態で会場にぶら下がり、最後までを燃え尽きた。

その宴を催したのが、ダイマ・ルジクの友人、グラデルシという貴族出の男だった。

 二日後、常軌を逸した状態の男がミラノの街角で見つかり、そして警察につかまると精神病院に入れられた。

硝子のはめ込まれた腹に女の生首を入れた全裸の男が、狂った言語を呟きながら夜の道を、鎖を足に引きづりながら歩いていて、それを大勢の人間達が驚き見て通報したのだ。その男の前は、競り落としたサディストの貴婦人によって断ち切られていて、その貴婦人は高級車の中からダイマ・ルジクに狂わされた男がよたよたと万人にその異常な姿を晒させ、歩いて行く姿を微笑し見つづけていた。

その断ち切られたものは、その競り落とした貴婦人によって固められ剥製にされると、スティックの先にされた。

 生首の女の身元が判明すると、犯人が付き合っていた男だと知ったのだが、どちらも身内のいない同士の恋人同士の関係だった。他の交友関係を調べつづけるが、そのカップルと仲の良かった

カップルも一組消えている。結局は分からず仕舞いで事件は闇に入った。


 ★★★(3)別荘療養★★★


 アラディスはセルゾの家族と共に、美しい別荘地へと来ていた。他にも、マルス一族の人間も共に来ている。

今回はマルス一族の別荘に三家族は集っていた。

アラディスはレッツォとミラ、七歳の少女リメッラ・マルスと、六歳のアマルダ・マルスと共に遊んでいた。大人達は其々会話をし合っている。

アラディスがちゅっとレッツォの頬にキスをして抱きついた為に、レッツォは驚いてアラディスを見た。アラディスは体を離し、照れて走って行った。

レッツォは、大好きな女の子が今日はいないから俯いていた。アラディスはそんなレッツォを見て、落ち込んで歩いて行った。やはり、レッツォはあのマルネドーラが好きなのだろう。

アラディスはママの所へ走って行った。

「どうしたのレオ」

アラディスは泣いていて、ママの腹部に抱きついた。まだ誘拐された時の恐怖が忘れられないのだろう。ローザは息子を抱き上げ、膝に乗せてあげた。

父親が明るいテラスの中の妻と息子を見て、マルスの主と話していた一人掛けから立ち上がった。

「アラディス。こちらに来なさい」

アラディスは父親に抱き上げられ室内を歩いて行った。アラディスはぐすんぐすん泣いていて、絨毯に降ろされるとソファーに座り収まった。

セルゾの妻が泣くアラディスにミルクを持って来てあげるように使用人に言う。

アラディスのために友人達を交え連れて来られたのだが、レッツォが心配そうに顔を覗かせた。マルスの姉妹は誘拐の事を知らされていない。

「レオ、大丈夫?」

アラディスはこくんこくん頷き、涙を拭った。

ママが父親と話し合いを終らせて、ホットミルクを飲む子供達の横にやってきた。

「今から、みんなで出かけましょう」

車にみんなで乗り込んで、ずっとアラディスはレッツォの横で一緒に歌を歌ったり、言葉遊びをしていた。

「橋の上から何が見える?

 橋の上から小鳥が見える

 小鳥が見えたら何するの?

 小鳥が見えたら木を見つけるよ

 木を見つけたら何するの?

 木を見つけたら昇るんだ

 木に昇ったらどうするの?

 木に昇ったら卵を取るよ

 卵を取ったら捕まるよ

 捕まったらどうするの」

「捕まったら返してあげるよ」

「捕まったらおしおきだよ」

「………」

よく子供達の声をそろえる言葉遊びで、最後にアラディスが自然に言った言葉に大人達の誰もが振り向いた。無垢な顔を見る。

「レオ。そこは違うよ。返してあげるだよ」

「本当だ。間違えちゃった」

笑いながら子供達はまた歌を歌い始めた。

ローザは旦那を見て、そして笑いながら歌を続けて歌っているアラディスを見た。

犬ゾリに乗る場所に来て、雪の中を子供達が大はしゃぎをしていた。大人達はポットからコーヒーを飲み、温まってはダウンに包まれ子供達を見ては、会話をしていた。

アラディスとアマルダは真っ白の大型犬に引っ張られていて、雪の上に転がると笑っては引き起こされ、黒と白の斑の犬にミラとレッツォは頬を舐められ遊んでいる。リメッラは犬のソリを捕まえてミラを乗せてやり、皆で追いかけるためにはしゃぎ走り始めていた。


 セルゾはもぞもぞという音で、ベッドの中で目を開け、背後を見た。

娘か息子かと思ったが、アラディスだった。彼はセルゾの背にしがみついて、すやすやと眠り始めていた。

「レオ坊や」

アラディスは父親の所に一緒に眠りに行ったら寝相に潰されそうになったので、セルゾの所に来たのだった。

アラディスは既に安眠していた。

しっかり抱き寄せてやり、朝まで眠りにつく準備を頭は始める。

「アラディスが来たのね」

囁く様に横の妻が言い、顔を覗かせると眠るアラディスの頬を撫で微笑んだ。

「ああ。可愛らしい顔をして眠っているよ」

そう囁き返し、夫婦は微笑み合って互いに目を閉ざした。

窓の外は吹雪いている。厚いカーテンの先から、音は遮断されていた。

アラディスは怖い夢を見ていて、無意識にセルゾに強く抱きついた。夢の中で、暗闇の塔の中、逃げ場が無かった。黄色の月光が冷たく、それでも色彩は温かかった。男達の笑い声。そして、激痛の記憶にアラディスは夢の中で震えていた。

 朝になり、アラディスは目を覚ますとセルゾが横に眠っていた。

「おはよう。アラディス坊や」

セルゾの妻が既に起き上がっていて、暖かな色のセーター姿で振り返ると微笑んだ。

「おはようございます」

礼儀良くアラディスが言い、体をむくりと起した。

「ママの所にはここにいること、言っておいたからゆっくりしていきなさい」

「はい。ありがとうございます」

あどけない声に彼女はアラディスの髪を優しく撫でた。

アラディスは上目でレッツォのママを見て、セルゾを振り返った。レッツォのママはとても優しい。でも、ライバルと言う事になるのだ。アラディスはレッツォかセルゾと将来結婚したいと思っているし、それでも優しいレッツォのママを泣かせたくなかった。

一度、レッツォのママは寝室から出て行った。

アラディスはセルゾに甘えて首に抱きついた。セルゾはその事で目を覚まし、目を開けると微笑んでアラディスを見た。

「やあおはよう。可愛らしいレオ」

「おはよう」

アラディスはニコッと微笑み、ちゅっと頬にキスをして抱きついた。セルゾは朝の挨拶と受け取って髪を撫でてやり、起き上がった。

アラディスが言った。

「セルゾは僕とレッツォとミラとレッツォのママ、誰がいい?」

「え?」

見上げてくるアラディスを見て、うーんとしばらく考える振りをした。

「みんな大事だが、レオのことも大好きだよ」

「本当?!」

アラディスは大喜びでベッドで跳ねて、ニコニコとしながら降り立った。

「じゃあ僕、やっぱりセルゾと結婚する!」

「え?」

アラディスは大喜びで寝室から走って出て行き、いつまでもただただセルゾはその木のドアを首をかしげ見つづけていた。

 「今日は上機嫌ねレオ?」

ママのローザが、朝食時のアラディスに言い、ずっと笑顔が止まらなくて喋りつづけ、全く落ち着かないアラディスの顔を覗き見た。

「ほら、落ち着いて食べないと、怒られてしまうわよ」

「はい」

ニコニコと嬉しそうにママを見上げてアラディスは食事を進めていた。

一方、他の大人達と話したり、子供達の口を拭ってやっていたセルゾは、アラディスの行動を見ていて、心の中で疑問が渦巻いていた。

まさか、結婚というのはミラの事では無いらしいからだ。坊やの言うセルゾが、セルゾ一族のことを指して言っていることも有りえるのだが。

そこまで、五歳の坊やの好意を真剣に受け止めることも無いだろうと、深く考える事はとめておいた。

 昼頃から、アラディスはセルゾの妻のことを見ながらもセルゾの横に座り、大きな手を握っていた。

セルゾは微笑んで頭を撫でてやり、大人達との会話を続ける。

アラディスは足をぶらぶらさせ、横のアマルダと話していた。そうやって、ことある毎にアラディスはセルゾに甘える事が多くなって来ていた。それをセルゾは深く考えずにずっと可愛がってあげていた。


 ★★★(4)★★★


 アラディスはダイマ・ルジクに久し振りにスペインの地へと連れて来られていた。

アラディスは気が逸っていて、車内でダイマ・ルジクの腕を持ってぶんぶん振っていた。

「お爺様。早く車を走らせて」

「急ぐことは全てを見落とす。気を落ち着かせて心を開きなさい」

「でも」

アラディスはぶんぶんと杖を持つダイマ・ルジクの手を振り、「早く、早く」と言っている。

「車窓から見える風景をごらん。時の流れがお前の急いてる心を笑っているではないか」

アラディスは首を振り向かせて明るい窓の外を見て、向き直った。

「はい」

お行儀よくアラディスは座り、前を見てから窓の外を見た。

そしてダイマ・ルジクの横顔を見上げた。

「楽しみ!」

そうニッコリ笑い言い、ニコニコと前を向き直った。

今から、親しくしている仲である貴族の屋敷へ向かうのだ。

ダイマ・ルジクは年に五回は単独でアラディスを連れて行く。ダイマ・ルジク自身はよくスペインの地へは頻繁に訪れるのだが。アラディスの場合は行事ごとであったり、宴であったり、語学勉強と建築と芸術文化教育の為だ。同じ様にフランス、オーストリアにもそうである。アラディスにはイタリア語の他に、フランス語、スペイン語、ドイツ語を話せる様にさせていた。それに、出来るだけ多くの人間との交流をさせている。

今から行く貴族の屋敷は、約一年ぶりにアラディスが行く場所だった。アラディスはその屋敷の人間、ザイーダル・エメルジアによく懐いていて、会う毎に嬉しそうにしている。そのためもありスペイン語も上達が早かった。

その男自身は結婚後ずっと独立しエメルジア一族から離れ、五年間をアメリカで過ごしているのだが、そこからよくヨーロッパ中の宴に出没するので、その際にもアラディスはよく会っている。ダイマ・ルジクがスペインへ来る毎にその彼もアメリカからスペインの実家へ招き入れる為に戻って来ていた。

アラディス自身がその屋敷へ向かい、懐いているその男のところへ直接に向かうのは今回で三度目だ。その為に、早く会いたくて仕方が無いのだろう。

ザイーダルはスペイン人とアルゼンチン人のハーフであり、ダンスが実に得意である。豪い色男振りで色恋沙汰も多く、そのためもあり、その内容は派手なものだった。アルゼンチン人でありスペインに本拠地を持つグラデルシとも彼は親交があった。ザイーダルの父親がアルゼンチンの路上でタンゴダンサーをしているものだから、ザイーダル自身は幼い頃からその彼の元へ向かってもいた。ザイーダルの母も、別に険悪な仲で旦那と別離をしているわけではなく、旦那はダンサーの道をそのままに、彼女は令嬢だった為にスペインへ戻っただけである。

 「やあ愛くるしいアラディス坊や!」

アラディスは喜んで走って行き、ザイーダルに飛びついた。

「ハハハ! 相変わらず可愛い奴だ。ホラよく顔をお見せ」

輝かんばかりの笑顔でアラディスは肩から顔を上げ頬にちゅっちゅとキスを浴びせた。

ダイマ・ルジクは好きにさせておき、彼とその母、祖父母に挨拶をした。

ザイーダル達はダイマ・ルジクへ挨拶をし、ダイマ・ルジクも鋭い顔つきでほほ笑んだ。

「ダイマ・ルジク。お待ちしておりました。さあ、どうぞ中へ」

「ああ」

ザイーダルはアラディスをひょいっと肩車し、話しながら進んで行った。

その日もザイーダルの妻ジーナ・ルメイはこの場にはいなかった。フランス人の妻は貴族セラーヌ一族の令嬢であり、多少つんとすました感のある美しい女性だ。そうはスペインの地へは訪れない。そのセラーヌの令嬢は、子供が一人でも来るような宴には参加しないために、アラディス自身が彼女に会った事は一度も無かった。ザイーダル自身がどんどん単独で宴によく参加するためもある。あまり夫婦仲のほうはいいとはいえないが、今のところはどうやら離婚はせずに済んでいるようだ。

ダイマ・ルジクもよく彼には浮気と不倫を改めさせるようには言うのだが、その時は気もよく頷くだけで大体は言い聞かせなど無理だった。今に妻、ジーナ・ルメイも、魅力的過ぎる夫には、冷静な質の堪忍袋の緒をぶち切らすのではないだろうか。

ザイーダルから言わせれば、世には男がいて、そして女がいる。だから常にそんな素敵な輝ける中で惹かれあいつづける事は当然なものなのだと。魅力的な者達が数多にいる中を、出会わずしてどう過ごせというのか、と。素晴らしい女性が多く、美しい者達が溢れ、其々の感性を持ち合わせ、それらの一人一人と深く関わる事の素晴らしさを云々。それを自己の脳裏に羽ばたかせる事が出来るとあれば、大した喜びに繋がるではないかと。

いわゆる、結婚という枠には向かない人種である。その為に、こうやって駄々こねる妻も放って一人でも戻って来るのだから、ジーナ・ルメイから言わせれば、溜息ものの毎日なのらしい。

ザイーダルに会うと、ダイマ・ルジクはこちらの崩れることも無い感性まで異常を来してしまうかもしれないので、とりわけ冷静に対処していた。

「ほらどうだ。今日は坊やのために白と黒のぬいぐるみを用意したよ。喜んでもらえるかな?」

屋敷では子供らしさに直結するような一切のおもちゃなどを分け与えられていないアラディスは、「キャーーー!」と叫んでその縫いぐるみに疾走し激突までするかの様に抱きつきに行った。

まるでそのふわふわの中の一部に取り込まれたかの様にアラディスも真っ黒と真っ白なので、その母の胎内や腕の中の様に埋もれて頬を染めてはニコニコしている様が愛らしかった。

「いやあ。良かったよ。もう五歳だから縫いぐるみはどうだろうとも思っていたんだがあんなに喜んでくれて」

その、首を胴のほうにもたげ、片方の前脚を上げている縫いぐるみは白の体に黒の羽根、蹄と毛足、長いタテガミ、瞳をしたペガサスで、アラディスの三倍ほどはあった。綺麗な可愛らしい顔つきは女性らしく崇高なものさえ感じた。

ザイーダルは喜んでいるアラディスをペガサスの背に乗せてやり、アラディスは大喜びではしゃいでいた。そしてザイーダルの頬にちゅっちゅちゅっちゅとキスを浴びせた。

実は、アラディスは男前で色男で快活でほがらかで派手な性格のザイーダルの事が大好きだった。あまり会える相手でも無いのだが、その為にここぞとばかりにはしゃぎ甘えては頬にキッスをしまくる。屋敷に来ると絶対にザイーダルにスペイン語の絵本を読んでもらいながら眠りについた。

こうやって遊んでいるうちにもスペイン語を覚えて行く。建築・芸術文化などの勉強は明日からなので、今日はエメルジア一族との交流を深める一日になる。

ダイマ・ルジクと老夫婦達は、アイビーなどが庇から垂れ下がり漏れる緩い陽射しのテラスのセットにいては話し合っていた。黒い葉の先からダイヤモンドの様な陽射しが所々を強く光らせている。中心からは、この地方の緑色の美しい景色が一望できた。丘があり、森や平地があり、その中に屋敷がぽつん、ぽつんと点在している。

屋内の広いリビングでは、ザイーダルの母がアラディスにミルクを持ってこさせるように使用人に言っていた。アラディスはペガサスの四本の脚の間を交互や八の字にくぐっては遊び出していて、キャッキャ言う声が転がるように響いている。

「曾孫がアメリカにいてスペインには来ないものだから、こうやってアラディスの姿を見ていると幸せなものだよ」

そうエメルジア一族の主は言い、倒れたペガサスを笑いながら起そうとするアラディスを見てはほほ笑んでいた。ザイーダルも既にジャケットスーツを脱いでいて、腕をまくってペガサスを起してやっている。

「ザイーダルの四歳の息子はスペインには来たがらないのかね」

「まだ自己での判断はそうは下すことは無く、母であるジーナ・ルメイの判断にただただ従っているのだろうな。ジーナ・ルメイがスペインに来たがらなければ来ない。ただ、フランスの実家の方へはよく息子だけを連れて帰っているようだ」

「それは寂しいものだな」

「ザイーダルがそういう部分を少しでも実感すればいいのだがなあ。見ての通り、何も気にしてもいない。その曾孫が可愛そうだよ」

「可愛がっているのだろう」

女の扱いにもなれていれば、子供の扱いにも慣れていて、ザイーダルは共に必死になって遊んでいた。

まだザイーダルは二十四の年齢で若々しく、男性的に勇ましさの中、実に美しくもあった。

「曾孫は放蕩の多い父親にあまり懐かんらしい……」

そのエメルジアの言葉に、ダイマ・ルジクは眉を上げ、やれやれと首を振った。

随分と若い頃から知っているが、ザイーダルは奔放主義で周りには常に美女がおり、丁寧に扱っては女を連れてレース、乗馬、闘牛場、パーティー、海、数多の友人やジュニア達を連れて様々な国へ行き自由を満喫していた。そんな彼は八歳からは同伴も無しに一人でも飛行機に搭乗し父のいるアルゼンチンへ行っていたほどだ。

確かに、まるでペガサスかの様に生きていることと全てが嬉しくて嬉しくて仕方が無い様に飛びまわっている。

アラディスはペガサスの後ろに隠れてはザイーダルとかくれんぼをしていて、はっきり言えば真っ白と真っ黒のアラディスはペガサスの脚の間から見えているというのにうまくカモフラージュされていて、遠くからでは見分けがつかなかった。笑って顔を覗かせたり引っ込んだりしていて、捕まりそうになるとペガサスの周りをくるくるとはしゃぎながら逃げ回った。

しまいにはアラディスは遊び疲れ、ペガサスの背の上の羽根の間に跨りすやすやと眠ってしまった。

ザイーダルの母がそんな可愛らしいアラディスを抱き上げ、頬を撫でてはベッドのある方へと連れて行った。

「本当に可愛らしいですね。アラディスは」

ザイーダルはテラスへ来ながらそう言い、椅子を引いては腰を降ろし、綺麗に笑った。

黒焦げ茶の髪は品のある色で、白い肌は優雅である。目元は男らしくも大きな目元が深い彫りの中を強く焦げ茶に輝き、よく笑っているものだから笑顔が顔に綺麗に染み付いている。洗礼された風もそんな中に根強く、色づきの良い口元は口端が両方バランス良く上がっては、真っ白の綺麗な歯が並んでいる。長身であってすらりとしてはいるが、しっかりと筋力も整っているために、タンゴでもステップが実に鮮やかだ。それに、結婚前はマタドールなどにも憧れていたほどだ。それは母親に止められていたのだが、よく闘牛場などに行っては若者達も参加する時に加わって挑発しては駆け回っていたらしい。

「私からは子供が二人に見えたがね」

ダイマ・ルジクの言葉にザイーダルは憎めない顔で笑い、テーブルに組んだ腕を着いていたのを肩をおどけさせた。

「アメリカにいる息子にもスペインに来させてこうやって屋敷で遊ばせたいのですうが、なかなかジーナが首を盾に振らなくてね。だから、いつかは見計らってうちの可愛い坊やも連れてきたいとは企てるんです。こちらにきたら、緑の丘の上を気球やセスナに乗せて見渡せさせたいものですから。でも実はてんで僕になついていなくて、蹴られてしまいましたからね」

「全く、呆れた奴だ」

そう言っても何の跳ね返りにもならないのがザイーダルなのだが……。

子供のことには可愛がって入るが放任に近く無頓着なので、あのしっかり者のジーナ・ルメイがいなければ繋ぎ止める人間もいない。

 アラディスは目を覚まし、ザイーダルがいなかった為にまるで夜鳴きを始めた赤子のように真赤になって泣き叫んだ。

使用人がアラディスを抱き上げ、ぽろぽろと涙を流し泣き叫ぶアラディスを連れて行く。

廊下まで泣き声を聞きつけたダイマ・ルジクがやって来ると、その背後から来たザイーダルがアラディスを預かり抱き上げた。

「一体どうしたんだ? アラディス坊や?」

アラディスは激しく泣いていて、ザイーダルの肩にしがみついていた。

誘拐された時の怖い夢を見ていたのだ。

「旅の疲れでも出たんだろう」

「そうですね。きっと……」

ダイマ・ルジクはアラディスの背を見てからともに歩いて戻って行った。

「まあまあどうしたの? アラディス」

ザイーダルの祖母がアラディスを抱き上げ、アラディスは泣きやんでぽろぽろ涙を流しザイーダルの祖母の方に丸い頬を乗せていた。その黒い瞳が空間を涙目で見ている。

「きっと、怖い夢でも見てしまったのね」

アラディスはペガサスのところに行きたがり、それの上に乗って首にしがみついた。そうしていると、怖い夢も薄れて行った。

ダイマ・ルジクはそういう癖がついて何かに固執し甘えなければ立ち上がれ無い様になっては困ると思い、アラディスを自分の前まで来させた。

アラディスは泣きそぼる顔で首から頬を放しダイマ・ルジクを見て、「はい」と言ってザイーダルに降ろしてもらい、ダイマ・ルジクの前まで歩いていき見上げた。

「もう大丈夫です」

そうあどけない声で報告し、ダイマ・ルジクはそこで笑顔で背を降りアラディスの頭を撫でた。

「よし。遊んできなさい」

アラディスはニッコリ笑って元気に「はい!」と言いペガサスに豪華な紐をつけて引っ張り連れて歩いた。

後からアラディスには心のケアを再びさせる。もしもそれも利かずに酷くなるようでは催眠療法を受けさせなければ。幼い頃に受けたトラウマと言う物は後の深層心理に残る。

 



■1922年■アラディス・レオールノ・ルジク 小学舎一年 六歳



 ★★★(1)題未★★★


 アラディスはママと共にアイルランドへ来ていた。その王家の式典に参加する為だ。

「アラン! お久し振り」

フランス語で金髪の少女がそう言い、アラディスはよく大きな宴などで見かけるシャーナを見た。

「アランの七歳の誕生パーティー、シャーナのことも呼んでね」

「もちろんだよ」

アラディスはにっこり笑い、シャーナの可愛らしいドレスを「素敵だね」と誉めた。

「ありがとう。アランも格好いい」

実は、シャーナはアラディスが男の子が好きだという事は知っていた。シャーナからしたら、それは別に変な事では無い。フランスにも多いからだ。ゲイだとか、ボスレス、同性愛者などは。シャーナの従兄弟も一人そういう人がいて、親の金で道楽して遊ぶ一方、そういう同性愛者のパレードにも派手に装って参加していた。最も、アラディスはそういった事は一切知らないし、男の子が好きだとう事の定理自体が女の子へ対する普通の感情とは違う事を分かっていないのだが。

それでも、男の子が誰それの女の子が好きだということを恥かしがって親には言いたがらないことと同じで、アラディスも親には言ってはいなかった。レッツォやセルゾが好きだという事は。

シャーナは実に可愛らしい子で、香水ブランドの令嬢だった。そのシャーナの友人が、アラディスを見てやってきた。

「はじめまして。あたしの名前はキャリナ」

「はじめまして。僕はアランです」

アラディスはそう社交名を言った。キャリナの横の黒髪と眉の可愛い女の子も微笑んで手を差し出した。

「あたしはキラ」

アラディスもにっこり微笑んだ。

基本的に、誰々のジュニア。誰々の娘。それや、本名とは多少異なった名で社交で呼ばれる。本名は基本的には知らされる事は無かった。

その為に、社交で仲良くなったシャーナの本名も実は知らない。

ダイマ・ルジクでさえ、本名は伏せられた上でのダイマ・ルジクという社交名であるのだから。本来ならば、ジルの名も社交ではJDLという通り名があったのだが、極身近な仲間内からは本名のジルと呼ばれ、事業主としてでもその仕事の関係で関った他事業主の極一部も契約上の書類に当然のこと本名で名を記していた。

アラディスの場合は、ダイマ・ルジクの孫、ルジク一族の子息で通る事が大体だ。シャーナはアランの本名がアラディス・レオールノという事も知らずにいるが、ラヴァンゾ一族の娘の子供という身分は知っていた。よくともに巨大な飛行船などでも空の旅をする。


■1923年■アラディス・レオールノ・ルジク 小学舎二年 七歳



ザイーダル・エメルジアはフランス人の妻と別れたばかりだった。今年アメリカからその屋敷に本格的に帰って来た。

離婚したばかりなので、きっとあまりいつもの風は無いのでは無いだろうかとも思うのだが。話では、その彼は離婚の際に息子を別れた妻に任せたらしい。ダイマ・ルジクはその彼の息子には会ったことは無いのだが、アラディスと年齢が変らないらしく、気まずがるのかもしれなかった。

 立派な屋敷へ到着し、出迎えた屋敷の人間達にアラディスは微笑んで挨拶した。

「やあ。愛くるしいアラディス坊や」

「お久し振りです」

「元気にしていたかい?」

「はい」

「それは良かった」

アラディスは愛らしく微笑んで極めて大人しく振舞っていた。

男、ザイーダル・エメルジアは極めて男らしくほほ笑み、ダイマ・ルジクに礼をした。

アラディスは、ザイーダルがジーナ・ルメイと別れたという有名な話を充分分かっていたので、一度ダイマ・ルジクと短く挨拶の言葉を交わしあうザイーダルを上目で見つめた。

ザイーダルはしゃがみ、アラディスの肩を持ってほほ笑んだ。

「大きくなったな。賢さが顔立ちに加わって、背も伸びたじゃないか」

アラディスは嬉しそうにほほ笑み、ザイーダルの両頬にキスをし、頬を染めてモジモジした。

「ほら。顔を上げなさい」

「はい」

ダイマ・ルジクの言葉でアラディスは祖父を見上げ顔を戻した。ザイーダルはほほ笑みアラディスの頭をがしがし撫で、背を伸ばし肩を抱き歩いて行った。

この一年間、アラディスはザイーダルには会っていなかった。スペインのエメルジアへ行っても、ザイーダルは五回とも現れなかったし、両親や一族として行くスペインの正式なイベントにも、式典にも、他のヨーロッパのアラディスが向かう交流会にも現れなかった。それでも、他のイベントパーティーにはザイーダル自身はよく参加していたのだが。内容の違いだった。

やはり、ザイーダルは元の元気を失っていて、それでも嬉しそうにアラディスと会話をしながら歩いて行った。アラディスはスペイン語も上達してきているし、可愛らしいほほ笑みがやはり純粋に可愛らしい。

リビングに来て、ソファーに腰を降ろした。

「小学舎に上がったんだって? 勉強は頑張っているか?」

「はい。新しい友達もたくさんできたし、勉強も楽しい」

「偉いな。可愛い女子もいっぱいいるだろう」

「全くこの子ったら」

ザイーダルの母親はそう言い、ザイーダルは肩をすくめさせておどけた。

アラディス自身は女の子には恋愛対象を置かないので、ザイーダルの母とザイーダルの顔を見上げてから顔を戻した。そして、ザイーダルの顔を横目でずっと見つめた。本当はもっと甘えに行きたくて仕方が無い。もっと頬にキスをしたいし、肩や脇腹に抱きつきたかった。

笑顔には笑顔だし、言葉もはきはきしているのだが、やはりザイーダルは離婚したばかりで本調子の様子ではなく、アラディスは座面に膝を付き頬にキスを寄せた。

「おっと。これは申し訳無いアラディス坊や。僕がジーナに呆れられて捨てられてしまった事を悟られてしまったな」

いつもの調子でそう言い、アラディスの脇を持って持ち上げてグルングルンとまわし始めたからアラディスは久しぶりにキャハハハと笑った。

「随分重くなったなアラディス。よし屋敷の外でも思い切り走ってみるか!」

「やったー!」

そう二人は走って行き、アラディスも追い越されないように必死になって走って行き、ザイーダルが来るのを笑顔で手招きしながら走ってはザイーダルが腕をまくり走って行った。

屋敷窓からその姿を見ていた彼等はコーヒーを出され、それを傾けた。

ソファーへ座り、アラディス達の笑ってかけっこする声が響いている。

フリスビーを思い切り投げ飛ばしては追いかけたり、キャッチボールのように飛ばしあったりしては、芝生の上で転がって二人でごろごろと坂を下りていったりした。アラディスは立ち上がって眩しい草原の中を走って行き、ザイーダルは屋敷から走って来た真っ白く巨大な犬に押し倒されて頬を舐められていた。アラディスはザイーダルを引っ張り起し、犬まで加わって走り始めていた。

太陽が差すザイーダルの笑顔を見てアラディスは頬を真赤にしながら楽しくて笑い、青の空を見上げた。

「今日はセスナで飛ぶといいかもね!」

「そうだなあ。今日は本当よく晴れてるから、遠くまで見渡せるぞ」

アラディスは犬がフリスビーを持って来たために頭を撫で、ザイーダルと共にまた遠くへ投げるのを追い掛け始めた。

屋敷を走って周り始め、犬が一番早くてアラディス達の背後から既に通り過ぎ走って行った。

ザイーダルはアラディスを捕まえ、背後から抱きしめ、彼の髪がアラディスの頬に掛かった。

「………」

アラディスはかけっこで頬を真赤にしながら回される腕に手を当て横のザイーダルを見ては、静かに閉ざされうな垂れるその綺麗な瞼を見た。

アラディスはただずっと目を閉じて頬を染め、頬釣りをしてやり、目を開いては陽と、自分達の影の差す地面を見つめ続けた。目を閉じ、ザイーダルの頬に頬をつけて腕を抱きしめた。

 「もう結婚はしないの?」

「そうだなあ」

「きっと思い知ったんだろう。結婚という重みをな」

「ええ。別れてからいきなり」

ザイーダルはパエリアを盛りながらそう肩をすくめ言い、ダイマ・ルジクは綺麗にムール貝をギザギザのついたスプーンで器用にすくいとっている。

アラディスは綺麗にムール貝を食べる練習をしながら顔をザイーダルに向けた。

「きっとジーナ達に甘えてたんだろうなあと思うんです。家庭は第一に護らなければならないってね。それを疎かにして夢中になってたのも僕だ。息子に悪い事をしてしまった」

アラディスは驚いて貝のたくさん入る銅鍋からまたザイーダルを見上げた。

「その子何歳?」

「六歳だよ。アラディス坊やの一個下でね。真っ青な瞳が綺麗で可愛らしい顔した子さ。もう写真は全てジーナが実家に持って行ってしまったから手元には残されていないんだが……。いつかはあの子の友達になってあげて欲しいと思ったが、ちょっと遅かったな」

アラディスは椅子に膝で立ってちゅっと頬にキスをしてやり、また貝をむき始めた。その耳と頬は真っ赤だった。ザイーダルは笑顔でアラディスの背を撫で、皿に盛り付けたパエリアを置いてあげた。

「アラディス。ありがとう。アラディスといると元気が戻ってくるよ」

アラディスはニッコリ笑ってザイーダルを見て胴に頬釣りし、貝を綺麗にむいた。

ザイーダルは息子に会う事をジーナ・ルメイに阻止されてしまったし、ジーナ・ルメイの父、シーヴァス・ラジルからは二度とフランスの地に足を踏み入れるなと言われてしまった。まあ、それは無理も無い話なのだが、無理な話だった。

ザイーダルの性格では、また家族というものから解放されて今に元のとおりに意気揚揚として女とダンスを求めにヨーロッパ中やアルゼンチンを飛び回るのだろう。

「お前の父にはこの事を報告したのかね?」

「ええ。つい昨日アルゼンチンから屋敷に帰ってきましてね。話もしながら共に酒を飲み交わしてきました」

「そうか。募る話もあったのだろう」

ダイマ・ルジクはそう頷き、フォークで貝を口に運んだ。アラディスもそれをしっかり見習い、綺麗にフォークで貝を小さな口に運んだ。

アラディスはザイーダルが盛ってくれたパエリアを食べて、大人達はスペインワインを傾けている。(スペインではパエリアはトマトご飯で炒められていて、魚介ではない)



■1924年■アラディス・レオールノ・ルジク 小学舎二年 八歳



 ★★★(2)親友とのお別れ★★★


 「え? 二年間、イタリアを離れるの?」

小学舎の二年生の教室で、漆黒の瞳を見開いたアラディスは、レッツォルノを見た。

「そうなんだ。パパがベルギーに出張する事になって、着いてくんだ」

レッツォルノはそう言い、アラディスに耳打ちした。

「まだ、ローランには言ってなくてさ」

幼稚舎の頃はマルネドーラが好きだったレッツォルノも、今は同じクラスのローランの事が好きだった。アラディスは真っ赤な唇をいじけさせて横目でレッツォルノを見て、ローランの方を見た。

ローランは可愛らしい女の子だ。マルネドーラとも友達で、同じピアノ教室に通っている。バレエも習っているローランは香水も好きで、お洒落でもあった。

アラディスは俯き、自分の膝の上を見た。

「寂しくなるね」

アラディスがそう言い、レッツォルノはアラディスを見た。

「心配しないでよ。また二年したら、帰ってくるよ」

「うん」


 しばらくのお別れの宴を多くの一族を募って開かれる事になった。その事で、セルゾ一族が貸し切った会場は賑わっている。

ローランやマルネドーラも会場にはいて、しばしの別れを惜しんでめい一杯レッツォと話していた。

「ベルギーに行けるとき、また一緒に遊びましょう」

そういう約束を交し合っている。

「手紙、いっぱい書くわね」

レッツォはやはり、女の子達にも人気があった。それはアラディスも同じなのだが、アラディスは女の子には優しくても、女の子が別に好きでは無い。

驚いてアラディスは横を振り向いた。また、アラディスの事が大好きな女の子がマシンガントークを始めたからだ。

アラディスは流し聞いていて、ずっとレッツォルノを見ていた。

「アラン、聞いてる?」

「え? うん」

アラディスは美人なマリアを見て、頷いた。

「将来は、あたし、美しい馬を扱いたいの」

「変ってるね」

「一緒にそうしましょう? マンマにも話をするわ。アランがオーナーになってもいいの」

「でも」

「いいのよアラン。成長すれば怖くなくなるわ。それに、田舎の村に屋敷を建ててしまえばいいの」

彼女の話は止まらずに、アラディスはまたレッツォのいる方向を見て聞き流していた。

夜、一緒にみんなで望遠鏡を覗き、星を観測した。

「こうやって一緒に星を見れなくなるんだな」

「アラディスに、ベルギーで見える星座の本を送るよ」

「本当? ありがとう」

レッツォルノとの約束にアラディスは嬉しそうに笑い、その時、初めてレッツォルノは口を告ぐんでアラディスの笑顔から目が離せなくなった。

いつでも横にいる友人がアラディスだった。それは自然な事で、たまに悪戯にキスをしてきた小さい頃もあったし、よくいろいろな所に一緒にいったりもした。普通すぎて、離れた時の事など全く考えたことも無かったし、そんな一緒にいる時間が無くなる寂しさになど、気付く事も無かったのだ。その離れ離れになる時間の埋め合わせを、これから一体どうしたらいいのだろう……? レッツォルノは友人レオに一度抱きつき離し、星を見上げた。

「二年間、寂しくなるな。レオ」

アラディスは頷いて共に星を見上げ、膝を抱えた。


■1925年■アラディス・レオールノ・ルジク 小学舎三年 九歳


 フランス貴族セラーヌのジーナ・ルメイが、スペイン系貴族である色男との定評だった前夫と二年前に離婚をした。その話は有名な事だった。

その後、そのジーナ・ルメイがフランスの名門ボードローラ一族の貴公子に見初められ、遂に再婚するのだという事で、両親がフランスで行なわれる婚礼の儀式へ参加する為に自家用ジェット機に乗り込んだ。

どうやら、ニヶ月前から彼女は妊娠しているようで、その事については結婚以前からボードローラの貴公子との仲は知られていたのだ。モナコでもよく二人で社交には訪れていたのだ。その際に、同宴でもスペイン系貴族である色男で有名な元夫も、恋人を連れ参加をしていたのだが、話を交わすことはジーナ・ルメイ側が避けていた。旦那のボードローラは、そろそろ許したらどうだとジーナ・ルメイに言うのだが、やはり彼女は首を縦に振ることは無かった。


 ★★★(1)魅力的な先生★★★


 アラディスは、三年生になり、二十三歳の新しい教師に目を奪われた。

チャーミングな笑顔は、雑誌のモデルでもよくやっていそうで、体系はミラノコレクションのモデルの様で、格好いい。一瞬で女児童達の憧れの先生になった。

そんな中に紛れて、アラディスも先生にハートを飛ばしたり、ウインクを渡したりした。

「ここのところが分からないんだ」

よくアラディスは、勉強もして優秀なのに分からない振りをして先生の所に来ていた。わざと多少難しい問題を持って行くと、先生が「まだここはやらなくても大丈夫だぞルジク」と言われてしまうので、普通の算数の問題を持って行く。

「先生って目の色が良いよね。彼女とかいるの? いなかったら今度一緒にミラノコレクションに行こう。僕、デザイナーに知り合いの人がいるんだ。先生って格好良いね。そのセーター似合う」

アラディスがいつもそう言って来るので、先生は悪戯っぽくおちゃめに笑い、可愛らしいアラディスの顔を覗き込んだ。

「勉強よりも、口説きの勉強にそろそろ入りたいのかな? 本当は優秀なアラディス君は」

アラディスは真っ直ぐと目を見られて頬を染め、椅子に背をつけて俯いてしまった。

先生は口をつぐみ、頬をピンク色に染めたアラディスを見ると心なしか妙な気分になり、咳払いした。

「さあ。学習をはじめよう」

「はい」

アラディスはそう返事をし、ペンを持った。何度かアラディスは先生の教科書を見る瞼を見ては、ペンを動かし、先生は視線に気付いて視線を上げ、目が合うと反らせなくなった。

アラディスが急いで目を反らし、足をもじもじさせてノートに俯いた。その耳は真っ赤だ。

「今日は、ここまでにしようかルジク」

「はい。ありがとうございました」

アラディスは急いでバッグにノートと教科書、筆記用具を仕舞いこみ、椅子から降り立った。

「今日も勉強になりました」

ぺこりとドアの所で頭を下げ、アラディスは出て行こうとした。

「ルジク」

「はい」

高い声で返事をし、飛ぶように向き直った。

「勉強にも疲れただろう。今日、一緒に夕飯でも食べよう」

先生の背がそう言い、アラディスは無言で頷いた。

 ピッツァが恐ろしく美味しい店に来て、正直に言えば、アラディスは入らないくらい庶民的な店だ。気の良い店の人間が快活な風であり、職人が生地を回している。ワインを美味しそうに飲む男達や、モッツァレラチーズをつまみにする男達、それや家族連れやカップルもいる。

アラディスは、行儀良く食べられる海鮮トマトパスタを頼もうとしたのだが、先生がここのピッツァを頼ませた。

実は、ダイマ・ルジクはピッツァをアラディスには食べさせなかった。

アラディスは困り切り、綺麗な食べ方を習うために先生の食べ方をみたら、豪快に行くではないか。仕方なくアラディスは小さく細くピッツァをカッターで切り、丸めて口に運んだらとんでもなく美味しかったので、大喜びで食べ始めた。

そんなアラディスを見て嬉しそうに先生は笑った。

学校は良い所の良家が多い学園なので、教諭にとっては時々先生方の対応に息が詰まるときがあったのだ。確かにマナーは大切なのだが、やはり、子供は子供らしくさせたかった。

アラディスの事だから、ピッツァの美味しい味の分析、トマトの旨味とチーズの酸味がバランス良く甘さを生むことによって生み出される味だとかどうとかを言い始めるかもしれなかったのだが、出してこなかった。

頬を真赤にして食べて行くアラディスを見て、正直可愛いと思った。そんな自分に驚いて先生は炭酸水を飲み、グラスを置いた。

アラディスの母親には許可を取ってあるので、そこまで遅くならなければ大丈夫だ。自分は教師だし、危険な場所などに連れて行かなければ良い。

店を出て、歩いて行く。

 「友人もブランドのモデルをやってるんだ。俺も十九のときは一緒に出ていた。派手で洒落た世界だよ」

アラディスは頷きながら先生の話を聞いていて、共にいることが嬉しかった。時間も忘れそうだった。

「今度、先生の部屋に遊びに行っていい?」

「ああ。学校からも近いし、いいよ」

アラディスは嬉しそうに笑い、屋敷前の扉の所で先生にお礼をした。

「今日はありがとうございました。とても美味しかったです。せっかくだから先生、ちょっと寄って行ってよ」

アラディスがそう言い、招き入れた。

「お帰りなさいませぼっちゃん」

「ただいま。先生に送ってもらったよ。あがってもらいたいんだ」

アラディスは促させた。

先生は、かの有名なルジク屋敷を見回し、緊張して口をつぐんだが、アラディスの母親を見て安心し、顔を笑顔に戻した。

「こんばんは」

「こんばんは先生。我が屋敷へようこそいらっしゃいました。今日はこの子のこと、本当にありがとうございます」

アラディスは嬉しそうに母親と先生の顔を交互に見ると、応接間に案内させた。

今日は、ダイマ・ルジクは会議の為にローマに出かけていた。父親もそれについていっている。

学校でのアラディスのことや、とても勉強などが優秀なこと。他の子達にも勉強を教えて上げる事もあるし、女の子達にも優しくて人気者だという話をし、母親は嬉しそうに聞いていた。

お茶を一杯もてなされ、お菓子も出されると、今日は早めに帰らせていただくことになった。


 洒落た室内。アラディスはテーブルに向かって問題を解いていて、先生はアラディスにジュースを出してあげた。

「さあ。どうぞ」

「ありがとう先生」

アラディスはにっこり笑ってノートから顔を上げた。

「ルジクは将来、何になりたいんだ? 算数も得意だし、建築家か?」

「パパのお仕事を継ぐかは分からないよ。確かに建築の事とかは好きだけど、まだ、決まって無い。お爺様が芸術関係の事を任せてくるかも。美術の学校とか持ってるし、その運営の手伝いとかかもしれない」

「芸術の世界は素晴らしいもんな」

アラディスは頷き、顔を上げた。

「先生が着る服、デザインする事だっていいんだ」

そう真っ直ぐ顔を見た。

先生はその漆黒の目を見つめ、背を伸ばした。

真っ直ぐに向けられた好意で、やはり、どうやらアラディスが自分にある一種の感情を寄せているらしい事が分かった。

自分は男教師だし、相手はどんなに魅力的で可愛らしくて大人びているといっても、男の子に変りは無いし、九歳の子供だ。

アラディスは顔をジュースに向け、それを飲んだ。その睫をみて、先生は椅子から離れて本棚の所へ行って背を向けた。

本棚に手を当て本の背表紙を見ていき、気を落ち着かせる。

「先生。算数の授業でいつも何が難しい? 先生には難しいことは無いか」

先生は振り返り、ノートに問題を解いていくアラディスを見た。

「あるよ。いつも先生だって勉強の積み重ねだ」

アラディスは顔を上げ、微笑んだ。

「やっぱ算数とか数学って大変だけど、面白いもんね」

先生は俯き、顔を反らしてドアの方に向かった。

アラディスは口を噤み、そのドアの方向を見た。何も言わずに開けられたドアを見て、アラディスは何も言わずにバッグに教科書とノートを突っ込み、先生の顔も見ずに立ち上がって出て行こうとした。

だが、その手首を引きドアを締め、泣いていて顔を上げないアラディスの髪を見つめた。

「悪かった。ごめん」

先生は肩を抱き寄せた。

「勉強を続けよう」

中へ引き換えさせてテーブルの上に残されたままのペンや筆記用具を見た。

窓から差す光が滑らかで、外の喧騒が聞こえる。

「今日、泊まって行っていい?」

アラディスが言い、オレンジジュースを全部飲み干した。

「僕、お昼のパニーニか何か買ってくる」

財布を持って走って行った。

先生はその場に残り、消えて行った背の方向をずっと見ていた。

アラディスは路地に出ると、沢山のお店のある方向へ走って行った。パニーニなどを作ることは好きだった。大人達は、キャンプのときに自家製のピッツァも作って釜で焼くのだが、子供のアラディスは加わる事をダイマ・ルジクから許されていない。それでも、パニーニをよく作った。

お菓子も他の店で買い、お惣菜とパニーニを買う。

戻って歩いていき、先生の部屋の窓を見上げた。

アラディスは袋を持ちながら俯き、石畳の背後を通り過ぎて行く馬車の音が耳に響く。影を見つめて、顔を上げなかった。建築物から覗く彼の頭上の青空は、雲が流れて行く。

「アラディス」

「………」

アラディスは顔を上げ、アパートメントのドアからやって来た先生を見た。抱きつきに行きたい衝動があったものの、アラディスは耳を真赤にもう一度俯いた。

「どこか、広場で食べよう」

アラディスは頷き、歩いて行った。先生が袋を持ち向かう。

馬車に乗り、大きな教会まで来ると、その近くの広場で食べ始めた。無言だった。ただずっと。木々を見上げたり、その先の空を見たり、鳥たちがとんだりしていた。

アラディスは、確実に喉に通らなくて緊張の余り、悪戦苦闘しながら食べつづけていた。

そんなアラディスを見て微笑み、ゆっくり食べさせる。

明日は安息日に入るので、様々な物を買い込まなければならなかった。

アラディスもそれを手伝った。食材だとか、足りないものを買い込む。

 「このTシャツ、大きいけど使っていいからな」

「はい」

アラディスはシャワーを浴びに行き、先生は音楽を聴いていた。

髪や体を洗うと、Tシャツを着て出て来て、ジュースを渡された。

「先生は彼女いるの?」

「いるけど、DCにいるんだ」

歌詞カードを見ていたアラディスは顔を上げ、ソファーのクッションを背にする先生を見た。

「金融関係の仕事をしていて、遠距離というやつかな」

「それじゃあ、大学とかで出会ったの? 算数の先生だもんね。先生」

「その通り。互いに数字関係が好きで、学科は相手はビジネス科だったんだけどな」

曲目が変り、アラディスはページをめくった。

「そか……」

アラディスは膝を抱えていたのを降ろし、歌詞カードの内容を見つめた。

内容など、一切頭に入って来なかった。

耳にする曲だけが頭に先生の声と共に残り入って行く。リズムを刻んで。

「僕……」

アラディスは膝を見下ろし、歌詞カードを閉じた。

「うん?」

先生は優しく言ってやり、顔を覗き込み、真っ黒くて巨大な瞳を見た。それは白い光を受けているが、俯きつづけていた。

昔、酷い誘拐犯の男達に酷い目を見せられた事を思い出し、アラディスは首を横に振った。

「何でもない」

先生の胴にしがみついて目を綴じた。歌詞カードがラグに落ち、先生は気を鎮めて小さな背を撫でてあげた。

先生もシャワーを浴びに行き、アラディスはパズルをして遊んでいた。

しかも、何と一色だけのパズルで、頭の神経を使わなければならなかった。他にも、先生の部屋には様々なパズルがあり、中には塔や教会を組み立てるような立体パズルまである。

驚くべき事に、黒のパズルと、教会の小さな立体パズルを完成させて床に寝そべって次のパズル、赤い薔薇の形の薔薇パズルをするアラディスを見て、つい感嘆の口笛を吹いていた。

「凄いな。こんなに完成させたのか」

「うん。おもしろいよ」

その横に座り、教会を見た。

「僕、もう眠くなっちゃった」

九時。先生は「そうだな」と言い、ロフト部分のベッドへ上がって行った。

ベッドに入り、アラディスは目を綴じた。しっかり肩までシーツを掛けてやり、赤や黒、紫の天蓋布の中のアラディスを見た。寝相は良いが、顔をあちらに傾け眠っている。自分も眠ろうと天井の絵を見ながら頭に腕を回した。

 アラディスは翌朝起きると、先生のぐっすり眠る顔を見つめた。照れてロフトから降りていき、キッチンへ向かう。冷蔵庫からジュースを出して、グラスに注いで飲んだ。

ソファーに座って、ジュースを飲む。

先生は目を覚まし、ロフトから下を見た。

「先生おはよう」

オレンジジュースを飲むアラディスを見て、アラディスは先生が眠そうだから首を傾げた。

今朝は濃い目のコーヒーを飲み、先生は頭をはっきりさせた。

「もう少しゆっくり眠っていても良かったのかもな」

「そうだね」

アラディスは朝食のパンを食べながら、頷いた。

「先生はお休みの日は何をしているの? 僕は友達と遊びに行くんだ」

「そうだな。俺も仲間内でパーティー開いたり、同じ様なものだが、時々読み矯めた本を読んで過ごしたりもするかな」

「どの本がいいの?」

「ここにあるのは難しい本ばかりだよ」

「それでもいいよ」

「待ってろ。何か選んであげる」

アラディスはその先生の背を見ていた。

「車の本は好きか?」

「フェラーリとか、パパが好きなんだ」

先生は車の本を持って来て、アラディスは受け取った。

「構造や部品の事まで事細かに載ってる」

ソファーに移ってそれを見て行く。

「先生は何の車が好きなの?」

「俺はアルファロメオかな。初めて手に入れたのもロメオなんだ。今は実家にあってミラノには持って来ていない」

「あれ。先生って実家どこ?」

「バチカン」

アラディスは驚いた様に目を開いた。

「意外。古都から来たんだ」

「ああ」

先生は嬉しそうに笑い、アラディスは膝で立ち、先生の横顔を間近で見た。先生は口をつぐんで、アラディスを見た。

アラディスは、いつも髪で隠れている先生の耳を首を傾げて覗き見て、ピアスが嵌っていた。学校では填めていない。クラスメートの女の子もよく、小さい頃から填めていて、可愛らしかった。

「痛そう」

「もう痛くないよ」

髪に隠れた耳を見て、アラディスは言った。

「僕のこと好き?」

「そうだな」

アラディスは照れて微笑み、カロッテェリアの巧みな洒落た車体の本を見始めた。

ベランダの柵に小鳥が停まり、ピイッと鳴いた。


 学校。先生は背後から来たほかの女教師に声を掛けられ、素っ頓狂な声を上げてしまった。

「どうかなさったの? 先生」

「いや。大丈夫」

「この学園には子供など出ませんから、幽霊達を恐がらせないで下さいね」

「もちろん。て、ええ?!」

「それでは」

女教師は言うと、歩いて行った。

教頭が来ると、先生を呼んだ。

「研修期間があと一週間で終りますが、先生は大学に帰られた後の半年後は、もう正式な内定は決まっているようですね」

「はい」

「その際に、バチカンに帰られる時、学園の校長によろしく行って置いてください。古くからの知り合いです。我々側も、先生の実務も良いので確実な推薦書を書き送っておきます」

「それはどうもありがとう御座います」

「児童受けもよろしいし、授業時も児童たちが真面目に取り組んでいる。やはり、若い先生の教え方が良いのでしょう」

その通り、先生は研修生だった。二週間したら、この学園を去る事になっている。


 アラディスは、再び落ち込んでいた。

先生の借りていた部屋を見上げても、もうミラノにはいなかった。

アラディスは歩いていき、自分が組み立てた教会がある場所まで、馬車に乗って送ってもらった。

「………。!」

アラディスは駆けより、その腕を引っ張った。

「先……」

振り向いたのは、背格好が同じだけの他の人物だった。

「あ、ごめんなさい」

アラディスはそう言い、その男の人から離れてベンチに座った。

足をぶらぶらさせ、膝を見つめた。そうやって、夕方までそこにいた。


 ★★★(2)夜の会話★★★


 ダイマ・ルジクが開く宴に出席する事になり、アラディスは両親と共に準備に取り掛かっていた。フランスへ向かうことにもなる。

ルジク専門学校のパリ校の関係者のパーティーだ。

物厳しい顔をした父親と、鋭い顔つきの祖父はやはり冷淡な性格をしていた。アラディスは、優しくほがらかな母によく似ていた。性格もそうだ。

仕事の為に、夜遅くまでいない父親との接点はそんなには無い。

「ええ。あと五年ぐらいしたら、トスカーナに落ち着こうと思って。その頃にはレオも自立できる頃でしょうから」

ママ、ローザは友人とそう話し合っていた。その話はママから聞かされていた。社交の為にラヴァンゾ一族の別荘のあるトスカーナに行くという話だ。アラディスは父親と共にルジクの屋敷に残る事になっている。

 深夜の宴には、子供は眠りの夢の深部に入っていた。

ダイマ・ルジクが友人達を募り、宴を始める。

「かのジルが失踪して、既に十余年か」

「そういうことになる」

男は渋く唸り、顎のひげを親指で撫で、組む足を一度揺らした。

「未だに信じられない事だがな」

「ああ」

黒に焦げ茶ビロードの重厚な一人掛けは、黒いシェードに照らされ、マドラスパイプから白い煙が立ち昇る。

「連盟も若年層の顔ぶれが随分と変ったものだ。我々長老会も、十年の寿命には打ち勝てんというわけさ」

ダイマ・ルジクは現在四十八の年齢で、ヨーロッパの大富豪連盟壮年会の一員だ。先ほどのジルという貴族の男は、十年前の時代を実質的な連盟の実権を握る若年層理事長を務めていた男だった。巨大な権力を持ち、世界随一の固有資産と力を持ち合わせた男であり、優雅にして、素晴らしかった。

だがそのジルは、三十二の若さで姿を消し、近年の噂では、何者かにより暗殺されたのではないかというのだ。

そんな話は、到底信じられるものではないのだが。魅惑的であり、強力にして強烈なオーラを持つ雅な男だった。大型開発事業を立ち上げていて、様々な開発を改進的に続けて来た人物であった。

「………」

ダイマ・ルジクは顔を上げ、九歳の孫息子を見た。

「アラディス」

扉が開けられ、その先にアラディスがいたのだ。

「………。ごめんなさいお爺様。眠れなくて……迷い込んでしまいました」

アラディスは素直に謝り、眠い目をこすった。ダイマ・ルジクの友人達に挨拶をしては、彼等は子供に向ける顔を作り微笑んだ。

「もう遅い。帰って眠りなさい」

「はい」

アラディスは引いていき、とぼとぼと歩いて行った。眠れないのだ。恐い夢を見て。

「アラディス坊や」

アラディスは廊下で振り返り、ダイマ・ルジクの友人を見上げた。

廊下は、黒マーブルの大理石は艶係り、鉄鎧戸の扉が装飾されてあり、青銅の額縁やマントルピースが重厚である。男性的絢爛さが、悪魔的でもあった。巨大なマントルピースのアイアンの柵は装飾が施され、アラディスを飲み込みそうでもある。

「眠れないのかい。私が共に部屋まで行こう」

「ありがとうございます」

グラデルシは微笑し、アラディスの手を持ち歩いて行った。

寝室へ着くと、アラディスは寝台に上がって羽毛布団を引き上げ、目を綴じた。

グラデルシの娘は他の部屋で戯れの底にいた。

彼は黒革の天蓋の中のアラディスを見ては、黒に灰色ファブリックのアームチェアに腰を降ろし、足を組んでは長い膝に肘を乗せた。

アラディスは体をグラデルシに向け、目をぱっちりと開いた。

「ジルって誰?」

声を潜め言った。

「話を聞いていたんだな」

アラディスは漆黒の瞳をした上目でグラデルシを見て、小さく頷いた。

「坊やは会う事の無い人物だ」

アラディスは頷き、再び目を綴じた。

恐い夢を見るのだ。

恐い夢を。

アラディスは恐くて、グラデルシを再び見た。

「一緒に寝て。恐い夢を見るんだ」

「ああ。分かったよ」

彼は紳士服のジャケットを脱ぎ折りチェアの背もたれに掛け、足を解くと震えるアラディスの肩を片腕で抱いてやり、腕枕をしてあげた。

アラディスは目を閉じ、恐い夢を忘れるために夢の記憶を真っ暗にする。

共に誘拐された二人の事を、時々思う事があった。同じ事をされ、彼等もトラウマを抱えてはいないだろうかと。あの後、保護されてからは一度も彼等には会ってなどいなかった。その為に、一切の情報は無い。

「僕、昔誘拐されたんだ」

呟くような声に、グラデルシは闇を見つめていた目をアラディスの艶の髪に向けた。

ママにも、ダイマ・ルジクにも誰にも言った事の無い事だ。友人のレッツォにも、男親の父親にも。

グラデルシは指で髪を撫でてやり、アラディスは腕に頬をうずめて目を綴じた。

「アラディス。いつか、私に会いに来なさい」

グラデルシが静かな低い声で言い、理由も分からずにアラディスはその声に安堵して頷き、そのまま深い眠りへと落ちて行った。

グラデルシは、眠りに就いたアラディスの背を一度抱くと闇から目を外し、小さな背を見た。

眠った事を確認すると腕を外し、ジャケットを着ては寝室から出て行った。


 ★★★(3)カインという少年★★★



ルジク屋敷の裏手にある屋敷の所の十四歳の少年が、ある高級ホテルでルジク一族のアラディス達と一緒になり、一晩家族ぐるみでディナーやその後を楽しんでいる時だった。

豹の様に目が印象的で頬が細く、唇の厚く鼻の筋が高いその中学の年上の少年は、名前をカインといった。小さいときは何かと面倒を見てくれることもあった。

アラディスは頬を薔薇色にして逃げて行った。

カインは父親が高級なガラスアンティークを取り扱う所の息子で、ホテルや多くの貴族達にも卸している。コレクションなども多く扱っていた。その関係で、カインの祖父もダイマ・ルジクとは古くから親交があった。ルジク屋敷にも、それらの美術品が幾つかキャビネットの中を光ってる。

アラディスは心臓をドキドキさせ、角から一度見たものの、ホテル客以外は今はいなかった。

「アラディス」

アラディスは飛び驚いてカインを見上げた。

「可愛い」

そう言い、カインは普段の無表情からにっこりと、魅力的に笑った。

「一緒に遊ぼう。部屋にチェスとかカードを持って来てるんだ」

よくカインは友人達と休みになるとナポリの海岸に行くらしく、きちっとした服装によらず肌がよく陽に焼けている少年で、背もすらりと高い。泳ぎが得意らしく、カインの親の持つ代々から伝わる別荘にある巨大でモザイクの立派なプールにも、アラディスを連れて泳ぎの練習もしてくれたこともあった。普段はあまり話すところを見ないのだが、一度だけ秘密で連れて行ってもらったナイトクラブで友人と話すカインは、表情も無く口調もクールだった事を覚えている。そして、時に笑うと実に魅力的だった事も。

アラディスは着いていき、まるでその後に監禁でも待つかのような広い室内へ入って行った。

「僕の部屋は二階の南側なんだ」

西側にカインの両親の主寝室があった。一階部分はリビングになっている。

階段を上がって歩いていき、その扉が開かれる。アラディスは上目で警戒してカインの背を見ていた。

扉が閉じ、アラディスを振り向いたカインは微笑んだ。

「怖がらなくていいよ」

まるで打って変わった様にカインが笑い、手招きした。

アラディスは安心して笑いカインのところに駆けつけ、共に硬めのソファーに座ると、カインは腰に手を回して微笑し見下ろし、アラディスの見る盤面を見た。

「素晴らしい盤面だろう? 実はガラスで出来てるんだ」

それがガレ風を模した濃い焦げ茶とアールデコの昆虫が装飾された盤面だった。

「すごいね!」

「お爺様がプレゼントしてくれたんだ。駒も可愛いよ」

そう言って、装飾ボックスの中からそれらの駒も見せた。

「本当だ!」

アラディスはニコニコとしてカインを見上げ、駒を一つ一つ見た。

可愛らしいアラディスは喜んで盤面に駒を並べ始めていて、カインはその輝く瞳の顔を見回していた。

「じゃあ、勝負しよう」

そう言い、カインが向かいの席に座った。

アラディスは嬉しそうに顔を上げ、その視線の先に、不気味なものが映った。

「………」

カインは先行で駒を進めている。

アラディスはカインの整った顔つきを見て、固唾を飲んで、ベッド横にあるナイトテーブル上の短剣を見た。プラチナに、金の百合の装飾が取っ手に着いている短剣は美しいのだが、何らかの恐怖を感じる。

「アラディス?」

カインはちらりと上目で見ては、背後を振り返った。アラディスは顔をばっと盤面に戻し、駒を進めさせたが、カインは体をこちらに戻さずにいて、アラディスは上目でそろそろとカインの耳を見た。彼は振り返り、アラディスの顔を無表情に戻り見下ろした。

「………」

危険なものを感じて、アラディスは逃げようと思ってソファーから走って行くと腕を掴まれた。

「怖がるなよ。ただの装飾品だ。飾りだよ。何をそんなに怖がるんだ?」

そうというだけには到底思えなかった。カインの目の奥には、何某かの物を求める猟奇的な光が見て取れる。

普段運動をしないアラディスはソファーに抑えられ、口元を塞がれて暴れた。

アラディスは恐怖と共に何らかの期待感が心にある事に気付き頬を染めた。

目の際が赤くなったカインの顔は、まるで別人かのように冷たさが消え血色があり、多いまつげが甘さも含ませた。

アラディスの頬に手を当て、。アラディスはただただぎゅっと目を閉じていた。

カインは震えるアラディスを見た。

盤面の横のローテーブルに足を組んですわり、アラディスはそのカインを肩越しに見ると、背に向かって座面にそのまま座って向き直った。背もたれの模様を見つめて、カインが傷ついて歩いていってしまった背を咄嗟に振り返った。

「!」

いきなりのヒステリックな音にアラディスは肩を縮めた。洗面所の方へは怖くて行けなかった。でも、しばらくしてもカインが帰って来ないために、恐る恐る覗きに行った。

「血が!」

アラディスは驚いて駆けつけ、いきなり手首を切っているカインを見上げた。床には置物が転がってシャワールームのガラスが割れている。

カインは、誰かに報せに行こうとしたアラディスの腕を引き止めて、その顔が怖くてアラディスは固まった。

「俺の物になれ。じゃないと」

「………」

アラディスは震えながらカインを見て、返事など出来なかった。首を動かす事さえ。折れるんじゃないかというほど手首をもたれ、アラディスは思い切り首を横に振って走って逃げた。

無我夢中で走って逃げ、派手にアラディスは転がって行った。

「アラディス?」

父親が怪訝な顔をして廊下上でアラディスを見て、その息子は二メートルも絨毯の上を転がって行った。

「パパ!」

アラディスは怖くて父親の脚に抱きつき、ガタガタ震えた。

「どうした。何があったんだ」

まるで尋問するかのようにいつもの冷淡な顔つきで父親は聞いてくる。アラディスは怖くて首をふるふる振り俯くばかりで、父親は当たりを見回し、何も異変の見られない廊下上はあちらのほうにエントランスホールが広がっている。奥は石のホールを中心にレストランやブランドの店舗や宝石店があった。その中間の廊下中心に、巨大で優雅な丸段の三連連なる階段ホールがあり、豪華なシャンデリアが下がっていた。

息子が来たのが、果たしてレストラン側なのか、部屋のある階段上部からなのかは不明だった。父親は遅れて今しがた仕事を終え、ホテルへ到着したのだから。

「ラウンジへ戻ろう」

そうアラディスの肩を押し歩いて行かせ、アラディスはレストランのある方向へ父親の横を歩いて行った。怖くてずっと俯いていた。

アラディスの父親は、妻であるローザを認めると歩いて行った。ダイマ・ルジクは現在カインの祖父と話している。

「あなた」

ローザは微笑み立ち上がり、そしてアラディスを見た。

「まあ。何処へ行っていたの?」

アラディスは首をただただ横に振っただけだった。

背後からは、カインは来なかった。

頑としてアラディスはダイマ・ルジクから離れたがらずに一緒に眠りたがって聞かなかった。仕方が無くダイマ・ルジクは共に寝てやり、その後の深夜の話し合いには出席しなかった。

アラディスは怖くて全く眠れずに、ダイマ・ルジクに難しい本を読んでもらいつづけていた。そうしたら逆にダイマ・ルジクが眠ってしまった。アラディスは仕方なく本を枕にして抱きつき眼を閉じた。

それでも眠れなかった為に、アラディスはその恐怖の理由を消すために、ダイマ・ルジクの借りる部屋の主寝室から歩き出て行った。

黒の温かなパジャマに、その上から黒の厚い生地の小さな十歳用ガウンを着て帯で締めていて、黒ファーの小さなスリッパで歩いていた。

アラディスは真っ白な肌の赤い唇から、息を白く吐きながら進み、上目でカインの家族が借りる部屋の扉を見上げた。当たりを見回して、執事などはいなかった。カインの父親のよく見かける秘書なども。

扉は開いていて、アラディスは驚いてすぐに綴じた。カインの両親が煌々と明りを灯し、夫婦の会話をリビングでしていたからだ。カインの祖父はもう眠っているのか、見かけなかった。

アラディスは、自分達親子の借りる部屋へ戻ろうとしたのだが、結局は歩いて行った。

パジャマのまま来てしまっていたのだが、スリッパなのもすでに頭に無く上階へ行く。

星が見えるテラスラウンジがあって、ナイトジャズが演奏され、ドレスや紳士服の大人達がいた。暗闇の中を、鮮やかなワインなどを傾けている。

「ルジクおぼっちゃま。親御様は」

ボウイがアラディスを見て、一人だったし、子供は単独では入れない。

「アラディス」

「………」

アラディスは店内のボックスの一つから顔を上げ、やってきたカインを見た。そのカインは他の仲間を連れていた。十四歳で友達とバーでジャズを聞いてるなんて、とアラディスは宝石を扱う所のジュニアといたカインを見上げた。

「可愛いアラディス。おいで」

カインの祖父はやはりホテル側とも親交が深いので、カインはどこでもフリーパスで入る事が出来た。アラディスはスリッパにパジャマとガウンで歩いていき、宝石商のジュニアの彼女が「なんて可愛い」と言ってアラディスを横に座らせた。

「ダイマ・ルジクの孫ね? 何歳になったの? 大人びてバーに飲みに来ただなんて」

おちゃめにそう言い、アラディスはその二十三歳の美人を見上げた。

「九歳。小学舎の三年生なんだ」

「おませさんね」

アラディスはカインがオーダーして出されたパイナップル生ジュースを見て、カインが受け取っては渡されそれを飲んだ。

カインは悦として微笑し、時計をちらりと見ると会話を始めた。薬を混ぜたからだった。今宵ラウンジに居る殆どが、影でこのナイトジャズを麻薬をキメ集っていた。

 アラディスは丸まって目をさました。

黒いスキンの丸いベッドの上だった。ヘッドボードは群青ビロードのボタンダウンで天井まで高く、クラウンの黒い額縁をしている。激しい女の声で目を覚まして、顔を上げると、あちらの銀色の照明の下で宝石商のジュニアが白い肌の彼女を下にソファーで交わっていた。驚いて目を綴じたアラディスは、暗闇の占領する室内を見回した。群青の細い支柱から、厚い黒シルクの天蓋が下がっている奥のスペースに、カインがいた。群青のソファーに座り、黒石材のローテーブルが置かれ、その上に真っ白の粉が散らばり、カインがストローで鼻からそれを吸っている。

アラディスはどちらにしろ目を綴じた。

カインがアラディスに気付き、微笑して歩いて来た。

アラディスは短剣や手首を切った場面を思い出し、目を閉じて身をかばった。

「アラディス」

だが、カインは寝台の石台に薬でふらつき倒れ、アラディスはその腕を咄嗟に持った。カインが「糞っ」と悪態をつき、ベッドに体重をかけるとアラディスを見た。

いきなり覆い被さり、アラディスは驚いて顔を真赤にした。

、アラディスは首をぶんぶん振ってカインの肩を蹴りつけていた。

カインは驚いて肩を抑えアラディスを見上げた。

「………」

その時だった。アラディスはそのカインの自分を見上げて来た顔に、虜になったのは。

カインは尻餅をつき、痛そうに肩を抑え、泣きそうな目でアラディスを見つめ見上げている。

アラディスはなにかの感覚が痺れたように背を伸ばし、上目になって、自分が微笑んでしまわないように口をきゅっとつぐんだ。なんだろう? 以前にもこういった事が愛しいと思って仕方が無かった。算数の先生が、痺れた声で「ごめん」と言った項を見た瞬間に、激しく愛しいと思ったのだ。

カインはアラディスの頬を真赤にする上目の視線を見て、そろそろと再び抱き、目を閉じた。

それは一種、不可解な絵だった。まるで、アラディスという名の可愛らしい主に従う下僕かのような。

だが、アラディスは我を取り戻して必死に逃れ、黒い空間から走って逃げた。

心臓はバクバクと鳴っていて、アラディスは絨毯の上で転がって行った。

「おぼっちゃま」

ホテルの人間が驚いて駆けつけアラディスを引き起こした。

「な、何でも無いんだ。ありがとう」

そうアラディスは言い、気を落ち着かせて歩いて行った。

自分はもう九歳にもなったんだから、そんなに怖がっていてもいけないと思い、やはり怖かったものの家族で借りている部屋の、アラディス自身の寝室に戻り、暗くて寒い中をベッドに入って布団を引き上げた。それでも、目が冴えて一切眠れない。それが薬のせいだなんて事はアラディスには分からなかった。ただただ気分がまだ昂ぶっている。

無理に目を閉じ、ダイマ・ルジクが聞かせてくれた難しい内容の本を丁寧に思い出しながらあった事を忘れるように努めた。

 アラディスは翌日、酷い吐き気で目を覚まし、くわえて頭が痛かった。

アラディスは父親に背を擦られながら吐き続けていて、哀れな程真っ白になっていた。食事に何か妙なものもなかったし、信頼されるホテルに負い目があるわけも無く、ママはアラディスの頭を撫で続けた。

「きのうはとても緊張し続けていたし、その反動が来たのね」

ママはそう言い、アラディスの真っ白な冷たい顔の汗を拭ってあげた。アラディスはうんうん唸っていて、目を閉じていた。まさか、薬が原因だなんて事は両親は知る由も無い。

あの夜から、カインがアラディスに何かして来る事はなくなった。

その為に、普段どおりを過ごしていた。


 ★★★(4)何らかの内面変化★★★


 カバンを肩に担いで、小学舎に来るとアラディスは机にカバンを置いた。

「あら?」

「え?」

女子がアラディスの雰囲気がどこか変ったから振り向き、アラディスは首を傾げて彼女を見た。

「何?」

アラディスは自分の身の回りを見回し、首を傾げてまた見た。

「なんか、変ったって思って」

「変った?」

「ううん。なんでも無い」

女子はそうにっこり笑い、いつもの様に椅子に座った。

アラディスも微笑んで椅子に座り、ダイマ・ルジクが読んでくれた難しい本の続きを開いて始業までを読み始めた。

「なあ。アラディス。今度、カロッテェリアの新車ショーがあるんだって。一緒に行こう」

男子生徒がそう言って来て、アラディスは顔を上げて微笑んで頷いた。

「アラディスは何の車乗りたいんだ? 将来大人になったら」

「あたしはフィアットがいいなあ」

「俺はマセラーティー」

「僕はアメリカの車だけど、キャディラックに乗りたい」

誰もがアラディスを見た。

「黒のフェラーリ……」

「黒のフェラーリ?」

アラディスはふと顔を上げ、なぜそう思ったのかは分からなかったものの、そう応えていた。

「黒だなんて、ランボルギーニみたいだね」

「でも、アラディスは瞳が真っ黒いから似合うわよ」

「アラディスは可愛いからフィアットとかの方が」

バンッ

「え」

アラディスは重い本を机に叩きつけていた。

「可愛いなんて言うな!」

高い声でアラディスはかんかんに怒ってそう言い、教室から出て行ってしまった。

誰もがいつも可愛くてにこにこしていて優しいアラディスが怒ったので驚き、顔を見合わせた。

「どうしたんだろうね。お腹痛いのかな」

「怒ってたね。驚いたよ」

「アラディスでも怒るんだな。お前が可愛いとか言うからだよ」

「よく言う事じゃん。でもちょっと怖かったな」

「黒のフェラーリを馬鹿にしたからじゃないの?」

「別に馬鹿にしてないよ。格好いいとは思ったけど」

「お腹大丈夫かなアラディス」

アラディスは泣いていた。膝をかかえて美術室の隅で泣いていた。可愛いと言われてカインに来られた時は怖くて仕方なかった。あの誘拐犯も可愛いと言って酷い事をして来た。自分も男の子なのにこんなに女の子みたいな顔だし弱いからいけないんだ。自分よりも女の子の方が気が強かった。

「どうしたルジク」

美術の先生を見上げてアラディスはぐすんぐすんと目元を指で拭い、そのアラディスに美術の先生は口を告ぐんで背筋を伸ばした。

こんなに今まで色っぽい風の子だっただろうか? 

「ほら。涙を拭いて」

「ありがとうございます」

ハンカチを受け取って涙を拭い、アラディスは立ち上がって四十五歳の整った細い顔をしたその美術の先生を真っ直ぐ見た。イタリア人ではないので、ブリティッシュ系の静かな顔立ちをしている。美術の先生はその真っ直ぐとした視線のアラディスを見て、ミステリアスな弱さと何らかの反発を感じ、その時初めて切に彼を描きたい、という欲望に一種にして渦巻かれ、眩暈を抑えて口端だけがぎこちなく微笑んだ。

「いいや」

「僕……」

アラディスが俯き、いきなり胴に抱きついた為に驚いたが、肩に手を置いてあげた。見下ろすアラディスの目を閉じる綺麗な顔立ちは、背徳の美しさを感じ、彼は息を飲んでから辺りを見回してはそっと背を抱いてあげる。

美しいものには魔が宿る。

悪魔も然り、だ。背徳の美に酔いしれる。

だが、純真無垢なアラディスからは魔的なものなど意図して窺えず、不可解さが取り巻いていた。

「何かがあったのかい?」

「僕、可愛く無いよね?」

「え? いやー……、ええっと」

どこから見ても女の子よりも愛らしい顔をしているので、そういわれて正直困って首を傾げまじまじと見てしまった。

「ああ、そうか。男の子なのに可愛いと言われて怒ってここまで来たんだな」

「だって、僕男の子なのに」

そういじけて地面を見て、美術の先生はそんなアラディスに言った。

「確かに、可愛いという側面は男性的なものでは決して無いのかもしれないよ。だが、生物学的にいうと、殆どの生物が可愛いという部類に入るんだ。美術の時間でも、動物を書くときはその愛らしい特徴を捉えるために目や鼻や口を極めて近づけて描くように心掛けさせるだろう? もしも、可愛いか、可愛く無いのかで男を分けるとしでも、実は殆どのどの男の顔も可愛い部類に入るんだ。そうは怖いという部類の人間は存在しない。よく思い返してごらん。だろう? よほどの魚顔でなければいない」

「………」

「うーん。全くフォローになってないなあ~」

アラディスは可愛らしい顔で笑い、顔を上げた。

「いいよ。ありがとう先生」

いつもの輝く笑顔を取り戻していた。

「僕、授業に戻るね」

「ああ。いってきなさい」

アラディスは礼をして、廊下を歩いて行った。

その後、友人達と共に車のショーに来ていた。同伴で誘ってきた少年の父親もその四人の子供達を引き連れていた。


 ★★★(5)モデル達★★★


 アラディスは嬉しそうに自室で四人を見た。

「今日は来てくれてどうもありがとう。さあ、ここに並んでよ」

四年前に百貨店で見たブランド広告塔の子供モデルは中心左にいた。成長していても、目元と顔つきで直ぐに分かった。多少冷めた風の顔つきをしているその少年は、名前をギルバートと紹介され、年齢は十二歳だった。他のモデルの子達も、アラディスと同じ九歳のアルフレッド、それに十歳のフランス人、マルメラード、十一歳のエルドットだった。

ダイマ・ルジクに、立体モデルとして来させる事を願い出て、許可を得たのだ。九歳は成長も早いし、それにあわせて毎回行事や時期、場面に合わせてオーダーメイドする必要がある。二人ずつで身長の差の無い、大体の体系も同じ子達を連れて来られた。雰囲気は異なる物の、充分アラディスのモデルにもなれた。

アラディスがギルバートに微笑むと、ギルバートは先ほどの冷めた顔つきが嘘かの様に、メイクーン猫そっくりの顔で笑った。

ギルバートは赤ん坊の頃からブランドの専属モデルをしているらしい。兄はDJをやり、もう一人の兄はアメリカに居着くバイカーなのらしい。

「一通り、仕立てる人間に入ってもらうからね」

アラディスはそう言い、綺麗なガラスをりんと鳴らした。

使用人が入ってくると、デザイナーと仕立て人が入って来る。あらかじめ用意された衣装を箱から出した。

「二人はこれを着てもらいたいんだ」

そう言い、衣装を着させる。目の前で今の洒落たデザインのブランド物の服を脱いでいく彼等を見て、アラディスは目が合ったギルバートににっこり微笑んだ。彼等は服を着ると、アラディスは動き易さのポーズをとらせたり、回らせたり、姿勢を変えさせたりした。

「その場所から俺のところまで歩いてみて」

そうして、気になるシルエットを見つけて、その脇腹部分を腕を上げさせて背後までのシルエットを覗き込み、唸ってからアラディスはパタンナーにそれを言って変えさせた。他にも飾りを取ったりもした。

「他の人間は色合わせね」

あとの二人は下着姿で立ち、デザイン中のパターンを何種類もの素材と色であわせていく。

「その色、紫にして。黒っぽくて落ち着いた深みのある色の奴。ちょっとピンクっぽいのが光ではいる様な。いつくかパターンを合わせて。あ。その色いいね。それと、ピンク味を抜かした黒勝ちの青紫のスカーフもね。厚手のシルクで。シャツはグレーでいいよ。ジャケットは黒のビロード」

「しかしおぼっちゃん。おぼっちゃんの場合はシャツは曖昧な色よりも、はっきりとしたお色のほうがお顔立ちが」

アラディスは自分の雪の様に真っ白い肌の手を見てから、パタンナーの顔を見上げ、手を下げた。

「でも黒だと重い」

「白にしましょう」

「そいつ顔立ち相当はっきりしてるからグレーでもいいんじゃねえの?」

「お願い作ってみて。グレーのパターンと白の時と黒とかも」

「それはもちろん可能にございますよ」

アラディスはそんなことはさっさと済ませ、折角部屋に呼んだから嬉しくて仕方が無かった。

二人に感謝してから、四人を振り返った。

「俺と友達になろう」

四人は着替えている最中で、アラディスに顔を向けると背を伸ばした。着替えも終ると、促された椅子に座った。

「駄目?」

目の前のギルバートを見つめて、ギルバートはその目を見ては、雑誌をめくった。

「………」

ギルバートは思った。可愛い奴だ。さっきから視線とか笑顔とかが可愛い。歩いているだけでも可愛いし、動く人形のようだ。仕草も口調ほど子供っぽくは無くてどこかしっかりして颯爽としていた。恵まれた賢さもあり。周りにはいないタイプだと言うほど純粋だった。

そのアラディスも雑誌をめくり始めた。真っ黒の睫がやはり可愛らしく、多くてくるんと自然になっている。

「いいのか? アラディスのあの祖父さんが許すかな」

「大丈夫さ。何処ででも秘密なんか作れるから」

アラディスはそう言いながら、モデルのギルバートが持って来たファッション雑誌を捲り、顔を向かいに座るギルバートと、他のベンチに座る三人を見た。

その中でも、エルドットが椅子の背に片腕と顎を乗せ、女の子よりもだんとつに可愛い顔をした綺麗な貴族の子息、アラディスを無言で見つめていた。ギルバートがお気に入りらしく、ずっと彼に愛らしく笑いかけている。

エルドットは意地悪をしたくなり、立ち上がるとギルバートの空いたスペースに座り、アラディスを見てから、ギルバートを横目で睨んだ。普段、事務所でもエルドットはギルバートとあまり仲が良くは無い。シベリアンハスキーのようなエルドットの顔を横目で睨んでギルバートは背をつけ、組んだ足をふらつかせた。

アラディスはページをめくっていて、それは両親の元に送られて来る富豪限定の高級で格が上の月刊書籍とは異なり、極めてミラノの街角に居る若者向けのお洒落なものだった。アラディスには、その方が魅力的に感じた。ミラノコレクションの様子や、お洒落なナイトイベントの様子など、最新のミュージックや派手な流行のファッションを取り扱っている。

エルドットは女の子も好きだが、綺麗な男の子も好きだった。だからモデルをしている。親は高級ヨットを扱う裕福な家庭の人間で、息子を好きにさせていた。子供は豪快に遊ぶ事が一番というのがエルドットの両親の言葉だったが、その通り融通が時に利かなくて困る。

エルドットはアラディスの脚に爪先を伸ばし、アラディスは顔を上げてエルドットを見た。

その彼がテーブルに肘を立て身を乗り出し、アラディスの耳に囁いた為に彼はエルドットの顔を口を噤み見た。

「アラディスって俺のタイプだ」

ギルバートはエルドットを睨んでその脇腹に肘鉄を食らわせ、何食わぬ顔で他の雑誌のページを捲った。エルドットは立ち上がったものの、二人で話し合っている中のマルメラードに一言で止められ、背後を見てから向き直り座った。

「アラディス。悪いな。エルドットはこうなんだ」

「どういう意味だよ」

アラディスは喧嘩を始めそうな二人を見てから、あちら側のマルメラードを見た。マルメラードは肩をすくめていた。

「みんな、普段はミラノに?」

「事務所がミラノだからな。姉がルジク美術学校に通ってるんだ」

マルメラードがそう言い、顔をまともに向けて来た。

「へえ……」

将来、もしかしたらそういう学校の行く行くは理事長になるのだろうと思った。ダイマ・ルジクも年月も経れば現役を下りなければならなくなる。

もし、それが決まったら三年間をルジク学校に通わなければならない。本格的に芸術や美術の事を学ばなければならないのだ。

使用人がドアをノックした。

「アラディス様。お菓子を持って参りましたよ」

「ありがとう」

アラディスは立ち上がり、持ちに行った。

ギルバートはその背を動物の様に上目で見ていて、背後からエルドットに囁いた。

「凄い可愛い奴だな。ちょっと俺、今夜誘ってみるつもりだ」

エルドットは肩越しにギルバートの卵型の小さな顔を見て、片眉をあげた。

「いつから男も良くなったんだよ」

そう小声で返して向き直り、アラディスはテーブルに持って来たものを置いた。

ギルバートはアラディスが座ったその真っ白い首筋を見て、真っ赤な唇、そして滑らかな頬。そして綺麗な目元を見つめた。

「今日、夜にクラブに行かないか? モデルの奴等が揃うイベントがあるんだ。最新のクラブミュージックの皿も回されるし、いろいろな情報交換も出来るし、フランキーに楽しめるぜ。踊ったり出来るしな」

そして、最高の微笑みで微笑んだ。

「アラディスの音楽に叫んで踊る所も見てみたい」

 派手なパーティーは、若者だけで何の正式な型苦しさもなく、極めで雑誌の世界を再現していた。それよりも音もあり、光もうねり、人々が充ちていて鮮やかだった。カインと行ったナイトクラブの怪しげで危険な暗黒とアングラな音楽の世界ともまた違う。

アラディスは実は、身分が知られるとダイマ・ルジクに報告されてしまう危険をもっているので、変装していた。そういう人間も多かった。

変装と言っても、何も猫のファーのスレンダーな着ぐるみをつけてなどいない。

最新のお洒落な物を着て、頭に洒落た深い帽子を被り、装飾品で飾り、パーティーの人間に完全に一体化していた。普段のシンプルで落ち着いた装いのアラディスは影も形も消えている。

まるで世界が違った。ギルバートがアラディスの肩を抱いて人並みを越えていき、多くの人間に紹介していく。家名は避けて紹介している。

会場は唸る音楽と笑いと笑顔と色に溢れていた。アラディスは嬉しそうに喋っていて、しらない様々な世界を誰もが語った。

 目を覚ますと、ギルバートの部屋だった。十代のモデル達がシェアをして親に金を管理させてもらって借りているらしい。

アラディスはソファーの上でうなって、エルドットは絨毯の上でスツールを枕にしていた。ギルバートは向こうで何かをしていた。他には、パーティーで出会ってこの建物に同じく部屋があるロヴァートがアラディスの頭側で背もたれに腕を広げて寝ていた。

パーティーも佳境に入るとその後は他の洒落たパーティーに連れて行ってもらったのだ。ピンクの照明が自棄にクールで大人のクラブ曲が鳴るようなカクテルを出す所で、アラディスはギルバート同伴で許された。その後、街角を騒ぎながら移動していき、部屋に来て騒いでいた。

「お目覚めか」

ギルバートが振り返ってから向き直った。アラディスはそこまで歩いていき、横顔を見上げてからテーブル上のものを見た。

「凄いな。これ、ギルバートの奴?」

「ああ」

それは繊細な造りの何かだった。飾りだろうか。黒樹脂の洒落た枠の中に、様々な色のラメがフィルムに挟まれ群青の液体の中で煌いている。それを、横のつまみで回すと白いペガサスや、月やそういった物が現れた。

アラディスはそれを見下ろすギルバートの横顔を見て、背を伸ばして唇に一瞬柔らかくキスを寄せた。

ギルバートはアラディスを見て、アラディスはギルバートの目を見つめた。

間近で見つめ合ったまま沈黙が流れて、いきなりギルバートが「いて!」と頭を押さえて背後を振り返った。

エルドットがスツールに肘を乗せて伏せ気味の目で物を投げつけたのだ。

「のやろう!!」

アラディスは凄い顔をして瞬きし、エルドットに殴り掛かったギルバートとその二人を見た。馬乗りになってガードする腕を激しく攻撃している。

その騒動にロヴァートが置き、首を振ってまた寝る準備をしていた。なにやらこんな事は日常茶飯事のようだ。既に眠っている。

「ちょ、ちょっと、やめなって二人とも」

ギルバートはエルドットから降り、クッションを投げつけて向き直った。エルドットは舌を出してクッションを脇に抱え、ギルバートの足を蹴ったものだからまた始まりそうになり、ギルバートは「あっ」と叫んだ。

アラディスが吹っ飛んでいき、ロヴァートも目を覚まして体を起した。

実は、慣れているのでアラディスは起き上がり、駆けつけてきた三人を見た。慣れている、というのも、何か屋敷でマナーを違えたりするだけで、罰が与えられてきたからだ。

「悪かった。痛くないか?」

アラディスは首を横に振り、エルドットはギルバートを睨んだ。

「大丈夫だから喧嘩はやめろってば」

そう言い、肩を軽くおどけさせた。

「投げ飛ばされるのは慣れてるから」

三人ともそうさらりと言ったアラディスをみて、一瞬を置いて笑った。

「何だか変った奴だなお前」

そう言って引き起こした。アラディスが背中を振り返っている横顔を見て、ギルバートはさっきの光の差す瞳が忘れられなかった。エルドットは気に入らなくて不貞腐れ、ソファーに足を放って座った。


 パンツから出した生地の厚めの白シャツに柄とワッペンつきの細身の短めネクタイ、細身のパンツに紐ブーツを履いて、一見それがアラディスだとは誰もわからなかった。肩にバッグを軽く担いでパンツポケットに片手を突っ込み石畳を軽く走って行った。そして鼻歌交じりに歩いて行く。ラフだったからだ。

セットした黒の前髪からちらりと黒の可愛らしい目が覗きほんのり元のピンクの頬が続く。綺麗な鼻の下、可愛らしい唇もそうだった。

それと、耳に一つピアスを開けた。黒い丸石が黒髪から覗いていた。可愛かった。

きっとラフな風を見るとダイマ・ルジクが激怒するだろうから、美術館系の連盟の出張に合わせて出かけた。

今日はマルメラードの姉の車に乗せてもらってお出かけだった。あの時の四人も揃う。

意外なことに、エルドットには双子の姉がいた。同じ顔で、性格の気の強さも似ていそうだった。

「ルジクの孫ね」

その少女が高級ヨットの所の社交名、ベリアーヌだと今気付いた。宴では、美しいドレスを着て髪を結い上げ、大人達顔負けに淑女だからだ。今は雑誌から出てきたような派手な格好をし、メイクもモード的だった。

「相変わらず可愛い。そういう格好、凄く似合うわね」

可愛いとか言われてアラディスは頬を膨らめ、眩しい中からフォルクスワーゲンの乗車口に足を掛け乗り影の差す座席に座ろうとした。

マルメラードの姉が座席に肘を乗せ振り返った。

「ハアイ。可愛いアラディス君」

アラディスはガクッとうな垂れ、よく専門学校の懇談会でダイマ・ルジクと父親に連れられて行く時に合うフランス系ロシア人のマストネ・バル=エファーナを見た。彼女が冷静なマルメラードの姉のようだ。溌剌とした性格で、さすがに理事長のダイマ・ルジクには礼儀正しいのだが、いつでもアラディスを小さな頃から「縫いぐるみ」と呼んでいた。

「まさかマストネがお姉さんだったなんて、全く思いも寄らなかったね」

「姉は性格がこうなんだ。母は違うんだけどそこから来たものだと思うよ」

「でも、派手なモデル生活を好んでるあんたもその口だと思うけど?」

マルメラードは可愛く舌をぺろりと出した。

その横でアルフレッドは膝を折り曲げまた話さずにキュービックを回していた。いつでもこうだ。声を一度しか聴いた事が無い。その時はお口が悪かった。

長い首の上の頭が小さくスレンダーなギルバート、大柄でシベリアンハスキーに似たエルドット、双子の姉で気の強いベリアーヌ、冷静な性格でフランス人のマルメラード、溌剌としていてロシア系フランス人の姉マストネ・バル、寡黙で一人が好きそうなアルフレッド。そしてやはり女の子よりも可愛らしいアラディス。彼等はフォルクスワーゲンに乗り込んで走らせていった。



■1928年■アラディス・レオールノ・ルジク 小学舎六年 十二歳


 ★★★(2)セルゾ★★★


 机の横に立ち、そして背の高いセルゾを見上げた。

アラディスは鍵の掛けられたドアの方向を見た。

「あなた。いいかしら」

セルゾの妻だ。彼女はこの所、小さな頭の髪を洒落たショートボブにさせていて、長い首が覗いている。狭い肩もやはり綺麗だ。

セルゾは「ああ。もちろん」と言い、アラディスは背後の壁に並ぶ書籍の数々から、北欧文化に関する革の書籍を抜き取った。

妻はドアを開き、エレガントなビロードカーテンが開き光が差し込む中、書斎机に腰掛ける素敵な旦那と、書籍を開き見ているアラディスの小さな背を見た。

「アラディス。今日はレッツォが出かけていて悪いわね」

「いいんだ」

アラディスはすらすらと読みながらそういい、そして顔をにっこりと微笑み向けた。

「ミスターセルゾが僕の相手してくれていたから」

「良かったわ」

妻も微笑み、頷いた。

「何か飲み物を出すわね。何がいい?」

「ありがとうございます。何でも構いません」

「じゃあ、ホットハニーレモネードを持って来るわね」

妻は微笑み引いて行き、アラディスは微笑んでいたのをセルゾを見た。

本を机横の金とビロードモスグリーンのスツールに起き、アラディスは本棚に背を付けた。

「アラディス。今度、小学舎での合宿時に父兄会の私達も同行することになっているんだ。スイスの寄宿舎で十四日間の予定で」

「本当?」

アラディスは嬉々として微笑むセルゾを見上げた。


 高度の高いダイヤモンドの様に、美しく大粒の星達が夜空には大群を引き連れ強く輝いている。そう言う場もあれば、一つ一つがもっと巨大に輝きを発して、夜のビロードに転々と煌き星座を形作っている場もあれば、まるでプラチナの粒子のようなサラサラの滑らかな煌きを寄せ集めている部分もある。

雪を被った常葉樹がそれらを見上げていた。真っ白の雪に覆われた連峰は月光と星明りを受け、あちらの方に不動の態を据えている。

窓から覗く空は今、無かった。何故なら重く厚いカーテンに空間は閉ざされている。その代わり、明りとなる物には暖炉の灯火があった。揺れ動いては、空間を暖めている。緩い空気に充満させては、炎は時々音を立てた。

絨毯の敷き詰められた冬の室内は、繊細な模様に火影がまぶしく揺れている。まるで、それにあわせて踊るかの様にアラディスはステップを踏んでいた。

正装の黒のスラックスに、腰にシルクを巻き、丁寧なつくりの白のシャツはしっかり釦が填められ、その背に緋色が映っていた。髪をしっかりと整えられている。

セルゾはソファの縁に座り、その踊る姿を見ていた。

「社交に出たら、エスコートしっかり出来るようになるかな。」

「ああ。まるで黒猫のステップのようだ。なかなかうまいぞ」

アラディスはステップを踏み続け、くるりと一回転した。まるで粉雪が舞うように。

アラディスは雪の精かのようでもあり、美しい。

小学舎の六年生の児童達と共に、寄宿に来ている今、夕方のパーティーも終わり、子供達はそれぞれが就寝の九時半までを過ごしていた。日記を書いている子もいるし、窓から闇に降る雪を友達と見ては話している子、食堂に来て勉強をしている子達、本を読んでいる子達、さまざまだ。

教師達は今、反省会と会議を開いている。六名の保護者達、父兄会の面々は子供達の様子を見ているか、キャビンに出てコーヒーを飲んだり、其々を過ごしている。

この寄宿舎は、セルゾも友人である男が経営しているマナーハウスだった。夏には貴族同士で連れ合って避暑に来る事もあるし、山でのパーティーの為にも使用されたり、勝手知った場所だった。

アラディスは炎の火影と共にステップを踏むのをやめ、セルゾを見た。

小さな硝子窓の向こうは轟々と吹雪いていた。

暖炉の火は徐々にくすぶり弱くなって行く。室内の暗がりは濃くなり始め、濃密な闇に侵食されるのも近いだろう。

猛吹雪が分厚いカーテンの先からも耳に響く。

他の部屋の子供達は激しい吹雪に消灯した中を声を潜めて話し合っていた。教師や父兄達は懐中電灯で、点検を始めていた。

耳には激しい息と悪魔の様な猛吹雪が窓を叩き続け響く。強靭な氷柱が壁を強烈に叩き突き続けていた様に。


 ★★★(3)親友との決裂★★★


  「レオ。俺、マンマについてフィレンツェに行くよ」

それだけを言い、レッツォは歩いて行った。

アラディスは俯きながら歩いて行った。

ずっと石畳を見ながら歩いていたので、ぶつかってしまった。

「おい平気か?」

アラディスは泣き濡れる真っ黒の瞳で引かれた腕を持つ男を見上げ、その瞳は白い光を受け、涙が真っ赤な唇横をぽろぽろと流れていた。

随分可愛らしい顔をした男の子だなと思いながらも、青年は肩を微笑み叩いてやった。

「坊主、よくこの店の前を俯いて歩いてるよな。小さな頃から」

その場所は、よく通る道だった。店も多いので、この近くの店でよく買い物もしていた。だが、このバーには当然入った事は無い。

「と思えば、ニコニコ嬉しそうに走って行くし」

確かに、アラディスは感情の表現が素直だった。嬉しいときには嬉しくて仕方が無く、真っ白な雲を乗せるミラノの空の水色のように澄み切っていた。だが、落ち込んだときはそんな綺麗な空の下でも顔も上げる力も無くとぼとぼと歩いて行く。

青年はチョークを前掛けの中に戻し、店のメニュー黒板をいつもの位置に置くと、アラディスに「来いよ」と言った。

「何かジュースでも飲んでいけ」

「ありがとうございます」

「おっと礼儀正しい子だな」

青年は笑い、カウンターに引いていき、女の子の店員に声を掛けてジュースを用意させた。

椅子に座らせ、青年もその向かいに座ると、木の円卓に腕を組み乗せアラディスの顔を微笑み見た。

「まあ、飲んで元気出せよ」

「はい。いただきます」

アラディスは飲みながら減って行くジュースを見ていて、ちらりと泣いた事でピンク色になっている頬の上の漆黒の瞳で青年を見た。

「うまいか?」

「うん」

そう頷き、青年の笑顔は小学時代の算数の先生を思い出す。

「ありがとう」

青年は微笑んでアラディスの頭を撫でてあげた。

レッツォの母親がミラノを離れ別居を始めたことと同様に、その半年前からアラディスの母ローザもトスカーナへ社交の為に住み始めてもいた。


 ★★★(4)ダイマ・ルジクの書斎★★★


 アラディスは、興味があってダイマ・ルジクの書斎へ入って行った。

多くの美術学校の創設者であり理事長でもあるダイマ・ルジクは、他にも多くの美術館の館長でもあり、そしてオークションハウスなどのオーナーでもある。美術展を開く時の主催者でもあるし、美術・芸術の世界で名を馳せていた。

アラディスは鍵の掛けられた美しいキャビネットを見て、他の数多くの鍵の掛けられるキャビネットや美しい戸棚を見回す。

本棚は、美術や芸術論、建築に関する頭の痛くなる様な難しい本ばかりだ。その本を見るために何本か選び、ソファで見ようとそれをローテーブルに置く。

綺麗な形の書斎机のところに来る。

アラディスはふと机上を見て、普通に置かれた重厚なブックエンドに挟まれた本の間の、封筒に目が止まった。

背を伸ばし、ハイバックに沈んで脚を引き寄せ、その封筒から手紙を出した。

「?」

枚数は二枚で、明らかに一枚目が無かった。

 『森林形成事業は今度の地球規模には必要となる

  行動といえよう。

  その為に、是非とも我が同胞に期待を寄せたい。

  ダイマ・ルジク氏の素晴らしい感性の元、それを行

  なえるだろう事を悦ばしく思う。』

そういった内容の手紙で、要点は一枚目に書かれていたようだ。きっと、美術館系や芸術関係の品を差しての事だろう。

美しく優雅にして流麗な文字は、したためた相手に雄弁な印象を持たせた。文面からも落ち着き払った若々しい風と、まるで強い笑顔が窺えるかの様な。

アラディスは二枚目の文末を見て、その名前から目が一瞬反らせなくなった。

短く、『君の友人、ジル』そう、書かれていたのだ。

「………。ジル」

その名をずっと昔、一度だけダイマ・ルジクとグラデルシの会話から聴いた事があった。六人ほどが六角形のローテーブルを囲い、一人掛けに収まり話し合っていた大人の会話の記憶だ。

「見ているのか」

「!」

アラディスは飛び驚きダイマ・ルジクを見て、罰される事を恐れて動けなくなった。

だが、ダイマ・ルジクは何も怒る事はなく、いつもの鋭い顔つきのまま歩いて来た。

アラディスは片目を開けて上目でダイマ・ルジクを見ると、手紙を封筒に入れ、ダイマ・ルジクに返した。

「ジルって、美術関係者か絵のコレクターだったの?」

恐る恐るそう聞いた。

「アメリカの大実業家だ。元は先祖がイギリス時代の最上流貴族の末裔でな。若くして素晴らしく才覚を得た才気ある男だったよ」

その話にアラディスは背を伸ばし、もっと知りたがったものの、それをダイマ・ルジクに言う事は躊躇われた。

「……恐ろしい程にな」

アラディスは顔を上げ、ダイマ・ルジクの鋭い横顔を見た。

「お爺様の親友だったの?」

「そういった物かもしれん」

だが、そのジルという人物が既に失踪した、という事をあの時聞いていたのだ。あのダイマ・ルジクさえも苦い顔をしていた。

恐ろしい程の権力は時に、阻まれるものだとよく歴史は語っているものだ。良くも悪くも権力というものは巨大になると、人々をそれ程に突き動かすカリスマ性がある。

グラデルシからジルの話をしている時に読み取ったものは、深い尊敬にも似た意だった事を覚えている。

「勝手に入ってしまってごめんなさい」

アラディスはそう言い、ダイマ・ルジクの言葉を待った。

「構わないさ。今に、お前には仕事を早くから継がせるつもりでいる。息子はあの通り会社を独立させたからな。私の仕事を立派に受け持ってくれるね? アラディス」

アラディスはダイマ・ルジクの目を見て、小さく頷いた。

ダイマ・ルジクは鋭い目元のまま微笑み、アラディスの頭を撫でた。そうやって微笑むと、更に鋭い顔つきにもなる。

ダイマ・ルジクはアラディスを廊下に促しながら言った。

「お前にも私の古くからの社交の仲間などを改めて紹介する。明日の宴では立派に振舞うんだぞ」

「はい」

アラディスはそう言い、ダイマ・ルジクの書斎から廊下を歩いて行った。

 ダイマ・ルジクは孫息子の背を厳しい顔つきで見ては、引き返して行った。

ドアを閉じ、その奥の連盟関係の鍵の掛けられた仕事部屋を開けた様子は無いようだ。その仕事部屋には、現在は名前さえも封印されているジルとの連盟写真が飾られ残されていた。

将来、才覚も表せばアラディスにも連盟の若年層に加盟させるつもりでいる。


 宴の会場で、アラディスは目を一点に向けた。

「わあ……」

つい、そういった声が出ていた。妙に緊張し、背筋が伸びた。

会場はまだ、そうは人が多いわけでは無い。数えるほどの人間しかいなかった。その中で、会場の奥をステレオからの音楽が空の空間に響いていて、その曲にあわせて男が女性の手をとり、踊っているのだ。それは渋く、軽快な足並みで時に深く。

アルゼンチンタンゴ。

黒の上下のスマートなシャツスラックスに身を包み、シニカルに微笑み、背筋を伸ばして女をサッと回転させている。

その背を見て、それがグラデルシなのだと分かりアラディスは耳を真赤にザッと俯いた。

素敵だ。そう思った。

ダイマ・ルジクはダンスは踊らない。脚も痛めていて、時々杖を手にしている。横のダイマ・ルジクはまた俯くアラディスを先へ促させた。

グラデルシと女性のタンゴを見る数人の富豪達は拍手を送り、グラデルシは微笑し礼をしては、友人ダイマ・ルジクとアラディス坊やを見て、鋭く微笑んだ。

ダイマ・ルジクも目元を細め微笑し、歩いて行く。アラディスは硬直して蛇に噛まれたかのように動けなくなった。グラデルシの視線に射すくめられたのだ。それはまるで、美しい広大なアマゾンの蛇に雁字搦めにされたかのような亜熱帯に取り込まれる心地よい息苦しさによる感情的な束縛だった。

アラディスは顔を俯かせたまま歩いていき、ダイマ・ルジクが顔を上げさせた。

「しっかり顔を上げないか。こちらに恥じを掻かせるな。先方に失礼だろう。アラディス。礼をしなさい」

「はい」

アラディスはグラデルシに礼をした。

「お久し振りです。ミスターグラデルシ」

「ああ。アラディス坊や」

そう鋭く微笑んだグラデルシは共に踊っていた女性を紹介した。

「我妻、カライエラだ」

黒のドレスを身に纏った女性は、シルバーブロンドをまとめていて、強烈な美貌があった。年齢はどう見ても二十代にしか思えない。

「お初にお目にかかります」

アラディスは深く礼をし、上目でその美女を見た。

「素敵な坊やね。ローザによく似ているじゃないの」

アラディスは嬉しそうににっこり笑い、他の人間を紹介された。

今日はダンスパーティーだ。様々な事業など連盟を組んでいる人間達があつまる大きな宴であり、その事業主や会長クラスが集まる。

という事は、必然的に大富豪連盟の面子も集まる事にもなっているのだが。まだまだ宴には早い時刻だ。

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