彼と夢と
プロローグ
その頃には暑さを感じる過ぎて、季節はすでに冬だった。
島国だ、と何処の誰がとはあえて言わないが、まるで人を小馬鹿にしたように言われることもある、海に囲まれ山も多いこの国は日本と一般的には呼ばれている。
一般的には、と付けたのは正式名称では無い為だ。
現在もなお多くの山があり、場所によっては雪かきをしなければ歩行どころか通行が困難になるほどの、結構な量の雪が降り積もる時期である。
それと同時に雪というのはその時期ならではというところがあるので地域差はあっても多少はある種の楽しみであったりもするものだが。
場所は、国内にある某県の市内の町だった。
その住宅街にあるアパートの一室に一人暮らしのまだ若い見た目の男が住んでいた。
朝、目覚まし時計の音に起こされて目を覚ます。
目覚ましのアラーム音を無意識的に止めると着替えや朝食などを早めに済ませ、すぐに鞄を持ち家を出て駅へと急いだ。
家から駅へ片道が約15分。 駅から電車に乗り片道約20分。
どうやら、無事に仕事場の最寄り駅に到着した様だ。
電車を降りると改札を出てオフィス街の方へと道なりに歩いて行く。駅からだいたい10分以上は歩いていただろうか。
そうしてようやくたどり着いたのは、一件の古そうな到底綺麗であるとは言い難い外観をしたビルだった。
彼は階段を上りきると二階のドアを開けた。
ドアの開くガチャっという軽い音と共に事務所の中へと入ると、決められたディスクの場所に移動してから腰を下ろした。
少人数でやっているからか、朝から若干バタバタと慌ただしい雰囲気である。
「おはようございます」
と挨拶を言えば
「おはよー」
と先輩らしい人に返されていた。
「おう。おはようさん。元気か?」
次にそう言って肩に軽く手を乗せてきたのはこの中で一番年上だろう顎に髭を生やした男性だ。
ダンディな外見の中年である。
「あ、すんません。遅くなったっす」
最後に入って来たこの人が一番年下の様だ。失礼な事を平気でしそうな恐さがある。
「お前はもう少し早く来るように努力しろよ」
呆れた顔をして言われると
「所長、酷いっすよー」
と敬語も使わずに言い返す。
「お前なあ」
そう言うと、所長と呼ばれた人は頭を抱えた。
この人も苦労しているのだろう。
「あ、ごめん。これやっといてー」
と先輩は軽い口調で言うと隣にいる人物に束になった紙を手渡す。
「えー、またですか」
嫌そうな顔をしながらも断れずに押し付けられた書類を、彼が諦めながら受け取ってしまったのはいつものことだという慣れからなのだろうか。
悲しいものである。
そして、眠気に負けそうになりながらも徐々に書類を片付けながら缶コーヒーを飲みつつパソコンの画面に向かったのだった。
特に大きな事件などもなくどうにかこうにか終わらせて時計を見れば時刻はまもなく一日が終わろうとする頃になっていたようだ。
その日は朝から寒さが厳しく雪は降っていないものの横から時折強く吹き付ける風は、もはや冷たいというより痛いと感じてしまうほどだった。
派手な色のネオンに騒がしい音。
交差点の騒々しい人混みの中をものともせずに目的地を目指して通り過ぎる男性は、こんな凍える様な寒さの中今まで働いていたのだろう。
早く家に着きたい一心からか、コツコツという足音をたてて歩いていく。
上にジャンパーを着てスーツに革靴といったその姿はサラリーマンにしか思えないものだった。
普段と変わらず同じように仕事を済ませてマンションへと帰宅すると彼を最低限の物しか置かれていない殺風景な部屋が出迎える。
明日ためにもごそごそと、必要なものを鞄の中へと放り込みどうにか仕事の準備を済ませると、男は欠伸をしながら自室へ向かい、そのままベッドに入り込むとすぐさま眠りについたのだった。
それが全ての始まりであったのだとも知らずに。
気付けば俺は一人で小さな見知らぬ場所に居た。見える限りではどうやらここは部屋であるらしかった。
「これは夢、か?」
自分が仕事から帰宅してシャワーも浴びずにそのまま自室で寝たことを思い出しながら、言葉に出して言ったあと部屋の様子を確認することにした。
この時に盗聴器や監視カメラという単語が脳裏に思い浮かんでしまったのはやはり職業病なのだろうか。
確かにたまにはそういうこともすることもある。だが、仕事での経験はまだ先輩よりも浅いし多い方ではないはずなんだが。
不安になってきた。自信がない。
まず最初にわかったのは真っ白な壁と床だろう。見た限りでは壁は壁紙のように見受けられる。床はリノリウムだろうか。
つるりとした床にひんやりと冷たく固い印象なため、どうにもタイルっぽい気がする。
窓はなく木製の茶色い厚みのある扉が一つしかないようだ。そして真ん中に小さな丸い白いテーブルが一つぽつんと置かれていた。
どうやらそれは部屋よりも庭に置かれてそうな物である。イメージ的にはイングリッシュガーデンと呼ばれるものが近いのだろうか。
真っ赤な薔薇が咲いているあれである。
広さから考えても同じような作りの椅子が隣にあってもおかしくはなさそうだ。
その上にを見ればよくあるような銀色をした何かの鍵が一つある。それ以外には飲み物も食べ物も置かれてはいない。
これでクッキーでもあれば完璧にあのシーンの再現ができてしまいそうだ、とひとりごちる。
まるでここは彼の物語の少女を思い出させるようなそんな場所で。もしそうならば自分が演じる役は何になるというのだろうか。
落ちてきて不思議な場所に迷い込んだ、というならば。
「俺はアリスかよ」
そう言うと思わず苦笑した。
あの服装をした状態の自分を想像してしまったのだ。
似合わないにも程があるだろう、と半ば自虐的に。
童話などはどうにもファンシーな気がしてくるのだから不思議なものだ。
銀色のこの鍵はどこに使うものだろう。必要だからあると思うのだが。使う前なのかそれとも使った後なのか。
一体どちらなのかと考えていると自然とドアの鍵が掛かっているのかどうかが気になりだして近づいていた。
ドアノブを掴み、随分と長い間使われていなかったのかぎぃぎぃと錆びついたような嫌な音を立てながらもゆっくりと開いていく。
どうやら鍵は掛かっていなかったようだ。そのことにほっと安堵していた。鍵を使ってからでは二度手間になってしまうところだっただろう。
ドアの向こうには青い空と草の緑のコントラストの美しい見とれてしまいそうな景色が一枚の風景画のように存在していた。
そこに向かって足を大きく前へと一歩を踏み出す。
そして───。
悪戯猫は木にあがって枝の上。ずるりと足が滑って落っこちた。農民も商人も騎士も聖職者にも、もう何も出来はしまい。