夏休み最後の日
「今回はえらく若いお客じゃのう」
悪魔は自分の前に立つ小さな依頼者を見下ろした。
それは真っ黒に日焼けした、小学四年生くらいの男の子であった。
「子供といっても手加減はせぬぞ。三つの願いとお前の魂の交換だ。それでいいのだな」
「もちろんよく分かっているよ」
子供は悪魔を恐れる様子もなく落ち着いて答えた。
「もう一つ、大事なことがある。本当に真剣な望みでないといかんぞ。いい加減な望みと交換に魂を手に入れるのは、悪魔と言えども気持ちのいいものではないからな」
「真剣なお願いをしたいんだよ。だからいろいろ調べて、悪魔を呼び出す呪文を見つけたんだ」
実際のところ、悪魔を呼び出すことは人が思うより案外簡単なのだ。その方法は古文書、昔からの言い伝え、それに最近はインターネットなどあちこちに示されており、少し真剣に探せば容易に見つけられるようになっていた。なんとなれば、悪魔も魂の獲得に厳しいノルマを課せられており、魂を手に入れるためにはまず客をつかまえなければならないのだから。
「よろしい。名前はなんと言う? 健太か。契約については分かっているな。わしは3つの願いを叶えてやり、願いが完結したらお前の魂はわしのものじゃ。それで最初の願いはなんじゃ。言ってみろ」
健太は悪魔の恐ろしい笑いをものともせず、第一の願いを口にした。
「今日を夏休みの最初の日に戻してほしい」
「…………」
「聞えた? 今日を夏休み最初の日に戻してほしいんだよ」
悪魔はさらにしばらく黙ったまま大輔の顔を見ていたが、やがてカラカラと笑い出した。
「なるほど。今日は八月三十一日じゃったな。夏休みがずっと続けばいい……か、いかにも子供らしい願いじゃ。宿題もまだ残っているのだろう。ははは、願いは叶えられたぞ。また会おう」
悪魔は笑い声を残して煙の中に消えた。
健太は悪魔が消えるとニッコリ笑って、恐ろしい契約のことなど少しも気にしていないように麦藁帽子をかぶり直し、セミとりに出かけた。何と言っても夏休みの初日なんだから、たくさん遊ばなくっちゃ……。
楽しい夏休みは飛ぶように過ぎていく。八月三十一日がすぐにやってきた。
「なんじゃと、二度目の願いも夏休みの第一日目に戻してくれだと。もう少し考えたほうがいいのではないか。休みの終わりはあっという間にやってくるぞ。……しかし、それがお前の真剣な望みならわしは構わぬ。叶えられたぞ」
健太は友達と連れ立って川遊びに出かけた。暑い暑い夏には水遊びが一番だった。
二度目の夏休みも飛ぶように過ぎていく。
「なんとなんと、最後にもお前は同じことを願うというのか。もちろんお前の願い、お前の魂だからわしは構わんが、ずるがしこい悪魔がいたいけな子供を騙して魂を巻き上げた、と仲間内でも評判が落ちると言うものじゃ。何か他に願いはないのか?
そうか、しかたないのう。それほどまで言うのなら。願いは叶えられたぞ。では八月三十一日に会おう」
健太は自転車で遠乗りに出かけた。長い長い夏の一日、一本道を真っ直ぐに、どこまでもペダルをこいでいけるような気がしていた。
最後の夏休みも飛ぶように過ぎていく。
「とうとうこの日がきたのう。約束とおりお前の望みは全て叶えられた。今日が終ればお前の魂はわしのものだ。大切にしてやるから、心配するな」
恐ろしい悪魔の宣言に対しても健太は恐れる様子もなく、隣りに並んでいた男の子の背中を押して悪魔の前に立たせた。
「おや? その子は誰じゃ?」
「僕の友達だよ。義男っていうんだ。この子も悪魔に頼みたいことがあるんだって」
義男は黙って頷いた。
「そうか、そうか。いいぞ。契約しよう。お子様大歓迎、だ。で、お前の願いは何なんじゃ」
「今日を夏休みの最初の日に戻してほしい」
「???…………えっ?」
「聞えた? 僕の願いも健太と同じ、夏休み最後の日を最初の日に戻してほしいんだ」
義男と健太は顔を見合してにやりと笑った。
「何てことだ。お前たち、わしを出し抜こうと言うのか!」
「別に。本当に夏休みの最初の日に戻りたいんだよ」
「夏休み最後の日がやってきた時、もう一度、最初の日に戻れたらなあ、と思わない子はいないよ。義男の願いが終わってもクラスには友達がまだ二十人いるし、隣りのクラスにも……」
悪魔にも子供たちのいう意味がわかった。
「なんということだ! 永遠に続く夏休みと取立て不能の不良債権の山か!」
悪魔は全身から炎を噴出して地獄へ去った。
大人たちは何も知らずに「今年の夏は暑い日が続くものだ」と囁きあい、子供たちは最高の夏休みをいつまでも楽しんでいた。