ソプラノブルー
「私、歌手になるんだ」
そう言って、杏奈は再び私の前に現れた。
*
杏奈と私は幼馴染みだった。同じマンションの2階と5階に住んでいて、そこに同年代の子供たちは私たちしかいなかったから、当然のように、幼年期のほとんどの時間をともに過ごした。
その頃からすでに、杏奈には向こう見ずで無鉄砲なところがあって、私はいつも、それについていくのがやっとであった。
「あそこ、工事して別の建物になるんですって。二人だけで、あの森にいっちゃあだめよ」
と私の母が言うと、
「それなら、行こう」
元気よく私の手を掴んで無理に引きずっていった。神社の奥にあるその雑木林は舗装もされておらず歩きづらい。それに見上げるような巨木たちが、昼だというのに太陽の光をすっぽりと隠し切っていた。そばにぼろぼろとした小さな石碑のようなものがあって、何かと思ってみたらそれはお墓だった。寒さと不気味さから、私は体をぶるりと震わせて、
「もう帰ろうよ」
と精一杯その場に踏みとどまろうとするも、杏奈はそんなことを気にも留めない。
「だめ。ねえ、小さい頃私ね、ここに来たんだよ。どうしてもあんたに見せたいものがあるんだ」
白い歯をにいっと見せて得意げに笑っている。もう、私にはどうすることもできないという気持ちになって、大きくため息をついた。この子は、親に怒られるのが怖いとか、相手がどういう気持ちなのかとか、後先、空気。普通の子供がきっと気にしてやまないそういうの、考えたことがあるのだろうか。
そのとき私の頭の中は、必ずや母親から鬼のような顔で叱り飛ばされることや、神社の人に怒られるかもしれないことでいっぱいになっていた。同時に杏奈に対する困惑、そして怒りの気持ちがふつふつと煮えたぎっていた。
この人のことを理解できない。
案の定、結果は想像通り。近所中を騒動に巻き込み、様々な人に町中を駆け回らせ、夜になってから雑木林の奥で発見された私たちは神主さんに驚かれ変なものを見るような目で見られたのち、両親から目が開かなくなるまで泣かされた。(杏奈は、彼女の両親の怒りをものともしていなかったが)
ただひとつだけ計算違いだったことは、杏奈が見せてくれた林の奥の秘密の崖から見える夕焼けが、それに照らされていた汐の香る風情のある町並みが、思っていたよりもずっとずっと綺麗で、忘れられない記憶として、あの場所が消えてもずっと、私の中に残っているということだった。
杏奈といると、「ふつう」はこんなことしない、とか、「だれかにこういわれたから、こうする」とか、そういうことが全てばかばかしく思えた。
彼女に巻き込まれ辛酸を飲まされること多々あったけれど、杏奈のことは嫌いではなかった。自分の殻に閉じこもり、常に相手の顔色を伺っている私には、ないものを持っている。親に内緒で、バスに乗って、遠くの街まで二人で手を繋いで行った。はじめて見た都会の町は、綺麗だけれどとてつもなく広くて、全てがめまぐるしいような気がした。けれど、隣に杏奈がいるというだけで何もかもがわくわくに変わった。一緒にいると、信じられないくらい楽しいことや、目を見張るくらい驚くことがたくさん待ち受けている。どれも、杏奈がいなきゃ分かるはずなかったことばかり。
けれど、大人になるにつれ、杏奈と一緒に白い目で見られることや、人に怒られたり呆れられたりすることに、イライラし始めたのも事実だった。
杏奈は嘘がつけなかった。それに、周りの空気を読むということもしない人だった。
小学校三年のとき、梨佳ちゃんというクラスのリーダー的存在の女子がいた。梨佳ちゃんは気に入った子には優しい。けれど、自分に刃向かう子を、昼休み一緒に遊ぶとき、仲間に入れてくれなくなるのだった。
あるとき遠藤くんが、沙織ちゃんの事をすきだといううわさが流れて、それからほどなく二人は両思いになった。遠藤君は梨佳ちゃんの好きな人だった。梨佳ちゃんは一度だってそんなことは言わなかったけれど、そんな事はクラスの皆が分かっていたことだった。
休み時間に、いつも昼休みバレーボールをして遊ぶメンバーで、教室でお話していると、教室の端で梨佳ちゃんがまゆを曲げた。
「さおりちゃんって、とっても性格悪いと思うわ。私のこと、絶対嫌っているし、よく睨まれるの。家のママが言ってた、さおりちゃんちってね、ちゃんとしたお家じゃないのよ」
みんな、うんうん、とうなずいて、同じようにまゆを曲げた。私も、何も言わなかった。沙織ちゃんのことが嫌いではなかったけれど、面倒は嫌だったし一人も嫌だった。
だけど杏奈は違った。
「なんで? 沙織って、いいやつじゃん」
それから沙織ちゃんの方を向くと、
「おーい、沙織―、あんたって、梨佳のこと嫌い?」
なんでもないように気軽にそう聞いて、青ざめた表情の沙織ちゃんがギシギシと音がしそうな動作で首を振ると、
「ほらな! 違うってさ、梨佳」
本当になんのいやみったらしさも含まない流れで、梨佳の肩をぽんっと叩いた。
――――それっきりだ。私はそれから二度と、特別に杏奈と話すこともなければ、目も合わすこともなかった。梨佳ちゃんが無視しようといったらそうする以外に、私がとれる行動はなかった。席も近くで、クラブも部活も一緒だった梨佳ちゃんを怒らせるなんて、そのときの私には考えられなかった。
それから小学校卒業まで梨佳ちゃんの子分たちとして私は立派に役目を果たした。そのとき仲良くしていた六人くらいの全員と、それから今まで会っていないし、連絡も取っていない。当時は必死に、彼女らを私の傍へ繋ぎとめようと必死だったはずなんだけれど。
杏奈は――杏奈は、あの日からもずっと、平気そうにしていた。敵意なんてものともしておらず、そのうち梨佳ちゃんが飽きて、何事もなかったかのように私たちはごくふつうのクラスメートに戻った。そもそも杏奈は私のように梨佳ちゃんと仲良くしなきゃいけないとか、ひとりになりたくない、とかそういうことを考えて生きている人間じゃなかった。全然、誰ともしゃべらなくても平気そうだったし、たまに、
「算数の宿題、集めてるの。雪穂も出して」
と係りの用件でごく普通に話しかけてきた。
中学も別だったので、私たちが親友であった事実なんて思い出せないくらいごくごく自然に、私の世界から杏奈は消えた。
杏奈からは、中一の五月、一度だけ絵はがきが来た。というより、杏奈のママを通して私のママが受け取った。子供の関係に関わらず、二人は相変わらず仲がいいようだった。元気?と、それだけの言葉が、懐かしい港町の写真にかかっていた。
私はそのはがきを、毎日すわる机の上のフォトフレームに飾った。
杏奈と私は仲がよくなかった。昔はどうであれ、あの日から幼馴染みという特別な関係は終わった――私の裏切りによって。
いつも一緒にいた。梨佳ちゃんと、その仲間たち。杏奈とよりずっと、ずっと一緒にいて、いろんなことを話した。
それなのに、何故か、ふとおもい起こされる過去の出来事はいつも、彼女との記憶ばかりなのだ。
*
高校二年生の九月だった。
「よっ! おひさ」
部屋の扉が開いたと思ったら、杏奈が何の遠慮の素振りも見せずに侵入してきた。机に向かってもくもくと勉強していた私は、驚きのあまり椅子からずり落ちるところだった。
同じマンションに住んでいながらも実に五年ぶりの再会が、これだった。
その特徴的な声質のおかげですぐに誰が来たかは分かり、まずそれに驚いたものの、直後に振り返って目に入った毒々しいファッションのオンナにさらに度肝を抜かれる。まるで化け物みたいだった。
濃いピンクのダウンにピンクのショートパンツ。細くてしなやかな足を遠慮なくさらけ出している。蛍光色の緑や黄色のバングルに、首元にはゴールドのペンダント。色素の薄いアッシュブラウンに蛍光ピンクのメッシュが所々入り混じる髪は、やわらかく巻かれてふわふわしている。
ピンク、ピンク、ピンク……。いったいなんなんだ、このおかしなひとは?
同じように、杏奈も私の姿をまじまじと眺めていた。上から下まで舐めるように、杏奈の大きな眼球がぎょろりと動く。
「あんたって、変わってないね」
学校から帰って着替えていないから、制服のままだった。セミロングの黒髪はまっすぐにおろしただけ。校則をギリギリ守った、短くも長くもないスカート。ごく普通のグレーのカーディガン。
「杏奈は………、変わったね」
それだけ言うのが、やっとだった。言葉が出てこない。どうして杏奈が、私の部屋にいるんだろう?
杏奈は口を開いた。
「雪穂。私、転校するんだよね」
「えっ、転校?」
同じ高校に通っているのは知っていた。けれど私のいる特進クラスと一般クラスでは校舎が違うので、校内で会ったことはなかった。それでも、杏奈が転校するという事実には少なからずショックを受けた。
「どうして? それって、このマンションも引っ越すってことなの?」
「うん。……っていうか」
杏奈は得意げな顔をした。
「私、歌手になるんだ」
私はどうしていいか分からなかった。
*
「いただきまーす」
「どうぞ、召し上がれ。杏奈ちゃんがうちで夜ご飯食べて行ってくれるのなんて、小学校以来かしらね」
普段よりずっとたくさんのおかずが並んでいる。しかもいつもお味噌汁の入っているはずのおわんに、ふかひれスープ。分かりやすい母を持った。
母は快活ではつらつとした性格の杏奈を昔からひいきしていた。実の娘とは大違いの。
「そうだね。昔はよく、あたしの母さんが夜出かけるとき、ごちそうになってたね」
「雪穂と遅くまで遊んで、そのままうちに泊まっていったこともあったわよ」
「そうだったね」
いくら食事が豪華でも私は、異質な存在が食卓に混じっているのは、正直肩身が狭かったし、はやく杏奈に帰ってほしかった。特に、昔仲がよかったこと、その思い出を話に出されるとそれだけで胃がきりきりした。私と杏奈はもうそんな関係じゃないのだ。大人が望むような関係でいるなんて無理だ、たとえ親同士が仲がよくても、子供とは別人格であるのだし。
「今日も、母さんが東京で私の家捜し中。昔と一緒だね。“杏奈が今日、お家に一人ぼっちだから、お願い、雪穂ちゃんちで預かって”、ってね」
杏奈はくく、と笑った。家捜し…。それを聞いて、私は口を挟む。
「っていうか、さっきも、歌手になるとかいっていたけれど、どういうことなの」
意味が分からなかった。そもそも杏奈が歌手志望だなんて聞いたことがない。
「そのままの意味だけど」
杏奈は不思議そうに答えて、おかずを景気よくつまむとあっという間に皿を空にした。
「あら、杏奈ちゃんたら」
「美味しすぎるよ。おかわりしていい、雪穂ママ」
「もちろん、いっぱい食べて、杏奈チャンのために作ったんだから」
私は口元をゆがめた。母も母だ、私たちみたいな一般人が、歌手になりたいなんて馬鹿みたいだ、そんなの現実味がないし、馬鹿にされるようなことじゃないのか。歌手、そんなの、選ばれた特別な、私たちとは別世界の特別な人々にしかなれないのだ――夢は夢。それなのにそんなに、ごく普通の顔をして、夢物語みたいなお話を聞いていられるなんて、おかしくないのか。
どうしてこの子は次から次へと、突拍子もない行動しか取らないんだろう。
普通のことをするのがそんなに嫌なのか。
「本気でいっているの? そういうのって」
半ば馬鹿にしたつもりでそういったのに、杏奈は全然、あっけらかんとして笑った。
「当たり前じゃん」
たしかに、昔からその性格に似合わず、高い声は鈴が鳴るように綺麗だった。歌っているところは見たことがなかったけれど、杏奈に遠くから雪穂と名前を呼ばれればすぐに振り返ることができた。天使のようなソプラノはどんな人ごみにも掻き消されず、真っ直ぐに人の耳に届いた。
だけど、歌手。
「そんなに甘くないんじゃないの、そういうのって」
私は杏奈の目を見ずに、一口ご飯を口にした。そのまま味がしなくなるまで何度もかみ締めていた。
「そうかもね」
「東京に行くって……、どうするつもりなの」
母が口を挟む。
「杏奈ちゃん凄いのよ。ライブハウスでスカウトされたのよね」
「……はあ?」
杏奈が説明する。
「趣味で、友達とさあ、バンドやってたわけ。それが田上の目に留まったらしい」
バンドとか、ライヴとか……。なんだかちゃんちゃらおかしいように聞こえる。たかが高校生のお遊びってことじゃないか。それがプロを目指すなんて。
「東京の事務所に入って、高校生歌手になるのよ、田上さんって、プロデューサーよね」
母が確認すると、杏奈は頷く。
「なるだけなら、誰だってなれるだろうね。なるだけなら…ほんの一握りよ、本物の歌手と呼ばれるのは」
わたしは冷たく呟いた。目の前の杏奈の短絡さに、なんだか腹が立ってすらいた。
杏奈は答える。
「それで?」
それで分かった、ああ、やっぱりこいつは変わってないのだ。後先考えず、そのとき自分がしたいようにやる、それだけがこいつの生き方なんだ。こんなへんな髪で、変な格好で、へんなことをして。
「あんた、杏奈ちゃんのこと応援できないって言うの? どうして素直に頑張れとかいえないの」
母が機嫌悪く腰に手を当てて私を睨んだ。
「雪穂ママ、雪穂ママ、やめてやめて」
杏奈が苦笑いをする。ほかでもない杏奈の話をしているのに、なんだか自分のことじゃないみたいな態度をとる。それが無性に腹立たしい。
「恥ずかしくないの? うちらもう高2なんだけど。普通クラスだって、いくらなんでも、もう進路のこととか、話題に上るでしょう。あんたのまわりって、みんなそんななの? もっと真面目に…地道に、まっとうに生きたほうがいいんじゃない。自由、とかそういうのは、ガキが言う台詞でしょ。この年まで引きずるとか、もうただの病気」
杏奈は困ったように笑うと、それから何も言わなかった。
母が私を睨んでいるのには気付いていたけれど、気付かないふりをした。視界のはしにある冷め切ったご飯を私は無理に喉に送り込んだ。
次の日、杏奈は学校で有名人になっていた。
音楽サイトで大きく取り上げられた現役高校生アーティスト。その写真を見て、この学校の二年生の白木杏奈だと気付いた人がいたらしく、皆に触れて回り、爆発的にうわさが広まったからだ。
「デビューって……、無名な事務所だよね、これ」
「歌手とかって、よくやろうと思うよね。生きていけんのかな」
「無理でしょー。冗談キッツ」
だよね、その反応が、普通だよね。わたしはこころのなかで頷く。……そいつが実は、わたしの幼馴染みなんて、誰にも知られないようにしなくちゃ。
ああ。やっぱり、私には杏奈のことは理解できない。
*
「おはよーん、雪穂」
教室にはいるといつもの三人はすでに学校に来ていた。
ミリとヒカルと怜奈。
わたしはおはよう、と返して、にこりと笑う。かばんを自分の机に置いてから、教室のうしろで円になって話している三人の中に入った。ミリがイライラした様子で眉間にしわを寄せているので、わたしは訊ねる。
「どうしたの? なんかあった?」
「雪穂。ミリ、渡邉くんとケンカしたんだって」
「ちょっとヒカル、ケンカじゃないって言ってんじゃん。あたしが一方的にきれてるんだっつーの」
ヒカルが楽しそうにわらって、それを聞いたミリがはらだたしそうに口を尖らせた。渡邉君は普通クラスの、ミリの彼氏だ。
「まあまあ、ケンカするほど仲が良いって言うしね」
わたしがミリをなだめるように言うと、ミリは俯いた。
「でもあいつ、すぐオンナとしゃべるし、仲良くしたがるじゃん?」
またそれでケンカしたのか。わたしは心の中でため息をつく。
渡邉君のそういう性格は、いまにはじまったことじゃない。悪い人ではないし、ミリのこともちゃんとすきなんだと思う。ただ女子に対しての距離が、ひとよりちかいというだけで。
いままでもそのことで何度ミリと渡邉君はケンカしてきたが、最終的に別れないと決めているのはいつもミリのほうだ。
なんてまわりくどいの、嫌なら別れれば良いじゃない。ほんとうは、別れたくないのはミリの方なくせに。プライドの塊。
と思っても、わたしは口にも顔にも出さない。
「たしかに、渡辺君はそういうとこあるし、ミリが怒るの分かるよ。でも、渡邉君はミリのことちゃんと好きだと思うな。大丈夫でしょ。――ね? 怜奈」
わたしがさりげなく、四人のなかで一人黙っていた怜奈に笑みを向けると、怜奈は微妙な間を空けて、それからわらった。
「そうだよ、ミリ。大丈夫だって」
「そうかなー? ほんとうにみんな、そうおもう?」
美穂が訝しげに訊ねて、わたしたちは三人、いっせいにおおきくうなずいた。
ミリ、ヒカル、怜奈、わたしたち4にんは移動教室やお昼などいつも一緒に行動していた。いわゆるいつものグループ。
*
一時間目は化学の授業だった。
生物を選択している怜奈だけが別教室で、わたしたち三人は近くの席に座った。
時間になってもなかなか教室に来ない教師を待っている間、おもむろに低い声を発したのはミリだった。
「ねえ、朝の怜奈、マジありえなくない?」
私は朝の出来事に思いをめぐらせ、それから思い当たった。
ヒカルはすぐに頷いた。
「わかる。怜奈、自分のことをいわれてるって自覚あるのかな? 友達の彼氏なのに、ありえない、あの男好き」
またはじまった。
ミリとヒカルは、かなり前から怜奈がいないときによく陰口を叩いていた。
怜奈は目が大きい。唇は薄くて、鼻は小さくて、すべてが華奢だ。性格もなんだか女の子らしく、男子によく告白されていた。
べつに、ヒカルは怜奈のことが嫌いというわけじゃないと思う。渡邉君のことだってどっちでもいいと思っているはずだ。だけど、わたしたちのグループのリーダー的存在で気が強いミリの意見には、ヒカルは絶対逆らわなかった。もちろん私も。
「あーあいつ、超むかつく。男子の前で態度変えやがって。ね、雪穂もそう思うでしょ?」
ミリは険しい表情をころりと変えて、わたしを見つめた。
わたしはあいまいに首をかしげた。私の様子を見て、ミリはおかしそうに笑う。ミリの手が私の頭を何度かやわらかめに叩いた。
「ま、雪穂はやさしいから、そういうのないか。
やばい。雪穂、超かわいいよー、大好き。あたしたち、ずっと友達だからねっ。」
「うん、ありがとう」
私は何故かこのグループで、ミリから特別扱いされていた。私のどこを気に入ったのかは全くわからないんだけど。
「ちょっと、ミリ、あいかわらず雪穂には甘い」
ヒカルが言うと、美穂はふん、と笑った。
「うるさいな、いいの。ねー、雪穂」
高校生にとって固定で仲良くできる友達の存在は重要だった。
体育のときのペアも、ミリはいつもわたしと組む。
いまだって、化学室の席は二つの机が一組だから、わたしとミリが隣に座り、その前の席にヒカルが一人で座っている。
グループで疎まれているはずの怜奈が省かれないのは、ヒカルは怜奈がいないとそういうときひとりになってしまうからだ。
くだらない。自分でもそう思う。
結局私は、小学校から今までなんら成長していない。梨佳ちゃんがいなくなろうと、関係なかった。人の目をうかがって自分を守る。ほんとうに相手のことを考えたり思いやったりすることなんてない。自分を守るのでいつだって精一杯で――。そのくせ本当は、友達のことなんてどうでもよいのだ。
でも、いまこの場所でこの高校というコミュニティーで生きるわたしたちにとって、そうやって生きることごとくは何より重要だったりする。
物事の判断の基準が、全て“そんなこと”に左右されるくらい。
自分の保身の為なら友達を悪く言うことを厭わないヒカルも。
愚痴を言って、自分の立場を守ろうとするミリも。
そしてわたしも。
怜奈がかわいそうだと思う。だけど、べつに自分のみをなげうってまで怜奈を助けてやりたいとは思わない。わざわざ声をあげてミリとヒカルを非難しようとも思わない。
皆なんてくだらない存在だろう。
でもこれこそ、現実的で賢い生き方だと思う。
そのはずなんだ…。
“え? 沙織、いい奴じゃん”
“沙織―、梨佳のこと、嫌い?”
突然、古びた、遠い日の声が、頭の中に一瞬飛び出して、また記憶の海に沈んでいった。
「遅れてすまん」といいながらあたふたと入ってきた化学教師を横目に、私はほぼ金に近い、人間じゃないみたいな髪の毛の下で、真っ直ぐに向かってきたあの目を思い出していた。
*
「雪穂」
学校を終えて、家まで帰っている途中、変なものにつかまった。なるべく気配を消してわき道を通ったつもりだったのに、めざとく彼女は私を見つけてしまった。マンションの公園、昔はふたりして遅くまで遊んだものだったけれど、あれから十年以上も経って、遊具も古くなり、マンションの子供もすこし向こうのたんぽぽ公園――あそこには新しくて綺麗な遊具がたくさんある――で遊ぶようになったので、今ここには誰もいなかった。時の流れに取り残されたように、今にもさびた部分がぼろりと壊れてしまいそうなブランコを揺らす杏奈以外には。
キーコ。キーコ。
物悲しい音をたててブランコは揺れる。私は彼女をやり過ごすことを諦め、杏奈へと目をむけた。杏奈は何気ない顔で空を見上げていた。重くなる足取り。長い時間をかけて私は彼女の傍へ向かった。私の長い影法師が、杏奈のゆらゆらとゆれるそれの隣で佇む。
「いつ、発つの?」
昨日は私も頭に血がのぼっていて、お話にならなかったが、肝心なことをやっと訊ねると、あと半月後、と声が返ってきた。あまり時間がないことに少しだけ驚く。
今日の杏奈は私と同じ制服を着ていたけれど、スカートの丈、着こなし、彼女の着ているパーカー、私たちは同じ服を着ているとは思えないほどに違っていた。どうして、素材はまったく同じものを着ているはずなのに、こんなに派手になるんだろうと真面目に考え込んでしまうほどだった。
「あっという間だったね。あたしたちの、十七年間は」
杏奈がそう言った。
「……あんたくらいよ、十七年間も、こうして腐れ縁が切れてくれないのは」
ずっとそうだった。たとえ中学が違っていても、私たちは同じ建物のすぐ傍にいたから、離れている気がしなかった。あたしたちはある意味家族のようにずっと近くに存在を感じていた。
そういえばそれも、杏奈が東京へ行ったら、なくなるんだ。なぜか少しだけ早くなる鼓動を抑えるように、私は言葉を投げつける。
「いなくなってくれて、せいせいする。やっと、離れられる」
杏奈は愉快そうに笑った。ふふふ、とこきざみに体が揺れて、一拍置いてそれから、
「そうだね」
また、腹から出しているような気持ちのいい笑い声が公園中に響き渡った。
私は怪訝な顔になって杏奈を見る。悪口を言われているのに何がおかしいのか……。
それにしても、本当、気が晴れるような笑い声だ。
さっきまでのしんみりとした空気が、突如晴れ渡って、寂しげな夕方がお祭りの前のように、きらきら、きらきら、光り出したような気がした。
「あたしさあ。雪穂」
ひとしきり笑って、杏奈は楽しげにつぶやく。
「楽しいことが好きなんだ。シンプルに、ドキドキして、わくわくして、なんだか、どこまでも、どこへでも冒険できそうな気持ちになれる、たとえ錯覚だとしても、そういうことが、好きなんだ」
……まただ。心がぬるりと冷えていく。
「中学のとき、はじめてライヴをしたとき……。これだと思った」
またおかしなことを言い出した。
「あたしは、これが、世界で一番好きだって。これをして生きて、これをして死ぬんだって」
「……あ、そう」
私はそれだけ言うともう歩き出した。杏奈に背を向けて。もう、その顔を見られなくなっていた。
わからない。杏奈の言っていることの何一つも、私には分からない。分からないことが苦しいなんて思っても見なかった。
どうしようもなく眩しい夕方に、私は目がくらんで、どこまでも落ちていくような錯覚の後、やがてあたりは真っ暗になった。
*
そのときミリのイライラは最高潮に達していた。
だからあんなことが起こってしまった。誰もこんなことはのぞんでいなかったはずなのに。
「今度のさ、合唱発表会の委員に、皆で怜奈を推薦しようよ」
そう言い出したのはミリだった。高校生になって合唱なんて誰も本気になる人は居なかったし、合唱委員なんてクラス中から忌み嫌われる悪魔のような役職だったから、誰もやりたがる人はいなかった。
もちろん私たちのクラスからも立候補者は出ず、担任が後日、全員にアンケートをとって得票数が多い人を任命することを伝えていた。仮に女子が全員怜奈の名前を書いたなら、怜奈はまちがいなく委員に選ばれるだろう。
放課後の教室には女子の半分くらいがまだ残っていて、怜奈はバドミントン部に参加していたのでそこにはいなかった。
「いいね、やろう。すこしは痛い目みたほうがいいんだ、いつも調子に乗って」
ヒカルは楽しそうだった。
怜奈はだいたいの女子からは嫌われるタイプだったので、特に反対する人も出ず、女子はみんな怜奈に投票するということで話をまとめた。
よくあることだ、こんなこと。私は特に、何もかんじることはなかった。
事の発端は渡邉君がバドミントン部の友達と、怜奈とそのほかのバドミントン部の女子で遊びに行ったということだった。他のクラスのミリの友達がミリに送ってきた画像では、渡邉くんと怜奈は楽しそうに隣同士ではにかみあっていた。それが、浮気だとか言われると、私にはよく分からなかったけれど、ミリがそういうならそういうことでいいかと思った。
担任が正の字を書いて一生懸命にかぞえると、ぶっちぎりの19票で山本怜奈が2 年1組の合唱委員に選ばれた。女子の数が怜奈を覗いて19人であることには皆気がついていた。こういう面倒な役職は、クラス委員の山田さんとか、頭のいい田口君とかがなあなあでまかされていたことで、だけれども2年1組ではそういうことになった。
少なからずショックを受けた様子でみんなの前に立ち、挨拶をする怜奈の顔を、私は見なかった。窓の外を強い風が吹いて、木の葉が宙へ舞い上がっていく。オリーブのはっぱだろうか。天候はここ最近ずっと、荒れ模様だ。
「怜奈どんまーい」
「ほんと、最悪だよー」
「でも、怜奈ならカラオケ上手いし、いけるって、頑張れ」
「うん、ありがとう。私、頑張るね、ミリ、ヒカルー」
それでもお互いに、水面下の悪意に気付かぬ振りをして、何ごとも無いかのように日常は続く。どこまでも続く。全てが嘘のように、夢を見ているかのように。
それが私たちの生き方。なにも考えないことこそが、私たちの武器。綺麗に生きようなんて、バカのやること?
数日後。
「それでね、そのときあいつが――」
私と、ミリと、ヒカルはちょうど学習室の前を通りかかった。昼休み、怜奈が合唱委員で呼び出されている部屋だった。そこから仲良さげに会話をしながら出てきたのは渡邉くんと怜奈だった。
「あ、ミリ。」
渡邉君はごく普通の面持ちでよっ。と手を上げたが、ミリは何も言わなかった。怜奈はすこしだけミリの表情を見た後、渡邉君との会話に意識を戻したようだった。ふたりはそのまま、仲良さげに廊下を歩いていく。恋人同士に……見えないこともなかった。つい先程、ミリが「笑わなくなった」とぼやいていたはずの渡邉くんは、怜奈のとなりで楽しそうに口角を上げていた。
「……あ、渡邉君、合唱委員だったんだね、早く言えよそういうことは馬鹿」
なんでヒカルが動揺しているんだろう。かくいう私も、なぜか息を止めていた。渡邉君が誰のことを好きなのかとか、そういうことは、私には分からないけれど、少なくともミリがどう思ったのかは一目瞭然だったし、怜奈がわたしたちにどうおもわれるか、ミリにどう印象を与えたか、とかそういう気遣いを行動にも表情にもしてみせなかったということも、これからなにを引き起こすのかだいたい予測はついた。
『クソオンナ』。
その日から怜奈はクラス中からそう呼ばれるようになった。
「今から、合唱で歌う課題曲のプリント配るので、前から後ろに回してください」
放課後は毎日合唱練習をしなければならないのだけれど、2年1組に限ってはその時間、そこは無法地帯と化していた。女子は怜奈の言葉を完全に無視して、それぞれの会話を楽しそうに続けている。怜奈が最前列の子に渡したプリントは、触れられることなく机の上に放置されたままだった。
怜奈は自然に、相手になってくれる男子のほうへ寄っていく。
「見て。あれー」
「男がいるから、女友達なんか、いなくていいんじゃね?」
「それ、キモーイ」
それを見て女子が怜奈をなじる、悪循環だった。
最前列に座る私は、怜奈が手渡したプリントを控えめにながめた。歌の題名と歌詞、それから歌うときのポイントなどが分かりやすく書かれていた。全部、手書きで、A4の一枚の紙はすくなくとも、怜奈が一生懸命作ったものだということは分かった。
“あなたに”。私の好きな曲だった。ちいさいころ、母がよく、この歌手の曲を車の中で流していたから。
はた、と、怜奈と視線が合ってしまった。なんとも言いがたい複雑な視線で、わたしを見ていた。怜奈は私の席まで歩いてくると、
「それ、知ってる? いろいろ調べて、すこし、イマドキなとっつきやすい曲の方が、皆楽しいかなあって思ってさ」
そう言いながら周りを見渡す。怜奈のつくったプリントは誰の目にも留まらず、そこにただ残されていた。
「いいと思うよ」
私は答える。
「いいと思う、すごく」
「……そっか」
怜奈が嬉しそうに笑った。あれから、私たちと怜奈は一緒に行動することはなくなった。怜奈は大抵一人でいて、お昼は部活の友達と一緒に過ごしているようだった。なんとなく視線を合わせづらくて、私は笑い返すことはしなかった。それで、怜奈もあきらめたように離れていく。
「雪穂大丈夫? さっき、変なのにからまれてたでしょ?」
結局、ひとつも合唱練習は進まずに下校時刻になり、玄関先でミリにそう、いやみたらしく訊ねられた。
「あ、うん。大丈夫だよ」
ただ……一言話しただけだ。私は、たいしたことはしていない……。
「そっか。本当、あんなのと最初から、仲良くするんじゃなかったねー。雪穂がやさしいから、勘違いして、まとわりつくんだよ」
外に出るとなんだか風が冷たくて、ほほが刺されるような痛みがあった。
*
連日連日、合唱練習は続いた。
「みんな、ちょっと集まって」
「CD流すから、歌ってみない」
私たち女子は一度も、怜奈の指示に従わなかった。男子は、女ってこえー、と苦い顔で、我関せずを貫いているようだった。それでも、怜奈はずっと、みんなの前に立ち続けている。たまに、大丈夫?とこっそり、男子に声をかけられると、怜奈は全然、と笑っている。もてるはずだ。
怜奈は、もしかしたら、わたしが思っていたような人とは違っていたのかもしれない。
ずっと、怜奈も私と同じで、相手の意見を変える気もなく、自分の気持ちを伝えるつもりもなく、ただ今を滞りなく過ごせればいいと、そう思って生きているんだと思っていた。だけど黒板の前でそれでも前を向いている怜奈を見ていると、なぜか、私のよく知っている、へんてこな誰かの影が彼女にだぶって見えた。
今日もいつもどおり、雑談会でおわった合唱練習の帰りに、廊下ではじめて、別校舎の一般クラスのはずの杏奈が廊下に立っていた。
どうしてこんなところに、やつが?
他人の振りをして通り過ぎる。一緒に歩いていたヒカルが、騒ぎ出す。
「ねえ、あいつさ、あの変な頭のやつ、この間一般の子が言ってた、歌手になる奴じゃない」
「マジ!? うけるんだけど。すごすぎでしょ、あの髪」
ミリが失礼な視線を隠そうともせずに、杏奈を凝視した。私は心なしか早歩きになる。
絶対に声はかけてくるな……。そう、つよくつよくつよく念じる。階段を下りようとしたとき、
「おい、雪穂」
遠い廊下の端と端に私たちは立っているのに、大声も出していないのに、こわいくらい真っ直ぐに届いてしまう、不思議な声。
「……あたしも、2組の合唱委員なんだ。委員会のときに話したけど、山本さん、いろいろと困ってるらしいじゃん? 雪穂、協力してやってよ」
「……」
なんてことばを、投げつけるんだろう。よりによっていま、ここで。ミリとヒカルがそばにいる、このタイミングで。
杏奈だって気付いているでしょう。誰を恐れて私がそれを、黙ってみているのか。杏奈は見かけほど鈍いわけじゃないって、私だって分かっている。
責められているのだとわかった。
私だって…私だって、好きでこうしているわけじゃない。みんながあんたみたいに生きられるわけじゃない。あんたみたいにはなりたくないし、なれない。
どうしてそんなに、私の気持ちが分からないんだろう。分かっているのに、分かろうとしていないように思える、杏奈は。どんなに説明しても、それが私の生き方なのだと何百万語も費やして理解を求めても、きっとわかってもらえないような気がしている。
いつもそうだった。その、真っ直ぐさに、曇りない“杏奈”自身を持っているあいつに、結局言い返せない。それに無性に腹が立って、どうしても、許せなかった。誰を? わからない。
「雪穂、知り合いなの? あいつと」「今、あいつ、なんか山本さんとか言ってなかった」
「知らない。あんなやつ」
私がいつになく力強い調子で言うと、ミリとヒカルは、おどろいて目をあわせた。
はっとして、あわてて笑顔をとり繕う。
「あ、えっと、昔の知り合いなんだけど、友達でもなんでもないの。迷惑だから、とにかく、無視しよ」
杏奈が私を見ていることは知っていたけれど、私はもう二度と振り返らなかった。
*
あっという間に1週間は過ぎて、朝目を覚ますと母が出かける支度をしていた。杏奈が今日、旅立つらしい。上の階にいってくると言って朝から出かけていった。私は何も変わらぬ日常を過ごす。杏奈がいなくなっても、私の世界は変わらない。どこまでもおなじ、くだらない日常が続いていくだけで。ミリの愚痴を聞いて。ヒカルが笑って。私も笑って。相容れない存在を、つぎからつぎへ、拒絶して。それであっという間に季節は過ぎて、わたしがここを去るとき、そこに、ひとつくらい、たったひとつくらいの何かは、残っているんだろうか。私たちは、同じクラス、というただそれだけであり唯一のつながりをなくして、ここに戻ってこられるかな。ふとそう考えて、ばかばかしくなる。
その日は日直で、私はいつもより三十分早めに学校に着いた。教室にはまだ誰もいなくて、私はとりあえず窓を開け放して、窓際の席で日誌を書き始める。
グラウンドの方から、朝練の野球部の大きな掛け声が響いている。
“雪穂ちゃん、杏奈ちゃん、わたしね……”
“誰にも…”
“誰にも、言わないで…”
「雪穂?」
ぼうっと考え事をしていると突然名前を呼ばれる。誰かと思って振り返ると、怜奈だった。
「……ああ、おはよう」
「おはよう」
気まずそうな表情で、怜奈は自分の席に座る。私も、何も言わずに、日誌に目を落とす。なんともない顔をしながらものを欠くのに集中するのは、意外に難しかった。少し前までは、あんなに話していたのに、私たちの間に何があったんだっけ。どうしてこんなことになったんだっけ?と思い出そうとしても、はっきりとは言葉にならなかった。ようやく書き終えて、なんとなく怜奈の様子を観察すると、彼女はなにかを書いているようだった。
見るとそれは、合唱の教育本で、そのポイントとなるべき部分を怜奈はノートにしてまとめていたのだった。わけもなく心が落ち着かなくなった。
“協力してやってよ”哀れむような、失望したような声音が、私をいてもたってもいられなくさせる。これ以上……悪者にしないで。
「どうして?」
え、とつぶやいて、怜奈が振り返る。
「どうして。どうせ、みんな合唱なんてやらないって。ぜんぶ、むだなの。一生懸命やったって、認めてくれる人なんていないのに」
私はいつの間にか声を荒げて、なんだか怜奈を責めているみたいになっていた。怜奈は驚いたように私を見ていたけれど、すこし目線を下げて、それから唇を結んでまた私を見上げた。
「……私、別に、渡邉君のこと好きじゃないよ」
突然何を言い出すのかと、あっけにとられる。
「だけど、それでもね。仮にわたしが渡邉君を好きだとしても、ミリにも誰にも、なんていわれようと私は私。変われるはずない」
あ…。ほら、また。
“本物になれるのは、ほんの一握り”
“…そうかもね”
“まっとうにいきなよ”
その表情が、同じなんだ。なんて顔をするんだろう。なんて…。
「それに、もう人に合わせるのは、あきあきしたんだ。ずっと、こういうの寒いとか言われてたけれど、私合唱が、好きだったしね」
きらきら、きらきら。
もう何もいえなかった。
*
「プリント、見てください。その三行目。女子のパートです」
怜奈が言うけれど、誰も聞いていない。いつものことだ。
「これを女子で歌ってみましょう」
「まじだるー。ひとりでやってろよ」
ミリが言うと、みんながどっと笑った。私はひとり、プリントを手にとって、じっと見る。毎日毎日、どうしてこんなに、手の込んだものを作ってくるんだろう。やっぱり怜奈は、変わっている。怜奈は言葉に出さないけれど、反撃しているつもりなのかもしれない。自分はこういう風にしか生きるつもりはないという、無言で雄弁で、頑固で真っ直ぐなプライド。
それはもちろん、私の一番嫌いなもの。調和を乱して、わざわざことを大きくして、一体なんになるって言うの。本物の関係? ばかばかしい。
私は……。
わたしがほしかったものは……。あれ、なんだったかな。
怜奈の丸っこい字で書かれた歌詞をながめていると、ふいにメロディーが心を流れた。
「……やろうよ」
ゆっくりと歩き出した怜奈が、ミリの席の前に立つ。
「みんなで、やろうよ、ミリ……」
怜奈の声ははじめて震えていた。ヒカルが、ぷっと吹き出した。
「今さら何いってんの? じゃあ、あんたが抜ければ? そしたら、残り19人で歌ってやるよ」
ぼんやり、目の前の光景を見ていた。
“雪穂ちゃん、杏奈ちゃん、私ね……”
“秘密だよ”
“約束。私たちずっと、…”
「“ひとにやさしく されたとき”……」
口ずさんだメロディーは、ひどく懐かしかった。
「雪穂?」
ヒカルがずっこける。ミリが眉根を寄せた。
「は?」
「歌おう。ミリ、ヒカル」
「マジ、なんだよ? ……雪穂、どうした? 頭大丈夫? 今そういう状況じゃない」
「ミリ!!」
「……なんなの?」
私の張り上げた大声に美穂はおののいた。
「怜奈は」
声が震える。手先までもが震えていた。自分の気持ちを伝える。たったそれだけのことなのに、どうしてこんなに臆病なんだろう? 毎日やっていることじゃない。何のへんてつもないことなのに。ただ違うのは、嘘偽りのない気持ちかどうか、それだけなのに。
「怜奈は……、いいやつじゃん」
しん、とした、教室が。クラス中の視線が私に注がれている。
ミリがゆっくりと口を開いた。
「何それ。あたし、あんたのこと、親友だと思ってんだけど、うらぎんの」
私は首を振った。
「ちがう。私も、親友だって思ってるよ。でも…でも、怜奈は、いいやつじゃん。そう思わない?」
「は? こいつはね、私の彼氏、奪おうとしたんだよ。私の事きらいだから。そういうやつの味方するってことだよな、雪穂は」
事態を把握できていないように呆然としている怜奈に私はといかける。
「怜奈。怜奈は、ミリのこと、嫌い?」
怜奈は、ギシ、ギシとおとがでそうなぎこちなさで首を振った。
*
“雪穂ちゃん、杏奈ちゃん、私ね、お母さんが夜にね、働いてるの。だからもしかしたら、クラスの子とか、お母さんたちがそれを知ったら、わたし、いじめられるかもしれないの”
“沙織……”
“大丈夫。あたしたちは絶対、誰にも言わないし、もし誰かに何か言われても、守るよ。ね、雪穂”
“うんっ!!”
“ありがとう。約束だよ”
“沙織ちゃんって、とっても性格悪いと思うわ。私のこと、絶対嫌っているし、よく睨まれるの。家のママが言ってた、沙織ちゃんちってね、ちゃんとしたお家じゃないのよ”
沙織が、わたしたちが何の話をしているのか気付いていることは分かってた。視線にも気付いていた。でも、私は……。
上履きのつま先に着いた、クレヨンの赤を凝視して思う。
あ……汚れてる。ちゃんと、帰ったら、お母さんに洗ってもらわなくちゃ。それからしばらくして、気がついたら皆が笑っていたので、私も笑った。
あははははは。こおりそうな口元が痛すぎて。
“なんで? 沙織って、いいやつじゃん”
顔をあげると、杏奈だけが沙織に笑顔を向けていた。
“おーい、沙織―、あんたって、梨佳のこと嫌い?”
“ほらな! 違うってさ、梨佳”
*
どうしていつも杏奈は、わたしができないことをやれてしまうのだろう。だめな人間が浮き彫りになるのは、あいつみたいなやつがいるせいなのだ、全部。本当は求めていたけれど、立ち向かうのはあんまり苦しいから見ない振りをしていたのに、届かないほどにまぶしくて切なかった。私には、シアワセになる資格なんてないような気がした。自分の弱さがうっとうしかった。そのために、強いと弱いの基準を動かした。そうしたら、生きることは楽になった。鬼のように見えていた相手が、しまいには皆変わりなくかぼちゃに見えた。
杏奈のことが分からないなんて嘘だ。私には分かっていた。分かっていたけれど、分かりたくなかっただけだ。今さらこんなことしたって沙織にはもう、会うことはない。杏奈にも言い訳はつかない。それでも……生まれ変わったように、いま、この瞬間私は真っ直ぐ立っているような気がした。
「最低。……死ねばいい、ふたりとも」
ミリがいった。誰も何も言わなかった。ミリが、教室を出ようとしたとき――
とびっきりの音楽が、私たちの耳から心に突然、響き渡った。
透明で、蒼くて、きらきらで、眩しくて、どこか切なくて――
みんながやさしくなれるような。
初めて聞いた杏奈の歌声は――
杏奈そのものだった。
誰も、曲が終わるまで何もいえなかった。
「杏奈……」
歌い終わった杏奈に、私は目を向ける。突然どこからか乱入してきた杏奈は、一曲歌い終わると得意げに私を見ていた。
「上手いでしょ? 私、うた」
うなずきたくないけれど、頷くしかないような気がした。本当は鳥肌が立っていた。
「どうして、このうた……」
私たちの合唱曲のはずなのに、杏奈が知っているの? 杏奈は、ああ、そんなこと、といって微笑んだ。
「あんたが、昔よく、歌ってたから」
当然でしょ、といわんばかりで、なんだかくすぐったかった。今さら、杏奈とこういう、友情の確かめ合い見たいなくさいことをやるのがたまらなく恥ずかしくて、でも嫌じゃなかった。
「まじ、寒い。付き合ってらんない。いくよ」
ミリは私たちを見ずに教室を出た。ぞろぞろと、その仲間たちが、後に続いて、残ったのは私と怜奈と私の幼馴染みだけだった。
「あんたの友達って、あんたに似てないのが多いよね。昔から」
杏奈は全く、気にも留めずににかっと歯を見せてさわやかに笑った。わたしが明日からどうなるんだろうとか、いじめられたら、とか、そういうことをいいださないのがやっぱりこいつで、それはずっと私をイラつかせていたけれど、今日はじめてわたしを救ったと思った。
「歌手になれないなんていって、ごめん」
わたしが杏奈に謝るなんて、と驚いたような大きな瞳が、私を見つめていた。どうしてだろう、今になって、杏奈の存在がいとおしくてたまらない。今ここを巣立とうとしているやつの存在が、名残惜しくてたまらない。どうして私たちこんなに近くにいたのに、ずっとずっと遠ざかっていたんだろう。
あやまりたいことも、お礼を言いたいこともある。話したいことがたくさんある。今日こんなことがあって、私はこうしたの。そしたら誰かがこう言って……ねえ、杏奈はどう思う?
ふたりで過ごした17年分の記憶が、閉じ込められていた記憶が、唄の波に呼び起こされて一気に爆発したみたいに、私は身動きが取れなくなっていた。
「……ねえ、だからさ……行かないでよ……」
本当はずっと、あのときもあのときも、嫌いなんて思ったことは一度もなかった。ただまぶしくて、あまりにも綺麗過ぎるから。私の汚さがいつか、杏奈にばれるのが怖くて、嫌われるのが怖くて、いつからか一緒にいることがこわくなった。傷つくのが怖くて、杏奈という存在から逃げた。でも……
困ったように笑う杏奈をわたしは、したから睨みつけた。
「嘘。はやくどこへでもいっちまえ」
「なに、ないてんの」
杏奈が本格的に、私を指差して笑った。
「ないてなんてない」
なぜか次から次へと溢れて、とまらなかった。杏奈は私の目の前で、またふっと笑った。
「ねえ、ありがとうね、雪穂」
いついつまでも教室に、私と怜奈はいた。飛行機雲が夕焼け空にぐんぐん伸びていく。もうあいつは、この地をたったかな?
「お礼なんていうようなこと、されてないでしょう。わたし、怜奈を一度、裏切ってるのに」
「ううん、それでも」
怜奈は私の隣にたって、二人で窓枠に身を乗り出して、空を仰ぐ。きらきら、きらきら。今はもう眩しくはない。手のひらを太陽にかざす。私の心の中にも、いまは見える、小さいけれど確かな光。
いつまでもいつまでも、私たちの胸に杏奈の歌が響いていた。大丈夫。ほしいものは、もう私の傍にあった。
繊細で真っ直ぐで、どこまでも、遥か彼方まですきとおっていく私たちの歌。
まだ、始まったばかりのそれを。
たとえいまは、あんたの背中を追いかけていても、
きっといつか……私だけのとびっきりの歌にしたいんだ。
<END>