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異臭にまみれながらも、二人は下水道をひたすらに走っていた。
クリストフ老人は痩せて頼りない外見の割には、足が速く、寧ろ彼より若いバルドゥルの方が太っていて遅いぐらいだった。
鼻をつく異臭に文句を言う暇はなく、足を止める訳にはいかない。
天井にぶら下がった、作業用に使われる照明が二人を仄かに照らす。
きっとエーリヒ達が用意してくれたのであろう。
その光の下を二人は無言で走り続けた。
時を同じくして、喫茶店の前では地獄絵図と言えるような、惨状が広がっていた。
入口の階段やそれを登りきった上の部分に、死体が乱雑に転がっている。
原型を留めていればまだ良い方で、元は人間であったことすらわからないほどに目も当てられない死体が大半だ。
そして、その死体の前に大きい白い巨体が佇んでいる。
4・5mほどのボディはまるで巨人の様で、純白に塗装されたボディは哀れな死体達の返り血によって汚されていた。
細身の人をまるで単純に機械化し、巨大化させたようなソレは、しなやかな線上美を持つ腕に、エーリヒをぶら下げている。
彼をぶら下げる腕の関節部には、小径弾を発射すると思われる銃口が覗いている。
背中には巨大な翼を畳んであり、その翼の中心に、細長い筒上の機関砲と思わしき武装があるのが見て取れるが、優雅な彫刻が彫り込まれており、その機関砲から無骨な雰囲気は一切感じられない。
そして、それらの武装を管理するのであろう頭部には、機関砲と同じような彫刻が彫り込まれ、横に長いスリットから、二つの紅いモノアイをずらし、死体達を眺めている。
「アデーレ...終わったよ」
その巨躯の中で、一人の若い青年が呟いた。
バルドゥルの着ていたジャンバーと同じ物だが、彼より遥かに清潔なものを着ている。
腕にぶら下げたエーリヒより、まだ若い。
短い茶髪を少し垂らした顔には怯えの色がありありと浮かんでいた。
「終わってないわ!何度言ったらわかるの?ちゃんと殺しきるの!」
その青年の呟きに対し、甲高い声がコクピット内に響き渡った。
青年が思わず声に身構えると、彼の座っている搭乗席の後ろから、金髪の彼と同じ年齢と思わしき女性が顔を出した。
本来なら、搭乗席の後ろに人一人入れるスペースは無い。
彼女は実体のない立体映像だ。
だが、彼のオペレーターというわけではない。
この立体映像で青年にきつい口調で話しかけてくる存在こそ、「アムブ」なのである。
「アデーレ、腕にぶら下げた男は重要参考人だよ」
「無駄よ。どうせ死刑だわ」
「...」
青年は黙って、目の前のモニターに映る腕にぶら下がった男を見た。
先程まで、勢いで転倒し気絶するまで、必死に抵抗していた奴だ。
この機体の装甲に傷一つ与えることなどできない自動小銃を撃ち続け、周りにいた連中が、ミンチになろうと悲鳴を挙げようと、一切動じずに、抵抗の意思を見せた。
青年にはわからない。
何故こうも必死になるのだろうか。
天使の意思に従っていれば人間は幸せな筈であると、今まで教えられてきた。
しかし、どこにでも変わり者はいるもので、時にこの男のように、天使に牙を剥く愚か者が出てくる。
可哀想とは思うが、同情は微塵も無かった。
「さぁ速く。グズグズしてると、また動き出すわよ。そのゴミ」
「あぁ...わかったよ。」
そう体を青年の体にこすりつける様な、扇情的な動きをするアデーレに促されるまま、青年はペダルとレバーを器用に動かし、腕にぶら下げた男を地面に下ろし、腕部の銃砲を男の胴体に向けた。
だが、地面に下ろされた瞬間、エーリヒの体が跳ねるように立ち上がった。そして、素早く身を反転させ、跳ねる。
先程まで、意識は混濁としていたが、地面に落とされた際に一気に覚醒した。
青年は一瞬視界からエーリヒの姿を見失った。
そして直様、彼の身体をけたたましい音と衝撃が襲う。
エーリヒは一瞬の隙を突いて、天使の側面に回り込み、肩部などに強かに射撃を加えた。
それが無駄ということは先程の戦闘で理解していたが、体が反撃の意思を示したがっていたのだ。それに無駄な行為とも言い切れない。
青年は直様、音のした方へ機体を反転させようとしたが、正面のモニター映像が急に確認することができなくなった。
「スモークが破損したわ、内容物が溢れてる!」
青年のすぐ横でアデーレが喚く。
機体の周りに白煙が立ち込めているのがわかる。
青年は落ち着いて、モニター上部のスイッチを切り替え、通常視界から、熱戦暗視装置に切り替える。アデーレはこういう時に非常に喧しいが、今は気にしている余裕はない。
モニター画像には、男がビルの影へ逃げ込む所が見えた。
直様、男の位置に射撃を加えるが、寸前で逃げられた。
「逃げられたよ。アデーレ...追おう」
「...えぇ、そうね。エルンスト」
アデーレは少し取り乱したようだが、すぐ冷静になった。
彼女はこちらが優勢な時は静かだが、少しでも不利になると、すぐ今のようにわめき声を上げる。正直なところ鬱陶しくて仕方ないが、彼女との付き合いもかれこれ2年ともなれば、少しは許容できるようにもなる。
エーリヒは奇跡的にも、体に負った傷は少々の打撲のみであった。
腹部と脚に痛みを感じ、いつ出血したかは分からないが、頭から血が垂れている。
だが、先程まで共にいた同志達の凄惨な最後と比べれば、遥かにマシであった。
喫茶店の入口にて見張り役を務めてくれたアーベルは、片足を吹き飛ばされ、おまけに腹部にも数箇所の銃槍を残して死んだ。
生意気にもアーベルが扱うはずであった銃を握っていた若者の一人は、一発も発砲する暇もなく、頭部から腰にかけて、奴の手刀の餌食となった。
あとは皆、火炎瓶を投擲する間もなく、奴に殺された。
その中でもほぼ無傷といってもいいエーリヒは、複雑な心境でビルの隙間を縫うように走った。
自分だけ生き残っても、奴に対抗することはできない。
今は廃工場へ向かった、二人だけが頼りだった。
クリストフ老人の腕は前から知っているが、あの新入りのバルドゥルと言った奴は何者なのだろうか。
クリストフ老人が『死神を連れてきてやる』と息巻いて、数日前に呼んできたが、今日彼を見るのが初めてだった。
天使のジャンバーを着込んで、汚らしいニット帽を被っている姿から見るに、アムブ乗りではあるが、どの程度の腕なのだろうか。
多くの疑問はあるが、今は二人を頼りにするしかないと、エーリヒはまだ硝煙漂う自動小銃を携え、その硝煙と同じように口から白い息を吐き出し、廃工場へと急ぐのであった。