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彼女とはいつも雑踏デート

作者: モノマリ

 講義が終わる時間を見計らったかのようにスマートフォンが鳴動する。相手の名前を確認すれば、いつものとおり、彼女からのラブコールである。

『もしもし。ねえ、大変。肌が紫色になっちゃったの。とっても綺麗なすみれ色。綺麗はいいんだけど、どうしたらいいのかわからないから、今から会いに来てくれないかしら?』

「もしもし。それは大変だね。すぐに行くよ」

 それだけ言うと電話は切れる。天乃はすぐに筆記用具を鞄にしまい、顔見知りに挨拶だけして教室を出た。また彼女か? とのからかいの声には苦笑で答えた。

 彼女の家は、大学を南口から出てまっすぐ。駅を突っ切る形で行くと最短距離だ。駅前は平日だろうと休日だろうと朝だろうと昼だろうと夕方だろうと混んでいて、そこを天乃は慣れた足取りですいすい進む。

 やがて駅に入ろうかという辺りで、いつものとおり、見知った顔が向こうから歩いてくるのを見つける。

「とーこさん」

「あ、テンノくん」

 手を降ってこちらへ向かってくるのは、ラブコールをしてきた張本人、橙子だ。いつものとおり長いストレートの黒髪をなびかせて、唇に真っ赤な紅を引いて、そして肌は少し白いくらいの、健常な肌色だった。

「ごめんね、テンノくん。電話したすぐ後、治っちゃった。でも呼んじゃったし、申し訳ないから、迎えに来たの」

「そっか。別にいいよ、とーこさん」

 にっこりと笑って言う橙子へ、天乃も微笑んで返す。大丈夫、彼らはそれが嘘であることを知っている。

 橙子はいつでも馬鹿げた嘘で天乃を呼びだす。それは決まって月、火、木の最終講義が終わった後だ。天乃はもちろんそれがすべて嘘だと分かって、彼女の呼び出しに応じている。なんたって彼女の嘘は、

「右腕がぽろりと取れてしまったの。どうしようもないからすぐ来て」

 とか、

「急に羽根が生えてきて部屋が狭くて困っちゃった。すぐ来て」

 とか、

「右脚の小指が付け根から取れてなくなっちゃった。すぐ来て一緒に探して」

 とか、そんな途方も無いものばかりだったので、本当だと信じるほうが難しい。もちろん彼女も本気で言っているのではないだろう。多分きっと、自分は試されているのだと天乃は思う。

「ねえ、テンノくん」

 と、橙子が腕を絡めてきた。綺麗な赤い唇が蠱惑的に歪む。それを見ながら、なんだい、と天乃は返す。

 駅で落ち合った後は、いつも二人でふらふらと歩きまわった。静かな小道だとか、どこか落ち着いた店に入ることもなく、ふらふらふらふら、雑踏の中を歩きまわる。迎えに来たと言いながら、橙子の家に向かうことは一度もなかった。

「今日も、どうでもいい話なのよ」

 二人でふらふら歩きながら何をするのかといえば、もちろんただしゃべるだけだ。大抵は橙子が堰を切ったように話している。天乃はそれをただ聞いて、橙子のなんたるかを知った気分になっている。それが二人のデートのすべてだった。

 デート、というのも、少しおかしいかもしれない。なんたって天乃も橙子も、互いが好きだという意思表示を一度もしたことがなかった。


 *


「先生の話。私、小中高とそれぞれ大好きな先生大嫌いな先生ひとりずついたんだけど、今日話す先生は大好きでも大嫌いでもなかった先生。担任だったけど、ちゃんと話したことはなくて、私にとっては空気みたいだった先生の話。中学校の頃。

 あのね、私、中学校の頃はノートに落書きばかりしていたの。友達と一緒にね。私はもっぱら棒人間を描いていたんだけど、友達は少し絵心があったから、可愛くデフォルメされたキャラクターを描いていたのね。それが前置き。

 中学校を卒業した時、先生がひとりひとりにメッセージカードを送ったの。一枚一枚手書きで。あなたはこんな人でしたね、こんなところが素敵でした、って。さすがに感動したの。中学三年生だったから。で、私のメッセージカードには『あなたの描くキャラクターが好きでした』って書いてあったの。こんなかんじの、って先生のイラスト付で。で、その先生が描いているイラストは、友人のキャラクターだったのよね。ああこの人はひとりひとりを見ているふりをして、その実私なんて全然見ていなかったんだ。そう思ったわ。すべてが冷めていく気分だった。空気みたいな先生だったけれど、裏切られたような気がしていて。けれど仕方のないことだと思ったの。だって私はそういう存在だったから。

 クラスの中心に躍り出てはいけない。目立つようなことをしてはいけない。人に覚えられていると思ってはいけない。人に見られていると思ってはいけない。私なんかに誰も興味はない。その自意識過剰を殺しなさい。

 そんな風に言われたような気がしたわ。先生のメッセージカード。

 そういう意味では感謝しているの。おかげで、高校では分相応に暮らすことができたから。今でもそのメッセージカード、きちんと取ってあるのよ。もしかしたら後で見せてあげるわ」


 *


「天乃、今日も彼女か?」

 火曜日、いつものように橙子のラブコールを受けて席を立とうとした天乃へ、いつものとおりの冷やかしが入った。特別仲は良くないが悪くもない同級生。彼らに、天乃は苦笑いだけで答える。彼女なのか、なんて聞かれると、天乃自身どうなのだろうと思ってしまう。付き合っているのかいないのか。互いに、ほとんど意図的にその話題を避けているような気もする。

 まあそんなこと、同級生に答える義理もないので、天乃は苦笑いのまま立ち上がろうとした。

「……天乃君、付き合ってる人、いるの?」

 その動作を遮ったのは、後ろから聞こえたか細い声だった。いかにも女の子然とした、甘ったるいような声。名前を呼ばれては仕方がないので振り返る。声の主は、天乃の後ろの席に座っていた女子らしい。ボブカットの少し茶色い髪に、淡い色の可愛らしい服。顔の方は見覚えがある、同級生だ。名前は忘れたが名字は覚えている。確か、そう、月原さん。

「そうなんだよ、月原」

 天乃より先に同級生の男子がそう答えた。他の男子もそれに乗っかって囃し立てる。

「別の学科の子だっけ?」

「そうそう。あの美人だよ」

「よくあんな美人つかまえたよなー! 羨ましいぜ」

 なあ、と言われても、天乃はなんとも反応しがたい。本当につかまえているのかも分からないし。自分がつかまえられているだけかもしれないし。

「ふうん……そうなんだ」

 月原はなにやら神妙な顔で頷いていた。その視線が、ねっとりと天乃に絡みつく。それから避けるようにして、さっと席を立った。これ以上タイミングを逃してはいられない。

「じゃあ、急いでるから」

 それだけ言って、足早に教室を出た。背中へ囃し立てる声と、ねっとりとした視線が感じられた。


 *


「ごめんね、テンノくん。あの後すぐに取れて消えてしまったのよ」

 そう言う橙子と落ち合ったのは、いつもより大学に近いところだった。教室を出るのが遅れた分だ。ちなみに今日の橙子からのラブコールの内容は「足がもう一本腰のあたりから生えてきたの。案外不便だからすぐに来て助けて」というものだった。別にいいよ、といつものとおり答えて、それからいつものとおり雑踏の中を歩く。

 隣を歩く橙子を改めて見る。確かに美人だ。黒い髪と、白い肌と、赤い唇。その三色で橙子は形成されている。白い肌は、元からであるのと、少し厚化粧気味なせいだ。特に目を引くのが唇に赤く引かれた紅。しかし元々の顔つきがくっきりはっきりしたものだからか、むしろその化粧が似合っているように見える。長い黒髪は艷やかに、腰のあたりまで流れていた。その艶やかさはある種作り物めいている。

 作り物。そう、橙子はまさに「人形のような」美人だった。見た目から考えれば日本人形と言うべきだが、天乃はどちらかというと、ビスクドールのような雰囲気を感じる。ビスクドール、球体関節人形。

 その服の下に隠れた、細い関節が球であったとしても、天乃は決して驚かない。

「どうしたの? テンノくん。じぃっと見て」

 腕を絡めた橙子が、赤い唇を歪めて言った。歩く拍子に、肘が天乃の脇腹へ軽くぶつかる。その固い感触は果たして、骨なのか、球体関節なのか。

 はてさて、その質問になんて答えようか少し考えた天乃は、ふと橙子の鼻を見た。赤。

「とーこさん、鼻血出てる」

「あら」

 ちょうどよく天乃が指摘すれば、橙子は慌てず騒がず、空いた片手でティッシュを取り出し、鼻を押さえた。随分と手慣れた動作だったが、それもそのはず、橙子は鼻血が出やすい体質らしい。鼻を強くかんだとか、そんなちょっとした拍子に鼻血が出る。橙子は、鼻から垂れる血さえ耽美に見えるから不思議だ。

「とーこさんって、赤色似合うね」

「あら、本当? ちょっと嬉しいわ」

 好きなのよ、赤色。そう橙子は赤い唇で微笑んで、鼻を押さえていたティッシュを取った。鼻血はもう止まっていて、ティッシュは鮮やかな赤色に染まっている。それを橙子は自分の鞄に捨て、新しいティッシュでもう一度鼻を拭くと、天乃を見上げて笑ってみせた。

「まだついてる?」

「ううん、大丈夫。全部とれたよ」

 天乃の答えに、橙子は満足気に頷いて、しっかと腕を組み直す。それから天乃を見上げて、いつものとおり、蠱惑的に笑ってみせる。

「じゃあ、テンノくん。またどうでもいい話をするのだけれどね」

 そうして天乃はいつものとおり、また橙子のなんたるかを知った気分になって、それで今日のデートも終わりだ。


 *


「例えば昔、誰しも自分が特別だと信じたい頃があるじゃない。母親と父親に特別に愛されて、そのまま大きくなって、自分が特別に愛される存在だと勘違いしていたままの頃。けれど周りには全然特別扱いなんてされなくて、そのギャップに戸惑っていた頃ね。自分は特別だって信じたくて、皆がケーキを食べる中一人だけ好きでもないところてんを食べてみたり。皆が流行りの漫画を面白いと言っている中、一人でブラックジャックを読んでみたり。本人はそれで特別性を演出できていると思っているのよ。全然そんなことはないから滑稽よね。昔の話。

 で、そんな風に大きくなった人は、ある時、自分は特別でもなんでもないんだって、世界に痛烈に裏切られることになるの。それは例えば、私が中学校を卒業した時みたいにね。そうしてそんな人は、あらかじめすべてを諦めるようになるの。何にも期待しないで、裏切られないように、傷つかないように。そんな風にひねくれて大きくなるの。

 でもさ、私が思うに、そのひねくれ方さえ特別ではないのよ、きっと。今こうしてテンノくんと歩いている雑踏でも、すれ違う人たち皆ひねくれているの。おんなじように。私の今の言葉にも、多かれ少なかれ皆思うところがあるのだと思うの。つまりやっぱり私達は特別なんかでは全然ないのね。皆特別性も何もなくひねくれて、すべてを諦めて、それでも根っこではまだ少し諦めきれずに生きている。

 ああ、何が言いたいって、私、今これを言いながら、少し傷ついているのよ。皆と何も変わらない。それがまだショックなほどには、私は自分の自意識過剰を殺すことができていないの。悔しいわね」


 *


 天乃はドールというものが好きだ。いわゆる球体関節人形。

 細い手足が丸い球体で繋がれて、滑らかな動きをするのがたまらない。人形として常に蠱惑的な顔をしているのもとても好みだ。そのさらさらの髪を自分ですき、人形のための服を着せて、そのために用意した空間に座っているところを想像するだけでぞくぞくする。

 だから、天乃はドールを買うつもりはない。

 自分の性分から言って、一度手にしてしまえば、次から次へと欲望が際限なく溢れ出してくるだろう。あれも欲しいこれもしたい。きっとその欲望はいつか天乃を押し潰す。それが怖くて、ドールは写真を集めるだけに留めている。

 それにもう一つ理由がある。例えばドールを手に入れて、思う存分それを愛でて、もしも満足してしまったなら。そう思うと怖い。自分の欲望がすっかり満たされて、渇望していた頃の熱がなくなること。それと、自分が欲望を見いだせなくなったドールが形として残ること。その二点が、天乃には怖い。だから天乃はドールを手にしない。

 橙子にもこの話をしたことがある。その時橙子は、その気持ちはよく分かる、なぜなら自分もそうだからだ、と答えた。いつものとおり、蠱惑的な笑みを浮かべて。

「ねえ、天乃君」

 いつものように橙子のラブコールを受け、教室を出ていこうとしていた天乃を、呼び止める声があった。いかにも女の子然とした甘ったるい声。振り向けばそこには月原がいる。彼女は天乃をわざとらしく見上げて、首を傾げた。

「今日も彼女さんのところ?」

「うん、そうだね。呼び出されたから」

 あっさり頷きながら、本当に彼女かは分からないけれど、と心中で付け足す。天乃の返事を聞いた月原は、眉根をきゅっと寄せた。いかにも同情しているという風な表情。天乃にはそれが、わざとらしい顔に見える。

 なんだか嫌な予感がする、と思った。自分はあまり鈍感ではなく、むしろ結構敏いほうだと自負している。もしかしてこの人は、と嫌な予感が囁いている。それはそれで困った事態だ。

 なにせ事実の上では、天乃と橙子は付き合っていないのだから。

 月原は同情している風の顔のまま、上目遣いで天乃を見上げる。

「そっか……いつも大変だね」

「いいや、全然」

 天乃はまたあっさりと首を横に振る。その反応があまりに早く、その声があまりにあっけらかんとしていたからか、月原はぽかんとした顔になった。自分の予想とは違う反応が返ってきて驚いている、そんな顔だ。そういえば橙子のそういう顔を見たことがない。

 ああ、そうだ。呼び出されていたんだった。今日のラブコールは「左手が私の意思を無視して首を絞めてくるの。苦しいからすぐ助けて」という内容だった。早く行かなければ。

「ごめん、じゃあ俺行くね」

「あ、うん……」

 納得していない顔の月原へ背を向けて、天乃は教室を出た。早足で、嫌な予感を忘れるように。早く駅前に行って、橙子の無事を確認しよう。


 *


 さて、橙子は、今日もやっぱり無事だった。電話の後すぐに自分の意思が聞くようになったらしい。それはよかったと天乃は微笑んで、橙子は彼に腕を絡めた。曲がったその肘の先。歩く度に丸みを帯びる膝。なんだか今日はそんなところにばかり目が行く。

 そのせいか、橙子がまた鼻血を垂らしていることにしばらく気が付かなかったらしい。気づけば鼻血はつう、と垂れて、橙子の赤い唇に付きそうになっている。

「とーこさん、鼻血、鼻血」

「え、あ」

 橙子は少し慌てふためき、それを見た天乃も釣られて慌てて、思わず橙子の鼻を押さえようとした。橙子はそれをやんわりと避けたが、薬指の先にほんの少し血が付いた。ティッシュで鼻を押さえた橙子は、整った眉を下げ、申し訳なさそうな顔で天乃を見上げる。

「ごめん、テンノくん。私、ぼーっとしてた」

「いや、いいよ。大丈夫」

 笑ってみせる天乃へ、橙子はやっぱり申し訳なさそうにティッシュを渡した。受け取ろうとした天乃の指を、ぐい、と力強く拭き取っていく。

 赤色が綺麗に拭き取られた薬指を見て、なぜだか少し寂しかった。

「ごめん、テンノくん」

 橙子はまた謝って、少し俯き加減に鼻を押さえていた。天乃はそれにどう答えたものかと思い、結局もう一度、大丈夫とだけ答えた。

 橙子はしばらく鼻を押さえたままだった。きっともう止まっているだろう、と天乃も言い出せなかった。ただそのまま、二人でいつものとおり雑踏を歩いていた。駅前の交差点、歩行者用信号は赤。立ち止まって、橙子はようやくティッシュを離した。拭きとってはいたが、よく見れば鼻の下辺りにまだ少し血がついたままだった。天乃はそれすらも言い出せない。

「ごめん、なんだか今日変だね、私」

 橙子はそう言って、絡めた腕に力を込める。そのまま赤い唇が、ぽつりぽつりと話しだした。


 *


「私、色々と、考えたのだけれど。ずっと考えていたのだけれど。

 あのね、私、怖くて、苦しい。

 色々なことが怖くて仕方ないのだけれど、それでもやっぱり、まだ特別性というものを諦めきれていないのね。苦しいわ。とても」


 *


 木曜日。最終講義が終わり、けれど天乃のスマートフォンはうんともすんとも言わなかった。筆記用具をしまい終わっても電話は鳴らないし、メールも来ない。今日は彼女から連絡来ないのか、なんて周りのからかいの声に、天乃はやっぱり苦笑いだけを返した。今日はそれ以上する余裕がなさそうだった。手早く荷物を持って、教室を出る。

「ねえ、天乃君」

 嫌なことは続くものだ。教室を出たばかりの天乃へ、甘ったるい声がかけられた。思わず舌打ちしそうになった自分に驚く。もう累計九回目。さすがの天乃もうんざりした顔で振り向いた。

「ごめん、月原さん。俺、急いでるから」

「彼女さんに今日は呼ばれてないのに?」

 さっきのやりとりを聞かれていたらしい。そうでなくとも、電話に出ていない天乃を見れば分かることか。どちらにせよその物言いがなんだか嫌味だ。

「ねえ、ちょっと話くらい聞いてよ。すぐに終わるから」

 そう言ってまた月原の視線はねっとりと天乃に絡みつく。その中に秘められた決意のようなものを感じとって、逃げられないなと思った。それならば、腹をくくるしかないか。頷いた天乃を見て、月原は口を開いた。彼女の唇はピンク色だった。

「天乃君、あの子といて本当に幸せなの?」

 すう、と息を吸った。ふう、と息を吐く。静かに。

「あたしはそうは見えない。いつもいつも無理矢理呼び出されて、すごく大変そうに見える。天乃君絶対無理してるよ。早く目を覚まして。あたしにしたほうが絶対いいよ! あの子といても幸せになんかなれないよ。あたしといたほうが絶対幸せ。あたし、天乃君といると幸せだし。だからさ、天乃君」

 じっ、と見てくる上目遣いは、ほとんど睨んでいるようにも見えた。

「あたしと付き合おう」

「嫌だよ」

 その言葉は思っていたよりもすんなりと出てきた。首を左右に振って、天乃はむしろ微笑んでいる。月原は、あんまり早すぎる返事にぽかんとしていた。その顔は前にも見たことがあるな、と思ったら、少しおかしくなってしまった。

「俺は君といても全然幸せじゃない。君ばっかり幸せじゃ不公平だろう。それと、馬鹿にしないで欲しい。俺はあの子といる時幸せだよ。それはもう最高に。だから、君と付き合うのは、嫌だ」

 最後にもう一度きっぱり断って、すぐに天乃は踵を返した。これはきっと契機だ。こうして明確に彼女を振ったからには、橙子とももう中途半端なままではいられまい。天乃はほとんど走るようにして、駅前までの道を急ぐ。


 *


 今日も駅前は人ばかり。雑踏の中を天乃は早足で通り過ぎながら、一応橙子の姿を探す。けれどあの黒髪は、白い肌は、赤い唇はどこにも見当たらなかった。それならば、と駅を突っ切って行く。

 橙子曰く、ひねくれた人たちばかりの雑踏の中を、天乃は駆け足で過ぎていく。同じようにひねくれまがって、裏切られないように諦めて、それでも心の底では特別性を欲しがっている、そんな雑踏。その中を走る天乃だって、やっぱり同じくひねくれているのだ。

 一度手酷く裏切られたから、もう二度と裏切られないように、あらかじめすべてを諦めて生きていく。行動を起こすということには、裏切られるというリスクが常に伴っている。だから天乃は、ドールを手にしないことにしていた。だから橙子も天乃も、二人が付き合っているのか否かという話題を意図的に避けてきた。裏切られるのが怖いから。けれどそんな恐怖は、ひねくれた雑踏の誰もが持っているような、普遍的でとても陳腐なものだ。

 ドールが欲しいけれど飽きるのが怖い、なんて、振られるのが怖くて告白できないと言っている女子中学生と同じなのだ。そんな陳腐な恐怖なのだ。あまりに陳腐すぎて、なんだか馬鹿らしくなってしまうくらいに。

 欲望に押しつぶされるかもしれない、もしかしたら飽いてしまうかもしれない。けれど、手に入れたいという感情を無視することは出来ない。橙子だって言っていただろう。色々なことが怖くて仕方ないけれど、それでもやっぱり、諦めることは出来ないのだ。そう吹っ切れてしまえばもう、ドールを手に入れることだって恐ろしくはない。

 軽く息を切らして天乃が立っているのは、とあるアパートの二十五号室のドアの前だった。一度も行ったことのない、けれど場所だけは知っていた橙子の家。大きく深呼吸をしてから、スマートフォンを取り出して彼女の番号をコール。そうしてから、インターホンを押すべきだったと気づいた。

『……もしもし』

 電話に出た声は暗くて、そして少し枯れていた。

「もしもし。急にごめん。今とーこさんの家の前にいるんだ。呼ばれてないのに来てごめん」

 天乃がそう言うと、ぶつりと電話は切れた。二十五号室のドアをじっと見つめていると、ぎぃ、と錆びついた音でそれが開く。

 扉を押し開けるようにした橙子は、白い肌を真っ赤にして、びっしょりと汗をかいていた。おでこには風邪をひいた時に使う、冷却ジェルシートが貼られている。橙子は見るからに辛そうな顔で、けれど天乃を見上げて少し笑った。

「……ばーか」

 息も絶え絶えにそんなことを言った橙子に天乃も笑って、彼女を抱えるようにして家の中へ入る。

「とーこさん、風邪引いたんなら呼んでくれればいいのに」

「馬鹿。うつるでしょ。テンノくんの馬鹿」

 馬鹿馬鹿と連呼する橙子をベッドまで連れて行き、ゆっくりと寝かせる。

「ごめん、とーこさん。寝てて。冷えピタかえる? おかゆでも作ろうか?」

「いい。これデコデコクールだしさっきかえた。おかゆもさっき食べた。顔の汗だけ拭いて。気持ち悪い」

 はいはいと頷いてから、あ、と天乃は声を上げて、タオルよりも先にティッシュを手に取る。

「とーこさん、鼻血出てる」

「え? あら、ありがと」

 橙子は淡く微笑んで、天乃が鼻に乗せたティッシュを押さえた。きっと化粧はしていないだろうに、それでも唇は赤色だった。

 鼻を押さえる橙子の手を邪魔しないように、天乃は彼女の顔をタオルで拭いていく。そうしていると、今度は橙子が、あ、と声を上げた。

「ごめん、テンノくん。鼻血、服についちゃったみたい」

 言われて顔を下げる。シャツを引っ張って見れば、確かに赤いシミが出来ている。ああ、と天乃は微笑んだ。

「いいよ、このくらい。大丈夫」

「……そう」

 それを聞いて、橙子はふうと溜息を吐いた。なぜか呆れられてしまったらしい。鼻血が止まったらしい橙子からティッシュを受け取り、それをゴミ箱へ捨てた天乃に声がかけられる。

「ねえ、テンノくん。付き合ってもない女にこんなことすんの、やめなよ」

「え、俺達、付き合ってなかったの?」

 天乃がそう言ったのは、本当に咄嗟で、勝手に口が動いていたからだった。もう少しきちんとした言葉も考えていたのに、いきなり声をかけられて、思わず出た言葉がそれだった。天乃本人も驚いていたが、橙子のほうがもっと驚いていた。黒い瞳を丸くして、ぱちぱちと瞬きして、まさにぽかんとした表情。こんな顔を見るのは初めてだ。

 互いにしばらくそのまま見つめ合っていたのだが、やがて橙子がふっと笑った。赤い唇が優しく笑う。

「付き合ってたの?」

「俺は、そう思ってた」

「そっか。じゃあいいや。変なこと言ってごめん」

 橙子はそう言ってから、ちょいちょいと天乃へ手招きをする。呼ばれるまま枕元へ座り込んだ天乃の手を、ぎゅっと細い手が握った。それから橙子はごそごそと布団に潜り込んでいく。

「テンノくん、しばらくそこにいて。風邪うつしてあげる」

「酷いな、とーこさんは」

 全然嫌そうでなく言った天乃に、橙子はにんまりと笑って、その顔も布団に潜り込んだ。最終的に天乃をしっかと握った右手だけが外に出ている。

「好きよ、テンノくん」

 布団の中から聞こえるくぐもった声に、天乃は微笑んで、橙子の右手を優しく包むように握りしめる。

「俺も好きだよ、とーこさん」

 おやすみ、と囁いたなら、返ってくるのはもう寝息だった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても読みやすく、スラスラ読めました。 キャラクターの個性も魅力的で、二人の関係もなんだか素敵だとおもいました。 感情移入も難なくできました。 [一言] 一気に読み終えてしましました。素敵…
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