天下ふぶきっ!
投稿してしまいましたが、まだ書き途中です。というか4万文字では収まりそうにないので、二部という形で追加するかもしれません。
たったった……。
夕陽の差す放課後の校舎に、人の走る音がこだました。
グラウンドや体育館では各運動部の練習風景があり、その怒号にかき消されて外にはまったく聞こえないだろう程度の、微かな足音。
廊下をわずかに反響しては、瞬く間に消える。
たったった……。
その足音は、二人分。
もちろん教師のそれではなく、常々「廊下を走ってはならない」と教えられているはずの生徒のものだった。
厳罰ものだ。
もし生活指導の先生にその現場を目撃されようものなら、たちまち捕えられて説教を食らうところ。――いや、教師なら誰でもそうするだろうけど。
しかし幸いなことに、今日はその生活指導の先生が休みを取っていた。
取っていた、らしい。
何ていう名前の先生かって?
そんなこと、一度も指導を受けたことのない優良生徒である俺には知る由もないことだ。俺たちの通うこの高校は、県内でもそれなりに多い生徒数を抱えており、必然、教師の数もかなり多い。わずか一年、入学からあわただしく四季を一巡りしただけでは、苗字さえおぼろげな先生も中にはいる。
―――ああ、頼むから名前の話はやめてくれ。今だけは。どうか今だけは。
俺の手を引いて走る妙な同級生と、今まさに俺たちを追い掛け回している謎の女。
何という因果だろうか。
二年次に上がってクラス変更があった早々、こんな目に遭おうとは。
いや、こんな目にというより、こんな人物に、かな。
俺は高校に入って二度目に迎えるこの清々しい春の日に、学校一有名な歴女
吹雪 伊知に、出会った。
ご存じの方もそうでない方もいるかもしれないが、近ごろ巷では「歴史好きの女子」のことを略して「歴女」と呼んだりする。この風潮の先駆けは「歴史好き」なキャラクターを売りにしたアイドル――「歴ドル」の登場だったと聞く。
数年前には流行語のトップ10に入ったりもしたらしい。十位のうちの何位か。それは知らない。また、それらの流行語が、どんな基準に基づいて、どんな人たちから、いつ得られたアンケート結果なのかという点についても、当局は追求を控えたい。理由はもちろん、面倒くさいからだ。
結局何もわかってないじゃん。――その通り!
さて、一口に「歴史が好き」と言っても、その愛し方は様々ある。様々ある中でも、歴女たちの関心対象は、専ら日本史の一時期に限られることが多いようである。
戦国、安土桃山時代。もしくは幕末。
華々しくも壮絶だった、日本史上の重大な転換期。と、授業では習う。――が、
そんなことよりも、そんなこと以上に、彼女たちが揃って賛美するのはキャラクター。つまりは武士たちの生き様だとか、偉人伝そのものである。
いや、偉人伝というより、もはや単なるビジュアル――見た目の問題じゃないか?
おいおい、織田信長公が活躍したころの毛利元就はもっと老け込んだオジサンだろう。こんなデザインがありえるか?
俺は部室にあったゲームの攻略本らしき蔵書を一冊手に取って、無造作にページをめくっていた。
――何人かの女子生徒の話し声が聞こえる。
一体何部の部室なのかと疑問に思うだろう?
よくぞ聞いてくれた。
しかしながら、俺も今現在、自分のいるこの部室が、一体全体、何部の部屋なのかまったくわからないのである。
部屋の外に表札があったかもしれないし、なかったかもしれない。
確認を怠った。完全に不注意だった。
部室は、教室や会議室と言うよりは、もともと何かの準備室だったのではないかと思しき縦長の広さがあり、奥には堂々とテレビゲームが置かれていて、コードの先には液晶カラーテレビも完備している。テレビも、というか、今さら高校にテレビが置いてあって珍しいという時代でもないのだが――ゲーム機はいかんだろう。ゲーム機は。
完全に校則を違反した私物だった。
そしてそのゲーム機で、今まさに戦国シミュレーションゲームを楽しんでいる、部員と思しき一人の女子生徒の姿。きちんとイヤホンをして、ゲームの音が外に漏れないよう配慮している。
頭にはつばの小さな帽子をかぶっており、その正面に漢字の「愛」という形の、プラスチックだか何だかを金メッキした小さな飾りが付いているのが、後ろからでも確認できる。
「愛」の一文字。
こいつはきっと、直江兼続のファンなのだろう。
「ちっがあああああう!!!」
突如、別の方向から別の人物の叫び声がした。
「だから、真田『幸村』なんて武将は、歴史上存在しないの。知ってるでしょう? 彼の本当の名前は『信繁』。少なくとも生前に本人が幸村と名乗ったり呼ばれたりした事実はありません」
「そりゃ知ってるけどさあ、単なる言葉の綾だよ、いっちー。もうそっちの方が有名なんだから仕方ないじゃん」
「仕方ないで済まされるなんて……。ここは一体何部でしたっけ?」
「歴史研究部、だね。廃部寸前だけど」
けたたましい。いや、慌ただしいやりとりだった。
そうか、ここは歴史研究部だったのか。
全校生徒数の多い我が校は、自然、部活動の総数もかなりの数に上る。中には、部の名前を聞いただけでは一体何をする部活なのかさっぱりわからないものも多いが、歴史研究部と言われれば、おそらく文化部であり、歴史を研究する部であろうことは、想像に難くない。
歴史研究部――、か。
なるほど、俺の名前におあつらえ向きの部活だ。
いや、正しくは俺の名前こそが、この部にとっておあつらえ向きだったのだろう。
「そう、我らが歴研部は、三年生の引退とともに部員数が足りなくなって廃部寸前。
だからこそ、私が新たな部員を確保してきたのです!」
――確保っていうな。
「この方こそ、部存続の危機に光明を照らしてくれる、かの第六天魔王。織田信長様ですよ!」
「織田じゃねえ、太田だ。スケート選手とは何の関係も……!」
俺がつっこみを入れている途中で、かぶせるように「おおっ!」と歓声が上がり、パチパチと拍手まで加わる。ただしそれは、たった一人分のものだったが。
「じゃあ信長って名前なのは本当なんだね。いやあ、よろしく~。私は浅井雪花。『あざい』じゃなくて『あさい』ね。どっちでもいいけど。同じ二年生だよ!」
けらけらと笑って右手を差し出してくる同級生らしい女子が、そこにはいた。
後ろに二つのおさげを作り、前髪は直線。座ってはいるが、背丈は吹雪よりも少し低いだろうか。快活な性格で、かつ八重歯がチャームポイントとくれば、もはや『あざい』というより『あざとい』って感じだな。
うん、我ながら上手いこと言ったぞ、今。
「は、はあ。どうも……」
俺は思わず彼女の握手に応じる。
高校に入ってから初めて、女の子の手を握ってしまった。
「信長様ってことは、私にとっては義理のお兄さんってことになるのかな? ねえ、お義兄ちゃんとお義兄様だったら、どっちで呼んでほしい?」
唐突に、無茶な選択肢を突き付けられる。
「まぎらわしい呼び方はやめて下さい、雪花。信長様といえば不肖この伊知の兄君。あなたは苗字が浅井っていうだけでしょう?」
「浅井家は味方にしておいた方がいいよ~。ほら、金ヶ崎の戦いとかで……」
「ふん、朝倉がいなければ、そもそも浅井の造反なんてないのよ!」
「いや、ていうかそもそも私ら夫婦じゃん?」
「あなたが男子だったらね。…ああ、長政様はどこかしら?」
――名前で遊ぶな。
残念ながら俺は誰の兄でもないぞ。
歴女二人が不毛なやりとりをしている間に、そもそも俺がこの部室に連れて来られた経緯と、その首謀者であり、今浅井さんと言い合っている女子、吹雪伊知という人物について触れておこう。
事の始まりは、数時間前の教室にさかのぼる――。
俺の名前は、太田信長。
聞いてのとおり、日本の戦国時代きっての有名人と同じ名前なわけだが……。
近ごろ巷で話題のいわゆるDQNネームというわけでもないのに、これほど自己紹介がためらわれる名前もそうそうあるまい。
いや、そんな風に思っているのは俺だけなのか。
全国の『信長』さんに、陳謝。
―――ところが、である。
今回ばかりは、そんな名前を呪って余りある出来事が、起こった。
俺たちの学校では二年次に上がると、文理別のクラス替えがある。
ちなみに俺は、文系を選択した。
理系クラスと比べると、文系生徒の人口は圧倒的に多い。多少定員をシャッフルしたところで、それぞれに見知った顔がちらほらいたりする。学期初めのホームルームで、担任と生徒双方の自己紹介が交わされるわけだが、それゆえに入学時ほどの初々しさは、微塵もない。
俺は早口で、余計な説明などは一切省いて、自己紹介を終わらせた。慣れたものだ。歴史教諭である担任にすら、コメントを差し挟む間など与えない。出席番号が若いという特権を生かし、『後がつかえてるぞオーラ』を出しつつ、手早く着席する。
空気の読めないヤツがどこかで小さく「おお」と呟いたのは、軽く流しておいてやろう。しかし、それとは別に、ほんの一瞬、教室の後ろの方から何やら鋭い視線を感じた。
―――というのは嘘である。
もちろん俺は彼女――吹雪の容姿などまったく知らなかったし、実際のところ話にさえ聞いたことがなかった。そもそも友達と呼べる友達は少ない。少数精鋭。限られた人間関係の中で高校生活を十分にエンジョイしてきた俺である。
その限られた中に、女子の存在など皆無。
たとえクラスメイトであっても、名前を聞いた数分後には、もう忘れている。
そう、吹雪伊知という女子生徒も、俺にとってはそんな一人に過ぎない。
―――はずだった。
が、しかし。
「お昼、お一人なのですか?」
耳慣れない声が斜め後方からかけられ、俺は振り返らざるをえない。
四限目の授業がめでたく終了し、各々が楽しい昼食へと出かけて行く風景の中である。一人の女子生徒が、俺のすぐ後ろに立っていた。
「お、俺に何か?」
振り返った手前、ろくな返事も返さずには悪いと思ったものの、我ながら、どもる場面ではなかったろうと今は反省している。
これじゃまるで、俺が素面では女の子と会話も交わせないようなチキン童貞みたいじゃないか。
違う。違うぞ。日常生活でとくに深い交流が無いというだけで、別に同い年の女子を相手に緊張するような性格では決してない。
「いえ、どなたかと待ち合わせでしたら失礼かと思いましたが、お昼休みになっても動かれる様子が全然なかったものですから――……」
やけに丁寧な口調で話す、同級生。いや、クラスメイトかな。
初対面とは言え、さすがに見覚えくらいはあるけれど、相手のフルネームどころか苗字すら思い出せない。
ええと、どちら様でしたっけ?
「――もしよろしければ、私とお昼をご一緒して頂けたら……と」
逡巡している俺の脳内を見事に無視して、吹雪伊知は、そんな突飛な提案をしてきた。
これが、俺たちのファーストコンタクトである。
◇◇◇
先人にいわく、こつこつパラメータを上げたわけでも特殊なイベントが発生したわけでもないのに、突然向こうから話しかけてくる女子には、最大限の注意が必要だそうである。俺は、今まさしくその要注意人物に連れ添われる形で学食へと向かっているのだが、一体何をどう注意したらいいのか。残念ながら、先人はそこまでは教えてくれない。何のための先人だ。役に立たないな。どうせ画面を眺めながら左クリックか○ボタンを押すだけの簡単な先人だろ。
「私はお弁当なのですが、貴方は?」
そう問われて、俺が学食だと答えると、
「それではパンにしましょう! 私が払わせて頂きますね」
半ばまくし立てるように、吹雪はそう言った。
いや、そんな、初対面の相手にそこまで面倒をおかけするつもりはありませんと、俺が日本的な習慣に沿ってうやうやしく遠慮願おうとしたその長い言葉は、
「お近づきの印ですから」
という短い文章によって一蹴された。
どうやら先方は、やや気の短い性格のようである。
実のところ、昼休みの時間になったことは重々承知の上で、俺が着席したまま呆けていたことには少しばかり意味がある。
学食の、人気メニュー取り合い合戦だ。
合戦ならば先手必勝だろう。そう思うのが、素人の浅知恵というもの。繰り返される争奪戦を生き抜いてきた男子高校生の軍略には、一味違った戦の妙がある。
学食を運営している側とて、人気メニューが人気メニューである事実はとうに知っているから、必然、その入荷を増やしていることは疑いないのだが、それでも需要と供給はぴったりと釣り合わない。去年でもっとも戦いが激しかったのは、期間限定メニューの『かつ重定食』だった。学校中の女子たちが、呆れ顔でしばらく噂していたという。それほど激しい争奪戦だったにもかかわらず、なんとそこに参戦していなかった俺が、最後の一つを頂戴した。
棚から牡丹餅。そう思うだろう?
だが、食堂の裏事情を考えれば、こうした事態にはきちんとした理由があるのだ。
保温庫の不足である。
入荷数が多いものをすべて一度に、ほかほかの状態にはできない。それを知った運動部の生徒が、冷たくてもいいから出せ、とオバチャンを威嚇したことさえあったという。
大きな問題にこそならなかったものの、校内の噂としては軽く流れた。
つまりこれらの事情から、人気メニューには売り切れが二度、あるいは複数回ある。それを逆手に取り、一度目の売り切れで場が風化したところをピンポイントで狙えば、難なくゲットできるという寸法だ。
……いや、だから、もともと学食へは向かう予定だったのだ。
一人で。
「なるほど。……ですがお昼ご飯というものは取り合うのではなく、分け合うものだと私は思うのです」
な、なんという美辞麗句。
普段、〝誰と〟食べるかよりも〝何を〟食べるかに重きを置いている一般男子とは、真逆の考え方をする女子生徒ならではの賑やかな昼食風景をわずか一行で表現したぞ、この女。
食文化とは、文化なのである。それは技術以前に、社会的な行為という定義だ。
ああ、まったくもって反論が浮かばねえ。
「料理は、苦手だからなあ」
ぽつんと、独り言のようにそう呟いてみた。
分け合うと言うからには、もちろん自前のものだろう。それも、コンビニなどで誰もが簡単に手に入れられるものではなく、たとえば持参したお弁当。とかな。
「やってみなければいつまでも苦手のままですよ。必要は発明の母。男子でもお弁当を作っている方はいるはずです」
いや、発明はしなくていい。
「さあ、着きましたよ。何でも好きなものを取って下さいね」
もう着いたのか! 早いな!
というわざとらしい驚きは、自分の中にしっかり仕舞い込んだ。
パンにしましょうと言われて、惣菜パンかサンドイッチしか選択肢がなくなった俺。まあ空腹の手前、タダで食べられるものなら何だってありがたく頂戴するさ。いやいや、そんな上から目線な言い方をしたらサンドイッチ様に失礼だろう。見ろ。他のどんな料理よりも栄養バランスの整ったこのすばらしい姿を。かねてより悪評の絶えないイギリス発祥の料理とは思えないような完成度。まさしく西洋の『おにぎり』と呼ぶに相応しい。むしろ炭水化物の割合で言ったら、おにぎりの方が多すぎるかもしれない。
「ところで、なんで突然オゴってくれたりするんだ? そっちこそ、昼休みの予定はないのか?」
俺は、教室からずっと疑問に思っていたことを、口にした。
「え? ええ。まあ……」
ここに来て、初めて言葉を濁すクラスメイト。
いくらクラス替えがあったからと言っても、それが高校生活一年来の友達を失うというほどの事態ではあるまい。まあ百歩譲って、新しいクラスメイトとも交流の輪を広げようとしたのであれば、なおのこと異性である俺を一番に、というのは考えにくい。
ましてや、とりわけ友人が多い風にはとても見えないだろう男を捕まえて。
お近づき、と彼女は言った。
俺は未だ名前も思い出せない女子生徒を改めて見て、思う。
彼女は、お世辞程度か、それ以上には、美人である。
長い黒髪に、白い肌。
顔立ちは整っていて、まつ毛が長い。
よく見れば和人形のようでもあり、歩く動作は流麗だった。
そんな女の子が、なぜ……?
――とはいえ、まあ、同じ高校生同士。たまたま昼食を同席するのに、そこまで深い事情が要るわけでもないけれど。
俺は手早くプライスレスなパンとおにぎりと飲み物を選んで、彼女に会計を頼んだ。パンだと言われたのにおにぎりが混じったけれど、和洋折衷ではあるけれど、空腹時に何となく両方を手にしたくなる気持ちはわかるだろう?
さあ、待たせたな、俺の胃袋よ!
「では、場所なのですけど……」
ごく自然な動作で財布を閉じながら、彼女はそう言った。
「太田さん、でしたよね? 部活は何かに入られていますか?」
これまた唐突に、そんな質問を投げてくる。
この子、俺の苗字は覚えていたんだな。
場所――ああ、そうか。何かの部活動に属しているなら、昼食に部室を使うことができる。とくに人目を避ける気はなくとも、喧噪の只中での食事は遠慮したいという場合に、便利だ。
「いや、悪いが俺は帰宅部なんだ」
俺は正直に自白した。すると――
「ふーん。やっぱりそうでしたか。それじゃあ……」
一瞬の間を置いて、彼女がニヤリと、その和人形のような顔で不適に笑ったのである。
こうして俺は、高校生活で迎える二度目の春に、吹雪伊知と出会った。
◇◇◇
「こらこらお兄様ぁ。雪花のことをすっかりお忘れではないかね?」
とりあえず昼食をとりながら回想に耽っているところを、また変な同級生に絡まれた。日頃、目立つわけでも忘れられるでもない無難で中立的なキャラクターを演じてきた俺としては、前代未聞のモテ期が今まさにやって来ている。
嬉しいような、嬉しくないような。
ペットボトルのフタを捻って、中のお茶を飲んだ。
ともかくそういう経緯があって、俺は今、この歴史研究部とやらの部室で昼休みを過ごしている。
「私の名前は浅井雪花! 今をときめく十七歳の女の子。このまま時が止まってくれればいいなと切に願っている、ごくありきたりの女子高生さっ!」
どこかのカメラに向かってポーズと自己紹介を繰り広げる浅井さん。
この人は歴史なんぞを研究するより、演劇部あたりの方が性に合ってるんじゃないだろうか。
「ごくありきたりっていうのはね、ごくありふれたっていう意味なんだよ?」
うん。そっちの方が、より肯定的な言い回しだろうと思う。ただ、言い換えたところで全体の内容はそれほど変わらないよね。
「わかんないかなぁ? 自分のことを『ありふれた』と念を押すような女子が、実は隠している秘密について、お兄様は知りたくはならないのかい?」
なるか!
そういう艶めかしい設問を一介の男子高校生に投げかけるな。どうせ無いだろう、秘密なんて。秘密ダダ漏れキャラだからな、どう見ても。……いや、偏見でものを言って申し訳ないけれど。
そしてそろそろ『お兄様』なんていう二人称をやめてもらいたい。
本人が無認可のままで、すでに三回は使われていると思うぞ。
「雪花。ちょっとは大人しくしたら?」
いつの間にかテーブルに小さな弁当箱を広げているクラスメイト、吹雪。
そういえばこいつは弁当持参だと言っていたか。
――いかん。同い年の女子生徒を『こいつ』呼ばわりしてしまったぞ。
「ん――っ!……あふう。終わった、終わった」
ふと、背もたれのある椅子に体育座りしたままゲームをしていた女子が伸びをした。今現在この部室に集まっている四人のうちの一人。そして、おそらくは部員の一人なのだろうと思う。でなければ、部室に据え置きの(と思われる)テレビゲームを勝手にプレイしてはいないはずだ。
「なつ先ぱーい、お疲れさまです」
先輩と呼ばれたその少女は、しかし呼んだ当人を自然にスルーして、振り返るなり真っ先に俺を視認して言った。
「んあ? ……あれ、この部室に男子なんて珍しいね。どっちの彼氏?」
「いや、あたしのじゃないですよ?」
間髪入れずに返された浅井さんの言葉に、吹雪は虚を突かれた形になる。
「……は? いえいえ、彼氏とかじゃありませんから」
そもそも誰かの彼氏前提というこの人の設問がおかしかったのだが、後出しで否定した吹雪の回答が、なぜか照れ隠しに聞こえてしまうという会話のトラップ。
わずかコンマ数秒の駆け引きだった。
いや、俺は間違いなく彼氏ではない。だからそれが正解なのだが。
ゲーム少女はそれを理解したかしないか、ただ「ふーん」と小さく喉を鳴らした。
「先輩、なのか?」
一拍の間を置いて、俺は浅井さんにそう尋ねた。
「あ、うん。こちらは小林奈津子先輩。今この部の副部長をしてる人だよ」
――部員どころか、副部長だった。
副部長が昼休みにゲームやってていいのか。公認なのか?
というか先輩ってことは、この人、三年生だろう?
「あ、今、『なんだ、普通だな』って思ったでしょ?」
小林というその先輩は、脱いだ帽子を畳みながらそう言った。俺に投げかけられた言葉だった。
普通――名前のことだろうか。
「いいえ、別に。人の名前をとやかく言えるような人間じゃないので」
俺は素直にそう応える。本心だ。
こと名前に関しては、普通なら普通の方が断然いい。むしろ普通が羨ましくさえある。そんな俺の心情を察したのか、小林先輩はニヤリとして、
「……ほほう。では君も変な名前シスターズのご同類なのかな?」
……『変な名前シスターズ』って何だ?
「去年の新入部員のことだね。私、浅井とか、いっちーとか、とにかく戦国武将に同じ苗字や名前のある部員のことを、先輩は勝手にそう言ってるんだ」
すかさず、浅井さんが説明してくれた。
「彼は信長さんなんですよ」
そして吹雪が、先輩に余計なネタバレを流す。
「彼?」
……そっちかよ! と思わず言いたくなるところに食いつきを見せる小林先輩。
一瞬の呆れ顔のあと、吹雪が改めて言い直す。
「……HeですよHe! His name is NOBUNAGA. OK?」
なぜ英語?
横文字だと読みにくくてしゃあない。
しかし小林先輩は、それで納得したようだ。
「ほお~。信長なんて名前の男子、私も初めて見たよ。何? 二年生なわけ?」
「え、あー、はい」
今のは、俺に直接問うたのだろう。
それにしても、この中で唯一、部員でもない俺が勝手に部室で昼食を取っているこの状況については、当人にとって若干の心苦しさがあった。
「そっか。もしかして歴研部に興味があって来たとか?」
……やっぱり、そうなるよな。
「いいえ、俺は吹雪さんに連れて来られただけです」
俺はきっぱりとそう説明した後で、
「まあ、特に他の部活に所属してるというわけでもないんですけど、だからといって……」
「はあ? なんで? お昼オゴってあげたのに!!」
言葉の途中で、頓狂な声が邪魔をした。
まさかこいつ、本当に金で人の心を買うつもりだったのだろうか。
しかも、たったの六百八十円で。
「……いや、というか、えーと、吹雪さん、だっけ? 新入部員を集めたいならまずは下級生の勧誘からじゃないのか?」
そうなのである。
新学期の自己紹介で、たまたま信長なんて名前の俺を見つけて心理的に先走ってしまった。そんな彼女の気持ちはいくらか察するところではあるけれど、部員集めが目的なのであれば、すでに二人はいる二年生よりも、新入生、つまり一年生を先に勧誘するのが順当だろう?
まあさしあたり、その勧誘活動の人手が足りないという理由なら納得しなくもないけれど、俺の方も、ただの怠慢目的で帰宅部なんぞをやっているわけではない。
怠慢……じゃない。
そうじゃなかったと思う。
だから、えーと……
「……………」
何か、反論してくれないだろうか。
たしかに俺が言ってのけたのは、我ながら正論だったけれども。
お世辞にも褒められたやり方じゃない手口にせよ、それでもこのままあっさり俺を返すくらいなら、意地を通すための屁理屈もあるんじゃないかなぁ。なんて。
「あははは!」
テレビからコードを引き抜いたゲーム機を、明らかに私物と思しきバッグに仕舞いながら、小林先輩は突如、笑い出した。
「そっか。よかった。うん、よかったよ」
立ち上がり、笑顔でそう繰り返す先輩の視線は、俺を見ていたのか、それとも吹雪を見ていたのか、そのとき俺はわからなかった。
何だろう。
何か、そこに俺の知らない情報のやり取り、言外の意図があったような気がした。
歴史研究部。男子の姿が珍しいという歴女の楽園。浅井さんのセリフじゃないが、ここには秘密のベールというものが、まだいくつも張られているようである。
◇◇◇
「おーい! 第六天魔王くーん!」
いやいやいやいやいや、おかしいだろ!
そんな呼び方をしてくれと頼んだわけでもないのに、俺のアイデンティティというかキャラクターというか体面というか、その辺りをきっぱり無視した先輩の一声が、放課後の教室に響いた。
ああ、自分でこんなことを解説するのも非常に心外なのだが、知らない人のためにあえて言おう。第六天魔王とは、織田信長公の異名である。他でもない本人がそう名乗ったらしいのだが、よりによってどうして魔界の王なのか。もっとクリーンなイメージにしておけば良かったんじゃないか?
「せめて普通に呼んでくださいよっ!」
「あはは、ごめんごめん。ついうっかり」
そう言いつつ、謝る気など毛ほどもない笑顔の女子が、教室のドア越しに立っていた。男子高校生をうっかりで『魔王』なんて呼ぶな。中二病だと思われるだろ。
「少し、頭冷やそうか」
「ん? 何だって?」
歴研部への入部はきっぱりとお断りした俺だが、副部長・小林奈津子先輩にクラスを聞かれて、ついうっかり、吹雪さんと同じクラスですと、まるで小学生のような純朴さで答えてしまったことを、少しは後悔しているのだ。
「キミ、帰宅部って言ってたよね。部活に行く前に、ちょっと私に付き合ってくれない?」
念のために注釈しておくが、多くの場合と同じく、我らが学校にも『帰宅部』という名前の部は存在しない。部活に入っておらず、放課後は帰宅するだけの人々を表す伝統的な言い回しだ。
悔しいが特に用事もなかった俺は、先輩に従って階段を上がる。
てっきり部室へ向かうものだと思っていたが、先輩は足を止めることなく、階段を上へ上へと上がって行った。
途中で、ほい、と缶コーヒーを渡される。
「コーヒー、飲める?」
「まあ、どちらかと言うと好きな方です」
そ、よかった。と先輩は微笑んだ。
一体どこへ行く気なんだ? 屋上か? 何かとんでもない告白を聞かされるのだろうか。
実は男でした、とか。そういう類の。
それとも、ここの屋上が実は何か別の世界へと通じていて、ファンタジーかつアクティビティな人外バトルに、俺は巻き込まれてしまうのだろうか。
バババドーン!! みたいな。
――果たして、この校舎の最上階へと続く扉が……開かれる。
「はあ~っ! 足あっつ~い!」
天気は日中から変わらず、快晴。
周囲をぐるりと見渡してみたが、異世界への入り口らしきものは見当たらない。
よかった。
先輩は、自分のスカートからも缶コーヒーを一本取り出した。ホットコーヒーをポケットに入れていたらしい。もう春なのにな。
ちなみに俺に渡してくれた方は、アイスコーヒーだった。
わざわざ一階の自販機で買ってから、俺を訪ねて、そのまま屋上へ来るという段取りだったようだ。
「えへへ。もしこの状況を誰かに見られたら、私が後輩くんにパシらされただけって言うから安心してくれたまえよ」
いやいや、何それ。どこに安心材料がありますか。むしろ人聞きが悪いわ。
「誰かっていうのは、もちろんキミの彼女だよ。か・の・じょ。見られたら悪いでしょ? だからコーヒーは、念のためのカモフラージュみたいなもん」
ものすごく不要なところにお気遣いありがとうございます。
申し訳ありませんが、彼女、いません。
「つーかさ、私本当は副部長なんてそろそろ辞めたいんだよね~。どう思う?」
唐突に話題を切り替えてくる先輩。
缶コーヒーを、開けずに手の中で転がしている。
どう思うかと問われても、部外者の俺にどう思えと?
「え、……いや、副部長がいなくなったら困るんじゃないかと」
俺は無難にそう答えてみた。
こういうときのアドリブは、自分でも本当に嫌になるけれど、なかなか気の利いたセリフが浮かばないんだよな。
「本当にそう思う? あの歴研部を見て?」
あの歴研部――……。
まだロクに活動風景を見たこともない俺の記憶には、昼休みに女子数名が集まってガヤガヤと談合しているイメージしか浮かばない。そこだけを切り取って見たなら、副部長どころか、部長職が必要かどうかも疑問だ。極端な話、そんなものは交代制であっても困らない気さえする。
「まあ、正直に言えば……」
「そ、あんなのただの溜まり場よ。ていうか、実は部員いなくて廃部が決まってるの」
「……え、そうなんですか?」
ただの溜まり場であることを、あっさりと肯定されてしまった。
それどころか、廃部決定?
たしか廃部『寸前』とは聞いていたが、すでに決定しているならそれは寸前ではなくて、絶賛閉店セールの真っ最中じゃないか。
「部長が生徒会に入っちゃってね。まあ体面上、贔屓にはできないわけ」
……部長、いたんだ?
先輩の話をかみ砕いて言えば、こういうことだ。
歴研部の部長は、部長職にありながら同時に生徒会の会計も務めるという人物で、その職務上、各部活の予算案を作成、調整しなくてはならない。必然として、部員数が少なかったり、将来展望の薄い部活動は予算削減の対象になる。有り体に言ってしまえば、小さな部は潰されてしまうことが多い。
自分が部長職を務める部であろうと、一度その対象となれば、生徒会役員の立場上、肩入れもできないというわけである。
「吹雪から聞いてないの?」
「何をですか?」
質問を質問で返してしまったが、先輩は何も答えてはくれなかった。
……地雷、踏んだかな。
「んー、まあ、私はノータッチってことになってるからね。その辺は」
そう言うと、先輩はようやく缶コーヒーのタブを開けた。
一気に、飲み干す。
そんなに焦らなくてもいいんじゃないかっていうくらい。
そして最後に、ぷはっ! と、まるでビールの宣伝かのように良い飲みっぷりを意味もなくアピール。
その辺にノータッチ、という『その辺』とは、一体何のことだろう?
「気になるなら部室に来なよ。本人、いるんじゃない? 私は今日は帰るからさ」
◇◇◇
そう言われてしまえば、事情が気にならないこともなかった。
何というか、今はそれほど気にならなくとも、家に帰ってからもやもやしたものが残るくらいなら、不服ながら、あの吹雪にもう一度会って確かめることくらいは、いいだろう。
何の見返りもなしに昼飯をオゴらせてしまった一件も、内心、借りを作ったままのようで気持ちが悪い。
俺は再び歴研部のドアノブに手を掛けようとして、一瞬、思い直す。
まず、ノックじゃね?
コンコン。
「……? どうぞ」
中から返ってきた声は、吹雪のものだか浅井さんのものだかわからなかったが、そもそもノックというものに普段から慣れていないような疑問符付きである。
今度こそドアを開くと、そこには二人とも揃っていた。
「おおっ! お兄様じゃん! やっほー!」
俺にまず手を振ってくれたのは、浅井さん。続いて、
「あら、こんにちは。もう帰ってしまわれたかと思いましたけど、もしかして、歴研部に入ってみる気に?」
「いや、ああ、まあ……そうかな」
普通に全力で否定しそうになったところを、俺は自分で押しとどめた。
ここで否定的な発言をしてしまったら、いきなり空気を濁すことになりかねない。
空気も大事だし、今は吹雪の機嫌も重要だ。
とりあえず今のところは、二人の表情から俺を邪険にするような気配はない。俺は安心して一歩ずつ部屋の中へと入っていった。お邪魔します、の一言も忘れない。
「ホームルームが終わってから今まで、どちらにいたんですか?」
まるで帰りが遅かった夫を出迎える新妻のような詰問は、ひとまずスルーさせて頂こう。
「小林先輩に、呼び出しを食らってた」
そして返答の代わりではあったが、俺は正直にそう言った。
「ん? なつ先輩に? なんでまた……?」
疑問を口にしたのは、浅井さんの方だ。
「なんかこう、廃部も決まったし、副部長いらないんじゃないか? って……」
「ええっ! なつ先輩まで辞めちゃうの!?」
いや、そうじゃない。副部長が副部長職を降りるというのは、何も本人が部を出て行くことを意味しない、と俺は思うのだが。
こういうデリケートな問題には、焦って結論を出さない方が賢明だ。
そもそも部外者の俺が上級生から相談を受けている件についてまず疑問に思ってくれ。君らは心当たりすらなかったのか?
「どういう……いえ、どんなお話だったんですか?」
吹雪は、いちおう冷静に受け止めてくれたようだ。
俺に椅子を差し出し、最初からすべて説明しろという姿勢を取る。
「本人は辞めたいと言っておきながら、別に歴研部が嫌いとかそういう雰囲気じゃなかったな。ただ、色々と面倒事がある、みたいな風だった。話が漠然とし過ぎてよくわからなかったけど、そんな気がしただけだ。その面倒事については……」
一呼吸。
「吹雪が知っているから、聞いてみろ、みたいなことを言われた」
「…………」
吹雪が何も答えないと察したのか、代わりに浅井さんが口を開きかける。
「うん、いっちーは……」
「待って!」
その発言を素早く制したのは、他でもない吹雪自身である。
「まあ事情も聞かせずに巻き込んでしまうのは酷いですし、私が、ちゃんとご説明します」
そこからの吹雪の話は、だいたいこんな感じであった。
生徒会の権限によって、部長は自ら所属している歴研部を、完全に終わらせるつもりのようだ。そのため次の部長も選ばれず、部室も返還。来年には卒業していく三年生にとってはそれでも構わないだろうが、二年生である吹雪たちにとっては由々しき事態である。そこで、新・歴研部なるものを創設して、再度申請する気でいるらしい。ただし、新設の同好会では部費が出ないので、あくまで歴研部を乗っ取るのが理想形だという。ゼロからのスタートならば誰からの文句もなくすんなり通る話だろうが、部費の有無が関わってくれば、生徒会の方針と食い違うことになる。
「待った。そもそも部員が足りないじゃないか。前に、ここは三年生が引退したら部員不足になるって言ってたけど、俺から見た限り、部長と副部長が三年だとして、でも残り二人だけってことは無いよな?」
生徒手帳を改めてみる。部活動としての体裁に規定されている人数は、最低五名。
「あー、あと一人は、もなか先輩だよ」
もなか??
「最上かな恵先輩。剣道部のね」
け、剣道部!?
ますますわけがわからない。
「人数合わせに名前だけ貸してる人らしいよ。まあ、あたしは会ったことないけど」
―――なるほど。
人数合わせと言っても、先輩ってことはすでに三年生か。くそ、役に立たねえな。
お人好しにも、俺が建設的にそう思案しているところへ突然、
「ねえねえ、お兄様はどっち派? あたしは、いっちーが新部長で、歴研部のままでいいと思うんだ。どう?」
浅井さんが、そう尋ねてきた。
「この部屋はもう今年いっぱいで立ち退き勧告が出ているのよ?」
「だったら新部長の権限で、改めてこの部屋を借りればいいじゃん」
「それはイヤ」
浅井さんは、一体何にこだわっているのだろう。
俺の心中に、そんな疑問が浮かびかけた、その瞬間、
「むう……。だったらお兄様はあたしが奪う」
「は?」
「うわっ……!」
言うが早いか、浅井さんは俺の手を取っていきなり部室を出た。
―――走り出す。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!!」
吹雪の叫び声が後ろに遠ざかった。
驚くべき一瞬のできごとで、当の俺にも何がどうなったのか理解が遅れる。
浅井さんに引かれるがまま、廊下を走るしかない。
――それにしてもこの子、意外に腕力があるな。大の男であるはずの俺が、易々と引っ張られている。
―――って、感心してる場合じゃない。
いいから止まってくれ。
何だ。何なんだ、この笑うしかない状況は? 逃げる必要あるのか?
たったった……。
冬が過ぎ、日没の時間が少しずつ遅くなってくる春の日。
ようやく陽が沈み始める頃合いに、俺は妙な同級生と一緒に廊下を走る。
全ての授業がとうに終わっている放課後なので、周囲に生徒の姿は無い。
走りながら、俺は教師にだけは出くわさないよう密かに祈っていた。
たったった……。
俺たちを追っているだろう吹雪の姿は、すでに見えない。
というか、追って来ている気配すらなかった。
大方、どこかで待ち伏せているんだろう。俺は頭の隅でそう思う。
たったった……。
あとで、言い訳の一つも必要なんだろうな。
「……はあっ、はあっ、はふう、……もうダメ、疲れたぁあ!」
部室を出て、コの字の校舎を一周する直前に、早くも浅井さんが根を上げた。
……お疲れさま。
息を整えつつ、中庭を突っ切って、部室へ戻る。浅井さんいわく、逃げた人間が元の場所に戻ってくるなんて考えるのはドラマの刑事だけ、だそうだ。
結局、この逃避行は何の意味があったのか。
「浅井さんは、この部室に特別な思い入れがあるのか?」
「うーん、そういうわけでもないけどね……」
俺に背中を向けて、手でぱたぱたと身体を仰ぐ、浅井さん。
ほのかな熱気が、空気を伝わってこっちまで届いて来た。
おそらく制服のブラウスをはだけているため、前面からだと下着が見えてしまうのだろう。
――その姿を、ちょっとだけ想像した。
「いっちーが、新しく部を作って、新しく広い部屋に引っ越して、人がたくさん来て、賑わって……」
俺の卑猥な妄想をよそに、浅井さんがイメージするのは吹雪が作る新しい部活。
「――あたしは、そういう場所ってちょっと苦手だからさ」
……そうか。
そういう、ものか。
人当りの良い、砕けた感じの女子。
浅井さんなら、人並み以上に、人と仲良くするのが得意な風に見えるけれども。
―――ガチャリ。
その時、ふいに部室のドアが外側から開かれた。
「気は済んだかしら? 二人とも」
吹雪だった。
こいつ、呼吸を乱すどころか汗の一つもかいていない。ほら見ろ、完全に先回りされていたじゃないか。ドラマの刑事そのものだ。いや、刑事ドラマだ。
「げ、いっちー!」
浅井さんの漫画的リアクションを聞きもせず、吹雪が俺に差し出したのは、学生鞄だった。――俺の鞄。
ここに戻ってくるとわかっていたなら、別に持ち出さなくてもよかっただろうに。
「貴方に言っても仕方のないことでしたね。部外者さん」
皮肉のつもりか、吹雪は俺にそう告げる。
「まさか、我ら織田家を裏切って浅井に組するのが、私じゃなくてお兄様の方でしたとは」
待て、お前も俺のことをそう呼ぶのか?
「さよなら」
吹雪は最後にそう言って、後ろ手でドアを閉じる。―――と、
しかし間髪入れずにまた戻ってきて、俺に向かって何かの紙切れを差し出した。
「お昼代の領収証。一括でお願いしますね」
―――それは、思いっきり手書きの領収証だった。
680円。
こうして、一つのできごとが無事に終了した。
俺は、上手く内部事情に巻き込まれずに一通りの疑問を解消できたし、昼食の借りはチャラだ。
……しかし、
「ねえ、お兄様……」
どこかすっきりしない顛末に、多少なり気持ちが引っかかったままなのは、どうやら俺だけじゃなかったらしい。
「いっちーに……」
「……わかってる」
俺は、人気のない狭い個室で同席し、手を伸ばせば触れられる距離にいる女の子を惜しげもなく置きざりにして、
「ちょっと、行ってくるわ」
一人、部室を後にした。
「なあ、吹雪」
「…………何か?」
俺は下駄箱のところで吹雪の姿を見つけ、できるだけ自然に話し掛けた。
「副部長が、小林先輩が、その問題にはノータッチだと言っていた。先輩に相談したりはしなかったのか?」
「……。むしろ何も話していないのに、どうして先輩がそのことを知っているのかしらね?」
十中八九、浅井さんからの情報漏洩があったと思われます。
「歴研部、嫌いなのか?」
俺は慎重に言葉を選びながら、目の前の女子にそう質問した。
「……いいえ。でも温いわ」
温い?
「あんな、ゲームの攻略本と、いい加減な研究本で埋め尽くされた書棚を見て、貴方は何も思わない? しかもそれでいっぱいいっぱいの狭~い部室!」
それは、吐き捨てるような、批難の言葉。
俺は、その時初めて、激昂する吹雪を見たような気がした。
「温いのよ! 歴史の研究とか言いながら、元ネタはゲームばっかり! もっと聖地へ行って写真を撮ったりとか、それを飾ったりとか、衣装も作って、そして……!」
聖地だとか衣装だとか、ちょいとディープな趣味を持っている人種でなければすんなり理解できないだろう単語を自分が並べていることに、一瞬だけ自己反省して止まる吹雪。
「そ、そんなスペースと人員を抱えられるだけの部活が、私は欲しかっただけよ……」
最後に力なく、そう締めくくった。
―――もうすぐ、下校時刻。
春にはまだ早いとでも言うように、肌寒い夜の風が吹き抜けた。
「……わかった、俺も協力する」
「えっ?」
上手いこと内部事情に巻き込まれなかった、なんていうのは嘘だ。俺はそんなに器用な性格をしていない。もうとっくに、片足を突っ込んでいる。
「まあ正直、このまま帰宅部でいるのも勿体ないしな!」
それでも、俺が今まで部活動を嫌煙していたのは、平凡な日常を愛しているからでも、怠慢な主義思想からでもなく、ただ単に、俺が飽きっぽい性格だからだ。
退屈なのは、新鮮さを味わう自分がそこにいないから。一歩を踏みだし、何かを始め、常に新鮮な日常を見つけ出すのは、きっと――自分自身なのだろう。
「これは借りておくよ」
俺は、手書きゆえに何の効力もないその領収証を、吹雪に返した。
◇◇◇
次の日。
俺は休み時間を利用して、生徒会の名簿を見せてもらうため、担任教師のところへと向かった。
もちろん、職員室である。
担任の席はわからなかったが、今は本人が座っているので、そこを目指せばいい。
案の定、先生は、きょとんという文字が今にも浮き出してきそうな表情をして、俺を見た。
「生徒会の役員名簿? まあ、構わんが。そんなもの一体どうするんだ?」
当然の疑問に、俺は部費の予算案に関する問い合わせです、と簡潔に答える。
「ああ、最近その手の問題が多いらしいな。平松先生がぼやいていたぞ。ところでお前、部活なんか入っていたっけ?」
―――まあ、帰宅部ですけど。
よく知ってるな、さすが担任教師。以前から面識があったとはいえ、去年はうちの担任じゃなかったはずなんだが。
俺は手渡された一枚の用紙を眺めて、途端、唖然とする。
生徒会会計、今川 至。
「くあ……。吹雪のやつ、こういうことかよ」
「ん? 誰がどうしたって?」
いいえ、こっちの話ですよ、先生。そりゃもう完全無欠に、完膚なきまでに、こっちの話です。
歴史教諭でもある担任を相手に、永禄三年(一五六〇年)尾張で起こった桶狭間の戦いなんぞの話題を面白おかしく語るほど、俺はマゾヒストな性格をしてはいない。信長相手に今川とは、あまりに出来すぎた冗談だ。こっちには家臣の一人だっていないんだぞ、ちくしょう。
「今年は取り潰しに遭う部活が多いらしい。それで不登校になった生徒が出て、生徒指導の平松先生がわざわざ自宅まで説得に行く騒ぎになった」
「……へえ。それは大変でしたね」
聞いて、俺はできるだけ平静にコメントする。
『取り潰し』なんていうのは、まるで武家時代みたいな古めかしい言い方だが、それほど深刻になるような大事なのだろうか。ううむ、帰宅部の俺にはわからない感覚だ。
ところで生徒指導の先生は平松っていう名前なのか。覚えておこう。
「失礼しました」
用事が済んだので、俺はそそくさと職員室を出て、クラスへ戻る。
まず敵に会わないことには始まらないと思ってはみたものの、よく考えたら生徒会室って、職員室以上に入りづらい場所だよなぁ。いや、気分的に。
キーンコーンカーンコーン
あっという間に、四限目が終了し、昼休みになる。
スタートダッシュ、とばかりに、まだ教師がそこにいるのに教室を飛び出す数名の男子が、ちょっとしたクラスの笑いを呼んだあと、それぞれが思い思いに談笑を始める。
ふと、吹雪が静かに立ち上がって、俺の真横を通りがかった。
「今日はオゴったりしませんよ、お兄様?」
「おい、それは挑発と受け取っていいのか? いいんだな?」
「あらごめんなさい。太田信長くん」
フルネームで呼ぶな。いや、むしろ呼ぶな。
お前は授業中、けっこうな人数の男子からさりげない視線を受けていることに、まさか気づいてないわけじゃないだろうな。変な風に誤解でもされたら、俺の厄介ごとが増えそうだ。
「ケチだな~、お兄様は」
「うおっ!!」
吹雪の後ろ姿を見送って、さて、と立ち上がろうとした俺の前に、浅井さんが現れた。机の影にしゃがみ、ぬっと顔だけ出している。
寝癖と思しきアホ毛が、頭の上で小さく揺れた。どうやら四限目を寝て過ごしていたのか、おでこが少し赤い。ふぁ~、とあくびをしながらも別クラスからわざわざ来るとは、ご苦労なことだ。
「なあ、今お前、吹雪伊知に話しかけられなかったか?」
俺が浅井さんの一言の意味について、頭の中で吟味しようとしたその時、今度は後ろの方から声がした。
男の声だった。
たしか二つほど席の離れた、木下とかいう奴だったと思う。
「ああ、いや、まあ気にするな。ただのクラスメイトの挨拶だよ」
さっそく誤解されるような事態を避けるべく、俺はそう言い繕う。
しかし、彼がため息まじりに返してきた言葉は、予想とは全く違うものだった。
「クラスメイトどころか、あいつが他人に挨拶する場面なんか久々に見たよ」
「…………久々? ひょっとして吹雪とは旧知の仲か?」
木下は言う。
「俺は去年、あいつと同じクラスだったんだが、ほら、あの女けっこう美人だろ? 見た目」
「待った。それはあんたが吹雪に惚れてフラれた話とかじゃないだろうな?」
「違うって。いや、まあ惚れたというか、一時、微妙に惹かれたことは否定しないけどな。男として」
微妙に、という言い回しが照れ隠しでしかないことは文脈から完全にバレている。
「去年、思い切って彼女にラブレターを送った男子が一人いたんだが、なんと返事が矢文で返ってきたんだとか……」
「…………」
バカだ、あいつ。
いや、その話を信じるならば、だけれど。
俺はラブレターを読んだ吹雪がその指定の場所で、わざわざ手作りしたのか部室にあったのか、弓矢を構えて待つ姿を容易に想像できた。
ヒュン! ……バシッ!
「……その男子は怪我とかしなかったのか?」
「というか、矢はおもちゃで、本人には当たらなかったって話だけどな。中に書いてあった文字が達筆すぎて読めないから、当時クラス中の男子が総出で頭を捻った。で、意を決して本人に書き直してもらおうとしたら、今度は口頭ではっきりとフラれたそうだ」
なるほど。たぶん当人は、和歌か何かを綴ったつもりだったのだろう。それも恋歌だな。奥ゆかしさの価値観を平安時代に置き忘れたような、そんな真似をするのは吹雪くらいのものだ。
「あはは! そりゃいっちーらしいね」
聞いていた浅井さんも、納得したらしい。
しかし今の話では、吹雪は普通にクラスの男子と接している。まあ、普通とは言い難い方法で告白を断ろうとしたかもしれないが、普通の女子でもいきなり面と向かって男子を振ることはしないだろう。逆の立場になってみればわかる。そもそも、その男だって手紙を使って間接的に告白しているわけだから、吹雪のことは責められまい。
「それがさ、その後しばらく、こっちが話し掛けるとノートに何やら文字を書いて見せるようなキャラになったんだよ、あいつ」
「……えっ?」
一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。
それは筆談、という意味か?
何のために?
「筆ペンだ。ペン字の練習のつもりだったか知らんが、とにかく読めないし一言もしゃべらないし、意味がわからない。そうして誰も、彼女に話し掛けようとする男子はいなくなったのさ」
「あ~……」
想像して居たたまれなくなったのか、浅井さんが声のトーンを下げた。
……痛い。痛すぎる。そりゃ男子も引くわな。
まあ、引いたのが男子だけでよかったじゃないか。異性と付き合いのない青春というのも、それはそれで楽しめるはずだぜ。俺が保障する。
「まあ、彼氏が満足してるならそれでいいんだ。うん、俺が悪かった」
……だから、俺はあいつの彼氏じゃない。
そう否定しようとして、しかし同時に俺は、まったく別のことを思いついた。
「ところで、あんた、たしか木下って言ったっけ?」
「そうだ。初めまして」
「初めまして」
俺と木下が礼儀正しくそう挨拶するのを見て、浅井さんが一言。
「……え、二人は友達じゃなかったの?」
うん、まあ女子にはわからない会話だったよね。
―――俺にもわからないけど。
―――放課後になった。
協力すると言った手前、まず何から始めるべきかと、もう一度脳内でプランを練り直した結果、俺は生徒会と正面から対峙する前に、もう一人、顔の知らない人物に思い当たる。
「ここの幽霊部員って、たしか……最上先輩、とか言ったか?」
俺は図々しくも、まだ入部を宣言していない歴研部に、再びお邪魔していた。
「あー、うん、そう。剣道部のね」
「ん、なに? かな恵ちゃんに何か用事?」
今日はテレビゲームではなくトランプゲームに興じている浅井さんと小林先輩の両名が、俺の言葉に反応してくれた。
「先輩、知り合いなんですか?」
「ん~? いや、まあ知り合いって言えば知り合い。うん」
たった二人で大貧民をやるって、どんな荒行事だよ。終わったときに片方が天国なら、片方は地獄しかない。格差社会の極みだ。いや、そもそも俺は大貧民のルールをよく知らないんだけど、これは本当に大貧民なのか?
「違うよ。大貧民じゃなくて、大富豪」
―――左様ですか。
浅井さんとは別の中学だったためか、地元では呼び方が違うようだ。
「それで、剣道部の部室は……」
「もちろん、剣道場でしょうね」
「剣道場って……?」
「あれだよ。ほら、えーと、第二体育館の裏じゃなかった?」
「そうそう、その辺り」
「第二? どっちが第一?」
「小っさい方が第二」
「や、ていうか、もう、剣道なんてさ、運動部の中で一番うるさいんだから、声がする方に行けばいいんじゃない?」
「それだっ!」
鬼さんこちら、かよ。
思いっきり上の空で返事をされていることについては、今さら咎めまい。
それに、もう十分な情報は手に入った。いや、確認だけで十分だ。
―――剣道部の最上先輩、か。
うおおおおおおおおっ!!!
やああああああああっ!!!
なるほど、ものすごい気合いである。
その怒号の出所を辿ったら、果たして剣道場に行きついた。行きついたはいいものの……これは、扉を開けるのもためらうな。
「あ、新入部員の方ですか?」
ふいに、誰とも知らない部員の一人に声を掛けられてしまった。
体育着姿で見学――、相手はまだ一年生のようだ。
「いや、人を探しているんだ。俺は二年の、あー、歴史研の者なんだけど……」
うっかり名前を名乗りそうになって、それでは最上先輩に伝わらないことを察した。彼女と俺は、まだ面識がない。歴研部を語った方が、伝わるだろう。
それが正しく伝わってくれれば、の話ではあるが。
程なくして、白い道着姿の女子生徒が一人、俺の方へと歩いてきた。
「ボクに用事があるっていうのは、キミかい?」
第一声。
「…………」
「ん? どうしたの? ボクの顔、どこか変かな?」
「ぼ……」
「……ぼ?」
ボクっ子だ―――っ!!!
何というか、叫ばずにはいられなかった。思わず口に出してしまったが、
「あー、なんだ、そんなことか」
先輩は、初対面の、しかも後輩の無礼な発言にまったく憤る様子もなく、けらけらと笑った。初めての人にはよく言われるよ、と。
「びっくりした。三年になった今さらだけど、男の子に呼び出されるなんて年甲斐もなくドキドキしちゃったよ。えーと、歴研部の人だっけ?」
最上かな恵先輩は、いい人だった。それはもうむちゃくちゃに、可愛い人だった。
俺でなければ、いや、ここは俺も含めさせて頂こう、間違いなく男子が一目惚れする大和撫子だ。穏やかな性格もさることながら、セミロングを後ろで束ねた気品ある髪形に、長いまつ毛。背は高くもなく低くもなく、俺の目線からそのうなじが見え隠れするのが、まさに大人の女性が持つ魅力を十二分に引き出した必殺のチャームポイントである。しかもボクっ子。
「いやいや、そう褒めてくれても何も出ないよ? 後輩くん」
言われて、俺は自分が名乗り忘れていることを恥じた。
「申し遅れました。俺は二年の太田っていう者ですけど、失礼ながら、まだ歴研部の部員というわけじゃないんです」
「……ほほう。『まだ』っていうことは、いずれは入ってくれる心づもりなのかな?」
先輩は、腕組みをして言った。
無意味に大き過ぎない豊かな双胸がその腕の中で……いや、これ以上はいかん!
一体どうしたんだ、俺の理性。
放っておけば艶めかしい形容詞をいちいち沸出するこの脳みそを、何とか止める方法は無いものかと俺は苦心する。
「それで、ですね。えーと……」
「ふむ。それはすごく重要な話かい?」
―――言われて、また気がつく。
「あ、先輩も部活動中でしたね! すみません!」
まったく、自分の気の利かなさ加減に、これほど腹が立ったことはない。
本題だけ手短に話して、すぐに退散するつもりだったのに。
「いやいや、そういうんじゃないよ。ボクは、ほら、もう三年だからね。次の大会には出ないし、後輩の練習相手として居るだけだから。それより、重要な話なら人に聞かれてもいいのかなって、思ったまでだよ」
何という配慮! 天使か、この人は。実は天使なのか?
言語野がそろそろ火星あたりに到達しそうな勢いの俺を、先輩は剣道場の裏庭へと案内してくれた。そこは裏庭の中の裏庭。隠者の庭園。地面が舗装されていない小さな空間で、ところどころに踏みつけられた土がある以外は雑草が伸び放題の、静かな空き地だった。
最上先輩は、自分の背中に回した左腕を右手で掴み、そのまま壁にもたれかかる姿勢を取る。その姿はさながら、人知れず咲く白いスズランの花のようだった。
「歴研部ね。まあ知っててボクを訪ねたんだろうけど、ボクは名前を貸してるだけの幽霊部員だよ」
こんな可憐な幽霊なんて俺は見たことがありません!
もちろん幽霊自体、一度も見たことはないけれど。
「だから内部事情には疎くてね。奈津子は、自分から進んで部活の話をしてくれないから。それで? 歴研部は賑わっているのかい?」
奈津子―――小林先輩か。
知り合いと言えば知り合い。と、彼女はそんな風に言っていたが、日常会話を交わす間柄なら、しっかり『友達』でいいんじゃないだろうか。
「それが………実は、廃部寸前なんだそうです」
俺が正直にそう告げると、しかし先輩は落胆する様子も呆れる様子もなく
「……そっか。まあ、そんなところだよね。今川が生徒会に入った、とも聞いたし」
「知っていたんですか?」
「部長の今川至。実はね、ボクの彼氏……だったのだよ」
―――な、なんですとォオオオオ!?
とんでもない一言が、俺の心をハートブレイク(重複表現)した。
「まあ『元』? って、付けた方がいいのかな。今はもう、お互い受験生だし……っていうのは言い訳なんだけど……」
やや目線を下げたまま、なぜか急にもじもじと言葉を濁す先輩。
けしからん! 先輩にこんな……! くそ、くそっ! 俺と代われよ今川至!
「いや……あはは! まあ、人の恋路はどうでもいいじゃないか。うん。それでだね……えーと、キミは歴研部が廃部になりかけていることを、わざわざ幽霊部員のボクに報せに?」
「いや、そういうことじゃないんですけど……」
あれ、先輩のあまりの可愛さに、伝えるべきことをすっかり忘れた。
本題とは何だったのか。
「今川部長――俺はまだ会ったことさえ無い人ですが、会計の仕事とはいえ、どうして自分の部まで潰してしまうんでしょう。正直、そこまで費用がかさむ部でもないかと。それに、今年に入って無くなってしまう部活動が、ずいぶん多いという話も聞いています。そこまでして費用を捻出しなければならない理由。最上先輩は――元恋人なのでしたらなおさら――本人から聞いていませんか?」
俺が一気にそこまでしゃべるのを、最上先輩は静かに聞いていた。が、しかし、
「……ふーん、そう」
ふいに、それまでとは違う声のトーンに変わった気がした。
「それはちょっと、ボクにも関係あるかな。まったく、あの男ときたら……」
彼女は、空に放り投げるように、そんなセリフを吐いた。
―――何か、やはり思い当たる事情があるという顔だった。
◇◇◇
「そうか。わかったぞ、吹雪」
「何ですか急に。王冠が純金で出来ているか合金で出来ているか、調べる方法でも思いついたんですか?」
「それはアルキメデスが浮力の法則を発見したときの逸話だろ」
ユーリカ!
しかし、ここは風呂場じゃないし、俺は全裸でもない。加えて言うなら、その逸話は完全な作り話であるという説が、今では一般的だ。
というか、そんな話よく知ってるな。歴女のくせに世界史にも精通しているのか。
「……で、何がわかったんです?」
歴研部、部室。いつものように小林先輩がテレビゲームに没頭していて、浅井さんはいない。俺と吹雪は机に向かい合い、互いに黙って本を読み漁っていた。
「部費にこだわる必要は無いんだ。最初は同好会で、自費で頑張るところから始めたらどうだ?」
「イヤです」
一蹴された。
いい案だと思ったんだがなぁ。そんなに金がかかるものか。いちおう、校則でアルバイトは禁止されていないから、小遣い程度であれば自分で都合できそうなものだが。しかも、実際の廃部までには、まだ半年以上の時間があるわけで。
「廃部する部活を乗っ取ってこそ、天下布武の一歩です」
……まだ言ってるよ、こいつは。
俺は信長だけど信長様じゃないからな。天下に武を布く――世の中を統括しようなんてまったく考えちゃいない。
「じゃあ、自分で部長に掛け合ったらいいじゃないか」
「そ、そんなこと……」
痛いところを突かれた、という顔をしたのも一瞬、
「……女の子がそんなはしたないこと、出来ませんわ」
吹雪は、冷静を装ってものすごい言い訳をしてきた。
まったく。平安時代ならいざ知らず、女性の社会参加が激しい現代日本でそんな奥ゆかしいセリフを吐いていたら、周りの女性に追い抜かれるどころか、蹴落とされるぞ。
そして、自分に出来ないことを俺に押し付ける、人使いの荒い女である。
―――その日俺は、歴研部に入部届を提出した。驚いたことに、顧問はうちの担任であった。灯台下暗しとは、このことだ。
というか歴研部が廃部することを、この男は知っているのか?
次の日の放課後、俺は意を決して、生徒会室のドアを叩いていた。
「どうぞ」
予想に反し、凛とした女性の声が部屋の中から返ってくる。誰だ? 生徒会長かな?
古今東西、女性の生徒会長というものは人間離れした智謀と技術と、そして天が二物を与えたような美貌と人格の持ち主であるという。うちの学校にそんな生徒会長がいたなんて知らなかったなぁ。俺が大いに期待してそのドアを開くと、
「失礼します。二年の、太田という者ですけど……」
「やあ、やっと来たね、太田君。待ちわびたよ」
ドア越しではわからなかった、聞き覚えのある声が、俺を出迎えてくれた。
―――最上先輩だった。あれ、部屋を間違えたか?
「さて至、これで説明の手間が省けたね。この男子が、今ボクの言った太田信長君だよ」
先輩がそう話しかけた先―――俺から先輩を挟んで線対称の位置に立つ人物。
同じ制服を着ていながら、同じ男子用の制服を着ていながら、俺とはまるで別種の、大人びた雰囲気を醸し出すその人物は、
「……そうか」
と、観念したように短く呟いて、掛けている眼鏡を正した。
「僕が会計の今川だ。太田君と言ったね。僕に用事があって来たんだろう?」
重く、のしかかるような声が俺に向かって掛けられる。同じ『ぼく』という発音も、最上先輩のような軽やかな印象はまったくない。とうに声変わりを終えた男のそれだ。
我らが歴研部の部長にして、生徒会役員、そして忌むべき最上先輩の元カレという、今川至。
―――しかし眼鏡キャラとは、予想外に予想通りと言わざるをえないな。
俺は最上先輩と並んで立ち、その男に対峙した。
「初めまして、今川先輩。ちなみに、きちんと入部届は出して来ました。つまり、」
「正式な歴研部員として、ここに来たわけだな」
「―――ええ、その通り」
さすが部長。話が早くて助かる。
ふう、と短く一息ついて、
「君の覚悟はわかった。話の大筋も、かな恵から聞いたよ、太田君。――僕からの結論を言わせてもらえば、部費を取り下げる代りに、歴研部が今後も同好会として存続することは、やぶさかではない」
やぶさか?
やぶさかではない、だって?
「あのねえ、至。キミはもう少し言葉を選ぶことを学んだ方がいいよ」
そうだそうだ。元カレのくせに、最上先輩のことを名前で呼ぶな!
「それに、ボクがさっきから問題にしているのは、そのことじゃな――……」
「だが、少なくとも歴研部は今月で終了だ。他の演劇部や合唱部も同様にな。例外は認めん。だいたいうちの学校にはコーラス部がすでにあると言うのに、どうしてわざわざ……」
「待った。今月で終了って?」
俺は、思わず口を挟む。
たしか歴研部は、少なくとも今年いっぱいは存続って話じゃなかったか。
「ん? ああ、まあ、歴研部については、他に火急の用もないし、僕の在学中、つまり今年いっぱいはあの部室を利用することを認められている」
――なんだ、それは。
詐欺くせえ。
「それで? その浮いた予算を、どう使うのかってボクは聞いてるの」
負けじと、食ってかかる最上先輩。
「当然、優先度の高い部活動から順に振り分けるさ」
今川部長は、なおも落ち着き払って、そう応えた。
「嘘だよ。ねえ、そうだよね? 太田君」
俺に話が回ってきた。
「いや、えーと、まあ……」
しかし俺は、情けなく言葉を濁すしかない。
実は、最上先輩と初めて会った日に、彼女から聞いていた事実の確認というか、裏付け捜査を俺はしていた。
先輩いわく、最近になって剣道部の部費の予算が不自然に増えているという。具体的な数字を顧問に確認したところ、すでに備品の購入に充てたあとではあったが、元々の予算は、例年の一・五倍は高かったという話だ。
「どう贔屓目に見ても、これは贔屓しすぎじゃないの?」
それが、最上先輩の私見である。が、
「うちの剣道部は、県大会の上位に名を挙げる有望な部だ。言っただろう? 優先度が高いんだよ。他にも、野球部やバレー部を優先している」
そうなのだ。
最上先輩の私見は、あくまで私見でしかない。剣道部の内側にいる人間として肌で感じるものはあるのかもしれないが、全ての部活動を余さず見渡している立場の人間とは、視野の広さが違う。優先順位と言われれば、不自然も不自然でなくなってしまうのである。贔屓しましたが何か? と開き直られた気分だ。
「ふーん……」
まだ納得がいかないといった様子の、最上先輩。
「まあ、そういう理由なら、それでもいいけど」
しかし結局、渋々というか、彼女の方が折れる形で、この議論は終結した。
「失礼しました」
「じゃあね」
それぞれの挨拶を今川部長へと投げて、俺と最上先輩はその場を後にする。
先輩は何も言わない。間接的とはいえ、先輩にムダ足をさせてしまったのは俺にも責任の一端がある……のだろうか。
「結局、やり込められちゃいましたね」
俺は、苦笑いで先輩にそう話しかけてみた。ところが、
「……ふふふ。やり込められた? いいんだよ、それで。ボクは最初からそのつもりだったんだからね」
先輩は、予想に反して、かなり上機嫌だった。
「……え?」
俺が思わず面喰ってしまったのも仕方あるまい。
「太田君、さっき至がうっかり口を滑らせたのを、聞いてなかったかい?」
「………?」
「君が聞いていてくれないと、話が始まらないよ」
ぷー、と口を尖らせる先輩。
―――めっちゃ可愛い。
いや、そういう話じゃなかった。
口を滑らせた、というと、何かしらの余計な情報を彼がこちらに漏らした、ということなのだろうか。――余計な情報。
「たしか、剣道部の他にも部費が高騰した部がある、とか」
「うん、まあ、それもそうかな。もし野球部やバレー部にかけあって詳しい裏情報が採れれば、たしかに至を追い詰める材料にはなるかも」
正解、したのだろうか。
「でもね、それはちょっと難しいよ。ボクらに、そんな情報を確実に集めるて来るだけの力はない。だからそっちじゃなくて、潰される部の方。思い出して」
なんか、刑事ドラマみたいなノリになってきた。
「えーと、たしか、演劇部と、合唱部?」
「ぴんぽーん、正解!」
先輩は、さらに嬉しそうに笑う。
この人の笑顔、まじで凶器レベルだよな。
「ボクが何を考えてるか、もうわかるよね。根本的な問題は、部員と部費の確保、だったでしょ? だから……――」
「まさか……」
「そう、名付けて三位一体作戦。って感じかな」
商業的には合併と言うんじゃないだろうか。
しかし問題は、ある。
「いや、なんというか、ものすごく毛色の違う部だと思うんですけど……」
演劇と合唱はともかく、うちの歴研部は、凡人が近寄りがたい歴女の集まりだ。どちらかと言えばアウトドアというか、少なくとも身体を動かす印象のある前者と比べて、あまりインドアが過ぎるだろう。
「ライフラインが繋がるだけでも良しとしようよ。敵の敵はすなわち味方ってね。細かいことは、あとで考えればいいじゃん」
意外と大雑把な人だった。
「それにね、ボクは知ってる。演劇部は、今年の夏に市が主催する発表会に参加できる予定だったんだ。人前で発表できる機会は、創設以来のことだって聞いたよ」
へえ。
創設以来って……意外と、歴史が浅いのだろうか。
「あれ、待てよ? それってもしかして……」
俺は、あることに思い当たる。
部が停止して、不登校になったという生徒――。
しかし、俺が言いかけた言葉は軽く流され、
「太田君、今日はキミが来てくれてよかったよ。ボクの話だけじゃ、ちょっと説得力が薄いものね。ありがとう」
「いえいえ、それはこちらのセリフです。先輩がいなかったら、初対面の部長相手に俺なんかどうしたらいいやら……」
俺は素直にそう言った。実際のところ、俺が先輩の役に立ったのかどうか疑問だ。部長の放つ眼光に萎縮して、蛇に睨まれたカエルというか、なんかその程度の存在だったんじゃないかと思う。
「時に太田君、キミって彼女いる人なの?」
「えっ? いや、いないですけど?」
先輩は唐突に、本当に突然に、そんなプライベートな質問を投げてきた。
「ふうん。じゃあ、気になってる子とかは?」
「べつに……」
なんだ? 男には受容しがたいガールズトークか?
「ふむ。だったら、次の土曜にボクとデートしてくれないかい?」
…………。
え?
「ボクはね、こう見えて、高校生活で計十七通もラブレターをもらってるんだ。がっかりさせない自信はあるよ」
えっへん、と胸を張る先輩。
いや、少ないだろ。先輩なら三ケタはもらっていても不思議じゃない。
今時の高校生に、ラブレターなどという古臭い慣習がそこまで色濃く残っているかという疑問はさておいて。
自分の耳を疑いたくなる単語が、先輩の口から発せられた気がした。
「デートって、それはいくら何でもまずくないですか?」
「え、なんで? キミはフリーで、ボクも今はフリーだ。問題ある?」
この場合の『フリー』とは、恋人がいない、という意味だ。つまり、先輩は俺とデートの約束をしたくて、確認を取ったということなのか。
「それとも、ボクに不満なの?」
「いやまさか!」
俺は手振りをつけて激しく否定。何が起ころうと、それだけはありません。
だよねえ、と言って、先輩はニヤリと笑う。
「だってキミ、顔ちょっと赤いもん」
――くっそおおおおっ!
本性はとんでもない小悪魔だった先輩に、してやられた。
◇◇◇
次の日。
何がデートなものか。きっぱり作戦会議と言ってくれればいいのに。
くそ、最上先輩め。
「信長くん」
「……その名前を呼ぶな」
「どうしてそんなにニヤけているのに機嫌が悪いの? 良いことがあったの? 嫌なことがあったの? どっちなの?」
……両方だった。
「吹雪、突然なんだけど……」
俺は先輩の作戦を伝えるために、吹雪を呼び出す役を与えられていた。
「明日の土曜、何か予定あるか?」
「――はい? どうして?」
デートしたいから。
そんな理由で異性を呼び出せるのは女子だけだ。逆は不可能。試したことはないけど、試さなくてもわかる。もちろん同性も無理だろう。試したくはないけれど。
「なになに? デートのお誘いかにゃ~?」
横から、浅井さんが余計な口を挟む。
たしかにテンプレートな質問をしてしまったが、厳密には違う。デートではない。が、男女がプライベートに私服で外に出かけようと言うのだから、相応の段取りというものがあるような気がした。
「オゴリですか?」
「……は?」
今度は、俺の方が間の抜けた声を出す番だった。
「お兄様のオゴリなのでしたら、伊知はどこへでもついて行きます」
「…………」
こいつ、意外にケチだったのか。
「だって、名前を呼ぶなって言うから」
いや、そこに文句を言いたいわけじゃないけど。
「わかった、じゃあ、『兄上』で統一しよう」
「イヤです」
恥ずかしいから、と吹雪は言う。
何が恥ずかしいんだ。その二つがどう違う? 同級生の女子に『お兄様』とか呼ばせてる俺の方がよっぽど恥ずかしいわ。実際に年下じゃないから、シスコンとも妹萌えとも言いづらい新たな性癖ジャンルを開拓しちゃったんだぞ。
「たまには連れて行ってあげなよ~、お兄様」
浅井さんがさらに突っ込みどころ満載のセリフを吐く。
いや、もう何も言うまい。是非に及ばず、だ。
「オゴリでいい。オゴリでいいから、予定を空けておいてくれ」
「……いいでしょう」
――なんで高飛車に言った?
~ insert ~
「……と、そういうわけだから、演劇部もちゃんと復活できるよ」
ボクは呼び出した後輩に、そう告げた。
ここは演劇部の部室前。時間はすでに放課後で、陽の光が段々と山吹色に近づいてゆく。こんな時間まで彼女が学校に残っていてくれて、本当によかったと思う。
「でも、先輩……」
「美咲のことだね? 大丈夫、あの子は切り替えが早い性格だから」
ボクはそう言って、彼女を安心させた。
三枝美咲――ボクのクラスメイトで、演劇部の部長……だった人。一つ下の後輩である彼女とは、美咲つながりで出会ったのだ。
演劇部室のドアには鍵がかかっていて、もう何日も人の出入りした気配がない。
演劇部は――すでに閉鎖していた。
部活っていうのはね、人によって、けっこう大切な場所なんだよ。それはボクも知っている。美咲もわかっているはずだ。卒業する先輩としては、できれば後輩に素敵な思い出を残してあげたいから。
「じゃあ、今日はもう帰ろうか、千景ちゃん」
「……はい」
西の空に夕陽が沈んでしまう前に、ボクたちは校舎を後にした。
~ insert end ~
土曜日の、朝。
我が校は隔週の土曜が休みで、それ以外の土曜も午前中で授業が終わる。特別なことがないかぎり、土日は部活動も全て休みだ。
というわけで、今日は休日。思いっきり寝過ごしたとしても、誰からも文句を言われることがない素敵な一日である――のだが、
『そうだね、一時に集合しよう。もちろん十三時のことだよ。待ち合わせ場所は、駅前の薬局でいいかな。お昼はみんなで一緒に。いいよね?』
最上先輩からのお誘いであれば、残念ながら二人きりのデートじゃないとはいえ、誰が断ることなどできようか。
俺はのそのそと起き上がり、出かける支度を始める。
うちは両親が共働きなので、休日の朝食は各人バラバラだ。なぜか早起きが習慣である父が、自分で淹れたコーヒーを飲みながら新聞を広げている。平日と変わらない姿勢。当人いわく、平日と同じではない、心の余裕がまるで違う、のだそうだ。理解はできるが、共感はできていない。
他の家族は、まだ寝ている。俺はなるべく音を立てないようにして、自宅を出た。
約束の時間には、まだ早い。ただし、有料駐輪場を使うのが勿体ないために今日は徒歩で移動する。平日よりも眠たそうな太陽を背にして、俺は歩き出した。
たったった……
「えいっ!」
背後から、わかりやすい一撃を受けて、俺は立ち止まる。
「浅井さんか?」
「……雪花と呼べと」
いや、そのネタはいい。知らない人が戸惑うだろ。
「もお、歴研部のお出かけなら、最初からあたしも誘ってよね!」
「……え?」
「……ん? 違うの? なつ先輩も来るって聞いたんだけど」
……聞いていない。
俺が呼んだのは吹雪だけだが。……さては最上先輩が裏から手を回したか。
「それにしても早いね、お兄様。……あ、歩きだから?」
「こら、せめて外では普通に呼んでくれ」
「へへ、大丈夫、誰も聞いてないよ」
言いつつ、浅井さんはぺろっと舌を出す。ケアレスミスだったらしい。
浅井さんと小林先輩が来る?……ってことは、男女比が一対四じゃないか!
なんという四面楚歌。俺、完全にアウェーだぞ。
今日一日の自分を想像したが、どう考えてもスーパーのカート代わり以上の待遇が期待できなかった。これでは、もはやデートなどとは真逆の団体行動じゃないか。
「ところで、浅井さんの家はどっち方向なんだ?」
聞くと、彼女は無言で指をぴっと指した。
それは、奇しくも俺の家と同じ方角だった。
昼食はみんなで一緒に、という話だったが、朝食を食べていない組――実は浅井さんもそうだったらしい――である俺たちは、コンビニで思い思いの買い物をして、とりあえずの空腹を凌いだ。ほどなくして、駅のロータリーに停車したバスから、吹雪が現れる。
「おはよー! いっちー!」
浅井さんがそう叫ぶのを予知して、俺は無言のまま彼女を待った。
「もう正午は過ぎていますから、こんにちは、ですね」
細かいやつだ。まあ、何も言っていない俺が言えることじゃないな。
「こんにちは」
考えてみれば、友人と休日に出かけるなど、何年ぶりだろうか。
と言うと大げさになってしまうけれど、実際のところ、中学時代にもそれほど外に出かけた記憶がない。案外、いや、案の定と言うべきか、俺もインドアな生活を送ってきた人間の一人らしかった。
――なぜか吹雪が満面の笑みを浮かべてこっちを見ている。
「今日は太田君のオゴリなんですよね?」
……たしかに、そんな約束もしましたね。
俺は財布の中身が心配になって、こっそり確認した。
というか、今日の予算って、一人あたりいくら?
「やあ、お待たせしてしまったかい?」
指定の集合時間より少し早く、最上先輩が現れる。自転車を押しており、それを有料駐輪場へ預けて、すぐに戻ってきた。先輩も自転車の愛用者だったんだなあ。どこか感慨深い。チャリラーか。いや、そんな言葉は無いけれど。
しかし、わざわざ自転車から降りて押して来たのは、彼女がなぜかもう一人、女の子を連れていたからだ。……誰だ。見たことのない子だった。
というか、また女子が増えた。
「こんにちは、最上かな恵先輩、ですよね。私は歴研部の二年、浅井雪花って言います。初めまして」
この子は本当に、誰よりも先んじて人に挨拶するよな。彼女の持つ美徳だと思う。しかし浅井さんと先輩は初対面だと言っていたのに、よく先輩がわかったな。
ジャンヌ・ダルクみたいな特殊能力か。神の声を聞いたのか?
「これはこれはご丁寧に。初めましてだね、雪花ちゃん。それで……」
先輩は右の手のひらを向けて、謎の少女を紹介する。
「こちらは、水野千景ちゃん。ボクらと同じ高校の生徒で、キミたちと同じ二年生だよ。よろしくね」
これにいち早く反応したのは、意外にも吹雪だった。
「初めまして」
「初めまして」
……え、名乗らないのかよ。
水野さん、というその女子の名前はわかったけれど、彼女の方にこちらのメンバーは誰一人紹介されていない。連れてきた最上先輩とは親しいのかもしれないが、吹雪も浅井さんも、もちろん俺も、その水野さんとは確実に接点がなかった。
水野、千景さん。
全体的に細い感じのする少女。同じ二年生だと言われたが、第一印象を素直に述べるなら、後輩かとも思った。先輩は一体どういう意図で、彼女を連れて来たのだろうか。
「奈津子は……いない、よね。うん、相変わらずだなあ」
――私服姿の先輩を、俺は初めて見る。
学校にいる時とは違って、セミロングを下ろしていた。制服の白いブラウスではなく、白い道着姿でもない、それとは真逆の黒で統一された、シックで上品な大人のフャッションだ。――うむ、
先輩の美しさを言い表す解説として著しくお粗末ではあるが、俺の乏しすぎるボキャブラリーでは、これが限界かな。あっはっは。
「――っくしゅん!」
俺が先輩に見とれているところへ、不意打ちのように誰かのくしゃみ。
「――っ……はっく……」
止まらない。
「だ、大丈夫?」
「……は、はい。大丈夫、です」
そのくしゃみの主は、水野さんだった。
「すみません、実は花粉症持ちでして。昨日までは大丈夫だったので、ちょっと油断しちゃってました」
赤い鼻を、恥ずかしそうに両手で覆いながら言う。なるほど。彼女のような体質の人にとって、春先というのは辛い季節なのだろうと思う。
全員の視線が、今日の集合場所であるその有名なドラッグストアに集まった。
「マスク、買って来ようか?」
「いえ、自分で買いますので。ありがとうございます」
水野さんが一人、そのドラッグストアの店内へと消える。
入れ替わりに、小林先輩が現れた。
「やほっ!」
「……はあ、タイミング悪いなあ、奈津子は」
これ見よがしに呆れ顔になる、最上先輩。
「えー? なによそれ? かな恵ちゃんが卒業前の記念散策っていうから、わざわざ来たのに!」
……散策って。どんだけ曖昧な誘い文句だよ。
小林先輩は、私遅れてないよね? と自分の時計を確認しながら、
「なんだ、全員揃ってんじゃん。たまにはこんなメンバーで集まるのも楽しいねえ」
けらけら、と屈託のない感想を述べた。
水野さんのことは、どうやら知らされていないようだ。
「なつ先輩、ちょっと待って下さい。実はもう一人いるんです」
「へ?」
「今そこで買い物。すぐ出てくると思うから」
浅井さんと最上先輩が、たて続けてそう説明。
「へ? もう一人って誰? もしかして……」
いや、その想像はたぶん違うだろう。
「ところで――」
小林先輩が最後まで言い終わる前に、今度は吹雪が口を開いた。
「かな恵先輩、あの子――水野さんとは、どういう関係ですか?」
すっぱり、直球の問いかけ。
「うん。あの子はね、演劇部の部員だよ」
「え?」
ちなみに、この「え?」は三人分くらいのユニゾンだ。
「まあ、詳しいことは後で太田君から説明があるから、まとめて聞くといいよ」
先輩は、無責任にもそう言って俺の肩を叩く。
――ほのかな、シャンプーの香りがした。
徒歩の距離にあるファミリーレストランで全員が食事を終えるまで、水野さんだけが一言もしゃべらなかった。が、
「先輩は、歴史研究部の部長さんですか?」
そんな彼女が突然、質問を投げかけた相手が、
「へ? 私が?」
小林先輩だった。
「や、私は部長じゃなくて副部長。うちの部長は男子よ」
「そうですか。……廃部、されるんですよね」
言いにくそうに、水野さんがそう続ける。
「まあね。別にこれと言った思い入れもない部だけど」
「そんなっ!!」
ガタッ、とテーブルが鳴る音に驚き、周囲の席が一瞬だけ静かになった。お茶のカップを口に運ぼうとしていた吹雪の手が、止まる。
「……ご、ごめんなさい」
間髪入れずにそう謝った水野さんが音の主だったことに、周りのお客も気づいてしまっただろう。たまたま客入りが少なくて幸いだった。
「奈津子」
「……あ、ごめん。私、何かまずいこと……言った?」
突然の光景に目を丸くするしかなかったのは、最上先輩以外の全員だ。
「……いいえ、すみませんでした」
さらに、自分の顔を隠すようにうつむく、水野さん。
何か、のっぴきならぬ事情があるようだ。そう察したらしい浅井さんが、なぜか説明を求めるように俺の方を見るので、
「演劇部も、うちと同じく生徒会の采配で廃部になる部の一つなんだよ」
俺は仕方なく、皆にそう説明した。
小林先輩が、あー、とばつが悪そうに唸ると同時に、知ってらしたんですね、と水野さんが小さく呟いた。
すると今度は突然、
「では、水野さんは部長なんですか?」
吹雪が、そんな的外れとしか思えない質問を口にする。
「え? ……いや、もちろん今の部長は三年の先輩ですけど……?」
「演劇部なら、お裁縫、得意な方がいらっしゃいますよね?」
「えっ? ええ、何人か……いたけど……」
「何人か、いるのね?」
「え? え?」
疑問を差し挟む余裕さえ与えない吹雪の質問攻めに、水野さんを含めた全員が混乱していく。しかしこの時、最上先輩だけは期待に満ちた顔をしていたという。
「……ふうん、そう」
「……あの、何が……?」
「話はわかりました。……というか、貴女も多少なりと事情を聞いたからここにいるのでしょう? 水野さん。大方、かな恵先輩のアイデアで、部を再興するために私たちに協力し合えってことなんじゃないの?」
「ぴんぽーん! 大正解だよ。さすがいっちゃん、察しがいいね」
ぱちぱち、と手を叩く。――あれ、先輩と吹雪は、すでにあだ名(と名前)で呼び合える仲だったのか?
吹雪が、じろっと一瞬こちらを睨んだ。
「……で、私は別に構いませんけど。でも彼女の方は、演劇部っていう形自体に、けっこう拘ってる感じですけど?」
「あ……えっと……」
話の矛先を向けられた水野さんが、助けを求めるように最上先輩を見る。
「うん、ボクの構想はというとね。今から三つの部活を合併して、新しい部を作っちゃおう、っていうものなんだ。演劇と歌でミュージカルでしょ? そこに歴研部が加わるから……そうだね。名付けて、大河劇団!」
――ってのはどうかな?
背景にぱあっと花が咲き乱れそうな顔をして、最上先輩は俺を見た。いや、ネーミングのセンスはともかくとして。
「歌? 歌っていうのは……?」
「うん、合唱部も吸収しようと思っているからね」
「合唱部?」
「ほぼ同好会に近い状態でやってた、数人しかいない部だよ。もちろん、他にも今年で終わっちゃう部はいっぱいあるけど、まずはその三つで掛け合ってみたらどうかな?」
説明は俺に任せると言っておきながら、見事に一連の流れを皆に話してくれた最上先輩の言葉に、一同は脳内整理のためわずかな静謐を過ごす。
「合唱部って、コーラス部と違うの?」
小林先輩の素朴な疑問に、
「違うらしい」
最上先輩が、一言。
「というか、合唱部の前に、まだ演劇部からの正式な了解を得ていません。水野さんが演劇部代表ってことでいいんですか? 部長は他にいるって聞きましたけど」
「ま、三年はどっちにしても引退だからねー」
あなたが言うと説得力あるな。
「……本当に、部として再開できるなら、私としても、きっと他の皆も喜ぶと思います。演劇部の二年生は、私を含めてもそんなに多くはないですけど、歴研部の皆さんに加えて頂けるなら、部の人数は十分のはずです」
「具体的には、何人なの?」
「えーと、廃部と同時に辞めちゃった人を除いて……四人、かな」
「願ったりね。雪花もそれくらい小規模ならいいんじゃない?」
「えー、うん、まあ……」
廃部と同時に辞めた、って、それは部が無くなるんだから必然的に解散だろう、と思ったけれど、そこはあえて突っ込むまい。
ともかく、これで合唱部が承諾すれば、全体で十人そこそこになるわけか。
「決定ね。合唱部はともかく、衣装のプロと手を組めたのは大きいわ」
ふっふっふ、といった感じに笑う吹雪がこちらを見る。
「大義よ」
なぜかこの中で一番身分が高そうなセリフを吐きやがった。
衣装のプロって、お前はコスプレ衣装の技術者が欲しかっただけだろ。
「ただ……」
「……ただ?」
水野さんの発言には、まだ続きがあった。
長い沈黙の後、意を決したように、
「もし、部として許して頂けるなら、どうしてもやりたいことがあるんです」
彼女は、そう言った。
ご無沙汰しております紅石ですm(_ _)m
連載していた二次小説の方がサイト閉鎖ということで、オリジナルを
はじめました。
下らないネタラノベですが、今度こそ最後まで完成したいなあ。