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第八話 愛想笑い

 「鎌倉先生」、いや伊井国教授の授業に出席したその夜――

「真知ちゃん。ご飯できたから真耶ちゃんを呼んできてちょうだい」

「……珍しいわね。いつも「お腹すいたー。」ってご飯できる前から下に降りているのに」

「もうすぐ中間テストが始まるから勉強しているのよ」

 そうか、もうそんな季節か。私も一年前の今頃は必死になっていたなぁ。

 百三十年も人に踏まれ続けたため、すっかり黒ずんでしまった桐の階段を登り二階の真耶の部屋に向かう。

「真耶ー、ご飯できたよ」

 少々立て付けの悪い扉を横に開くと机に向かい何やらぶつぶつ呟いている真耶の姿が見えた。

 テストのプレッシャーにやられてしまったのか?と不安げにそっと近づくと年表を手に歴史上の事件とその起こった年を必死に覚えていた。

「白紙(八九四)に戻そう遣唐使…。八九四年菅原道真遣唐使を廃止」

「日本史の勉強かい?」

「うわっ、お姉ちゃんいつの間に!!」

 真耶にしてみればいきなり私に声をかけられたので大慌てだ。細い目が普段の私ぐらいに開かれている。

「年表か……。私も昔はよく覚えたわよ。「泣くよ(七九四)うぐいす平安京」とかね」

「あ、それちょうど今回のテスト範囲ね」

「古代か……、ならばこれも覚えておくと便利よ。「納豆(七一〇)食ったぜ、平城京」」

「納豆ってその時代にあったの?」

 真耶の目がまた開く。納豆があったかどうか私は知らない。

「伊佐坂さん(一三三三)大変!鎌倉幕府滅亡ですって」

「伊佐坂さんって誰!?」

 私の知らない人だよ。

「行く行く(一九一九)ホテルへベルサイユ条約ー!!」

「ちょっとお姉ちゃんいいかげんにしてよ!」

「おや、どうした真耶。何をそんなに怒っているの」

「何かおかしいと思っていたけど、お姉ちゃん私のことからかっているでしょ。「ベルサイユ条約」がその証拠よ。中学生のとき「ベルサイユ条約」のことをクラスの友達に教えたら、男の子から「スケベな奴だ。」って散々言われたんだから」

 そう言えばそんなこともあったな、思い出して私はため息を一つついた。

「これ以上おかしなことを教えられたらたまらないわ」

 別にあの時もからかっているつもりはなかったのだが、とんだ濡れ衣を着せられてしまった。なんとかしなければ。

「「スケベな奴」ってあなたは何もスケベなことを言ってないじゃない。「ホテル」って言葉に噛み付いて変な妄想した男が本当のスケベよ」

「でも……」

 まだ何か言おうとする真耶の目の前に私は人差し指を鋭く差す。

「いい「ベルサイユ条約」はね、フランスはベルサイユにあるホテルに世界中のお偉いさんが集まって結ばれた条約なのよ!」

「えっ、そうなの!?そのホテルの名前は」

「残念だけどそのホテルの名前までは私は知らないわ。でもテストでホテルの名前なんて問題に出ないから大丈夫でしょ」

「それもそうね……」

 ふうん、と納得する真耶。この子は何て素直なんだろう。

 本当はホテルで結ばれたかどうかも分からないのに。まあそこまでテストで聞かれないから。妹の心を癒すためならこのくらいの「はったり」は必要でしょ。

「いい真耶、自信を持ちなさい。ただ字面で判断して文句を言ってくるやつになんか左右されない。「行く行くホテルへベルサイユ条約」にはちゃんとした意味があるってことを理解しなきゃ」

「字面だけで全てを判断されるなら私は一生「御徒町」で生きなければならないじゃない!「おかちまち」と聞いてすぐに「御徒真知」って出てくる人なんていないわよ」

「んー、何だかよく分からないけど最後のお姉ちゃんの例えは分かりやすかった」

 真耶が慰めの言葉をくれなかったので、私は少し寂しい気持ちになった。

「次、行くわよ。「いや、良い(一八四一)日取りで、天保の改革」

「お願いだからせめてテスト範囲の時代にしてー!」



 今日は珍しくお父さんは早く帰って来た。いつものようにプリントや資料の整理で遅くなればいいのに……。

 数年前から私はお父さんと顔を合わせるのが嫌になった。大学に入ってからというものその気持ちがますます強くなった。

 私は、今年お父さんが教授を勤める文教大学に入学した。彼の名前は伊井国造郎。

みんなから「鎌倉先生」と密かに呼ばれている。今日もつい最近友達になった、かっちゃんとしぃちゃんから「鎌倉先生」と言われた。出席表に書く私の名前を書いた紙を渡したらしぃちゃんちょっと驚いていたからたぶん気づいたんだろうな。

 お父さんに会いたくないのは「鎌倉先生」だからではない。別の理由がある。お父さんに会うと私はある罪悪感にさいなまれるのだ。

「遥ーっ。早く下りてきなさい。お父さん待っているわよー」

「はーい、今いくよー」

 本当は下りたくないのに調子のいい答えをお母さんに返す。今年に入ってから張り替えたのでまだ木の匂いが残る部屋のドアを開けて階段を下りる。

 下りるとすぐ、これまた張り替えたばかりの真っ白な壁紙に大きく開けられた穴に出会う。ドアが付いていないリビングへの入り口。

 その正面に立つと穴の向こうには頭髪の大半が白く染まったお父さんの顔が私のいる方向を向いている。私は壁に隠れたい気持ちをかろうじて抑えた。

「遥と一緒に夕食をとるのは久しぶりだな」

「そうだね、お父さんいつも遅くまで仕事しているから」

 爽やかな笑顔を彼に向ける。さらに自然に手がビール瓶のほうへと手を向けて、

「どうもお疲れ様でした」

「お、いやー嬉しいな遥にビールを注いでもらえるなんて、本当にどのくらいぶりだろうねぇ、母さん」

 お父さんは本当に嬉しそうな顔をお母さん、そして私に向ける。お母さんは「そうですねぇ」と頷く

「どのくらいぶりかもう分からないよ。早くご飯食べようよ」

 思い出話に入られたくないので、私は二人に食事を促した。

「おお、そうだな。遥も早く上で歴史の勉強をしたいだろうし、じゃ頂こうか」

 お父さんの言うとおり早く上に行きたいし勉強はしたい。しかし申し訳ないが歴史ではない。

 食事中はあまり話をしてはいけないという我が家の教えのおかげが私に幸いした。

このままお父さんとあまり会話せずに上に行きたい。

「遥とお父さんは大学でよく会うのですか?」

 お母さんはふくよかな笑顔をお父さんに見せる。

「いや、会わないなぁ。日本史の授業には出ていることは出席票が出ているから分かるが……。そう言えば出席票を出す遥の顔を私は見たことはないなぁ」

「あ……、あれだけ大勢の人間が一斉に教壇へ集まるのよ。私がいてもなかなか見つからないでしょう」

「それもそうだな……」

 お父さんはちょっと納得のいかないようだったが、「確かに生徒が多すぎるな」と一人で呟くとコップのビールを飲み干した。

私は一度もお父さんの立つ教壇へ票を出しに行ったことはない。しぃちゃんたちに会うまでは私は大胆にも隣の見知らぬ人に提出をお願いしていたからだ。

「それに公平さを保つためにあまりお父さんとは大学では会わない方がいいと私は思っているのよ」

 暗にお父さんを避けた言葉なのだが、お父さんは笑顔で頷いた。

「そうだ、学者を目指す者、安易に家族の力に頼ってはいけないのだ。最近どの学会でも有名教授の家族や親類だという理由で経験不足な者が地位を得ているが、それでは本当の学問の発展にはならん、実力のあるものがそれ相応の地位を得て、学問を引っ張っていかねばならないのだ。なぁ母さん」

 しまった、私が一番聞きたくない話の展開へ入ってしまった。お父さんは熱が入ると話が長くなり途中途中でお母さんに合いの手を求める。

「私は遥には私の力を借りずに自身の実力でもって歴史学者の一員になってほしい。そして私の後をついでほしいのだ。私は遥に私に頼らないように教育してきたが、今の遥の言葉を聴くとその甲斐はあったようだ」

 「なぁ、母さん」の代わりにお味噌汁を勢いよく飲み干す。私は自分の分を食べきったのでさっさと部屋に戻りたかった。

「そんな……、「お父さんの後を継ぐ」だなんて……」

 爽やかな笑顔で愛想よく応える。

「いや、謙遜するな。お前はきっと私を超える歴史学者になる。間違いない」

 その言葉を聞いて背筋にゾクッした寒気と重い罪の意識を感じるのは何度目だろうか。

「お母さん、お父さんお酒飲みすぎちゃったみたいだよ。私はもう上に上がるから、ちゃんと見ていてね」

「そうか、勉強頑張れよ」

 最後の言葉は耳に入れなかった。久しぶりに顔を合わせてしまったことによってお父さんに対する申し訳なさで私は胸が一杯だった。

「私はいつまでこの人に反発せずに愛想のいいことを言い続けるのか?」今はこれ以上その気持ちを私の中に入れたくなかった。

 部屋のドアを閉めて鍵をかけると私は大きく息をついた。そして音は控えめにテレビをつける。

 最近人気の女性アーティストのプロモーションビデオが流れだした。彼女の動きに合わせて私も踊る。いつかは彼女の真似ではなく彼女の音楽に合わせた自分なりのダンスを手に入れたい。両親には悟られたくは無いので、動くのは上半身だけだが、それでも私が下で受けた疲れは解消することができた。


 伊井国造郎教授と私が親子の関係にあるとかっちゃんとしぃちゃんに告げたのは次の週の火曜日のことだ。

その時の二人の驚いた顔と、しどろもどろの「ごめんなさい」に私は思わず爆笑してしまった。

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