第六話 河童
五月も中ごろに入った。柔らかな陽気と新生活に対する慣れで日々の生活がスムーズに行き始める季節。
私としぃちゃんは爽やかな青空と、まぶしい太陽を浴びに昼休みに屋上へと向かった。
屋上では自治会が流しているのだろうか、軽めのポップな曲が控えめに流れ、植え込みの木々の葉の鮮やかな色とともに、ちょっとしたオープンカフェに来ている気持ちになった。
しかし、私がここに来てからの第一声は、屋上の雰囲気をいかにもぶち壊してしまう物だった。
「ごめん、全然考えてきませんでした……」
「なーんにも考えてこなかったの?」
「はい、何も考えてきていません」
「でも対象の時代の作家の名前は何人か候補として上げているわよね……」
しぃちゃんは相変わらずの可愛い笑顔で私を責める。
「…………松尾芭蕉……」
「時代が違うし、ジャンルも違うじゃない!」
すいません。今頭の中に浮かんだ人を適当に答えてしまいました。
「もーう、私たちが取り掛かるのは二十世紀の明治大正の小説でしょう?それを松尾芭蕉って……」
「ほんとに、ごめん。しぃちゃんの好きな作家で、作品でいいですから!!」
笑顔からちょっと怒り顔そして呆れ顔と三回の変化を遂げたしぃちゃんの顔は次に当惑顔へと変わった。
「それが……私も候補だけで決定とまでは行ってないのよ」
ああ、そうなのか。私は一安心した。
「だから今日はかっちゃんの意見を聞いて二人で話し合って決めようと思っていたの!それなのに……。もーう!!」
「ひょっとして石坂先生のゼミの人?」
不意に横から声をかけられので、驚きながら私たちはその声のした方へと顔を向ける。
声の主は髪をうなじの辺りまで短くまとめた背の高い女の子だった。
彼女は今日の空と同じくらいの青いTシャツに黒のストレッチパンツを穿いていた。服装は身軽なのだが、肩にかけているスポーツバッグは少し重そうである。そのバッグの上には緑のスポーツタオル。
「は、はい……石坂ゼミです」
「今日ゼミで何かあるの?」
「演習をする作品とそのメンバーを先生に発表する日です」
文学部に所属している私たちは、一学年に一つか二つあるテーマ・時代に沿った作品を一つ選び、その作品・作家対する感想・自分の意見を発表する「演習」と言う授業を受けることになっている。この「演習」は必須項目なので、どれだけ単位が取っても、これを落としてしまうと卒業できないのだ。
「演習」だと何だか言いにくいので、みんなこの言葉を「クラス」とか「ゼミ」という言葉に言い換えている。私たちとスポーツバッグの子は後者の方だ。
「ああー、良かった。今日も欠席しようと思っていたから大変なことになったわー」
明るい笑顔を私たちに見せながらそう言うと彼女はスポーツバッグを「よいしょ」と肩から下ろし、しぃちゃんの隣に座った。
「『今日も欠席』ってあまり来てないのですか」
「先週だけよ。まだ始まったばっかりだからいなくてもいいかなと思ってね」
「それに。別に卒業できなくても構わないし」
「えっ!?」
明るい笑顔で彼女はとんでもないことを言う。卒業したくないなんて思う大学生がどこにいるだろう。ひょっとしたら私の聞き間違いかな。
このままだと、向こうはともかく私たちのほうが気まずくなってしまうので、私は彼女を仲間に誘うことにした。
「もしよかったら、私たちと一緒に発表やりません?」
「そ、そうですよ。今から相手探すのも作品決めるのも大変でしょうし」
しぃちゃんも私と同じことを考えていたのか、ほっとしたように話す。
「いいの?たまーにサボるかもしれないけど平気?」
「私たちに迷惑をかけない程度であれば」
そこはしぃちゃんしっかりしている。
「分かった。あなたたちを困らせるようなことはしないって。私、伊井国遥と言うの。よろしく」
「私は椎名真智です」
「ええと、御徒真知です」
さらりと言えば名前に気づかれないだろうと、しぃちゃんに間をおかずに話す。
「椎名町と御徒町……。二人とも駅の名前か……」
「!!」
私ならともかくしぃちゃんの名前の秘密を知っているなんて!!
「私の家が椎名町なのよ」
驚いた私たちの反応を見て察したようだ。椎名町に家があるのか……。納得。
「それより何をやるかもう決まっているの?」
そうだった、今日のゼミで発表する作品を決めなければならないのだ!
「そ、それが……候補が何点か上がっているだけで。今から決めようかと」
折角誘ったのに何も決まっていないなんて何だか申し訳ない。
「ちょっと見せて」
しぃちゃんからリストを取り上げ、彼女はしばらくそれを見つめる。
「あ、私これやってみたい」
「どれどれ」
彼女が指差した先――。そこにはこう書かれてあった。
「芥川龍之介 河童」
「これをやろう!『河童』」
「伊井国さんの好きな作家は芥川龍之介ですか?」
彼女が芥川のファンならゼミが多少は楽になる。私はそう期待した。
「いや、読んだこと無い」
私としぃちゃんはほぼ同時にずっこけた。
「椎名さんと御徒さんは読んだことある?」
「全く無いです」
私としぃちゃんはほぼ同時に答えた。
「そうか……。正直ここに書いてある作家の作品ほとんど読んだこと無いけど、惹かれちゃったのよね『河童』に」
「どうして?」
私が訪ねると、彼女はスポーツバッグの中から携帯電話を取り出した。陶器でできた河童がストラップとしてぶら下がっている。
「かわいいでしょ。このストラップ。河童つながりだからやってみたいな。と、ただそれだけ」
河童を撫でる彼女の顔もまた可愛いと私は思った。
「しぃちゃん、やろうよ『河童』!!」
「いいね!こういうのも何かの縁と言うし」
「よーし、決まり!」
こうして私の大学生活に伊井国遥こと「はるちゃん」が加わった。