第三話 谷中の将軍
かっちゃんです。しぃちゃんです。二人合わせて「タウンガールズ」です。
か「私たち名前がどこかの町の名前なのです」
し「それで今までいろんな人に笑われていたんです」
か「だけどもう私たち一人じゃないから悲しくないんです」
か・し「なぜなら、私たち『タウンガールズ』だから!!」
……という夢で目が覚めた。
まあ「タウンガールズ」はオーバーだけど、同じ悩みを持つ仲間ができたことには変わりはない。
朝の目覚めにと日当たりのいい庭でペルをなでる。この子は目と目の間の眉間を人差し指で撫でるのをとても喜ぶ。
「今日からゼミが始まるか……」
眉間を撫でた後で、左右の頬を横へと引っ張る。これがまた面白いほどよく伸びる。その一方寝起きで緩んでいる私の顔と頭はだんだん目覚め始める。
「真知ちゃーん。朝ご飯できたわよー」
「しぃちゃーん。おはよー」
「おー、かっちゃーん」
私は地獄の坂上りを卒業し、しぃちゃんと一緒にバスで通うことになった。最初はバスで通うことに「金がもったいない」と反対していたお父さんも、「友達と一緒に通学したい」という私の言葉に反撃することはできなかった。
私は彼女を「しぃちゃん」と呼び、しぃちゃんは私を「かっちゃん」と呼ぶ。「かっちゃん」だなんて野球少年っぽいあだ名だが、二人とも名前が「まち」だから、こう呼び合ったほうが互いの区別がつきやすい。
バスの中ではいつもこれから受ける予定の授業についての情報交換をする。どの教授が点数に甘いか、好きな球団が負けると小テストが最後にある教授がいるなど。これから一年間の大学生活を送る上で、この四月は大切な時だ、のんびりとしていられない。
「しぃちゃん。また今日も階段で上りますか」
「あー、うん。五階だけどエレベーターすごく混んでいるからね……」
階段を上り続けて半月もたつと、それほど息も上がらなくなってきた。軽快なリズムをつけて階段を上る。ところが今日は何かに滑って転びそうになったところをしぃちゃんに助けられた。
「かっちゃん、大丈夫」
「ああ、しぃちゃんありがと。チラシ踏んだみたい」
そのチラシには『文京大学学園祭実行委員大募集』と書いてあった。
「学園祭かぁ……。かっちゃん去年の学園祭行ったことある?」
わくわくしながら私に尋ねるしぃちゃんにたいし、私は残念そうに手を振る。
「行った事は行ったんだけどね……。なんかあまり面白く無かったよ」
「だから今年もどうだろ……」と言ってゴミ箱へチラシを捨てようかと思ったが、実行委員の方に対して失礼すぎるなと思い。カバンの中に入れる。それを見たしぃちゃんが。
「なになに、かっちゃん。「今年はあたしが文化祭を作るぞ」ってこと!?」
さらにわくわくしだす。この子は人を煽るのが得意そうだ。
「いや…。一年目はおとなしく学生をしていたほうが後々のことを考えると無難だと思うよ」
教室に入る。ゼミで使用される教室はこの前の二百人も入るくらいの教室ではなく、二三十人がやっと入れるくらいの大きさだ。私としぃちゃんはもちろん隣同士に座る。
始業のチャイムがなったが、教授が部屋に入ってきたのはそれから十分後だった。後で聞いた話だが、教授の多くはチャイムがなってから五分過ぎても教室に入らない人が多く、先輩たちはこの時間帯を「ロスタイム」と読んでいるらしい。つまり、チャイムが鳴っても「ロスタイム」中に教室に入れば遅刻にはならない。
「私がこのゼミを担当する。教授の石坂です。それでは出席を取ります」
……とうとう来たな……。私の名前がこの教室の全員に公開されてしまう瞬間である。果たして今回は何人笑うことか……。
「御徒真知さん」
「あっ、はい」
「御徒町か……」
教授自らが私の名前に突っ込みを入れる。周りの学生たちも大声で笑う者はいないが、小声で何か言っているのを感じた。
だけどそれはいつものことなので、仕方が無い。それよりも今日は悔しさよりも笑われるのは私だけじゃないという心強さというか期待感が私の心の中にあった。
「椎名真智さん」
「はい。」
……あれ?何にも反応が無いぞ。だって「しいなまちさん」だよ。「椎名町」さんだよ。西武池袋線だよ。
私の心の突っ込みを無視して教授は次々と出席を取っていく。
釈然としないまま、その日のゼミは終わった。
その後はしぃちゃんと一緒に、時には別行動で他の授業のガイダンスを聞いたりして一日を過ごした。
「さて、しぃちゃん。帰ろうか」
「おう、かっちゃん。帰ろう」
……?今日のしぃちゃんいつより気合が入っているな。
団子坂下のバス停で私たちは降りた。突然しぃちゃんは何かを決断したようで、私にすごい勢いで尋ねてきた。
「かっちゃん、この辺りにボクシングジムがあるって聞いたんだけど」
「ボクシングジム?あるよ。不忍通り渡って、三崎坂をしばらく上っていくと」
「お願い、私をそこへ連れて行って」
ダイエットでもするのかな?いや、彼女を見る限りそんな必要はないと思うけど……。
「そのジムに私の好きな選手がいるらしいの」
「しぃちゃんはひょっとして格闘技が好きなの?」
「うん、大好き!!」
しぃちゃんはボクシングに限らず格闘技全般が好きで、たまに生で試合を見に行くこともあるらしい。
大勢の人ごみの中で、その小さな体を一生懸命ピョンピョン飛びながら試合を見ているであろうしぃちゃんを想像して私は楽しくなった。
道の両側にある寺の門と、その中で日向ぼっこをしている犬や猫たちを見ながら坂を上り、角を曲がってしばらく歩くとそのボクシングジムが見える。
「あった。鯉ヶ崎ジムよ」
私がそのジムを指差す前にしぃちゃんはジムの正面に張ってあるポスターに見入ってしまった。
「いたー、この人この人。私の好きなボクサーは」
「んー、どれどれ」
これでしぃちゃんの好きなタイプの男の人が分かるかなと思い、しいちゃんの指差すポスターを見ようとすると、ジムの扉がいきなり開き、男の人が出てきた。すらっとした長身で、少々こけた頬を上に向け、四月の日差しを浴びている。
「ひ……、ひょっとしてイラケン選手ですか?」
しぃちゃんが歓喜の声を上げると、その男の人は振り向いた。
「あ、あの……私、あなたの大ファンの椎名真智と言います」
しぃちゃんは積極的だ。ぺこぺこお辞儀をしながら手を出して彼に握手を求めている。
「そうか、こんな可愛い女の子がファンだなんて嬉しいな」
イラケン選手は爽やかに微笑みながら、しぃちゃんの手を握る。
「あ、ありがとうございます!!」
すっかり感激してしまっているしぃちゃんに申し訳ないが、私は冷静にしぃちゃんに一つの質問をした。
「この人?しぃちゃんが好きだって言う選手は?」
「そう!世界ミドル級二位の町田イラケン選手よ。お父さんは日本人でお母さんがタイの人なの」
「えっ!まちだいらけん!?」
その時私の脳裏に思い浮かんだのは、砂浜を白馬で走る将軍様で有名な時代劇の大物俳優だった。
「まちだいらけん……」
二度もその名前を呼ぶ。しまったイラケン選手がムッとしている。
「マチダイラ・ケンじゃなくて、マチダ・イラケン。まあ日本に来てから何度もそう言われているから慣れているけど……」
しぃちゃんが申し訳なさそうな顔をしている。違うのだ。決してからかっているわけではないのだ。
「いや、私もよく人によくからかわれる名前なので、つい……」
「かっちゃんの名前は御徒真知と言うんですよ」
私に代わってしぃちゃんがイラケン選手に名前を教える。
「御徒町?ああ、山手線の……」
「子供の頃から何度も言われています」
ムッせず、私は頭をペコリと下げる。
「あ、いやこれは失礼……。俺も人のことは言えないようだ」
申し訳ないと頭を下げるイラケン選手。
「いえいえ、同じ悩みを持つ同士と言うことで」
新たな同士の出現に私は嬉しくなった。
「そういえば、イラケン選手はもうすぐ世界チャンピオンと戦うんですね」
私の喜びをよそに、しぃちゃんがイラケン選手に尋ねる。
「ん、ああ……。夏にチャンピオンのピーター・ハンペンとベルトを賭けて戦うよ」
はんぺんか……。
「ピーター・ハンペン選手は、元ミドル級世界王者で連続防衛記録を持つケッコー・クドイさんの愛弟子なのよ。」
ボクシング好きには当たり前の情報だろうが、私にとっては面白いネタを聞けたと思った。いや、でも笑ってはいけない。
「そのはんぺんって選手は強いんですか?」
なんとか話題についていこうと私はイラケン選手に質問する。
「ああ、そりゃもうあのクドイ元チャンピオンの弟子だから……」
「イラケン!大変だ!!」
突然ジムから人が飛び出してきた。
「ハンペンがやられたぞ!!」
私以外の人間がその言葉に驚愕した。
「やられたって…、誰に!?」
聞いたのはしぃちゃんだ。突然初対面の女の子に聞かれたので、ジムの人は一瞬面食らったようなだが、すぐに気を取り直し
「イラケンと同じタイ出身のチャウワ・スケベニンゲンだ。イラケン!緊急ミーティングだ。練習メニューを見直さなくては!」
「スケベニンゲンは世界ランク一位だからあるいはと思っていたが、まさかな……」
私たちに一礼すると、イラケン選手はジムの中へと入っていった。
「スケベニンゲン……」
残された二人は同時に同じ言葉を吐く、しかし脳裏に浮かぶ映像は決して同じではないだろうと私は思った。