第三十八話 御徒町のくせに
「なんか最近しぃちゃんの私への態度がおかしいような気がするんです」
私は仰向けで寝ころがるペルを撫でるイラケン選手にこれまでのしぃちゃんについての話をした。
「やっぱりはるちゃんの言うとおり恋をしているからなんでしょうか……」
「確かに真知さんの言うとおり椎名さんの様子には不審な点が多いね。御徒町と聞いて君より激しく反応するなんて……」
ペルの頬を両手で伸ばしながらイラケン選手は答える。右まぶたの傷跡はもう消えている。
「私が怒るなら当たり前なんですけど、しぃちゃんが怒るんですよ。恋をしているのと怒るのは関係ないと思うんですけど」
イラケン選手は横に伸ばしたペルの頬を上へと引っ張る。ペルは痛くないのだろうか。
「それよりも真知さんは御徒町と言われるのがよっぽど嫌なんだね」
いきなり話題が私の事になったので私は戸惑いの色を見せる。
「そりゃそうですよ、だって御徒町ですよ、御徒町。駅の名前ですよ。電車に乗ってどこへ行くって話しじゃないですか」
十九年間もこの名前のおかげで私は多くの人にからかわれ続けてきた。現に昨日も同学年の人にからかわれたのである。
「真知さん自身がそう思うからますますからかわれるんじゃないの。俺は気にしすぎだと思うけど……」
何か前にしぃちゃんも同じ事を言っていたような気がする。
「気にしすぎと言われてもしょうがないじゃないですか……十九年ずっと御徒町なんですから……」
「自分の名前も結構いいものだと思うと周りも自分も変わってくると思うけどね」
イラケン選手は仰向けのペルを横にしてわき腹をゆっくりと撫でる。そりゃイラケン選手の名前はあの超大物俳優と同じ名前だからね。
「イラケン選手は将軍様と同じ名前だから良く思えるんですよ。私なんか駅の名前ですよ。駅なんか私に話しかけてくれないし、お願いなんてしてくれないじゃないですか」
私は少しムキになって反論した。イラケン選手が「御徒町を気にするな」と言うことで、気にしている私自身を否定しているような気がしたのだ。
「気を悪くしたのなら謝るよ。だけど御徒真知と名前がついてしまっている以上、君はずっとその名前で暮らしていかなくてはいけないんだよ。そういうのってむなしいよな、って最近自分で思えるようになったからさ……。自分の名前を嫌がることは自分自身を否定することにもつながるんだよ」
そう言うとイラケン選手はペルから手を離し立ち上がった。
「だから真知さんも、自分の名前をもっとポジティブに捕らえてもいいんじゃないかと思うんだ」
「そんなこと言われても……十九年も御徒町ですよ?」
「俺は二十四になるまで悩んでいたよ。二十四でやっと自分の名前に誇りが持てた」
だから君も気持ちを変えられるはずだ、とイラケン選手は私の腕を優しく叩いた。
「それじゃあ、練習があるんで」
私は右手を小さく上げてイラケン選手を見送った。
(自分の名前をもっとポジティブにねぇ……)
「ペル、ほらもう帰るよ」
名残惜しそうにイラケン選手を追おうとするペルを私は紐で引っ張った。なんだかイラケン選手にもしぃちゃんのことではぐらかされたような気がした。
バス停で私の姿を見つけたしぃちゃんは急にそれまで沈んでいた表情を急に笑顔に変えた。
「しぃちゃん、昨日のことなんだけどね……」
私の話を最後まで聞かずにしぃちゃんが遮った。
「あー、昨日のこと? かっちゃんごめんね、大声上げちゃって。後から思えば教室中が私たちを見ていただろうなー、と恥ずかしくなっちゃった。かっちゃん、本当にごめんね」
「う、うん……それならいいんだ……」
私はたまたまバスが来たこともあって昨日の件についての話はそれで打ち切ることにした。だけど、昨日私に向かって真剣に謝っていたしぃちゃんの姿はしっかりと記憶の中に忘れないようにと思った。なぜなら昨日のしぃちゃんは、先ほど彼女が笑いながら言った理由とは明らかに違う理由で謝っていたと思ったからだ。
「かっちゃーん、おはよー。しぃちゃーん、今日も恋をしていますかー?」
はるちゃんは元気よく手を振って私たちに挨拶をした。しぃちゃんの様子の変化を単純に恋が理由と捉えているはるちゃんが羨ましく思える。
「おはよーはるちゃん。恋は秘密だよー」
しぃちゃんも元気良く答える。気になりだしたらしょうがないのだが、やっぱり私といるときより笑顔が自然のような気がする。
「ねぇしぃちゃんかっちゃん、演習の発表が終ったらみんなでパーッと打ち上げ旅行に行こうかー」
はるちゃんが楽しそうに私たちの顔を覗き込んだ。演習がまだ終っていないのに、はるちゃんはもうその先のことを考えている。その時、私の中で一つのアイデアが浮かんだ。
「そういえばしぃちゃんの実家って旅館だったわよね……」
「うん、家族だけの小さな旅館だけど」
「しぃちゃんの実家って旅館なの!?ちょうど良かった。みんなで行こうよ」
しぃちゃんの実家は小さな旅館でお父さんが和食を中心とした料理を作っているのだ。
「かっちゃんの実家もそうだけど、しぃちゃんの実家も『和』に生きているのね……」
はるちゃんがうっとりとしてしぃちゃんを見つめる。しぃちゃんは少し目をしばしばさせていたが、
「うん……そうだね」
と小さな声で頷いた。しぃちゃんが急に大人しくなったのは謎だけど、演習が終ったら三人でしぃちゃんの実家へ泊まりに行こう、と言う事に決まった。
その日の授業は昨日のような騒ぎもなく無事に終った。私たちはこれから図書館へ行って演習の準備にとりかかる。発表の日まで一月を切った今、三人が揃っている時間を全てこのために使いたいと私は思っている。それはしぃちゃんもはるちゃんも同じ気持ちであった。
ところが図書館へ向かう私たちの前に数人の男が立ちはだかった。えーと、名前は片倉君と後は……細いほうが長瀞君でがっちりしているほうが君ヶ浜君だっけ? とにかく私とはるちゃんを合コンの候補から除外したという悲しくは無いが、少し腹の立つことをやってのけた三人である。(もっとも片倉君には悪意はないのだろうが)
「椎名さん、今暇かい? よかったら今度の合コンについて話をしようと思うんだ」
そう言って君ヶ浜君はしぃちゃんの腕を掴んだ。ボクシング好きの彼女の腕をいきなり掴むなんて勇気があるというか、無謀というか……。
「いやです。合コンは行かないって言っているでしょう」
しぃちゃんは掴まれた右腕を必死に離そうとするが相手ががっちりしている人間だけになかなか上手くいかない。もがくようにして彼の誘いを断る。
「やめろよ、君ヶ浜。椎名さんが嫌がっているだろう」
片倉君が二人の間に入って君ヶ浜君を咎める。ところが彼はひるまずにこう反論した。
「なんだよ片倉、いつもノートのコピーを取ってもらっているくせに……。俺がいなかったらお前前期でどれだけ単位を落としたと思っているんだ」
うわー、片倉君情けない……。人に弱みを握られてはいけないと私は彼を見てつくづく思った。って、のほほんと眺めている場合ではない。しぃちゃんを助けないと。
「ちょっと、しぃちゃんは合コン行かないって言っているんだからいいかげん離しなさいよ!」
片倉君を押しのけて今度は私が二人の間に入った。しかし二人を引き離すことはできない。
「そうよ、しつこい男は嫌われるわよ! そんなに合コンしたかったらまた私たちを連れて行けばいいじゃない」
はるちゃん……また話をややこしくする……。
はるちゃんのその言葉を聞くや、君ヶ浜(もうむかついているので君づけはしない)はやっとしぃちゃんの腕を離した。よろめくしぃちゃんを片倉君が支えた。
君ヶ浜は私とはるちゃんを見るやこう叫んだ。
「うるさい! 誰が酒乱女と御徒町と一緒に合コンに行くものか!!」
「しゅ酒乱!? 私がいつ酒乱になったと言うのよ!!」
君ヶ浜を攻めるはるちゃんをかまう余裕など私には無かった。……今「御徒町」って言った?
「御徒町って……どういうことよ……」
静かに、激しく右拳を震わせながら私は君ヶ浜をにらみつけた。彼はひるまずこう答える。
「御徒町と言う駅の名前と一緒の女と恥ずかしくていられないってことだよ。なあ長瀞」
視界の端で長瀞がこくん、と頷いているのが見えた。君ヶ浜がさらに追い討ちをかける。
「御徒町のくせに一緒に合コン行こうと思ってるんじゃねえよ!」
あ、私思い出した。「御徒町の彼氏と言われるのが辛い」と言って私を振った男の名前を。 そうだ思い出した彼の苗字は小田林だ。水戸線の駅名ではないか。そう、彼も駅の名前なのである。
私はその時「あなただって水戸線の駅名のくせに!」と捨て台詞を吐いて逃げた。そして誰もいないところで一人泣いた――。
今私の目の前にいる人たちも一人を除いてみんな駅の名前である。椎名町、片倉、長瀞、君ヶ浜――。
私は君ヶ浜の右頬を思いっきり平手打ちした。
「かっちゃん!?」
しぃちゃんが驚いて私を止めようとするが私はそれを振り払った。そして周囲の人間が視界に入らないように目を閉じると叫んだ。
何よ! 何で御徒町が恥ずかしいって言うのよ。確かに私の名前は御徒真知、山手線の御徒町駅と同じ名前よ。だけどね、私だけがおかしな名前を持っていると思っているんじゃないわよ。
隣にいる小さい子だって駅の名前なんだから。椎名真智、椎名町駅よ! あんたたちは知らないでしょうけどね、西武池袋線の駅名よ! 池袋駅のすぐ隣よ。
あんたもね、油断しているようだけど片倉だって駅の名前なんだから。横浜線と相模線よ! 悔しかったらその駅は八王子市にあるから実際に行って確かめてごらんなさいよ!
そこの細い男、あんたもね秩父鉄道にちゃんと駅名として登録されているんだからね、長瀞駅のくせに御徒町駅が恥ずかしいってどういうことよ!
もちろん太ったあんたもそうよ君ヶ浜、あんたはね銚子電鉄。千葉の一番東側の鉄道路線の駅名なんだから! みんなみんな駅の名前なんだから!
それなのになんでよ! どうして私だけ駅の名前って馬鹿にされなければいけないのよ! みんな駅の名前のくせにどうして私だけ被害を受けなければいけないのよ! みんなみんな駅の名前って馬鹿にされればいいのよ。
そこまで叫んで息が変なところに入ったらしい。私は激しく咳き込んだ。涙と、鼻水と、唾液が私の顔をくしゃくしゃにしている。
「かっちゃん、大丈夫……」
しぃちゃんらしき声の持ち主が私の目の前にそっとハンカチを差し出した。私はそれを叩き落すと。
「余計なお世話よ! 椎名町のくせに!」
と叫んで走り出した。どこへ行くとは決まっていない。とりあえず五人から見えなくなるところまで――。
大学の裏口を出るとそこには小さな公園がある。私はそこで足を止め、ベンチに腰掛けると顔を両手で覆い嗚咽を漏らした。最低なことをしてしまった。と思った。
自分の名前を馬鹿にされたことに腹を立て、罪も無いしぃちゃんや片倉君までも巻き込んでしまったのである。駅の名前だと大勢の前で言いふらしてしまったのだ。私は本当に馬鹿なことをしたと思った。これからしぃちゃんにどういう顔をして会えばいいのだろう……。もう会って話をすることは出来ないのかもしれない。そう思うとさらに悲しくなった。涙と鼻水と唾液が顔を汚しても気にならなかった。
「かっちゃーん」
遠くのほうからしぃちゃんとはるちゃんの声がする。二人に見つからないように私は身を小さくした。しかし大学の出口のすぐ側にある公園のため、すぐに見つかってしまった。二人の息と足音が私へと近付いてくる。
「かっちゃん、大丈夫?」
はるちゃんが私に声をかける。私は顔を上げず目も瞑っていたので、彼女の表情は分からない。
「かっちゃん……」
暗闇の中でしぃちゃんの声が聞こえる。彼女の声はなぜか震えている。
「しぃちゃん、どうして来たのよ……。あんな酷いこと言ったのにどうしてついてくるのよぉ……」
俯きながら私はしぃちゃんを突き放した。しぃちゃんのすすり泣く声が聞こえてくる。酷いことを言ったのだからしぃちゃんも泣くのは当然だ、と私は思った。
「かっちゃん、ごめんね……」
しぃちゃんの意外な言葉に私は思わず顔を上げた。謝るのは私のほうなのに。
「どうしてしぃちゃんが謝るのよ……。謝るのは私のほうでしょう……」
しぃちゃんは激しく肩を揺らしながら涙を流し、嗚咽で途切れながらもその理由を私に告げた。
「だって……、みんな……私のせい……なんだもん……」
私のせい? しぃちゃんのせいで何が起こったというのだろうか。
「みんな……、私たちが……いけない……だもん……」
しぃちゃんの顔も涙と鼻水で汚れていた。