第三十七話 恋するしぃちゃん!?
授業を終えたわたしとはるちゃんは早速しぃちゃんのいる「御団子」へ向かった。
木でできた扉をゆっくりと開けるとエプロン姿のしぃちゃんが
「あっ、いらっしゃーい」
と声をかけ、私たちをいつもの席へと案内した。うん……、この仕草はいつも通りだな。
「メニューはいつものでいいー?」
もう何度も同じメニューを頼んでいるので、しぃちゃんは私たちを見ずに伝票にいつものメニューを書いてマスターに渡す。うん、これも普段通りだ。普段過ぎる。というか、穿った味方をすると、普段過ぎて逆に怪しい。
こんな穿った見方をするのも、たぶん「しぃちゃんの様子がおかしい」という意識が私の頭の中にあるからなんだろうな、と私はしぃちゃんをじっと見つめた。十数年も使っているというレジの横にエプロン姿で立つしぃちゃん。うーん、可愛らしい。
私は同じくしぃちゃんを見つめるはるちゃんに声をかけた。
「特に様子のおかしいところは無いね」
「一応バイト中だからね……気を張っているだけかもしれないよ?」
はるちゃんはしぃちゃんのおかしいところを何とか見つけようと、しぃちゃんを上から下までまるで舐めるかのように見つめる。私もはるちゃんほどではないけど、しぃちゃんのその小さな姿を見つめ続けた。
「ど……どうしたの? 二人とも私の服や顔に何かついているの?」
しぃちゃんが顔を赤くしながら髪を触ったり、エプロンや服を手ではたいたりする。
「いやね、最近しぃちゃんの様子がおかしいからどうしたのかな、と思って」
私が包み隠さずに自分の疑問を告げると、しぃちゃんは一旦何かを言いかけたのをやめて、伝票を力強く握り締めた後、
「よ、様子がおかしいって? そうかな、別に私はおかしくないけど……」
と左手で体のあちこちを触りながら答えた。うーん、おかしい。古来「私はおかしくない」と言う人ほど様子がおかしいものである。慌てながら答えているあたり、明らかにおかしい。
「それでねー、私はしぃちゃんが恋をしているから様子がおかしいと思っているのよ。しぃちゃん、最近片倉君と仲良くしているの?」
はるちゃんが楽しそうに身を乗り出して尋ねると、先ほどまで慌てていたしぃちゃんは、安心したような表情で答える。
「私が恋をしている? 別に恋なんかしていないよー。片倉君とはたまにボクシングのことについて話すだけで、ただの友達だよ」
はるちゃんの妄想とともに片倉君のしぃちゃんへの思いはばっさりと切られた。はるちゃんがつまらなそうに口を尖らせる。そうか、恋が原因ではないのか……。って恋じゃなかったら何が原因でおかしいのだ?
「あっ、そう言えば片倉君のことで思い出したんだけどね」
としぃちゃんは手を叩いて
「実はまた片倉君を通じて長瀞君たちに合コンに誘われたんだけど……」
「えっ? またお酒を飲むの?」
はるちゃんが再び喜びの表情に戻った。どうもあの合コンでお酒を飲むことに喜びを覚えたようだ。私にとってはしぃちゃんとはるちゃんに散々振り回された合コンだったけどね。
「そうだね、確かかっちゃんがお酒で酔っぱらっちゃったんだよね」
「そうそう、かっちゃんしぃちゃんの家で最後まで寝ていたしね」
しぃちゃんのはるちゃんの間で「私が酒で酔って寝すぎた」という既成事実ができている。実際は酔っ払ったのは二人で、私は最後まで冷静だったんだけど……。そうか、「伝説」ってこうして誕生するものなんだ……、と私は二人に突っ込むことなく妙な納得の仕方をした。
「わーい、またお酒が飲めるぞー」
お酒が飲める喜びをうっとりとした顔で表すはるちゃん。
「誘われたんだけど断ったの。今度は無理だって」
「へっ?」とはるちゃんの目が大きく見開かれた。
「だって長瀞君が多くの人と知り合いになりたいから私以外は別のメンバーを用意して、って言うんだよ。そんなのかっちゃんとはるちゃんに失礼じゃない」
つまり私とはるちゃんは合コンメンバーの候補から除外されたということだ。
「何それー!? 腹が立つなー。中瀞と北ヶ浜だっけ? 私とかっちゃんの何がいけなかったと言うのよー」
はるちゃんは怒りのあまり二人の名前を間違えている。まあはるちゃんが候補から除外されるのは分かるんだけど、私までなんで除外されるんだろう……まあ別に気にするほどではないが。
「片倉君すごく困っていたけど、私かっちゃんとはるちゃんのいない合コンには行きたくないから、今回は無理だって強く断ったんだよ」
私の頭の中で片倉君へファイティングポーズを向けるしぃちゃんの姿が映し出された。そんな断り方されたら片倉君何も言えないだろうな。
「断って当然だよ、何が別の人呼んで、よ。失礼しちゃうわ」
その場に長瀞君と君ヶ浜君がいたら右のハイキックでもお見舞いしようかという剣幕のはるちゃんだったが、注文のケーキがテーブルに載せられるや途端に機嫌が元に戻った。
いつものケーキでお腹一杯になったはるちゃんは満足そうに私を連れて店を後にした。結局しぃちゃんの様子がおかしい理由は分からなかった。というかしぃちゃんに上手く話をそらされた結果になった。
「しぃちゃんが恋をしていなかったら、何が原因で様子がおかしいんだろうね……」
「そうだった、しぃちゃんの様子が最近おかしいんだった!」
はるちゃんはケーキのために「御団子」へ来た理由も忘れている。
「なんか上手くはぐらかされたって感じ」
私は振り返って「御団子」の扉を見つめた。
「確かにはぐらかされちゃったけど……、まだ恋が原因じゃないって決まったわけじゃないし」
はるちゃんはとことん自説にこだわっている。赤信号の交差点に着いたので、私たちの足が止まる。
「明日もそれとなく聞いてみようか、片倉君とはどうなっているのか」
はるちゃん、聞いてみたところで答えは「ただの友達」だよ絶対、さっきも言っていたじゃない。と、私が言おうとしたとき、目の前の信号が青になった。待っていた人々が私たちを追い越す。
「よーしかっちゃん、このまま谷中銀座へメンチカツを食べに行きますか」
はるちゃんが私の肩を抱いて横断歩道を元気良く渡り始めた。ケーキの後にメンチカツ……はるちゃんはダンスサークルにいるので、充分な運動をしているせいか、太るということは気にしていないようだ。
翌日、バス停で会ったしぃちゃんはバスが最寄りのバス停に着くまでずっと語り続け私が口を挟む隙を与えなかった。
「木久蔵さんは日本ランキング六位なのに、チャンピオンから対戦相手に指名されたなんてよっぽど注目されている選手なんだね」
イラケン選手のことしかよく知らない私に木久蔵さんのことを教えるしぃちゃん。その他の話題は受け付けないぞ、と言うしぃちゃんの心の声が聞こえたような気がした。
今日は一時限目から三人一緒である。私としぃちゃんが教室に入ると、すでにはるちゃんが私たちの席を確保していた。私たちの姿を見るや大きく手を振る。
「しぃちゃーん、かっちゃーん。こっちこっちー」
私たちがはるちゃんが確保した席に近付くとはるちゃんは椅子の上に乗せていた教科書をどかして
「しぃちゃんは私の隣。かっちゃんはその隣、一番通路側ね」
と席順を決めて、私たちをその通りに座らせた。しぃちゃんの両側を固めることで彼女を逃がさずとことん聞きたいことを聞いてしまおうというはるちゃんの作戦であった。
「しぃちゃん、昨日のケーキおいしかったよー」
まずは日常会話で相手をリラックスさせようと言うのか、はるちゃんは笑顔でしぃちゃんに頭を下げた。
「ありがとうはるちゃん、いつもおいしいと言ってくれて嬉しいよー」
しぃちゃんも笑顔で頭を下げる。二人の会話はチャイムがなるまで続いた。内容ははるちゃんが聞きたいことではなく「この前起こったこと」など何気ないものだった。
私はその会話の様子を隣で聞いていて少し違和感を覚えた。私と二人で話しているときよりも今のほうがしぃちゃんは楽しそうだ――。そんな気がしたのだ。
チャイムがなると同時に先生が教室に入ってきた。この教授は時間に厳格でいつもチャイムと同時に来る。(生徒の間ではこの先生を『ロスタイムが無い教授」と密かに呼んでいる)
「ところでしぃちゃん、昨日の話の続きなんだけどね……」
教授に聞こえないように(と言っても席は後ろのほうなので教授には聞こえないのだが)はるちゃんが私にギリギリ聞こえるぐらいの声でしぃちゃんに囁いた。
「なあに、はるちゃん。合コンを断ったこと?」
しぃちゃんははるちゃんの言った「昨日の話」を合コンの件と捉えたようだ。
「違うわよ、しぃちゃんが恋をしているんじゃないかってことよ。昨日は聞きそびれたけど片倉君とは何かあるの?」
昨日あっさりと切り捨てられたのにも関わらず、はるちゃんはしぃちゃんが片倉君に恋をしているとまだ思っている。
私はしぃちゃんが昨日と同じような答えをするものだと想像していた。ところがしぃちゃん「うーん……」とうつむいた後、一旦私のほうを見た。まるで私の様子を伺うように。
顔を黒板のほうへと向けたとき、しぃちゃんの表情は照れたような笑顔になっていた。
「昨日はあんなこと言っちゃったけど……。恋か……、しているのかな……?」
昨日とは正反対の答えに私は驚きはるちゃんは喜んだ。
「相手は誰!? やっぱり片倉君?」
「うふふ、片倉君かどうかは……秘密だよ」
「うーん、相手は誰だか分からないけどしぃちゃんは恋の病に罹っているのね」
そう言うと、はるちゃんは私の顔を見て意地悪そうに笑った。何か嫌な予感がする。
「大丈夫よしぃちゃん、私は恋愛経験無いけど浅野先輩や明石先輩は恋に関しても先輩だし、そしてしぃちゃんの隣には、ほにゃららふにゃららまでした御徒真知大先生がいるよ」
はるちゃん……昨日の「ほにゃらら」と「ふにゃらら」をまた持ってきたか……。
「なあに? かっちゃん、ほにゃららふにゃららって?」
「知らない! はるちゃんに聞いてみたら?」
私は真っ赤になった顔を教科書で隠した。そうか、しぃちゃんはやはり恋をしていたのか……。
二時限目は私としぃちゃんは一緒ではるちゃんは別の授業である。(この授業の前期課題を泣きそうになりながら片付けていたはるちゃんの姿が懐かしい)この時間は私にとって憂鬱な授業だ。
夏休み中会うことはなかったが私はそいつの顔をはっきりと覚えている。なぜならその女子大生は私にどういう恨みを持っているのか知らないが、私に会うたびに「御徒町」と声をかけるからだ。
私が「御徒真知です」と反論すると、「でも御徒町なんでしょ」とやり返す。すごく腹の立つ奴だ。ちなみに私は相手の名前は知らない。覚えるのは顔だけで充分だ。
教室に入るとその女子大生がいた。目も鼻も口も全てが薄っぺらい顔を黒い髪が包んでいる。
「あ、御徒町さんだー。久しぶりー元気していた?」
彼女は私の姿を見るや悪びれることなく声をかける。「御徒町」毎週聞く言葉だが相変わらず腹が立つ言葉である。
「御徒真知です」
「御徒真知だよ!」
私の反論と同時にしぃちゃんが激しく叫びながら薄っぺら顔の彼女に詰め寄った。
「あなた、一体どういうつもりよ、かっちゃんに会うたびに御徒町御徒町って、かっちゃんは御徒真知という名前なの! 御徒町じゃないの! 子供じゃないのだからいい加減にそんな風に人をからかうのはやめてちょうだい!」
ものすごい剣幕でその女子大生を攻めるしぃちゃん。彼女はうろたえながら
「わ、分かったわよ……、ただあの子が毎回同じリアクションをするからつい面白くなってやっちゃっていただけだよ……」
「あなたは面白いかもしれないけどね! かっちゃんはその分どれだけ傷ついているか分かっているの!?」
「しぃちゃん、しぃちゃん。もういいって、もういいってば」
攻撃の手を緩めないしぃちゃんを後ろから抱きとめて私は教室の外へと連れ出した。しぃちゃんは興奮しているのか口を大きく開けて息を何度も吐き続ける。イラケン選手の試合のときよりも彼女は興奮していた。
私はしぃちゃんを落ち着かせようと廊下にあるベンチに座らせ背中をやさしく撫でた。三分ほどしてしぃちゃんはやっと落ち着いた。
「しぃちゃん、びっくりしたよ。あんな風に叫ぶなんて……。だけど嬉しかったよしぃちゃん。私のためにあんなに怒ってくれて……、本当に嬉しかった。ありがとう、しぃちゃん」
私はしぃちゃんの肩を優しく叩いた。しぃちゃんは私を見上げて「あの……」と小さく呟いた後暫く口を閉じて目で何かを訴えるように私を見つめた。しかししぃちゃんが何を言おうとしているのか私には理解できなかった。
そんなしぃちゃんがやっと口を開いて出した言葉は「かっちゃん、ごめんね」だった。
私はその言葉を聞いて、しぃちゃんの叫びに教室にいた人たちが驚いて私たちを見ていたことを思い出した。
「いや、大丈夫だよしぃちゃん、確かに教室中の注目を浴びちゃったけど、私は全然気にしていないから」
私のその言葉を聞いているのかいないのかしぃちゃんは再び謝った。さっきよりも強く。
「かっちゃん、本当にごめんね」