第三十六話 ほにゃららとふにゃらら
しぃちゃんの誕生日より十日が過ぎた。長かった夏休みも終わり、大学生活が再開した。
私たちはいつものテラスに集まっている。演習で『河童』について発表する日まであと一ヶ月だ。
「なんか久しぶりにここに来たって感じがするなー」
澄んだ秋の青空を眺めながら私は背伸びをする。考えてみれば二ヶ月ここに来ていなかったか。
「図書館には来ていたけどここに来ることはなかったものね」
しぃちゃんの視線は空ではなく大きな国語辞典に注がれている。大学の授業は無いけれど、私たちは時々集まっては大学の図書館で夏休みの宿題を片付けていたのだ。
「私はサークルの練習でしょっちゅう大学に来ていたから、ここに来ることもあったよ。授業が無いから人がいなくてほんとに寂しかったよ」
はるちゃんの視線は周囲の人たちに注がれている。はるちゃんはダンスサークルの練習のために、週に三回この大学へ通っていたのだ。
「はーい、休憩はここまで。『河童』読みますよー」
しぃちゃんが小さく手を叩く、私は姿勢を元に戻した。
「今日は第十四章と第十五章をやりましょう」
はるちゃんがいきなり先生のように本を開き始めた。「今日は河童の宗教の話かー」
宗教……。先日しぃちゃんのお誕生日で宗教の話が出たばっかりだ。
「今月は宗教に縁があるのかな……」
私は頬に肘を着きながらページをめくった。
「そう言えばかっちゃんの名前が決まったのも宗教が関係していたわよね。『なんでも洋風にしよう会』だっけ?」
はるちゃんが面白そうな顔で私を見つめる。
「そんな名前だったかどうか私には分からないわよ」
そう言いながら私はしぃちゃんに話を元に戻してもらおうと視線を向けた。しぃちゃんは瞬き一つもせず『河童』を開いてはただ眺めている。
「どうしたの? しぃちゃん、ぼーっとして」
私が肩を叩くとしぃちゃんは瞬きを数回した後、笑顔になって私を見た。何回も目をパチクリさせるしぃちゃんがちょっと可愛かった。
「ううん、ぼーっとしてないよ。自分の考えを頭の中でまとめていただけ」
しぃちゃんが考え事しているときの集中力はすごいからな。
一方のはるちゃんはまだ話を逸らしつづけている。
「その『なんでも洋風にしよう会』のせいで名づけられたんだよねー御徒町って」
「御徒真知です」
「御徒真知だよ!」
反射的にはるちゃんにいつもの突っ込みを入れる私だが、今回はもう一人の声が混じった。
「わー、すごい! かっちゃんとしぃちゃんが同時に突っ込みを入れるの初めて見たー!」
はるちゃんが感激の声を上げる。確かに今まで「御徒町」という言葉が出てしぃちゃんが突っ込んだのは一度も無い。
「そ、そう? 半年近く一緒にいるから同じことに突っ込むようになったんだよ……きっと」
しぃちゃんはそう言いながら『河童』へ視線を戻した。なんだか焦っているように見えた。
「ねえ、はるちゃん。今日のしぃちゃんの様子なんだかおかしいと思わない?」
大教室の後ろの席で私は小声ではるちゃんに囁いた。しぃちゃんは「御団子」でのアルバイトの時間なので、この教室にはいない。
「確かに何かおかしかったわね……私の御徒町に対する突っ込みも、しぃちゃんのほうが激しかったし」
気のせいかもしれないが、しぃちゃんの様子がおかしいのは何も今日に限ったことだけじゃないような気がする。落ち着きがなくなったというか……。
「あっ、ひょっとして……」
突然、はるちゃんが大声を上げた。私は慌てて教壇を見る。はるちゃんの声が教授まで届いていないのを確認した後で、私ははるちゃんの腕を掴んだ。
「なに、何か心当たりでもあるの?」
「しぃちゃんはきっと恋をしているのよ」
はるちゃんの予想外の答えに私はがっくりと肩を落とした。はるちゃん、恋としぃちゃんの様子がおかしくなることは関係ないでしょう……。
「相手は誰……、片倉君?」
半ば呆れながらも私ははるちゃんの話に乗ることにする。
「たぶんそうよ。しぃちゃんの誕生日の夜私はしぃちゃんの家に泊まったんだけど、しぃちゃんはその夜誰かと電話していたのよ。あれはきっと片倉君からのお誕生日おめでとう、の電話ね」
誕生日に「おめでとう」と言われたから片倉君に恋をしたってわけですか。
「その電話が片倉君だっていう証拠はあるの?」
「それは分からないわよ。でも恋は人を惑わすって言うじゃない。状況から考えてしぃちゃんの様子がおかしい原因は、恋に求めるのが当然でしょう」
うーん、全然状況と合っていないような気がするけど、しぃちゃんも片倉君のことが気になりだしたと言うことか……。
「私は恋愛の経験が無いけど、かっちゃんはあるんでしょう? ならばしぃちゃんの気持ちがかっちゃんには分かるはずよ」
「確かに恋愛経験はあるけど、しぃちゃんの気持ちは分からないよ」
普段自分の期待している答えが出ないとつまらなそうな顔をするはるちゃんだが、今は逆に楽しそうな顔をしている。
「ところでー、かっちゃんは今までどんな恋愛をしてきたのかしら?」
話の主役がいつの間にかしぃちゃんから私に移ってしまった。私ははるちゃんのペースに乗せられまいと真面目にノートを取るふりをする。
「こらー、かっちゃん、無視しない。やっぱりキスとかしたんでしょー」
はるちゃんは周りに聞こえないように私に近付いていたずらっぽく囁く。私はそれに反応せず、教授の話に耳を傾ける。
「男と女のお付き合いですから、手をつなぐとか一緒に映画を見るだけのお付き合いじゃ当然無いわよねー」
えーと、映画を見るのは……っていけない。はるちゃんの言葉がどんどん頭の中に入ってくる。無視し続けなければ。
「キスもしたってことはー、当然ほにゃららしちゃったり、ふにゃららしちゃったりー」
「ちょっとはるちゃん、ほにゃらら、ふにゃららって何よ」
ついに無視しきれなくなったので、私ははるちゃんに小声で突っ込みを入れた。「ほにゃらら、ふにゃらら」ってひょっとして……?
「ピーとかポーのほうがよかった」
はるちゃんが不思議そうに私の顔を見る。
「いや、言葉はいいから」
「じゃあダイレクトにいうと、エッチなことはしましたか、ってことですよ」
うわーはるちゃんダイレクトすぎるー! 薄々感づいていたけど、「ほにゃらら、ふにゃらら」から進化しすぎー!
これ以上無視していたら何を言われるかわからない。時間はまだ午後三時、大人の時間には早すぎる。しょうがない、ここは素直に答えるとしますか。私は頬を二三回叩いて大きく息を吐いて答えた。
「そ、そりゃあ……彼氏彼女の中ですから……最後まで行きましたよ。行き着くところまで行ってしまいましたよ!」
私は半分やけになりながら答えた。
「ほにゃらら、ふにゃららまで行ってしまいましたかー」
はるちゃんが感激の声を上げる。
「いや、ほにゃらら、ふにゃららはもういいから」
というか「ほにゃらら」と「ふにゃらら」は、はるちゃんの中で何を指しているのかいまいち分からない。エッチなことは確かだけど……。
「そんなところまで行ってしまった二人がどうして別れてしまったの?」
そこまで言わなきゃいけないのか……。まあいい、乗りかけた船だ。最後まで言ってしまおう。
「私が振られたのよ。周りから御徒町の彼氏、ってからかわれるのに耐え切れなくなったんだって」
と言いながら思い出しては見るものの、そんなひどい振りかたをした男の顔を私はもう覚えていない。二年も経っていないというのに私の頭の中にいるその男は顔に薄くモザイクがかかっている。
「えーっ、そんなひどい話信じられないよ!!」
はるちゃんが大声を上げて立ち上がったので、教室中の視線が私たちに釘付けになった。
「そこの人、何が信じられないというのですか」
遠いのでよく分からないが、教授はおそらく私たちを睨んでいるだろう。
「えっ、あ……、その……」
はるちゃんは頭を書きながら周りを見回し、そして最後に私を見た。
「かっちゃーん、助けてー」
この時点で私も教授に睨まれているので、無視するわけにはいかない。しょうがない、はったりをかましますか、と私は立ち上がって叫んだ。
「その博士の学説が当時の学会で理解されなかったのが信じられないのです!」
よくは聞こえなかったけど、今日の授業のテーマは「心理学の歴史」である。心理学史上私の言ったような事件が一度や二度あるに決まっている!
教授の機嫌は明らかに良くなった。口調が急に柔らかくなったのである。
「あなたの言うとおりです。確かに彼の学説は発表当時多くの学者から反感をかいました。そこで彼は……」
教授の視線も、周囲の生徒の視線ももう私たちには向けられていない。
「やった……かっちゃんのはったりが見事に当ったよ」
はるちゃんが私の腕を掴みながらゆっくりと腰を下ろす。
「私もここまで当るとは思ってもいなかったわ」
私は崩れ落ちるように椅子に腰掛ける。冷たい木の感触をお尻に感じたとき、私は大きく息を吐いた。
「それにしてもそのかっちゃんの彼氏って最低な男ね。行くとこまで行っといて御徒町が嫌だなんて、私だったら右のハイキックをお見舞いしてあげるところだわ」
その男に別れを告げられたとき、私はどう反応したのだろう。覚えていないところを見ると、あっさりとした別れだったのだろうか。
「私の恋愛の話はもういいよ。思い出しただけでも腹が立ってくるから」
口では言っているが記憶があまり残っていないので(都合の悪い嫌なことは忘れるタイプなんだろう)そんなに腹は立っていない。まあでもはるちゃんが一緒にいるときに会うことがあったらキックの一つくらい食らわせたいけどね。
「それよりもしぃちゃんが恋をしているかもってことなんでしょう」
私は話を元に戻した。そもそもこういう話になったのは、しぃちゃんの様子が最近おかしいことからである。
「私の予想が確かならばしぃちゃんの様子がおかしい原因は恋をしているからよ」
はるちゃんは自信満々に言う。はるちゃんの根拠の無い自信には私はもう慣れている。
「とりあえずこの授業が終ったら『御団子』に行ってしぃちゃんに直接聞いてみようよ」
はるちゃんは『御団子』のチーズケーキを思い出しているのだろう。右手がフォークを持っている仕草をしている。
「そうね……、恋をしている、していない関係なく様子がおかしいことは確かだし」
私がそう言ったとき、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。
私はあることに気がついて後悔した。そうだこの時間は心理学の授業だった。直接しぃちゃんに聞かなくてもしぃちゃんの気持ちを知る方法が教授から聞けたかもしれないのに……。